ウイルス学というよりは毒物学。ロックフェラー研究所とポリオ犯罪詐欺
<記事原文 寺島先生推薦>
Toxicology vs Virology: The Rockefeller Institute and the Criminal Polio Fraud
筆者:F. ウィリアム・エングダール(F. William Engdahl)
出典:Global Research 2024年9月5日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年9月12日

2019年に公に現れた、新型SARSコロナウイルスとされたウイルスの成果の1つは、ウイルス学という医学の専門分野が報道機関でほとんど神のような地位にまで高められたことだ。しかし、ウイルス学の起源と、それが今日の医療現場で主導的な役割にまで昇格したことを理解している人はほとんどいない。このことを理解するには、米国初の医学研究機関であるロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の起源と政治、そしてその研究所がポリオ・ウイルスであると主張したウイルスに関する研究に目を向ける必要がある。
1907年、ニューヨーク市である病気が大流行し、ロックフェラー研究所所長のサイモン・フレクスナー医学博士は、彼が独断でポリオと呼んだ病気によって引き起こされる目に見えない「ウイルス」を発見した、と主張する絶好の機会を得た。ポリオという言葉は、単に脊髄の灰白質の炎症を意味する。その年、麻痺や死亡を含む何らかのポリオに罹患したニューヨーク市民は 2500人ほどで、そのほとんどは子どもだった。
フレクスナー所長による詐欺
20世紀前半の米国におけるポリオ騒動全体の中で最も衝撃的な点は、この事業のあらゆる重要な段階が、後にロックフェラー医療陰謀団となった組織と結びついた人々によって支配されていた、という事実である。この詐欺は、ロックフェラー研究所所長サイモン・フレクスナーによる、彼と彼の同僚ポール・A・ルイスが、目には見えず、細菌よりも小さい病原体を「分離」し、それが米国で発生した一連の麻痺性疾患の原因である、と主張したことから始まった。彼らはどのようにしてこの考えに至ったのだろうか。
1909年に米国医師会雑誌に発表された論文で、フレクスナーは、自身とルイスがポリオの原因ウイルスを分離した、と主張した。フレクスナー は、ポリオを数匹のサルにサルからサルへと「感染」させることに成功した、と報告した。両名は、おそらくウイルスが原因で死亡したと思われる少年の病気の脊髄組織をサルの脳に注入することから始めた。サルが病気になった後、その病気の脊髄組織の懸濁液を、同じく病気になった他のサルの脳に注入した。
二人は、ロックフェラー研究所の医師たちが、この謎の病気の原因がポリオ・ウイルスであることを証明した、と主張した。しかし実際のところ、医師たちはそのようなことは何もしていなかった。フレクスナーとルイスは、次のことを認めることさえしていた。
「我々は、フィルム標本でも培養物でも、この病気の原因となり得る細菌を全く発見できなかった。また、我々がサルを用いてウイルスを増殖させた長期にわたる一連の研究において、病変部に以前の研究者らが述べた球菌が見られた動物は1匹もいなかったし、我々が研究したヒトの標本からはそのような細菌を得ることができなかったため、それらは検討対象から除外できる、と感じた」と。
そこで二人がおこなったのは、奇妙な仮説、つまり思い込みであり、科学的な主張ではなかった。二人は、ウイルスの外因性因子という仮説を、何の証拠もなく事実にしたのだ。二人は次のように主張した。「したがって、流行性ポリオの感染因子は、これまで顕微鏡下で確実に証明されたことのない、微小で濾過可能なウイルスの分類に属します」と。ということは?
サイモン・フレクスナーは、他の説明がつかなかったため、サルを殺したのは「ポリオ・ウイルスに違いない」と主張したにすぎなかった。実際、フレクスナーはこの病気の別の原因を探さなかった。これは科学的な隔離ではなく、荒唐無稽な推測だった。いわく「…これまで顕微鏡で確実に証明されたことはない」と。二人は、1909年12月18日付けのJAMA誌の「流行性ポリオ・ウイルスの性質」と題する続編でこの事実を認めていた。
二人がサルに注入していたいわゆる「ウイルス」は、純粋なものとは程遠いものだった。また、不確定な量の汚染物質も含まれていた。「脊髄や脳、排泄物のピューレ、さらにはハエまでもが粉砕され、麻痺を誘発するためにサルに注入された」のだ。ジョナス・ソークが1955年4月に米国政府からポリオ・ワクチンの承認を得るまで、ポリオ、または一般に小児麻痺と呼ばれていたものを引き起こすウイルスの存在は科学的に証明されていなかった。それは今日まで変わらない。医学界はみな、それが「ウイルスに違いない」というフレクスナーの言葉を鵜呑みにしてきた。
ロックフェラー研究所とフレクスナーと米国医師会
ロックフェラー研究所は、1901年にジョン・D・ロックフェラーのスタンダード・オイル社の財産から、米国初の生物医学研究所として設立された。この研究所は、フランスのパスツール研究所 (1888年) やドイツのロベルト・コッホ研究所 (1891年) を手本にしている。初代所長のサイモン・フレクスナーは、米国で承認された医療行為の発展において極めて重要かつ最も犯罪的な役割を果たした。ロックフェラーの目標は、米国の医療行為を完全に支配し、少なくとも当初は、ロックフェラーの利益によって承認された医薬品を促進するための手段に変えることにあった。その頃までに、これらの組織は石油でおこなったように、石油精製から生産される医薬品を独占しようとしていた。

サイモン・フレクスナー
ロックフェラー研究所所長サイモン・フレクスナーが、結論は出ていないものの高く評価されているポリオに関する研究を発表していたとき、サイモンは医学の経歴を持たない学校教師である弟のエイブラハム・フレクスナーに、米国医師会(AMA)とロックフェラー総合教育委員会、そしてロックフェラーの親友アンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー財団による共同研究を主導するよう手配した。
1910年の調査は「フレクスナー報告書」と題され、その表向きの目的は米国のすべての医学部の質を調査することだった。しかし、報告書の結果は事前に決まっていた。資金力のあるロックフェラー研究所と AMA(米国医師会)の関係は、腐敗したAMAの長、ジョージ H. シモンズを通じて築かれた。
シモンズは米国全土の医師約8万人に配布される影響力の大きい雑誌「米国医師会雑誌」の編集者でもあった。この雑誌は、医師会に対して絶対的な権力を握っていたと伝えられている。シモンズは、自身の雑誌で AMA の医師に自社の薬を宣伝するための製薬会社の広告収入の増加を管理していた。これは非常に儲かる事業だった。シモンズは、容認できる医療行為を治療的または予防的治療から、しばしば致死的な薬や高額な手術の使用へと完全に再定義するという、ロックフェラーの医療におけるクーデターの主要構成員だった。AMAの代表としてシモンズは、当時認められていたカイロプラクティックやオステオパシー、ホメオパシー、自然療法を含む医学校の急増との競争が AMA の医師の収入を減少させていることを認識していた。医学校の数は 1880 年の約90校から1903年には 150 校以上に増加していた。
