「残り全部バケーション」(伊坂幸太郎著、集英社)より
「その時の岡田のやったのは、『それらしく見せる』ってことだった」
「人ってのは、それらしい情報を与えられると、勝手に想像して、納得しちまうってことだ。俺もな、だからそれをやってみた」
「俺は後悔してんだよ。あの時、岡田に責任をおっ被せちまったことを。岡田はいい奴だったからな。面白くて、いい奴だった」
「『友達になろうよ。ドライブとか食事とか』」
「最後に岡田といた時に、そういうメールを打ったんだよ。覚えてるかもしれねえ」
「じゃあ、『子供作るより、友達作るほうがはるかに難しい』ってのも足せ」
「その時は、どこかでずっとバケーションでも満喫してやるよ。俺の人生、残りは夏休みだ。宿題なしでな」
ちゃらん、とスマートフォンが鳴った。
>>溝口も岡田も今もきっとバケーションの最中に違いない
「Weather」(伊坂幸太郎著、「Happy Box」PHP研究所)より
「今日の料理はとても美味しかったです」という、当たり障りのない、それこそ天気の話にも似た、感想だった。
「玲さんが、食べろ食べろ、というので披露宴の最中もたくさん、食べてしまいました。とても美味しかったです」
「わざわざ、わたしのお皿だけ、ニンジンを抜いてくれてありがとう。でも、もうさすがに、大きなニンジンも食べられます」
明香里の父親はシェフとなり、レストランで働いているのだと判明した。
「とにかく、『呼びたくない』という答えではなかったのがずっと気になっていて。それなら、お父さんのレストランで式をやって、こっそり花嫁姿を見てもらう分にはいいかと思ったんです」
明香里が、父親のことに気付いたのはたまたまらしかった。ウェディングケーキの入刀の際、厨房のほうに目をやったところ、白い帽子をかぶった男性が大泣きしているのが目に入り、何事かと見つめているうちに、その男に父親の面影を見つけた。唖然とし、頭は混乱したのだという。
借金で、自己破産をして、一からやり直したのだろうか。離婚後の、明香里の父親の人生を考えようとし、僕は途方に暮れる。部外者には想像もつかない苦難満載の日々だったはずだ。
「泣いているじゃないか」という清水は、女性と奔放に付き合っていた頃の、調子が良いだけの彼とは違って見えた。
>>清水の優しさに乾杯
「バイバイ、ブラックバード」(伊坂幸太郎著、双葉社)より
「子供の時に、母親が言ってたんだ」母を思い出し、僕は胸を締め付けられる。「やだな、怖いな、って思って腰が引けてると、やっぱりやられちゃう、って。かかってこい、ってぐらいに真正面から受け止めるほうがダメージは少ないんだ。喧嘩も病気も、何もかも、へっぴり腰なんかじゃ絶対に負ける」
「おまえの母親は事故で死んだ時も、かかってこい、と思ったのかよ」
「かもしれない」繭美が皮肉を口にしたのか、それとも本当に疑問だったのかははっきりしなかった。ただ、僕は今まで、事故の時の母親のことなど考えたことがなかったため、最後まで逃げ腰ではなかった母を想い、心強くなった。「だから、僕もどんと行こうと思う」
「おまえが、<あのバス>に乗らないで済む方法だ」
「あるのか、そんな方法が」
「いいか、人間が最後の最後に見捨てられないためにはな、『自分は必要な人間です』『役に立てます』と主張するしかねえんだ」
「あたしが思ったのはな、ほら、お前の別れてきた五人の女がいるだろ。あいつらが使えねえか、ってことなんだ」
「やめておくよ」気づけば僕はそう言っていた。「彼女たちに迷惑をかけては元も子もない。せっかくちゃんと別れてきたのに」
「そんなことを言ってるばあじゃないと思うぞ、わたしは」
僕は構わず、歩きはじめた。
「いいんだ。僕はバスに乗る」
そうか好きにしろ、と繭美は言った。
>>今頃、星野一彦はどこで何をしているのだろう
「あるキング」(伊坂幸太郎著、徳間書店)より
五年前、アメリカのマイナーリーグからやってきた、フランクリン・ルーズベルトという打者がいる。第三二代大統領と同姓同名の彼は、ろくな記録も残さぬまま帰国したが、その直前、「仙醍キングスにこれ以上いると、悟りを開いてしまう」と言い残した。
半分は皮肉だったろうが、残りの半分は本心だったに違いない。仙醍キングスはチーム創立以来、今シーズンに至るまで、一度も日本一になったことがなく、リーグ優勝すらも経験していない。それどころか、大半が最下位なのだ。ひたすら敗戦に耐えることが日常的に続くため、何らかの悟りの境地に至ってもおかしくはない。そのアメリカ人選手は、「私たちが恐るべきは、負けることではなく、負けることを恐れなくなっていることだ」と、まさにルーズベルト大統領の演説のアレンジとも言える台詞を残した。
王求という名前をつけたのは、おまえの父親だ。
産院のベッドで横になり、母乳を飲み終えて眠るおまえを眺めながら、母親は閃いた。「将来、この子は仙醍キングスで活躍をする男になるのだから、王という漢字がつかないのはおかしいと思ったの」でもなければ、「王という漢字を使うのはどうかしら」でもなく、「つかないのは、世の摂理としておかしい」という言い方だった。
おまえの父親もすぐに賛同した。「それならば、将来、キングスに求められる存在なのだから、王に求められる、と書いて、王求はどうだろう」と提案した。
