2009.02.27 不思議な旅 ① 「偶然の一致?それとも運命?」 <<03:13
今からもう十年ほども前になるが、私は家族とともに、不思議な旅経験をしたことがある。
昔、「舞踏会の手帳」というフランス映画があった。若くして未亡人になった貴夫人が、
夫の遺品と共に、自分自身の人生も整理して新しく踏み出そうとしている時に、
ふと、自分が若くして舞踏会に初めて出た時の手帖を見つけ、そこからかつての恋人達を
訪ねて回る。そこで知る、彼らの人生と死。人が生きていくということの重さと悲哀に
満ちた作品であった。監督はジュリアン・デュビビエ。
これに影響されたというわけでは全くないのだが、過去を巡る旅ということでは
私の旅も同じような目的を持って始められたのかもしれない。
きっかけは、20年近くも互いに連絡し合っていなかった長姉からの一通の手紙だった。
ブログタイトルにもしているが、私は故郷喪失者である。
4歳くらいの時、生まれ故郷の高原の村を一家で離れて以来、家族はいつかばらばらになり、
私は母と二人、安アパートを転々としてきた。だから、私には幼馴染、などというものもなく、
土地に帰属するという感覚もなく、いつも、どうせここは仮寝の浮き草暮らし、というような
少しやくざな心を持って育った。
長姉とは18歳年が違い、私が生まれた時には彼女はもう嫁いで、私が生まれるより一ヶ月
早く子供を(私にとっては姪を)生んでいた。だから彼女は私にとっては、姉というより、
むしろ伯母に近い存在のように思っていたのである。だから会いにも帰らなかった。
ところがその姉から、「私ももう年だから、いつお迎えが来るかわからない。私が生きている
うちに、みんなで帰っておいで。」という優しい手紙が来たのである。
つれあいも娘も、勿論私の故郷に行ったことはない。これがいい機会かもしれない。
普段は旅の計画など全く夫任せの私が、珍しくこの時ばかりは綿密に日程表を組み、
乗り換え時間から何からすべて計算して、いざ二人を案内する旅に出たわけなのである。
私にとっては、もう二度と帰ることのない、最後の故郷への旅。そんな覚悟であった。
だから私は、どうせ帰るなら姉のところだけでなく、ついでに、4歳から高校を卒業して
東京に出るまでの過去を出来る限りこの機会に辿ってみたい、という気持ちを持っていた。
旅の核として、私は、おもに5か所を中心に巡る予定を立てていた。
そうして最初に訪れたのが、高校の時にほんの一時住んでいた町である。
そう、前回、「沈丁花の家」に書いた、春夫(仮名)の家のあった町である。
誰を訪ねるというわけでもないのに、なぜここを旅の最初の予定に入れたかというと、
そこが私にとっての青春の一ページを記す場所であり、何よりただひたすら、あの町を
いつも何かにつけ思い出していたからである。
そう、以前の記事で書いたが、髪を無心に洗っている時、ふっと思い浮かべる風景が、
この町の、春夫の家のある道路であったりしたから。
家を喪失した私にとって、あの、沈丁花が深く香る家は、何故か不思議といつも懐かしい、
いわば、夢の場所、というようなものになっていた。時がたてばたつほどに。
不思議に、いつも思いだすのは、自分たちが住んでいた離れの家のことではなく、
春夫の住む家の中庭の風景である。
夜は小便臭いような湿っぽい土の香がたちのぼり、月影があっても真っ暗で、まるで
闇の中にうずくまっているような庭も、昼間、春の日に温められると、様子は一転。
うすむらさきのハナダイコンの花に埋め尽くされた庭は、ぼおっと眠くなるような、
廃園の香りをさせていた。
勿論、あれから35年の月日が流れている。もうあの家はとうの昔に無くなっているだろうし、
今は住む人も変わっているかもしれない。
しかし、私はそれでも、あの町を訪れてみたかった。娘に見せてやりたかった。
彼女はかつて思春期の頃、私が話す春夫のイメージを、さらに自分の中で濃く作り上げ、
遥かな土地、遥かな人、そうして自分の母親の青春にも思いをはせ、それを絵にしたり、
文にしたりすることによって、彼女自身の感性の一部を形成してきたといういきさつがある。
だから私は彼女に是非、私がかつて住んでいた町と、そして海を見せたかったのである。
「あのね、海の色が違うの。砂が白いのよ。濡れると黄色味を帯びるけど、乾くと
本当に白い砂なの。松林が続いていてね、松林の中を歩くと、散り敷いた枯れ松葉が
足の裏に心地よく柔らかく、枯れた針葉樹独特の香りがするのよ。」
新幹線から在来線に乗り換えて、さらにまた支線へ.... 。
そうやって乗り換え乗り換えしてついに降り立った駅は、昔、私が母と始めて降りた時の
姿と、そう大きくは変わっていなかった。無論駅舎は新しくなっていたが、駅の小さなロータリーも
駅前の道路の感じもあまり変わっていなかった。実に35年ぶりほどにもなるのだが。
ああ、なんて懐かしい のだろう......。
私の方向の感覚もそう鈍ってはいず、私は「確か、こっちよ。」と言いながら、夫と娘を、
昔、春夫の家のあった道路へ導いていった。道幅などはあまり変わっていないが、
距離感は少し狂っているようだ。どのくらい大通りから入ったところだっけ.....。
さすがに35年の時の流れは家々の様子を一変させていた。
おぼろげな距離感覚を頼りに、この辺りだったかな、と思う一軒の家の前まで来て、
ふと表札を見る。
あった!
「小川」(仮名)という彼の姓が。
その時の気持を何と形容していいかわからない。
あえて言うなら、「やましさ」というものでもあろうか。
自分はいったい何をしているのだろう、という気持ち。
夫が珍しく今回の旅では私の思う通りにさせてくれているのをいいことに、
夫と娘をこんなところまで引っ張ってきてしまった。
そうして今、本当はほとんどどんな人だったかも知らない春夫一家の家の跡を、
こうして縁もゆかりもない私が興味だけに駆られて訪なっている。
しかも本人は全く知らされてもいないのに。
私は逃げるようにその家の前を離れた。
昔の、軒の低い平屋では勿論なく、日本全国どこに行っても見かけるような
モルタル二階建ての明るい感じの家。
ここにあの春夫が今もまだ住んでいる?
ああ、その不思議さ、そうしてそれを見ている私たち三人の立場のわけのわからなさ。
夫と娘は何も言わずに私に後についてくる。
「海を見に行こう。」
そう言って私は二人を促し、再び、道路を歩き始めた。
と、20メートルほど先を、一人の男性がこちらに向かって歩いてくる。
中肉中背の、もの静かそうな中年の男が。
夏の真昼時。広い道路には、私たち三人と、その男の人しかいなかった。
時が止まったような一瞬。
私は歩みを止めた。
娘が、えっ?という顔をして私を見る。
その男の人はこちらへ静かに歩いてきた。少し不審そうに首をかしげている。
立ち止まってしまった三人連れに、その人は、
「あの~、何か、うちに御用の方でしょうか?」と声をかけた。
春夫だ。
昔の面影を一瞥のうちに探す。
ああ、こんな顔だったのかな。そうだったかもしれない。思い出せない。
実はよくその顔を見たことさえなかったのだ。
それでも私は彼の姿を遠くに見た瞬間にわかっていた気がする。
春夫が来る、と。
「あの、私、実はずっと以前、お宅の離れをお借りしていた者です。」私は言った。
春夫は驚かなかった。
「・・・さんでしょう?」彼は言った。えっ、私の苗字を覚えている?
「。。。高校に行ってらっしゃいましたよね。お母さんと二人で、うちの離れにちょっとの間
いましたよね。」
ああ、春夫は私のことをよく覚えていた!
「先程、おたく達のお姿をうちの家の前に見かけたとき、あれっ、うちに何か用かな、
と最初思いました。そして近づいてみたら、すぐわかりましたよ。あれっ、・・・さんじゃないかな、
って。」
春夫は、なぜ私が、こんな風に35年もたってから自分の所を訪れたか、などとは一言も
尋ねなかった。でも私は説明しないわけにはいかない。立ち場から言っても。
説明しながら、自分で自分自身をさえ納得させられていない。
いま、東京に住んでいて、これが夫と娘であること。(ここで、夫、娘、春夫が頭を下げあう。
ああ、なんて変な感覚!
今、姉を訪ねついでに、かつて自分が住んでいたところを訪ねてみていること......。
春夫もつい最近まで東京近郊に住んでいたのだと言う。が、今度こちらにUターンして
戻ってきて、たまたま今日は休みで、今そこらまで買い物に行った帰りなのだ、という。
なんという偶然!あと、ほんの僅かでもお互いがここまで来る時間がずれていたら!
私が旅の計画を立てるとき、一本前の、あるいは一本後の列車を選んでいたら。
仮に同じ列車できたとしても、駅前でほんの一分、ぐずぐずするか、あるいは急ぐかしていたら。
あるいは、春夫自身が、ほんの一分、買い物に時間をかけるか、あるいは早く切り上げるか
していたら、もう、私たちは出会っていなかったはずである。
私は春夫の顔立ちをよく覚えていない。
春夫は私が来るなんて思ってもいない。
私たちが春夫の家の前に佇んでいず、もう歩き始めていて、家からかなり離れたところで春夫と
すれ違っていたとしたら、私たちはたがいに気づくことなく通り過ぎていたことだろう。
私は「春夫の家を見た!」というだけでしんみりして、うつむいて歩いていただろう。
春夫は何も知らずに家の中に入ってドアを閉める.............。
春夫と私たちはその後、親交を深めたか? いいえ。
春夫は、上がってお茶でも、と私たちを誘ってくれた。
しかし私は丁寧に断わって、春夫に暇を告げ、その場を夫と娘とともに去った。
そうして、海を見に行った。それきり。
それ以上話してはいけなかったのである。
お互いの住所を確認し合い、以後、季節のものを送り合ったりする間柄になっては
いけないのである。
私にとって春夫は。そしてあの春の、「沈丁花の家」の人々は。
春夫にとっては、全く、狐につままれた気持であったろうと思う。
あの人たちはいったい何で自分の家を訪ねてきたんだろう?
