曖昧な記憶?
【 伊坂幸太郎作品と曖昧な記憶 】
伊坂幸太郎が好きだという同僚の話を聞いたので、過去に読んだ(はずの)記憶を辿ってみた。
何冊も読んだはずなのに、記憶は曖昧なことに改めて気付かされる。
小説単発より、映像化(内容の脚色はあるが)された作品の方が、やはり記憶では勝っているようだ。
中でも以下2つの作品は感銘した記憶がある。
1.重力ピエロ(新潮文庫)より
「父さんは、春のことをどう思っているわけ?」私はその時、予想もしなかった家族の秘密に混乱しながらも、訊ねた。
父は即答した。
「春は俺の子だよ。俺の次男で、おまえの弟だ。俺たちは最強の家族だ」
「おまえは俺に似て、嘘が下手だ」
2.フィッシュストーリー(新潮社)より
ポテチ
「たぶん、自分の母親と血が繋がっていないことにショックをうけたんではないと思いますよ」
「お母さんを可哀想に思ったんじゃないんですか?『母ちゃん、本当だったら、もっと優秀な息子を持てたのかもしれないのに』とか」
<感想>
どちらも血の繋がり絡みの重いテーマの作品。
取り扱うテーマも記憶に働きかけるのかもしれない。
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元証券マンが「あれっ」と思ったこと
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斉藤和義の歌で伊坂幸太郎が退職?
【 伊坂幸太郎×斉藤和義 】
作家・伊坂幸太郎が会社を辞めた理由は、斉藤和義の「幸福な朝食 退屈な夕食」にあったという。以下は、二人の対談集「絆のはなし」からの一部抜粋。
1.絆のはなし
『――伊坂さんは斉藤さんの曲を聴いて「小説家になろう」と決心されたそうですが。
伊坂 正確には「小説家になろう」ではなくて、「会社をやめよう、小説家だけでやっていこう」と決めたんです。
2001年の冬、システムエンジニアとして働いている会社へ向かう途中、ウォークマンで斉藤さんの曲「幸福な朝食 退屈な夕食」を聴いていて、感動していました。今までに何度も聴いていた曲なのに、その時、すごく入ってきて、僕も小説一本に専念しないと、こういうすごい作品はつくれないんじゃないのか、そう思ったんです。その曲に「今歩いているこの道がいつか懐かしくなればいい」というリフレインがあって、この通勤している道もいつか懐かしくなるかなあって。
で、その日のうちに奥さんに「会社やめようと思うんだけど」と相談しました。そしたら「いいじゃない。うまくいかなかったら斎藤さんのせいだ」って。
斉藤 俺は関係ないです(笑)。
伊坂 斉藤さんは、ウチでは恩人ということになっています。勝手に(笑)。今回、斉藤さん側から(コラボレーションの)お話をいただいて非常にびっくりしました。きっかけになった人とこういうことができるなんて、恩返しといったら畏れ多いですけど、うれしかったですね。』
『2007年3月、小説家になった伊坂幸太郎は斉藤和義のために「アイネクライネ」という短編を書き下ろす。一方、斉藤和義は、「アイネクライネ」を原案に、「ベリーベリーストロング~アイネクライネ~」という曲を制作。伊坂幸太郎の短編小説付きシングルCDという形で発売された。
本書は、そんな奇跡のような出会いを男二人が語りつくした“絆のはなし”であり、その出会いが生んだ新たなファンのための“楽しみ方辞典”である。』
一方、添付ツイッター*によれば、こんな話もあるようだ。
『ワープロにいっぱい入れていたキーワードを語呂がいいように並べ替えて。スタジオに行く途中の駒沢公園通りで“今歩いているこの道はいつか懐かしくなるだろう”ってフレーズが浮かんで。』
*https://twitter.com/_sk_bot_/status/851892815051108352
2.伊坂幸太郎原作の映画化された作品(出所:Wikipedia)
陽気なギャングが地球を回す(2006年、監督:前田哲、主演:大沢たかお)
CHiLDREN チルドレン(2006年、監督:源孝志、主演:坂口憲二)