元私立校長のエイブラハム・フレクスナーは、1909年に米国のさまざまな医学校を視察し、165校ある医学校の半分を「標準以下」として閉鎖するよう勧告した。この措置により、病気を治療する他の治療法との競争が減った。エイブラハムらは、当時広く普及していた自然療法医学校やカイロプラクティック医学校、整骨医学校、およびAMA体制に加わることを望まない独立した対症療法医学校を容赦なく標的にした。
その後、ロックフェラーの資金は、教授陣がロックフェラー研究所の審査を受け、教育課程が治療として薬と手術に重点を置き、予防や栄養学、毒物学が原因や解決策として考慮されないという条件付きで、選ばれた学校に渡された。学校は、1つの細菌に対して1つの病気、という還元主義を主張するパスツールの細菌説を受け入れなければならなかった。ロックフェラーが支配する報道機関は、あらゆる代替医療やハーブ療法、天然ビタミン、カイロプラクティックなど、ロックフェラーの特許医薬品によって管理されていないものすべてに対して組織的な魔女狩りを開始した。
1919年までに、ロックフェラー一般教育委員会とロックフェラー財団は、ジョンズ・ホプキンス大学やエール大学、ワシントン大学セントルイスの医学部に500万ドル以上を支払っていた。1919年にジョン D. ロックフェラーは、「米国の医学教育の発展のため」にさらに2000 万ドルの証券を寄付した。これは今日の約3億4000万ドルに相当する巨額である。つまり、ロックフェラーの金権は1920 年代までに米国の医学教育と医学研究を乗っ取っていた、ということだ。
ウイルス学の創造
最も影響力のある医師団体である米国医師会とその腐敗した長、シモンズに支えられたこの医療業界の乗っ取りにより、サイモン・フレクスナーはまさにロックフェラーの決まりの下で現代のウイルス学を創造することができた。非常に物議を醸した人物であるトーマス・ミルトン・リバーズは、ロックフェラー研究所のウイルス学研究所所長として、1920年代に細菌学とは別の独立した分野としてウイルス学を確立した。リバースらは、目に見えない細菌や「ウイルス」が致命的な病原体である、と主張できれば、はるかに簡単に操作できることに気づいた。皮肉なことに、ウイルスの語源はラテン語で「毒」を意味する言葉から来ている。
還元主義的な医療詐欺であるウイルス学は、ロックフェラーの医療陰謀団が作り出したものだ。この極めて重要な事実は、今日の医学史の中に埋もれている。天然痘や麻疹、ポリオなどの病気は、特定のウイルスと呼ばれる目に見えない病原体によって引き起こされる、と宣言された。科学者がその目に見えないウイルスを「分離」できれば、理論的には人々を危害から守るワクチンを見つけられる。それが彼らの理論だった。これは、当時、痔のプレパレーションHや鎮痛剤のアドビルなど、効果の証明がない薬を偽って宣伝していたアメリカン・ホーム・プロダクツ社、第一次世界大戦後にドイツのバイエルAGからアスピリンを含む米国の資産を買収したスターリング・ドラッグ社、ウィンスロップ・ケミカル社、アメリカン・シアナミッド社とその子会社レダール・ラボラトリーズ社、スクイブ社、モンサント社などを含む製薬会社のロックフェラー・カルテルにとって大きな恩恵となった。
やがてロックフェラー研究所のウイルス研究者たちは、ポリオ・ウイルスの発見に加え、天然痘やおたふく風邪、麻疹、黄熱病を引き起こすウイルスを発見した、と主張した。その後、これらの研究者らは肺炎と黄熱病の予防ワクチンの「発見」を発表した。しかし、研究所が発表したこれらの「発見」はすべて虚偽であることが判明した。ウイルス学という新しい分野の研究を統制したロックフェラー研究所は、AMAのシモンズおよび同様に腐敗した後継者であるモリス・フィッシュバインと共謀して、米国のすべての会員医師に配布される影響力のあるAMA誌で、特許取得済みの新しいワクチンや薬物「治療薬」を宣伝することができた。AMA誌への広告費の支払いを拒否した製薬会社は、AMAによって締め出された。
ポリオ研究の管理

ヨーク アベニューにあるロックフェラー大学の正門 (CC BY-SA 4.0 ライセンス)
サイモン・フレクスナーと非常に影響力のあるロックフェラー研究所は、1911年に、ポリオと呼ばれていた症状を「空気感染ウイルスによって引き起こされる伝染性の感染症」として米国公衆衛生法に組み入れることに成功した。しかし、彼らでさえ、この病気が人間の体内に入る仕組みを証明していないことを認めていた。ある経験豊富な医師が 1911年に医学雑誌で指摘したように、「感染の可能性のある方法に関する現在の知識は、ほぼすべてこの街のロックフェラー研究所でおこなわれた研究に基づいて」いたのだった。 1951年、ロックフェラー家がポリオの伝染について急いで判断を下したことに対する批判者ラルフ・スコビー博士は、「これはもちろん、臨床調査ではなく動物実験に頼ることになった…」と指摘した。スコビー博士はまた、ポリオが伝染性であるという証拠がないことを指摘し、「…この病気にかかった子どもたちは一般病棟に収容されたが、その病院の病棟の他の入院患者でこの病気にかかった人は一人もいなかった」と述べた。当時の一般的な態度は、1911年に次のように要約されている。「絶対的な証拠がないにもかかわらず、この病気を伝染性の観点から見ることで、業界の最大の利益が守られる、と思われる」(原文ママ)。
ポリオの症状を、目に見えない、いわゆる外因性または外部ウイルスによって引き起こされる、非常に伝染性の高い病気として分類することで、ロックフェラー研究所と米国医師会は、化学農薬やその他の毒素への曝露など、主に非常に幼い子どもたちに起こる季節的な病気や麻痺、さらには死亡の原因を説明する代替説明を求める真剣な研究を阻止することができた。この動きにより、現在まで続く致命的な結果をもたらすことになる。
DDTの登場
1952年に食品中の化学物質の危険性を調査した米国下院への声明で、ラルフ・R・スコビー医学博士は次のように述べた。
「ほぼ半世紀にわたり、ポリオの調査は、人体に入り込んで病気を引き起こすとされる外因性ウイルスに向けられてきました。現在の公衆衛生法の規定では、この種の調査のみが義務付けられています。いっぽう、いわゆるポリオ・ウイルスが人体にまったく入り込まず、単に食中毒などの外因性要因から生じる土着の化学物質であるかどうかを判断するための徹底的な研究はおこなわれていません」と。
膨大な証拠があるにもかかわらず、原因としての毒素は調査されなかった。
1930年代の経済不況とその後の戦争の間、ポリオの新たな大規模な流行はほとんど見られなかった。しかし、第二次世界大戦の終戦直後、ポリオの騒動は爆発的に拡大した。1945 年以降、毎年夏になると米国全土でますます多くの子どもたちがポリオと診断され、入院した。しかし実際に血液検査や尿検査を受けたのは、症例の1%未満だった。残りの約 99% は、四肢の激しい痛みや発熱、胃のむかつき、下痢などの症状があるだけでポリオと診断された。
