category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 後記 【風の巻】 後記 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!右、他流の兵法を九ヶ条として、風之巻に有増書附所、一々流々、口より奥に至迄、さだかに書顕すべき事なれども、わざと何流の何の大事とも名を書記さず。其故ハ、一流々々の見立、其道々の云分、人により心にまかせて、夫/\の存分有物なれバ、同じ流にも、少々心のかはるものなれバ、後々迄のために、何流の筋とも書のせず。他流の大躰、九つにいひ分、世の中の人のおこなふわざを見れバ、長きにかたつき、みじかきを利にし、強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、ミなへんなる道なれバ、他流の口奥とあらはさずとも、皆人のしるべき儀也。 我一流におゐて、太刀におくくちなし、搆に極りなし。只心をもつて、其徳をわきまゆる、是兵法の肝心也。●現代語訳●以上のように、他流派の兵法を 九か条に区分して、おらましを書いた。 ※振り返って 原文では ・他流に大きなる太刀を持事 ・他流につよみの太刀と云事 ・他流に短き太刀を用る事 ・他流に太刀数多き事 ・他流に太刀の搆を用る事 ・他流に目付と云事 ・他流に足つかひ有事 ・他流にはやき事を用る事 ・他流に奥表と云事本来、各流派の具体名や、内容を入門から奥義まで書くべきでもあるが、わざと何流のどの奥義とも、名を書き記さなかった。そのわけは、各流派なりの見方や理論は、人によりいろいろあるだろうし、同じ流派内でも、見解の相違もあるものである。だから、後々までのために、どの流派で、どの流れとも書かなかったのである。そこで九か条に分けたのである。一般常識で考えてみよう!長い太刀に拘り、短い太刀に拘り、強さに考えを拘り、細かき技ばかりに拘っても、偏った考え方であると理解できよう!わが二天一流は、太刀の近い方に奥だの入り口だのはない。極意の構えなんぞもない。ただひた向きに正しい精神によって兵法の道を身につけようとする ここが一番大切である。 各流派の理論も 本当はかなり意味があるものだ思う。 しかし武蔵は、他流派、(特に柳生新陰流かも)が、その実戦での実力よりも 理論や処世術で、天下の剣術指南役になっていることが、気に入らなかった。 と考えるのは、私の曲解だろうか? なぜならば、風の巻 後記も まるで学習塾の宣伝みたいです。 次回は、いよいよ 空の巻 です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! 2014/09/05(Fri)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて奥義とか 表とかのこと 【風の巻】 他流にて奥義とか 表とかのこと 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に奥表と云事。兵法の事におゐて、いづれを表と云、いづれを奥といはん。藝により、ことにふれて、極意秘傳など云て、奥口あれども、敵とうちあふ時の利におゐてハ、表にて戦、奥を以てきると云事にあらず。わが兵法のおしへ様ハ、始て道を学ぶ人にハ、其わざのなりよき所を、させならはせ、合点のはやくゆく利を、さきにおしへ、心のおよびがたき事をバ、其人の心のほどくる所を見わけて、次第/\に、深き所の利を、後におしゆるこゝろ也。されども、おほかたハ、こと*に對したる事などを、覚さするによつて、奥口といふ所なき事也。されバ、世の中に、山の奥をたづぬるに、猶奥へゆかんと思へバ、又、口へ出るもの也。何事の道におゐても、奥の出合ところも有、口を出してよき事も有。此戦の道におゐて、何をかかくし、いづれをか顕さん。然によつて、我道を傳ふるに、誓紙罸文などゝ云事をこのまず。此道を学ぶ人の智力をうかゞひ、直なる道をおしへ、兵法の五道六道のあしき所を捨させ、おのづから武士の法の實の道に入、うたがひなき心になす事、我兵法のおしへの道なり。能々鍛錬有べし。●現代語訳●兵法において、どれを「表」と云い、どれを「奥」と云うのか?芸によっては、「極意秘伝」などと云って、奥義だの 初歩だのよく云うが、合戦で、敵と打合うときに、「表」で戦い、「奥」で切るなんてことは、できるはずもない。わが兵法の教え方は、初めて兵法を学ぶ人には、その技の腕前(技量)に応じて、やりやすいところから習わせる。初心者が、早く理解できる兵法理論から先に教え、なかなか理解しにくい兵法理論は、その人の理解力の進捗に応じて、段階的に、教えるように心がけている。しかしながら、その殆どは、実際戦場で、体験したことを教えるのだから、「奥」だの「入口」だのと屁理屈をつけて区別はしないものである。考えてみよう!