NATO - 寺島メソッド翻訳NEWS
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事実検証シリーズ第三部グラディオ(諸刃の剣)作戦。NATOはヨーロッパ市民と民主的選挙で選ばれた政府に、いかにして秘密戦争を仕掛けたか

<記事原文 寺島先生推薦>
Operation Gladio: How NATO Conducted a Secret War Against European Citizens and Their Democratically Elected Governments
(またはこちらを御覧ください)https://www.sott.net/article/466793-Operation-Gladio-How-NATO-conducted-a-secret-war-against-European-citizens-and-their-democratically-elected-governments

シンシア・チュン(Cynthia Chung)

2022年4月14日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2022年6月10日


グラディオ作戦:NATOの支援を受けたヨーロッパの偽旗テロ作戦
 ウィンストン・チャーチルの「鉄のカーテン」演説は誰もが知っている。しかし、このフレーズの発案者はチャーチルではない。

「政治的な駆け引きから遠く離れた民間人、民衆、女性、子ども、無名の人々を攻撃しなければならなかった。理由は至極単純。民衆に、国家に、もっと安全保障を求めるように仕向けるためだ」
――ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエラ:有罪判決を受けたイタリアのテロリスト、アヴァンギャルド・ナツィオナーレ(「国家前衛部隊」)およびオルディネ・ヌオーヴォ(「新秩序」)の元メンバーの言葉

 この記事は5部作の第3部である。[第1部第2部では、第二次世界大戦後のウクライナの民族主義運動がいかにCIAによって買収されたかを説明している]


ナチス・ドイツ――共産主義に対する西側の防波堤

「ヒトラーは自国の共産主義を破壊することによって、ソ連の西ヨーロッパへの道を塞いだ......したがって、ドイツは共産主義に対抗する西側の防波堤と見なすのが妥当だろう」(1)
――ハリファックス伯爵、通称ハリファックス卿(駐米イギリス大使1940-1946、イギリス外務大臣1938-1940、インド総督・総督1926-1931)。

 1946年3月5日、ウィンストン・チャーチルがおこなった「鉄のカーテン」演説は、誰もが知っている。しかし彼はその時にはもう英国首相ではなかった。

 しかし、この言葉の発案者はチャーチルではなく、1945年5月3日にナチス・ドイツ外相のルッツ・シュヴェリン・フォン・クロシーク伯爵がベルリンでおこなった演説であり、その内容は5月8日のロンドンタイムズ紙とニューヨークタイムズ紙で報道された。
 この演説の中で、クロシーク伯爵はナチスの造語である「鉄のカーテン」という宣伝文句を使ったが、これは1年も経たないうちにチャーチルによって全く同じ文脈で使われることになった。

 このクロシーク伯爵のドイツ演説のわずか3日後、ドイツ国防軍の無条件降伏(1945年5月8日)があり、チャーチルは米大統領トルーマン宛に手紙を書いて、ヨーロッパの将来に対する懸念を表明し、「鉄のカーテン」が降りた、と述べた(2)。

 ナチス・ドイツとイギリスがこのように政策を共有したことは、まったくの驚きではない。

 1939年8月23日に調印された「モロトフ・リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)」は、歴史に残る悪名高いものである。しかし、重要な事実はしばしば省かれている。
 つまり、この悪名高い協定は、1938年9月30日にイギリスのネヴィル・チェンバレン首相がヒトラーとおこなった宥和協定、別名「ミュンヘン協定(別名、ミュンヘンの裏切り)」に調印してから丸11カ月後に調印されたという事実である。
ミュンヘン協定:チェコスロバキアのズデーテン問題の収拾に関するドイツ・イタリア・イギリス・フランスの首脳会談で、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方のドイツへの割譲が決定された。これはナチスドイツ宥和(ゆうわ)政策の頂点を示し、ドイツの増長を招いて第二次世界大戦を引き起こした。

 歴史家のアレックス・クレイナーはこう書いている。

 「私たちが学校で教わった話では、イギリス政府がチェコスロバキアの分割(ズデーデン地方のドイツへの割譲)に同意したのは、もっと大きなヨーロッパ戦争を避けるための苦肉の策に過ぎないというものだった。
 この考え方は、ドイツがすでに圧倒的な軍事力を持ち、チェコスロバキアの弱い防衛力を簡単に打ち砕くことができるという考えに基づいている。しかし、この考え方は明らかに誤りである」 [強調は筆者]

 アレックス・クレイナーは続ける。

 「1919年に創設されたチェコスロバキアは、ハプスブルク帝国から生まれた諸国家のなかで、最も繁栄し、最も民主的で、最も強力で、最もよく管理されていた。......
 ドイツ軍が軍事的に有利でチェコの安全保障が弱いという考えは、いずれも持続的な宣伝キャンペーンによる捏造(ねつぞう)であり、英国メディアと英国政府の代議士たちによって、英国とヨーロッパの国民に嘘をつくために組織されたものである。

 チェコ軍は、質、軍備、要塞の面でヨーロッパ最強の軍隊だと言われ、上空援護を除けばあらゆる面でドイツ軍より優れていた。1938年9月3日、在プラハ英国軍随行員はロンドンへの電報でこう述べている。『チェコ軍に欠点はない、私が観察した限りでは.....』

 さらに、チェコの安全保障は当時ドイツを牽制することに熱心で、軍事力でドイツを大きく上回っていたフランスとソビエト連邦との戦略的同盟関係によって支えられていた」[強調は筆者]

 つまり、チェコスロバキアは実際には無抵抗で降伏したが、それは防衛力が弱かったからではない。むしろ、チェコスロバキア政府が偽りの約束をさせられ、英国の秘密外交という裏切り策略によって最終的にドイツに有利になるように仕向けられたためであった。

