【宇垣美里の漫画党宣言!】(77) 大人の心に沁みる真っ直ぐな青春
♪ともだちひゃっくにんできるかな――なんて、そんなにできるわけないし、必要もないだろ。『一年生になったら』を初めて歌った時から懐疑的だった。たかだか教室が同じになったくらいで仲良くなる必要なぞない、喧嘩さえしなければいいのだ、と。随分可愛げのない子供である。でも、若しそのつもりで向き合っていれば、趣味や性格やスタンスで勝手に線引きして「私とは違う人だ」と思っていたクラスメイトの中にも、仲良くなれた人がいたのかもしれない。『スキップとローファー』のみつみ達のように。石川県能登半島の駅すらない田舎町で生まれ育った岩倉美津未は、T大法学部から官僚という出世コースを目指し、高校進学を機に上京する。満員電車に圧倒されて入学式に遅刻してしまったり、気合が入り過ぎて自己紹介で滑ったり…。進学校に首席で入学した秀才ながら、ポンコツ且つ天然なみつみは空回りしてばかり。都会的な同級生とのズレに戸惑いながらも、持ち前の自己肯定感の高さと素直さで高校生活を乗り越えていく。クールな美少女の結月、当初はみつみに牽制をかけるような言動を繰り返したミカ、内気で陽キャに苦手意識を持つ誠。タイプも趣味も違う彼女たちは、そのままならきっと友達にはならなかっただろう。しかし、みつみのフラットな眼差しに影響され、理解し得ない部分があるとわかった上で、次第に互いが大切な存在へと変わっていく。自分のクラスにいたんじゃないだろうか、とさえ感じさせる親近感あるクラスメートたち一人ひとりの心の機微の解像度が高く、この物語には誰一人として脇役などいないのだと感じさせる。
初めてのカラオケ、初めての学園祭、初めてのパンダ。何気ない高校生の淡々とした日常から漂う若さ故の真っ直ぐさに浄化され、ページをめくる度に溢れ出る青春感が渇いた大人の心に沁みる。ほんわかした可愛らしい絵や、みつみの恍けたやり取りにクスクス笑って癒される一方で、心抉る展開に息を呑んでしまう瞬間もある。人間関係のしんどさ、ままならなさからくる心情の揺らぎや拭えないコンプレックスがあまりにリアルで胸が痛い。特に、見た目の美しさから起こるいざこざに苦しめられる結月の叫びに共鳴して、涙が止まらなかった。出会った当初は見た目から結月に苦手意識を持っていたのに、いつしか親友となった誠が示す友情の尊さに胸打たれ、何度も何度も読み返した。こんな友達がいたら、たとえ今後の人生の選択で離れてしまったとしても、その事実はずっと自分の支えとなり続けるだろう。気遣い上手ながら自分の気持ちを上手く出せない志摩君や、みつみを見守る父の弟で“叔母”のナオちゃん等、魅力的なキャラクターが沢山登場する本作。どのキャラクターに感情移入して読んでいるのか、友人と比べるのも面白い。「誰かと本当の友達になれるチャンスなんてそうそうないのよ」。大人になればなるほど実感するナオちゃんの言葉が胸に響く。何となく気後れしていたあの人にメールを送ってみようかな。服装や仕事が違っていても、勇気を出して一歩を踏み出さないと友達になれるかどうかすらわからないって、みつみが教えてくれたから。
宇垣美里(うがき・みさと) フリーアナウンサー。1991年、兵庫県生まれ。同志社大学政策学部卒業後、『TBS』に入社。『スーパーサッカーJ+』や『あさチャン!』等を担当。2019年4月からフリーに。著書に『風をたべる』(集英社)・『宇垣美里のコスメ愛』(小学館)・『愛しのショコラ』(KADOKAWA)。
2022年7月28日号掲載