一般的に、山の「奥」を尋ねるのに、もっと「奥」へ行こうと思うと、また「入口」ヘ出てしまうことがあるものだ。どんな道においても、「奥」が役に立つ場合もあり、「初歩の心得」が役立つ場面もある。しかし実際の戦いにおける兵法理論について、、何を秘伝とし、何を公開するなんて区別はナンセンスである。したがって、わが流儀を教えるのに、誓約書のようなものは、必要としない。そんなことよりも、この兵法理論をわれわれの智力をもって、正しい真髄を教え、しだいに出てくる癖や欠点を修正させ、おのづから武士の道の道理を学ばせ、、疑いなき心にすることが、我が兵法の教えの道である。よくよく鍛練あるべし。 武蔵は痛烈に他流派を批判してます。 そして秘伝とか云う時点で、本物でないと! 更に わが二天一流は、親切丁寧に 技量に応じて教えますと・・・・・・ まるで学習塾の宣伝みたいです。 一方 剣道の神髄は、大先生に尋ねると 「和」とか 「柔」とか 「合気」とか 「家内平和」とか なかなか難しく 奥が深い ※「合気」はなんとなく想像できるけど他は想像もできない・・・・・ 次回は、風の巻 後記 です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! 2014/09/05(Fri)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて速さ重視のこと 【風の巻】 他流にて速さ重視のこと 速いことは武器だけど!五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流にはやき事を用る事。 兵法のはやきと云所、実の道にあらず。はやきといふ事ハ、物毎のひやうしの間にあはざるによつて、はやき遅きと云こゝろ也。其道上手になりてハ、はやく見ヘざるもの也。たとへバ、人にはや道と云て、一日に四十五十里行者も有。是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。道のふかんなるものハ、一日走様なれども、はかゆかざるもの也。 乱舞の道に、上手のうたふ謡に、下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、いそがしきもの也。又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。高砂ハ、きうなる位なれども、はやきといふ事、悪し。はやきハこける、と云て、間にあはず。勿論、おそきも悪し。これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、間のぬけざる所也。諸事しつけたるものゝする事ハ、いそがしくみヘざるもの也。此たとへをもつて、道の利をしるべし。殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。是も、其子細は、所によりて、沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、ちやくときれバ、少もきれざるもの也。能々分別すべし。大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。枕を押ゆると云心にてハ、すこしもおそき事ハなき事也。又、人のむざとはやき事などにハ、そむくと云て、静になり、人につかざる所、肝要也。此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。●現代語訳●他流派には、スピードを重視する傾向がるが、わが兵法では、スピード第一主義は、真実の道ではないと考える。早くみえるのは、何ごとでも、拍子の間が合わないから、そこから、早いと表現したり、遅いと表現するのである。その道の達人になると、その動きは、決して早く見えないものである。たとえば、人によっては、飛脚といって、一日に四十里五十里走る者もあるが、彼らも、朝から晩まで、早く走り続けているのではない。飛脚の未熟な者は、一日中走るようであっても、そうはなかなか行かないものである。能楽の道では、熟練者がうたう謡曲に初心者がうたうと、遅れる心配があって、せわしいものになる。同様に、静かな曲「老松」を打つとき、ゆっくりした曲であるのに、初心者の場合これも遅れ、焦ってしまうものである。逆に、「高砂」は、リズムが急な曲であるが、早ければ良いということではない。「早きは転ぶ」といって、拍子の間が合わない。もちろん遅いのもよくない。すべての達人のすることは、ゆっくり見えて、拍子の間が抜けないものである。何事も、手慣れた者のする事は、あわただしく見えないものである。この例をもって、めざす道の正しい道理を知るべきである。特に、兵法の道においては、単に早いということはよくない。