稲作の発展と武士発生の関係 4. 田植えは多収技術
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稲作の発展と武士発生の関係
4. 田植えは多収技術
前回、田植えで米収量が上がり、そのため面積も増え、人口も増えたことを人口変動から検討しました。
関連し、今回は米の生産量がどのように増えたのか、より詳しく検討します。
まず、田植え導入前の収量ですが、記録が残されていないので想像になります。
近代化されていないアフリカの焼き畑農耕における陸稲栽培を参考にしますと、焼き畑陸稲の1ha当り収量は、平均しますと籾1トンです。この収量は、焼き畑農耕における持続可能な数値とも言われます。
一方、日本の「班田収受の法」時代ですが、当時の水田稲作は畑状態に播種し、芽の出たところで水を入れる乾田直播栽培でした。その栽培法は、無肥料栽培で、稲は水にふくまれている栄養を吸収し育つしくみでした。この栽培方は、畑作と異なり肥料切れや連作障害が無く持続可能ですが、極低収だったと推察されます。
そこで、無肥料の当時の乾田直播栽培の籾収量は、アフリカ焼き畑農耕の1トン/haと同等かそれ以下が妥当と思われます。なお、草を刈り取り冬に肥料として水田にすき込む栽培様式は田植え定着以降と言われております。
そして、班田収受の法では政府から口分田を「良民男子は2段、良民女子は男子の3分の2が与えられた」とあります。すなわち、農民は夫婦の場合、3.4段(約34アール)与えられ、これを上記の推定から算出しますと、その総収量は、340kgか以下であったと推定されます。そして、籾は70%が玄米ですので、その玄米収量は238kgになります。
大人1人当り食べる玄米は、120kgと推定されますので、夫婦の場合玄米240kg(120×2人)食べるとすると、当時の収量(玄米収量238kg以下)ではギリギリで、ここから租税を納めることになると、逃亡したくなると言うのは現実だと思われます。なお、租税は、口分田1段につき2束2把とされ、これは収穫量の3 %から10 %分に相当したと推定されますので、多くの農民は米を十分には食わないで租税を払っていた状況でした。
一方、こうした無肥料乾田直播に似た事例として、アフリカのナエジュリアの小区画天水田稲作があります。この稲作は穴開けしそこに播種し発芽した後に水を入れる方式で乾田直播栽培に似ていますが、最近では化学肥料を少量施用します。
以上のことから、ナイジェリアの小区画天水田は、弥生時代の乾田直播栽培に似ています。一方、現在の改良水田では、田植えのための代掻きを行い、化学肥料を少量施用しますので、肥料を除けば、平安時代の田植え稲作に似ています。
そこで、この弥生時代に似た小区画水田と平安時代の田植え稲作に似た改良水田の籾収量事例を紹介しますと、廣瀬・若月(1997)の報告ですが、下表のとおりです。
少肥条件(15kgN/ha)結果ですが、4品種平均の籾収量は、乾田直播類似の小区画水田で1.85トン/ha、移植類似の改良水田で3.7トン/haですので、改良水田は小区画天水田の約2倍です。
また、当時、弥生時代~平安時代は無肥料条件ですので、60%が無肥料条件の収量と仮定しますと、それらの収量は、小区画水田は4品種平均で1.85×0.6=1.11トン/ha、田植え稲作類似の改良水田の籾収量は3.7×0.6=2.22トン/haとなります。
そこで、これらの事例から、平安時代の稲作を想像しますと、田植え稲作収量は、籾で2.22トン/ha、従来の乾田直播の約2倍の収量があったと思われます。
そこで、これらの事例からまとめますと、田植え稲作は籾収量が約2トン/haで、従来の稲作(乾田直播)より2倍の収量があったことになります。これらから想像しますと、田植え稲作は労力かかるが2倍の収量があり、田植え稲作は急速に普及したものと思われます。
なお、下の写真は著者がアフリカで試験していた田植え風景です。アフリカでは、未だに代掻き作業を含め手作業がほとんどです。
稲作の発展と武士発生の関係 3. 田植えは平安時代から始まった
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稲作の発展と武士発生の関係