初めてのカラオケ、初めての学園祭、初めてのパンダ。何気ない高校生の淡々とした日常から漂う若さ故の真っ直ぐさに浄化され、ページをめくる度に溢れ出る青春感が渇いた大人の心に沁みる。ほんわかした可愛らしい絵や、みつみの恍けたやり取りにクスクス笑って癒される一方で、心抉る展開に息を呑んでしまう瞬間もある。人間関係のしんどさ、ままならなさからくる心情の揺らぎや拭えないコンプレックスがあまりにリアルで胸が痛い。特に、見た目の美しさから起こるいざこざに苦しめられる結月の叫びに共鳴して、涙が止まらなかった。出会った当初は見た目から結月に苦手意識を持っていたのに、いつしか親友となった誠が示す友情の尊さに胸打たれ、何度も何度も読み返した。こんな友達がいたら、たとえ今後の人生の選択で離れてしまったとしても、その事実はずっと自分の支えとなり続けるだろう。気遣い上手ながら自分の気持ちを上手く出せない志摩君や、みつみを見守る父の弟で“叔母”のナオちゃん等、魅力的なキャラクターが沢山登場する本作。どのキャラクターに感情移入して読んでいるのか、友人と比べるのも面白い。「誰かと本当の友達になれるチャンスなんてそうそうないのよ」。大人になればなるほど実感するナオちゃんの言葉が胸に響く。何となく気後れしていたあの人にメールを送ってみようかな。服装や仕事が違っていても、勇気を出して一歩を踏み出さないと友達になれるかどうかすらわからないって、みつみが教えてくれたから。
宇垣美里(うがき・みさと) フリーアナウンサー。1991年、兵庫県生まれ。同志社大学政策学部卒業後、『TBS』に入社。『スーパーサッカーJ+』や『あさチャン!』等を担当。2019年4月からフリーに。著書に『風をたべる』(集英社)・『宇垣美里のコスメ愛』(小学館)・『愛しのショコラ』(KADOKAWA)。
2022年7月28日号掲載
【沖縄復帰50年・日本人になりたくて】(04) 旅券2つ、分断の証
沖縄出身で東京に移住した玉城一夫さん(80、東京都世田谷区)の自宅には、アメリカ統治時代に取得した2種類のパスポートが残っている。1冊は沖縄から東京大学へ進学する際に発行された日本渡航証明書、もう1冊は東京移住後に沖縄に渡る為に作った身分証明書だ(※右画像、撮影/大西岳彦)。1972年に沖縄が日本に復帰するまで、沖縄と本土との往来は自由にできず、アメリカに制限、管理されていた。沖縄から日本に渡る為の渡航証明書は、沖縄を統治したアメリカ側の統治機構である琉球列島アメリカ国民政府が発行し、各種記載も英文の後に日本語の訳文が添えられた。玉城さんが持つ渡航証明書の帳面には、日本本土と沖縄の出入国審査担当官によって沖縄を出た日付や本土に入った日付等スタンプが押され、パスポートと同様の使い方がされていたという。ただ、本籍こそ沖縄県と記載されているが、証明文中では日本人ではなく“琉球住民”と表現され、渡航目的も大学進学ではなく“留学のため”と記された。一方、日本政府が発行する身分証明書の帳面には“日本人”と記載され、“沖縄へ渡航するものであることを証明する”とされた。本土に出入りした際のスタンプは“日本国からの出国を証する”・“帰国を証する”と表記され、沖縄との往来が外国と同様の手続きになっていたことが窺える。