そのわけは、場所によって、沼、湿原などでは、体も足も共に早く進めない。太刀は、なおさら、早く切ることはできない。早く切ろうとすれば、扇や小刀のようにはいかないから、小手先の技で素早くやっても、少しも切れないものである。よくよく分けて考えるべきである。大勢の合戦でも、徒に早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」というつもりで、少しも遅くないのである。また、相手が やたら急いでいり場合は、「背く」といって、逆にゆったりし、早い相手のペースに引き込まれない様にすることが大切である。このような心の工夫が、とても大切であり、研究、鍛練すべきこと。 でも野球も剣道もスピードは武器ですよね! 武蔵のことば、原文より 「人のむざとはやき事などにハ、そむくと云て、静になり、人につかざる所、肝要也」 相手のペースに乱さずに、自分のリズムで剣道や仕事もやりたいですね! 更に余談 拍子の間が合わないことが、「間抜け」の語源ですね! 次回は、風の巻 他流にて奥義とか 表とかのこと です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! 2014/09/04(Thu)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流に足使いのこと 【風の巻】 他流にて足使いのこと 戦場と道場の違い! 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に足つかひ有事。 足の踏様に、浮足、飛足、はぬる足、踏つむる足、からす足などいひて、いろ/\さつそくをふむ事有。是ミな、わが兵法より見てハ、不足に思ふ所也。浮足を嫌ふ事、其故ハ、戦になりてハ、かならず足のうきたがるものなれバ、いかにもたしかに踏道也。又、飛足をこのまざる事、飛足ハ、とぶにおこり有て、飛ていつく心有、いくとびも飛といふ利のなきによつて、飛足悪し。又、はぬる足、はぬるといふ心にて、はかのゆかぬもの也。踏つむる足ハ、待足とて、殊に嫌ふ事也。其外からす足、いろ/\のさつそくなど有。或ハ、沼ふけ、或ハ、山川、石原、細道にても、敵ときり合ものなれバ、所により、飛はぬる事もならず、さつそくのふまれざる所有もの也。我兵法におゐて、足に替る事なし。常に道をあゆむがごとし。敵のひやうしにしたがひ、いそぐ時ハ、静なるときの身のくらゐを得て、たらずあまらず、足のしどろになきやうに有べき也。大分の兵法にして、足をはこぶ事、肝要也。其故ハ、敵の心をしらず、むざとはやくかゝれバ、ひやうしちがひ、かちがたきもの也。又、足ふみ静にてハ、敵うろめき有て、くづるゝと云所を見つけずして、勝事をぬかして、はやく勝負付ざるもの也。うろめき崩るゝ場を見わけてハ、少も敵をくつろがせざるやうに勝事、肝要也。能々鍛錬有べし。●現代語訳●他流派には、足の踏み方に、浮き足、飛び足、跳ねる足、踏みつける足、からす足などと云って、いろいろ足さばきを踏むことがある。これはすべて、わが兵法から見れば、不適当なものだと思う。まず「浮き足」を嫌う理由は、実際の戦場では、必ず足の浮きたがるものだから、できるだけ確かに足を踏むことが大切である。また「飛び足」を好まないのは、飛び足には、飛ぶときに起りという隙が生じ、飛んで着地では、居付く隙が生じて、しまうものであり、何回も飛ぶという道理もないのだから、飛足はよくない。また「跳ねる足」は、跳ねるという気持ちがあっては、落ち着かないものである。また「踏みつめる足」は、「待つ足」といって、敵に先手を取られる訳であり、特に良くない。その他、「からす足」、いろいろな足使いがあるが、戦場は、沼、湿原、あるいは、山、川、石原、細道においても、敵と切り合うものであるから、場所によっては飛びはねることもできず、早い足さばきなどはできないものである。わが兵法では、足の踏み方については、特に変ったことはしない。普段の歩むがごとし。敵の拍子に応じて、急ぐ時でも、静かな時の身体の態勢に合わせて、足らず余らず、足がしどろもどろにならないようにすべきである。大勢の合戦にしても、足を運ぶことは大切である。敵の策略も知らず、むやみに早く攻撃にかかると、拍子がはずれて、勝てないものである。逆に、足踏みがのんびりしすぎていては、敵に動揺するところがあっても、崩れる拍子を見つられず、勝機を取り逃がしてしまいやすいものである。敵が、うろめき崩れるところを見極め判断し、敵に少しでも余裕を与えないようにして、勝つことが大切である。 やはり戦場と平時の道場剣道の差だと思う。 ひとつ云えることは、現代剣道でも 強い選手は、足さばきも 自然体で 軽やかであること。 決して跳ね回ってませんよね! もう見かけない老剣士が、昔は道場に大豆をまいて稽古したとか? 飛んだり、跳ねたり、なんてできませんよね 痛すぎです。 