どうやらトランプ大統領が決まったようであった。
マスコミは、たちまちのように、氏の主義主張やスタンスを歪曲し、世論をウソペテンで混乱させ、平和への道筋や、安定した庶民の暮らしに目を向けた経済への転換を、ひっくり返そう、邪魔してやろうと画策している。
驚きというか、悪魔サロン、アメリカの民主党の、非人間性が、断末魔の叫びのように現れ出て、聞こえてくる、そんな雰囲気もあるようであった。
このオピニオンもそうだけれど、巧みに世界を破壊に導こうとしている。
「プーチン政権崩すのは敗戦だけ」とうたってあるけれど、いささか呆れるようなお話である。
サロン曰くプーチン崩すのは敗戦だけ
外交努力に知恵も能力もない証
カネ儲け第一主義米民主党
悪魔が引寄せた世界大戦の入口
トランプ氏が勝利した大統領選
トランプ大統領の主義主張を歪曲させ
世界を混乱させるサロンの罠
きょうもそばを作って食べた。サンマの塩焼きも一尾食べたので満足である。
コーヒーは一杯、その前に飲んで新聞も少しだけは見た。
散歩の花。
花の横で少しだけ身体を鍛えた。
股関節で苦労する人の話(記事)をしばしば見るので、気にしたりもして鍛える。
散歩道のキノコ。
赤いのがよく目立つ。
その辺りで見る空。
休憩しているとき、ふと思ったんだけれど、子供の自殺が増えているということは、本人たちに、大人ほどは少なくとも、家族を養うためにとか、明日のカネの不安があるわけではないし、いちばん大きいのは、やはり社会からとか親とかから、愛されていない、ということが大きいのではないのか。
子供が周囲の人や社会からむしろ疎まれているのではないのか。
ということを思ったのだった。
見ていてタチが悪い子供が増えているし、毒の塊化してきているし、子供手当とか、医療費無料とか、さまざまな給付金を、この子たちは貰っているし、社会的にはお荷物ではないのか。よく少子化で危機、日本の将来を支えてくれる子供を増やさないと云々とか、経済がとか社会保障がとかいうけれど、あれはサロンの説であって、何十年の遠い未来よりいまの暮らし、支えている大人が成り立たない社会である、一般的には今も昔も子供というのは大人になるまでにすごくカネがかかるのである。
はっきりいっていまのサロンの元では、もうほとんどの大人には子供を育てるカネも時間も余裕はない。
そんな愛のない社会や家庭で育った子供が、将来はたして国を支えるとか、人を支えて生かしてくれるとか、そういうふつうの人になれるのか、不安も大きい、悪人天国ではダメである。それは、教育次第でもあるだろうけれど、それがいまは危ういわけで、徳のない社会の表れである。
つまり少なくとも、子供というのは、仮にうまくいってある程度国や国民を支えるふつうの人に育ったとして、自分たちの将来、いや、いま生きている大人にしてみれば、カネ喰い虫なのである。もちろん大人が余裕で生きていける社会なら問題はないわけだけれど、このインフレと増税一直線社会、保険料の急増を思えば、いま生きている人たちに先がないのは見えているわけで、それをほっておいて、例えば重々の子供手当とか、不愉快極まりないであろう。
庶民が子供を作らないとかいうのは、カネがないからというのが大きいけれど、社会の庶民全体がだんだん暮らせないほどにまでカネがなくなってきているのである。少なくともいまのままでは先がない。そこへ目にも潤沢ともいうべきカネを子供には給付して、社会や大人からは疎まれた存在なのではないのか。
むしろ子供は嫌われている、そして子供たちはそれを肌身心で感じている。子供の自殺が増えるのはいま子供が生きづらい社会、そして子供の未来がない、そこにはいま大人が暮らせなくなっている社会、大人にも未来がなくなってきている、老後破産が当たり前でもある社会、この社会の現実を見て、悲観しない子供がいる方が珍しいわけで、純真な子供ほど、浮かばれないような気分になるものではなかろうか。
ということを思ったのだった。
休憩しているけれど、
「寒いな」という言葉がなんども出た。
きょうは寒くなった、風がビュンビュン吹いたりする。
散歩帰り、野ばらの様子を見に行くと、虫食いにあっていた。
イモムシの仲間である。
さいきんうちのベランダのバラもそうだけれど、虫が一本のミニバラについてしまって、(イモムシではなく赤い小さなもの)、クモの巣みたいなものがかかっている(きょう木酢を撒いておいた)。
空気が悪くて、公園の野ばらもベランダのミニバラも弱っている。
空気が悪いのは、もちろん人間が病弱化して、ワクチンだと思うけれど、免疫力の低下、潜在的な病が顕現して、それが各自より深刻になっているからであろう。
空気が病気そのもの悪すぎる。
帰り道の空。
どこを見ても快晴である。
左からセキレイが飛んできて、わたしの前を横切って、右の芝生(?)の斜面に降り立った。
一羽かと思ったら、二羽いるようであった。
鶺鴒が二羽で暢気に芝生かな
散歩帰り、きたときに見た山茶花の花をまた見ていく。
人が次々くるので待機している。