本土在住者が沖縄に渡航する為には、沖縄出身者であってもアメリカ国民政府の許可が必要で、許可が出なければ日本政府による身分証明書も発行されなかった。許可や不許可はアメリカ国民政府の裁量で決定される為、アメリカの沖縄統治を批判する人や本土復帰運動に携わる人たちは許可が出ないこともあった。当時の資料によると、1963年から1967年夏までの間に本土から沖縄への渡航で144件、沖縄から本土で約40件が不許可となっている。『沖縄県人会』兵庫県本部の会長を務め、昨年5月に94歳で亡くなった宮城正雄さんは、沖縄戦に巻き込まれて亡くなった母親の遺骨を探す為、兵庫県から沖縄への渡航を何度も申請したが許可されなかった。宮城さんの義弟である嘉数盛一さん(78、兵庫県尼崎市)によると、宮城さんは太平洋戦争中に16歳で徴用されて大津市の軍需工場で働き、尼崎市で終戦を迎えた。2年後に母の死を知り、沖縄では親族以外は遺体を動かしたり埋めたりしない風習があった為、遺骨を拾いに行きたかったが、パスポートが発給されなかったという。宮城さんは1950年代から熱心に復帰運動に携わっていたといい、嘉数さんは「兄からは『お前も復帰運動をしていたら、俺のように沖縄に帰れなくなるぞ』と何度も言われた」と振り返る。宮城さんが漸くパスポートが発行されて遺骨と対面できたのは、戦後13年目の1958年だった。東京大学を卒業後、旧総理府に入庁。沖縄開発庁の総務局長まで務め、公私共に沖縄を見つめてきた玉城さん。「戦勝国の勝手によって分断されていたのだと改めて感じる」。2種類のパスポートを見つめ、こう吐露した。そして続けた。「ドイツや朝鮮半島で国が分断された悲哀を知っていても、日本でも同様の分断があった悲しみをどれだけの日本人が感じているだろうか。沖縄と本土の意識と感覚の開き。アメリカ軍基地移転問題にも通じるものがある」。 (取材・文/社長室サステナビリティー委員会事務局 桐野耕一) =おわり
2022年5月5日付掲載
【沖縄復帰50年・日本人になりたくて】(03) 進学先を選べぬ留学
1972年春、東京工業大学に入学する為、希望に胸を膨らませ沖縄から上京した南風原朝和さん(68、千葉県船橋市、左画像)は、大学の事務担当者の言葉に夢を打ち砕かれた。「貴男は好きな学科を選択することはできない」。琉球政府立那覇高校3年だった1971年、日本政府と琉球政府が大学の授業料や在学中の生活費の一部等を負担する国費沖縄学生制度に応募した。9万人以上の一般市民が犠牲になった沖縄戦の戦禍で枯渇した人材を育成すること等を目的に始まった制度だった。試験にも合格し、面接で「関東地方の大学に行きたい」と述べた。念頭にあったのは東京工業大学の経営工学科。理系も文系も好きで、両者を融合させた、当時、目新しい学科に興味を持っていた。その経営工学科のある東工大工学部第4類に入学する希望はかなったが、その後に思わぬ人生の分岐点が待っていた。「まさか進路が決められていたなんて…」。通常は入学後、経営工学科や機械工学科等希望の学科を選べるが、沖縄学生制度で入学した学生は海外からの留学生と同様の扱い。日本政府や大学、琉球政府の意向等により、専攻科が本人の希望とは無関係に決められる。
南風原さんは機械工学科とされたが、「自分には向いていない」と思い悩み、親にも相談せず、入学から半年も経たずに退学届を出して沖縄に帰った。「もう一度、本土の大学に挑戦してはどうか」。失意に落ち込む南風原さんを、高校時代の恩師が励ましてくれた。沖縄に帰ってから半年後、東京大学理科2類を一般入試で受験して合格。心理学に興味を持って教育学部の教育心理学科に進み、研究者となった。東大で副学長まで務め、現在は名誉教授の南風原さん。「国費で入学させてもらっている以上、仕方ないとはいえ、進路について検討の余地もないという対応はつらかった」と打ち明ける。東北大学の病院長や学長を歴任した里見進さん(73、仙台市青葉区)は、1967年にこの制度で同大医学部に入学した。進学先は選べないと理解していたが、沖縄からは遠く離れた東北大学と決まり、「これは遠いな」と感じた。しかし、他に選択肢はなかった。