2009.02.13 Deja vu: [既視感]がこの頃ない! (アクサングラブ が打てないのでそのままで) <<00:29
頃は秋。時は夕暮れ。
母と二人で暮らす六畳一間きりの部屋に、
今日は兄が帰ってきている。まだ電灯を点すほどでもない障子越しの薄明かりの中で、
兄が新聞を読んでいる。母はいつものように窓際に据えた裁ちもの台の前で縫物。
私は兄に背を向けて、やはり薄明かりの中で本を読んでいる。
ふと、背後で兄が新聞をガサガサいわせてページをめくる。
すると、あ!来た!あの感覚が!
前にこれとまったく同じことがあったような感覚。
こんな薄明かりの中。兄が私の背後にいて、新聞をめくる。この部屋の暗さ、この部屋の空気。
この新聞紙の音。兄の息遣い........。
兄はめったに帰ってこないから、これと同じことが前にあったという判然とした記憶はない。
無いのだが、前に同じことがあって、次に兄が新聞をめくる音がする、というのを前もって
知っていたような感覚.......。
こういう感覚をデジャヴ(既視感)というのだ、というのを知ったのは高校生の頃のことだった。
フランス語の語感と、それが訪れた時の何か特別な喜ばしい感覚が好きで、私はよく
人に同じような経験があるかどうか聞いて見ていた。
「うん、あるある!」という人は割に少なく、たいていの人が「ええ?そんなのないなあ。」
というか、「あるよ。」とは言うが曖昧な顔をしているので、ああ、本当はないのだな、と、
こちらが察するくらいで、まず、10人に聞いて「私もあるある!」と喜んで反応してくる人は
2人くらいかな、というのが当時の実感だった。
経験している人が少ないということは、自分の感覚が特別なんだ、という風に、高校生の頃の
何でも自分を人と差別化したい年頃の私は思いたがっていた気がする。
大体年に3,4回くらいの割で、その不思議な感覚は訪れる。訪れるとなんだか嬉しい。
ところがいつの頃からか、デジャヴ、という言葉がおおはやりになり。テレビの旅番組などで
若い女の子のレポーターなどが、「ああ、何かこの景色見たことあるぅ!デジャヴみたぁい!」
などというように使うようになった。
それと大体時を同じくして、こちらにはさっぱりあの感覚が訪れなくなってしまった。
この頃では使い古された言葉になってしまったか、あまりデジャヴ、について語る人も
少なくなってしまったようだ。
この既視感という感覚は昔からやはり多くの文学者や学者が不思議なことに思い、
数々の研究がなされてきたようだが、あまりにも淡い感覚であるのと、実験などで
再現したりするのが困難なことなどから、いまだにこれといった科学的な論証は
出来ずにいるらしい。
多くの科学者が説明しようとして、まだ定説といえるものが生まれていないくらいだから、
私などにわかるわけもないが、自分のこういう感覚を愛してきた私としても、あれこれ考えて
みたことはある。
例えば上の例でいえば、夕暮れ時、兄が後ろで新聞を読んでいるわけだから、つぎに
新聞をめくる音がするだろう、というのは当然予測できるわけで、心はその準備ができている。
勿論意識下で。と、実際兄が新聞をめくる。するとその音を聞いて、私は、ああ、これは
前にも経験したことがある!と思うわけである。
とまあ、そんな風に考えてみた。
諸説によれば、旅先でこれを経験する人が多い、という。(私の場合それはないなあ)
疲れている時に起こりやすい、という。(それは言える!)
大きな印象的なことに対してではなく、ごく小さなつまらない事象に対しておこりやすい、という。
(確かに、上の例のような、ごく日常の些細な場面でおこるなあ)
年をとると起こりにくくなる、という。(が~~ん!そうかあ、だから最近ないんだ!)
あなたは、デジャヴ体験ありますか?