はるばる東京からやってきて、しかもまた何一つ事情も説明せずに去っていったのだろう?
これが、私の「沈丁花の家」顛末記、である。
あの、長いお互いの人生の中でほんの僅か3ヶ月、同じ敷地内に住み、
そうして35年後、ほんの一瞬すれ違った、
この私と春夫との出会いは、偶然なのだろうか?それとも運命なのだろうか?
私にもわからない。
春夫はきれいに歳をとっていた。
ちっとも嫌なところのない、清潔な感じの大人の男性になっていた。
「よかった。」娘がポツンと言った。
2009.02.24 沈丁花の家 ③ <<00:55
さて、この家の孫息子、春夫(仮名)と私との間に何か恋愛感情でも生まれるか、
と期待されるような書き方をわざとしてきたのだが、実はそんなものはなかった。
歳は一つ違いの高校生同士。学校は違ったが、同じ敷地の中に住み、時々は
顔を合わせることもあったわけだから、ほのかな恋愛感情が生まれてもよさそうなものだが、
それはなかったのではないかと思う。少なくとも私の側には。
その頃私は別の人に恋をしていたから。
当時の高校生などは純情なものである。私はその好きな人と一回会ったきり、
あとは文通だけの恋であった。二人の間に手紙が繁く行き来する。
時には郵便物を春夫が届けに来ることもあった。大家の郵便受けに私たち母子宛ての手紙も
一緒に配達されていたからである。
春は過ぎていき、離れの庭のチューリップも散った。
私は日当たりのいい縁側を自分の部屋代わりにして、そこに座机と本箱を置き、
手紙を書いたり勉強したりした。
雨の日には軒から滴り落ちる雨粒が、下の地面に規則正しい音をたて小さな穴を穿つのを
ぼんやり眺めている。無花果の若葉もだいぶ出てきた。
春夫のいる母屋はいつも薄暗い印象だった。庭に面した居間は日当たりもよかったろうが、
そこには目の悪いらしい老人がいつも炬燵の中にすっぽりと入って、こちらを向いているので、
私は外出するときはいつも、中庭をそそくさと通り過ぎ、土間に入っていく。
土間は本当にいつも暗く、何か古臭い道具やら土のにおいやらが籠った感じで、
私はそこも駆けるようにして通り過ぎる。何より、老夫婦と孫息子三人の、
何やらわけありそうな暮らしを、通りすがりに覗いていると思われるのが嫌で、
つい足早になってしまうのであった。
共に学校に通っているわけだから、春夫とはめったに顔を合わせることはない。
ただ休みの日などに、土間に沿って三部屋ほど縦に並んだその障子戸の奥から、
普段の老夫婦二人の食事より少しだけ賑やかな皿小鉢の音などがすると、
ああ、いるんだな、と思う程度。
居間にはテレビが据えてあるらしく、(当時はまだ全家庭にあるというほどには
普及していない時代であったから、春夫の家庭は割合に豊かであったのか。)
障子の奥がぼおっと青く光って、当時流行っていた「てなもんや三度笠」という
ドタバタ劇の、「あったり前田のクラッカー!」というコマーシャルや、
「マーブル、マーブル、マーブルチョコレートッ!」の歌などが賑やかに聞こえてくる日もあった。
私と母の暮らしは静かなもの。ラジオで、夜、寄席を聞いたりNHKの「日曜名作座」
の森繁久弥、加藤道子の二人による朗読を聞いたりするだけが楽しみだった。
春夫はどんな様子の少年だったか。いや、青年だったか。
当時地方の高校生はほとんど丸刈りだったから、勿論春夫も綺麗に頭は刈っていた。
頭の形が綺麗で、なんとなく青年僧を思わせる。
春だからそれなりに厚いものを着ていたはずなのだが、今思い返してみると、
なぜかいつもランニングに半ズボンという夏姿であったような印象しかない。
海辺の町の子らしく綺麗に日焼けした腕や背中や首筋が、清潔感を持っていた。
多分肌理が細かいので、あんなにきれいに日に焼けるのかな、と、私は会うたび羨んでいた。
背はそう高い方でも低い方でもなく、いわゆる中肉中背というところ。
年頃の少年少女の常として会ってもすぐに目を逸らすので、不思議に顔の印象というものは
薄かった。ただ、あくのない、あっさりと若い顔だったような。
さて、それからどうなったかというと、
私たち母子は、春夫の家に3カ月ほどいただけで、同じ町の別の家に引っ越して
しまったのである。原因は私の不眠症だった。
近くに米軍キャンプがあった、と書いたが、この町の人々のなりわいの幾分かは
米兵相手の商売に負っていて、私たちのいた離れも、私たちの前には当時オンリーさん、
と呼ばれていた米兵相手の女性が住んでいたのだったし、近くには米兵の集まる
ちっぽけなクラブもあって、そこから夜な夜なジャズの調べが流れてきた。
メロディまで聞こえればいっそいいのである。しかし、メロディは聞こえず、ただ
ベースの音だけが、ズム、ズム!と、地の底からの音でもあるかのように聞こえてくる。
母は一向に気にならないらしかったが、それでなくても夜、死のことなどを恐れたりして
寝つきの悪い私は、布団に入って枕に耳をつけると、自分の心臓の音と争うように
低く響いてくるベースの音に神経を乱され、眠れなくなってしまう。
そんなことが続いてある日、私たちは再度の引っ越しを決めたのである。
春夫の祖母は悲しげだった。
別れが近づいたある日。春夫は留守にしていたが、祖母は私を自分たちの住まいに
初めて呼び上げた。そして、自分が若いころから宝物のように大事にしてきたという、
京刺繍の糸をくれた。それは老婆が使わうのを惜しんで長年しまっておいたために、
もうすっかり色褪せてしまっていた。私が人形作りなどの手仕事が好きだということを
母との雑談に知ったのでもあったろう。
だが私は何十色もあるその糸の束がことごとく色褪せているのが悲しく、そして少し
腹立たしく、おそらく貰って微妙な顔をしていたことと思う。潔癖で理想の強い年頃の娘として、
その褪せた糸の束が老婆その人の人生の無駄のように思えてなぜか腹立たしかったのである。
思えば、若さというものは残酷なものである。
春夫の祖母の、おそらく若い頃の憧れも籠っていたであろうその糸の束を、私は
そののちも、何カ所か転々と引っ越しを重ねるうちにどこかへ無くしてしまった。
春夫は私たち親子が別のアパートの二階の一室に落ち着いてから、何回か、
ささやかな菓子などを持って訪ねてきた。同じ家にいたころはろくに口もきいたことのない
二人であったのに、母子が別の家に住むようになってから、気軽に訪ねてくるようになったのは、
やはり祖父母の前では話しづらかったのだろうか、と思う。
といって、春夫が一つ年下の私に恋していたから、というようなことはなかったと思う。
私は痩せて色黒の、ニキビのぽつぽつとある、話下手の暗い子であったから。
春夫は、私の母に自分の母の面影を求めて、それでちょくちょく私たちを訪ねてきたのでは
なかったろうか。
私たち親子がさらにそれから、県の中心街に近いところに引っ越してからは、お互いの
消息も絶えた。一回だけ、偶然同じ列車の同じ車両に春夫と私が乗り合わせたことは
あったが、私の母を介さない会話はぎこちなく、それきり二人は会っていない。
これが私のブログネーム「沈丁花」、に関する私の人生の幾つかある思い出の一つである。
ブログニックネームにするくらいだから、あなたはやっぱり春夫さんが好きだったんじゃないの?
