人が介在しているとき、別のものと共振しているということです。
しかし流動し続けるそのものが全く無くなってしまった訳ではありません。
流動し続けるそのものからの顕現も流動し続けるものですから、ある意味流動し続けるそのものと同じです。
すごくややこしくて意味不明ですね(^^;
でもこの意味不明で矛盾している表現は思考では無く、感覚でしか捉えられません。
いや観覚と書いたほうがふさわしいかな。
ぼくもずっとこの観覚でいられる訳では無いので何ですが、ずっとこの観覚でいられるというかそれが通常になるというか、そうであれば全てにおいて何もこだわることが無くなるのではないでしょうか?
そして、この観覚を知っているからこそ、感覚の素晴らしさをいっそう味わうことが出来るのだと思います(^^
今の人生には満足していないから、何とかしたいけどどうしたらいいか判らないとのことです。
でも精神世界やスピリチュアル、宗教は信じない訳ではないが、やりたくないそうです。
今の人生を変えたいけど、今の人生を壊したくない!って複雑ですね。
ぼくがその人の理解度に合わせいろいろな話を振ったりするのですが、面白いことにみんな「現実的には難しいよね」という結論で終わってしまいます。
人生を変える何かを求めているのではなくて、できるだけ簡単で楽な方法を求めているんでしょうね。
みんなそうやって毎日が過ぎていく中で少しづつ苦を味わいながら開放へ向かっていくんだろうな~って思いました。
輪廻転生を繰り返していずれはすべての苦から開放されるから心配ないという視点なら、それらも有りなのでしょう。
でも「今」、すべての苦から開放され人生を変えようとするのなら積極的に取り組む必要があります。
自分が何に共振しているのか?
自分が何と共振したいのか?
決めるのは自分自身です(^^
音楽や食べ物の味、花の香り、景色などでも起こります。
意識を向けた対象との間に起こるのです。
ですから、ぼくたちは常に何かと共振して生きているということです。
しかし、無限ともいえる中からどこと共振するかは人それぞれです。
ぼくはパワーストーンの写真からでも、そのパワー感じることがあります。
つまり外観ではなく、そのものがもつパワーに意識を向けることで感じるのです。
同じ要領でパワースポットの写真からも感じることがありますし、移動中に空間を意識することでパワースポットを探ることもあります。
極端な話、調子が良いときは埃でも道路の標識でも本質に意識が合えばパワーではなく幸福感に包まれます。
ただ意識のレベルが上手く合わせることができないと、ただの埃、ただの標識にしか感じられません。
このように同じものでも意識のレベルにより共振できるレベルは変わります。
すごいパワーの埃や標識とかは聞いたことありませんが、パワーが強いものならみんな自覚がなくてもそれと自然に共振したりします。
よくパワースポットで恩恵を受けるには「意識をクリアにしましょう!」とか「感謝しましょう!」とかいいますよね。
これはパワースポットとの共振を邪魔する別へ向いていた意識が一時的にでも無くなれば無くなるほど、自然に合うんです。
そうすると何も感じられなくても帰った後、痛みが楽になっていたり運が良くなっていたということがある訳です。
ですから意識して共振できることに越したことは無いですが、できなくてもパワーの強いものをそばに置いたり身につけることで、邪魔が無くなったとき自然に共振すればそれなりの効果が期待できるということです。
それから効果を期待しすぎて次から次へとパワーの強いものを求めるのは気をつけてくださいね。
大切なのはパワーを活用して、本質に近づいていくことですから(^^