ツインソウルであろう彼女との連絡を断っているからかもしれません。
しかし、そのおかげで今までなら見過ごしていた、その人自身の奥にある魅力などを感じるようになりました。
それと同時に、閉ざしているハートを開けてあげたいという気持ちも強く芽生えています。
恋愛するときの感情に似ています。
正直、恋愛してみたいという気持ちもないことはないのですが、ぼくが求めている「ひとつになる」というものと比べると、やっぱり違うんですね(^^;
その人たちと恋愛することで、一時期の至福や高揚を味わうことができるでしょうが、永遠の至福に届くのは難しいと感じています。
その知らせは、すぐさま彼女の名前や誕生月日のシンクロできます。
そして今は、過去最高のときと匹敵するくらいのシンクロラッシュなんです。
相手を間違えないようにとの念押しされてるみたい。
そのシンクロの受け取り方が、合っているのか違っているのかは、先になってみないとわかりませんが、そう信じています。
やっぱり、言葉ではとうていあらわすことのできない永遠の至福からくる愛しさをを、この感覚を、彼女に伝えたいなぁ~(^^
それは、物事の浮き沈みが激しく早いことです。
お笑いにしろ、経営にしろ、ファッションにしろ、遊びにしろ、ニュースにしろ、突如表れて突如消えていきます。
まるで何か先を急いで消化させているようにも思えてきます。
ある意味では多くの人の夢や希望や願望が叶いやすい時なのかもしれません。
それと同時に夢や希望や願望から醒めやすい時なのかもしれません。
この世に求めることが永遠ではないことを手早く見せつけているようです。
自分の外側に何かを求める人にとってはチャンスでもありますが、失望する覚悟も要りそうです。
自分の内側に何かを求める人にとってもチャンスではありますが、幻想を受け止める覚悟が要るのかもしれません。
もし流れの加速が起きているなら、これからの変化は思考の予想をどんどん超えていくことになると思います。
それに付いていくには、身軽になる必要があるのかもね。
いろんな荷物を整理するときなのかもしれません(^^
ぼくたちが、普段使っている「愛」と言うと、自分以外に対して「愛してる」や「愛しい」と感じることだと思います。
そこには、自分を心地良くさせたり、高揚させたりするものなどがあるはずです。
ですから、「苦しい」「悲しい」などの自分を心地良くさせないもの、落ち込ませるものなどは「愛」ではないと考えます。
そして心地良く無いときには「何でもっと愛してくれないんだ」とか「もっと自分を愛してほしい」または「愛が冷めた」、「昔は愛してた」など、愛が無かったり消えたりしてしまいます。
こういった変化する「愛」は「本当の愛」では無いと言われています。
では「本当の愛」とは何かということになりますよね(^^;
「本当の愛」とは永遠であり変化しないものと言われています。
そうすると「本当の愛」は、どこか特別で、特別なところに有って、簡単には手に入らないと感じてしまいませんか?
そうすると「自分達の愛は永遠に変わることがないはずだから、本当の愛だ」と特別なものだと思いたくなってしまうのです。
そして、いつしか勘違いだったということも‥‥
ある意味では間違いないと思います。
しかし、ある意味では間違いだと思います。
まず「本当の愛」を知るためには「本当でない愛」を知る必要があります。
この「本当でない愛」が、普段ぼくたちが使っている「愛」です。
ですが、この「本当でない愛」は「本当の愛」とは全く別という訳ではないのです。
「本当の愛」というのは、全ての条件がありません。
「本当の愛」だけが在ります。
こういう意味では、永遠であり変化しません。
しかし、「本当の愛」は流動しています。
そのため、流動のとき変化を起こします。
その変化は、いろんな「かたち」になって現れます。
どんな「かたち」かと言いますと、ありとあらゆる全てです。
ですから、先に書いた心地良いものだけでなく、心地良くないものも「本当の愛」から変化した「かたち」であって、「本当の愛」では無いとは言えないのです。
こういう意味では、変化するものとなります。
そこで、この「かたち」は「本当の愛」の「一部」「影」「子供」など表現されることもあります。
つまり「本当の愛」は、自分のすぐ目の前にあって、すでにそれに触れて手にしているということなんですね。
でも、そんなこと感じないと思います。
なぜ感じられないかと言いますと、それは 前回の記事 にチラッと書いてあります。
「本当の愛」は、みんなの周りにあふれているんですよ(^^
出来れば、ず~~~っと永遠に。
しかし、自分の焦点は幸せを感じるであろう所、または、幸せを感じたことのある所ではないですか?
永遠でなく、一時的に。
だって永遠に感じられるなら、もう焦点に迷う必要は無いはずですから。
でも残念ながら、この世で永遠に幸せを感じられる焦点は存在しないのです。
ぼくたちの世界は、必ず何かを認識するためには、その比較となるものを必要とします。
幸せを認識するためには、不幸が必要なんですね。
これが「陰と陽」で表わす「陰陽論」です。
または「二元論」とも言われています。
この「陰と陽」というように分裂して感じているのを、「陰陽」という一緒に感じるところが、一元の世界です。
ここでは、時間は存在しませんので永遠であり、一瞬であります。
このとき、この世で感じる一時的な幸せではない永遠の幸せがあります。
ここらあたりは、最近の記事でのコメントで清水彦典氏とのやりとりを見ていただくと、判り易いかもしれません。
この一元を焦点にすることが出来れば、永遠の幸せを感じることが出来る訳ですが、一元の世界にずっと居るということは、この世には居ないということです。
もう人として存在する必要も無い訳です。
必要ないはずなのに、この世に居るということは、まだ何か残っていることがあるのだと思います。
それが、人それぞれの課題であったり役割であったりするのでしょう。
それで重要なのは、一元で無いなら必ず認識するための比較が必要ということです。
どんなに悟った人でもです!
ただ、いつでも一元に戻ることが出来きたり、一元に非常に近い状態を保ったまま二元に居るのなら、この世で起こる出来事に振り回されることは無いでしょう。
この世で焦点を合わせている以上、どんなに偉いことを言っていても、どんなに愚かなことを言っていても、みんな同じです。
この世で、自分が幸せを感じられるものに焦点を合わせているだけです。
お金でも、優劣でも、能力でも、その他のものでも、お互いの焦点が合えば肯定し、あわなければ否定しているだけで、みんな何も変わらないんです。
永遠の代わりに、一時的をつなぎ合わせようと焦点をあちらこちらに変えているだけなんですね。
どうです?
焦点の仕組みを判っていただけました?
これを元に、いろんな人の焦点を見てくださいね。
そうすれば、いろんな焦点があり、いろんな焦点を自分も持っていることが判るかもしれません。
そして、いずれ本当に合わせるべき焦点を求めることになるでしょう(^^