何日かで1知識 黒岩重吾
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「背徳のメス」



「背徳のメス」(黒岩重吾著、角川文庫)より



 三年目に真理子は妊娠した。植にとって地獄の毎日であった。阪大では、妊娠させる能力がないと診断した。が、完全な無精子ではないのである。何万分の一の確率で、受精という可能性も考えられるわけだ。

 真理子の日常には何ら変わったところがなかった。適当に妻の役目を果たし、適当に遊んだ。

 何回か喉に出かかった疑惑の言葉を、とうとう植は真理子が出産するまで口にしなかった。いや、出産してもしなかった。子供は妻によく似た雪のような女の子であった。

 二月のある日、植は赤ん坊の血液型を調べた。それは植と真理子の血液型からは、絶対生まれない型であった。現代の医学では、その可能性を99%とみなしている。

 植は院長の家を訪れ事情を述べた。そして身回り品と銀行通帳を持ち、家を出た。銀行の金は植が稼いだものだった。

 その後、植はあっちこっちと医院を渡り歩いた。主に性病科医院の代診であった。まともな医師には耐えられない仕事である。

 いつか植の性格は変わっていた。ある面ではひどく明るく、また他の面では陰気になった。どんな場合でも主張は断乎として通した。

 女性関係は十代の若者と同じように無軌道になった。真理子と別れて以来、女だけが彼の人生の足跡であった。

 それにはいろいろな理由が考えられるであろう。女性に対する復讐もあった。今まで分からなかった女というものの本体を、もっともっと確かめもしたかった。ただ世の中には妻に裏切られても色事師になりえない人間が多い。とすると、やはり生来女好きであったのか。だが単なる欲望のために女を求めたのではない、ということだけは確かであった。



 それにしても、人間の愛には、このような執着もあったのか。植は、真理子に対する己れの愛情を、静かに見詰めることができそうな気がした。裏切られたからといって、何も言わずに家を捨て、やくざな生活に流されながら、過去を恨むような女々しい男に、本当の愛が燃えるはずはなかったのだ。

 本当の愛とは執着ではないか。植はふと伊津子のことを思った。が、今の彼は、廃人の夫から妻を奪ってしまうほどの執着を伊津子に抱いてはいない。

 植は、ひどい疲労を覚えた。ふと、都会の泥のような人間関係の、わずらわしさから脱したい気がした。故郷の岩手富士の秀峰が、とぼとぼ歩む彼の脳裡をよこぎった。



>>植は今でも医者として幸せに過ごしているだろうか


「生きてきた道」



「私の履歴書 生きてきた道」(黒岩重吾著、集英社)より



 前回の直木賞の選考会は、私の作品も池波氏と共に受賞するかどうかでかなり揉めたようだった。

 最後まで残った末、受賞を逸したことを知った途端、私は猛然と賞が欲しくなった。そんな時、中央公論社から書き下ろし長篇の依頼があった。早く脱稿出来れば、35年下期の候補作の対象となる。

 私は五百枚近い作品を約一ヶ月半で書きあげた。舞台は病院で、私生活は奔放だが、患者に対しては医者の良心を貫き通す臨時医専出の産婦人科医を主人公にした。臨時医専というのは戦時中に軍医不足を補うためにつくられた医学専門学校である。

 主人公は学歴にコンプレックスがあるが、その反面、正義感が強い。一流医大出の医者達は、エリート意識におごり学歴の面で主人公を見下す。病院を阿倍野界隈とし、患者の中に暴力団員なども登場させた。

 勿論、小説の中でつくった架空の病院である。小説を書く上で、私の長い入院生活や、釜ヶ崎での体験などが役立った。

 正義や汚辱、愛情や嫉妬などが絡み合った小説になった。「背徳のメス」である。前期に続き35年下半期の直木賞候補になった。今回は受賞したかった。だが私の心境を複雑にしたのは、候補作の中に「近代説話」の同人、寺内大吉氏の「はぐれ念仏」が入っていたことである。

 当時、大吉寺の和尚だった寺内大吉氏は、会うと大声で喋り腹の中に一物を置かない快男児である。同人達は、大吉さんと呼び親しんでいた。

 同じ同人雑誌の仲間なのだから、どちらかが落ちるということになると、どうしてもしこりが残る。こういう時は二作受賞が最も目出度いが、そう都合良くはゆかない。受賞発表日までは、我欲がのさばったり、そういう自分を批判する内なる声が厳しくなったり、落ち着かない日々が続いた。幸い二作受賞となりマスコミを賑わせた。



 昭和40年代の後半から、私は古代史を勉強するようになっていた。晩秋の一日、大和をドライブし、橿原神宮に寄った。鬱蒼とした森林が夕陽に映え紫赤色の残光が漂っていた。中学生時代、神宮をつくるために汗をながしたことを思い出し、祀られている神武天皇は何故始祖王になったのか、と考えた。

 校長が大和朝廷発祥の地と朝礼で自讃していた宇陀中学に学びながら、「日本書紀」も「古事記」も読んでいない。老後のために古代を知っておこうと思った。その時は古代に材を求めた小説を書こう等とは考えていなかった。

 その後間もなく百済の武寧王陵の発掘により、墓誌などが出土し、昭和47年には高松塚古墳の極彩色の壁画が発表され、一般の人々の古代史への関心が高まった。当然、私の独学にも熱が入った。

 私に古代史小説を書いてみないかと勧めたのは、中央公論社の「歴史と人物」編集長だった横山恵一氏である。氏は躊躇する私に、作家なら貪欲に新分野を開拓すべきだと迫った。結局、氏の熱意に乗せられ、同誌に「天の川の太陽」を連載した。皇太弟であった大海人皇子が兄・天智天皇に憎まれ、剃髪して冬の吉野に落ちていく姿に、かつて落魄の身を釜ヶ崎に寄せた私自身を重ね合わせたのである。



>>人生の岐路で自分が動かされていると思えることは誰にもあるに違いない


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