「矢沢永吉激論集 成りあがり How to be BIG」
「矢沢永吉激論集 成りあがり How to be BIG」(矢沢永吉著、角川書店)より
読者へ
オレは、昔のことを思い出すとマジになる。これは素晴らしいことだ。二十八歳。スーパースターと呼ばれ、所得番付に出るようになっても怒っている。怒ることに真剣になる。
銭が正義だ。こう思ってしか生きてこれなかった。ほんとは銭が正義だなんてウソなんだ。それは良く判ってる。でも、そう思わなければ生きてこれなかった自分に腹が立つ。
攻撃することが生きることだ。負い目をつくらず、スジをとおして、自分なりのやり方でオトシマエをつけてきた。休むわけにはいかない。やらねばならぬことは、まだある。
こんぼ本に書いたことは、あくまでもオレ自身の背景だ。読者は、特殊な例だと感じるかもしれない。でも、オレは、だれもがBIGになれる“道”を持っていると信じている。
五十三年六月 矢沢永吉
成りあがり
大好きだね この言葉
快感で鳥肌が立つよみたいだな。
何がほしいんだ。
何が言いたいんだ。
それを、いつもはっきりさせたいんだ。
いま、こういう時代だ。みんな、目的はどっかに捨てちまってるみたいだな。
いいさ、構わないよ、オレは、みんあ、そこらへんのボクたち。頑張ればいいじゃん。
十の力を持ってたら、九までは、塾だ受験だちょうちんだでいいよ。でも、一ぐらいは、残りの一ぐらいは、一攫千金じゃないけど、「やってやる!」って感覚を持ちたいね。オレ、本気でそう思ってる。
成りあがり。
大好きだね、この言葉。素晴らしいじゃないか。
こんな、何もかもが確立されきったような世の中で、成りあがりなんて・・・・・・せめて、やってみろって言いたいよ。
昔から「この成りあがり者め」ってのは、下を見て吐く言葉なんだよ。
ところが、いまの背景では、いいね、素敵な響きだね。
ああ、うれしいうれしいって言うよ。
快感で鳥肌が立つよ。 そういう人間だよ、オレは。
そういう人間だよ、オレは。
聞くやつがどう思うかは知らない。けれど、文句は言わせない。
「おまえも、やれば?」ってね、言ってやる。
「長い旅」を聴きながら
ぼくは、カセットテープを速記録になおした状態で、何度となく彼の言葉を読み返して仕事を進めていったのだが、その過程でさえ、何度か泣いてしまった。日常、図々しい生き方をしているわりには、青臭いところが残っているんだな。そう考えて苦笑していたのだが、どうも、それだけではないような気がしている。
矢沢永吉の、歌に、泣かされてしまったのだ。いまでは、そう思っている。
人間の一生は、トーナメント戦じゃない。買ったり負けたりをくりかえすリーグ戦だ。敗れっぱなしなんてない。
「成りあがれ!」とシャウトしているのだ。
道は、たった一つではない。自分に合った道を見つけて、そこで「成りあがれ!」
矢沢永吉は、重いスコップで掘りまくっている。自分の腕で、汗を流して。
「成りあがり」を軽蔑するのは簡単なことだ。しかし、どんなに由緒正しい家系の、立派な紳士でも、先祖がどこかで成りあがったはずだ。
「自分が、まず、やんなよ。色々と、ノーガキをたれる前に」
自分のスコップを持って、ひとりで街に出て行く。それしかない。疲れて帰る。また出ていく。
幸運にも、両親が健在で、経済的にも豊かで、学校に通っているあなただって、やっぱり選ぶなら、「成りあがり」にしてほしい。
もうひとつは、「ぶらさがり」しかないと思うからだ。
糸井重里
>>勝ったり負けたりを繰り返すトーナメント戦で、成りあがることができたら良いように思う