そう訊かれるかもしれないが、答えは「否」である。
ただ私は彼に、ある共感は抱いていたかもしれない。何か深い事情のあると想われる
それぞれの暮らし。そうして彼がやけに穢れない、まっすぐな姿をしていたこと。
彼に恋したのは、むしろ私の娘である。
娘が思春期を迎えたころ、夜夜の昔語りに、私は沈丁花の深く豊かに薫る春夫の家を初めて
訊ねた春のことを、ランニング姿の腕の綺麗に日に焼けていた春夫のことを、恋を知らない
娘に話して聞かせたことがある。彼女は女子だけの中学校に入って、恋に憧れる年頃であった。
彼女は春夫の絵を描いた。イメージの中の、理想の、綺麗な、清潔な姿をした少年を。
いま、絵を描くことは彼女の職業になっている。
2009.02.23 沈丁花の家 ② <<21:33
沈丁花の薫るその家を見つけ、仮契約を交わしたのは2月末か3月の初めごろ。
母と私が実際に引っ越しをしたのは、3月も下旬になっていて、あれほど香っていた沈丁花も
さすがに もう散ってしまっていた。
その代りに、大家の家の中庭には、ハナダイコンの紫色の花が咲き乱れていた。
春の穏やかな日差しが中庭をいっぱいに照らして、花の紫色と春の庭独特の
噎せ返るような土の匂いとで、うっとりと眠たくなるようだった。
相変わらず、古びた牛乳瓶や、植木鉢や、老人のものらしい洗濯物などが
むさくるしさを醸してはいたが、春の日差しが、母屋と一段高くなっている離れとに囲まれた
その中庭に魔法をかけでもしたかのよう。
引っ越しといっても、各地を転々としてきた母子二人の暮らし。家具らしい家具と言えば、
最後の持ち屋であった家からずっとなぜかこれだけは残してきた食器棚と、私の座机、本棚だけ。
母が長年使い続けてきた裁縫台さえ、今度の引っ越しでは手放してきていた。
なぜなら、母は老眼が進んで、もう人さまの着物を縫ったりすることができなくなっていたから。
私たち二人は、遠くで働いている兄からの、あまり当てにならない仕送りを頼りに
これからここで生きていくことになる。
そうして私はこの町の高校に通うことになる。
そもそもこの海辺の町に越してきたというのも、交通費がかからないようにするためで。
わずか3点の家具と他には一組きりの夜具。少々の調理器具や衣類、私の本以外は
荷物らしい荷物もないわけだから、引っ越しなんて簡単。まるで根無し草のように何処へ
移り住もうと気軽と言えば気軽な、母子二人の暮らしであった。
私たちの住む離れの方の前庭も、季節が少し進んでわずかに彩りを加えていた。
あまり元気のないチューリップが4,5本、花を開きかけていたし、雑草が芽吹いて、
緑の色が加わり、荒れ果てた庭という感じはしなくなっていた。
夕暮れになって、六畳間にも厠にも電球がついていないことに気付き、
拭き掃除などをしている母を残して、私は町に買い物に出ることにした。
町といっても、メインストリートにさしたる店があるわけではなく、3,4分も歩けば端から端まで
見てしまう、といった地方の、それも今から45年も前の町並み。
それでも、ああ、ここに八百屋がある、あそこに本屋がある、と、確かめながら歩いて、
買い物を済ませて再び、大家の低い軒の入り口にたどりついたときには、
まだ日没時刻がそうのびてはいない早春の頃のこと、あたりはすっかり薄暗くなっていた。
それでなくても暗い、ぽっかり開いた人の口のような大家の家の入口。
私が入ろうとしていると、中からぬっとあらわれた一人の男の子に危うくぶつかりそうになった。
お互い顔も見あわせず、そそくさと頭を下げあっただけ。私は母の待つ離れに、男の子は
買い物にでも行くか、私と入れ違いに、夕焼けのかすかに残る外へと出て行った。
それがこの家の一人息子、春夫(仮名)であるということを、私は母から聞いた。
母はもう掃除も済ませ、電球のつかない暗い家で私を待ちかねていたのである。
春夫とは、私が外へ出ている間に顔を合わせていたらしかった。
春夫は私より一級上の、今度高校二年生。
事情はずっとその後も聞かなかったが、祖父母との三人暮らしであるという。
初めての夜。
ささやかな夕食と後片付けも終え、暗い庭に出てみると、母屋の低い建物が
離れよりは一段低くなっている中庭の宵闇の中に、背を丸めた老婆のように
黒く蹲っていた。そうして、それにLの字型に建て増ししてある小さな部屋から
窓の明かりが洩れて、暗い庭をぼおっと薄明るく照らしていた。
あれがさっきの男の子の勉強部屋でもあろうか。
庭からはまた、かすかに小便臭いような春の土の香りが夜になって一層濃く立ちのぼり、
見上げると、春にしては澄んだ夜空に三日月がくっきりと見えた。
2009.02.23 沈丁花の家 ① <<03:05
海辺の町の小さな駅舎を出ると、春の強い風が母と私二人にいきなり吹きつけてきた。
道路向かいのガソリンスタンドの万国旗がその強風にあおられてばさばさ音をたてている。
アパート紹介の不動産屋などこの頃はあまりなく、家や空き室を探す人は、軒先につるされた
「貸間あります」の札を頼りに、新しい住みかを探す、というのが常の時代だった。
今からもう45年ほど前の、ちょうど今頃の季節のことである。
朝鮮戦争の兵站の基地として日本各地に米軍が駐留していた時代の名残をいまだとどめて、
その小さな海辺の町の近くにも、米軍のキャンプ地があった。そのせいか道路はやけに幅広く、
そこをアメリカ製の、大きな車体のスポーツカーが走り過ぎていく。
米兵相手の日本女性の嬌声が、車とともに流れ過ぎていく。
道路は立派だが、両側の家並みは粗末である。広い道の端に軒の低いくすんだ家々が
へばりつくようにして立ち並んでいる。
最初に見つけた物件は、空き地にポツンと建った一間きりの米軍住宅であった。
外壁全体にくすんだピンク色のモルタルが吹きつけてあり、入口の木製のドアには
紫色の色ガラスをはめ込んだ小窓がついている。ドアを開けると、すぐに部屋。
表の空き地との段差もほとんどなく、雨が降ったら空き地にたまった水が部屋にまで
上がって来るのではないかとふと思われた。
部屋の広さは8畳ほど。木の床の洋間で、入口近くの壁に、米軍の払い下げ品でもあろうか、
緑色のペンキを塗った鉄製のそっけないベッドが一台、据え付けてある。
「どう?」 私が訊くと、「嫌だよ。私はベッドなんかじゃ眠れない。」と母は言った。
若い私はその、いかにも米軍ハウス風の家が内心一目で気に入っていたのだが、
母が駄目なのなら仕方がない。私たちは再び、広い道路に出た。
二軒目に、「貸間あります」の札を見つけたのは、その町のメインストリートともいうべき
広い道から一本脇に入ったところの、やや細い道路沿いにある家だった。
この道にも、軒の低い、平屋の家々が暗い間口を並べているのだが、その中の一軒だった。
入口から何回か声をかけると、薄暗い土間の奥から、一人の老婆が出てきた。
部屋を見せてほしい旨を告げると、愛想良く、母と私を土間の奥へいざなった。
晴れた戸外から急に薄暗い土間に入ったので、最初は向こうにぽっかりと空いた土間の出口しか
見えなかった。が、目が慣れてくると土間の壁際にはリヤカーやシャベル、漁具や農具らしきものが
雑然と積み重ねられてあり、反対側に、2間3間続きの部屋がウナギの寝床のように並んで
いるのが見て取れるようになった。
何しろ暗い。こんな洞窟みたいなところいやだな。さっきの米軍ハウスがいい。私はそう思っていた。
「お貸しするのは離れなんですよ。」老婆が言う。
後について暗い土間を抜けると、そこはじめじめした感じの中庭になっていた。
沈丁花の香りが漂ってきた。そして、かすかに小便臭いような春の地面の匂い。
中庭には老人のものらしい股引やくたびれたシャツなどが干してある。
牛乳瓶の古いのに雨水がたまって苔色になっているのや、古い植木鉢などが転がっている。
またしても、かすかに小便臭いような匂い。
「こちらです。」と声をかけ、老婆は中庭を突っ切ってそのさらに奥にある数段の石段を
上って行った。庭の奥は一メートルほど高くなっていて、そこに問題の離れがあるらしい。
後について苔の生えた石段を登ると、2坪弱ほどの小さな前庭のついた古びた木造家屋が見えた。
一軒家の体裁はとってはいるが、部屋は6畳一間きり。入口のすぐとっつきに半畳ほどの
脂ぎった小さな台所。前庭に面して一間半の縁側がついている。
母が老婆と間代などの条件を話し合っている間、私はその縁側に腰かけて、
ささやかな前庭を眺めていた。大きな無花果の木が一本だけ。前に住んでいた人が植えたか、
チューリップの芽が伸びてきている。家と同じにすがれた感じの庭だが、庭付きの家というのは
嬉しかった。小学2年生の時、父母が別居して以来、私は自分の家というものを失って、
それからはずっと、母と二人、下駄ばきアパートの一室を転々とする暮らしを続けてきたから。
振り向いて部屋の中を見ていると、
「前には、アメリカ兵の方と、女の人が........」というような話を老婆と母がしているのが
聞こえてきた。ふうん、こんな畳敷きの古い日本家屋に住んでたんだ、台所の壁にべったり付いた
調理油も、そう言えば、菜種油ではなく、バターの乳臭い臭いだな、私は思っていた。
さっき後にしてきた母屋の方を見おろすと、洗濯物を干してあったところの横手に、
小さな勉強部屋らしきものが建て増ししてあるのが見えた。
沈丁花は1本だけでなく、他にもどこかにひっそり生えているのかその重い香りが
私のいる離れにまで漂ってくる。
「どうだい?」と母が目顔で訊く。「いいんじゃない。」私は声に出して答えた。
そうしてその小さな家が、母と、その町にある高校に4月から通うことになっている私の、
次の仮住まいとなったのである。
2009.02.21 皆さま、応援ありがとうございました。 <<15:32
ブログを始めて1ヶ月半、夢中で走り続けてきたが、ある記事を書いたことがきっかけで、
自分にとってのブログの意味というものにふと疑問が生じ、3日ほど記事を書くのを休んだ。
そうしてその悩みを綴った記事でブログ再開すると、本当に多くの皆さまから心のこもった
応援のメッセージをいただき、今、しみじみと人の温かさというものに感動している。
こんな時、人間ってちょっと小さくなってしまうのが不思議。もともと痩せて体積は小さいのに、
ますます自分が小さくなった感じ。
尊大になると人は体積も嵩が増す感じになるので、今私は、皆様の好意の前で謙虚になって、
しみじみと感謝の想いで頭をたれている、そんな老女の姿を想像してください(笑)。
本当に皆さま、ありがとうございました。
また、元気に記事書いていきますので、これからもよろしくお願いいたします。
2009.02.19 憂愁。 <<01:55
ちょっとの間、なぜか私にしては珍しく、もの想いにとらわれていました。
だから、ほぼ毎日書き続けてきた記事も、ここ3日、更新しませんでした。
もの想いのもとは、このブログにあります。
なんだか私は、「書くために書く」という不実を行っているのではないか、ということを
ふっと感じてしまって、ちょっと立ち止まってみよう、と思ったのです。
ブログの楽しさに誘われて、あまり突っ走り過ぎてしまったのかもしれません。
本来の私は、無口で、どちらかというと人とのおつきあいが苦手です。
人間嫌いでありながら、人は恋しい。いくつになっても。
ブログを通じて、思いがけず多くの方と知り合いにならせていただき、
優しくされたもので、つい有頂点になり、べらべらとおしゃべりしすぎた自分に嫌気がさした、
というのでしょうか。このままではまずいぞ、とちょっとブレーキをかけてみました。
もう一つの憂愁の原因は、自分のものを知らなさかげんについて、です。
61年も生きてきて、人に教える仕事もしてきて、それなりの知識とそれなりの語彙は持って
いるものの、それは実生活と結びつかない、いわば、「虚」の言葉、「虚」の知識、なのではないか、
という、根源的な問題にぶち当たってしまいました。
こんなに長く生きてきたのに、今頃こんな問題に行き当たるとは情けない.......。
休んでいる3日の間にもめまぐるしく政治上の動きがあり、それが今のこの社会の混迷を
解決する方向に持っていく動きならいいのだけれど、そうではなさそうで、政治が手をこまねき、
経済界が手をこまねき、私たちが何もせずにいる間にも、一人一人と死んでゆく子供、
貧困にあえぎ犯罪に走る人、刻一刻と今この瞬間も汚染され破壊され続けている地球.......
