縄文由来日本人と北海道アイヌは違うのか
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縄文由来日本人と北海道アイヌは違うのか(古代史の問題)
前回、宇山氏が「これらの古代人は日本本土にも見られる縄文人であり、アイヌ人ではありません」と述べていることを紹介しました。
この内容は、これまでの知見「アイヌは縄文人の一部」と異なる内容で、情報として真実なのか、慎重な対応が必要です。
そこで調べると、関連する情報として「東北王国(4) アイヌは縄文人を制圧した」が出てきました。今回は、この報告の問題点について検討します。
なお、その要約は、阿修羅掲示板の「 意味不明な差別主義者である杉田水脈の「国会退場」は正常化の第一歩」(政治・選挙・NHK295 )のコメントにありましたので、これを紹介しますと、つぎのとおりです。
(東北王国(4) アイヌは縄文人を制圧した)
どの本にも、HPにも書いている事だが、アイヌ文化は鎌倉時代からというのが事実である。
アイヌ=縄文人の末裔というイメージしかなかったのだが、いくら発掘調査をしても800年以上前には、アイヌが北海道で先住していた痕跡が全く見つからなかったからである。
(略)
ここから、縄文人と弥生人という二重構造説が生まれている。
二重構造説「もともと縄文系の人々が住んでいたところに、弥生人が後から大陸経由でやってきたが、沖縄や北海道(アイヌ)の人々は本土の人々とあまり交流がなかったために異なる集団となった」
つまり縄文時代の縄文人たちは、日本列島の弥生人から追いやられた格好になっているという。しかしこの説に疑問がある。言語である。
二つの民族が混血した場合、数や力が上位の民族の言葉になるという原則がある。
アイヌの言語や文化が日本と全く違うのは、混血した人々のほうが優位だったからである。となれば本土の日本人は弥生人の言葉を話しているという事になる。おかしくないだろうか。
日本語は独立語と言われ、アジア大陸のどの地域とも同じではない。しかし弥生人は日本語を話していたのだ。
(略)
となれば、いろんな可能性を考えれば、縄文時代から弥生人と呼ばれる人たちは、ずっと日本に住んでいたことになる。つまり、弥生人とは渡来系ではなく、土着縄文人の中の弥生系の人々だったという事になる。
饅頭型二重構造説
私は、日本の海岸線は北方系縄文人。日本の内陸は弥生系縄文人という説を唱えることにする。こう考えないと、二重構造の日本人が独立言語の日本語を話している理由が説明できないのである。(引用終了)
前置きが長くなりましたが、この説を検討しますと次のとおりです。
まず、「日本語のルーツとアイヌ語の関係」について、まったくの勉強不足です。
日本語の研究者の多くが日本語はアイヌ系言語が基にあり、それが、北海道でアイヌ語になり、琉球諸島では琉球諸語になり、本州では日本語になったと結論しております。
また、梅原猛の研究があります。アイヌ語で神はカムイ、魂はタマであり、このような重要な単語は変わりにくい特徴があり、日本人がそれを持っているのはアイヌ語が基にあるからだとしております。また、通夜の儀式はアイヌの葬式であるが、今でもその儀式が日本で続いているのは、日本人の魂のルーツがアイヌ系にあることだと指摘しています。
詳しくは「梅原猛の哲学と縄文思想」を参照願います。
さらには、日本語のルーツがアイヌ語になったのは、継体王(在位:507-531年)から日本の大王家(後の天皇家)はアイヌ系になったことが大きいと思われます。すなわち、「天皇家はアイヌ系」というDNA情報を著者は知らなかったことになります。詳しくは、拙ブログカテゴリ「継体王が現日本を創った」を参照願います。
それから本資料指摘の「いくら発掘調査をしても800年以上前には、アイヌが北海道で先住していた痕跡が全く見つからなかったからである」ですが、これも不思議な指摘です。研究されていないだけと思われます。
因みに、本州でも同じことが言えます。すなわち、弥生時代以降、アイヌ系の遺跡は検討されていません。このためか、最近の「天皇家はアイヌ系」というDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果は驚きでした。すなわち、本州のアイヌ系は本州では混血し、日本人となったと結論されます。
また、「私は、日本の海岸線は北方系縄文人。日本の内陸は弥生系縄文人という説を唱えることにする」ですが、データの無いおかしな説です。
