まだ余韻が残っているので、しばらくは続きそうですが、これがそのまま終わってしまうのかは、もうしばらく待ってみる必要がありそうです。
ただ、今までのようにどちらかを選ぶために観極めるのではなく、その成り行きを静観するという感じかな。
自分の外も、変化を起こそうとする働きが強いですが、こっちもちょっと成り行きを静観したほうがいいみたい。
ブログを読んでくれている人には、何のことかよく判らないと思いますが、ひと段落したら詳細を書きますので、みなさんも静観をお願いします(^^;
もうすでに、話題にする人はほとんどいませんけど(^^;
ぼくは今、自分の中の新しい変化に関して、まだ観極め中です。
ある程度は、違いについて判っているのですが、新しいほうが結構強烈に働くものですから、迷いが出てしまいます。
その違いというのが、第4チャクラへの深さです。
新しい変化のほうは、新しいからなのかハートの奥までは届かないんですよね。
でも、ある程度の深さはあって刺激してきます。
それに比べて、以前からあるほうは、ハートの奥まで入ってきます。
それは刺激ではなく、浸透です。
はたして、新しい変化は刺激によって、新たなる世界を開くのか。
刺激から浸透に昇華するのか。
もうしばらく掛かりそうです(^^
実は、わざと書いているものもあります。
それは、みんなの心を刺激するためでもあります。
この世は幻であり、一瞬々常に変化し決まったことは何もありません。
ですから、良いも悪いもありません。
だから、このブログで書いていることも戯言でしかありません。
どんなに問題提議したところで、どんなにもっともらしいことを書いたとしても、所詮一瞬の戯れでしかありません。
それを知ってしまうと、何も語れるようなことは無くなってしまいます。
それを知っている人はここのブログを読んでも、心が揺さぶられたままということは無いでしょう。
しかし知らない人にとっては、心を揺さぶられ続けるでしょう。
なぜなら、それが良いか悪いか、正しいか間違っているかの判断ができずに残るからです。
自分ではこっちが正しい、こっちが間違いと判断していると思っても、奥底では答えが出ないのです。
それもそのはず、決まったことは何もないから判断による答えは無いのです。
決めなければ残らない。
決めようとすれば残る。
しかし、人として生きていくには選択をしなければなりません。
でも、それをずっと持っている必要があるかというとそうとは限りません。
ぼくは、このブログでみんなの心を刺激して選択して残ったものを表に出し、壊すことも役割として入れています。
だからそういう記事を書くときには、必ず中心があります。
黙して語らずを中心に、黙さず語りわざと刺激して自分を観てもらうようにしています。
みんさん、もっと揺さぶられてくださいね(^^
そしてずっと楽が続くことを願います。
ですが、いざ楽がずっと続くと刺激がほしくなります。
この刺激は、驚きだったり、苦労だったり、悲しみだったりと、いろいろな形があります。
それとは逆に、刺激的な毎日だと変化の少ない楽がほしくなります。
楽がほしくなったり、刺激がほしくなったり、ころころ変わります。
いったいぼくたちは、どっちを求めているのでしょう?
楽をしたいと感じるなら、今の状態は刺激の中にいます。
刺激がほしいと感じるなら、今の状態は楽の中にいます。
必ず、どちらかしか感じることはできません。
でも、よくばりだから両方とも求めているのです。
それが人というものが持っている特徴です。
片方だけを求めていると信じ込んでいるから、もう片方がイヤになってしまうのです。
本当は両方求めていることを知れば、自分というものを深く知ることが出来るのです(^^