3. 田植えは平安時代から始まった
「墾田永代私有の法(743年)」により、水田開発が進むことが期待されましたが、当時の稲作は乾田直播栽培のため漏水(ろうすい)問題があり、新水田開発は思うように進まなかったのが現実でした。そこへ、田植えが導入され、漏水問題が解決したことを前回紹介しました。
今回は、この田植えの開始時期について、人口増加との関係から検討します。
まず、人口変動については、いくつかの「近代以前の日本の人口統計」がWikipediaに出ております。
なかでも、「McEvedy & Jones (1978年)の人口データ」は最も自然な感じがします。そこで、McEvedy & Jones の人口データを用い、平安時代前後について詳しく見ますと下図(著者編集)のとおりです。
この図では、西暦0年~800年に人口増加が認められ、これは水田稲作導入(乾田直播栽培)とその面積の増加による米生産(食料増大)の結果と推察されます。
次いで、800年~1000年に停滞します。これは、田植え導入前の律令体制の停滞と判断されます。
次に1000年以降に、より大きな増加が認められます。まさに、これが田植えの効果と思われます。田植えにより収量増加が認められるだけでなく、それに係る人が増え、自力で開発した荘園(水田)を守るために武士の登場の雰囲気が感じられます。
関連し、同データを用い、200年ごとの古代の人口増加をまとめますと下表の通りです。上記の繰り返しになりますが、田植え開始前の増加は2.00~2.33倍で、従来の乾田直播による水田稲作面積拡大の効果と思われます。
その後、600~800年に停滞しましたが、先に述べたように、これは田植え導入前の律令体制の停滞と思われます。
その停滞後、人口増大は1.67~1.76倍で、これは、田植え導入による米生産増加の効果以外には考えられません。
関連し、東北では、田植え栽培技術により稲作適地が増え、人口が急速に増えていく時代でもありました。
先に紹介しましたように、田植えするときは、代掻きがあり漏水が少なくなり水田の水が貯まり温まりますが、この水の温まり効果が東北の稲作の北限を青森まで広げたことは言うまでもありません。
そして、田植えの導入は、900年以前から頃始まり、100年後の1000年から本格的に普及したと見るのが妥当と思われます。
詳しくは「人口増加曲線から田植えは平安時代中期に始まったとみられる」を参照願います。
一方、田植えを示す歴史的遺物に田植え歌や田植え踊りがあります。これらの歴史を調べますと、ほとんどが江戸時代前後に始まったものばかりです。ということは、田植えの始まりは、弥生時代というような古い時代のことでないと判断されます。
この田植え始まり直後の時代を見ますと、遅れていたと言われる東北に、黄金の藤原政権が栄えた11~12世紀の時期でもあります。また、日本全体でみると支配者が公家貴族から武士に換わっていくという新しい時代でもあります。すなわち、基幹産業の稲作が田植えという新しい技術導入で生産性が高まり、社会も新しい時代に変わって行ったことを思わせます。
まとめますと、平安時代の人口は、McEvedy & Jones (1978年)によれば1000年当たりから急速な人口増加が認められます。これは、田植え普及拡大の効果で、収量が上がり、かつ、寒冷地でも稲作が可能になり、稲作面積が増えた結果と推察されます。
なお、未だに田植えが弥生時代からあったと解説している報告や著書がありますが、拙ブログでは、これらの書物について批判してきましたので、紹介しますと次のとおりです。
まず、「学研まんが日本の歴史」です。その初版は1982年ですが、田植えが弥生時代からあったことが書いてあります。しかし、新版「NEW日本の歴史」(2012)では訂正され、田植えについては書いてありません。おそらく専門家の指摘があったものと思われます。詳しくは「学研まんが「NEW日本の歴史」で訂正された稲作伝来と栽培法」を参照願います。
次に、「大迫力!写真と絵でわかる日本史」(2013年 橋場日月)です。これは、最近の著作で、初心者向け日本史と思われ、図解入りで弥生時代の田植えの様子が描かれています。詳しくは「田植えの始まりは弥生時代ではない」を参照願います。
