昔のぼくならそれを見て「すごいな~」と感心していましたが、今は違います。
今は「大変だな~、かわいそうに」と思ってしまいます。
全部の人がそうとは言いませんが、ぼくが出会ったこなしてしまう人は断れなくて仕方なく対応しているだけで、本当は悲鳴を上げていたんだなとはっきりと判ります。
断ったり、出来なかったりすることで自分に対する周囲の評価が下がるのを恐れているのが、ありありと観てとれます。
以前、ぼくは2週間で覚えてこなす仕事を約2時間でほぼこなしました。
ノートにメモしていくような論理的な順序による覚えではなく、映像を撮るようなイメージ的な覚えをすることで映像を脳内で流しながら仕事が出来るのでこなせているような感じになります。
でもそうしたことで次から次へと仕事を回そうとしてきたり、より難しい仕事を担当させられようとしました。
途中までは従っていましたが、いざお願いされたときはきちんと断りました。
周囲の評価が下がろうがどうでも良かったので(^^;
その後ここを辞めました。
それからイメージ的な覚えを封印し、こなせない人になりました。
そのせいか今はこの方法をやろうと思ってもやれなくなってしまいました。
なので出来ない人というかマイペースな人で通ってます。
そんなマイペース人を通していると、今度は疑似出来る人は抱えきれなくなったストレスをぶつけてくるんですね。
「なんで自分ばかり仕事をまわされて、お前はしなくていいいんだ!」
みたいな‥‥
「そんなの決めたのは上だし、嫌なら断ればいいじゃん」
と思いながら、思うだけ(笑)
でも判ってないよね。
ぼくが居なくなったら、その分がまた自分にまわされるのに。
でも本人は気づいてないだろうな。
結局、周囲の評価を下げない方を選択してることを。
そして自分より弱そうなとこにストレスをぶつけているだけなことを。
もし周囲に出来る人、出来ない人がいたら、本当なのか疑似なのかを観てみると、その人の本当の姿を知れるかもしれません(^^
各党がいろいろと政策を表明していましたが、選挙が終わるとすぐ変わってしまうこともあるので、それを基準にするには難しいものがあります。
そこでここ数年、ぼくはその党や候補者の気を感じるようにして楽しんでいます。
今回は、ある党が圧勝しましたね。
でも気はあんまり強くなかったので、大して活躍出来ないのではないかと思っています。
そして、連立の党、ダメ出しされた党が意外と気が強かったのと、快挙の党もそれに次いで強かったので、ここらへんが、何か株を上げることをするのかもしれません。
それと快挙の党と同等数の期待されていた党たちは、残念ながらほとんど感じませんでした。
頑張りがあまり評価されないのかもしれません。
まあ、未来のことは決まってませんので判りませんけどね。
何かを評価するときに、どこに基準を置くかで判断は大きく変わります。
自分が何の基準を大事にするかで、自分自身を知ることができます。
自分が大事にしているものは、なぜ大事にしているのでしょう?
それが無いとどんな不都合があるのでしょう?
それは自分にとって、何番目に大事なのでしょう?
そして本当に大事なことなのでしょうか?
基準を変えてみると、今までと違ったものが見えてくるかもしれません。
ちょっとやってみてください(^^
そのためネットを検索していると、覚醒体験、神秘体験、悟り等、を経験されている人も少なくないことが判ります。
しかし玉石混交のため、偽りに惑わされてしまうこともあります。
また、偽りに見えても違う場合もあります。
どうして、見抜くことが難しいのでしょうか?
それは同じものであっても、人それぞれの見方によって全く違ったものを感じてしまうからなのです。
ある人は本物だと言い、ある人は偽者だと言います。
そういった周りの評価に振り回されていると、自分で判断が出来なくなってしまいます。
なぜ判断できないかというと、自分の焦点が判っていないからです。
人の焦点は、自分の焦点ではありません。
また、人によって焦点は違います。
ある人はお金に焦点が合い、ある人は優劣に焦点が合い、ある人は能力に焦点が合い、ある人は教えに焦点が合い、ある人は愛に焦点が合い、という具合にバラバラです。
自分の場合でも、他人の場合でも、この焦点がどこに合っているかを見てみると、何を大切にしているかがよく判ります。
まずは今、自分の焦点はどこなのか、知ってくださいね。
そして、どこに焦点を置きたいですか?
ちょっと、考えてみてください(^^