日米関係に影響を与えた硫黄島の戦い?
【 栗林忠道中将:硫黄島の戦いの今日的意味 】
終戦の日が近い。以下は「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(梯久美子著、新潮社)からの一部抜粋。
その電報のことに話が及ぶと、それまで饒舌だった彼がしばし沈黙した。そして、つと姿勢を正し目を閉じて、85歳とは思えぬ張りのある声で誦したのである。
戦局 最後の関頭に直面せり
敵来攻以来 麾下将兵の敢闘は
真に鬼神をなかしむるものあり
85歳と79歳の夫婦が肩を寄せ合うようにして暮らす家の居間には、南国・高知のおだやかな陽光が差し込んでいる。座り心地のいい古びたソファには、東京の孫から「ペット代わりに」と送られてきたというロボットの犬が、箱に入ったまま置かれていた。「どうも、この年になると説明書が読めんでな」--さっき、そうぼやいたのとは別人の声で、彼は続けた。
特に 想像をこえたる物量的優勢をもってする
陸海空よりの攻撃に対し
宛然 徒手空拳をもって よく健闘を続けたるは
小職みずから いささか悦びとするところなり
しかれども あくなき敵の猛攻に相次いで斃れためにご期待に反し
この要地を敵手に委ぬるほかなきに至りしは
小職のまことに恐懼に堪えざるところにして
幾重にもお詫び申し上ぐ
今や弾丸尽き水涸れ
全員反撃し 最後の敢闘を行わんと・・・・・・
声がわずかにかすれ、時ならぬ朗誦は唐突に切れた。
我に返った顔で私を見て、照れたように口元をゆるませた彼は、すぐに真顔に戻り、
「この電文は私にとって、お経のようなものなんです」
と言った。
「うちの閣下が、最後に遺した言葉です。今もこうして、口をついて出てきます。一言一句、忘れることができんのです」
彼、貞岡信喜が“うちの閣下”と呼ぶのは、太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島の総指揮官として2万余りの兵を率い、かつてない出血持久戦を展開した陸軍中将、栗林忠道である。
周到で合理的な戦いぶりで、上陸してきた米軍に大きな損害を与えた栗林は、最後はゲリラ戦に転じ、「5日で落ちる」と言われた硫黄島を36日間にわたって持ちこたえた。
貞岡が誦したのは、その栗林中将が玉砕を目前にした昭和20年3月16日、大本営に宛てて発した訣別電報の冒頭である。
米軍の中でも命知らずの荒くれ揃いで知られる海兵隊の兵士たちをして「史上最悪の戦闘」「地獄の中の地獄」と震えあがらせた凄惨な戦場。東京から南へ1250km、故郷から遠く離れた絶海の孤島で死んでいった男たちの戦いぶりを伝えんと、みずからも死を目前とした指揮官は、生涯最後の言葉を重ねたのだった。
ところで、訣別電報の最後には、栗林の辞世が3首、添えられている。
国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き散るぞ悲しき
仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓るその時の 皇国の行手一途に思ふ
平成6年2月、初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った。
精魂を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
見捨てられた島で、それでも何とかして任務を全うしようと、懸命に戦った栗林以下2万余りの将兵たち。彼らは、その一人一人がまさに、“精魂を込め戦ひし人”であった。
この御製は、訣別電報に添えられた栗林の辞世と同じ「悲しき」という語で結ばれている。大本営が「散るぞ悲しき」を「散るぞ口惜し」に改変したあの歌である。
これは決して偶然ではあるまい。49年の歳月を超え、新しい時代の天皇は栗林の絶唱を受け止めたのである。死んでいく兵士たちを、栗林が「悲しき」と詠った、その同じ硫黄島の地で。
<感想>
栗林閣下の硫黄島での粘り強さがあったからこそ、戦後の(ある意味)対等な日米関係が構築され、今日の日本が存在するのだと思う。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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