「王が求める、という意味でもいいよね」
「王が求め、王に求められる。凄くいい」
おまえの両親の気持ちは盛り上がり、悩むことなく、その名を決定した。おまえの父親は区役所に出向き、出生届を記入したが、その時、王求と横書きではじめて書いた瞬間、その文字の並びが、「球」という漢字を間延びさせたようにも見えることを発見した。
フランクリン・ルーズベルトは、「わたしたちが恐れなくてはいけない唯一のことは、恐れることそのものだ」と言った。仙醍キングスに在籍したことのある、あるアメリカ人選手ではない。同姓同名の第三二代大統領の演説の言葉だ。おまえの母親はその言葉を肝に銘じていた。
何かを恐れてうろたえることが、もっとも恐ろしい。
そしてその言葉は、おまえの両親が心酔していた選手、あえて客観性を補うために名前で呼べば、南雲慎平太が、現役時代に残した台詞とも重なり合う。雑誌「月間野球チーム」に掲載された、それはそれは小さなインタビュー記事の台詞だ。「まわりが、おまえたちのチームは弱すぎる、最低だ、って罵ってくるとね、必死に自分に言い聞かせるんです。恐れちゃいけないって。プレイをしているのは俺だから。俺は俺のプレイを、俺の野球をやらなくてはいけないって。俺の野球人生に代打は送れないですしね」
恐れてはいけない、正気を失って取り乱してはならない、とおまえの母親は分かっていた。まわりの雑音や攻撃に流され、山田桐子の人生を失ってはいけない。山田王求の母親の人生を生きなくてはいけない。母親に代打は送れない。そう考えると自然、落ち着くことができた。
倉知巳緒は、おまえの母親の横顔を、その真剣な面持ちを見る。普段は、明るく穏やかな表情豊かな、年齢の割にずっと若く見受けられるおまえの母親は、テレビでおまえを見つめる時だけは、尋常ならざる顔になる。魂の目のようなものを駆使し、おまえの一挙手一投足を確かめるかのような形相になる。倉知巳緒もその表情を目の当たりにしたばかりの時は、恐ろしさを感じ、ひるんでしまうところがあったが、だんだんと理解もできるようになった。おまえの、その、人並みはずれた精神力と威風の源泉が、この異常ともいえるほどの母親の感心、庇護にあるのだとすれば、それはさほど奇妙なこととは思えず、むしろ、腑に落ちた。必要とあらば誰かの首を斬ることもためらわない、冷淡で神聖な王、それを支えるのは歴史の力強さ、引き継がれる血の魔力に違いない。倉知巳緒はそう思う。マクベスには妻がいたが、山田王求にはこの親がいる。
「本とも」連載中はとにかく、「自分が読みたい物語を自由に書きたい」と思っていました。が、書き上げてみると、当初の思惑よりは、自由に書いていなかったのではないか、と不安になり、単行本化にあたって書き直しを行ったのですが、すると、本筋は同じであるもののまるで違う様子の物語になりました。もちろん、いつもの僕の小説とも雰囲気の異るものになりました。あたたかく後押ししてくださった、徳間書店の編集者さんたちにもお礼を申し上げます。
【初出】
「本とも」2008年4月号~2009年3月号
単行本化にあたり、大幅に加筆・修正しました。
>>恐れてうろたえることがないよう精進したい
「首折り男のための協奏曲」(伊坂幸太郎著、新潮社)より
「そうですね」と佐藤亘が口を開く。「戦争や事件や事故や長期は絶えずどこかにあって、泣いている親たち、悲しんでいる子供たち、そういった人でたぶん世の中は溢れているんですけど、僕たちは自分の時間を、自分の人生を、自分の仕事をちゃんとやることしかできないような気がします。もちろん、自分のことだけでいい、とか、よそのことなんて知らない、と開き直ってしまうのは違うと思うんですけど」
「ねえ、不細工、じゃあどうすればいいのよ」と木嶋法子は相手を尊重するのか侮蔑するのか分からない態度で訊ねたが、すると佐藤亘は嫌な顔一つせずに、「どうすればいいのかは分からないので、いろんなことにくよくよしていくしかないです」と顔をゆがめ、「ある作曲家が死ぬ前に言っていたそうですよ。『人はそれぞれ、与えられた譜面を必死に、演奏することしかできないし、そうするしかない。隣の譜面を覗く余裕もない。自分の譜面を演奏しながら、他人もうまく演奏できればいいな、と祈るだけだ』と子供たちに言い残したそうです」と話した。
エレピアノの力を目一杯に使ったような、もしエレピアノの中にエンジンがあるのだとしたら、それを限界まで回転させ、潜在的に持っていた音をすべて吐き出している。
止むことのないメロディが、夜の空気をぐるぐると掻き回し、私たちもそれに巻き込まれて宙に浮かんでいくかのような、そんな浮遊感を覚えるが、無理やり引き摺られるような不快感や恐怖を伴ってはいなかった。胸が心地良く弾んでいる。ああ、何と、と私はぼんやりと思った。何と佐藤さんは恰好いいのか、と。が、隣の江川美鈴は、おそらくは感動し、涙を浮かべてしまった自分が恥ずかしかったのだろう。勝ち誇った表情で、「ほら、ハーフは美形とは限らないでしょ」と言った後で、笑った。「そして、男も女も大事なのは外見じゃない」
私は言った。「自明だ」
>>二人はまた一緒になれたのだろうか