なんてことは言いません。
太極から観れば、大局的な栄枯衰退があり、小局的な栄枯衰退があります。
中局的な栄枯衰退もあれば、小小局的な栄枯衰退もあります。
多分もっといろいろな栄枯衰退があるでしょう。
大局的な衰退の流れに逆らうでもなく、巻き込まれるでもなく、流れの中で臨機応変にしていくことが大切だと思います。
ある物事が廃っていくなら、新しく始まりそうな物事に力を注ぐ準備をするのもいいですし、充電のために休んでてもいい訳です。
成長している物事があればそれに乗ってもいいですし。
その人の状況によって、起こす行動は違って来ると思います。
みんながみんな、流れと同じに従わなければいけないなんていう決まりはありませんからね。
最近のちょっとした出来事では、今はネットの急速な発展によりテレビを見る人が少なくなって視聴率が稼げなくなったと関係者共々嘆いていましたが、それだけが原因ではないことが証明されてしまいました。
イカさんも家政婦も朝ドラも倍返しも視聴率が段違いでしたから。
多くの人の興味の衰退が起こっていたのを、今までのように興味を引こうと頑張って番組を作っても逆走状態でした。
しかし興味の誕生や成長に合わせれば、視聴率を稼ぐことが出来ない訳ではないんですね。
他のことでも大きい局的な視点に変えることで全体の流れを見ることは出来ますが、そこに居続けてしまえば固まっているのと同様になってしまいます。
小さい局的から大きい局的へ、そして大きい局的から小さい局的へ自由に動けるように身軽にしてください。
それが全部の局的を臨機応変にする太極の視点なんですよ(^^
人の本性(ここで言う本性は自我の本音のことです)が見える男性「愛(いとし)」と、素直に生きようとする女性「純(じゅん)」の物語です。
これが、なかなか面白い内容になっています。
純は、自分の気持ちに素直に生きようとすると、周りのルールとぶつかりトラブルばかり起こします。
周りは、トラブルに巻き込んでくれるなと嫌味満載で、落ち込んでばかりです。
一方、愛は人の本性を見ないために、いつも顔を伏せています。
相手の顔を見ると色んな本性が判ってしまい、気分が悪くなってしまうからです。
なので仕事を続けることが出来ません。
しかし愛は純の顔だけは、まともに見ることが出来ます。
純が自分の心に素直だからです。
純は、そんな自分を認めてくれる愛に心癒されます。
そして、愛もそんな自分を認めてくれる純に心癒されます。
2人は、お互いに自分自身で居られる場所を見つけることが出来たのです。
それは作り話だからと思う人も多いでしょう。
まあその通りなんですが、これがなかなか現実をひねくって表現していると思いませんか?
現実では、純のように素直になれば傷つくことも多いですから、自分を押さえ込まなければなりません。
愛のように周りに目を背ければ孤立してしまいますので、周りに合わせなければなりません。
結局、どちらも自分を隠さなくてはなりません。
それをしないと、このドラマみたいになってしまう確率が高いでしょう。
ドラマでも、この現実のような問題が出てくるのですが、純が迷っているとき会社の社長がアドバイスをくれます。
「純粋に生きるには、愛(あい)が必要だよ」
良いセリフですね。
素直(純粋)に生きようとすると、ぶつかること、傷つくことは多々有りますが、その受け皿として愛(あい)が必要なのです。
セリフはありませんが、愛(あい)に生きようとしても、同じです。
愛とは、やさしくするだけでなく、厳しくしたり、怒ったりすることなども含みます。
そのため、思い込みではなく、純粋でなければなりません。
純粋と愛は、セットなんですね(^^