 先に引用したハリファックス卿は、「ミュンヘン協定」の英国側交渉官の一人であった。この話の続きは、アレックス・クレイナーのこの素晴らしい論文を参照してほしい。

 ミュンヘン協定の結果、実際に起こったことは、ヒトラーのドイツがチェコスロバキアの優れた軍隊を奪取し、ドイツを巨大な脅威へと変貌させたということであった。ドイツを倒すのははるかに困難になった。

 さらに、イングランド銀行と国際決済銀行は、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンを通じて、チェコスロバキア銀行が所有していた560万ポンド相当の金をヒトラーに直接送金することを許可した。

 実に疑問符のつくイギリスの行動である。

 こうして、ドイツが超最大勢力になることを許されたのは、イギリスの直接介入によってであった。
 そのたった11カ月後、「モロトフ・リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)」が結ばれた。これは不可避の事態を回避する手段としてであった。
 すなわち、イギリスの後ろ盾を得たドイツがロシア本土へ攻撃するという不可避の事態を回避する手段であった。[詳しくはこちらを参照]

グラディオ(諸刃の剣)作戦 ――NATOの短剣

「NATOという国内テロの悪の枢軸は、次の3者によって支えられていた。
 ①ペンタゴンが支配する軍産複合体、②培われたネオ・ファシズムの復活、③マフィアの犯罪組織から引き抜かれた傭兵たち、の3者である」

――リチャード・コットレル著『グラディオ。NATOの短剣はヨーロッパの心臓に突き刺さっている』

 第二次世界大戦に勝利し、世界は「ネバーアゲイン(二度と再び戦争はしない)」という言葉を胸に刻むことを強く意識した。しかし残念ながら、第二次世界大戦後の西側政策と地政学的戦略を形成する責任者たちは、もはやそれに同意しなかった。

 「アンシンカブル作戦(想像を絶する作戦)」は、ルーズベルト以後の英米の思考を反芻した典型的な例である。
 この作戦は英クレメント・アトリー政権下では実行されることはなかったが、この考え方は英米の情報機関にとって支配的な考え方であり続け、今日に至ってもなおそうである。
*「想像を絶する作戦」は1945年5月22日付けで英国軍が作成したソビエト連邦への侵略計画。実行に移されなかったが、英国政府にとって初めての本格的なソ連への戦争計画であり、英軍と米軍の連合軍がヨーロッパ東北部を主戦場としてソ連軍と対決するという計画だった。
クレメント・アトリー
 イギリス第62代首相(在任:1945年7月26日―1951年10月26日)。2人目の労働党出身の首相で、同党出身の首相として初めて4年の任期を全うしただけでなく、任期中に議会で過半数の議席を得た。
 内政では国営医療事業の国民保健サービス(NHS)などが設立され、福祉国家の建設に歩みだした。外交では長年の英国の植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立承認などを実行した。


 第二次世界大戦中、ドイツ軍のまさかの勝利に備えるという口実で、ヨーロッパ各地に「残留」ゲリラ戦部隊が配置された。そのモデルとなったのが、1940年に設立されたイギリスの極秘ゲリラ・コマンド部隊「SOE」(Special Operations Executive、英国特殊作戦局)であった。ウィンストン・チャーチルの発案で、「チャーチルの秘密部隊」と呼ばれた。これは、やがてNATOに採用されることになった(3)。


 上の画像。第二次世界大戦中、英国特殊作戦局はレジスタンス組織を支援するための秘密作戦をおこない、後の「グラディオ作戦」の着想となった。

 連合国の勝利後、これらの「残留ゲリラ部隊」は解散することなく、ほぼすべてのヨーロッパ諸国で強化・拡大された。アメリカからの直接の援助と奨励を受けてのことであった。

 欧州議会議員(1979-1989)で、欧州議会から正式な調査も任されていたリチャード・コットレルは、著書『グラディオ:NATOの短剣はヨーロッパの心臓に突き刺さっている』の中で次のように書いている。

 「1949年4月にNATOが設立されると、残留の秘密部隊は次第に新しい軍事同盟の直接管理下に置かれるようになった。NATOは秘密戦部門を慎重に設置し、秘密部隊を管理し、任務を割り振った。
 秘密部隊の存在を知ることができるのは、信頼できる少数の関係者だけであった。それぞれの秘密部隊は後に暴露されたが、最初に暴露されたグラディオという部隊の名称が他のすべての部隊にも適用されるようになった」

 しかし、予定されていたソ連への侵攻は頓挫した。そこで、秘密部隊は別の目的に使われることになった。

 その目的は、すべてを共産主義者のせいにする偽旗作戦であって、それによって国民の間にパニックと反感を呼び起こし、有権者を安心できる右翼政権の居心地のいい腕の中に送り込もうと考えたのである。

 リチャード・コットレルはこう書いている。

 「秘密部隊とその仲間は、自国民を銃殺し爆撃し不虞にし殺害するよう命じられた。どんなヨーロッパの主権国家であっても、共産主義者を政府閣僚の座に就けることを、アメリカは許そうとはしなかったのだ。こうして、左翼運動はすべてモスクワの隠れ蓑として疑われるように仕向けられたのである」

 イタリアは、ヨーロッパで最大かつ最強の共産党を擁するので、秘密部隊の攻撃リストの筆頭に挙げられた。

 イタリア共産党はムッソリーニとの戦いを主導したことで賞賛されていたので、1946年6月におこなわれたイタリアの戦後初の選挙では勝利すると予想された。これは、もちろん、「鉄のカーテン」という絶対的命令下では容認しがたいものだと考えられた。
鉄のカーテン:イギリスのチャーチルが首相退任後の1946年3月5日訪米し、おこなった演説。この演説でチャーチルは「シュチェチンからトリエステまで“鉄のカーテン”が降ろされた」と述べ、ソ連の動きを制するためには圧倒的な防壁が必要だと主張し、大戦後の「冷戦」を告げる有名なことばとなった。