まず、縄文時代、海岸近辺では貝塚が多数残されており、特に、北九州有明海岸では貝塚と伴に低身長のマレー系の人々が住んでいました。そのDNAは現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば北九州にマレー系(O1bグループ)が多いことからも分かります。詳しくは「北九州人のDNA、方言、博多美人」を参照願います。
一方、弥生時代近くなると、島根・鳥取で多数の高身長の人体が発見されています。この高身長は弥生時代を作った朝鮮半島由来ツングース系民族と思われます。
一方、山間地ですが、多数の縄文土器からアイヌ系が住んでおり、かつ弥生時代も栗などを主食にし、部族社会を維持していたと想像されます。
以上のことから、弥生時代になると、稲作は平野部低地で水田稲作が行われ、主として朝鮮半島由来ツングース系民族が住むようになった。一方、中国南部由来のマレー系稲作民族は、もともと少なく、北九州を中心に水田稲作を行うようになった。また、縄文時代から居たマレー系は漁労や海洋交易を中心に海岸部に居た。
そして、アイヌ系は中山間地を中心に部族社会を維持していたと判断されます。そして、継体王が現れ、平地に大規模前方後円墳を作ったツングース系王家を滅ぼし、アイヌ系王家(後の天皇家)を創り、現在に至りました。
まとめますと、最近のアイヌ系研究に、「アイヌは北海道先住民族でない」という報告がありますが、その情報は「天皇家はアイヌ系」という重要情報が抜けており、曖昧で、慎重な対応が必要です。
参考までに、最近のWikipedia 情報を基に、日本人とアイヌのルーツについて上トップ図に示しました。
「日本人が知らない!世界史の原理」も平凡
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「日本人が知らない!世界史の原理」も平凡(古代史の虚像と書籍)
前回に続き、茂木誠関係著作「日本人が知らない!世界史の原理」(茂木誠・宇山卓栄 2024)を読みました(下図参照)。2024年3月の発刊ということで、最新の古代史関連書物と思われます。その意味で、「天皇家はアイヌ系」がどのように扱われているのか注目でした。
その中に古代史を扱った項目に、第1章、第5節(日本人と日本国の起源)がありました。これらの内容は茂木誠と宇山卓栄の対談形式になっておりますが、問題と思われる内容は次のとおりです。
「日本国」という国号の初出はいつか?(69~73ページ)
茂木:(白村江の戦い)中大兄皇子が百済復興の目的で朝鮮半島沿岸に出兵しました。歴史的に検証できる日本初の海外派兵でしたが、結果は惨敗に終わりました。
宇山:・・日本の属国たる百済は日本領土の一部であるという事実が前提としてあり、・・・(引用終了)
白村江の戦い(663年)については、著名な古田武彦氏が「白村江の戦いは百済・北九州倭国と唐・新羅連合の戦いであった」としていますが、本著ではこれを無視しています。
関連し、この時代、遣唐使送られていましたが、このとき、日本(ヤマト王家)と唐が戦った経過は出てきません。また、古事記や風土記等の記録によれば、戦闘に参加し捕虜になった者は北九州倭国王や北九州出身者ばかり、ヤマト王家への戦後賠償はありませんでした。これらのことから、白村江の戦いにヤマト政権は参加していないと拙ブログでも観ています。
詳しくは「白村江の戦いの内容は虚構」を参照願います。
また、白村江の戦いのときは663年のことで、近畿ヤマトは関東も北九州倭国も統一しておらず、国力は弱かった時代であり、かつ日本国という国名が使われたのは天武天皇(在位:673年~686年)以降です。
次に、「日本の属国たる百済は日本領土の一部であるという事実が前提としてあり(宇山)」ですが、このようなことを示唆しているのは創作物の日本書紀だけで、真相は不明です。
次に「人種」と「民族」の違い(73~76ページ)、縄文人に一番近いのはチベット人(76~79ページ)です。
茂木:神話では、ヤマト政権を建てた天孫族という部族が「高天原」から降臨した、という設定になっています。自分たちは「外」からヤマトへやってきたのだ、と伝えているのです。・・・「外」とは東日本か、長江流域かのどちらかでしょう。(引用終了)
天皇家のルーツについては、前回指摘のように、「天皇家はアイヌ系」ということが明らかになっていますが、前回と同じく本著でも、これを無視している内容になっています。