1938年、ポリオ被害者と推定されるフランクリン・D・ルーズベルトの支援を受けて、ポリオ研究資金を調達するための非課税寄付を募る全米小児麻痺財団(マーチ・オブ・ダイムズ)が設立された。ドイツ人の医師で研究者のヘンリー・クム博士は米国に渡り、1928年にロックフェラー研究所に加わり、1951年に全米財団のポリオ研究部長に就任するまでそこに留まった。クムは、もう一人のロックフェラー研究所の重要なベテランで、いわゆる「ウイルス学の父」であるトーマス・M・リバーズと全米財団で一緒に働き、リバーズは財団のワクチン研究諮問委員会の委員長を務め、ジョナス・ソークの研究を監督した。ロックフェラー研究所のこの2人の重要人物は、ワクチン開発を含むポリオ研究の資金を管理していた。
第二次世界大戦中、ヘンリー・クムはロックフェラー研究所に在籍中、米陸軍の顧問としてイタリアでの現地調査を監督した。クムはそこで、ローマとナポリ近郊の沼地におけるチフスやマラリア蚊に対するDDTの使用に関する現地調査を指揮した。DDT は 1940年にスイスの製薬会社ガイギーとその米国支社によって殺虫剤として特許を取得しており、1943 年にアメリカ陸軍兵士に対して初めてアタマジラミや蚊、その他多くの昆虫に対する一般的な消毒剤としての使用が認可された。戦争が終わるまで、米国における DDT の生産のほぼすべてが軍に提供された。1945 年、この化学会社は新しい市場を熱心に探し、それを発見した。

Beyond Pesticidesより
1944 年初頭、米国の新聞各紙は、歴史上あらゆる大戦の後に続いた恐ろしい疫病であるチフスが、軍の新しい「シラミ駆除」粉末であるDDTのおかげで、もはや米軍とその同盟諸国にとって脅威ではなくなった、と勝ち誇って報道した。ナポリでの実験では、米兵が 100万人以上のイタリア人に灯油で溶かしたDDTを散布し、チフスを広めるコロモジラミを殺した。
ロックフェラー研究所のヘンリー・クムと米軍は、ある研究者が述べたように、「DDT は毒物だが、戦争では十分安全だ。DDTで傷ついた人は、戦闘の犠牲者として認められるだろう」ということを知っていた。米国政府は、1944年に科学研究開発局が発行した、人間と動物に対するDDTの蓄積的な毒性効果について警告した殺虫剤に関する報告書を「制限」した。モリス・ビスキンド博士は1949年の記事で、「DDT は蓄積性の毒物であるため、米国民が大規模に中毒になるのは避けられない」と指摘していた。1944 年、国立衛生研究所のスミスとストールマンは、DDT の蓄積毒性に関する広範な研究をおこなった後、「DDTの毒性とその蓄積作用および皮膚からの吸収性により、DDT の使用は明らかに健康に危険を及ぼす」と指摘した。しかし、二人からの警告は上層部によって無視された。
その代わりに、1945年以降、米国全土でDDTは奇跡的な新しい「安全な」殺虫剤として宣伝された。ちょうどその30年後のモンサント社のグリホサート入りラウンドアップと同じ様な感じだったのだ。DDT は人体に無害だと言われていた。しかし、政府内でその主張を真剣に科学的に検証する人は誰もいなかった。1 年後の1945年に戦争が終わると、米国の新聞は新しい DDT を「魔法の」物質、「奇跡」として称賛した。タイム誌はDDTを「第二次世界大戦の偉大な科学的発見のひとつ」と報じた。
未検証の副作用や、食物連鎖の中で容易に蓄積する持続性のある有毒化学物質であるという警告が散発的にあったにもかかわらず、米国政府は1945年にDDTの一般使用を承認した。ロックフェラーとAMA(米国医師会)、製薬業界が支配する食品医薬品局 (FDA) は、誰も証明していなかったにもかかわらず、食品中のDDT含有量が 7ppm までであれば「安全」である、と定めた。DDT 化学会社は、写真や逸話をマスコミに流した。新聞は、新しい奇跡の化学物質であるDDTが、マラリア媒介と考えられている南部の蚊に対して米国で治験されている様子や、「アリゾナのブドウ園やウェスト・バージニアの果樹園、オレゴンのジャガイモ畑、イリノイのトウモロコシ畑、アイオワの酪農場」を保護する効果について熱心に報道した。1940年代後半、DDTは米国のいたるところに存在していた。
米国政府は、DDTは戦前に使用されていたヒ素や他の殺虫剤とは異なり、乳児を含めた人間に無害であり、自由に使用できる、と主張した。1945年初頭、シカゴなどの都市では公共のビーチや公園、プールにDDTが散布された。主婦たちは家庭用のエアゾールスプレーDDT噴射器を購入し、台所、特に子ども部屋、さらにはマットレスにまで散布した。農家は作物や家畜、特に乳牛にDDTを散布するよう指示された。戦後の米国では、アメリカン・ホーム・プロダクツ社のブラック・フラッグ・エアゾールDDTスプレーやモンサント社など、ロックフェラー系の製薬会社がとりわけDDTの推進に努めた。1945年から1952年にかけて、米国のDDT生産量は10倍に増加した。
1945年以降、ポリオの疑いのある症例がまさに米国全土で爆発的に増加したため、証拠もないまま、ポリオという身体に障害をもたらす病気は、DDTのような有毒な殺虫剤ではなく、蚊やハエによって人間、特に幼児に伝染するという説が唱えられた。その説は、DDTは身体に障害をもたらすポリオから家族を安全に守ることができるというメッセージを伝えるものだった。公式に記録されたポリオ症例は、米国でDDTが民間で使用される前の1943年の約2万5千件から、最高潮時の 1952年には 28万件を超え、10倍以上に増加した。
1945年10月、前述のようにロックフェラー研究所のヘンリー・クムの監督下で米軍が使用していたDDT が、米国政府によって蚊やハエに対する殺虫剤としての一般使用が認可された。DDT が人間や動物に有毒な影響を及ぼすと警告する反対派の科学者は沈黙させられた。家族には、DDT が恐ろしい昆虫を殺すことで子どもたちを恐ろしいポリオから救うことができる、と伝えられた。
米国農務省は、蚊やハエを駆除するために、農家に乳牛をDDT溶液で洗うよう勧告した。トウモロコシ畑や果樹園には、DDTが空中散布された。しかし、DDT は極めて持続性が高く、植物や野菜に対する毒性は洗い流すことができないほどだった。1945年から1952年にかけて、米国全土で散布されるDDTの量は年々増加した。注目すべきことに、ポリオの症例数も増加していた。
最悪のポリオ流行
1950年代初頭までに、米国議会や農家の間では、DDTだけでなく、さらに毒性の強いBHC(ベンゼンヘキサクロライド)など、大量の農薬使用の危険性に対する関心が高まった。1951年、DDT中毒の患者数百人を治療した医師モートン・ビスキンドは、麻痺性ポリオと毒素、特にDDTとBHCとの関連の可能性について米国下院で証言した。彼は次のように述べた。
