グレート・ゲームでアフガニスタンを弄んだのはどんな国々か?
<記事原文 寺島先生推薦>
The Great Game of Smashing Countries ジョン・ピルジャー(John Pilger)
Global Research 2021年8月25日
<記事翻訳> 寺島メソッド翻訳グループ
2021年9月19日
西側諸国の政治家たちは、こぞって嘘泣きをする姿を見せているが、10年以上も前自由を勝ち取っていたアフガニスタンを壊したのは、まさにその米国と英国とその同盟諸国だ。
1978年に、アフガニスタン人民民主党が導いた民主化運動により、ザーヒルシャー国王のいとこであったムハンマド・ダーウードの独裁政権は排除された。これは人民による激しい革命であり、英米両国には驚きを持って迎えられた。
ニューヨーク・タイムズ紙の記事によれば、カブール在住の外国人記者たちは、「インタビューを行ったほとんどすべてのアフガニスタン国民が、クーデターが起こったことを歓迎していた」ことに驚いていたようだった。ウォール・ストリート誌は、「15万人が新しい国旗を奉じて行進していた。行進に参加した人々は心の底から熱狂しているようだった」と報じている。
ワシントン・ポスト紙の記事によれば、「アフガニスタン国民の新政府に対する忠誠心については、ほとんど疑問の余地はない」とのことだった。宗教色を排除し、近代的な統治法を取り、さらにはある程度社会主義的色彩ももっていた新政府が主張したのは、アフガニスタンの理想的な再建についてだった。具体的には、女性や少数民族にも平等な権利を与えることだった。政治犯は刑を解かれ、警察の捜査記録は公衆の面前で焼却された。
君主制下においては平均寿命が35歳だった。子どもの三人のうち一人が幼年期に亡くなっていた。国民の9割は、字が読めなかった。新政府は無料医療制度を導入した。識字率をあげる大規模な取り組みが始められた。
女性たちが手に入れた権利は前例のないものだった。1980年代下旬においては、大学生の半数が女性であり、アフガニスタンの医師の4割、教員の7割、公務員の3割が女性だった。
このような変化があまりに劇的であったため、女性たちは、自分たちの権利が拡大されたことを鮮明に覚えている。2001年にアフガニスタンから亡命した外科医サイラ・ヌーラニ(Saira Noorani)さんは、こう語っている。
「すべての少女が学校や大学に行けました。行きたいところにはどこでも行くことができましたし、着たい服も何でも着ることができました。金曜日には、カフェに行き、映画館で最新のインド映画を楽しんだものでした。こんな生活がまったくおかしくなってしまったのは、ムジャヒディーンが勝利を収め出してからのことでした。そしてムジャーヒディーンを支援していたのは西側諸国だったのです」
米国にとってアフガニスタン人民民主党が問題だったのは、この政党をソ連が後援していたからだった。しかし、アフガニスタン人民民主党は、西側諸国があざ笑っていたようなソ連の「操り人形」ではなかったし、アフガニスタン人民民主党が起こした君主制に対するクーデターは、米国や英国のメディアが当時報じていたような「後ろにソ連がいる」クーデターでもなかった。
ジミー・カーター政権の国務大臣であったサイラス・ヴァンスは後に自身の回顧録でこう書いている。「このクーデターにソ連が共謀していたという証拠は見つけられなかった」と。
この同じ政権内にはズビグネフ・ブレジンキー 国家安全保障問題担当大統領補佐官がいた。彼はポーランドからの移民で熱狂的な反共産主義者で、極端な過激派であり、米国の大統領たちに影響を与え続けていたが、そのことが明らかになったのは2017年に彼が亡くなった後のことだった。
1979年7月3日、米国民や米国議会の知らぬところで、カーター大統領は「機密作戦」計画に5億ドルを投じ、アフガニスタン初の宗教色のない民主的な政権を転覆させようとしていた。この作戦は、CIAにより「サイクロン作戦」と名付けられていた。
