小さな手術とマレイ・ペライアのピアノ
依然あわただしい日々がつづいているなか、さらに追い討ちをかける出来事があった。手術のため1週間入院したのだ(^o^;。
原因となった疾病は深刻なものではなく外科的なもので、医者も気軽に引き受けてくれたけれど、なんといっても、こちらは抜歯以外には手術など経験したことのない初心者だし、手術当日に切り開いてみてはじめて予想より問題の部位が大きいことがわかったらしく、回復にもすこし時間がかかるなど、小さな手術ながら大変な思いをした。
手術が終わってからしばらく、麻酔で下半身が思うように動かせず、麻酔が切れたら切れたで痛みのためにあまり動けず、ベッドに張りつけになった。本を読むのも意外に疲れる――時間を忘れさせてくれるはずのジョン・グリシャムの『謀略法廷』は、ぼくの状況が悪いのか、あるいはグリシャムの今回の作品に問題があるのか、さっぱり進まない。
それで、病室の天井を見つめながら、iPodで音楽を聴いた。
以前、仕事で体力的にも精神的にも厳しい状況だったときに、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聴いたという話をした。今回はこれはダメだった。ぎゅっと握り締めたような静かなる力強さは重荷だった。それでふと、マレイ・ペライアのバッハ、パルティータをかけてみたら、これがすっと心に入ってきて、そのまま――ときおりウトウトとしながら――全曲を静かに、ゆっくりと聴いた。
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特別に好きと意識したわけでもなかったのに、ペライアのピアノは、いつも近くにあった。買った覚えも理由も思い出せないまま、勝手にCDが増えていく(爆)――そんな感じだった。いちばん印象的だったのは、自分の部屋の棚のなかに、バッハのゴールドベルグ変奏曲を「再発見」したときだ。たぶん買った当時1回だけ聴いて、あまり感じるところもなくそのまま棚にしまっておいたのだろう。PCにCDを移していく過程で、好奇心からこのCDもリッピングし、さらにiPodにも入れた。そうしてある日、聴いてみて驚いた。大人の余裕、ゆとりが感じられ、とても楽しげで魅力的な演奏だった。
ペライアのピアノは、アンドラーシュ・シフのピアノと居場所の似ているところがある。演奏の印象を文字にすると似た表現になりがちだし、雑誌『レコード芸術』で、矢澤孝樹氏が「ペライアはいつもシフの割りを食ってしまう」と書かれていて、なるほどと思った。でも実際には、演奏の結果から受ける印象が似ていたとしても、音楽の根幹のところはずいぶんとちがう。両者の音楽に愉悦感があったとしても、シフのそれが闊達で溌剌としているのに対して、ペライアはもっと静かで内向的なものを感じさせる。それはあるいは、ペライアが一時期、指の故障で活動を休止していたこととも関係しているのかもしれないけれど。
今回のペライアのパルティータは、先に発売された2番から4番が2007年の録音、今年になって発売された1番と5番6番が2008年と2009年の録音となっている。そしてこの2枚目が発売になるちょうどおなじ時期に、シフのパルティータ全曲の再録音がECMから発売となった。
レコード会社がちがうから仕方がないとはいえ、なんという間の悪さ。世間では、どちらかといえばシフの再録音のほうに話題が集まっていたように思うし、正直なところ、ぼくの印象もそうだった。
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でも結果として、病室にいた日、聴きたいと思ったのはペライアの演奏だった。ちなみに、持ち込んだiPodには、シフとペライア両方の演奏が入っていた。いつどっちを聴きたくなるのか、自分でもよくわからなかったからだ(笑)。
ベッドに横たわりながら、ペライアのパルティータをじっと聴いていると、不思議と心が落ち着いた。そしてCD2枚分――約140分のあいだ、ただひたすらこの音楽を聴いていられることに安息と満ち足りた気持ちを感じた。とてもいい時間を――痛みに耐えながら――過ごせた。
退院して自宅にもどり、あらためて自分の部屋の棚からペライアのCDを探してみると、ほかにバッハのイギリス組曲、ベートーヴェンのピアノ協奏曲、そしてショパンのエチュードなどが出てきた(このエチュードはたしか、あとになって制作上のミスが発覚した事故盤で、HMVから返品の連絡がきたものの、代替品がないと言われたのでそのまま手許に置いておいたものだ)。
このエチュード(練習曲集)を聴いていると、たとえショパン特有の激しく情熱的な楽曲であっても、パルティータやゴールドベルグ変奏曲で受けたのとおなじ印象を受ける。つまり、技術的に安心感があるのはもちろんのこと、豊穣な音楽を鳴らしつつも、音楽を楽しむ余裕・ゆとりが感じられ、どこか優しい演奏なのである。そのいっぽうで、一聴してガツンと来るような派手さはない。あわただしいなかで接していると、聴き逃してしまうのかもしれない。これは大人の音楽だな、と思う。