だからでは、ありませんが、最初の切返しは、木刀による基本技風に、一切飛ぶ込まず すり足で稽古してます。次回は、風の巻 他流にて速さ重視のこと です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! 2014/09/03(Wed)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流に目付のこと 【風の巻】 他流にて目付のこと めざすは心眼! 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に目付と云事。目付と云て、其流により、敵の太刀に、目を付るも有、又ハ手に目を付る流も有。或ハ顔に目を付、或ハ足などに目を付るも有。其ごとくに、とりわけて目をつけんとしてハ、まぎるゝ心有て、兵法の病と云物になる也。 其子細ハ、鞠をける人ハ、まりによく目をつけねども、びんずりをけ、おひまりをしながしても、けまわりても、ける事、物になるゝと云所あれバ、たしかに目に見るに及ばず。又、ほうかなどするものゝわざにも、其道に馴てハ、戸びらを鼻にたて、刀をいくこしもたまなどに取事、是皆、たしかに目付ハなけれども、不断手にふれぬれバ、おのづからミゆる所也。兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得てハ、太刀の遠近遅速も、皆見ゆる儀也。 兵法の目付ハ、大かた 其人の心に付たる眼也。大分の兵法に至ても、其敵の人数の位に付たる眼也。 観見二つの見様、観の目強くして、敵の心を見、其場の位を見、大に目を付て、其戦の景氣を見、そのをり節の強弱を見て、まさしく勝事を得事、専也。 大小の兵法におゐて、ちいさく目を付る事なし。前にも記すごとく、こまかにちいさく目を付るによつて、大きなる事をとりわすれ、目まよふ心出て、たしかなる勝をぬかすもの也。此利能々吟味して、鍛練有べき也。●現代語訳●敵と対峙するとき、目付けといって、その流派の考え方で、敵の太刀に目を付けるもの手に目を付けるもの顔に目をつけるもの足などに目を付けるものもある。そのように、どっか特定の部位に、目を付けようとしては、心に迷いが生じて、兵法の妨げになるものである。なぜなら、例えば、鞠を蹴る人は、鞠に目を付けてはいない。けれども、難しい曲芸を繰り出して巧みに鞠を蹴っている。これは、ものに慣れる(拍子や理論)ことにより、鞠そのものを見なくても、自由自在に蹴れるのである。また、曲芸などをする者の技にも、その道に慣れると、扉を鼻先に立て、刀を何本も手玉にとったりする。これはすべて、しっかり目を付けることはないけれども、ふだん手にしなれているので、自然と見えるのである。兵法の道においても、さまざまな敵と戦い慣れ、相手の気持ちが焦っているか 落ち着いているかを見極めて、平方の心得を実践できれば、相手の太刀の遠い近い、遅い速いも、自然と良く見えるものである。兵法の目付とは、ざっくり纏れば、相手の心理状態を読み取るための「心眼」と云えよう。大勢の合戦においても、「観」と「見」、二つの見方があるが、観の目を強くして敵の心理状態を見抜き、その場の状況を見て、大きく目を付けて、その戦いの景気(勢い)を見てその時々で変る敵味方の強弱の変化を見て、より確実に勝つことが重要である。大勢の合戦でも、一対一の戦いでも、小さく目を付けることはない。前にも書いたように、細かに小さく目を付けると、大きな大事なものを見落とし、更に迷う心が出てきて、たしかな勝ちを取り逃がすものである。この理屈をよくよく研究し、鍛練すべきである。 木を見て森を見ず は危ういですよと武蔵は云っている。 老剣士に「遠山の目付」と指導されたことに通じます。 でも現実的には、「目は口ほどに物を言う」ではないけれど、相手の目を見てしまいます。 (遠近両用のメガネだと見えませんが・・・・・) 「観の目付」は、まだまだ難しそうです。 仕事も同じですね⇒ビジネス書にも出てきそうですね次回は、風の巻 他流にて足使いのこと です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/09/01(Mon)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて太刀の構え 【風の巻】 他流にて太刀の構え 奇抜な構えありますよね! 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に太刀の搆を用る事。 太刀の搆を専にする事、ひがごと也。 世の中に搆のあらんハ、敵のなき時の事なるべし。其子細ハ、むかしよりの例、今の世のさた*などゝして、法例を立る事は、勝負の道にハ有べからず。其相手の悪敷様にたくむ事也。物毎に、搆と云事ハ、ゆるがぬ所を用る心也。或ハ城を搆、或ハ陳*を搆などハ、人にしかけられても、強くうごかぬ心、是常の儀也。