「九年前の祈り」
「九年前の祈り」(小野正嗣著、群像2014年9月講談社)より
迷子にならないように手をつなごうと言いだしたのは、みっちゃん姉だった。「人間の鎖じゃ」
「おお、そりゃいい考えじゃ、みっちゃん」
最高齢の佐脇のひい姉が手を伸ばし、横にいたさなえの手を握った。さなえも手を伸ばすと、岩本すみ姉に手首をぎゅっとつかまれた。
「放したらいけんで!」とみっちゃん姉が言うと、「そうじゃ、放したらいけんど!」とみなが決意を込めてくり返した。それはかなり大きな声だったけれど、地下鉄の通路を足早に行き交う、外国語の響きになれたこの国際都市の住人たちはその興奮した声を気に留めもしなかった。
「手を放したらいけん、ってあれほど言うたのに・・・・・・」と首藤さおりが言った。
叱責する母の声が聞こえた。
「手をちゃんとつないでおかんから! 手を放したらいけんが!」
その声にモントリオールでの記憶が、奇跡的に見つかったふっちーとえーこ姉に仲間たちが投げかけた声--もちろんそこには怒りよりも喜びが、そして何よりも罪悪感が多く含まれていた--が重なった。
「手を放したらいけんかったのに!」
「なんで手を放したんか!」
あのときモントリオールの教会で、さなえと他の三人が祈りを終えて立ち上がったあとも、みっちゃん姉は依然としてひざまずいていた。真剣な様子に声をかけられなかった。
「二人の無事を祈るにしては、ずいぶん長かったなあ」
「何を祈っておったん?」
みっちゃん姉はさなえを見つめた。少し考えてから何かを言おうとした。しかし言葉の代わりに、口元には照れたような、でもどこか嬉しそうでも悲しそうでもあるほほえみが浮かんだだけだった。
そのときのことを思い出しながら、さなえは後ろから腕に抱いた希敏の両手に自分の両手を重ねた。桟橋を向こうから近づいてくる父と母が、さなえと希敏を呼ぶ声が聞こえた。
いま悲しみはさなえのなかになかった。それはさなえの背後に立っていた。振り返ったところで日の光の下では見えないのはわかっている。悲しみが身じろぎするのを感じた。それは身をかがめると、さなえの手の上にその手を重ね、慰撫するようにさすった。不安は消えなかった。息子の手はひんやりと冷たかった。だからさなえは手に力を込めた。目を閉じて頭を垂れた。悲しみはさなえの耳元に口を寄せ、憑かれたように何かをささやいていた。聞きたくなかった。聞いてはならない。顔をさらに息子の頭に、柔らかい髪に押しつけた。熱を感じた。かすかに潮の味がした。息子のにおいが鼻いっぱいに広がった。 (了)
>>手を放したら二度と戻らないという瞬間に手を放さないでいられるだろうか