アヒルと鴨のコインロッカー(2007年、監督:中村義洋、主演:濱田岳・瑛太)
フィッシュストーリー(2009年、監督:中村義洋、主演:伊藤淳史)
重力ピエロ(2009年、監督:森淳一、主演:加瀬亮・岡田将生)
ラッシュライフ(2009年、東京藝術大学大学院映像研究科製作、主演:堺雅人)
ゴールデンスランバー(2010年、監督:中村義洋、主演:堺雅人)
ポテチ(2012年、監督:中村義洋、主演:濱田岳)
オー!ファーザー(2014年、監督:藤井道人、主演:岡田将生)
グラスホッパー(2015年、監督:瀧本智行、主演:生田斗真)
<感想>
ふとしたことをきっかけにして、人は二つの岐路から一つの道を選択する。そのきっかけというのは、その人にとってはとても重要な分岐点で意味を持つ一方、他の人からすると何ともない日常だったりする。
もし、あの時、伊坂幸太郎が斉藤和義の曲を聴かずに会社を辞めていなかったとすれば、今頃まだシステムエンジニアを続けていたのだろうか。
https://ameblo.jp/tsuruichi1024/entry-12304490521.html
https://ameblo.jp/tsuruichi1024/entry-12305527772.html
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「3652 伊坂幸太郎エッセイ集」
「3652 伊坂幸太郎エッセイ集」(伊坂幸太郎著、新潮文庫)より
2004年
私が繰り返し聞く3枚のCD
①ザ・ルースターズ「THE ROOSTERS」日本コロンビア
②*斉藤和義 アルバム全部
③ソニー・ロリンズ「ソニー・ロリンズVol.2」
①去年、ボーカルの大江慎也がライブをやったと知り、感動のあまり、「チルドレンⅡ」という短編を書いてしまいました。②叙情的で、可愛い。なぜもっと話題にならないのか不思議ですが、あまり話題になると寂しいのでちょうといいです。③ジャケットも好きです。
「週刊文春」2004年8月12日・19日合併号
*「本当に好きなもの」を書くのは恥ずかしくて、斉藤和義さんの音楽が好きだ、というのは公にはしていなかったんですが、ここで初めて書いたんですよね。誰も読んでないだろうと(笑)。でも、スタッフの方や斉藤さんのファンの方が、この記事を読んでくれたらしく、数年後に、作詞をしませんか、という依頼を受けるんです。すべてはここで書いた数行から始まった、という。書いておくもんだな、という感じですよね(笑)。
2008年
私の隠し玉&ハマっている○○
はまっているものがありません。もともと趣味の少ない人間で、自分のことがとてもつまらない人間に思える瞬間がよくあります。ただ、ハマっている、というほどではないのですが、最近、ブルーハーツの曲を聴きます。まともに聞くのは*十数年ぶりかもしれません。ファーストアルバム、一曲目、ドラムの音が聞こえてきたとたん、37歳の今も、胸が高鳴って、自分でも可笑しかったです。そして今、ヒロトとマーシーはクロマニヨンズで、メッセージが蒸発してロックンロールの楽しさだけが残ったような曲を生み出していますが、ブルーハーツからのその変化が僕にはとてもすばらしいものに思えます。
「このミステリーがすごい!」2009年版
*ハイロウズとかクロマニヨンズはよく聴いていたんですけど、ブルーハーツをしばらく、本当に聴いていなかったんです。久しぶりに聴いたら、やっぱり恰好よかったです。
あとがき(この本ができるまで)
十年目に出すのだから、365日×10年で、さらに、うるう年が2回あるので3652日ですね、と彼が逝ってくれたことから、この本のタイトルが決まりました。
表紙については、三谷龍二さんが作品を作ってくださいました。「三谷作品を使いつつ、小説作品とは違う雰囲気の装幀にしてください」という我儘な要求に、(新潮社から出版される)僕の本をずっと担当してくれている装幀室の大滝さんが応えてくれました。
>>斉藤和義とのコラボは、文春の数行がきっかけだったとは知らなかった
「週末のフール」