また、「縄文人に一番近いのはチベット人」という指摘ですが、縄文人にはマレー系もいました。マレー系は、貝塚を残し、三内丸山縄文時代は海洋交易を担っていました。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。
また、本著で、「最大の謎、日本語の起源を考える(80~81ページ)」を論じています。
多くの研究者が日本語のルーツはアイヌ語と結論しています。しかし、本著ではそのことへの反論もなく、「謎」としていますが説明が足りません。
また、「日本人らしさ」に関し、縄文人のDNA(82~86ページ)について、著者の一人(宇山)は、「これらの古代人は日本本土にも見られる縄文人であり、アイヌ人ではありません」と断定しています。
「アイヌと縄文人(古代人)は異なる」と言いたいのでしょうか。従来の知見では、アイヌ系は縄文時代から全国に居住しており、北海道のアイヌはその独特の環境から独自の社会発展があり現在のようになったと観られていますが、そのことへの説明がありません。
関連し、最後にDNA(Y染色体ハプログループ分類)による人種分類について、本著では「図表5-2(主要なY染色体ハプログループと民族の関係(モンゴロイド))」(下図表参照)を紹介しております。
この図では、ハプログループDをチベット人と日本人としていますが、日本人はアイヌ系35%、マレー系30%、その他35%の混合混血民族ですので、正しくは、Dはアイヌ系日本人とチベット人とすべきです。
また、縄文人にはD(アイヌ系)とO1b(マレー系)がいましたが、現在のマレー系30%については、20%が縄文時代由来であるという研究結果が出ております。
以上のことから、本著の人種分類は、主要な縄文人にアイヌ系とマレー系が居たとう事実を無視し、恣意的な感じをうけます。また、天皇家(現王家)のハプログループはアイヌ系と同じDということを紹介していません。
まとめますと、本著は、アイヌや日本語のルーツについて従来の知見と異なる情報がありますが、曖昧でした。前報告の「日本思想史マトリックス」と同じく、本著も、創作物の日本書記をベースにした古代史になっており、かつ、最近のDNAなどの情報解説も曖昧で、平凡な内容になっています。
「日本思想史マトリックス」は平凡
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「日本思想史マトリックス」は平凡(古代史の虚像と書籍)
最近、茂木誠氏を古代史関係報道で見かけます。そこで、昨年の著作物「日本思想史マトリックス」(茂木誠 2023、下図参照)読んでみました。
昨年発刊されたばかりであり期待しましたが、内容は平凡でした。
まず、縄文~古墳時代を扱かった第1章(神話で読み解く「古代の世界観」)には次のことが書かれております。
(1)・・・アマテラスの一派が海の向こうからやってきた・・・(本著26ページ)
(2)・・・九州に降り立った天孫族(アマテラスの一族)が瀬戸内海を東進し、奈良盆地にあったヤマトの国に攻め込みます。・・・(本著47ページ)
(1)のアマテラスですが、現天皇家の子孫ですので、DNA分類でアイヌ系になります。そして、「アマテラスの一派が海の向こうからやってきた」としておりますが、アマテラスはアイヌ系なので、「アマテラスの一派が海の向こうからやってきた」時代は、縄文時代かそれ以前になります。
次に、(2)「九州に降り立った天孫族(アマテラスの一族)が瀬戸内海を東進し、奈良盆地にあったヤマトの国に攻め込みます」ですが、これは、先に紹介した古田武彦氏の「ヤマト王朝は九州王朝東進説」(ヤマト朝廷は九州王朝の分家)とほぼ同じです。詳しくは「古田武彦氏は「天皇家はアイヌ系」を知らずに亡くなったのか」を参照願います。
天孫族(アマテラスの一族)が天皇家のルーツとしておりますが、天皇家はアイヌ系ということが分かっています、また南九州出身可能性が強いことから、正しく言えば、天皇家は南九州から東遷したアイヌ系というのが正しいと思われます。
以上の書籍の内容は、最近のDNA情報、すなわち、「天皇家はアイヌ系」という事実と明らかに異なる内容です。
また、その茂木誠氏の著作(26ページ)では、「現代日本人のゲノム(すべての遺伝情報)を調べてみると、15%が縄文人、15%が弥生人、残りは世界の各地からやってきた人たちの子孫ということがわかっています」とあります。
