人が介在しているとき、別のものと共振しているということです。
しかし流動し続けるそのものが全く無くなってしまった訳ではありません。
流動し続けるそのものからの顕現も流動し続けるものですから、ある意味流動し続けるそのものと同じです。
すごくややこしくて意味不明ですね(^^;
でもこの意味不明で矛盾している表現は思考では無く、感覚でしか捉えられません。
いや観覚と書いたほうがふさわしいかな。
ぼくもずっとこの観覚でいられる訳では無いので何ですが、ずっとこの観覚でいられるというかそれが通常になるというか、そうであれば全てにおいて何もこだわることが無くなるのではないでしょうか?
そして、この観覚を知っているからこそ、感覚の素晴らしさをいっそう味わうことが出来るのだと思います(^^
頭に浮かんでも、すぐに消えてしまいます。
そして、集中からふっと気を抜くと何ともいえない外部の振動が際立って感じられます。
去年の終わりごろか、今年に入ってかは判りませんが、周りの空気が大きく変わってしまったような感覚です。
何か次に進むようにせかされているような、つつかれているような‥‥
現在、自分が今までやってきたことを一区切りして終わるようにされている感もあります。
何か役目が終わったような感じにも受け取れます。
ひょっとしたら、去年に寄って来たシンクロやヒントに向かって進んでいくのがいいのかな~?
もう少し、じっくりゆっくりしてみます(^^
今でも彼女のことは、愛しく感じます。
愛しいと思えば、すぐに感じられます。
でもこの前、この「愛しい」がなくなったんです。
あっ!
「愛しい」ってこっちだった!
自分でも知らないうちに「愛しい」という言葉を誘導して、感覚を作り出していたようです(汗)
どういうことかと言いますと、言葉に出来ない感覚を、あえて言葉で表わすなら「愛しい」であって、「愛しい」という言葉の感覚ではないんですよね。
だから感覚そのもののときは、「愛しい」がないのです。
「愛しい」があったら、それは違うものですね。
実に巧妙なワナだな(笑)
ぼくの感覚で書かせてもらいますと、「愛しい」があるときはどこか自分から彼女へ送るっぽいのですが、ないときは自然に流れるような気がします。
そして、流れることで満たされていく。
やっぱり、こっちだよね(^^
再開するにあたって、やっぱり彼女とのことを無視する訳にはいきません。
ここに、素直に書くことも自分の成長に深く関わっていますので(^^;
去年のシンクロラッシュで、彼女に確認した時なんですが、名前もシンクロラッシュだったんです。
それで、そのことも伝えましたよ、ちゃんと。
で、反応は‥
イマイチでした‥
まあそれで、年末に「届け」という強い想いがピークになったとき!
それが全部無くなった感覚が起こったんですね。
何か、「スコーン!」と抜けたような、飛び出したような(・・;
その後、シンクロラッシュは無くなりました。
シンクロは、ずっと続いていましたけど。
そんな状態から、2月下旬ちょっと前まで進みます(^^
神社、お寺などは、パワースポットと呼ばれる場所に建っていることが多いのですが、建物がパワースポットなのではありませんよね。
昔の人は、その場所に何か判らないけど、心地いいもの、気持ちいいものなどを感じて、その場所を大切にしたのだと思います。
しかし、全員が感じられた訳ではないので、神などを作ったのだと思います。
そうすることで、大切にする対象が出来るので全員に判りやすくなります。
しかし、時と共に自然から離れれば離れるほど、感じる能力は衰え感覚的な神では、対象としても判り難くなっていったのではないでしょうか?
そのため、もっと物質的な対象が必要となり、画や像といったものになっていったのだと思います。
または、お社、祠などの建物が必要となっていったのでしょう。
まあ、これはぼくの感じたことなので、真実は判りませんけど(^^;
それで、一般的には神仏像やお社、祠などに、自分の願い事をします。
拝む対象が判らないので、多分そこに居るだろうということで、やっていると思います。
なので、そこに居るであろう神仏がご利益をくれると思っています。
しかし元々は、その場所に心地いい、気持ちいいなどを感じさせてくれるものが重要だったはずです。
なぜなら、この心地いい、気持ちいいなどを感じているのは、自分自身の心の奥だからです。
その場所から出ているものによって、自分の心の奥にある「自然な自分」を感じることができるからです。
この「自然な自分」を常に感じることができたなら、自分の中にあるいろいろなものを、自分で引き出すことができます。
しかし、普段は「自然な自分」でいられないため、引き出すことが難しいのです。
例えば、好きな異性にどうしても告白する勇気がでないとします。
なので、神様から勇気をもらおうと祈願しに神社に行ったとします。
そして告白。
結果は、人それぞれでしょうが、別に神様が勇気をくれた訳ではありません。
神様という対象を活用して、自分の勇気を使ったのです。
神仏にお願いごとをするというのは、実は「自然な自分」が持っているものを引き出すためのものなのです。
ただ、神仏がご利益をくれるという「自然な自分」から遠い場合と、その場所から出ているものを感じている「自然な自分」に近い場合とでは、引き出したものの強さが違うので一緒にしないようにしてくださいね(^^