兵法勝負の道ハ、人の搆をうごかせ、敵の心になき事をしかけ、或は敵をうろめかせ、或ハむかつかせ、又ハおびやかし、敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて、勝事なれバ、搆と云後手の心を嫌也。然故に、我道に有搆無搆と謂て、搆ハ有て搆ハなきと云所なり。大分の兵法にも、敵の人数の多少を覚へ、其戦場の所をうけ、我人数の位を知り、其徳を得て、人数をたて、戦をはじむる事、是合戦の専也。人に先をしかけられたる事と、我先をしかくる時ハ、一倍も替る心也。太刀を能かまへ、敵の太刀を能うけ、能はると覚るハ、鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ、敵を打ときは、又、さく木をぬきて、鑓長刀につかふ程の心也。能々吟味有べき也。●現代語訳●太刀の搆え方を、第一に重視する考えは、間違ったことである。世の中でいう構えとは、極論すれば、敵がいないときのことであるはず。なぜならば、昔からの慣例だとか。今のはやりなどと云って、決まった形をつくることは、勝負の道にはあってはならないことである。真剣勝負とは、その相手の具合の悪いように企むことが勝負の道である。そもそも「構え」とは、 どんなことでも動じない、確固たる姿勢を示すものである。または、城を搆る、陣を搆えるなどは、相手に攻撃を仕懸けられても、じっと動かないことを意味する。兵法勝負の道においては、何事も先手先手と仕掛けるように心掛けるものである。「搆え」るというのは、先手を待つということである。よくよく研究すべきである。わが兵法勝負の道では、相手の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕掛け、あるいは敵を狼狽させ、あるいはむかつかせ、またはおびやかしなどして、敵が混乱した拍子に付け込んで、勝つことであるから、「搆え」という後手の心を嫌うのである。それゆえに、我が二天一流の道では、「搆えはあって搆えはなし」と云うのである。大勢の合戦の場合でも、敵の人数の多い少ないを把握し、その戦場の状態を見極めて、我が兵力を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始すること、これが合戦の原理原則である。相手に先〔せん〕を仕掛けられた場面と、こちらが先を仕掛けた場面では、その優劣は、倍も違うのである。太刀をよく搆えて、敵の太刀をよく受け、よく張ろうと意識するのは、鑓・長刀でせめずに、守っているようなものである。敵を先制攻撃を仕掛ける時には、柵木を抜いて鑓・長刀に使おうとする程の勢いが必要である。よくよく研究すべきである。 まったくの余談ですが、相手が上段や、二刀流の場合 構えを解いて 相手に面を見せるように稽古してます。気位を練る為に 我慢比べです。 目的は、天と地ほど、異なりますが、私にとっての「構えあって構えなし」です。 「構えあって構えなし」は、武蔵の名言ですね! 次回は、風の巻 他流にて目付のこと です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/08/30(Sat)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて太刀の数多き 【風の巻】 他流にて太刀の数多き 見せかけの技? 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に太刀数多き事。 太刀かず数多にして、人に傳る事、道をうり物にしたてゝ、太刀数多くしりたると、初心のものに深くおもはせんためなるべし。是、兵法に嫌ふこゝろ也。其故ハ、人をきる事色々有と、思ふ所、まよふ心也。世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。しるものも、しらざるものも、女童子迄も、打、たゝき、切と云道ハ、多くなき所也。若、かはりてハ、つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし。先きる所の道なれバ、かずの多かるべき子細にあらず。されども、場により、ことに随ひ、上脇などのつまりたる所などにてハ、太刀のつかへざるやうに持道なれバ、五方とて、五つの数ハ有べきもの也。 夫より外に、とりつけて、手をねぢ、身をひねりて、飛、ひらき、人をきる事、實の道にあらず。火をきるに、ねぢてきられず、ひねりてきられず、飛てきられず、ひらいてきられず、かつて役に立ざる事也。 我兵法におゐてハ、身なりも心も直にして、敵をひずませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也。