61歳の私に何ができるだろう、という無力感と、ここでぐだぐだ言っていたって、誰の助けにも
ならないじゃないか、という徒労感も、憂鬱の一つです。
こんな世界に私は子供たちを残していかなければならない.........。
私が少し落ち込んでいる間にも何人もの方が拙ブログをお訪ねくださり、
本当に人の心の温かさに感動しています。
このブログの力というものが、社会を動かしていくことはできないのでしょうか。
私にできることはないのでしょうか。
さて、また、そろそろ書いてゆくかな。今度はじっくり腰を据えて書いてゆこうと思います。
ブログ始めてからすっかり本を読まなくなっていたので、また少し、いろいろ読まないと。
と、言うより、もっと静かに深く考える時間を持たないと、と思います。
2009.02.15 「東日本と西日本」 愕然としたこと その⑤ <<15:50
前回の記事で「西」に関することを書いたら、当然「東」は?ということも出てくると思う。
以前から続けている、「愕然としたこと」シリーズの一環として、ちょっと書いてみようと思う。
といっても、前4回の「愕然」よりは軽い「驚き」といった程度のことなのだが。
子供が中学一年生の時の担任は、社会科担当の気鋭の教師であった。
父母会の折、その先生が、ふと、
「僕は広島の生まれなんですが、東京とは日の出、日の入りの時間に20数分の差が
あるんですよね。これは生活上、大きな差です。」とおっしゃった。
それを聞いたとき、私は、愕然と言うのは大げさにしても、それまでなんとなく抱いていて疑問が
氷解するというか、目から鱗が落ちた、といった感じを味わったのである。
それまでの私は、
「何か九州から東京に出てきてから時間が早く過ぎるような気がする。博多にいた子供の頃は
もっと時間がゆったりしていて、夕方も学校から帰ってきてからも日が暮れるまでたっぷり
遊べたような気がするけど、なんなんだろう。」と、感じていた。
「東京の生活テンポがめまぐるしいからかなあ。それとも、『ゾウの時間、ネズミの時間』という
本にあったように、子供の心拍数と大人の心拍数は違うらしいから、それが時間感覚まで
影響しているのかなあ。」などと、いろいろ考えていた。
ところがその先生の言葉を聞いて、「なあんだ!」と、長年の疑問の一端が解決したように
思ったのである。
勿論、大人と子供の生理的なことからくる時間感覚の違いや、慌しい都会の生活とゆったりした
子供の時間との相違はあるだろう。だが、ただ単純に、
「そうかあ。九州は東京より、日の暮れるのが遅かったんだあ!だから放課後の時間があんなに
ゆったりたっぷりしていたように感じられたんだあ!」という理由もその一因であることなのが
その時初めてわかったわけである。
これが日本の最東端に近い、北海道、根室市あたりになるとさらに日暮れは早くなる。
よく旅をする人なら当たり前。今更そんなことに驚く?と笑われるだろう。また、東京、博多、
どこでもいいのだが、ずっと同じ所に住んでいられる方はあまり感じないことかもしれない。
でも、東京と博多で例えば今日の例で言う、と日の出で33分。日の入りでは42分
違えば、相当実際の日没までの時間というものが博多の方が遅く、その分、日が長いと感じる
わけである。
でも、その分福岡の方が日の出は遅いわけだから、一日の時間の長さに変わりはないよ、
ということはもちろんわかっている。
ただ私が言っているのは、あくまで個人の時間感覚、ということなので、お許し願いたい。
もう一つ、私が愕然としたのは、「いかに文化は東京を中心に考えられてきたか」
ということである。例えば、あなたは、
「朝日は海から昇って、夕日は山の端に沈む」、と感じますか?それとも、
「朝日は山の端から昇って、夕日は海に沈む」と感じますか?
たいていの人は上のように感じるのではないだろうか。
しかしそれは、ある種、作られたイメージである。実際は我が家の場合などは、
「朝日は平地から登って山の端に沈む。」
日本海側に住む方には、「朝日は山の端から昇り、日本海に沈む」であろう。
ところが、多くの人が思い浮かべるイメージとして、朝日は広大な太平洋から光り輝いて
昇り、夕日は山の端に静かに沈んで、そこへ鴉がカアカア鳴きながらねぐらを指して帰る、
というものがありはしないだろうか。
絵本などでも、子供はごく早い時期から、朝日は海から昇る、という絵をなんとなく
与えられて大きくなると思う。
まあ、朝日は、日本列島を大きくとらえれば、太平洋から昇って、と言えなくもないかもしれないが、
夕日はどうだろう。日本海岸では、太陽は海に沈むのでは?
でも、「夕焼けこやけ」の歌にしても「七つの子」にしても、夕暮れ、鴉はカア、と鳴いて、
西の方の空へ、山辺のねぐらの方へ飛んで帰るというイメージがあるのでは?
なにも私はここで朝日が海から昇るかどうか、ということを問題にしているわけではないのである。
それは、一つの象徴的な例であって、つまり私は、
私たちが当たり前のこととして抱いているイメージの多くは、太平洋岸の文化、それも
とにかく東京中心の、太平洋岸に住む人の感覚で創られているものなのではないか、
ということを言いたいのである。
今はあまり使われなくなったようだが、表日本、裏日本、などという表現も」考えてみれば、
失礼な表現ではあった。
人間はえてして自分の住んでいるところ、自分の知っていること、などを根拠にものを考え、
ものを言いがちである。例えば、先回の記事で私が、
「人間が本然的に西の方を好む体質というものがありはしないか」
と書いたのなどもこのいい例で、私が本当にそこで言いたかったのは、
「人間も植物などの多くと同じように、太陽の恵みを受けて生きている。だから、
無意識のうちに人間は太陽に顔を向けたがり、人間の活動時間の大抵は、太陽が
南から西の方角にあるために、私のように、西の方角を懐かしいと思う感覚が
生まれるのではないか」ということなのである。
ところがこれも、朝寝坊の私の感覚であって、仮に人間共通の無意識にそういう傾向が
あるとしても、地球上の住む場所によって、その方角感覚も異なるということが言えるのである。
ある方からいただいたコメントのように、私が西方浄土、と書くかたは、ヨーロッパの
人々にとっての「東方」であるわけだし。
まあ、要するに、日常感覚をちょっと疑ってみるのも面白い発見があるかもしれないよ、
ということが言いたかったわけなのである・・・・・。
また、特に東京に住んでいると、東京の感覚でものを考えがちだが、それは不遜だよ、
ということを、自戒を籠めて思うわけである。
中央の政治家などには特にそれを自覚してもらいたいものである。
2009.02.14 連想の不思議........昨日の記事に続けて <<02:37
昨日、デジャヴについて書いたら、やはりその経験をお持ちの方が何人かいらっしゃって、
コメントをいただいて嬉しかった。今日はまた、その続きというか、別の、脳の不思議について。
私は夕食の支度をしたりしている時によく歌を歌う。
柄になくそれは演歌だったり(ぴったりですって?)、いかにも私らしく「故郷の廃家」などの
外国民謡や唱歌だったり(柄に合わない、ですって?)するのだが、なんだかその時している
動作によって出てくる歌が決まっている。
例えば、夏の夕暮れ、張り切って野菜を洗ったりしている時は「帰れソレントへ」(イタリア民謡)。
夕食後テレビを私も見たいのに、一人で寂しく洗い物をしている時は、由紀さおりの「手紙」
(恋人と共に暮らした家を去る歌)など。
まあ、それはここで言いたいことではないのだが(なーんだい!)、ある動作をしている時に、
ふっとある特定の場所の風景が頭に浮かぶ、といったことはないだろうか。
まったく関係のない場所の風景が。
例えば私の例で言うと、今晩は大根とおじゃがの味噌汁でも添えるかな、と思って、大根を
拍子木切りにしていると必ず、かつて娘が住んでいた東京近郊の街の、とある交差点付近の
情景がふっと頭をよぎる。お風呂で無心に髪の毛を洗っていると、ふっと昔々、私が高校生の頃
母と住んでいた海辺の町の、ある道路の光景が頭に浮かぶ。例の如く、気持ちよく歌を
唄いながら、ざあざあ水を流して茶碗を洗っていると、ふっと、かつて娘が初めての個展を
開いたある街の画廊付近の情景が浮かぶ。
といって何の関係もその動作とその情景の間には見つからないのである。
別にその画廊で茶碗を洗ったことなどないし、娘のアパートで大根の味噌汁を作ったことは
なくはないかもしれないが、それほどがっちり結びついた思い出でも何でもないし。
まったく脈絡のない、ただの連想なのだが、さあ、それがどこからどうして訪れるのかわからない。
しかもそれはこちらがまったく油断している時に限ってふと訪れる。
さあ、髪を洗うから、またあそこを思い出すぞ、なんてこれっぽっちも思わず、無心に泡をたてて
髪を洗っている。するとまたあの情景が脳裏に。
皆さん、そんなことありますか?