「熱心な活動家ではなかったが…」。当時の沖縄では、アメリカ軍の戦闘機が小学校に墜落する等、基地問題が深刻化。本土復帰運動も大きなうねりを見せていた。里見さんも大学2年の頃、東京に出て集会やデモに参加した。『琉球育英史』(※『琉球育英会』発行)によると、アメリカ統治下の沖縄の留学制度では1950年代、アメリカ国民政府の通告で、理由も明らかにされないまま給付が打ち切られるケースもあったという。「私もデモで逮捕などされていたら、支援を打ち切られていたのだろうか」。国費留学した学生たちは、デモ参加も含め、沖縄を良くしたい、生活を向上させたいとの思いで溢れていた。しかし、本土復帰から50年を経ても基地はなくなるどころか、移転を巡り、分断や対立を生むばかり。里見さんは、「基地問題は子供の頃の状況と変わっていない。返還されたところは商業地として栄えているのにね」と呟いた。 (取材・文/社長室サステナビリティー委員会事務局 桐野耕一)
2022年5月4日付掲載
【沖縄復帰50年・日本人になりたくて】(02) 集団就職で差別に直面
1950年代後半から1972年の本土復帰前後にかけ、沖縄の多くの若者が集団就職で東京や大阪等大都市周辺に渡った。1971年に高校を卒業し、神奈川県に来た若木光子さん(70、兵庫県尼崎市)もその一人だ。採用されたのは自動車部品工場。沖縄で面接を受け、その後、船で東京に向かった。港から会社の車に乗せられて工場に着くと、沖縄出身の同期が20人程いた。そして、沖縄と本土との往来に必要となる渡航証明書を提出するよう求められた。若木さんは「逃げ出さないように取り上げたのだと思う。1年後には本土復帰で必要なくなったが、結局、返してもらえなかった」と語る。アメリカ統治時代には「姿は日本人で英語も十分に話せない。自分たちは中ぶらりんな存在」と感じた。本土に復帰した時も「復帰してもアメリカの言いなりのままなのではないか」との不安は拭えなかった。工場で2年程働いた後、沖縄に一度戻ったが、仕事で大阪に来た際に知り合った男性と結婚し、以来、関西で暮らしてきた。毎年帰郷するが、今もバス通り沿いには基地の敷地が広がる。「そんな沖縄が嫌で本土に来たのかもしれない」。中学卒業後の1966年に兵庫県内の製鉄所に就職した下條正隆さん(71、同)は、職場では沖縄への偏見を感じることはなかったが、会社の外は違ったという。
“沖縄人仕事お断り”。そんな看板が立てかけられている鉄工所や工場は少なくなかった。看板を見て「会社を辞めればもう仕事は見つからない」と思い、必死で働いた。「夜勤もあって月100~200時間の残業。きつかったけどね」と、日本の高度成長期を支えた自負も覗かせる。「沖縄ってどこ? 英語じゃなく日本語を話すんだ」。1966年に沖縄から尼崎市に来た伊波百合子さん(73、同)は、50年以上経った今も、元同僚の言葉を忘れられない。8人きょうだいの6番目だった伊波さんは中学卒業後、同市の食堂に住み込みで働き、一度は沖縄に帰郷したが、19歳で再び本土に渡った。同市に住むおばの紹介で勤めた電化製品の組み立て工場。「沖縄に学校があるんだ?」。寮で生活を共にした同僚の女性たちから心ない言葉を投げつけられ、方言もからかわれた。沖縄への偏見や差別意識からの言動だったのかはわからない。だが、自身は「沖縄出身であることを隠そう」と思うようになった。「言葉がわからず話しかけられるのが怖かった」。友達もできず、休日も公園で一人、時間が過ぎるのを待つ日々が続いたが、職場の出入り業者で福岡県出身の男性と知り合った。休憩時間に売店でコーラを分けてくれたのがきっかけで、「内地でもこんな優しい人がいるんだ」と惚れてしまった。