2009.02.24 沈丁花の家 ③ <<00:55
さて、この家の孫息子、春夫(仮名)と私との間に何か恋愛感情でも生まれるか、
と期待されるような書き方をわざとしてきたのだが、実はそんなものはなかった。
歳は一つ違いの高校生同士。学校は違ったが、同じ敷地の中に住み、時々は
顔を合わせることもあったわけだから、ほのかな恋愛感情が生まれてもよさそうなものだが、
それはなかったのではないかと思う。少なくとも私の側には。
その頃私は別の人に恋をしていたから。
当時の高校生などは純情なものである。私はその好きな人と一回会ったきり、
あとは文通だけの恋であった。二人の間に手紙が繁く行き来する。
時には郵便物を春夫が届けに来ることもあった。大家の郵便受けに私たち母子宛ての手紙も
一緒に配達されていたからである。
春は過ぎていき、離れの庭のチューリップも散った。
私は日当たりのいい縁側を自分の部屋代わりにして、そこに座机と本箱を置き、
手紙を書いたり勉強したりした。
雨の日には軒から滴り落ちる雨粒が、下の地面に規則正しい音をたて小さな穴を穿つのを
ぼんやり眺めている。無花果の若葉もだいぶ出てきた。
春夫のいる母屋はいつも薄暗い印象だった。庭に面した居間は日当たりもよかったろうが、
そこには目の悪いらしい老人がいつも炬燵の中にすっぽりと入って、こちらを向いているので、
私は外出するときはいつも、中庭をそそくさと通り過ぎ、土間に入っていく。
土間は本当にいつも暗く、何か古臭い道具やら土のにおいやらが籠った感じで、
私はそこも駆けるようにして通り過ぎる。何より、老夫婦と孫息子三人の、
何やらわけありそうな暮らしを、通りすがりに覗いていると思われるのが嫌で、
つい足早になってしまうのであった。
共に学校に通っているわけだから、春夫とはめったに顔を合わせることはない。
ただ休みの日などに、土間に沿って三部屋ほど縦に並んだその障子戸の奥から、
普段の老夫婦二人の食事より少しだけ賑やかな皿小鉢の音などがすると、
ああ、いるんだな、と思う程度。
居間にはテレビが据えてあるらしく、(当時はまだ全家庭にあるというほどには
普及していない時代であったから、春夫の家庭は割合に豊かであったのか。)
障子の奥がぼおっと青く光って、当時流行っていた「てなもんや三度笠」という
ドタバタ劇の、「あったり前田のクラッカー!」というコマーシャルや、
「マーブル、マーブル、マーブルチョコレートッ!」の歌などが賑やかに聞こえてくる日もあった。
私と母の暮らしは静かなもの。ラジオで、夜、寄席を聞いたりNHKの「日曜名作座」
の森繁久弥、加藤道子の二人による朗読を聞いたりするだけが楽しみだった。
春夫はどんな様子の少年だったか。いや、青年だったか。
当時地方の高校生はほとんど丸刈りだったから、勿論春夫も綺麗に頭は刈っていた。
頭の形が綺麗で、なんとなく青年僧を思わせる。
春だからそれなりに厚いものを着ていたはずなのだが、今思い返してみると、
なぜかいつもランニングに半ズボンという夏姿であったような印象しかない。
海辺の町の子らしく綺麗に日焼けした腕や背中や首筋が、清潔感を持っていた。
多分肌理が細かいので、あんなにきれいに日に焼けるのかな、と、私は会うたび羨んでいた。
背はそう高い方でも低い方でもなく、いわゆる中肉中背というところ。
年頃の少年少女の常として会ってもすぐに目を逸らすので、不思議に顔の印象というものは
薄かった。ただ、あくのない、あっさりと若い顔だったような。
さて、それからどうなったかというと、
私たち母子は、春夫の家に3カ月ほどいただけで、同じ町の別の家に引っ越して
しまったのである。原因は私の不眠症だった。
