本質から変化して粗さによって宇宙、神仏、霊、人などに共振するか変わってきます。
本質はものすごく微細なため他と共振していると、そこから変えることが簡易ではありません。
そのため共振しているものを無くすことが必要になってきます。
無くすことによって選択は自由になりますから、その微細な本質と共振できる可能性が拡がります。
その可能性の中で上手く本質と共振できれば万々歳となります。
もし神仏と共振したいなら、それに合うように共振すればいいということです。
欲を手放すというのは、粗いものとの共振を無くしていくことなのでしょう。
普段の出来事でも心を奪われている状態は粗いものと共振している状態で、心を奪われていない状態なら粗いものと共振していない状態なので、より微細なものとの共振しやすい方向へと行きやすくなります。
そうやってその都度粗さ(欲)との共振を無くしていき(手放していき)、より微細なものと共振するようにして本質に近づいていくことが大切なんですね。
だからといって粗いものとの共振が悪い訳ではありません。
ただその粗いものとの共振をいつまでも大事にする必要は無いと思います。
ただどちらかというと男性性と女性性のバランス調整やカルマ、トラウマの浄化や原初、宇宙につながるなどといったマニアックなものがほとんどです。
でもまさかこんなにハマるとは思ってもみませんでした(^^;
この石の世界は視点によってさまざまな顔があります。
鉱物と見る人は主に原石を重点とし、結晶の形や透き通り具合などによって価値が違います。
一般的なパワーストーンと見る人はブレスレットやペンダントなどにしやすい加工されたものに重点とし、ファッション性や現世利益色などによって価値が違います。
石のパワー(波動、気)を見る人はパワーの強さや役割を重点とし、心身の治療や霊性の向上などの影響力によって価値が違います。
このように価値観にバラツキがあるため求めるものもバラバラです。
ファッション性が悪い石がすごいパワーを持っていたり、パワーの弱い石が重宝されたり、偽物の石が人気だったり。
人の価値観によって、石の価値が変わるんですね。
これは別に石に限らず、アンティークものやアイテム、ブランド品などでも同じです。
そして、人や人生でも同じです。
人の価値観によって人生の価値は違います。
だから他人の価値観を無理に変えようとするのはその人の人生の価値を変えるということで、大変ですし必要ないのかもしれません。
ただ違う価値観に触れたとき、それを否定するんじゃなくてその違う価値観の中から本人自身が気づくようなヒントを見つけられるようにしたほうが、受け入れられやすいだろうと思います。
そのためには、いろんな価値観が混ざり合ったこの世界をどれだけ受け入れているかが大切なのかもしれませんね(^^
この状態だからこそ判ることは、宇宙も幻想。
人の死だけでなく輪廻のシステムも幻想。
そして原初の境地以外はすべてが幻想。
「もう現世に戻らずずっとここにいたい、そして人として死ぬということか~」とは輪廻というシステムが幻想と判り、もうそのシステムの幻想に戻らなくてもいいと感じたからでした。
ぼくの体験はハートを使って変容させたことにより、今まで書いてきたもののように白いヴィジョンや赤いビジョンが出てきたわけではなく、一気に黒いヴィジョンにいき透明な光と融合して一元になったのだと思います。
まあ、今は戻ってますけどね(^^;
前回に出てきた中沢新一氏の「三万年の死の教え(チベット死者の書の世界)」で「マナ識」「アラヤ識」が出てきました。
このうち唯識宗、天台宗、真言宗では「識」をそれぞれ独自に段階的に区切っています。
唯識宗では「マナ識(七識)」を自我とし、「アラヤ識(八識)」を真我としていますがこれをカルマ等の全ての情報を含む蔵のような領域としています。
天台宗では、この奥に「アマラ識(九識)」という根源的な清浄な意識があるとしています。
これがゾクチェンでいう原初の境地にあたるのではないかと思います。
真言宗では、さらにこの奥に「ケンリツダヤ識(十識)」を最高の悟りの境地としていますが、詳しく説明されていないのでわかりません。
でもゾクチェンの最高の悟りの境地というのが「虹の身体」なので、ひょっとすると関係あるかもしれません。
ここまでいろいろ書いてきて今更と思う人もいるかもしれませんが、とても大切なことなので書いておきます。
ここ数年、覚醒体験などが起こった人が増えてきたように思います。
悟ってもう現世に戻ってきてないなら関係ないですが、ほとんどはまた現世に戻ってきているのではないでしょうか?
本当は自分の体験が誰々と同じとか最高の境地だとか、どうでもいいことなんですよね。
それよりも今が幸せか、後悔ないように生きているか、のほうがずっと大事なことだと想います。
こういうこと書くと「それを感じているのは誰か」とかの意見も出てくるかもしれませんが、その感じている誰かも自分の一部ですからね。
その自分に囚われる必要はないかもしれませんが、無理に引き剥がす必要もないんじゃないかな(^^;
そんなことを、自分への戒め?のためにも書いておきます(^^
このかたの情報をネットで調べても出て来ませんので、人物像等、書籍以外はよく判りません。
ですので、この書籍から所々抜粋したいと思います。
☆悟った心境
きわめて覚醒しきった意識状態
たとえようもない至福の喜びと静まり返った心境
為すべきものは何もない、なにもしなくてもいい、ただ至高の喜びに包まれているといった心境
過去と未来から開放されています。
常に、今、ここに、生きています。
道を歩いていて雨が降れば、それも宇宙の意図としてありがたく受け、晴れればそれでありがたく受け、与えられたもので満足し、味わい楽しみ、宇宙が与えた寿命がくるまで地上生活を楽しんで過ごすということです。
すべての存在との一体感を持つようになります。
草木や花、小鳥や虫、石ころに至るまで、それは自分自身と何も変わらないのだと実感するのです。
森羅万象、宇宙との一体感です。
そのため、相手とのへだたりが消えますから、とてつもなく深い慈愛の気持ちに満たされてきます。
そして何よりも、いつもありのままということです。
「こうでなければいけない、ああでなければいけない」といった自分勝手な価値観をたくさん作り出し、自我意識という幻想を作り出しているのです。それを見抜くことがすなわち覚醒であり、悟るということなのです。
まだまだ、いろいろ書かれていますが、大体こんなところです。
この本は、他にもいろいろなことが判り易く書かれていますので、アマゾンなどで購入されてみるといいと思います。
このかたも、悟りには段階があると書いています。
次は、その悟りの段階について、紹介したいと思います(^^