この5億ドルを使って買収し、賄賂を送り、武装させた相手がムジャーヒーディンという名で知られている部族宗教勢力であった。ワシントンポスト紙のボブ・ウッドワード記者が半公的な正史に書いていたのは、CIAが賄賂だけで7千万ドルを費やしていた事実だった。同記者は、「ゲリー」という名のCIAの工作員とアムニアット・メリーという名の部族郡長の会合の様子を以下のように記述している。
「ゲリーはテーブルに50万ドルの札束を置いた。100ドル札を30センチほどの高さに山積みしたものだ。ゲリーは、いつもの20万ドルよりも相手に対する効果は大きいと確信していた。それが、“俺たちはここに来た、マジなんだ、カネはある、お前たちにはカネがいるんだろう?”ということを伝える最も良い方法だった。ゲリーはすぐにCIAの本部に要求し、現金で1千万ドルを手にしていたものだ」
世界中のイスラム地域から兵士を迎えた米国の秘密軍はパキスタン領内の基地で、パキスタンの諜報機関や、CIAや英国のMI6の指揮下で訓練を受けた。他の戦士たちは、ニューヨーク市ブルックリン区のイスラム大学に派遣された。そこからは9-11で破壊されたあのツインタワーが見える。そのような派遣学生の中に、サウジアラビアのエンジニアであったウサーマ・ビン・ラーディンがいた。
この作戦の目的は、中央アジアでイスラム原理主義者の勢力を広めることにより、ソ連を弱体化し、最終的には破壊することだった。
1979年8月には、カブールの米国大使館はこう報告していた。「アフガニスタン人民民主党政権を退陣させれば、米国はより大きな利益を得るだろう。
その結果アフガニスタンの社会や経済の再建が今後挫折することになるだろうが」
上記で斜体にしてある部分を再読して欲しい。こんな冷酷な意図がはっきりと公文書に記されることはそうあることではない。米国の言い分は、アフガニスタンの真の進歩的な政権や、アフガニスタンの女性の権利などは「地獄に落ちてもかまわない」ということだ。
その6ヶ月後、ソ連はアフガニスタンに軍を送るという致命的な動きを見せたのだが、それは米国が作り出したジハード戦士たちがソ連国境付近の脅威となったからだ。CIAが提供したスティンガーミサイルで武装し、マーガレット・サッチャー英首相に「自由な戦士だ」と歓迎されたムジャーヒディーンが、最終的にはソ連赤軍をアフガニスタンから追い出すことになった。
自身のことを「北部同盟」と自称していたムジャーヒディーンは、部族軍長たちにより支配されていた。これらの部族軍長たちはヘロイン取引を管理し、地方の女性たちを怯えさせた。タリバンは極端に厳格な一派であり、タリバンのムッラ(イスラム教の宗教的指導者)は黒い服をまとい、山賊行為や、強姦や、殺人を犯した者を処罰していたが、女性たちを一般の生活から追い出すことも行っていた。
1980年代に私は、RAWAという名で知られている「アフガニスタン女性革命協会」という協会と話をすることができた。この協会は、アフガニスタンの女性の苦難を世界に向けて発信しようとしていた。タリバン統治下において、女性たちブルカの下にカメラを隠して、虐待行為の証拠を撮影しようとしていた。さらに西側に支援されていたムジャーヒディーンに対しても、彼女たちは同じことをした。RAWAの一人「マリナ」さんが私にこう語っていた。「私たちはすべての主流メディアにビデオテープを渡しました。でもメディアは私たちのことを知りたがっていないようでした・・・」
1996年に啓蒙的なアフガニスタン人民民主党政権は倒された。ムハンマド・ナジーブッラー大統領は国連に赴き、助けを懇願した。帰国するなり、同大統領は殺害され街灯に吊された。
「国家というのはチェスの駒だといっていいだろう」。これは1898年に英国のカーゾン卿が語った言葉だ。「そのチェス盤上で、世界支配をかけたグレート・ゲームが開催中なのだ」
インド総督であったカーゾン卿がその言葉で指していたのがアフガニスタンのことだったのだ。その100年後、トニー・ブレア首相はすこし違う言い方をした。
