ここでは説明が複雑ですので、新しい生を得るまでの輪廻の主体となる存在が輪廻を抜け出せない場合と抜け出す場合について一部抜粋しながらまとめたいと思います。
中有の身(死の光明から起きる身)
・三次元的肉体が滅びる死の階梯までに修行を怠り、「空(くう)」や「譬えの光明」の体験をもつことができなかった一般の死者は、輪廻の主体(業など)が浄化されず「死の光明」から起きる中有の身体は苦しみに満ちたものになる
・中有に入った輪廻の主体になるものは、苦しい中途半端な環境から抜け出し入るべき縁のある両親と新しい肉体を捜そうとする
・中有の身は「死の光明」の意識(一時的なさまざまな分別が消える)により、一見清浄に見えるが本質的に煩悩を捨てたわけではないので、またもとに戻る
・原因はすべての煩悩の原因である「無明(すべてのものを実体あるものとして認識してしまう心)」を捨てないことにある
不浄の幻身(譬えの光明から起こす身)
・「譬えの光明」(空性という真理の理解と死の光明とを重ね合わせたもの)の意識(無明がとらえている実体あるものとしての存在を否定できる)で、清らかな意識
・「譬えの光明」は空性を直観的に理解する智慧に少し混ぜ物が入ったような状態で空性を直接的に理解したときのときの意識とそっくりだがイコールではない
清浄な幻身(勝義の光明から起こす身)
・不浄の幻身の状態では煩悩を完全に捨てたわけではないので行を続けて、「勝義の光明」と呼ばれる本当の空性を直観する体験をした瞬間、「不浄の幻身」は虚空に虹が消えていくように消滅し逆行して「近得(真っ黒なヴィジョン)」が心に現れて「清浄な幻身」を獲得し、煩悩も完全に捨て去ることができる
・「清浄な幻身」を得た行者が再び「勝義の光明」を心に実現すれば、完全無欠の身体と心を得たことになる
幻身者の心
・空性を直接知るとき、認識の対象である「空性」と認識の主体である意識とが、水と牛乳を混ぜ合わせたように渾然一体となる体験をする
・この体験を「等引知(とういんち)」といい、この体験からもどった意識を「後得知(ごとくち)」という
・「後得知」ではブッダの境涯に入らない限りすべてのものに実体があり、それ自体の力でほかとの関わり合いと関係なく存在するように眼に見えるが、実体あるものとして執着しようとする心は起こらない
幻身を得た修行者はそのままの姿では救済を求める一般の衆生を救うことはできないので、一般の衆生にもわかる具体的、物質的な姿(変化身)をとる必要が生じてくる
これらの表現を一部の抜粋だけで理解することは難しいと思いますが、大体こんな感じです。
一般的(中有の身)には「空」の体験がないので、すべてが幻想だと観ることができないためその状態を引きずって輪廻から抜け出すことが出来ないのでしょう。
不浄の幻身は「空」の体験があっても知ることと出来ることが違うように、まだズレが残っている状態のだと思います。
清浄な幻身は、ズレが無くなった状態なのだと思います。
ひょっとして表現は違いますがアートマンとブラフマン、小悟と大悟、悟りと悟後みたいな感じなのかもしれません。
次は「生」の章ですがこれはあまり書くことがありませんので、次回は「光明」について書きたいと思います(^^
真っ赤に輝く心
・真っ白に現れた心(顕明)が溶けたとき、雲一つない秋の晴天を太陽の光があまねく満たしたような「顕明」よりずっと清浄で、晴朗な真っ赤に輝くヴィジョンが心に現出する
・胸より下の(左右脈管の)風が性器のつけ根のチャクラをほどき、火の性質によって(中央脈管を)上昇していき、胸のチャクラの下まで来る
・別名「顕明増輝(けんみょうぞうき)」あるいは「甚空(じんくう)」
真っ黒に近づいた心
・真っ赤に輝く心が溶けたすぐ後、雲一つない秋の晴天の日のたそがれどきに暑い暗黒が満ちたような真っ黒に近づいたヴィジョンが心に現出する
・中央脈管の中で上からの風と下からの風が胸まで届いたことにより胸のチャクラがほどけ中にある「不滅のティグレ」の粒子に上下の風が触れる
・別名「近得(きんとく)」あるいは「大空(たいくう)」
その後(死の光明)
・「近得」の状態はしばらくすると消失し、一切何も心には現れない
・卒倒したときに突然視界が閉ざされるような感覚に似た暗黒の状態になる
・最後に残ったとても微細な意識が溶けてしまったことを意味する
・「不滅のティグレ」の中にある最も微細な意識(根源的な意識)と風(根源的な風)といわれるものが活動を開始するまでこの状態は続く
・中央脈管の上下からの風が不滅のティグレに溶けこみ、中央脈管内に入ってきたすべての風が根源的な風に溶け込んだとき、今まで眠っていた根源的な意識が覚醒する
・秋の晴れた空において、今まで現れた月光・日光・暗黒という光明の段階の汚れた3つの縁を離れた、虚空そのものの色、晴朗で非常に清浄なヴィジョンが現れる
・空性(くうしょう)を直観的に理解したときの主観と客観との対立を離れた状態によく似ていて、認識される側とする側が牛乳に水を混ぜたように渾然一体となった状態
・別名「一切空(いっさいくう)」
秋の空が譬えに挙げられるのは、地上のちりが虚空に舞い上がっているのを、夏の雨が落とし雲により空が隠されてしまうことのない晴朗な空模様が多いのが秋の空だからでそうです。
また虚空とは、何もない空(から)の状態で同時にさまざまな妄分別(迷い)のない心の状態で、障害物がないゆえの空(そら)を見ることができる譬えで、粗い分別のない微細な心を認識できるということを象徴的に示しているそうです。
そして注意点として次のことが書かれています。
・「死の光明」の体験は空性を直感的に理解する体験とは似ていても、決してイコールではない
・四空(空、甚空、大空、一切空)は粗いレヴェルの意識が溶けてなくなったことを指すだけで、仏教でいう「空性」とは違う
・普通の人は、存在するものすべてを不変の実体のあるものとして認識し、執着から離れることができないので、死ぬことによっても意識の変革はなされず、いつまでも輪廻転生を続けることになる
一般人が死の瞬間を体験する「死の光明」はそれと気づくことができないそうですが、熟練修行者は「死の光明」に修練の結果出した「空性という真理の直観的理解」を重ねた「譬えの光明」を得ることができるそうです。(2014/6/15一部訂正)
ここまでがだいたい「死」の章で書かれていることです。
この次は死と生の間「中間(中有)」についてですが、ごちゃごちゃしていますので自分が気になったところだけ一部抜粋してまとめようと思います(^^