海見えて・・9 1991年 12月 20日 発行
「かずひと文庫」 倉持 日出男さまへ 1991年11月25日 えぞを記
和人君が亡くなられた時 北海道は緑が萌え始めていました。
そしていまは 窓外の山は雪一色です。
訃報(手紙)に接したとき 私どもの心は ほんとうに混乱しました。
それまで二人の「筋ジストロフィー症」のかたの 葬式に出ていましたが
二人とも幼い子でした。
和人君は24さいとのことです。 ですがその年齢のために心が混乱した
訳ではありません。 実のところ倉持さんの手紙の内容の
その苦悩の余りの激しさ 余りの深刻さに 私たちは絶句してしまいました。
正直に言って文章は途切れ途切れの綴り合わせのようで
すらすらではありませんでした。しかしその絶え絶えの文章の狭間から
和人君の父親の絶叫が聞こえました。
自分たちが選ぶことのかなわなかった 生きる権利 、さらに死ぬ権利
に対する怒り、悲嘆が 私たちの胸を貫きました。
和人君の事を考えました。ご家族の事を考えました。 ついで小樽に
来られお会いした日を思いました。 あれから何年過ぎたことでしょうか
私たちが のほほんと暮らしていた間 倉持さんご一家が表向きは
どうであれ 来る日も来る日も 奇跡を待ちながら 切実に生きて
来られたことを思えば 私たちは ただ申し訳なく思うほか有りません。
みなさんが 一生懸命地域活動を続けられている様子は 折々のお便りで
拝見しそのバイタリティに魅せられていました。
辛いこと 悲しいこと 切ないこと いろいろあった様ですが
それを乗り越えて 地域に「ふれあいの輪」を拡げていったー
それを支えて居たのが 和人君でしたね。
いまアルバム NO47(1980年7月4日写す)ニューグリンホテルで
出会った時の写真を見ています。
人々に愛され 家族に愛され みんなから沢山のものをもらい
沢山の物を与えてこの世を去った 彼の幸せな日々をあらためて
見ています。
今夏・夫婦で本州に出かける予定でした。 其の折り御霊前に
お詣りさせていただく予定でしたが 予定が延びて来年と思っています。
みなさまどうぞお体お大事にこの冬をお過ごし下さいますように
お願いいたします。 えぞを記
追記・・・遠音
小樽病院のプレイルームで ふきのとう文庫を昭和48年に
スタートさせましたが その関連で 多くの子どもの死と
向き合わねばなりませんでした。
何故こんな辛い場所へ行くのか?と・・・自問自答しながら・・
の時もありました。 いまは小樽病院が新築され閉鎖されました。
子どもの読書推進に一生懸命だった水口忠先生が
そのことが大変残念だという文章を寄せているのを見ました。
一方たんぽぽ文庫は家庭文庫から
地域文庫としてつづけられて、今年8月開設49年になります。
子どもと読書の歴史をひもどくとき この二つの文庫を
開設スタートさせた日のことを懐かしく思い出します。