「殺虫剤DDT(クロロフェノタン)と、それに続く一連のさらに致死的な物質が一般大衆に無制限に一般使用されるようになったことは、歴史上前例のないことです。疑いの余地なく、人類が知る物質の中でこれほど急速に開発され、これほど短期間にこれほど広い範囲に無差別に広がった物質は他にありません。DDTが一般大衆向けに発売された当時、この物質が多くの異なる動物種に極めて有毒であり、体脂肪に蓄積され、ミルクに現れることを示す大量のデータがすでに医学文献に掲載されていたことを考えると、これはさらに驚くべきことです。当時、DDTによる人間の中毒例もいくつか報告されていました。これらの観察はほぼ完全に無視されるか、誤解されていました」と。
ビスキンドは1950年後半に議会でさらに証言した。
「昨年の初め、私はDDT中毒に関する一連の観察論文を発表しました。先の戦争の直後から、全国の医師が一連の症状が現れる症例を多数観察していましたが、その最も顕著な特徴は、胃腸炎、持続的に再発する神経症状、極度の筋力低下でした...」
彼は、DDT や関連毒素への曝露がなくなると麻痺などの重篤な症状が消失した患者の症例をいくつか挙げた。
「昨年初めに報告した200件以上の事例に関する私の最初の経験は、その後かなり拡大しました。その後の観察により、DDTが、他の方法では説明できない多くの人間の障害の原因であるという見解が裏付けられただけでなく…」
また、ポリオの症例は、昆虫に対するDDT散布が最大となる夏季に常に最も多く発生していた、という事実も指摘された。
ロックフェラー研究所の工作員と米国医師会は、米国政府内の工作員を通じて、1946年から1952年にかけて米国でポリオと呼ばれる健康上の緊急事態を作り出した。彼らは、恐れられている病気を広めるとされた架空の昆虫を駆除する安全な方法として、毒性の高いDDTを故意に宣伝することで、この事態を引き起こしたのだ。彼らの喧伝工作により、DDTがポリオの蔓延を阻止する鍵である、と米国民を確信させた。
ポリオが突然減少
ロックフェラー研究所の二人の医師、ヘンリー・クムとトーマス・リバーズの指導の下、全米小児麻痺財団(NFIP)はビスキンドやスコビーのような批判者を退けた。小児麻痺にビタミンCの静脈注射などを用いる自然療法は「いんちき療法」として即座に退けられた。1953 年4月、ロックフェラー研究所の DDT コンサルタントのヘンリー・クム博士が NFIP のポリオ研究部長に就任した。同博士はジョナス・ソークのポリオワクチン研究に資金を提供した。
ノースカロライナ州の勇敢な医師、フレッド・R・クレナー博士は化学と生理学も学んでいたが、患者は毒素中毒の被害者であり、ビタミンCは強力な解毒剤であるという仮説に基づいて、大量のアスコルビン酸(ビタミンC)を静脈注射するという考えを思いついた。これは、ライナス・ポーリング博士がビタミンCに関する研究でノーベル賞を受賞するよりずっと前のことだった。クレナー博士は、 1949年から1951年にかけての夏の流行で、200人以上の患者において数日以内に驚くべき効果をもたらした。ロックフェラー研究所と米国医師会は、治療の見通しには関心がなかった。彼らとロックフェラーが支配する全米小児麻痺財団は、ポリオは環境毒の結果ではなく伝染性ウイルスであるという証明されていないフレクスナーの主張に基づいて、ポリオワクチンの開発に資金を提供していただけだった。
その後、1951年から1952年にかけてポリオの症例が史上最高に達した頃、予想外の現象が起こり始めた。米国でポリオと診断される症例数が減少し始めたのだ。ポリオの犠牲者の減少は、国立財団とジョナス・ソークのポリオワクチンが一般の使用に承認され、広く普及するずっと前の1955年まで、年々劇的に減少した。
ポリオ症例が急激に減少する約1年前、DDTの深刻な影響に苦しんでいた乳牛を飼育する農家に対し、米国農務省は DDTの使用を減らすよう勧告していた。1951年に米国上院でDDTとポリオに関する公聴会が開催されたことなど、DDTが人間にとってどれほど安全であるかに関する国民の懸念が高まったため、DDT が米国で正式に禁止されたのは 1972 年になってからだったが、1955 年にかけてDDTへの曝露は大幅に減少した。
1952年から1956年にかけて、いわゆる「ポリオ」の症例は3分の2ほど減少したが、これはDDTの使用減少と驚くほど相関している。その減少からかなり後の1955年後半から1956年にかけて、ロックフェラーが開発したソークポリオ・ワクチンが初めて大規模に接種された。ソークとAMA(米国医師会)は、このワクチンの功績をすべて認めた。ソーク・ワクチンによる死亡や麻痺は隠蔽された。政府はポリオの定義を変更し、公式症例をさらに減らした。同時に、急性弛緩性麻痺や慢性疲労症候群、脳炎、髄膜炎、ギランバレー症候群、筋硬化症など、ポリオに似た脊髄神経疾患の症例が著しく増加した。
なにが問題なのか
1世紀以上前、世界一の富豪で石油王のジョン・D・ロックフェラーと彼の顧問団は、米国および世界のその他の地域で医療がどのように実践されていたかを全面的に再編しようとした。ロックフェラー研究所とサイモン・フレクスナーのような人物の役割は、目に見えない伝染性の外来細菌であるポリオ・ウイルスが若者に急性麻痺や死を引き起こすという主張をめぐる巨大な医療詐欺の発明をまさに監督した。彼らは、DDTやヒ素系農薬、さらには汚染されたワクチン中毒による毒素中毒とこの病気を関連づけるあらゆる取組を政治的に禁止した。彼らの犯罪工作には、AMA の指導部との密接な協力、新興の製薬業界および医学教育の支配が含まれていた。1930年代のドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所や米国優生学会でのナチスの優生学に資金を提供したのも、このロックフェラー・グループだった。1970年代、彼らはロックフェラー家の化学農薬会社団(モンサント、デュポン、ダウ)によって開発された特許取得済みの遺伝子組み換え種子の作成に資金を提供した。
現在、公衆衛生と医療産業複合体に対するこの統制は、デビッド・ロックフェラーの弟子で優生学の提唱者、ビル・ゲイツによっておこなわれており、ゲイツはWHOと世界のワクチンの独裁者を自任している。NIAID(米国立アレルギー・感染症研究所)のトニー・ファウチ所長は、証拠もなくワクチン接種を義務化している。第二次世界大戦後のポリオ・ウイルスの醜聞の背後にある詐欺は、今日ではコンピューターモデルやその他の策略を利用して洗練され、COVID19からサル痘、HIVまで、次々と致命的なウイルスとされるものを作り上げている。ポリオと同様に、これらのウイルスはどれも科学的に分離され、主張されている病気を引き起こすことは証明されていない。ひとつとして。
同じく非課税のロックフェラー財団が今日、慈善団体を装い、COVID19の背後にある世界的な医療暴政と世界経済フォーラムのグレート・リセットの優生学工作の中心となっている。
これらの組織によるポリオ・ウイルスを使った手口は、この暗黒世界的な医療専制政治を生み出すのに役立った。その上で私たちは「科学を信じなさい」と言われているのである。
*
F. ウィリアム・エングダールは戦略危機相談家兼講師であり、プリンストン大学で政治学の学位を取得しており、石油と地政学に関する著書でよく読まれている作家でもある。