家族からは「沖縄の人じゃない」と反対されたが、21歳で結婚。1972年に本土復帰した際は長女が生まれた直後で、「こんな苦労は自分たちの代で終わる。沖縄にも自由に行き来できる」とほっとしたという。それから50年。「沖縄への差別や偏見は減ったかもしれないが、身近に様々な形で孤独を感じている人がいる」と感じる。現役時代には職場のペルー人に手料理を振る舞ったり、最近は近所の一人暮らしのお年寄りに声をかけたり。「つらい思いをしていないか、自分の経験に重ねて心配になる」という。「一緒に楽しい時間を過ごしたいというのが沖縄の心。復帰前の経験があってこそ、それをより実感している」。 (取材・文/大阪本社科学環境部 宮川佐知子・社長室サステナビリティー委員会事務局 桐野耕一)
2022年5月3日付掲載
【沖縄復帰50年・日本人になりたくて】(01) 結核治療を阻んだ“国境”
アメリカ軍の上陸から27年間に亘り統治下に置かれ、同じ“日本人”でありながら本土とは異なる道を歩んできた。日本に復帰して50年。沖縄の人々は今をどう見つめているのか――。
いつの時代も感染症は人類の脅威になってきた。新型コロナウイルスの感染拡大で、2021年には緊急事態宣言の発令期間が4ヵ月を超えて全国最長となる等、厳しい状況が続いた沖縄。戦後間もなく日本の死因のトップで“亡国病”と言われた結核でも、アメリカ統治の下、本土とは異なる状況に苦しめられた。「自分がやらなくちゃ誰がやるのか。地域の公衆衛生は私が担う」。当時、看護学校を卒業したばかりで、沖縄独自の公衆衛生看護婦(※公看、後の保健師)として読谷村に駐在した与那原節子さん(95、那覇市、左画像)は、村の惨状を目の当たりにして意を決した。本土では1951年に制定された結核予防法により対策が進められたが、医師の多くが戦死し医療機関も壊滅状態だった沖縄では保健所が中心になって取り組んだ。1951年の赴任直後、結核への偏見は根強く、患者を見つけ出すのが最初の仕事に。自ら聞き込みをし、「咳をしている人がいる」等断片的な話を手がかりに家を訪ね歩いた。「近所の人に知られてしまう」と訪問を拒まれることもあった。アメリカ人指導者らから感染予防等の講習は受けたが、学んだ通りに実践はできなかった。「皆、簡素な小屋のような家で隔離なんてできない」。それでも着物を天井から垂らして仕切りを作り、夜は頭の向きを変えて寝るよう指導した。5年後の1956年、沖縄でも独自の予防法ができ、医療費が公費負担になる等、本格的な対策が始まった。しかし、病床は足りず、入院を待つ間に亡くなる患者もいた。与那原さんは、「折角患者を見つけ出しても、十分な治療ができず、もどかしかった」と振り返る。
当時の資料によると、1960年の沖縄では1万人超の患者に対し、入院できる病床は約600床。人口当たりの病床数は本土の4分の1しかなかった。「本土にある国立療養所のベッドには余裕がある。手助けをしたい」。兵庫県三田市にあった国立療養所『春霞園』(※現在の『兵庫中央病院』)が支援に名乗りを上げた。園長だった故・工藤敏夫医師が学会で病床不足に苦しむ沖縄の窮状を知り、1961年、『沖縄県人会』の前身となる『沖縄協会』兵庫県本部に患者の受け入れを打診した。計画は患者が兵庫県に移住し、県に生活保護を申請して療養に必要な費用を賄う――というもの。1961年4月、沖縄から結核患者11人が春霞園に入院したが、県から問い合わせを受けた厚生省(※当時)が「生活保護を適用するには疑義がある。自費入院として取り扱うよう」と“待った”をかけた。