「家族という病」①
「家族という病」(下重暁子著、幻冬舎新書)より
2015年3月25日第1刷発行
序章 ほんとうはみな家族のことを知らない
家族とは何なのか
子供は親に心の中を見られまいとするし、心配をかけたくないという思いがある。親は子供がどこか変だと気づいても、問いただすことをはばかる。幼い頃は別として、小学校から中学校へと進み、体も心も大人になりつつある段階にあっては、子供は親に心の内を素直に見せなくなる。反抗期は親という身近な権威を乗り越えようとする時期だけに、自分の思いとは正反対のことすらしてみせる。
私は長い間、もっとも近い存在である家族とは、人間にとって、私にとって何なのかという疑問を持ち続けてきた。
なぜ私は家族を避けてきたのか
主治医から「なぜ見舞いに来ないのか」と手紙が来た時も、「あなたに私と父の確執がわかるか」と腹を立てた。父の本心がどこにあったのか聞こうともせず、わかり合えなかったことに今は内心忸怩たる思いがある。
一方で、安手のホームドラマのように、最後にわかり合えたような場面で終わらなかったことに多少の満足もある。父も私も突っ張っていた。それだけに情感の面ではよく似ていた。実は一番よくわかっていたのかもしれないと思う。
母が亡くなって二十年以上経った三年前、軽井沢の山荘で私が知らなかった母の一面を知ることになった。
二人共再婚だったが、父には三歳の男の子があり、母はその子供を理解するために自分の子(なぜか女の子)が欲しいと手紙の中でも訴えていた。私はその母の強い意志の下に生まれたのだ。
兄は、大学生になるまでその事実を知らずに育った。戦後父との折り合いが悪く、東京の祖父母の下で育ったので、私は正面から兄と話をした記憶がない。いずれと思っているうちに一年間の闘病後、ガンで亡くなった。
結局私は、父、母、兄の三人の家族と、わかり合う前に分かれてしまった。
私だけではない。
多くの人達が、家族を知らないうちに、両親やきょうだいが何を考え感じていたのか確かめぬうちに、別れてしまうのではないかという気がするのだ。
私達は、その枠の中で家族を演じてみせる。父・母・子供という役割を。家族団欒の名の下に、お互いが、よく知ったふりをし、愛し合っていると思い込む。何でも許せる美しい空間・・・・・・。そこでは個は埋没し、家族という巨大な生き物と化す。
家族団欒という幻想ではなく、一人ひとりの個人をとり戻すことが、本当の家族を知る近道ではないのか。
>>個を埋没させることなく、また、家族を演じることのないことなど果たして可能なのだろうか