グローバリゼーション研究センター (CRG) の研究員。
Toxicology vs Virology: The Rockefeller Institute and the Criminal Polio Fraud
筆者:F. ウィリアム・エングダール(F. William Engdahl)
出典:Global Research 2024年9月5日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年9月12日

2019年に公に現れた、新型SARSコロナウイルスとされたウイルスの成果の1つは、ウイルス学という医学の専門分野が報道機関でほとんど神のような地位にまで高められたことだ。しかし、ウイルス学の起源と、それが今日の医療現場で主導的な役割にまで昇格したことを理解している人はほとんどいない。このことを理解するには、米国初の医学研究機関であるロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)の起源と政治、そしてその研究所がポリオ・ウイルスであると主張したウイルスに関する研究に目を向ける必要がある。
1907年、ニューヨーク市である病気が大流行し、ロックフェラー研究所所長のサイモン・フレクスナー医学博士は、彼が独断でポリオと呼んだ病気によって引き起こされる目に見えない「ウイルス」を発見した、と主張する絶好の機会を得た。ポリオという言葉は、単に脊髄の灰白質の炎症を意味する。その年、麻痺や死亡を含む何らかのポリオに罹患したニューヨーク市民は 2500人ほどで、そのほとんどは子どもだった。
フレクスナー所長による詐欺
20世紀前半の米国におけるポリオ騒動全体の中で最も衝撃的な点は、この事業のあらゆる重要な段階が、後にロックフェラー医療陰謀団となった組織と結びついた人々によって支配されていた、という事実である。この詐欺は、ロックフェラー研究所所長サイモン・フレクスナーによる、彼と彼の同僚ポール・A・ルイスが、目には見えず、細菌よりも小さい病原体を「分離」し、それが米国で発生した一連の麻痺性疾患の原因である、と主張したことから始まった。彼らはどのようにしてこの考えに至ったのだろうか。
1909年に米国医師会雑誌に発表された論文で、フレクスナーは、自身とルイスがポリオの原因ウイルスを分離した、と主張した。フレクスナー は、ポリオを数匹のサルにサルからサルへと「感染」させることに成功した、と報告した。両名は、おそらくウイルスが原因で死亡したと思われる少年の病気の脊髄組織をサルの脳に注入することから始めた。サルが病気になった後、その病気の脊髄組織の懸濁液を、同じく病気になった他のサルの脳に注入した。
二人は、ロックフェラー研究所の医師たちが、この謎の病気の原因がポリオ・ウイルスであることを証明した、と主張した。しかし実際のところ、医師たちはそのようなことは何もしていなかった。フレクスナーとルイスは、次のことを認めることさえしていた。
「我々は、フィルム標本でも培養物でも、この病気の原因となり得る細菌を全く発見できなかった。また、我々がサルを用いてウイルスを増殖させた長期にわたる一連の研究において、病変部に以前の研究者らが述べた球菌が見られた動物は1匹もいなかったし、我々が研究したヒトの標本からはそのような細菌を得ることができなかったため、それらは検討対象から除外できる、と感じた」と。
そこで二人がおこなったのは、奇妙な仮説、つまり思い込みであり、科学的な主張ではなかった。二人は、ウイルスの外因性因子という仮説を、何の証拠もなく事実にしたのだ。二人は次のように主張した。「したがって、流行性ポリオの感染因子は、これまで顕微鏡下で確実に証明されたことのない、微小で濾過可能なウイルスの分類に属します」と。ということは?
サイモン・フレクスナーは、他の説明がつかなかったため、サルを殺したのは「ポリオ・ウイルスに違いない」と主張したにすぎなかった。実際、フレクスナーはこの病気の別の原因を探さなかった。これは科学的な隔離ではなく、荒唐無稽な推測だった。いわく「…これまで顕微鏡で確実に証明されたことはない」と。二人は、1909年12月18日付けのJAMA誌の「流行性ポリオ・ウイルスの性質」と題する続編でこの事実を認めていた。
二人がサルに注入していたいわゆる「ウイルス」は、純粋なものとは程遠いものだった。また、不確定な量の汚染物質も含まれていた。「脊髄や脳、排泄物のピューレ、さらにはハエまでもが粉砕され、麻痺を誘発するためにサルに注入された」のだ。ジョナス・ソークが1955年4月に米国政府からポリオ・ワクチンの承認を得るまで、ポリオ、または一般に小児麻痺と呼ばれていたものを引き起こすウイルスの存在は科学的に証明されていなかった。それは今日まで変わらない。医学界はみな、それが「ウイルスに違いない」というフレクスナーの言葉を鵜呑みにしてきた。
ロックフェラー研究所とフレクスナーと米国医師会
ロックフェラー研究所は、1901年にジョン・D・ロックフェラーのスタンダード・オイル社の財産から、米国初の生物医学研究所として設立された。この研究所は、フランスのパスツール研究所 (1888年) やドイツのロベルト・コッホ研究所 (1891年) を手本にしている。初代所長のサイモン・フレクスナーは、米国で承認された医療行為の発展において極めて重要かつ最も犯罪的な役割を果たした。ロックフェラーの目標は、米国の医療行為を完全に支配し、少なくとも当初は、ロックフェラーの利益によって承認された医薬品を促進するための手段に変えることにあった。その頃までに、これらの組織は石油でおこなったように、石油精製から生産される医薬品を独占しようとしていた。

サイモン・フレクスナー
ロックフェラー研究所所長サイモン・フレクスナーが、結論は出ていないものの高く評価されているポリオに関する研究を発表していたとき、サイモンは医学の経歴を持たない学校教師である弟のエイブラハム・フレクスナーに、米国医師会(AMA)とロックフェラー総合教育委員会、そしてロックフェラーの親友アンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー財団による共同研究を主導するよう手配した。
1910年の調査は「フレクスナー報告書」と題され、その表向きの目的は米国のすべての医学部の質を調査することだった。しかし、報告書の結果は事前に決まっていた。資金力のあるロックフェラー研究所と AMA(米国医師会)の関係は、腐敗したAMAの長、ジョージ H. シモンズを通じて築かれた。
シモンズは米国全土の医師約8万人に配布される影響力の大きい雑誌「米国医師会雑誌」の編集者でもあった。この雑誌は、医師会に対して絶対的な権力を握っていたと伝えられている。シモンズは、自身の雑誌で AMA の医師に自社の薬を宣伝するための製薬会社の広告収入の増加を管理していた。これは非常に儲かる事業だった。シモンズは、容認できる医療行為を治療的または予防的治療から、しばしば致死的な薬や高額な手術の使用へと完全に再定義するという、ロックフェラーの医療におけるクーデターの主要構成員だった。AMAの代表としてシモンズは、当時認められていたカイロプラクティックやオステオパシー、ホメオパシー、自然療法を含む医学校の急増との競争が AMA の医師の収入を減少させていることを認識していた。医学校の数は 1880 年の約90校から1903年には 150 校以上に増加していた。
