「東大のディープな世界史」
「東大のディープな世界史」(祝田秀全著、中経出版)より
問題
人類の歴史において、戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に、それを乗り越えて平和と開放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。
第二次世界大戦は1945年に終結したが、それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており、これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし、国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく、米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。たとえば中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢力争いが激化するなど、戦後の冷戦につながる火種が存在していた。
第二次世界大戦中に生じた出来事が、いかなる形で1950年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて、510字以内で説明しなさい。その際に、以下の8つの語句を必ず一度は用い、その語句の部分に下線を付しなさい。なお、EECに付した( )内の語句は回答に記入しなくてもよい。
大西洋憲章 日本国憲法 台湾 金日成 東ドイツ EEC(ヨーロッパ経済共同体) アウシュヴィッツ
パレスチナ難民
解答例
大戦中に大西洋憲章で示された戦後国際秩序の理念は、国際連合となって実現した。しかし二重政権状態を見たポーランドの代表権問題で米ソ関係が悪化し、欧州占領政策をめぐって冷戦が進展すると、西ドイツと東ドイツの分裂が起こった。
一方、日本軍に動員された朝鮮は解放され、米ソの共同管理を受けたが、ソ連占領下の北で金日成が単独で制度改革に着手したため、南で韓国の分立を促し、分断体制を見た。国共合作で抗日戦争に勝利した中国では、内戦が再燃し、中華人民共和国が誕生したが、この結果、蒋介石政府は台湾へ移動した。
民族分断が各地で進展するなか、朝鮮戦争が勃発すると、ポツダム宣言にもとづく平和国家への転換を期待された日本は、日米安保条約のもとで主権を回復することになった。このため戦争放棄を明文化した日本国憲法と矛盾する政治体系が成立した。
また、アウシュヴィッツ収容所のユダヤ人虐殺や被迫害体験が、戦後イスラエル建国を促すと、それが中東戦争の火種となり、大量のパレスチナ難民を発生させることになった。そしてドイツ軍が占領したライン左岸は、戦後フランスに返還されたが、両国の関係改善が企図されると、欧州経済の統合を構想するEECの発足をみた。
>>日米軍事同盟という土台の上に日本の主権回復がなされるというサンフランシスコ講和条約は、日米安保条約とセットにされ、日米関係が戦後の基盤であることが確定した