近くに米軍キャンプがあった、と書いたが、この町の人々のなりわいの幾分かは
米兵相手の商売に負っていて、私たちのいた離れも、私たちの前には当時オンリーさん、
と呼ばれていた米兵相手の女性が住んでいたのだったし、近くには米兵の集まる
ちっぽけなクラブもあって、そこから夜な夜なジャズの調べが流れてきた。
メロディまで聞こえればいっそいいのである。しかし、メロディは聞こえず、ただ
ベースの音だけが、ズム、ズム!と、地の底からの音でもあるかのように聞こえてくる。
母は一向に気にならないらしかったが、それでなくても夜、死のことなどを恐れたりして
寝つきの悪い私は、布団に入って枕に耳をつけると、自分の心臓の音と争うように
低く響いてくるベースの音に神経を乱され、眠れなくなってしまう。
そんなことが続いてある日、私たちは再度の引っ越しを決めたのである。
春夫の祖母は悲しげだった。
別れが近づいたある日。春夫は留守にしていたが、祖母は私を自分たちの住まいに
初めて呼び上げた。そして、自分が若いころから宝物のように大事にしてきたという、
京刺繍の糸をくれた。それは老婆が使わうのを惜しんで長年しまっておいたために、
もうすっかり色褪せてしまっていた。私が人形作りなどの手仕事が好きだということを
母との雑談に知ったのでもあったろう。
だが私は何十色もあるその糸の束がことごとく色褪せているのが悲しく、そして少し
腹立たしく、おそらく貰って微妙な顔をしていたことと思う。潔癖で理想の強い年頃の娘として、
その褪せた糸の束が老婆その人の人生の無駄のように思えてなぜか腹立たしかったのである。
思えば、若さというものは残酷なものである。
春夫の祖母の、おそらく若い頃の憧れも籠っていたであろうその糸の束を、私は
そののちも、何カ所か転々と引っ越しを重ねるうちにどこかへ無くしてしまった。
春夫は私たち親子が別のアパートの二階の一室に落ち着いてから、何回か、
ささやかな菓子などを持って訪ねてきた。同じ家にいたころはろくに口もきいたことのない
二人であったのに、母子が別の家に住むようになってから、気軽に訪ねてくるようになったのは、
やはり祖父母の前では話しづらかったのだろうか、と思う。
といって、春夫が一つ年下の私に恋していたから、というようなことはなかったと思う。
私は痩せて色黒の、ニキビのぽつぽつとある、話下手の暗い子であったから。
春夫は、私の母に自分の母の面影を求めて、それでちょくちょく私たちを訪ねてきたのでは
なかったろうか。
私たち親子がさらにそれから、県の中心街に近いところに引っ越してからは、お互いの
消息も絶えた。一回だけ、偶然同じ列車の同じ車両に春夫と私が乗り合わせたことは
あったが、私の母を介さない会話はぎこちなく、それきり二人は会っていない。
これが私のブログネーム「沈丁花」、に関する私の人生の幾つかある思い出の一つである。
ブログニックネームにするくらいだから、あなたはやっぱり春夫さんが好きだったんじゃないの?
そう訊かれるかもしれないが、答えは「否」である。
ただ私は彼に、ある共感は抱いていたかもしれない。何か深い事情のあると想われる
それぞれの暮らし。そうして彼がやけに穢れない、まっすぐな姿をしていたこと。
彼に恋したのは、むしろ私の娘である。
娘が思春期を迎えたころ、夜夜の昔語りに、私は沈丁花の深く豊かに薫る春夫の家を初めて
訊ねた春のことを、ランニング姿の腕の綺麗に日に焼けていた春夫のことを、恋を知らない
娘に話して聞かせたことがある。彼女は女子だけの中学校に入って、恋に憧れる年頃であった。
彼女は春夫の絵を描いた。イメージの中の、理想の、綺麗な、清潔な姿をした少年を。
いま、絵を描くことは彼女の職業になっている。