元私立校長のエイブラハム・フレクスナーは、1909年に米国のさまざまな医学校を視察し、165校ある医学校の半分を「標準以下」として閉鎖するよう勧告した。この措置により、病気を治療する他の治療法との競争が減った。エイブラハムらは、当時広く普及していた自然療法医学校やカイロプラクティック医学校、整骨医学校、およびAMA体制に加わることを望まない独立した対症療法医学校を容赦なく標的にした。
その後、ロックフェラーの資金は、教授陣がロックフェラー研究所の審査を受け、教育課程が治療として薬と手術に重点を置き、予防や栄養学、毒物学が原因や解決策として考慮されないという条件付きで、選ばれた学校に渡された。学校は、1つの細菌に対して1つの病気、という還元主義を主張するパスツールの細菌説を受け入れなければならなかった。ロックフェラーが支配する報道機関は、あらゆる代替医療やハーブ療法、天然ビタミン、カイロプラクティックなど、ロックフェラーの特許医薬品によって管理されていないものすべてに対して組織的な魔女狩りを開始した。
1919年までに、ロックフェラー一般教育委員会とロックフェラー財団は、ジョンズ・ホプキンス大学やエール大学、ワシントン大学セントルイスの医学部に500万ドル以上を支払っていた。1919年にジョン D. ロックフェラーは、「米国の医学教育の発展のため」にさらに2000 万ドルの証券を寄付した。これは今日の約3億4000万ドルに相当する巨額である。つまり、ロックフェラーの金権は1920 年代までに米国の医学教育と医学研究を乗っ取っていた、ということだ。
ウイルス学の創造
最も影響力のある医師団体である米国医師会とその腐敗した長、シモンズに支えられたこの医療業界の乗っ取りにより、サイモン・フレクスナーはまさにロックフェラーの決まりの下で現代のウイルス学を創造することができた。非常に物議を醸した人物であるトーマス・ミルトン・リバーズは、ロックフェラー研究所のウイルス学研究所所長として、1920年代に細菌学とは別の独立した分野としてウイルス学を確立した。リバースらは、目に見えない細菌や「ウイルス」が致命的な病原体である、と主張できれば、はるかに簡単に操作できることに気づいた。皮肉なことに、ウイルスの語源はラテン語で「毒」を意味する言葉から来ている。
還元主義的な医療詐欺であるウイルス学は、ロックフェラーの医療陰謀団が作り出したものだ。この極めて重要な事実は、今日の医学史の中に埋もれている。天然痘や麻疹、ポリオなどの病気は、特定のウイルスと呼ばれる目に見えない病原体によって引き起こされる、と宣言された。科学者がその目に見えないウイルスを「分離」できれば、理論的には人々を危害から守るワクチンを見つけられる。それが彼らの理論だった。これは、当時、痔のプレパレーションHや鎮痛剤のアドビルなど、効果の証明がない薬を偽って宣伝していたアメリカン・ホーム・プロダクツ社、第一次世界大戦後にドイツのバイエルAGからアスピリンを含む米国の資産を買収したスターリング・ドラッグ社、ウィンスロップ・ケミカル社、アメリカン・シアナミッド社とその子会社レダール・ラボラトリーズ社、スクイブ社、モンサント社などを含む製薬会社のロックフェラー・カルテルにとって大きな恩恵となった。
やがてロックフェラー研究所のウイルス研究者たちは、ポリオ・ウイルスの発見に加え、天然痘やおたふく風邪、麻疹、黄熱病を引き起こすウイルスを発見した、と主張した。その後、これらの研究者らは肺炎と黄熱病の予防ワクチンの「発見」を発表した。しかし、研究所が発表したこれらの「発見」はすべて虚偽であることが判明した。ウイルス学という新しい分野の研究を統制したロックフェラー研究所は、AMAのシモンズおよび同様に腐敗した後継者であるモリス・フィッシュバインと共謀して、米国のすべての会員医師に配布される影響力のあるAMA誌で、特許取得済みの新しいワクチンや薬物「治療薬」を宣伝することができた。AMA誌への広告費の支払いを拒否した製薬会社は、AMAによって締め出された。
ポリオ研究の管理

ヨーク アベニューにあるロックフェラー大学の正門 (CC BY-SA 4.0 ライセンス)
サイモン・フレクスナーと非常に影響力のあるロックフェラー研究所は、1911年に、ポリオと呼ばれていた症状を「空気感染ウイルスによって引き起こされる伝染性の感染症」として米国公衆衛生法に組み入れることに成功した。しかし、彼らでさえ、この病気が人間の体内に入る仕組みを証明していないことを認めていた。ある経験豊富な医師が 1911年に医学雑誌で指摘したように、「感染の可能性のある方法に関する現在の知識は、ほぼすべてこの街のロックフェラー研究所でおこなわれた研究に基づいて」いたのだった。 1951年、ロックフェラー家がポリオの伝染について急いで判断を下したことに対する批判者ラルフ・スコビー博士は、「これはもちろん、臨床調査ではなく動物実験に頼ることになった…」と指摘した。スコビー博士はまた、ポリオが伝染性であるという証拠がないことを指摘し、「…この病気にかかった子どもたちは一般病棟に収容されたが、その病院の病棟の他の入院患者でこの病気にかかった人は一人もいなかった」と述べた。当時の一般的な態度は、1911年に次のように要約されている。「絶対的な証拠がないにもかかわらず、この病気を伝染性の観点から見ることで、業界の最大の利益が守られる、と思われる」(原文ママ)。
ポリオの症状を、目に見えない、いわゆる外因性または外部ウイルスによって引き起こされる、非常に伝染性の高い病気として分類することで、ロックフェラー研究所と米国医師会は、化学農薬やその他の毒素への曝露など、主に非常に幼い子どもたちに起こる季節的な病気や麻痺、さらには死亡の原因を説明する代替説明を求める真剣な研究を阻止することができた。この動きにより、現在まで続く致命的な結果をもたらすことになる。
DDTの登場
1952年に食品中の化学物質の危険性を調査した米国下院への声明で、ラルフ・R・スコビー医学博士は次のように述べた。
「ほぼ半世紀にわたり、ポリオの調査は、人体に入り込んで病気を引き起こすとされる外因性ウイルスに向けられてきました。現在の公衆衛生法の規定では、この種の調査のみが義務付けられています。いっぽう、いわゆるポリオ・ウイルスが人体にまったく入り込まず、単に食中毒などの外因性要因から生じる土着の化学物質であるかどうかを判断するための徹底的な研究はおこなわれていません」と。
膨大な証拠があるにもかかわらず、原因としての毒素は調査されなかった。
1930年代の経済不況とその後の戦争の間、ポリオの新たな大規模な流行はほとんど見られなかった。しかし、第二次世界大戦の終戦直後、ポリオの騒動は爆発的に拡大した。1945 年以降、毎年夏になると米国全土でますます多くの子どもたちがポリオと診断され、入院した。しかし実際に血液検査や尿検査を受けたのは、症例の1%未満だった。残りの約 99% は、四肢の激しい痛みや発熱、胃のむかつき、下痢などの症状があるだけでポリオと診断された。
