ホロヴィッツのスカルラッティ: ベルリン コンサート 1986
ひさしぶりに「待ちに待った」という思いを味わったCDが出た。ウラディミール・ホロヴィッツが、1986年にベルリンで開催したコンサートの録音がCD化されたのだ。
「待ちに待った」というのは、ふたつある。ひとつは、コンサートが行われてから20年以上が経過して、ようやくCD化されたということ。もうひとつは、たしか10月にHMVに注文をして、その月のうちに届くはずが、入荷予定が延びて、延びて――HMVと数回メールのやりとりをして――ようやくこの年末になって届いたのだ。
これは、ホロヴィッツが83歳のときのコンサートの録音だ。この翌月、彼は2度目の――そして最後の来日を果たしている。ほんとうに聴きたかったのは、この東京での演奏なのだが、今回発売されたベルリンのコンサートはそのひと月のもの。ぼくが楽しみにしていたスカルラッティの曲目はおなじで、おそらくはコンディションもあまり変わらないと思う。
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この2度目の来日のとき、ぼくはまだ学生で、クラシックを聴きはじめたばかりだった。なかなか日本にきてくれなかったホロヴィッツは、その3年前に、はじめての来日を果たしている。この1983年の初来日のコンサートは、吉田秀和氏の有名な「ひとこと」があるように、評判の良いものではなかった。
ぼくは1983年のときのことはよくは知らない。あとになって、吉田氏自身の著作や、さまざまな記事などで知識として知った程度だ。だから、2度目の1986年のときには、そうした初来日の印象、先入観はなにもなく、ただ往年の大ピアニストのコンサート――高額なチケットも話題だった――という程度の認識で、どちらかといえば興味本位で、NHK-FMでの中継を聴いたのだった。
ヴィルトゥオーゾとして知られるピアニストのコンサートだから、どんなに凄い演奏ではじまるのだろう――そう思いながら、たいして緊張もせず待っているうちに1曲目がはじまって、ぼくは思わず息を呑んだ。
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コンサートは、スカルラッティの3曲のソナタではじまった。ぼくは、そのときはじめてホロヴィッツというピアニストと、ドメニコ・スカルラッティのソナタを聴いたのだった。1曲目は K87 だった。その静謐で美しい響きに、あっというまに引き込まれてしまった。つづいて、チャーミングで闊達な K380。小太鼓を模した音の響きということらしいが、そのときにはまるで小鳥のさえずりのように聴こえた。どちらも、それまで――その後も――聴いたことがないほど、美しかった。
当時のコンサートのことは、これ以外に、じつはあまり覚えていない。とにかくホロヴィッツというピアニストの凄さと、彼のスカルラッティの美しさに、完全にやられてしまった。
その後すぐ、ホロヴィッツが1960年代にスタジオ録音した、スカルラッティのソナタ集を買ってきた。ところが、ここにはぼくが聴いたスカルラッティはいなかった。それから約20年、ぼくの音楽を聴く幅もひろがってきて、スカルラッティもさまざまな演奏を聴いた。ソナタでいえば、シフの演奏が印象的には近かったけれど――結局、あのときのホロヴィッツのようにスカルラッティを弾いた演奏は、ほかにはないのだ、ということを理解するようになった。
その演奏が、いまになって音質のよいCDで聴けるようになろうとは、思いもしないことだった。最後の3ヶ月、HMVには焦らされたけれど(笑)、とてもうれしい。
このCDの背面にはこう引用されている――"Anyone who has once heard Horowitz's pianissimo will never forget it" (Der Tagesspiegel, 21st May 1986)。まさに、ぼくはそうだったのだ。
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余談を三つ。この年のホロヴィッツのコンサートは、モスクワでの模様がすでにCDとしてDGからリリースされている。でも、このCDには肝心のスカルラッティが1曲しか収録されてない!
もうひとつ。おなじくこの年のホロヴィッツの演奏は、YouTube で見ることができる。上で紹介したソナタ K86 は "カークパトリック番号" と言われる体系であらわしたものだが、ほかにスカルラッティのカタログ番号には "ロンゴ番号" があり、この番号であらわすと、おなじ作品が L33 となる。YouTube ではこのロンゴ番号で紹介されていることが多いようだ。ちなみに、この K86=L33 のモスクワでのライブの映像はここ。息を詰めて(笑)ご覧ください。
最後。ベルリンでのコンサートの終盤、アンコールのまえに弾かれたショパンの英雄ポロネーズ。なんて粋な演奏なのだろう、と思った。とても当時83歳とは思えない。
Vladimir Horowitz, piano
Sony Music : 88697527082
Link : HMVジャパン