結核回復者有志らでつくる『沖縄療友会』等の記録によると、厚生省は理由として「他府県から来た場合は(生活保護費の負担を)移住前の府県に請求できるが、アメリカ占領下の沖縄には請求できない」という原則論を持ち出した。また、「アメリカが統治する沖縄の住民の問題について、日本だけでは判断できない」との事情を挙げた。結局、原則自費扱いとして検討され、他に入院する予定だった患者約40人は渡航が延期となった。これに対し、沖縄協会等は「人道上の問題として在日外国人の生活困窮者に保護を適用しているのに、日本人である沖縄の患者にできないのはおかしい」と抗議。粘り強い交渉の末、同12月、厚生省は入院中の患者への生活保護適用を認めた。更に、アメリカ側との協議も経て、日本政府の沖縄への医療援助の一環として、全国の国立療養所で沖縄の結核患者を受け入れられるようになった。工藤医師は後に沖縄の結核について纏めた療友会の記念誌(※1972年発行)で、「本土の(他の療養)所長たちは“我、関せず”と冷然たる態度をとっていた」と、沖縄の結核患者を切り捨てる当時の風潮に苦衷を滲ませている。新型コロナウイルスでは昨冬、アメリカ軍基地でのクラスターに端を発したとみられる変異株『オミクロン株』感染が市中に広がった。日米地位協定の為、日本はアメリカ軍人に対して検疫や行動制限をできないことが背景にあり、与那原さんは「私の時代とはまた別の問題に直面している」と懸念する。半世紀を経てもなお、アメリカと日本との狭間で翻弄される状況は変わっていない。 (取材・文/大阪本社科学環境部 宮川佐知子)
2022年5月2日付掲載
いつの時代も感染症は人類の脅威になってきた。新型コロナウイルスの感染拡大で、2021年には緊急事態宣言の発令期間が4ヵ月を超えて全国最長となる等、厳しい状況が続いた沖縄。戦後間もなく日本の死因のトップで“亡国病”と言われた結核でも、アメリカ統治の下、本土とは異なる状況に苦しめられた。「自分がやらなくちゃ誰がやるのか。地域の公衆衛生は私が担う」。当時、看護学校を卒業したばかりで、沖縄独自の公衆衛生看護婦(※公看、後の保健師)として読谷村に駐在した与那原節子さん(95、那覇市、左画像)は、村の惨状を目の当たりにして意を決した。本土では1951年に制定された結核予防法により対策が進められたが、医師の多くが戦死し医療機関も壊滅状態だった沖縄では保健所が中心になって取り組んだ。1951年の赴任直後、結核への偏見は根強く、患者を見つけ出すのが最初の仕事に。自ら聞き込みをし、「咳をしている人がいる」等断片的な話を手がかりに家を訪ね歩いた。「近所の人に知られてしまう」と訪問を拒まれることもあった。アメリカ人指導者らから感染予防等の講習は受けたが、学んだ通りに実践はできなかった。「皆、簡素な小屋のような家で隔離なんてできない」。それでも着物を天井から垂らして仕切りを作り、夜は頭の向きを変えて寝るよう指導した。5年後の1956年、沖縄でも独自の予防法ができ、医療費が公費負担になる等、本格的な対策が始まった。しかし、病床は足りず、入院を待つ間に亡くなる患者もいた。与那原さんは、「折角患者を見つけ出しても、十分な治療ができず、もどかしかった」と振り返る。