まあ、デジャヴと同じで、全く何と言っていいか、日常のごくつまらない些細なことがきっかけで
おこるので、それほど大騒ぎして書くことでもないのだが、私にとってはこれもなんだか
不思議な現象なのである。
そうして、それらの情景がどれも西日の中の情景のように見えるのも面白いのだ。
私の視線は、それらの中で、いつも西の方を見ている。それも、日が傾きかけた西の空の方を。
これは私が西国の出だからかなあ、と思ってみる。やっぱり、意識の奥底に遠い故郷の方角、
それを懐かしむ気持ちがあるからかなあと思ってみるが、それでもなんだか納得しきれない
ものがある。
どうも現実の意識の中でも、私は東の方を向いた風景より、自分が西の方を向いている
風景の方を好むというか、何かの拍子に思い浮かべるのは圧倒的に西の方が多い。
別に東の方で嫌なことがあったとか、比較的東の方が面白くない街にいつも住んでいた、
とか言うことでもないのだが。
そういえば、夢の中でさえ、私は西の方角に向って歩いていることが多いようだ!
なんなんでしょう、これは。
皆さんはそんなことはありませんか?
「西方浄土」という言葉があって、それは当然仏教国である日本にとって、仏様の
いらっしゃる浄土、インドは西の方にあるからなのだろうが、
なにか、人間が本然的に西の方を好む体質、というものがあるのではなかろうか、ふと
そんなことを想ってみるがどうだろう。
2009.02.13 Deja vu: [既視感]がこの頃ない! (アクサングラブ が打てないのでそのままで) <<00:29
頃は秋。時は夕暮れ。
母と二人で暮らす六畳一間きりの部屋に、
今日は兄が帰ってきている。まだ電灯を点すほどでもない障子越しの薄明かりの中で、
兄が新聞を読んでいる。母はいつものように窓際に据えた裁ちもの台の前で縫物。
私は兄に背を向けて、やはり薄明かりの中で本を読んでいる。
ふと、背後で兄が新聞をガサガサいわせてページをめくる。
すると、あ!来た!あの感覚が!
前にこれとまったく同じことがあったような感覚。
こんな薄明かりの中。兄が私の背後にいて、新聞をめくる。この部屋の暗さ、この部屋の空気。
この新聞紙の音。兄の息遣い........。
兄はめったに帰ってこないから、これと同じことが前にあったという判然とした記憶はない。
無いのだが、前に同じことがあって、次に兄が新聞をめくる音がする、というのを前もって
知っていたような感覚.......。
こういう感覚をデジャヴ(既視感)というのだ、というのを知ったのは高校生の頃のことだった。
フランス語の語感と、それが訪れた時の何か特別な喜ばしい感覚が好きで、私はよく
人に同じような経験があるかどうか聞いて見ていた。
「うん、あるある!」という人は割に少なく、たいていの人が「ええ?そんなのないなあ。」
というか、「あるよ。」とは言うが曖昧な顔をしているので、ああ、本当はないのだな、と、
こちらが察するくらいで、まず、10人に聞いて「私もあるある!」と喜んで反応してくる人は
2人くらいかな、というのが当時の実感だった。
経験している人が少ないということは、自分の感覚が特別なんだ、という風に、高校生の頃の
何でも自分を人と差別化したい年頃の私は思いたがっていた気がする。
大体年に3,4回くらいの割で、その不思議な感覚は訪れる。訪れるとなんだか嬉しい。
ところがいつの頃からか、デジャヴ、という言葉がおおはやりになり。テレビの旅番組などで
若い女の子のレポーターなどが、「ああ、何かこの景色見たことあるぅ!デジャヴみたぁい!」
などというように使うようになった。
それと大体時を同じくして、こちらにはさっぱりあの感覚が訪れなくなってしまった。
この頃では使い古された言葉になってしまったか、あまりデジャヴ、について語る人も
少なくなってしまったようだ。
この既視感という感覚は昔からやはり多くの文学者や学者が不思議なことに思い、
数々の研究がなされてきたようだが、あまりにも淡い感覚であるのと、実験などで
再現したりするのが困難なことなどから、いまだにこれといった科学的な論証は
出来ずにいるらしい。
多くの科学者が説明しようとして、まだ定説といえるものが生まれていないくらいだから、
私などにわかるわけもないが、自分のこういう感覚を愛してきた私としても、あれこれ考えて
みたことはある。
例えば上の例でいえば、夕暮れ時、兄が後ろで新聞を読んでいるわけだから、つぎに
新聞をめくる音がするだろう、というのは当然予測できるわけで、心はその準備ができている。
勿論意識下で。と、実際兄が新聞をめくる。するとその音を聞いて、私は、ああ、これは
前にも経験したことがある!と思うわけである。
とまあ、そんな風に考えてみた。
諸説によれば、旅先でこれを経験する人が多い、という。(私の場合それはないなあ)
疲れている時に起こりやすい、という。(それは言える!)
大きな印象的なことに対してではなく、ごく小さなつまらない事象に対しておこりやすい、という。
(確かに、上の例のような、ごく日常の些細な場面でおこるなあ)
年をとると起こりにくくなる、という。(が~~ん!そうかあ、だから最近ないんだ!)
あなたは、デジャヴ体験ありますか?
2009.02.11 「蝶を抱く」 魂の出会い ② <<02:52
それは11月のある小寒い夕暮れのことだった。
「ねえ、ちょっと来て見てごらん。」いつになく家人がせわしなく私を呼ぶ。
亭主がいる玄関先に出てみると、そこの、昼間よく陽が当たる入り口脇に
置いておいた合歓の木の鉢を持って、亭主が「ほら!」と指さす。
見ると、もうすっかり葉も落ちて枯れ木のようになってしまった小さな合歓の木の枝に、
小さなさなぎがついている。
どうやら何かの蝶々のさなぎらしい。
「どうしよう。」と問うと、「まあ、自然のものだから、このままにしておけば、さなぎで冬を越して
春になったら出てくるだろう。」と言う。
「そうよね。」と言って、鉢を元の玄関脇にそっと置いた。
ところがその頃の寒かった日々とはうって変わって、小春日和と呼ぶにぴったりの暖かい日が
2,3日続いたある夜、帰ってきた亭主がまた、「ちょっと来て見てごらん。」と呼ぶ。
行ってみると、高さわずかに3,40センチくらいのあの合歓の木に、一羽の蝶々がしがみついて
いる。菜の花のようにまっ黄色の小さな小さな蝶である。
昼間は暖かくても11月も半ばの夜はさすがに冷え冷えと寒く、生まれたばかりの小さな
蝶は、心なしか寒さに震えているようにみえる。
「どうしよう。このままじゃ寒さで死んじゃう。」私が言うと、
「じゃあ、家の中に入れといてやんなさい。」と、亭主。
私は我が家で一番暖かい、朝日も西日も差す娘の部屋に、
蝶のしがみついた合歓の木の鉢を 持って上がった。
その日から、小さな黄色い蝶は、我が家の住人となった。
翌日からは冷たい時雨の日が続いた。でも、小さな蝶は、炬燵の入ったその二階の
四畳半の部屋で、ひらひらと飛びまわっていた。
紋黄蝶というのではなく、羽根に無紋の、全くまっ黄色の小さな蝶だった。
飼い方が分からないので、図書館に行って調べたが、冬、羽化してしまった蝶をどうやって
育てるか、どこにも書いてない。蝶はさなぎで越冬する、とだけ。
外は木枯らしの日々。私たちは黄蝶をそのまま家で飼い続けた。
彼(彼女?)は水も飲まない。ただ、私たちが敵ではないということはわかっているようで、よく
本を読んでいる娘の頭や私の肩にそっととまったりした。ああ、その軽さ!
夜は掌に囲って、暖かいスタンドの笠の中に移してやる。そうしても彼はばたばた
暴れたりしないで朝までそこにじっと止まっている。
何か食べさせないとと、蜜を含んでいそうな鉢植えを買ってきてとまらせてみたが、
吸蜜する様子はなかった。水もやはり飲まない。
何も食べないのが心配で、ふと思いつき、蜂蜜を水で薄めて人差し指
につけ、炬燵板の上でじっとしている彼の前にそっと差し出してみた。
するとどうだろう!
小さな蝶はつつつっと私の指によじ登ってきて、いつもはくるっと巻きあげている細い細い口吻を、
ストローのようにすっと伸ばして、なんと私の指先から、蜂蜜水を吸ってくれたのである。
ああ、その体の軽さといったら!ああ、そのストローの、その脚の繊細さといったら!
皆さん、蝶々が人の手から蜜を吸うなんて考えられますか?でも、彼は吸ったんです。
この私のひとさし指に細い足でよじ登ってきて、ぽちっとつけた蜂蜜水の水滴を。
蝶が人に馴れるなんてことがあるのだろうか?
もうその可愛らしさといったら! 小さな小さな黄色の蝶・・・。
しかし彼は日に日に弱っていった。昼間は元気に部屋中を飛び回り夜は熱を発する
電気スタンドの笠の中に羽を休めて、朝になるとまたひらひらしていた彼が、夜が明けて
朝、スタンドを覗いてもいない。はっと思ってあたりを探すと、スタンドを置いたベンチチェストと
壁の隙間に落ちて死んだようになっていたりする。あわてて家具を動かし、掬いあげて、
暖かい掌の中にくるんでやると、しばらくして、かすかな翅の動きが手の平に感じられ、
彼はまた飛べるようになる。
しかし、翌朝はやはりスタンドの台の上に翅をたたんだまま、落ちていたりするのである。
そこで私はどうしたか?
