「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より
解説 決断の「環境」を探る 祭文草谷[歴史研究者]
本書を読みすすめていけば、大戦当時の指導者たちにとって--ヒトラーやムッソリーニのような独裁者も例外ではない--いかに選択肢がすくなかったかを実感させられるだろう。彼らは「真空」のなかで自由に決断できたわけでも、そのときどきの利害に応じて自在に進退し得たわけではないのである。イデオロギー、社会体制、経済の実情、官僚組織のあり方といった、さまざまな要因によって、彼らの選択肢は狭められていった。言い換えれば、カーショーは、歴史の「イフ」について奔放な空想を広げるのではなく、「なぜそれぞれの選択肢が排除されてきたか」を精緻に検証することによって、決断の「環境」をあきらかにし、実際に選択可能だった政策は何であったか、その実態に迫らんとしているのだ。
>>自分が置かれた環境により選択肢は自ずと狭くなっているに違いない
「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より
あとがき
1940年5月から41年12月にかけて、かれらに選択をせまったことどもはどれも頭を悩ますものだった。そのそれぞれのリスクは大変なものだった。後世になって不可避だったと思える経過は、そのときはそのようには見えていなかった。ドイツ、ソ連、イタリア、日本、イギリス、アメリカの指導者たちがその19ヶ月に選択した運命の選択が世界を変えた。
本書で研究された諸問題のあとも、ほぼ四年間、世界戦争は継続した。軍隊の戦闘とジェノサイドから途方もない犠牲者が生じ、膨大な数にのぼった。1940年夏から42年秋までの二年間にわたる期間、結果がどう転ぶかはわからなかった。ヒトラーと日本の指導部は長期戦になると旗色が悪くなることを承知していた。そしてそのとおりのことが起こった。しかしそれは、ぎりぎりで決まったことだった--一般に認められているよりかれらの勝利は近くにあった。1943年以降になってはじめて枢軸の敗北が視野に入ってきた。最初のうちは漠然と、そしてもう少しはっきりと、最後には華々しく、不屈のソ連の戦争機構と無尽蔵の資源と戦意を有するアメリカという思いがけない組み合わせが、最終的に欧州と極東における勝利を確定した。イギリスと英帝国軍の勇気と忍耐心もナチと日本軍国主義の壊滅に不可欠の貢献をなしとげた。しかしそれは打ちひしがれ破産した、列強としての英国の終幕となった。英帝国の清算がはじまった--段階的ではあったが、決定的なものだった。次の時代は新たな超大国、戦争の勝利者、合衆国とソ連のものとなった。もう一つの将来の超大国、中国の基礎は、極東における紛争に触発された大戦のすぐあとに築かれることとなった。ドイツと日本の指導者たちが思い描いたものとちょうど正反対の世の中が作られた。どれほどの犠牲が払われたとしても、かれらの望む世界がやってこなかったということを振り返ってみる価値はあるのである。
>>40-41年の運命の選択が、結果的に今日に至る第二次大戦後の世界を形づくることとなった
「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より
第10章 ベルリン/東プロイセン、1941年夏-秋 ヒトラー、ユダヤ人絶滅を決断
ベルリンでかれらはわれわれにこう言った。
どうしてあなたがたはこのやっかいごとをすべて、われわれに押しつけてくるのか?
われわれはオストラント*でも国家管区**でもかれらをどうすることもできない。
きみたちがかれらを始末したまえ!
・・・・・・かれらを見つけ、やってしまうことができるなら、どこででも、ユダヤ人を抹殺しなければならない。
1941年12月16日 ポーランド総督ハンス・フランク
* バルト諸国、ベラルーシ、ポーランドの一部などの占領地域
**ウクライナ占領地域
ヒトラーにとって第二次大戦は、第一次大戦の災禍を取り戻すべく戦わなければならない。歴史の流れを逆転するのである。そしてワイマールの「ユダヤ人」共和国が持ちこんだ破局に復讐しなければならない。ドイツを荒廃させた1918年11月の「犯罪者たち」がこの体制を作ったのである。その復讐とはユダヤ人の絶滅を意味する。1919年9月、かれは最初の政治宣言に、「すべてのユダヤ人の除去」は、ドイツのいずれの国家政権にとっても、「最初の目的」でなければならないと書いた。その数年後に著された『我が闘争』の巻末に向けて、「前線で数百万が犠牲になることはない」と恐るべき記述をする。戦争が始まったとき、「国民のなかにいる1万2千から1万5千のヘブライの堕落したものたちに毒ガスをあたえればよい」。このことがジェノサイドの青写真になったわけではない。ヒトラーの胸のうちに一度芽生えるや二度と離れることのなかった、戦争とユダヤ人の関連は疑いもなく、かれのジェノサイドの見方の骨格になっていたのである。そして1933年以来、こういう考えを持った人物がドイツを治めることとなったのだ。