当時の資料によると、1960年の沖縄では1万人超の患者に対し、入院できる病床は約600床。人口当たりの病床数は本土の4分の1しかなかった。「本土にある国立療養所のベッドには余裕がある。手助けをしたい」。兵庫県三田市にあった国立療養所『春霞園』(※現在の『兵庫中央病院』)が支援に名乗りを上げた。園長だった故・工藤敏夫医師が学会で病床不足に苦しむ沖縄の窮状を知り、1961年、『沖縄県人会』の前身となる『沖縄協会』兵庫県本部に患者の受け入れを打診した。計画は患者が兵庫県に移住し、県に生活保護を申請して療養に必要な費用を賄う――というもの。1961年4月、沖縄から結核患者11人が春霞園に入院したが、県から問い合わせを受けた厚生省(※当時)が「生活保護を適用するには疑義がある。自費入院として取り扱うよう」と“待った”をかけた。結核回復者有志らでつくる『沖縄療友会』等の記録によると、厚生省は理由として「他府県から来た場合は(生活保護費の負担を)移住前の府県に請求できるが、アメリカ占領下の沖縄には請求できない」という原則論を持ち出した。また、「アメリカが統治する沖縄の住民の問題について、日本だけでは判断できない」との事情を挙げた。結局、原則自費扱いとして検討され、他に入院する予定だった患者約40人は渡航が延期となった。これに対し、沖縄協会等は「人道上の問題として在日外国人の生活困窮者に保護を適用しているのに、日本人である沖縄の患者にできないのはおかしい」と抗議。粘り強い交渉の末、同12月、厚生省は入院中の患者への生活保護適用を認めた。更に、アメリカ側との協議も経て、日本政府の沖縄への医療援助の一環として、全国の国立療養所で沖縄の結核患者を受け入れられるようになった。工藤医師は後に沖縄の結核について纏めた療友会の記念誌(※1972年発行)で、「本土の(他の療養)所長たちは“我、関せず”と冷然たる態度をとっていた」と、沖縄の結核患者を切り捨てる当時の風潮に苦衷を滲ませている。新型コロナウイルスでは昨冬、アメリカ軍基地でのクラスターに端を発したとみられる変異株『オミクロン株』感染が市中に広がった。日米地位協定の為、日本はアメリカ軍人に対して検疫や行動制限をできないことが背景にあり、与那原さんは「私の時代とはまた別の問題に直面している」と懸念する。半世紀を経てもなお、アメリカと日本との狭間で翻弄される状況は変わっていない。 (取材・文/大阪本社科学環境部 宮川佐知子)
2022年5月2日付掲載
【沖縄復帰50年】第3部・自立の課題(下) “離島苦”脱却、模索続く
【沖縄復帰50年】第3部・自立の課題(中) 観光発展、暮らし一変
【沖縄復帰50年】第3部・自立の課題(上) 貧困、世代超え連鎖
【WEEKEND PLUS】(240) 三菱UFJが為替予測で大外れ…不安視されるリサーチ部門の能力
『三菱UFJフィナンシャルグループ(MUFG)』の為替予測が混乱を極めている。同社でリスクシナリオの策定に携わっているのは、経営会議の下に設置されている経営計画委員会。今年4月に3つのシナリオを用意した。それによれば、1ドルあたりの相場は短期に135円、中期で140円になることが想定された。また、確率は低いものの、“最悪のシナリオ”として1ドル180円になる想定も併記されていた。同社のリサーチ部門は、5月末日に発表した6月の見通しで、春以降の円安基調は6月で“一旦終了”するとみていた。実際には6月に入って短期シナリオの135円をもあっさり突破した。「役員も激怒して担当者を叱責した」(担当記者)という。担当部署はすぐさまシナリオの改定に動き、短期を1ドル140円に、長期を150円まで引き上げた。但し、「根拠のひとつは第二次オイルショック時のドル高推移のデータ」(同)というから、どこまで信憑性があるかは怪しい。
■無慈悲な1ドル132円!到来!「早く利上げしろ!」「1ドル150円もすぐだ!」「円相場は日本の価値!」と騒いでた立憲フレンズ、マスコミ、リベラルさんに現状を解説。
https://www.youtube.com/watch?v=v-6PBq27jNo
2022年7月号掲載