しかし、このような従来と異なるデータがどこから出てきたのか不明です。因みに、人種分類に最も使われている「Y染色体ハプログループ分類」では、日本人は、35%がアイヌ系、30%がマレー系、25%が朝鮮半島由来のツングース系、その他10%です。詳しくは「最近のY染色体DNA情報と従来知見の修正」を参照願います。
まとめますと、茂木誠の最近の著作ですが、「天皇家はアイヌ系」について触れていません。代わりに、天皇家は天孫族であり、海の向こうから来たという解説です。さらには、従来のY染色体ハプログループ分類を無視したDNA情報で日本人のルーツを描いています。
なお、「天皇家はアイヌ系」については、 DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、10年以上前の2014年頃にはほぼ分かっていたことです。
拙ブログで何度も指摘しておりますが、「天皇家はアイヌ系」という事実は古代史を塗り替えるような大発見です。因みに、現天皇家の前にあった王家は、世界遺産にも登録された仁徳天皇陵(大仙陵古墳)を建造した朝鮮半島由来ツングース系王家です。
そして、現天皇家の祖先、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が、その巨大な王家を滅ぼしましたが、未だにそのことが一般には知られていません。詳しくは拙ブログカテゴリ「古代史の問題」を参照願います。
これからの記事アップ予定
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これからの記事アップ予定(ごあいさつ)
霜月となりました。世界は、ロシアとウクライナとの戦争、および、イスラエルとイランとの戦争で、核兵器が使われるのではないかと心配される状況もあり、それらの状況に眼が離せない状況が続いています。また、アメリカ大統領選挙があり、大統領はトランプに予定しました。
そんななか、拙ブログでは「継体王は現日本を創った」(連載、11記事)のアップを終わりました。そこでは、日本語や日本文化の骨格は、継体王(在位:507-531年)の時代に創られたことを記事にしたつもりです。大きな課題ですので、別の観点から、また取り上げるかもしれません。
そして、今回からですが、古代史に関しいくつかの新刊書が市の図書館に出ております。そこで、それらはどのような内容なのか、以下7点について検討します。
1. 日本思想史マトリックス(茂木誠 2023)
2. 日本人が知らない!世界史の原理(茂木誠・宇山卓栄 2024)
3. 縄文由来日本人と北海道アイヌは違うのか(関連資料批判)
4. 白村江、古代日本の朝鮮半島支配とその終焉(大平裕 2024)
5. 遺伝子からたどる日本の歴史と起源(杉田繁夫 2024)
6. 日本史の現在 1 考古(設楽博巳 2024)
7. つながるアイヌ考古学(関根 達人 2023)
関連し、拙ブログでは、カテゴリ「古代史の虚像と書籍」で、書籍の問題を検討しております。
そのなかで、「捏造の日本古代史」(相原精次 2017)は興味深いので、その書籍について「日本の古代史は戦前と変っていない」と題し、検討したことがあります。
そこで、著者(相原精次)は、次のように述べています。
戦争史でもあった「戦前」という背後に据えられていたのは「古代史」の虚像だった。こんな大きなテーマが、戦後70年間「言わぬが華」として、意図的に追及することを回避してきたのではないか。そんなことを思いながら、言わずに来てしまった問題とは何かを、本書で考えてみたいと思うのである。(引用終了)
そして、その著書発行から7年経過しましたが、「古代史」の虚像、例えば、日本書記は創作(津田左右吉)、邪馬台国は無かった(古田武彦 1971)、「天皇家はアイヌ系」(DNA情報)等の無視、すなわち、創作された「日本書記中心の古代史」という歴史認識について今も変わっていないのか。上記6点の新刊書について検討します。
なお、上と下の写真は記事と関係ありませんが、我が無農薬菜園のコスモスの様子です。毎年、野菜だけでなく花も作り、自然に親しんでおります(笑)。
継体王が現日本を創った 終わりに、日本の古代史は変わらねばならない
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継体王が現日本を創った