黄蝶を抱いて寝ることにしたのである。
娘が赤ん坊の頃。少し大きくなって手足を盛んに動かすようになると、どうしても足で
蒲団を下の方に剥ぎやってしまう。外はまだ寒い。もう体もだいぶしっかりしてきていたので、
私は娘を自分の布団に抱いてきて、添い寝をすることにした。
しかし、何といっても小さな体。重い冬蒲団が口鼻を覆って息をふさがないように、私は
横向きに寝て片腕でアーチを作り、その中に娘を入れて、一晩中、その口に蒲団がかからぬよう、
身じろぎもせず、数か月の冬を過ごしたことがある。
母親の子を護ろうとする意思というものは、極めて強いものだと我ながら思うが、本当に一晩中、
寝返りも打たず、子の為に腕はアーチにしたまま身じろぎもしない、そういう自信があった。
そうだ。あれをやってやろう。
私は腕でつくった「かまくら」のようなところに小さな蝶をそっと入れた。私の体温で中はほかほか
暖かい。直径30センチほどのその私の腕のドームの中で、黄蝶は元気にひらひらしていた。
蝶を抱いて寝るなんて、そんな馬鹿なこと。でも、その時の私は真剣だった。
朝、はっとして目を覚ます。よかった。昔取った杵柄。ドームは壊れていない。
私はやっぱり身じろぎ一つせず一晩じゅう、蝶を抱いていられたのである。
この頃毎朝、寒さでぱたりと死んだように落ちていた彼が、今朝は私の腕の中で
元気にばたばたしているのが腕に感じられる。
ああ、その体の軽さに比して何と貴い存在であることよ!・・・・・・
しかし、何か暴れすぎのような気もしてはっと不安になり、私は蝶を調べてみた。私の掌の中で
蝶は元気に見えた。ところがどうも暴れすぎる。私の掌から逃れようとしているようにさえ見える。
よくよく調べて見る。すると、黄蝶の3対ある脚の、右側の方の前の2本がないではないか。
それに気づいたときの私の悲嘆といったらなかった!
ああ、私は思いあがっていた!
自分の娘が大丈夫だったからと言って、人の子供と、このか弱い蝶とは、どう考えたって
同じに扱えたはずがなかったのに!
おそらく私のほんのちょっとの身動きが布団をわずかに動かし、彼の細い脚を挟んでしまったのだ。
あの小さな蝶に感情というものがはたしてあるものだろうか?
なんとそれまでは、私が人差し指を彼の前にそっと 差し出すと、彼は蜜がなくとも、
細い足で私の指によじ登ってきていたのである。
そんな蝶々がいますか?
おそらくそれは単に、寒くなった中、私の指が暖かいのでそうしただけだったのであろう。
しかし、今のこの変わり方! 彼は明らかに私の手から逃れようとしていた。
私には彼が怒って私を怨んでいるとしか思えなかった。
どうして?どうしてあんなに信じていたのに、私の足を奪うようなことをしたの?と。
すまなさと切なさと悔いと・・・・・。私はバタバタし続ける小さな蝶を呆然と見つめていた。
彼は飛ぶことはできた。しかし、ものにつかまれない。右足が1本しかないのだから。
それを奪ったのはこの私である。可愛らしい蝶を自分の傍に置いていたいという人間の
勝手な欲望で、私はこの可憐な蝶をこんな姿にしてしまった・・・・。
確かに外は寒い時雨空が続いていた。しかし、自然界で過酷な環境でも生きてきた蝶である。
間違って11月に羽化してしまったとしても、あの時あのまま、私たちが家の中に
入れてやったりせず、放っておいたなら、彼も夜はどこかの軒下にでも寒を避けて、
春までとは生き延びられずとも、少なくとも数日は、蝶本来の生き方ができたかもしれないのである。
確かに、我が家で彼は半月余り生きていた。四畳半の部屋の中で。
あの時入れてやらなかったら、寒さですぐに死んでいたか、それは分からない。
だが、やはりこれは私の身勝手以外の何ものでもなかった。可愛いものを自分の手の内に
留めておきたいという私の我儘以外の何ものでもなかった。
私は、小さな黄蝶をそっと掌に包み、玄関から外に出た。そうして近くの河原に行った。
黄蝶は掌の中でバタバタしている。悲しみが体を包む。
その日は再び晴れて比較的暖かかった。河原の草むらは殆ど枯れかかっていたが、
それでもまだ わずかに赤まんまの花のすがれたのなどが残っていた。
私は掌を開いて蝶を放した。
黄蝶は弱々しく、初冬の淡い光の中へ飛んで行った。
多分、彼は、私の方を振り返ってはくれなかったと思う。当然だ。私はひどいことをしたのだから。
私も振り返ることなくその場を去った。いや、振り返れなかったのである。
小さな黄蝶が翅を休めようとして枯れ草にとまれず、無残に落ちるのを見ていられなかったから。
これが小さな黄蝶と私の、魂の出会いである。いやいや、まだそんなことを言って。
小さな蝶にとって、あれは身勝手で独りよがりな人間との悪夢の出会いだっただろうか。
そうは思うのだが、あれからもう、20年。今でもほんの時折、あの子に似た小さな黄色い蝶が
我が家の庭をひらひらしていることがある。
あっ!あの黄蝶、うちのあの子の子孫? そんな叶わぬことをふと思う、バカな私である。
小さな黄色い蝶、その名は「ひろし」。
2009.02.09 coincidence or synchronicity? (偶然の一致それとも共時性?) <<03:08
昨日の記事で、「魂の出会い」ということについて書いた。それは「一対一の出会い」についてであったが、そもそもの記事のきっかけは、あるものと人がたまたま出会い、それがなんの偶然か、次々に他のこととつながっていく、その不思議さへの驚き、ということから来ていた。
皆さんはそんな経験をお持ちではないだろうか?
一つの例をお話しする。
昨日私は、ブログ上で、たまたま人と人、人と本、人ともの、との、単なる偶然とは
思えない 出会いに関する記事にいくつかたまたま出会った、と書いた。
そしてブログ上に載せたわけだが、今朝、朝刊を開くと、それとまったく同じ
不思議について書かれた記事を見つけてしまったのである。
これを一体何と呼ぼうか。
偶然の一致?それとも心理学でいうところのシンクロ二シティ(共時性)?
私がぐだぐだ言うより記事を読んでいただいた方が速いので、以下に載せる。
朝日新聞、2月8日付朝刊。「月並みに」というコラム。筆者は朝日編集委員、
四ノ原恒憲氏。
「夜の飛行機雲」
凍て付くというほどではないが、冷たく冴え渡った先日の夜半のことだった。
たばこを吸おうと、マンションの庭にでた。正面の空に輝くオリオン座の横に、
中天から白く細い帯のようなものが長く垂れ下がっている。
最初は何だか、まったく分からなかった。美しくはあるが、少々不気味な気配
もある。と、幅が 広くなり、色も薄くなり始めた。ふと、思い至る。飛行機雲?
でも、青空には似合うが、夜に?
気象庁の専門家に尋ねてみる。夜でも気象条件さえ整えば、飛行機雲は生まれ、
月が明るければ見えるという。何となく、また出会いたくて、その後も、冬の星座を
見上げることが重なるにつれ、こんな文章を思い出した。
フロイトと共に、20世紀を代表する心理学者、ユングのキーワードの
一つとして、「コンステレーション」(星座)というものがあるという。古代の人は、
無数の無秩序な星の中からいくつかの星をつないで星座をつくっていった。
それと同じように、人びとが生きている意味を得心するには、自分で自分の
人生と家族の生き方について、偶然にみえる様々な出来事や人との出会いを
つないで「星座」(物語)を作る必要がある、ということだった。
亡くなった臨床心理学者の河合隼雄さんと、ノンフィクション作家の柳田邦男
さんの対談を収めた『心の深みへ「うつ社会」脱出のために』(講談社)の中に
出てくる。
思えば、この世は、人とはもちろんだが、自然とであれ、人がつくった芸術や
ものとであれ、偶然の出会いに満ちている。お互い、そういう関係に支えられ、
心揺さぶられ、勇気づけられながら、人は生きていかざるを得ない。
その関係性に、気づき、物語を編んでいく。そう考えれば、この世に必要のない
人間や物事などない。すべてを、個人の能力や努力に帰す自己責任論の
何と重苦しいことか。
そんなことを、考えさせて消えた夜の飛行機雲との出会いも、思えば
不思議なんです。素晴らしくね。
テレビを見ながら家人と話などをしていて、こちらがふと言ったまったく同じ言葉を、テレビの中の人物が繰り返す、といった経験をなさったことがないだろうか?えっ?と思うような瞬間。
でもこれは単なる偶然の一致(coincidence) というものであろう。
ところが、今回の私の例のように、私が何か伝えたいと思うことがある。
「人は自分を孤独だと思ってはならない。あなたは何かとつながっている。いまここに あげるような偶然を見れば、それはなにか大きな意思が働いた必然という風に思えない だろうか。だから、心を開いて、勇気を持って生きて。」
ということなのだが、こんな記事を書いた次の日に、朝日にこんな記事が載るとは、
なにか不思議な、単なる偶然の一致、という以上の、何かの意思、というものを私は
感じてしまうのである。
こういう現象はユングの言うところの共時性(synchronicity)にあたると思う。 これについて
お知りになりたい方は、Wikipediaにあたってみてほしい。面白い記事が載っている。
ユングのこの説は、実証できない、一種の神秘主義的な考え方として、後世の心理学者には
認められていない部分もあるらしい。が、人が生きていて、こういう単なる偶然とはどうしても
考えたくない不思議な出会いというものがあることもまた経験則から言ってあるのである。
このユングという心理学者に関しても、私がこの記事を書こうとして、synchronicity という言葉を
検索で調べてみると、それが四ノ原さんの記事に出てくる当のユングの言った考え方であることを
はじめて知って、また私はびっくりしたのであった。言葉だけは知っていたが誰の考えたこと
なのかまでは知らずにいたので。これも単なる偶然の一致?