稲作の発展と武士発生の関係 2. 田植えは「墾田永代私有の法」に命を与えた
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2. 田植えは「墾田永代私有の法」に命を与えた
前回、「墾田永代私有の法」(743年)が制定されたが、当時の稲栽培は乾田直播栽培だっため漏水問題があり、開田しても確実には収量が得られない問題があり、水田の開発は順調でなかったこと、かつ、この問題を解決したのが、田植え技術であったことを紹介しました。
今回は、墾田永代私有の法と関連し、田植え(移植)が始まる前と後の様子、および、田植えのルーツについて検討します。
まず、田植え始まる前の様子ですが、この関係は、「弥生時代に東京は畑作の方が多かった」が参考になります。これは、台地(高地)と低地の遺跡数変動を比較したものですが(下図参照)、縄文時代(後期)から古墳時代の遺跡割合はほとんど変動がありません。
弥生時代から古墳時代は、台地では畑作、低地では水田稲作をしていたと思われます。しかし、遺跡は台地で多く、かつ、遺跡数割合に変動がなかったことは、台地でも低地と同じように何とか生活できたと判断されます。
そして、遺跡数割合が、台地で減り、低地で増える傾向が現れるのは歴史時代からです。歴史時代は飛鳥時代以降のことですが、この遺跡数割合の変動が顕著になるのは奈良時代以降になる感じです。
この東京の事例は、弥生時代や古墳時代の低地稲作収量は十分ではなく、食料については台地と変わらなかった印象を受けます。
乾田直播稲作は、欧州の稲作でも普通に行われていた栽培方でしたが、その適地は限られていました。それは漏水問題と関連し、減水深が10cm以下の地域だけが水田適地と判断されていました。そして、水を貯める畦の管理も重要なことが知られておりました。
一方、田植えのルーツですが、世界的にいつから始まったのか不明です。しかし、おおよそですが、棚田の歴史が参考になります。棚田は水がないと崩壊しますので、常に水が入っています。このようなところでは、乾田直播栽培は無理で田植えによる稲栽培だけとなります。
例えば、インドネシアには最古の棚田があり、2000年以上の歴史があると言われます。また、著者の経験ですが、フイリピン北部山岳地帯に世界最大の棚田地帯と言われるバナウエというところがあります(下図参照、著者撮影)。
マレー系のイフガオ族の人達が造ったものですが、ここでは2000年前の籾が発見されています。ここも、棚田稲作ですので、移植栽培になります。詳しくは「フイリピンの棚田とイフガオ族のルーツ(南方系と日本人)」を参照願います。
そして、そのような棚田稲作の経験から、田植え稲作は、乾田直播栽培より労力がかかるが収量が安定していることが分かり、平地にも広がり、アジア全体に広がったものと理解されます。なお、日本の棚田は、戦国時代当りから認められます。
そして、これらのことから、至るところで開田が進み、荘園が増えました。そして、多くの指摘がありますように、当時、天皇や高官の子息(貴族)には官位をもらえず無職だった者が多数居ました。しかし、地方に移れば荘園管理者という身分を得ることができるようになりました。
なお、貴族が荘園管理者になれたのは、中央の高官と関係があり、その庇護を受け、当時の土地制度から荘園の土地管理者としての身分を得やすかったためです。
そして、荘園管理者は水田を守るため武士となっていきました。
まとめますと、最初に導入された水田稲作は乾田直播栽培でしたが、漏水問題があり、極低収でした。一方、田植え稲作は労力がかかるが、確実に収量が得られる技術でした。その意味で、田植え栽培は、やる気を起こさせ、日本全体に普及し、開田も進みました。それは、田植えは「墾田永代私有の法」に命を与えたことになります。なお、田植えのルーツは東南アジアの棚田稲作にあると判断されます。
稲作の発展と武士発生の関係 1. 班田収受の法の限界と墾田永代私有の法の問題
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1. 班田収受の法の限界と墾田永代私有の法の問題、田植えの役割
前回のはじめにで、田植え稲作が、従来の乾田直播栽培の問題点であった漏水問題を解決したことを検討しました。この田植え技術は稲作を安定させた画期的技術で、今回、さらに詳しく検討します。