1938年、ポリオ被害者と推定されるフランクリン・D・ルーズベルトの支援を受けて、ポリオ研究資金を調達するための非課税寄付を募る全米小児麻痺財団(マーチ・オブ・ダイムズ)が設立された。ドイツ人の医師で研究者のヘンリー・クム博士は米国に渡り、1928年にロックフェラー研究所に加わり、1951年に全米財団のポリオ研究部長に就任するまでそこに留まった。クムは、もう一人のロックフェラー研究所の重要なベテランで、いわゆる「ウイルス学の父」であるトーマス・M・リバーズと全米財団で一緒に働き、リバーズは財団のワクチン研究諮問委員会の委員長を務め、ジョナス・ソークの研究を監督した。ロックフェラー研究所のこの2人の重要人物は、ワクチン開発を含むポリオ研究の資金を管理していた。
第二次世界大戦中、ヘンリー・クムはロックフェラー研究所に在籍中、米陸軍の顧問としてイタリアでの現地調査を監督した。クムはそこで、ローマとナポリ近郊の沼地におけるチフスやマラリア蚊に対するDDTの使用に関する現地調査を指揮した。DDT は 1940年にスイスの製薬会社ガイギーとその米国支社によって殺虫剤として特許を取得しており、1943 年にアメリカ陸軍兵士に対して初めてアタマジラミや蚊、その他多くの昆虫に対する一般的な消毒剤としての使用が認可された。戦争が終わるまで、米国における DDT の生産のほぼすべてが軍に提供された。1945 年、この化学会社は新しい市場を熱心に探し、それを発見した。

Beyond Pesticidesより
1944 年初頭、米国の新聞各紙は、歴史上あらゆる大戦の後に続いた恐ろしい疫病であるチフスが、軍の新しい「シラミ駆除」粉末であるDDTのおかげで、もはや米軍とその同盟諸国にとって脅威ではなくなった、と勝ち誇って報道した。ナポリでの実験では、米兵が 100万人以上のイタリア人に灯油で溶かしたDDTを散布し、チフスを広めるコロモジラミを殺した。
ロックフェラー研究所のヘンリー・クムと米軍は、ある研究者が述べたように、「DDT は毒物だが、戦争では十分安全だ。DDTで傷ついた人は、戦闘の犠牲者として認められるだろう」ということを知っていた。米国政府は、1944年に科学研究開発局が発行した、人間と動物に対するDDTの蓄積的な毒性効果について警告した殺虫剤に関する報告書を「制限」した。モリス・ビスキンド博士は1949年の記事で、「DDT は蓄積性の毒物であるため、米国民が大規模に中毒になるのは避けられない」と指摘していた。1944 年、国立衛生研究所のスミスとストールマンは、DDT の蓄積毒性に関する広範な研究をおこなった後、「DDTの毒性とその蓄積作用および皮膚からの吸収性により、DDT の使用は明らかに健康に危険を及ぼす」と指摘した。しかし、二人からの警告は上層部によって無視された。
その代わりに、1945年以降、米国全土でDDTは奇跡的な新しい「安全な」殺虫剤として宣伝された。ちょうどその30年後のモンサント社のグリホサート入りラウンドアップと同じ様な感じだったのだ。DDT は人体に無害だと言われていた。しかし、政府内でその主張を真剣に科学的に検証する人は誰もいなかった。1 年後の1945年に戦争が終わると、米国の新聞は新しい DDT を「魔法の」物質、「奇跡」として称賛した。タイム誌はDDTを「第二次世界大戦の偉大な科学的発見のひとつ」と報じた。
未検証の副作用や、食物連鎖の中で容易に蓄積する持続性のある有毒化学物質であるという警告が散発的にあったにもかかわらず、米国政府は1945年にDDTの一般使用を承認した。ロックフェラーとAMA(米国医師会)、製薬業界が支配する食品医薬品局 (FDA) は、誰も証明していなかったにもかかわらず、食品中のDDT含有量が 7ppm までであれば「安全」である、と定めた。DDT 化学会社は、写真や逸話をマスコミに流した。新聞は、新しい奇跡の化学物質であるDDTが、マラリア媒介と考えられている南部の蚊に対して米国で治験されている様子や、「アリゾナのブドウ園やウェスト・バージニアの果樹園、オレゴンのジャガイモ畑、イリノイのトウモロコシ畑、アイオワの酪農場」を保護する効果について熱心に報道した。1940年代後半、DDTは米国のいたるところに存在していた。
米国政府は、DDTは戦前に使用されていたヒ素や他の殺虫剤とは異なり、乳児を含めた人間に無害であり、自由に使用できる、と主張した。1945年初頭、シカゴなどの都市では公共のビーチや公園、プールにDDTが散布された。主婦たちは家庭用のエアゾールスプレーDDT噴射器を購入し、台所、特に子ども部屋、さらにはマットレスにまで散布した。農家は作物や家畜、特に乳牛にDDTを散布するよう指示された。戦後の米国では、アメリカン・ホーム・プロダクツ社のブラック・フラッグ・エアゾールDDTスプレーやモンサント社など、ロックフェラー系の製薬会社がとりわけDDTの推進に努めた。1945年から1952年にかけて、米国のDDT生産量は10倍に増加した。
1945年以降、ポリオの疑いのある症例がまさに米国全土で爆発的に増加したため、証拠もないまま、ポリオという身体に障害をもたらす病気は、DDTのような有毒な殺虫剤ではなく、蚊やハエによって人間、特に幼児に伝染するという説が唱えられた。その説は、DDTは身体に障害をもたらすポリオから家族を安全に守ることができるというメッセージを伝えるものだった。公式に記録されたポリオ症例は、米国でDDTが民間で使用される前の1943年の約2万5千件から、最高潮時の 1952年には 28万件を超え、10倍以上に増加した。
1945年10月、前述のようにロックフェラー研究所のヘンリー・クムの監督下で米軍が使用していたDDT が、米国政府によって蚊やハエに対する殺虫剤としての一般使用が認可された。DDT が人間や動物に有毒な影響を及ぼすと警告する反対派の科学者は沈黙させられた。家族には、DDT が恐ろしい昆虫を殺すことで子どもたちを恐ろしいポリオから救うことができる、と伝えられた。
米国農務省は、蚊やハエを駆除するために、農家に乳牛をDDT溶液で洗うよう勧告した。トウモロコシ畑や果樹園には、DDTが空中散布された。しかし、DDT は極めて持続性が高く、植物や野菜に対する毒性は洗い流すことができないほどだった。1945年から1952年にかけて、米国全土で散布されるDDTの量は年々増加した。注目すべきことに、ポリオの症例数も増加していた。
最悪のポリオ流行
1950年代初頭までに、米国議会や農家の間では、DDTだけでなく、さらに毒性の強いBHC(ベンゼンヘキサクロライド)など、大量の農薬使用の危険性に対する関心が高まった。1951年、DDT中毒の患者数百人を治療した医師モートン・ビスキンドは、麻痺性ポリオと毒素、特にDDTとBHCとの関連の可能性について米国下院で証言した。彼は次のように述べた。
