逆に言うと、良くないことをやらなければ美味しい思いが出来ないという歪みが、染みついていたということです。
こんな中で誠実に生きようとすれば、とても大変なのは仕方ないのかもしれません。
ただ新しい時代へと変わり始めたことで、誠実に生きるほうが楽になって行くと思いますが、まだまだ長い年月が必要でしょう。
そして、本当に大切な事に重きを置く価値観に変わっていくとはいえ、安定するまでは周囲の抵抗も強いでしょうから、一筋縄ではいかないのは想像がつきますよね。
ということは、心が揺さぶられることは続くということです。
そんな中でもできるだけ心を安定させて生きるには、やはり心の奥にブレない中心を持つことです。
今まで散々書いてきているので、何のことかは判りますよね。
どんなときでも、安らげる合わせどころがあります。
そこに向かうのか周囲の声へ向かうのかは、みんなの自由意志です。
そして自由というのは自己責任です。
誰かのせいには出来ません。
さあ、みなさん!
どっちへ向かいますか?
しかしそれによって、世界各地で遠くの山などが見えるほど空は澄み渡り、汚れた川は綺麗な色を取り戻すなど、自然本来の美しい姿を現しました。
それに触れる者はごく少数で、世界はいかに早く自分の生活や経済を回復するかに頭も心も奪われています。
ぼくたちの頭も心も活動を停止することができれば、自然本来の美しい姿同様に自分の内なる本来の姿を現してくれますが、それよりも世界の刺激を感じるほうが優先されているので、そこに目を向ける人は極わずかです。
まだ終息した訳ではありませんがこの災難はある意味、自分と向き合うことを余儀なくされるものであったと思いますが、本当に向き合えた人はどれくらいいるのでしょうか?
多分、ほとんどの人は表面的なスタイルを変えるだけで済まして、根本的には変われないでしょう。
それはやはり、意識が常に外側ばかりに向けられているからです。
外側を通して内側を観て動くのならいいのですが、内側が無いと周囲の価値観や刺激によるパターンなどの自分の心の奥以外で動いてしまうのです。
本来の美しい自然が汚されていることに気づかないように、自分も汚されていることに気づかず、対処もせず行動すれば汚れは残ったまま、もしくはどんどん酷くなっていきます。
汚されていることに気づき向き合あうことができれば、何かしらの対処も可能になり汚れを綺麗にしていくこともできます。
汚れに隠されてはいますが、本来の姿はとても純粋なものです。
その純粋さに触れることができれば美しさも汚さも区別はなくなりますが、自分もこの世界もわざわざバランスを崩すように汚して、生きにくくする必要はありません。
多くの人は自分でバランスを崩す原因を作り、それが自分に返ってきて自らを苦しめていると言えます。
そんな必要ないことを必死に作ってしまうのは、人間の悲しい習性かもしれませんが、それをやらない方向に変えていったほうがいいと思います。
それを強制的に教えてくれてるんですよね。
全然気づいてくれないから。
でもそれに抵抗すればするほど、苦しみが大きくなるので気をつけてくださいね。
受け入れると言うのは前向きに感じます。
あきらめると言うのは後向きに感じます。
でもそれは言葉のニュアンスの問題で、どちらにも前向きと後向きが存在します。
それは、自分で納得して決めるなら前向きです。
自分が納得していないのに、無理に納得させようと決めるなら後向きです。
「納得して受け入れる、納得してあきらめる」のと「納得できないけど受け入れる、納得できないけどあきらめる」では、違うと思いませんか?
物事が上手く進んだり、良くなったりするためには、抵抗するのを止めなさいと言われています。
この抵抗を止めることを、後者の納得できない方でやってしまうと、それは逆にずっと残ってしまいます。
よく「夢をあきらめました」と言いながら、ずっと後になって「あきらめた夢が叶いました」というのを聞いたりします。
これは結局、受け入れやあきらめをしたように取り繕って本当は受け入れやあきらめもできていなかったからで、その後本当に受け入れやあきらめが納得できるようになったとき、次に進んだんだと思います。
でもこれって納得の先延ばしですよね?
つまり納得できるかどうかが大事なんだと想います。
納得できるまで、本当の意味で受け入れることもあきらめることもできないということです。
だから、自分の本当の想いが大切なんです。
自分の本当の想いが納得するまで、自分を観詰める必要があるんです。
納得するまでとことんやるか先延ばしにするかは人それぞれですが、先延ばしのまま忘れてしまわないようにしてくださいね(^^