まず、班田収受の法の限界ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。
衰退と終焉
班田収授は、奈良時代最末期になると、浮浪・逃亡する百姓の増加や、そうした百姓を初期荘園が受け入れたことを背景として、次第に弛緩し始めた。そのため、桓武天皇は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図った。しかし、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等により、平安時代初期には班田収授が実施されなくなった。902年(延喜2年)、醍醐天皇により班田が行われたが、実質的にこれが最後の班田となった[注釈 6]。(引用終了)
以上のように、飛鳥時代、大化の改新(645年)により、唐の律令制が導入され、班田収受の法(646年)が制定されました。しかし、この制度は、農民は耕作地を受領できるが、私有地とすることはできず、耕作意欲に欠け、かつ生計を維持できる収量は十分でなく、次第に耕作地から逃げる農民が増えました。また、制度に必要な土地も足りない問題もでてきました。
これらの結果、班田収受の法は機能しなくなりました。そして、新たに「墾田永代私有の法(743年)」が成立しました。すなわち、奈良時代中期以後となると、天皇家の子息や藤原家等の王侯貴族は自由に水田を開発し、私有地(荘園)とすることができる制度が始まりました。
しかし、当時の記録を見ますと、水田を開発しても収量の確保できる水田は少なく、必ずしも水田確保の事業は順調ではなかった感じです。
一方、平安時代中期(9世紀頃)となると、田植えが始まりました。この田植えには、田植え前に水と土を混ぜ泥田にする作業(代掻き)が不可欠で、その結果、土は目詰まりし、同時に漏水問題が無くなる技術です。
著者の経験では、この作業は、漏水問題解決だけでなく、水温の違いが大きい感じです。すなわち、春先は川の水温が低いが、貯められた田んぼの水温は温かかです。
例えば、水田には5~10cmほどの深さの水が田植え前に貯められますが、日射量多い春の日差しで温められます。稲は高温が好きな熱帯作物で、この高水温で、移植後の稲はよく育ちます。このため、漏水が多く低水温という従来の乾田直播栽培と明らかな生育の違いがあります。
言い換えますと、田植え技術導入の結果、漏水問題が解決し、稲がよく育ち、田植え稲作は安定した稲作技術となりました。この結果、新たな水田が増え、人口が増え、かつ、水田の価値が高まりました。
しかし、田植えには、耕起、水入れ、代掻きが必要ですが、さらには、漏水防止のためのネズミの造った穴を埋めるなどの畦管理も必要で、労力のかかる問題があります。
そこで、著者の推定ですが、田植え稲作には、耕起、水入れ、代掻き、さらには水漏れぼうしのための畦管理等が必要です。特に、播種から田植え(水入れ)までの比較では、10アール当り合計作業人数は、従来の乾田直播栽培では12人、一方、田植え稲作は48人で、4倍になります (下表参照)。(なお1アールは10m×10mの面積です。)
しかし、この労力問題は、班田収受の法からの逃亡農民、さらには、高地からの移住者を荘園が受け入れ、解決しました。
高地からの居住民移動に関しては、平安時代中期となると高地性集落の崩壊が知られています。その原因は、高地性集落では畑作が中心で、収穫物が少なかった問題が考えられます。因みに、畑作は連作すると地力低下が起き、休耕が必要になります。このため、新たな土地が必要になりますが、それには限界があります。焼き畑の事例でも、10~15年に1回の耕作が限界と言われます。
一方、低地では田植えが始まると、田植えには多数の人員が必要でしたので、高地の畑作農民にとっては最大の移動先だったと考えられます。そして、低地水田では、山から流れてくる栄養豊富な水から稲は栄養を吸収しますので無肥料で育つことができます、また、水には除菌効果があり、畑地で有名な連作障害も起きません。
詳しくは「なぜ10世紀に古代集落が台地から消えたのか」を参照願います。
関連し、これらの関係を上トップ図に示しました。