断わっておくが、私は神秘主義者ではなく、あの世だの生まれ変わりだの神だのといったものは
信じたくてもどうしても信じられない現実主義者である。
ところがその私にも、なんだか不思議なこういう現象は、人が生きていくことの意味について
深く考えさせてくれるもので、そこに人がこの世に生きていくことの不思議と喜び、いわば、
なにか人を超えた存在の意思のようなものを感じずにはいられないから困って楽しい のである。
2009.02.08 魂の出会い ① <<02:40
「人」、犬、猫などの「いきもの」、本などの「もの」・・・・それらのうちのどれとでもいいのだが、
「魂の出会い」というべきものがこの世には確かにあると思うのだが、どうだろう。
ここ2,3日の間に、そういった「出会い」に関する記事にブログ上でいくつか巡りあった。
私にもそういった不思議な出会い、巡り合うべくして出会ったのではないかと
思われるような出会いが何回かある。それは人であったり、いきものであったり、
本であったりいろいろするわけだが、先回、犬についての記事を書いたので、ちょっと
犬に関する「魂の出会い」について書いてみる。
一つ目は私自身の経験ではなく、テレビで見た、人と犬の出会いのシーンである。
もう何年前のことか、記事を書こうなどと思ってテレビを見ていたわけではないので、
記憶も詳細もはっきりしない。間違った記憶であったらお許し願いたい。
それは先ごろ亡くなられた俳優、緒方拳さんの旅番組の中でであった。
まだ緒方拳さんは壮年の気力を残す頃。旅先はスペイン、バスク地方であったと思う。
バスク地方はスペインでも他とは違う独自の文化を持ったところで、風景そのものや
人々の生活、祭り、気風なども勿論見ていておもしろかったのだが、私が心惹かれたのは
緒方さんと一匹の犬との心の交流であった。その犬は緒方さんが数日間滞在されたお家の
飼い犬であったか、それとも街をうろついている街の飼い犬、といったようなものであったか、
記憶がはっきりしないのだが、とにかくその犬が遠い東洋の国からの旅人である緒方さんに
妙に懐いてしまい、緒方さんもまたその犬を滞在中とても可愛がっていらしたのが
テレビの画面からも伝わってきた。
よく旅の番組を見て、へええ、「ところ変われば品変わるとは」とは言うが、日本とは違うなあ、
と思わされることがよくある。その中に、犬に対する人々の扱いというものが日本とはちがうなあ、
と思うことがとりわけアジアの農村などの生活を取材した番組などに見られることがある。
日本では、どこの地に行っても、犬というものは人間の友であり、家族の一員として
可愛がられるというのが、今では当たり前のようになっている。
ところが、アジアの奥地の農村や、都会であっても中国などのスラムめいた街角で
見かける犬というものは、必ずしも人間の友として飼われているようではないようで、
痩せてあばら骨の見えるような犬が、ただ人間の食べ物のおこぼれを貰おうと
その周りをうろついている、そういう風にしか見えないシーンがあったりする。
人間は気が向けば犬にぽいと食べ物を投げてやることもあるが、特に犬に優しい言葉をかけて
やるというわけではなく、時には邪険にそばにきた犬を蹴飛ばして追い払ったりする。
まあ、少し犬を友にしているかなと言えば、小さい子供くらいのものである。
そういうシーンを見ると、私はははあと思う。
今でこそ、犬は日本では洋服を着せたりちょっと行きすぎじゃないのと思うくらい、家族の一員
として大事にされているが、おそらく江戸時代以前の日本の農村、漁村などでも
犬の扱いはこんなものだったんじゃないかなと。
緒方さんが出会ったその犬は、犬を狩猟のパートナー、牧畜の有能な助手などとして
大事にしてきた西欧文化圏のスペインの、ある街のことだったので、放ったらかしに
されているわけではなく、肉付きもよく、人の暮らしの中で頭をなでられたり遊んでもらったり、
を勿論知っている、普通の犬だった。
だが彼(彼女)を飼い主として常にそばにおき愛おしむといった人はいるのかいないのか、
街の犬、といった感じだった。
そこへ東洋の果ての国から緒方さんとスタッフたちがやってきたわけである。
緒方さんたちは当然、日本人が犬を可愛がるやり方で、傍を うろうろする彼を可愛がる。
とりわけ緒方さんは犬好きでもいらっしゃるのだろうが、本当に彼を可愛がり、
数日の滞在中に、犬はすっかり緒方さんに懐いて緒方さんの傍を 離れようとしない。
ところが別れの日はすぐにやってくる。
緒方さんたち一同を現地の人々が見送って別れを惜しむ。車が走り出す。
すると、その犬が緒方さんの乗った車を追いかけてどこまでもついてくるのだ。
一生懸命l、全速力で車の後を、緒方さんの後を追ってくる・・・・・。
しかしどうしたって車のスピードには追い付かない。
車の中の緒方さんも涙を流しながら後部座席から振り返って、ついてくる犬を見ているが・・・・。
どうしようもない。所詮は旅の仮寝の宿で出会っただけの一匹の犬である。
飼い主もいようものを、日本に連れて帰るわけにもいかないのだ。
私はその犬の心を想って泣きましたねえ。
おそらく彼(彼女)にとって緒方さんは、いわば「魂の出会い」の相手であったに違いない。
緒方さんが亡くなられたあと、多くの人が緒方さんの人となりについて語っていられたが、
あの時の緒方さんと一匹の犬との交流を見ていれば、ああ、きっと優しい温かいお人柄
だったんだろうなあ、と思われるのである。
犬はなぜこのように人間をひたすら想う生き物になったんだろう、時々不思議になることがある。
そりゃあ、人間に長いこと飼われているうちにそういう風なDNAが組み込まれっちゃったんだよ。
そうよく言われるが、雨の日、散歩に連れ出してもらった犬などが、5、6歩毎位に
飼い主の顔を見上げ見上げ、いそいそついていくのを見ると、私は、「なんだかなあ」、と
思ってしまう。「なんだかなあ。この犬の純情!下手な人間よりよっぽど上等じゃないの?」と。
また長くなってしまうが、もう一話。これは私自身のこと。
先述したように我が家でも、シロという犬を飼っていたが、飼い方が下手だったか、元々
弱かったか短命で、4歳にならぬうちに急死してしまった。私は悲しんだ。
ちょうど同じ頃。
うちが町会の役員の当番になり、私は町会費を集めに3カ月に一度各家を回っていた。
一軒の家で子犬が飼われ始めた。毛のむくむくした、目と鼻の真っ黒い茶色の雑種。
おばあさんがえさをやっているのはよく見かけたが、犬はいつもつながれっぱなしで
散歩に連れて行ってもらっている風はなかった。排せつ物などもつながれているその場で
して、それを自分で踏みつけた跡などもある。
しかし、非常に性質のいい犬で賢く優しく、雀などが自分のドッグフードをつまみに来ても
前足を揃えて腹ばいになり優しげにじっと見ているだけ。無駄吠えなど一切しないが、
怪しげな人物が来ると激しく吠えてちゃんと知らせる。
我が家の裏手の家の方の家なので、彼女が鳴けば、「ああ、ぺス(仮名)が吠えてる。
誰か見知らぬ妙な風体の人が来たな。」とわかるといった具合。
このぺスが私に妙に懐いてくれた。3カ月に一回しかそこの家には行かない。
2年間の役員の任期が過ぎた後は、行く理由もなくなったので、買い物の行き帰り、
ぺスがいる小屋の上の方の土手道を通るだけである。
犬は強度の近視であるということだが、ぺスは私が通り過ぎても気がつかない。
ただ私がたまに立ち止まって、「ぺス!」と声をかけると、彼女は目を細めるようにして、
私の方に黒い丸い鼻を向けてクンクンする。
私の匂いを嗅ぎつけるともう大変である、鎖を結わえつけた杭の周りを、きゃんきゃん
鳴きながら、杭も引きぬかんばかりの勢いでぐるぐる回る。
情にほだされて、土手道を下り、傍に行くと、もう飛び上り、ぐるぐる回り、きゅんきゅん
泣いて、私の顔をなめまわす。鳴いているのではなく泣いているのである。
「どうして、どうして、ずっと私に会いに来てくれなかったの?」と訴えるように。
鳴き声も、きゃんきゃんと言うよりは、うえい、うえい、うえい!と泣いているよう。
あまり騒々しいので、飼い主のおばあさんや近所の人が何事かと出てくる。
「不思議だねえ。なんで奥さんが来るとこうはしゃぐんだろう。他の人にはこんなことしない。
飼い主の私にだってこんなには喜ばない。」
とおばあさんはいい、近所の人も「不思議だねえ。」と相槌を打つ。
なんでこんなことが私に起こったか?j
なにか犬の好みそうなものを持って行ってやった?
いいえ、何にもしていない。ただ一回、最初に集金に行った際可愛いなあと思って、
頭を撫でてやり顔を嘗めさせただけである。その一回だけの交流で、ぺスは私を覚え、
2回目以降私が集金に行くたびにそうやって全身で喜びを表してくれるようになったのである。
そのぺスももう、10年ほど前に死んだ。つながれっぱなしで、飼い主と散歩をして駆け回る
という喜びもおそらく知らずに。(おばあさんが亡くなったあとは、近所のおじさんが時々
散歩させているのを夕暮れ時などに見かけたが、もうぺスの晩年のことである)
今でもあの、むくむくの毛並みの、黒い目、黒い丸い鼻のぺスのことを思い出すと胸が痛む。
どうしてあんなに懐いてくれたんだろう・…。行くと騒ぐので飼い主に慮って、
あんまり訪ねてもやれなかったのが心残りである。
散歩にも行けない寂しいペスと、相次いで父、母、そしてシロまでもうしなった私の
魂と魂が、そのたった一回の町会費の集金の折に深く触れあった、としか考えられないのである。
決していい人ぶっているわけではない。その証拠に、私はどうも特に最近、小型犬とは
相性が悪い。とりわけミニチュアダックスフンドには嫌われる。
何の気なしに街を歩いていて、いきなり通りすがりの家の中から、小型犬に吠えかかられる。
ぎょっと驚いて飛び上るくらい激しく。娘などが通っても吠えかからない近所の雑種犬は
私が通ると必ずワンワン激しく吠えたてる。
だから、私が犬に好かれるようないい人、というわけでは全然ない。
ただあれは、ぺスと私の間の、稀な「魂の出会い」だったのかなあ、と今は思うのである。
2009.02.05 「雑種?それとも MIX? 」 <<15:29
さて、三回続けて怒りの記事を書いたので、今度は少し私の教育上の失敗談に戻りましょう。
幼児の時、天才かな?と、親に思わせたあの子はその後どう育っていったでしょう?