能々吟味有べし ●現代語訳●他流派にて 沢山の種類の太刀数(技)を 人に伝えているのは、兵法の技を見世物にして、この流派は、こんなに多くの技を知っていると、初心の者に深く思い込ませようと するためであろう。これは、兵法において嫌う心である。なぜならば、人を切る方法がいろいろあると思うこと そのものが、迷う心であるからだ。世の中において、人を切ることには、特別に変った方法はない。兵法を知る者も、知らない者も、女や子供までも、「打つ」、「叩く」、「切る」、が基本であり、そんなに種類はない。変った手段としては、「突く」「薙ぐ」というより外にはない。まず、まず敵を切る方法であるから、その方法が、そんなに多いはずがない。しかし、場所や事情によって、上側や脇側が、窮屈なところでは、太刀が使いにく場面では、「五方」といって、五つの方法はある。それより外に、無意味に技の数を増やして、「手をねじる」、「身をひねる」、「飛び開く」、などは、本物の兵法とはいえまい。わが兵法においては、姿勢も 心も 真直ぐにして、敵の心を歪ませゆがませて、敵の心のねじひねる ところの乗じてを勝つこと、それが大切である。 ※100本前後ある古流の形 実際の戦場では、役立たない。 戦場では、迷いは負け 死を意味する。 兵法に、いろいろあると思うと、そこに 心の 迷いが生じると武蔵は云いたいのだろう。 また古流の形の名前は 面白い 一刀流なら 「浮舟」 柳生新陰流なら「猿回し」とか そこも武蔵は知っていて、見世物だと表現しているのかもしれない 現代剣道(道場の剣道)で、心と技を 鍛錬しようとする場合、心は「五輪書」の精神で 技は、「古流の形」(小野派一刀流など)が 参考になるかもしれませんね! 次回は、風の巻 他流にて太刀の構え です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/08/29(Fri)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて短い太刀 【風の巻】 他流にて短い太刀 一長一短? 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流にミじかき太刀を用る事。みじかき太刀ばかりにてかたんと、思ところ、實の道にあらず。昔より太刀、刀と云て、長きとみじかきと云事を顕し置也。世の中に、強力なるものは、大なる太刀をもかろ/\と*振なれば、むりにみじかきをこのむ所にあらず。其故ハ、長きを用て、鑓、長刀をも持もの也。 短き太刀をもつて、人の振太刀のすき間を、きらん、飛入ん、つかまへん、などゝ思ふ心、かたつきて悪し。又、すき間をねらふ所、万事後手に見ヘて、もつるゝと云心有て、嫌事也。 若、みじかきものにて、敵へ入、くまん、とらんとする事、大敵の中にて役にたゝざる心也。ミじかきにて仕ひ得たるものハ、大勢をもきりはらはん、自由に飛、くるばん、と思ふとも、みなうけ太刀と云ものになりて、とり紛るゝ心有て、たしかなる道にて(は*)なき事也。同じくハ、我身は強く直にして、人を追まはし、人にとびはねさせ、人のうろめく様にしかけて、たしかに勝所を専とする道也。大分の兵法におゐても、其利有。同じくハ、人数かさをもつて、かたきを矢塲にしほし、則時に責つぶす心、兵法の専也。 世の中の人の、物をしならふ事、平生も、うけつ、かはいつ、ぬけつ、くゞつゝしならへバ、心、道にひかされて、人にまはさるゝ心有。 兵法の道、直に正しき所なれバ、正利*をもつて、人を追廻し、人をしたがゆる心、肝要也。能々吟味有べし。●現代語訳●他流派にて、短い太刀のみで、勝とうとする流派があるが、本当の兵法ではない。昔から、「太刀、刀」と区別して、長い・短いを区別した表現をしていない。世の中の技量の優れたものは、大きな太刀でも軽々と振るので、わざわざ短いのを好むところではない。なぜなら、長い太刀の利点を活用して、鑓や長刀を使えるからである。短い太刀をもって、相手の振る太刀の隙を狙って 切ろう、飛び込もう、つかもう、などと思う気持は、考えが偏っていてよくない。更に、相手の隙を狙おう 狙おう とした時点で、すでに後手にまわり、相手ともつれ合う状態になり、わが流派ではこれを嫌うものである。もし、短い太刀で、敵の懐に入身となり、組付こう、としても、それは、大勢の合戦では、通用しない。なぜならば、短い太刀ばかり修練したものが、大勢の敵に、切り払おう、自由に飛び回ろうとしても、それは、すべて、受太刀というものになって、守勢に回り、バタバタするだけである。そんなもの通用する兵法ではない。同じことなら、我が流派の様に、我が身は、強く真っ直ぐにして、敵を追い回し、相手を飛びはねさせ、動揺を誘うようにさせて、確実に勝つことが、大切である。大勢の合戦においても、考えは同じである。大勢の兵力で、不意に襲い、圧倒して、いっきに攻め潰す気持が、大切である。