 調査ジャーナリスト、クリストファー・シンプソンはその著書『ブローバック』の中で次のように書いている。
 イタリア共産党に対抗するキリスト教民主党の資金の相当部分が、捕獲したナチスの資産(これらは主にアメリカ人が保有していた)から得られていた、と。
 この資金面での介入がイタリア政局のバランスを崩し、キリスト教民主党を優勢にして、かつ数千人ものファシストをキリスト教民主党の党内に隠すことになった。

 かくしてキリスト教民主党は、グラディオ作戦の時代から1994年に解散するまでの50年間、イタリアで支配的な政党となった。

 イタリアで、もうこれ以上の共産主義支持者が生まれないようにするために、グラディオ作戦は、CIA、MI6、ヨーロッパの情報機関の知識と支援を受けて、イタリア人に対する残虐な暴力キャンペーンを指揮した。暴力キャンペーンは「鉛の時代」(anni di piombo)として知られる20年間の大半を占めることになった。


 1980年8月のボローニャ駅での爆撃で85人が死亡した後、鉛の時代の最悪の出来事

 1959年、NATOの内部説明資料(1959年6月1日付)が英紙の手に渡り、残留秘密部隊の任務が「国内の反体制活動」との対決に正式に変更されていたことが明らかになった。秘密部隊は今後、「決定的な役割…、すなわち.戦争の一般的な政策レベルだけでなく、緊急事態の政治を決定する役割」を果たすことになったのである(4)。

 つまり、この残留秘密部隊はNATO指揮下にあって、ソ連の脅威がない場合には、内政問題に行動を向けることになったのだ。
 その内政問題のなかに含まれていたのは、ヨーロッパ市民に対するスパイ行為とテロ行為であり、それは各国の警察部隊の支援と援護を受けながら、というものであった。
 これは、NATO機構を支持していた右派政権内部をさらに中央集権的に支配するために使われたのだった。

 グラディオ作戦は、「緊張の戦略」という戦術を用いており、三つの基本的なレベルで機能した。
 第一のレベルは、主に街頭でおこなわれるゲリラ戦であった。これは国民の国家への忠誠心を強化し、ソ連からの引き離しを目的にしていた。

 第二のレベルは、NATOが引き起こした政治的陰謀を伴うものであった。たとえば、特定の政府が密かにソ連と共謀していると主張するなどであるが、それはNATOに都合の良くない、民主的に選ばれた政府を強制的に退場させて、言いなりになりやすい傀儡(かいらい)政権に置き換えることが目的だった。

 第三のレベルは、NATOの目的を妨げるとみなされた人物の[ハード]および[ソフト]な暗殺(すなわち「実際の暗殺」と「人望の暗殺」)であった。
 1978年のイタリア元首相アルド・モロ、1986年のスウェーデン首相オロフ・パルメ(スウェーデンのJFKとして知られる人物)、1961年のトルコ首相アドナン・メンデレスと閣僚2人、1963年のアメリカ大統領ケネディなどがその例である。
 また、イギリスのハロルド・ウィルソン首相の人格破壊すなわち「スキャンダルを造り上げて人間的評価を落とす」)もおこなわれた。これらの「暗殺」の後に、NATOとアメリカが支援する民衆暴動が続いて起こったのである。

 グラディオ作戦による暗殺未遂には、ドゴール大統領(詳細は後述)、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世(詳細はリチャード・コットレルの著書を参照)などの件がある。

 グラディオ作戦の立案者はイヴ・ゲラン=セラックで、秘密工作部隊の首謀者であった。

*「緊張の戦略」は、暴力的な闘争が抑制されるのではなく奨励されるという方針。
 目的は、国民にひどい恐怖感を与え、人々に安全と強力な政府にを求めさせること。これは、より権威主義的な、あるいはネオファシスト政府への道を開くことになった。
「緊張の戦略」は、1968年から1982年までのイタリアの鉛の時代と最も密接に一致しており、無政府主義者や極左マルクス主義集団が爆撃・誘拐・放火・殺人をおこなったことにした。



イヴ・ゲラン=セラック――グラディオ作戦の背後にいる秘密工作部隊の首謀者

「イヴ・ゲラン=セラックは、『キリスト教ファシズムの新世界秩序』という個人的なビジョンに夢中になっていた。
 彼はまた、グラディオ・テロリズムの知的指導者でもあった。彼は基本的な訓練とプロパガンダの教本を書いた。これがグラディオの戦闘規則と言えるものだ」

――リチャード・コットレル著『グラディオ。NATOの短剣がヨーロッパの心臓に突き刺さっている』

 ゲラン=セラックは戦争の英雄であり、アルジェリアの反逆者、挑発者、暗殺者、爆撃者、諜報員、メシアニック・カトリック教徒、そしてグラディオ作戦「緊張の戦略」の背後にいる知的首謀者であった。

 ゲリン=セラックは、アジンター・プレス社を通じてグラディオの教本を出版した。その中には「我々の政治的活動」が含まれている。これは彼の「十戒」の第一番目ともいうべきものであり、次のように述べられている。

 「我々の信念はこうだ。政治活動の第一段階は、すべての政治体制に混乱・混沌を導入しやすい条件を醸成することでなければならない......
 我々の見解では、我々がおこなうべき最初の活動は、共産主義と親ソ連の活動を装って、民主国家の構造を破壊することだ......

