継体王が現日本を創った 2. 朝鮮半島由来王家はなぜ滅んだのか
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レインボー
継体王が現日本を創った
2. 朝鮮半島由来王家はなぜ滅んだのか
前回、現天皇家の家系は、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)まで辿れること、それ以前は朝鮮半島由来ツングース系の王家だったことを検討しました。
そして、このことから、朝鮮半島由来ツングース系王家はアイヌ系の継体王によって507年頃に滅ぼされたと判断されます。
日本の古代史では、日本書記を基に、継体王はツングース系王家の応神天皇の傍系となっています。しかし、これらの理解は、現天皇家はアイヌ系という事実(DNA分類)に反します。
そこで、このようなでたらめな家系図が何故創られたかですが、次のように考えることができます。
まず、このことを示されているのが奈良時代にできた日本書記です。何度も指摘してきましたが、日本書記は「万世一系の偉大な天皇家」をテーマに創られたものです。このため、天皇家は中国の王朝と同じくらい古く、3000年前の神武天皇時代からあったものとなっています。関連し、ツングース系王家の残した巨大古墳は、現天皇家が残したものとしています。
言い換えますと、日本書記は、時の権力者(アイヌ系王家)のために奈良時代に作成された創作であり、事実ではありません。日本古代史は、この創作物を正史と観て研究してきた問題があります。その意味で、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、日本書記は創作であることを明らかにしました。
次に、朝鮮半島由来王家が滅んだ理由ですが、墳長が200m以上もある巨大古墳をいくつも建造し民衆を苦しめたことが最大と思われます。それらの様子は次のようであったと想像されます。
200m以上の巨大古墳となると、推定によると、土興しと運搬のため延べ100万人以上の動員が必要になります。当時は移動手段がなく、徒歩による参加、粗末な手当だったことが想像されます。
ヤマト地域(奈良・大阪)の動員数を推定しますと、5世紀100年の動員数は、17基で2548
そして、巨大古墳建造は5世紀前半に頂点に達し、5世紀後半に半減します。ついには、6世紀前半にはまったく無くなります(下図参照)。詳しくは「巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰」を参照願います。
それらの経過から、民衆の怒りに達したのが5世紀後半と推定されます。
すなわち、ツングース系王家の巨大古墳建造にたいし、民衆蜂起が起こり、5世紀末にツングース系王家は力を失ったと判断されます。
このとき、蜂起の中心に居たのがアイヌ系の継体王でした。様々な情報を総合しますと、彼は450年頃の生まれ、南九州の出身と思われます。初めは、宮崎等の古墳王家を滅ぼし、続いて、吉備(岡山)の王家を滅ぼし、最後にヤマトに向かい、その燃えさかる民衆の怒りを背に、ツングース系王家を滅ぼしたと推定されます。
彼の容貌は、明治維新で活躍した鹿児島出身の西郷隆盛とダブルところがありますが、堂々とした威風がその立像から伝わってきます。詳しくは「神武東征は本当だった愚考(西郷隆盛と継体王の類似)」を参照願います(下図参照)。
継体王の最初の居城(都)は大阪北部の高槻市辺りで、すぐにはヤマトに入れなかったようです。そこには、王宮跡、馬飼跡、渡来人居住跡などが発掘されています(下図参照)。詳しくは「継体王、小さな王宮、初代天皇か」を参照願います。
これらのことは、継体王が大阪北部に都を置いたとき、継体王はヤマトのツングース系王家と対立していた、と理解されます。おそらく、ツングース系王家というのは近畿を支配した大王家ですので、その都(ヤマト)は簡単には滅びなかったと想像されます。
なお、ツングース系王家の滅亡については、継体王と仲間のアイヌ系豪族だけによる戦いではなく、北九州倭国の武王(後の百済武寧王)の支援があったことが推察されます(次回報告予定)。