世の中の人が、兵法を学ぶ時に、いつも、受けたり、かわしたり、すり抜けたり、下に潜ったりするのが身についてしまうと、心がそのやり方に引きずられて、人にふり廻されることが多くなるものである。兵法の道とは、真っ直ぐ正しいものであるから、正しいわが兵法の理論を持って、相手を追い廻し、相手を従属させる気持が特に大切である。よくよく研究すべきである。 ※武蔵の考えは、道具にとらわれないことを、伝えたいものですが、 その背景には、後手に回らないように、朝礼暮改の精神が、あるのであろうと 感じる。 ポイントは、後手に回らいこと そのためには、あーしようと心を留めないこと 現代剣道でも、同じですよね次回は、風の巻 他流にて太刀の数多い です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/08/28(Thu)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて強みの太刀 【風の巻】 他流にて強みの太刀 力任せ? 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流におゐてつよミの太刀と云事。太刀に、強き太刀、よはき太刀と云事ハ、あるべからず。強き心にて振太刀ハ、悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし。又、強き太刀と云て、人を切時にして、むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也。ためし物などきる心にも、強くきらんとする事あしゝ。誰におゐても、かたきときりあふに、よはくきらん、つよくきらん、と思ものなし。たゞ人をきりころさんと思ときハ、強き心もあらず、勿論よはき心もあらず、敵のしぬる程とおもふ儀也。若ハ、強みの太刀にて、人の太刀強くはれバ、はりあまりて、かならずあしき心也。人の太刀に強くあたれバ、我太刀も、おれくだくる所也。然によつて、強ミの太刀などゝ云事、なき事也。大分の兵法にしても、強き人数をもち、合戦におゐて強くかたんと思ヘバ、敵も強き人数を持、戦強くせんと思ふ。夫ハ何も同じ事也。物毎に、勝と云事、道理なくしてハ、勝事あたはず。我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず、兵法の智力をもつて、いか様にも勝所を得る心也。能々工夫有べし。 ●現代語訳●太刀の使い方について、「強い太刀」「弱い太刀」ということは、あるべきではない。強い心で振る太刀は、よくないものである。荒いばかりでは、勝つことは難しいものである。「強い太刀」といって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすれば、切れないものである。また同様に、試し斬りにおいても、あまり強く切ろうとするのは、よくない。誰であろうと、敵と切り合う場合に、弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。ただ人を切り殺そうと思う時は、強く斬ろう とか 弱く斬ろうもなく、敵が死ぬほど斬ろう、と思うだけである。あるいは、強い太刀にて、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、態勢が崩れて、よくないのである。以上のとおりであるから、「強い太刀」、「弱い太刀」などとということは、存在しないものである。大勢の合戦においても、強い軍隊を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍隊をもち、強くしようと思う。それでは、どちらも同じことである。合戦に、勝つということは、正しい、道理なくしては勝つことはできない。わが二天一流では、少しも無理や無駄はせずに、兵法の道理に従って勝つべきである。よくよく研究すべきである。 ※武蔵の考えは、最後の一行に集約されていると思う。 無理・無駄な力の入れ方 や 無理・無駄な技の出し合い よく見かけますよね! 稽古のときは、まっすぐ面を捕らえているのに、試合や審査となると 余分な力が入り 結果 遅くなり さらに 斜めに部位を捕らえているケース 繰り出す技も同様ですよね! 武蔵は、他流の考えを批判してますが、現在剣道でも 普段から意図せず、 強みの太刀になってませんか 次回は、風の巻 他流にて短い太刀 です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/08/27(Wed)