「殺虫剤DDT(クロロフェノタン)と、それに続く一連のさらに致死的な物質が一般大衆に無制限に一般使用されるようになったことは、歴史上前例のないことです。疑いの余地なく、人類が知る物質の中でこれほど急速に開発され、これほど短期間にこれほど広い範囲に無差別に広がった物質は他にありません。DDTが一般大衆向けに発売された当時、この物質が多くの異なる動物種に極めて有毒であり、体脂肪に蓄積され、ミルクに現れることを示す大量のデータがすでに医学文献に掲載されていたことを考えると、これはさらに驚くべきことです。当時、DDTによる人間の中毒例もいくつか報告されていました。これらの観察はほぼ完全に無視されるか、誤解されていました」と。
ビスキンドは1950年後半に議会でさらに証言した。
「昨年の初め、私はDDT中毒に関する一連の観察論文を発表しました。先の戦争の直後から、全国の医師が一連の症状が現れる症例を多数観察していましたが、その最も顕著な特徴は、胃腸炎、持続的に再発する神経症状、極度の筋力低下でした...」
彼は、DDT や関連毒素への曝露がなくなると麻痺などの重篤な症状が消失した患者の症例をいくつか挙げた。
「昨年初めに報告した200件以上の事例に関する私の最初の経験は、その後かなり拡大しました。その後の観察により、DDTが、他の方法では説明できない多くの人間の障害の原因であるという見解が裏付けられただけでなく…」
また、ポリオの症例は、昆虫に対するDDT散布が最大となる夏季に常に最も多く発生していた、という事実も指摘された。
ロックフェラー研究所の工作員と米国医師会は、米国政府内の工作員を通じて、1946年から1952年にかけて米国でポリオと呼ばれる健康上の緊急事態を作り出した。彼らは、恐れられている病気を広めるとされた架空の昆虫を駆除する安全な方法として、毒性の高いDDTを故意に宣伝することで、この事態を引き起こしたのだ。彼らの喧伝工作により、DDTがポリオの蔓延を阻止する鍵である、と米国民を確信させた。
ポリオが突然減少
ロックフェラー研究所の二人の医師、ヘンリー・クムとトーマス・リバーズの指導の下、全米小児麻痺財団(NFIP)はビスキンドやスコビーのような批判者を退けた。小児麻痺にビタミンCの静脈注射などを用いる自然療法は「いんちき療法」として即座に退けられた。1953 年4月、ロックフェラー研究所の DDT コンサルタントのヘンリー・クム博士が NFIP のポリオ研究部長に就任した。同博士はジョナス・ソークのポリオワクチン研究に資金を提供した。
ノースカロライナ州の勇敢な医師、フレッド・R・クレナー博士は化学と生理学も学んでいたが、患者は毒素中毒の被害者であり、ビタミンCは強力な解毒剤であるという仮説に基づいて、大量のアスコルビン酸(ビタミンC)を静脈注射するという考えを思いついた。これは、ライナス・ポーリング博士がビタミンCに関する研究でノーベル賞を受賞するよりずっと前のことだった。クレナー博士は、 1949年から1951年にかけての夏の流行で、200人以上の患者において数日以内に驚くべき効果をもたらした。ロックフェラー研究所と米国医師会は、治療の見通しには関心がなかった。彼らとロックフェラーが支配する全米小児麻痺財団は、ポリオは環境毒の結果ではなく伝染性ウイルスであるという証明されていないフレクスナーの主張に基づいて、ポリオワクチンの開発に資金を提供していただけだった。
その後、1951年から1952年にかけてポリオの症例が史上最高に達した頃、予想外の現象が起こり始めた。米国でポリオと診断される症例数が減少し始めたのだ。ポリオの犠牲者の減少は、国立財団とジョナス・ソークのポリオワクチンが一般の使用に承認され、広く普及するずっと前の1955年まで、年々劇的に減少した。
ポリオ症例が急激に減少する約1年前、DDTの深刻な影響に苦しんでいた乳牛を飼育する農家に対し、米国農務省は DDTの使用を減らすよう勧告していた。1951年に米国上院でDDTとポリオに関する公聴会が開催されたことなど、DDTが人間にとってどれほど安全であるかに関する国民の懸念が高まったため、DDT が米国で正式に禁止されたのは 1972 年になってからだったが、1955 年にかけてDDTへの曝露は大幅に減少した。
1952年から1956年にかけて、いわゆる「ポリオ」の症例は3分の2ほど減少したが、これはDDTの使用減少と驚くほど相関している。その減少からかなり後の1955年後半から1956年にかけて、ロックフェラーが開発したソークポリオ・ワクチンが初めて大規模に接種された。ソークとAMA(米国医師会)は、このワクチンの功績をすべて認めた。ソーク・ワクチンによる死亡や麻痺は隠蔽された。政府はポリオの定義を変更し、公式症例をさらに減らした。同時に、急性弛緩性麻痺や慢性疲労症候群、脳炎、髄膜炎、ギランバレー症候群、筋硬化症など、ポリオに似た脊髄神経疾患の症例が著しく増加した。
なにが問題なのか
1世紀以上前、世界一の富豪で石油王のジョン・D・ロックフェラーと彼の顧問団は、米国および世界のその他の地域で医療がどのように実践されていたかを全面的に再編しようとした。ロックフェラー研究所とサイモン・フレクスナーのような人物の役割は、目に見えない伝染性の外来細菌であるポリオ・ウイルスが若者に急性麻痺や死を引き起こすという主張をめぐる巨大な医療詐欺の発明をまさに監督した。彼らは、DDTやヒ素系農薬、さらには汚染されたワクチン中毒による毒素中毒とこの病気を関連づけるあらゆる取組を政治的に禁止した。彼らの犯罪工作には、AMA の指導部との密接な協力、新興の製薬業界および医学教育の支配が含まれていた。1930年代のドイツのカイザー・ヴィルヘルム研究所や米国優生学会でのナチスの優生学に資金を提供したのも、このロックフェラー・グループだった。1970年代、彼らはロックフェラー家の化学農薬会社団(モンサント、デュポン、ダウ)によって開発された特許取得済みの遺伝子組み換え種子の作成に資金を提供した。
現在、公衆衛生と医療産業複合体に対するこの統制は、デビッド・ロックフェラーの弟子で優生学の提唱者、ビル・ゲイツによっておこなわれており、ゲイツはWHOと世界のワクチンの独裁者を自任している。NIAID(米国立アレルギー・感染症研究所)のトニー・ファウチ所長は、証拠もなくワクチン接種を義務化している。第二次世界大戦後のポリオ・ウイルスの醜聞の背後にある詐欺は、今日ではコンピューターモデルやその他の策略を利用して洗練され、COVID19からサル痘、HIVまで、次々と致命的なウイルスとされるものを作り上げている。ポリオと同様に、これらのウイルスはどれも科学的に分離され、主張されている病気を引き起こすことは証明されていない。ひとつとして。
同じく非課税のロックフェラー財団が今日、慈善団体を装い、COVID19の背後にある世界的な医療暴政と世界経済フォーラムのグレート・リセットの優生学工作の中心となっている。
これらの組織によるポリオ・ウイルスを使った手口は、この暗黒世界的な医療専制政治を生み出すのに役立った。その上で私たちは「科学を信じなさい」と言われているのである。
*
F. ウィリアム・エングダールは戦略危機相談家兼講師であり、プリンストン大学で政治学の学位を取得しており、石油と地政学に関する著書でよく読まれている作家でもある。
グローバリゼーション研究センター (CRG) の研究員。
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