 さらに、我々はこれら共産主義と親ソ連の活動家のグループに潜入者を潜り込ませることだ」 [強調は筆者]。

 ゲラン=セラックは続ける。

 「2種類テロが、このような事態(国家崩壊)を引き起こす。無差別テロ(無差別に殺戮をおこない、多数の犠牲者を出す)と選択的テロ(選ばれた人に危害を加え、殺す)である......。

 この国家破壊は、「共産主義活動」という名目でおこなわなければならない。
 その上で、軍部、法権力、教会の中枢に介入し、民意に影響を与え、解決策を提案し、現在の法体系の弱点を明確に示さなければならない。そういったやり方で民衆の意見を分断しなければならない。
 こうして、我々が国を救うことができる唯一の手段であることを示すわけである
」[強調は筆者]

 無政府主義的な無差別の暴力は、そのような不安定な状態をもたらす解決策であり、その結果、まったく新しいシステム、権威主義的な国際秩序を可能にするものであった。

 イヴ・ゲラン=セラックは公然のファシストだったが、偽旗(にせはた)戦術を初めて使った人物だったわけではない。偽旗作戦は、いつの時代もつねに共産主義者を非難し、国家による警察と軍隊のより厳しい統制を正当化するために使われたものだったからだ。

 1933年2月27日、ヒトラーの副司令官であったヘルマン・ゲーリングは、ドイツ国会議事堂の焼失現場で叫んだ。

 「これは共産主義革命の始まりだ。我々は1分たりとも待ってはならない。1分たりとも待てない。情け容赦はしない。共産主義者の幹部は一人残らず射殺しなければならない。共産主義者の代議士は、今日まさに絞首刑にしなければならない!」(5)。

 ほんとうに不思議なのは、このようなドラマを何度も聞いたはずなのに西洋人は飽き飽きしないようである、ということだ。

 このように、「欺されやすい人」が続出しても決して飽きてしまわないように見える。ライヒスターク火災(ドイツ国会議事堂放火)の場合、今では誤報であることが広く認められている。が、即座に非難され困惑したのはオランダ系ユダヤ人だった。

 火災の翌日、すなわち予定されていた総選挙の6日前に、ヒトラーは年老いたヒンデンブルク大統領(第一次世界大戦の象徴)に、「この危機は非常に深刻であり、個人の自由を完全に廃止しなければ対応できない」と説得している。

 ヒンデンブルグが与えた「ライヒスターク火災法(ドイツ国会議事堂放火令)」は、ヒトラーが権力を完全掌握するために必要な多くの道具を与えた。2週間以内に、議会制民主主義も「歴史の燃えかす」と化してしまったのだった。

*「ライヒスターク火災法」:ドイツ大統領ヒンデンブルグが発行した「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」の通称。
 1933年2月28日、ドイツ国会議事堂放火事件に即座に対応したアドルフ・ヒトラー首相は、この法令でドイツ市民の主要な市民的自由の多くを無効にした。
 ドイツ政府は、この法令を、ナチスの反対者と見なされる者を投獄するための法的根拠として、またナチスの大義に「友好的でない」(批判的な)出版物を抑圧するために使用された。

 ヒトラーによる偽旗作戦はこれだけではなかった。

 コットレルはこう書いている。

 「ナチス親衛隊SSは、強制収容所の小集団を犠牲者にした。(ポーランド軍によって)ドイツのブーヘンヴァルト強制収容所から『解放された』と偽って、強制的にポーランド軍の軍服を着させて変装させ、ナチスの支配する自由都市ダンツィヒの主要ラジオ塔にたいして偽旗の模擬攻撃をおこなわせたのだ。こうしてドイツは、ポーランド人による挑発を口実に、ポーランドに侵攻したのである」

ブーヘンヴァルト強制収容所はドイツが設置した「ブナの木の森」という名を持つ強制収容所。
*自由都市ダンツィヒは、第一次大戦後のヴェルサイユ条約によってドイツより切り離されてから第二次大戦初期にナチス・ドイツ軍によって占領されるまで存在した都市国家。現在のグダニスク。主な居住者はドイツ民族だった。

 ゲラン=セラックは、新しい「ブラック帝国」のための僕(しもべ)として生涯を費やした。彼が夢見た帝国は、神聖ローマ帝国の後継として、ローマ教会の普遍的な神性と欧米を結合させることであった。これはキリスト教ファシズムである。

 彼はいくつかの古い集団に属していた。その中には元ナチスやファシストの第一世代のものもあった。また彼は、インドシナや朝鮮戦争で血を流したフランス人将校の古参兵に属し、第11衝撃パラシュート連隊のエリート部隊員でもあった。この部隊はSDECE(フランス情報機関)と連携していた。

 ゲラン=セラックのフランス情報機関とのつながりは、彼が秘密軍事組織(OAS)の創設メンバーになる上で重要な役割を果たすことになった。OASはフランスのテロリスト集団で、フランス人将校の不満分子で構成されており、スペインに拠点を置き、アルジェリア独立に反対して戦っていた。

秘密軍事組織(OAS)は、フランスの極右民族主義者の武装地下組織。「アルジェリアは永遠にフランス」をモットーとし、アルジェリアの独立を阻止するために武装闘争をおこった。

 ゲラン=セラックは、ヨーロッパ中に複雑な準軍事・テロ組織網を形成し、グラディオ作戦のための訓練施設も作ったが、アジンター・プレス社を隠れ蓑にしていた。

写真はゲラン=セラック本人

 リチャード・コットレルは書いている。

 「ゲラン=セラックは1966年にリスボンに到着した。手に携えていたのは、『神のいないリベラリズム(すなわち共産主義)に対する闘い』という次の段階を示す刺激的な青写真だった。
 彼は、テロリストのための国際的な旅行代理店として機能する組織を提案した。主要な資金がCIAによって提供されていた。これは、『鉛の時代』を調査するためにイタリア上院が1995年に設立したペッレグリーノ委員会による情報である
 この委員会は、1969年にミラノのフォンタナ広場で起きた農業銀行爆破事件を調査するために、グイド・サルヴィーニ判事を調査委員として任命し、その結果、彼は、ゲラン=セラックのアジンター・プレス社にこの事件の全責任があるとした。
 サルヴィーニ判事は議員たちに調査結果を説明した。アジンター・プレス社の工作員が1967年からイタリアで活動し、地元の過激派ネオ・ファシスト組織に爆発物の使い方を指導していた、と。
 この一件から、CIAはヨーロッパを席巻しているグラディオのテロリズムに積極的に関係していると言える

