適当に朝起きて、薬酒を飲み(空気が悪いのには辟易ではあるけれど)、コーヒーを一杯飲んだ。
このごろコーヒーがうまくなったような気がする。空気の悪い、という(その空気の)種類が変わったのではないかと思う。コーヒーの木はあったかい地方で育つので、夏の季節にまずくて、涼しくなったらうまいというのも、理由としては首をかしげるわけで、――。
まあうまい(といっても空気がいいと絶品という感じになるのだけれど)、満足できるかな、というべきコーヒーを飲み、ニュースなども見て、そのうちトイレにも行き、庭の花も見たりして、気分転換である。
ニュースによっては少し読むだけで、気分が悪くなったりする、体調悪化ということもあったりする、お袋とか、まったくニュースを無視して、サザエさんなどを見ていたけれど、納得できる(注:わたしの前では少なくとも新聞もそう、無視していたけれど時事のニュースを知ってはいるわけだけれど)。
口癖のように、
「令和になっていいことないねえっ!」とかいっていたっけ。
年寄は親父もそうだったけれど、笑って過ごしている人は立派ではある。
ただしそれだけだと不幸が押し寄せてきて、ひどい目に会うので、思えば、人生常に必死にではないけれど、勉強して、功徳も積み、信仰心も涵養し、さっさと人間を卒業できるように、真摯に努力しているかのようにまじめに生きて、できるだけ長生きして、長寿を体現し、かといって人には注目されず、目立たないように生きて、真実幸福という中で、神も仏も仲良く、みんなが睦まじいという、世界も垣間見て、地獄のこの人間世界から救われるように、日々歩いたり、空を眺めたり、横たわったり、しながら人生を完結自分ながらに完璧まっとうして永遠の境地、地上においては幸福の極致、天界においてもかかわりを持たず、進んでいくということであろうか。
庭のバラはきょうも似たような感じかな。
ローズマリーもきょうも似たようなものかな。
外の空気を吸うとわかるのだけれど、そば、あるいは近所にいる人の姿を見ていて、小学生が、家のすぐ近所だけれど、まったく学校へ行っていない。少なくとも二人はいる。
もしかして三人である。
これでいいのか、不登校児童が増えているとはいうけれど、一人はさっきゲームでもしているような大きな音を響かせ、もう一人はお爺さんになるのか、主が仕事に行って留守宅に、自転車できてたびたび音を立ててなにかしていた。
ふつうに学校へ行っている子供たちは目立たないけれど、こういう子供たちというのは、妙に目立つといえる。
みんなが、
「あの子は」という目で見るので余計本人子供がおかしくなっていくような気がする。
学校へ行かないなら、住宅密集地、子供が人に迷惑をかけながら遊んでいるのではなく、図書館へ行ったり、どこかへ出かけていった方が、自分にとっても有益ではなかろうか。
子供というのはそもそもが悪いことをして大人にかまってもらいたいという餓鬼の魂のようなものが心情、生きているものという側面もあるけれど、ところが、さっこんの大人は、見ていても、まったく子供と関わろうという風景がないといえる。
親も祖父母もかまってやらない、近所の大人も、では誰が愛情をそそぐのか、小学生でもそういう子は、顔がちがっている。
わたしもいま株のことがあるので、いそがしいわけで、やるべきことをして、さっさと散歩に出かけていった。
少子化というのは、もちろん、子育てする社会ではないからであろう。おそらく学校へ行かない(そういう子供が増えている)のは、そこが子供の居場所ではないからであろう、と推測される。家も学校も、似たようになっている子供が多くなっているのであろう。
もちろん社会そのものも、決して愛情を注いではいない。カネをかけるほど(庶民の血と涙からくる給付金みたいなもの)、子供の苦しみが増すかのような、(コロナ禍の社会的副作用でもあるのか、小学生低学年ですでに悪人ずらになってしまっている表情をして)、悪いカルマを背負わされたことを病んでいるのか、孤独にほっつきまわったり、一日家に閉じこもったり、(カネを配るほどに)愛のない境遇が増えていくかのようである。
散歩道、車を避けて土手を越え、川面の濃紺からふと見る草むら。
道なき道の、人工のそこ、草よりコンクリの凸凹が人を拒絶する、この社会の表れの草むら、歩いていく
人に見られないように体操などして、身体を鍛え、休憩である。
無理のないように、できるだけまた少し鍛えて、この世界においても、やるべきことは常にやっておくという、道の姿を忘れないようにするべきである。
休憩後の空。
帰ってきて、すぐいろいろして食事の準備、ブランチを食べるのだけれど、一人静かに(もちろん人間社会であるので静寂な世界ではないことは当然とはいえ)幸せな空間があるといえる。
子供らはまるで世界にたった一人
親も他人も見放して居り
考えてみると、わたしも子供ころ、小学生のころだけれど、まったく一人であった。
記憶に鮮明なのは、食事に関して(だけ述べるのだけれど)、学校から帰ってくると、まるでいつも一人家で準備をして(しょうゆをかけたご飯に卵+バター)一人で食べて(おそらくすぐ遊びに行った)、という記憶しかない。
小学生のころ、あとはクリスマスの一家団欒、すき焼きを囲み、鳥のもも肉各自一本かな。まああのころはみんながまるで(ウソみたいに)幸せであった。親戚の人が森永で働いていたからか、毎年クリスマスケーキはタダでもらえたし、クリスマスのプレゼントも毎年あった。
いま太陽のXフレア(太陽の彩層で発生する爆発現象フレアの中で最も規模が大きいもの)が多いのだけれど、太陽活動が活発の証でもある、10月までで49回、過去最高、二番は1989年で、年間で13回なので、2024年はすさまじいくらいに多くなっている。
世界は人間の心のあらわれである。
太陽は一つだけでも太陽が
いっぱい照らす人間社会
注:映画にも同名の作品(アランドロン主演)がありましたけれど、『太陽がいっぱい』ということは、悪人の心(人は誰しも心に闇ともいうべき悪を抱えているのですがそれに気づかないので太陽の輝きに照らされ)、潜んでいた悪が表面に出て来て、悪いことをたくさんするということでもあります。
いっぽうで次のようなこともあります。
太陽が神仏菩薩の恩寵で
過去最大の輝きを見せ
この記事へのコメント