category: 五輪書 風の巻 一緒に読もう「五輪書」 風の巻 他流にて大きな太刀 【風の巻】 他流にて大きな太刀 刀の長さ 五輪書を読み返すにあたり、原文は「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈原本現代訳」より引用させて戴き 現代語訳は「五輪書 大河内 昭爾 訳 教育者」より要点を抜粋し、つつ週末剣道愛好家視点で、読んでいきます。また青字は、本文ではなく、コメントや余談となりますが、ご参考になれば幸甚です。風の巻 一言で表現すれば、他流批判です。武蔵に他流の情報が、きっちり入っていたことをどのように考えるか、読み手しだいだと思います。批判をしながら、五輪書のポイントを説明しているものとして、ここは都合よく解釈して読んでいきます。●原文 ※読むというより イメージで流してくださいね!一 他流に大なる太刀をもつ事。他に大なる太刀をこのむ流あり。我兵法よりして、是を弱き流と見立る也。其故は、他の兵法、いかさまにも人に勝と云利 をバしらずして、太刀の長きを徳として、敵相とをき所よりかちたきとおもふに依て、長き太刀このむ心有べし。世の中に云、一寸手増りとて、兵法しらぬものゝ沙汰也。然に依て、兵法の利なくして、長きをもつて遠くかたんとする。夫ハ心のよはき故なるによつて、よはき兵法と見立る也。若、敵相ちかく、組合程の時ハ、太刀の長きほど、打事もきかず、太刀もとをりすくなく、太刀をににして、小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也。長き太刀このむ身にしてハ、其いひわけは有ものなれども、夫ハ其身ひとりの利也。世の中の實の道より見る時ハ、道理なき事也。長き太刀もたずして、みじかき太刀にてハ、かならずまくべき事か。或ハ其場により、上下脇などのつまりたる所、或ハ脇ざしばかりの座にても、太刀をこのむ心、兵法のうたがひとて、悪敷心也。人により、少力なる者も有、其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。昔より、大ハ小をかなゆるといヘば、むざと長きを嫌ふにはあらず。長きとかたよる心を嫌ふ儀也。大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、合戦ハなるまじきものか。小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し。我一流におゐて、さやうにかたつきせばき心、嫌事也。能々吟味有べし。●現代語訳●他流派では、大きな太刀を好む流派がある。わが兵法からすれば、これを弱者の流派と判断する。なぜならば、他流派の兵法は、何が何でも敵に勝つという 本来の兵法を理解できずに、単に太刀の長さに頼って、敵から遠いところから勝ちたいと思うから、長い太刀を好む気持があるのだろう。このことは、世間では、「一寸手まさり」(一寸でも長いほうが有利)といって、本当の兵法を知らぬ者の言葉である。したがって、本当の兵法の道理を知らないに、太刀の長さに頼って、安全な遠間から勝とうとする考えは、心が弱きものの、弱者の兵法だといえる。もし近間(敵との距離が近く)互いに組み合うほどの時は、太刀が長いほど、打ち込み難く、太刀を自由に振り回すことができずに、逆に弱点となり、脇差しを使うものにさえ、負けてしまうだろう。長い太刀を好む側の人には、、それなりの言い分は、あるものだろうが、それは、独りよがりの理屈にすぎない。真実の兵法からみれば、道理なきことである。考えてみよう! 長い太刀を持たずして、短かい太刀では、必ず負けるのであろうか?また、その場によっては上下や脇などにスペースがない場所、また、脇ざししかない場面(太刀をもてない状況)何が何でも、長い太刀を好む心は、兵法の迷いであり、悪しき心である。更に、人によっては力の弱い者もいて、その腕力では、十分に長い刀を、使いこなせない人もいるものである。昔から、「大は小を兼ねる」ということわざがあるから、長い太刀を、むやみに嫌うのではない。長い太刀に執着する偏る心を嫌うのである。大勢の合戦の場合は、長い太刀とは大人数のことであり、短い刀は、少人数のことである。小人数では、大人数に勝てないものだろうか?小人数で、大人数に打ち勝った例は、枚挙にいとまがない。わが二天一流では、その偏った心を嫌うのである。よくよく研究して、理解すべきである。 ※武蔵は、長い太刀=佐々木小次郎を云っているのだろうか? なんて考えてしまいますよね! 一方 竹刀の長さも 研究の余地がありそうです。 とある古流の道場に稽古を頂く機会があり、竹刀の長さに愕然としました。 34~35位なのです。 以後、私は、心を鍛える(気持ちを練る)時と子供相手の場合は、 むやみに39を使用せずに 36で稽古してます。 大先生方に36での稽古は、かなり鍛えられます。 先生の間合いで稽古するの ですから次回は、風の巻 他流にて強みの太刀 です。つづく・・・・・※ご意見やコメントを頂戴できれば、とてもうれしいです。宜しくお願いします! く 2014/08/26(Tue)