 アジンター・プレス社は、表向き平凡な会社の背後に、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、アフリカのテロリストを運ぶための見えないネットワークをもっており、記者や写真家を装った殺し屋に、偽の書類やパスポートを提供していた。そのなかにはゲラン=セラック本人もいた。

 コットレルは続ける。

 「アジンタ-・プレス社は......グラディオの養成所であり、ヨーロッパ中から集まった秘密部隊の新兵が、爆弾製造、暗殺、心理作戦、不安定化工作、対反乱などの技術を訓練される場所だった。
 その多くは、カリフォルニア州フォート・ブラッグにある米陸軍の秘密戦争センターの教科書を借用していた
 ゲスト講師として、イギリスのSAS(特殊空挺部隊)やグリーンベレー......フランス陸軍の将校から傭兵に転身した人たちが、ときどき来ていた。......
 ゲラン=セラックは隣国のスペインからの招きに、気軽に応じ、フランコ独裁政権にたいするレジスタンス(抵抗運動)を鎮圧する「死の部隊」を組織した。
 アジンター・プレス社の活動は、「緊張の戦略」がピークに達したすべての国でおこなわれていたことがわかっている。トルコ、ギリシャ、キプロス、イタリア、ドイツ、ベルギーである。


ドゴール対NATO

「フランスは、その全領土において、主権の完全行使の回復を決意している」
――フランス大統領シャルル・ド・ゴール

 第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国は「NATOの指令に従え」という圧力が強まっていた。しかし、シャルル・ド・ゴール仏大統領(1959-1969年)は、これに反対した。
 この不一致の主要なポイントの一つは、フラッペ部隊(核攻撃部隊)をめぐるものだった。ドゴールは、核攻撃力をNATOの管理外に置くべきだと考えていた。ドゴールは、フランスがNATOとワルシャワ条約機構との間の銃撃戦に自動的に巻き込まれることを嫌ったのだ。

 コットレルはこう書いている。

 「このように摩擦があまりに深かったため、フランスは 1960 年にNATOの統合指揮系統から離脱し、完全な軍事的独立を回復するための第一歩を踏み出した」

 ドゴールが外交・軍事政策においてフランスの国益と独立を執拗に追求したことは、北大西洋憲章と明らかに相容れなかった。

 ドゴールがアルジェリアを独立させるという話を始めたとき、かつての同盟国や彼の配下の軍や警察幹部は、ドゴールを辞めさせなければならないと判断したのである。

 1961年4月21日、秘密軍事組織(OAS)によるドゴール大統領転覆計画が動き出した。

 コットレルはこう書いている。

 その日、「急進的」と知られていた4人の将軍が首都アルジェでクーデターを起こした。
 この計画に関与していたのは、アメリカ政府幹部、ペンタゴン国防総省、フランスのNATO本部で、ドゴール大統領を排除し、アルジェリアを西側諸国のために確保しようとした。
 クーデターの指導者であるモーリス・シャル空軍大将(写真)は、かつてはNATOの中央ヨーロッパ方面軍司令官であった」 [強調は筆者]



 コットレルは続ける。

 「アルジェリアのモーリス・シャル空軍には、フランスのグラディオと密接な関係を持つルートから秘密裏に資金が供給されていた。
 クーデター前夜、CIAの秘密工作部門の副部長リチャード・ビセルは、アルジェでおこなわれたシャル空軍大将との秘密会議に嬉しい知らせを伝えた。
 シャル空軍大将は告げられた。48時間以内に国を支配下に置けば、アメリカ政府はシャルの政権を正式に承認する......と。



 クーデターの最初の輪郭は、1960年夏に固まっていた。前アルジェリア総督のジャック・スーステルが、CIAのリチャード・ビセルと秘密裏に会談したときだった。
 同年、シャル空軍大将はNATOの中央ヨーロッパ方面軍司令官からの辞任を自ら演出したのだった。
 1961年1月......主要な計画者たちが集まり......主要な議題は、ドゴールが倒された後の代替政権として秘密軍事組織(OAS)を設立することであった。『プラン・ブルー』の主要人物が全員出席していた」
[訳注:しかし1961年4月24日の暗殺計画は失敗した]

 ドゴールの暗殺未遂は大統領在任中に30回を超えることになる。

 ドゴール大統領は、自分の命に対する本当の脅威は、密かにNATO傘下に集まった軍幹部たちであると信じて疑わなかった。

 コットレルによれば、パーミンデックス/世界貿易センター(WTC)が秘密軍事組織(OAS)と関係があることをドゴールに知らせたのは、ドゴールの最高顧問だったジャック・フォカールだった。フォカールは、スイス国内でのパーミンデックスとWTCの事業を停止させた。[第4部で、パーミンデックスとWTCの役割について詳しく説明する]

*訳注:パーミンデックスは、スイスのバーゼルに本社を置く業界団体で、特殊作戦執行部のフロント組織または支部だった。『Permindex: Britain's international assassination bureau : the killers of JFK target Reagan and the Pope』(Executive Intelligence Review)という本が出ている。


 NATO/CIA連合は、少なくとも二回、ドゴール排除の試みを後で支援した。NATO 連合軍最高司令官(1963-1969)のライマン・レムニッツァー将軍は、その首謀者の一人であった。