終わりに、日本の古代史は変わらねばならない
「継体王が現日本を創った」と題し、9課題について検討してきました。それらの概要は次のとおりです。
まず、日本人の宗教は、自然にあらゆる神がいるという原始宗教に近い多神教で、アイヌと同じ宗教と言われます。これは、継体王がアイヌ系の大王であり、それが現在まで続いているためで、当然のことと思われます。
関連し、梅原猛は、アイヌ民族を研究し、アイヌ民族のあの世観は現日本人と同じことを発見しました。死者はあの世に行くが、あの世は現世と逆であり、昼は夜になり、夜は昼になる、このため、通夜という儀式は夜に行うことになっている。
すなわち、昼に通夜をおこなうとあの世は夜であり真っ暗で行くことができない問題があることになります。そして、この通夜の儀式は縄文時代からあったことも指摘しています。詳しくは「梅原猛の哲学と縄文思想」を参照願います。
また、継体王(在位:507-531年)の時代に、文字(万葉仮名)が百済から導入されました。この結果、日本語のルーツはアイヌ語ですが、表記法は万葉仮名(後のひらがなとカタカナ)になりました。なお、日本の万葉仮名は百済由来で、その発音は百済の主要民族だったマレー系の発音と同じになりました。
また、仏教も継体王時代に民間ベースで百済から導入されましたが、その中心は美しい仏像導入でした。
一方、継体王の前は、朝鮮半島由来ツングース系王家の次代でした。しかし、ツングース系王家が継体王によって滅ぼされたとき、文書はすべて焼き払われ、何も残っていないのが現状です。
以上のことをまとめますと、日本の骨格は、古墳時代ではなく、継体王の時代、飛鳥時代に始まりできあがった観ることができます。
その時代、日本は、アイヌ系の継体王の支配する近畿(ヤマト)、マレー系の支配する北九州倭国、ツングース系が支配する関東地域やアイヌ系の多い東北以北に分かれていました。
しかし、その後、マレー系の北九州倭国は白村江の戦い(663年)で滅び、一方、関東のツングース系王家は、アイヌ系王家がヤマトで発展するにつれ自然消滅しました。すなわち、最後はアイヌ系の王家だけが残り、現在に続いていることになります。
この様子は、旧唐書に書かれております。おそらく、遣唐使の初期の頃(聖徳太子時代)、唐側に伝えられた情報をまとめたものと思われますが、旧唐書の内容は次のような感じです。なお、毛人はアイヌのことで毛人の国は関東を指します。
「倭国に代って新しく朝貢を始めた大和政権の記述が有り」、「その国の境界は東西南北とも数千里ある。西と南はそれぞれ大きな海が境界となり、東と北には大きな山があり境界となっている。その山の外側は毛人の国である。」 詳しくは「毛人の国愚考」を参照願います。
そこで問題になるのが、日本の古代史です。例えば、今でも出版物を見ますと継体王以前の大王(天皇)名が出てきます。しかし、これらは奈良時代に創られた日本書記に出てくる名前で、存在を証明するものが何もありません。例えば、日本が交流した百済と中国の文書ですが、北九州倭国の大王の名は出てきますが、継体王以前のヤマトの大王(天皇)の名は出てきません。
拙ブログで何度も指摘してきましたが、日本書記は「万世一系の偉大な天皇家」というテーマで作られた創作です。このため、津田 左右吉氏が指摘しているように、他国の文書と合わない内容がたくさん出ております。日本の古代史はこうした王家を称える創作物を基に検討してきましたが、これからは参考程度に扱うのが科学的態度と思われます。
関連し、現天皇家のルーツについて、最新のWikipediaには、「ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪し、現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説」が紹介されています。Wikipediaにこのような記事が載ることは画期です。
まとめますと、現天皇家はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に始まり現在まで続いていますが、この継体王時代に、現在の神社宗教が確立し、さらには、仏教、文字が導入され、現日本の骨格が作られたと判断されます。
一方、日本書記という創作物をベースにしたこれまでの古代史は、事実と明らかに異なるところがあり、再検討が必要です。
関連し、継体王(在位:507-531年)時代の古代史の様相を上トップ図に示しました。