神仏がご利益をくれるという場合「自然な自分」から遠く、その場所から出ているものを感じている場合「自然な自分」に近いのは、どうしてでしょうか?
また、引き出したものの強さが違うのはどういうことでしょうか?
その場所から出ているものを感じることによって、自分の心の奥にある「自然な自分」を感じることができるのに対して、その場所から出ているものを感じることができないということは、自分の心の奥にある「自然な自分」を感じることができないということです。
その場所から出ているものを感じることができない時、感じているのは自分の心の奥で無い部分、「自然な自分」でない自分となります。
これが一般的に何と言うか、判った人もいると思います。
それは、「自然でない自分」イコール「自我」です。
この「自我」は常に自我自身の欲求を満たそうとしています。
そのため、「自然な自分」から出る純粋な欲求を、自我が自我自身の欲求にしてしまうのです。
この神仏にお願いする場合、ほとんどは自我の欲求で条件が付いています。
(神仏にお願いする場合でも条件が無いほど、自然に近づきます。)
その条件とは、
・苦しまずに
・努力せずに
・この方法で
などです。
そのため、自分から引き出したものも条件付きになってしまいます。
・こうなったら行動しよう
・ああなったら始めよう
なんて感じでしょうか?
それに比べて、自然な自分からの欲求は純粋ですから条件というものがありません。
・ただただ、それをしたい!
となりますので、苦しかろうが、困難だろうが、あまり関係ありません。
なので、引き出したものにも何の条件も付きません。
・ただただ、その欲求に導かれるまま行う!
となります。
これが、引き出したものの強さが違がってくる理由です。
本当は、ずっと「自然な自分」でいられるのでしょう。
でもそれは、悟りきった人(もう人とは呼べないかもしれませんが)ぐらいでしょうね。
できるかぎり、そこに近づきたいとは想いますけどね(^^;
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