 1965年、ドゴールは、またもや自分を暗殺しようとする、NATOに扇動された陰謀を知ることになる。
 これがきっかけとなり、ドゴールはNATO本部にフランスからの6カ月以内の全面的退去を通告した。
 さらに、レムニッツァー将軍は「NATOからの解雇」という略式命令をドゴールから受けた。
 レムニッツァー将軍は、ケネディ大統領からだけでなく、ドゴールからも解雇を言い渡されたのである。[詳しくは第4回で述べる]。

 このフランスのNATO脱退により、NATOの本部SHAPE(連合国ヨーロッパ最高司令部)は、1967年10月16日までにパリ近郊のロカンクールからベルギーのカストーに移転することを余儀なくされた。

 43年の時を経て、2009年、フランスはサルコジ大統領の決断により、NATOに再加盟することになった。
 コットレルはこう付け加えている。サルコジはド・ビルパン内閣の内相として、劇的なタイミングでパリ郊外暴動事件(2005)の鎮圧にあたり、大統領選挙戦(2007)に勝つという興味深い記録を残している......。


小さな町の静寂の中で

「性的人身売買、産業的小児性愛、政治的経済的脅迫のためや単なる利益のために作られたスナッフ映画(殺人映画)の報道はすべて、スパイ、公式に結ばれた麻薬取引、秘密の準軍事ネットワーク、NATO高官が絶えず内政干渉する黒い蜘蛛の巣に絡め取られていた」
――リチャード・コットレル著『グラディオ。ヨーロッパの心臓に突き刺さったNATOの短剣』

*訳注:スナッフとは「殺し」という意味で、「スナッフ映画」とは、娯楽用途に流通させる目的で行われた実際の殺人の様子を撮影した映像作品を指す俗語。 スナッフビデオ、スナッフムービー、殺人フィルム、殺人ビデオともいう。

 ベルギーはフラマン民族(オランダ語話者)とフランス民族で構成されている。第二次世界大戦中、多くのフラマン人は公然とあるいは象徴的にドイツ側につき、ナチス連邦に入ってでもいいからベルギーを完全に消滅させ、フラマン民族を国家とすることを望んだからである。

 コットレルはこう書いている。

 「戦時中のドイツ人との親密な友好関係の名残から、ベルギーのグラディオ『残留部隊』のネットワークや国軍の一部では、『ナチス・スタイルの異教的象徴主義』や、『神秘的な血の結合の儀式』がおこなわれるようになっていた。いずれにしても右派に傾いていたのである。
 この神秘主義的な傾向には、身も凍るような恐ろしい意義が隠されていた。そして、まだ当時はベルギーにもたらされてはいなかった多くの倒錯嗜好を形成することになったのだ。

 新生EUが本拠地を探し始めたとき、ブリュッセルを選んだのは、まさに「ヨーロッパのコックピット(操縦席)」としての中立的で小さな国のイメージのためであった。しかも、そのベルギーには、外国人の詐欺師やその後に起こることに対処する能力が全くなかったからである。

 コットレルはこう書いている。

 「そしてEUの次に、ベルギーにやって来たのは、フランスから不愉快な状態で追い出されたNATOだった。
 ベルギーに入ってきたNATO戦士たちは、すでに分裂状態にあったこの国を、NATOの王国に変身させようとした。
 そして、欧州連邦機関が急速に拡大し、巨大企業の進出が相次いだ。この二大カリフ(EUとNATO)の評議会にできるだけ近づこうとしたのである。このEUとNATOこそ、ローマ帝国以来、世界で最も強力な軍事・経済同盟だからである。

 小さなベルギーに、西ヨーロッパで二番目に強力で侵入力の強い犯罪カルテルが誕生した。その結果、ヨーロッパのコックピット(操縦席)は、また主要な麻薬と違法な武器取引の拠点となった。サイドビジネスとして性売買組織も形成された。

 コットレルによれば、CIAは戦争が終わるとすぐにベルギーのナチス(それもほとんどがフラマン人である)を採用し、州や地方レベルの高官に抜擢していた。そうした「元」ベルギー・ナチスの人物たちは、CIAの保護下で司法から守られ、刑務所から釈放された。

 NATOの陰謀の数々と、レムニッツァー将軍がベルギーに輸入した暴動鎮圧のベテランたちは、ベルギーのグラディオ作戦の編成に貢献した。「政治的に正しい」という線に沿って(これはつまり本当は正しくないという意味である)、SDRA-8(フランス人用)部門とSTC/Mob(フラマン人用)部門に厳格に分割されていたのだ。

 コットレルは書いている。

 「ベルギーの極右の調査の第一人者であるジャーナリストのマニュエル・アブラモヴィッツによれば、ネオナチは国家のすべての機構に潜入するように仕向けられたが、特に警察と軍隊には注意が払われた。
 1980年代までには、ネオナチの民兵組織『ウェストランド・ニューポスト』や、そのフランス版である『ジュネス戦線』などのファシスト戦線のおかげで、ネオナチの浸透度は非常に深くなり、ベルギーの軍隊はほとんど完全に極右ネオナチの支配下に入ったと言えるまでになった。
 こうして、その後数十年にわたって多くの偽旗作戦がおこなわれた後でさえ、ベルギー国内で左翼の破壊部隊が密かに組織的活動をしているという証拠は、ただの一度たりとも表に現れることはなくなった。他方、極右の扇動的な組織は公然と栄えていた」[強調は筆者]

 ベルギーのギャングとテロリズムを調査する特別調査委員会(1988-1990)の委員長であるヒューゴ・コヴェリエ上院議員が突き止めたのは、その証拠資料つまり「左翼の破壊部隊が組織的に活動していた」という説得力ある証拠資料を追っていくと、最終的に「司法警察」という名の特別部隊に行き着いた、ということだった。