本をぱったり読まなくなった、という失敗談はもうしましたね。
今度も親にとって心の痛い失敗談です。
あれは、子供が小学校5年生くらいのことだったと思います。
その当時、我が家ではシロという犬を飼っていました。近くのペットショップの店先に
「ただで差し上げます」ということでよく置いてある子犬でした。
まあ、うちは一人っ子だし、情操教育上もいいだろうと思って貰ってきたのです。
私には私なりのモットーがあり、犬をもし飼うなら雑種の犬を、と思っていました。
血統書つきの犬なら誰かほかの人が買うだろうから、ほっとけば薬殺処分されるだけ、の
雑種を飼おうと心に決めていたのです。
シロはとても賢い犬でした。子犬の時は「これは紀州犬の血が入っているかな?」
と思わせるような純白の仔犬で、面構えもよく、足も太く、尻尾もくるっと巻いていて
それはそれは可愛い仔犬でした。
散歩させていると、「おっ!可愛いですねえ。紀州ですか?」とよく訊かれたものです。
長ずるに従って、背中に茶色がかった毛が生えてきて、体も思ったより細くなり、耳も
紀州のような鋭く削いだような耳ではなく、尻尾も紀州犬のような「指し尾」ではなくなったので、
もう紀州ですか?と言われることはなくなりました。
でも大変賢く、投げたボールはちゃんと拾ってくるし、私が庭の草むしりをしていると、
手伝っているつもりでしょうか何か前足で土を掻いて掘ったり。
まあ、一家で可愛がっていたわけです。
ある夜のことでした。そもそもの原因は何だったのかもう覚えていません。
なにか娘が、母親の私から見れば「情けない!」と思うようなことをしたんだったと思います。
このブログをお読みになればお感じになるかもしれませんが、実は私は大変勝ち気でして、
それは私が貧しかったということに起因しているのだろうと思うのですが、子供に対しても
理想は高く、こうあってほしいというイメージは明確だったと思います。ですからその晩、娘が、
「ああ、情けない!なんでそんなつまらない事を!」
と、私に思わせるようなことを言ったかしたかした時、私は思わず、
「なんでそんなことするのよ! それじゃまるで雑種の犬じゃない!」
と、娘に向かって叫んでいたのです。
し~ん、とした間がありました。
私も口に出した瞬間に「しまった!」と感じていました。
娘は一瞬のその沈黙ののち、まあ、烈火のごとく怒りましたねえ。
「ママ、今、雑種みたいって言ったよね?確かにあたしのしたことはくだらないかも
しれないけど、じゃあ、ママはシロのことを今までそんな風に思ってたわけ?
雑種の方が優秀なのよ、とか血統書つきのは他の人が買うからとかとか言って
それでシロ貰ったんじゃなかったっけ?じゃあ、ママは雑種を馬鹿にしてたんだ!」
まあその怒ること怒ること!
私はぎゃふんとなって返す言葉もありませんでした。娘がしたか言ったかしたことは
もともと大したことではなかったのでどこかへ吹き飛んで、自分が言ったその一言を
ほんとうに恥ずかしいと思いました。
娘の言う通りです。
私はきれいごとを言いながら、心の中では実は、自分のところの犬が雑種であることを
恥じていたのかもしれません。子供にも、雑種であるな、高貴であれ、
と望んでいたかも知れません。
もうその当時からそろそろ雑種犬の淘汰が始まっていたような気がしますが、
散歩していて、他の犬の飼い主の方と立ち話を したり、
いわゆるお犬様ソサエティーのようなものができつつある時代でした。
その時、相手がすごく高価そうな純血種だったりすると、やはりちょっと悔しいのです。
その上、私には自分が故郷も家もない根無し草のような育ち、というコンプレックスが
あったものですから、自分では否定していても、心の中に「金持ちだったらな」とか、
「高貴な家に生まれていたらな」という気持ちがやはりあって、それでそんな言葉が
出たのだと思います。
そのあと、どうしたかって?
勿論娘に謝りました。心から自分の非を認めて謝りました。(娘もごめんね、と言いました)
形上娘に謝ったのではなく、私は心から自分の見栄や虚飾を恥じたのです。
この事件もある意味で私にとって愕然としたことであったかもしれません。
自分の中にある見栄。人と比べる気持。体裁。
そういうものを突き付けられたのですから。
勿論、シロにも心の中で謝りました.........。
私の、今でも心のちくりと痛む思い出です。「負うた子に教えられ」ですかね。
子供の、大人の欺瞞を見抜く目はこわいと思います。
この頃では、雑種の犬や猫のことを、「雑種」と言わず、「MIX] とやら呼ぶようですが、
なんだかそこに私はごまかしを感じます。「雑種」、というものを恥じる気持があるから
MIX なんて言って取り繕ってるんじゃないかな、と、ふと、昔の自分を思います。
雑種は雑種のままで可愛い、そう思うんですが。
そういえば、この頃、うちの近くの河原でも、お散歩タイムにめっきり雑種の犬を
見かけなくなりました。シロがいたころはまだまだ雑種の子はたくさん飼い主に
連れられて散歩していたものですが、今はほとんど、ミニチュアダックスとか、チワワとか
シーズーとかの小型犬がおおはやり。大型犬ならまずゴールデンリトリーバーとか。
見ていると、ラブラドールにはラブラドールの、ミニチュアダックスにはミニチュアダックス
のソサエティがあるようです。これは犬の結婚のことを考えたり、放し飼いに出来ない
状況の中で仕方ないのかもしれませんが、もう雑種は生まれない?
雑種犬はそのうち淘汰されて日本から姿を消してしまうのかもしれません。
そういえば、ひところ、ハスキーという犬種がすごくはやったのですが、まだ生きていても
いいと思うのですが、この頃めったに見かけません。
ハスキー犬はどこへいってしまったのでしょうか........。
2009.02.01 「ライオン?それともトラ?」 <<13:16
2009.02.01 「ライオン?それともトラ?」 <<13:16
子どもと教育について考えさせられた目撃談を一つ。
ある日、私は近くのスーパーの二階で買い物をしていた。
場末の、と言っていい町の、さびれかけたスーパー。一階は食品。二階はちょっとした
衣類や寝具、その他の生活用品などが置いてある、よくあるスーパーである。
雨もよいの日で、客は私のほか数人がいるだけだった。
買う必要のあったものを探して、ふと、一組の父子のそばを通りかかった。
父親は30代半ばといったところだろうか。連れている男の子は3~4歳くらい。
お父さんは何やら一生懸命、自分の靴下を選んでいて、子供は傍で退屈している様子だった。
私が探していたものを籠に入れて、再び二人の傍を通りかかると、お父さんはまだ、
靴下を物色している。
子供は焦れて、お父さんの傍で体をくねくねさせている。
ふと、その男の子が、
「ねえねえ、おとうさ~ん。ライオンはオスで、トラはメスなの?」と父親に訊ねた。
私はその時やはり近くで衣類などを見ていたのだが、それを聞いて心の中で思わず爆笑。
そしてその男の子にいたく共感を覚えた。
「わかるわかるよ、ボク。 確かに、ライオンのメスとトラって形が似てるものねえ。」
しかし、お父さんは 、靴下を手に取って、
「ああ~? うう~。」と言っただけ。
そうなのだ。私も子供の頃、不思議に思っていた。ライオンのオスは立派なたてがみが
あってすぐそれとわかるけれど、ライオンのメスはトラと形態がとても似ているではないか。
模様があるかないかの違いだけで、形はとても似ている。
男の子がトラを見て、ライオンの奥さんかな?と思ったのは私にはとてもよく理解できた。
「ねええ。おと~さ~ん。ライオンはオスで、トラはメスなの?」
子供は又訊いた。お父さんの脚に背中をこすりつけながら。
お父さんは、また「ああ~?うう~。」と答えたきり、まだ靴下を真剣に選んでいる。
私はその男の子が大好きになっていたので、持ち前のおせっかいぶりを発揮して、
その子にトラはライオンのメスではないことをじっくりと教えたあげたかった。
でもさすがにそれはできなかった。
そして、男の子への熱い共感と、若い父親へのかすかな失望を胸に
その場を離れた。
おとうさ~ん!あなたは今、大事な教育の機会を逃したんですよ~!
靴下を選ぶより、いや、靴下を選びながらでいいから、
どうして子供の真剣な質問に答えてあげなかったんですか~?
2回もお子さんは訊ねたじゃないですか。
「ライオンはオスで、トラはメス?」って。
子供は生まれてから数年の間に急速に言葉を覚えていき、ものを認識していく。
物と言葉の関係性を一つ一つ認識して覚えていく・・・それはものすごい脳の活動が
その時期行われているということである。
たかが「ライオンとトラの違い」という勿れ。
その子はライオンのメスとトラの形が似ていることを認識し、その違いを今はっきりさせようと
頭を活発に働かせていたところだったのだ。
それをお父さんは、「ああ~?うう~。」という言葉にもならない音でしか応えてやらなかった。
この子はそういうおと~さんのもとで、これから先も、色々な場面でたとえ様々な疑問が
いろいろいろいろ頭に浮かんだとしても、はっきり答えてもらえないまま、大きくなるのだろうな。
そう思って残念だった。
それでは子供が将来、国語が苦手になっても仕方がないぞ。
それでは子供が将来、理科が苦手になっても、図工が苦手になっても仕方がないぞ。
どうしても忙しい時ならしようがない。それでも、大人は、子供の質問には、
後ででもいいから、ちゃんと向き合って答えてやるべきである。
子供は急速に体も頭脳も成長していく。その時に言葉をいっぱいかけてやらないと。
子供が物事を正確に認識していくのを助けてやらないと。
教育は学校の勉強のようなものだけではない。
日常の、こうしたごく些細なことから得ていく知識の方が実は子供にとって
大きいのかもしれないのだ。
おと~さ~ん、おかあさ~ん、子供の質問にはちゃんと答えてあげてくださいね。
わからなかったら一緒に調べてね。
言葉のこと、勉強のことだけではない。大人はいつも本気になって
子供と向き合ってほしい、そう心から思うのである。