また、下の写真は、著者がマダガスカルで働いていた10年前の耕起の様子です。鋤(すき)1本で耕している様子ですが、この後、水を入れ、代掻きします。平安時代の稲作も人力中心で、こんな感じだっと思われます。
稲作の発展と武士発生の関係 はじめに
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稲作の発展と武士発生の関係
はじめに (今回報告)
武士は一般に武士階級を意味します。
その武士階級発生のルーツについては平安時代当りと考えられていますが、背景に、東北平定のための蝦夷との戦い、平清盛が実験を握った平治の乱(1159年)、壇ノ浦の戦いで平氏が滅びた源平合戦(1185年)など、平安時代は争いごとが多かったことが指摘されています。
しかし、争いごとは天智天皇の息子と天智天皇の弟(後の天武天皇)が争った「壬申の乱(672年)」のように平安時代以前からあり、争いごとと武士階級の発生の理由については、別な感じを受けています。
一方、武士の収入源は米であり、このため、米を収穫物とする水田との関係は重要です。
そこで、日本の土地制度について検討しますと、律令制の根幹であった「班田収受の法(646年制定)」が743年に取り払われました。その歴史解説によれば、「班田収受の法」では、与えられた農地については私有することはできないため農民の生産意欲がわかず、逃亡農民も出るなど、問題が多すぎたことが指摘されています。
そこで、新たに「墾田永代私有の法(743年)」が成立しました。本制度は、私有地を認め、農民や貴族に米増産意欲をかき立てることを目標にしたものです。
この結果、王侯貴族等は自由に水田を開発し、私有地(荘園)とすることができる制度が始まりました。しかし、当時(平安時代初期)の記録を見ますと、水田を開発しても期待したほど収量確保のできる水田は少なく、必ずしも水田確保の事業は順調に進まなかったことが感じを受けます。
著者の感じですが、最大の理由は、当時の稲作は畑地のような乾田に直播し、芽の出たところで水を入れる栽培方法、すなわち乾田直播栽培だったためと思われます。本方法では、水を入れても漏水問題や干魃害問題があり、開田を進めても収量が極小だった事例が多かったことが推察されます。
一方、平安時代中期(9世紀頃)となると、田植えが始まりました。この技術は、田植え前に、水と土を混ぜ泥田にする作業(代掻き)が入り、水田表面が粘土状になり、漏水が少なくなるという画期的技術でした。しかし、この田植え作業は、これまでの乾田直播栽培と比べ、4倍近い労力がかかる問題があります(詳しくは後に説明)。
しかし、逃亡農民や高地の畑作農民を荘園が受け入れ、田植えのための労力問題は解決しました。この結果、開田したところでは確実に米の収穫があるようになりなり、水田を持つ荘園管理者は確実に裕福になって行きました。そして、人口が増え、荘園の管理者(後の武士階級)も増えました。
そして、当然のことですが、その富の元になる水田の奪い合いが始まりました。因みに、武士の始まりと言われる関東の平将門の乱(939年)は有名です。官位をもとめるために上京していたとき、留守中に水田を父の兄に奪われ、平将門が、その土地を武力で取り返した話は有名です。
以上のことから、富の元になる水田を守るために武士が登場したとすると、武士発生の時期は田植えの始まりと一致していることになります。また、田植えの結果、遅れていた東北での米生産が増え、前九年の役、後三年の役など東北でも武士の争いが始まったのも、この時期です。
しかしながら、多数の関連著書をみましたが、「水田稲作発展と武士階級発生の関係」についての解説は、まだ観ていません。
関連し、弥生時代に田植え稲作が始まったという書籍も今でも見受けられます。詳しくは「田植えの始まりは弥生時代ではない」を参照願います。
一方、平安時代に田植えが始まったという解説は、「よくわかる米の事典3米づくりの歴史」(2016 下図参照)にあります。著者の検索では、この本が、平安時代稲作に田植えが始まったことを解説した初めての書籍ではないかと判断されます。その意味で画期的です。
そこで、田植えと武士階級発生の関係を解説するため、下記11課題(下図)について検討していきます。