 以下は、「謎の書類スキャンダル」として知られるようになったものについてのコヴェリエ上院議員の発言である。

 「ブリュッセル周辺の著名人が若い未成年の女の子たちとセックスしている写真やビデオを極右組織が持っているという、脅迫文書に関する話があちこちで聞かれるようになったと想像してみてほしい。このような文書が存在することは、これまでずっと否定されてきた。だが遂に、この事件に関する証言やビデオが実際に警察当局にあったことが証明された。

 最初はないとされた書類が、あることがわかった。また、現実にはなかったビデオが、その後十分に興味深いものであるとわかった。
 それらは最終的に、1982年から起きた「ニヴェルの連続暴行殺人事件」の捜査を担当する治安判事に手渡された。[また、店舗での虐殺事件のいくつかも、「ニヴェルのギャング」の仕業だとされた]
 しかし、この人物(治安判事)はその後、そのことについて証言することを恐れている! 一体ここでは何が起きているのか!」(6)

*「ニヴェルのギャング」は、1982年から1985年の間にベルギーのブラバント州で主に発生した連続暴力殺人事件。合計28人が死亡し、22人が負傷した。3人の男性で構成されていると信じられているギャングはいまだ逮捕されていない。

 コットレルは著書の中で、これらの問題解決の道筋を詳細に探っている。彼はつぎのように結論づけた。
 ベルギー国内の児童虐待や殺人にも関わっている性売買組織は、当局の間で大いに奨励されているのだが、これには、次の二つの理由があるからだと。

 第一は、犯罪になるという脅迫ネタを作り出すためである。こうすると(真の悪事をやっている政治家の)政治的な撤退が不可能になる(つまり平気で悪事を続ける人物をその職に縛り付けておくことができ、手駒として扱いやすい)。もう一つは、極秘ファイルに記録されたこれらの行為のいくつかがカルト宗教の入信儀式の一部であった可能性である。

 コットレルはこう書いている。

 「それは血の儀式のような異教徒的なネオナチの特徴を含んでおり、正統派の軍事組織だけでなく、国家の秘密部隊の要員によって実践されたと考えられている」

 この文脈においては、NATOの最近のツイッターのスキャンダル(この前の国際女性デーに、黒い太陽のナチスのオカルトシンボルをNATOが投稿した事件)は、結局のところ、単なる不手際などではなかったのかもしれない、ということだ......。



イタリアの秘密パラレル・ステート「裏国家」

「我らは一つの肉体だった――山賊も警察もマフィアも。父と子と聖霊のごとくである」
――ポルテッラ・デラ・ジネストラの虐殺事件の裁判におけるガスパーレ・ピショッタの証言

 1981年6月、驚くべき発見があり、世界中の大見出しをつくりだした。その一例がタイム誌の「イタリア――フリーメーソンP2総帥の陰謀」である。
 それは、イタリアの支配者階級の1000人近くが、フリーメイソンの秘密組織「プロパガンダ・ドゥエ(P2)支部」「国家の中の国家」に属しているというリストが見されたことだった。





 このP2スキャンダルによって、イタリアのフォルラーニ首相の内閣は倒れ、内閣にP2支部のメンバーが居ることが発覚した。

 このリストは、イタリアの著名な金融家リーチオ・ジェッリの屋敷で、警察の手入れで発見されたものだ。ジェッリはP2支部の総帥で、ベニート・ムッソリーニの有力な信奉者であった。彼の唯一の目的は、イタリア・ファシズムの復活であった。

 1000人近いブラックリストの中には、権力を掌握し、ファシスト共和国の樹立を目論む紳士たち、プロパガンダ・ドゥエ(P2)支部のメンバーが含まれていた。



 イタリアでのプロパガンダ・ドゥエ(P2)支部の特徴は、神秘的な儀式や、忠誠の誓い、絆の誓いなどの報告と大きく重なるものであった。

 ジェッリはスイス経由で南米に逃亡した。興味深いことに、彼はピノチェト政権時代にチリにいたと伝えられている。ジェッリは、スイスとイタリアで、テロ行為やその他の犯罪の容疑で欠席裁判を何度も受けることになった。[詳細はこちらをご覧ください]

 ジェッリが逃亡する際に彼の邸宅に残したもう一つのものは、自称「イタリアの民主的な再生計画」であった。詳細に記述されていたのは、NATOの支援を受けたグラディオの強行と、アメリカとそれに続くNATOの保護国としてのイタリアのDeep State(闇国家)の台頭を意図したすべての手順(7)。 主任設計士はジェッリ自身であった。

 CIAはジェッリを通じて、多数のファシストを党員に抱えるキリスト教民主党に資金を供給していたのである。

 フェデリコ・ダマートはイタリアの諜報機関の一員で、1950年代から1970年代までイタリア内務省予備局を率いていたが、諜報機関の活動は公にされず、秘密裏におこなわれていた。



 イタリアの諜報機関員ダマートは、NATOとアメリカを結ぶ北大西洋条約特別局の局長となった(8)。

 ダマートの主要任務は、内務省内の秘密のイタリア国家憲兵カラビニエリ(主に国内の取り締まり業務をおこなう)の中核であり、カラビニエリは彼の個人的支配下にあった。これは「予備役軍」であり、「保護局」としても知られていた(9)。

 コットレルはこう書いている。

 「この影の組織(保護局、Protective Service)は、ローマのおしゃれなシシリア通りにある巧みに偽装された事務所で、戦略情報局OSS(後のCIA)と仲間だった」

 フェデリコ・ダマートは選りすぐりの代表者なので、イタリアを代表してNATOの前身である大西洋条約の交渉に当たった。保護局は、ダマートの支配下にあって、初期グラディオの出発点であった。

 1969年、イタリアは本格的な政治危機に陥っていたが、その根底にあったのは、ほとんど人為的なものだった。
 1969年12月12日、ミラノのフォンターナ広場にある国立農業銀行で起こった大爆発は、グラディオの戦闘開始であり、それが「鉛の時代」と呼ばれるようになった。即座に過激派とされた左翼がその責任を負わされることになった。イタリアの工業地帯の不安を煽ったという罪である。