ヨーロッパが一世代のうちに二度目の戦争に追い込まれた主因はドイツの侵略にある。1940年の夏、決定的な引き金がひかれ、これまで見てきた一連の出来事の渦巻きが始まった。そして1941年12月、地球の反対側で起こった紛争は世界大戦に形を変えた。ドイツの侵攻の背後には、アドルフ・ヒトラーの人格に具現されたイデオロギー上の「使命」があった。そしてその「使命」があった。そしてその「使命」に内在する固有のものがユダヤ人の「除去」だった。こうして、ナチのユダヤ人に対する戦争は、第二次大戦--世界がこれまでに知るもっとも凄惨な戦い--の中心に位置し、切り離すことのできないものとなったのである。
>>日本人には、反ユダヤ感情を理解することはできないと思われる
「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より
第9章 ベルリン、1941年秋 ヒトラー、合衆国に宣戦布告を決断
かれは日本の開戦のこのうえない意義を強調している。
とくにわが国の潜水艦戦との関連においてである。
・・・・・・総統は日本の開戦がなかったとしても、
遅かれ早かれアメリカには宣戦布告するつもりだった。
さて、いま東アジアの戦争が贈り物のように与えられた。
1941年12月12日、党指導者に対するヒトラーの談話としてつたえられたもの
第二次大戦中のヒトラーの決断の数々は「判じもの」といわれている。12月11日午後、ヒトラーは国会で行なった演説のクライマックスで、独伊の戦争拡大防止と合衆国との関係維持の試みは「ルーズヴェルト大統領の我慢のならない挑発」の数年を経てついに水泡に帰した、と宣言した。したがってドイツとイタリアは、1940年9月27日の三国同盟の規定にともなって日本側につくこととなった。「ともに防衛戦を闘い、諸国民およびその帝国の自由と独立を米英から保全しなければならない」。公式の宣戦布告は、その日午後の早い時間に外務大臣ヨアヒム・フォン・リッペントロップから、ベルリン駐在米国代理大使に対して重々しく読みあげられた。会見を終わらせる素っ気ない挨拶が独米関係の終焉を告げた。
1941年末の米国の参戦は、1917年のときと同じように局面を一変させた。英軍に加わったアメリカの兵力は、東方での情容赦のない赤軍の圧倒的な力と一緒になって、ついにドイツを打倒した。しかし1941年12月までに、ドイツの世界支配をめざす賭けはいずれにせよ基本的に負けとなっていた。チャーチルはたしかにそう思っていた--少なくともそのことを口にしたと回顧している。1941年の秋、ヒトラー自身もしばし、ドイツ国民が最後にその強靭さを発揮することができなかったら、ドイツはより強い力に征服され、破壊されて当然である、と初めて無常観にとらわれた様子がある(1945年の初頭、破局を前にしてヒトラーはこの時点に立ち戻ったことだろう)。そのときは明滅した程度のものだったろうが、まったくその通りになってしまった。ヒトラーはうわべの下で、今や完璧な勝利のチャンスが消えてしまっていることを認識していたようである。東方の計画は破綻した、そしていま、アメリカとの戦争が避けられなくなってきている。
自ら宣戦布告することで、ヒトラーはこの不可避性の先を行くこととした。これは先んずれば人を制すの典型例となるような大胆な行動だった。これはしかし、自滅の入り口への第一歩となった。
>>ドイツの対米宣戦の政治決断がなかったとしても結果的には同じだったに違いない
「運命の選択 1940-41 世界を変えた10の決断 上」(イアン・カーショー著、河内隆弥訳、白水社)より
第7章 ワシントンDC、1941年夏-秋 ルーズヴェルト、宣戦布告なき開戦を決断
かれが議会へ戦争か平和かと持ちかけたとすれば、議論に三ヶ月はかかっただろう。
大統領は戦争をすることになるだろうとは言ったが、宣戦布告はしなかった。
かれはいっそう挑発的になった。
・・・・・・かれは戦端を開くことを正当化する「事件」の発生を期待している。
1941年8月19日、ルーズヴェルト大統領発言に関するチャーチルの報告
1941年秋、ルーズヴェルトはドイツに対する部分的、かつ無宣告の戦闘行為をできるだけ長く継続することを決意した様子だった。チャーチルが要望し続けてきたことを断る理由づけとして、大統領がハリファックス卿につたえた言葉がある、どのみち「宣戦布告はもう流行らなくなっているのです」。イギリス(そしてソ連)向け支援物資の大西洋横断の輸送は11月の終りから12月初めにかけて、抑制的で挑発を回避するよう行われており、大統領にはこれまでの対独関係を性急に変えようとする意思が見られなかった。
「ヨーロッパのわれわれの敵を滅亡させるためには、合衆国の参戦が不可欠である」。ルーズヴェルトはその日を先延ばしすることを望んでいた。しかしナチズムが打倒すべきものであるならば、無期限に伸ばすわけにはいかない。
勝利計画は、「日本は先の見通しがつくまで手をつけないでおく」と勧告していた。1941年11月まで先の見通しはたしかに立っていなかった。ルーズヴェルトは合衆国をがけっぷちまで導こうとしていたが大西洋を超えずにすむよう希望していた。日本は瀬戸際においておくつもりだった。1941年12月7日[現地時間]、快晴の朝、南太平洋に停泊中のアメリカ艦船の上に炸裂した爆弾で、かれの夢は打ち砕かれた。
その朝のこの出来事はアメリカの見通しからすればおぞましいものだった。しかし、準備に怠りはしなかったものの、せまりくる世界戦争への参加に踏みとどまっていたルーズヴェルトは、ついに戦争へと国民を一体化させ得る機会を手にしたのである。
>>真珠湾攻撃が米国の参戦を決意する『事件』となった