巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
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巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか 4)巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
今回は、ツングース系王家(古墳王家)の巨大古墳建造は、民衆を疲弊させ、民衆の怒りを限界までに広げたことについて検討します。
まず、古墳王家の古墳の形状ですが、最初の出雲王家は四隅と言われる方墳です。そして、ヤマトに移った後は前方後円墳となりました。この形状の変化は、次のようであったと思われます。
最初の出雲王家は、朝鮮半島由来ですので、そこで主流だった方墳を採用したのだと思われます。そこから移動しヤマト王家なりましたが、東海から中国まで支配する巨大な王家となりました。そこで、その巨大な王家に相応しいより巨大な古墳建造を行ったのではないかと思われます。
当時、新しい墳墓として前方後方墳が出てきました。これは墳墓(方墳)と祭壇(方形)の二つを合体したものですが、これらの建造の過程で前方後円墳の形状の方が、形が人形に似ていて格調高く大王墓の墳墓に相応しいということになったのではないかと思われます。すなわち、方墳→前方後方墳→前方後円墳になったものと思われます。
事実、前方後方墳は、前方後円墳よりも早くできていましたが、数も少なく、200m以上の巨大古墳もありません。
次に、200m以上の巨大古墳(前方後円墳)ですが、全国で38基、うち奈良・大阪に33基(約90%)あります。これらのうち6世紀前半まで建造の31基について上の表にまとめました。
関連し、これらの巨大古墳建造に使用された動員数(作業員数)の推定には、墳長486mで最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の例があります。
「現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設」に詳しく紹介されていますが、その記事によれば、延べ681万人の作業員が関わり、作業員数が多いのは、盛り土の運搬です。ここから創造しますと、おそらく、盛り土量と作業員数は比例する関係にあると推定されます。
そこで、その他の古墳の動員数ですが、墳長については分かっていますので、大仙陵古墳を例に、墳長と動員数の関係を推定してみました。その計算法は、動員数=a×体積(墳長×墳長×墳長)、すなわち、681万人=a×486m×486m×486mから、a=0.059となりました。
この数値をもとに計算されたのが下図の作業員数と墳長の関係です。墳長100mは10万人、200mは50万人、300mは160万人、400mは380万人、500mは740万人で、墳長200mから動員数が50万人で大規模工事となる感じです。その意味で、200m以上の古墳は巨大古墳で、ツングース系王家の王墓と見ることができます。
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この図をもとに、それぞれの古墳の動員員数を上トップの表に示しました。
因みに最初の箸墓古墳ですが、墳長276m、動員数125万人です。箸墓古墳研究者の甘 粕 健(1985)によれば、動員数は延べ100万人と推定していますので、ここでの125万人という数値はほぼ妥当な数字と思われます。
次に、半世紀別の巨大古墳建造の動員数を下図に示しました。5C前半は、世界最大の古墳と言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が建造された時期ですが、動員数は頂点に達し、合計2500万人です。これを50年(半世紀)で割ると1年辺り延べ50万人となります。
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単純化するため、作業に当たる年日数を1人当たり50日とすると、1年辺り延べ50万人動員は、実際は1万人(50万人=1万人×50日)が動員されることになります。
当時5世紀の人口については、前々回の人口曲線から推定しますと、近畿地域で80万人程度ですので、ここから1万人の動員というのは不可能な人数ではありません。
一方、これはツングース系王家の墳墓です。現在のY染色体ハプログループ分類による結果から推定しますと、近畿のツングース系は約30%です。これらの人々は支配者側で、これらの人々以外から動員されたと見ますと、約60万人が対象者となります。
また、動員される者は男性とすると、60万人の半分の30万人、そして、このうち古墳建造に参加できる壮健な男性は約20万人となります。この20万人から1万人、すなわち20人に1人の動員となりますが、毎年のことですので、それぞれ20年に1回は動員されることにすると、ほぼ全員が生涯に1回は動員されることになります。
この動員がどのような労働条件で行われたのが問題となります。当時の食料事情や宿泊事情については不明ですが、古墳建造のための宿泊施設遺跡が見つかっていないこと、その後に革命が起きたこと等の状況を見ますと、厳しい労働状況だったのではないかと推察されます。すなわち、支給されたのは、粗末な食事、粗末な住環境、徒歩による古墳建造地派遣で、奴隷労働に近い扱いだったと推察せざるを得ません。
この5世紀前半の時期は、ツングース系王家が馬と構造船を充実させた時期と前回紹介しましたが、まさに、馬と構造船は巨大古墳建造を可能にした原動力になっていたと思われます。関連し、地域外からの動員もあったことが推察されますが、これらの人々がどのような状況にあったのかは不明です。
さらには、これら大規模古墳建造の他に中小規模な古墳(墳長200m未満)の建造も多数ありました。これらの結果、古墳建造は過酷な事業で、民衆の不満は大きく、次の半世紀(5世紀後半)に古墳建造が小規模化し少なくなったのは、そのためと思われます。因みに、古墳建造動員数は、5世紀前は2500万人ですが、5世紀後は800万人で、約3分の1となっています。
また、5世紀後半末期になると、ウワナベ古墳(奈良)の例ですが、勢力が弱くなり、王家が大阪から元のヤマトに戻った感じを受けます。
このヤマトに戻った理由として、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が5世紀後半に大阪北部を支配するようになったことと関係があると思われます。因みに、継体王は、大阪北部の樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)に新王宮を6世紀初期に築いています。おそらく継体王は、5世紀末期から大阪北部を支配し、一方、ツングース系王家は弱体化し、5世紀末期に大阪の地も守れなくなったのが真相と思われます。
そして、6世紀前となると、200mを超える巨大古墳建造はなくなりました。
なお、当時の継体王を含めたアイヌ系民族の状況ですが、アイヌ系の多い内陸部の岐阜や長野等で弥生時代より古墳時代遺跡数が多くなっていることから想像しますと、中山間地に居たアイヌ系は畑作のほか、適地は少ないが稲作を始め、人口が増え、ツングース系とマレー系は、近畿地域では、ほぼ同数の30%程度になっていたと思われます。
一方、マレー系ですが、現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)と同じ割合があったとすると、海岸部を拠点に稲作を行い、かつ、縄文時代由来の漁業や交易をし、全体の30%程度あったと推察されます。
まとめますと、過酷極まる巨大古墳建造の結果、アイヌ系とマレー系は連合し、ツングース系王家に抵抗し、革命を起こしたと思われます。
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