 グイド・サルヴィーナ判事は、1988年に調査を開始して次のように結論づけた。農業銀行爆破事件は、イヴ・ゲラン=セラックのアジンター・プレス社と、イタリアの著名なネオ・ファシスト組織である「オルディネ・ヌオーヴァ」(新秩序)および「アバンギャルド・ナツィオナーレ」(国民軍前衛部隊)の間で計画された作戦であったと。

 1990年8月、キリスト教民主党党首でイタリア首相ギリオ・アンドレオッティは6回首相を務め、その後7回目の首相を務めていたとき、自分が上院の特別調査委員会に召喚されていることに気がついた。
 それは上院によって急遽、召集されたもので、イタリア国内に秘密のパラレル・ステート「裏国家・併行国家」が存在するという報告を調査するためのものだった。
 またさらに、この秘密のパラレル・ステートは、既成の軍組織の外で活動する独自の秘密特殊部隊を備えていたという報告だったのである。

*「並行国家(パラレル・ステート)」とは、アメリカの歴史家ロバートパクストンによって造られた用語で、組織、管理、構造において国家に似ているが、正式には合法的な国や政府の一部ではない組織や機関の集まりを表す。

 アンドレオッティ首相は、長年にわたってイタリアに秘密部隊が存在していたことを認めた。しかし、それは形式的にはNATO組織の一部と言った。
 アンドレオッティ首相は聴衆に向かってキッパリとこう断言した。この秘密部隊はソビエトの侵攻に備え、イタリアを守るための予防措置であり、それ以上の脅威ではなかったのだ、と。
 そして、ソ連の脅威が薄れたことが明らかになった1971年に、その秘密部隊は解散された、とアンドレオッティ首相は主張した。
 アンドレオッティ首相は主張した。それが秘密だったのは、いわゆる「残留部隊」の存在をロシア側に知られてはならないからだったのだ、と。
 そして彼は付け加えた。いずれにせよ、NATO諸国はすべてそのような軍隊を持っていたので、イタリアだけではなかったのだ、と。


画像。1990年8月、特別調査委員会でグラディオ作戦の存在を告白するイタリア首相ギリオ・アンドレオッティ


 アンドレオッティ首相は証言の中で次のことをことを認めた。この秘密軍隊はグラディオとして知られ、国土の隅々にまで十分な在庫のある武器庫がり、これらの武器庫はNATOから供給されたものだったということを。

 しかし、アンドレオッティ首相が証言の中で明かさなかったのは、彼自身がグラディオの一員であり、長年にわたりイタリアの地下組織のなかで強力な一員であったということだ。

 アンドレオッティ首相は、暗殺されたアルド・モロの後任者として、イタリアの首相に就任した人物である。モロについては先に述べたように、グラディオの犠牲者の一人だった。

 ヴィンチグエラは、ネオファシスト組織「新秩序(オルディネ・ヌオーヴォ)」「国家前衛部隊(アヴァンガーディア・ナツィオナーレ)」に所属し、テロ行為や暗殺をおこなっていた。
 が、1972年のペテラノで自動車爆弾によりカラビニエリ(イタリアの国家憲兵)3人を殺害した罪で、現在終身刑で服役中である。
 彼の証言は、フェリーチェ・カッソン検事が捜査していた西ヨーロッパ各地のグラディオ・ネットワークをつなぎ合わせるのに役立った。



 ガーディアン紙のインタビューの中で、ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエラは、彼と彼の友人たちが、彼が言うところの「超組織」の傭兵だったと語っている......。

 「超組織だよ。口実となったソ連の軍事侵攻はなかったがね......
 この超組織はNATOに代わって仕事を引き受けたんだ。イタリアという国の政治的なバランスが左傾化するのを防いでいたんだ」

 だから、西側諸国からもしこんな話が、つまり今日、仮想敵国から偽旗作戦の「警告」があったという話があったとしても、一粒の塩でおいしくいただくのではなく、1ポンドの塩を加えて、「塩っ辛すぎて、こんなもの食えたもんじゃない」と言ってやるべきなのだ。




[第4部では、イギリス、アメリカ、またNATOの、グラディオ作戦への関与と、世界の麻薬と性の売買が、アメリカを経由してどのように結びついているかを論じる予定です。また、このネットワークがケネディ大統領殺害にどのように関与していたかも論じる予定である]。

著者の連絡先は、cynthiachung.substack.com

*第11 衝撃パラシュート連隊:フランス軍のエリートパラシュート連隊で、かつてはSDECEの武装支部として機能していた。Dupas中尉が設計した記章は、月明かりの下でヒョウと金色の翼を備えている。


*「政治的に正しい」が褒め言葉から侮辱にどのように移行したか:
1964年、ジョンソン大統領が「政治的に正しいからではなく、正しいから」政策を制定すると述べたとき、「政治的に正しい」が褒め言葉から侮辱に変わった」とされた。
https://www-washingtonpost-com.translate.goog/lifestyle/style/how-politically-correct-went-from-compliment-to-insult/2016/01/13/b1cf5918-b61a-11e5-a76a-0b5145e8679a_story.html?utm_term=.19da582509e3&_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc
1985年:「民主党員と共和党員の両方が、赤字が1986年の選挙の重要な問題であると信じている場合、バランスの取れた予算に投票することは、政治的に正しいことです」のように使われている。

*「一粒の塩」で発言するということは、その真実についてある程度の懐疑的な見方を保ちながら、それを受け入れることを意味する。
「塩。少しは良いかもしれないが、多すぎれば有毒」
 「1ポンドの塩」で、ということは、決して真に受けたり、受け入れてはいけない,ということを言っている。



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