9-11の後、彼はこう言っていた。「今がチャンスだ。万華鏡が回されたのだ。景色はうつろいやすくなっている。しかしすぐにまた落ち着くだろう。やつらがやってしまう前に、我々がこの世界を再編成してしまおう」
アフガニスタンに関して、ブレアはこう付け加えた。
「私たちが去ることはありません。私たちはあなた方を惨めな貧困状況からなんとかして救い出すことを約束します」
ブレアは良き助言者であるジョージ・W.ブッシュ大統領が、大統領執務室から米国による爆撃の被害者に対して語っていたこと同じことを言っただけだった。
「アフガニスタンで抑圧されている人々は、米国がいかに寛大であることを知ることになるでしょう。私たちは軍の標的を攻撃すると同時に、飢饉や苦悩を解決するための食料や、医薬品や、生活必需品も、もたらしますから」
ほとんどすべてが虚言だった。英米がアフガニスタンの人々を心配しているということはとんでもない幻覚でしかなかった。逆に帝国主義的な残虐行為が行われていたのだ。そして西側内の「私たち」はそのようなことはほとんど感知していない。
2001年にアフガニスタンは飢饉に苦しみ、パキスタンからの緊急救援隊を当てにしていた。ジョナサン・スティール記者が報じていたとおり、米軍による侵攻が間接的に2万人程度の死者を出す原因になった。というのは飢餓の被害者たちへの救援物資の輸送が止まり、人々が家から追われることになったからだ。
その18ヶ月後、私は米軍のクラスター爆弾の不発弾をカブール市内のがれき内で見つけたことがあった。アフガニスタンの人々は、爆弾を、空から投下された黄色の救援物資だと間違えてしまうことがよくあった。救援物資だと思って近づいた空腹の子どもたちが、その爆弾によって手足を吹き飛ばされた。
ビビ・マル村で、私はオリファという女性がオットのグル・アーメッドさんの墓の前で跪いているのを見た。彼は絨毯職人だった。さらにその墓は、夫以外の7人の家族のものでもあった。うち6人が子どもだった。そして隣に住んでいた2人の子どもも亡くなった。
米軍のF-16機が晴天の空から現れ、Mk82の500ポンド爆弾を、オリファさんの泥と石と藁でできた家の上に投下した。 その時オリファさんは留守だった。帰ってきた彼女が遺体を拾い集めた。
数ヶ月後、カブールから何人かの米国人がやって来て、オリファさんに15枚の紙幣が入った封筒を渡した。総額15ドル。「殺された家族1人につき2ドルでした」とオリファさんは語った。
アフガン侵攻は詐欺だった。9-11以降、タリバンはウサーマ・ビン・ラーディンから距離を置こうとしていた。タリバンは様々な点において、米国の顧客だった。ビル・クリントン政権は、タリバンと一連の秘密の取り引きを行い、30億ドルの天然ガスパイプラインを米国の石油会社と共同して建設することを許可した。
厳重に秘密が守られる中で、タリバンの指導者たちが、米国に招かれ、石油会社のユノカル社のCEOのテキサスの自宅や、バージニア州のCIA本部で歓待を受けていた。タリバンとの取り引き相手の一人にW.ブッシュの副大統領をつとめたディック・チェニーもいた。
2010年に私はワシントンを訪れ、現代のアフガニスタンに苦難を与えた黒幕であるズビグネフ・ブレンジンスキーにインタビューを行なう機会を得た。私はブレンジンスキーに、彼が自伝の中でソ連をアフガニスタンに引き込むために、「イスラム教徒たちを扇動」しようという大掛かりな計画を企んだことを認めていたことについて触れた。
「そのことに後悔はありませんか?」と私は尋ねた。
「後悔!後悔!何を後悔しろと言うんだね?」
今、カブール空港のパニック状況が見える。記者たちや将軍たちが、遠く離れたテレビ局のスタジオから「我々の防衛団」が引き上げているのを嘆き悲しむ声が聞こえる。今こそ過去の真実に目を向け、同じような苦しみが2度と起こらないようにする時なのではないのか?
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