「週末のフール」(伊坂幸太郎著、集英社文庫)より
解説 吉野仁
そこで伊坂氏は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のイメージを思い浮かべたという。そのあたりをもうすこし詳しく引用してみよう。
たとえ醜くても、他人を蹴落としてでも懸命に生き続けるというイメージですね。最後の話で書きましたが、子供から自殺して何が悪いんだといわれたときに、親は何がいえるのか。自殺しないほうがいいよとか、誰かが悲しむとかいったとしても、じゃあ悲しむ人がいなければいいのかということになると、また違う議論になってしまう。そのとき、「死に物狂いで生きるのは、権利じゃなくて、義務だ」といいきっちゃうことが、こういう設定ならば説得力があるような気がしたんですよね。無茶苦茶ですけど。
終末だけど幸せだよねというのでもないし、つらいけどみんな頑張っていこうというのとも違う。それらすべてを除外したラストというものをどうにか見つけようとしていたときに、「蜘蛛の糸」のカンダタの姿が思い浮かんで、そこで物語のベクトルが見えたんです。
さらに「終末」ということに関して、次のようにも述べている。
小惑星が落ちてくる、そして、それが八年前に予告されるという設定自体は決してリアリティがあるものではありませんが、冷静に想像して八年というスパンをとらえてみると、パニックから五年が経ち、あと三年で終末を迎えますといわれたときに、妙に落ち着いて淡々として生きる状態が一年くらいあるというのは、現実的に考えられなくもない状況のような気がする。
現実とぴったりとは重なっていないけれども、ズレながら重なっているというのがフィクションのいいところだと思います。
冒頭で紹介した、「死」から「生」を理解する、とは、吉本隆明「『生きること』と『死ぬこと』」(『言葉という思想』弓立社)に書かれていた話なのだが、そのなかで吉本氏は、E・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間-死とその過程について』(中央文庫)という本を取り上げていた。精神科医であるロスは、二百人におよぶ末期患者に直接インタビューし、“死に至る”人間の心の動きを明らかにした。ほとんどの人は、五つの段階を経るという。まもなく死ぬことが信じられず(否認)、なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲にむけ(怒り)、次にどうにか生き続けることはできないかと何かにすがろうとした(取り引き)のち、死という現実の前になにもできなくなり(抑鬱)、最後にはそれを受け入れる(受容)、というプロセスである。
まさに、この『終末のフール』には、終末を知らされ誰もが自暴自棄になったりパニックになったりした時期をすぎて、ようやくその現実を受け入れてきたという、“死に至る”心理の過程をたどったことがしっかりと背景に書かれている。吉本氏によると、多くの文学作品は、この五つの段階が見られるという。五つのうちのいくつかは省略してあったり、逆説的に抜かれていたりする場合も含め筋書きや心の動きなどに表れているのだ。
また、別のインタビューで伊坂氏は、作家の伊集院静氏と会ったとき、「小説は、哀しみを抱えている人に寄り添うものなんだ」と言われた話を持ち出していた。この『終末のフール』では、やがて訪れる終末に対する主人公の姿勢のみならず、家族や周囲の人の死を受け止められずにいる人たちの姿に随所で触れている。葛藤と思いやりが意外な展開で融和していくのだ。どこか、しみじみした味わいがあるのも、本作の特徴である。
人はいかに生きるべきか。『終末のフール』に描かれているのは、“人生のルール”だ。どんなに悲惨だったり希望がない状況だったりしても、しっかりと強く生きるための、そして哀しみを抱えている人に寄り添うための“人生のルール”。あと三年の命と告げられようと、それでも人は生きていく。豊潤な人生(ラッシュライフ)を求めて。
>>死を前にして、早い段階で受容できる状態になれたら幸せだ。