敬愛するユリシーズへ 3
20年振りの再会を喜び、互いの近況を語り合う時間はいくらあっても足りないくらいで。しかし、アルフレードが言った通り迎えはあっという間にやって来た。
それが、この見本市の会場となっているフランクフルトメッセの管理部門に属していると名乗った職員だったことにも十分驚かされたが、「これはこれで」とファビオは瞬きも忘れた。
恐らく管理部門のそれなりの地位に就いているのであろうその職員に案内されるまま足を踏み入れたのは、上等なソファセットが置かれている広い部屋だった。
そこは無機質なパイプ椅子が並ぶ会議室ではなく、応接室と呼ばれる部屋で。
ファビオは編集者として一人立ちをして初めて原稿を受け取りに作家の元を訪れたときの緊張感を思い出した。
あれから20年以上勤め、今では統括編集長として各部署の編集者をまとめる立場を与えられている。
担当した書籍はどれも大学や研究機関などの多くで高い評価を得て、専門家から編注を依頼されることも少なくない。
自分もまた、それなりの地位である自覚はある。
だが、老舗とはいえ小さな出版社のいち社員。
あまりにも格が違う、とファビオは若干引き攣った顔のままソファに腰を下ろした。
向かい側に座るのは、世界に名を馳せる一流企業の最高執行責任者。
つまりは、実質的なトップ。
その後ろには、秘書だと紹介された男が背筋を伸ばして立っている。
ドアの近くには護衛だという体格の良い男が静かにこちらを見ている。
これで委縮するなと言うほうが無理な話だ、と早々に諦めたファビオは救いを求めるように同じく向かい側に座っているアルフレードに視線を向けた。
「ア、アルフレード君…」
「いつも遊んでもらっていたファビオさんとお仕事のお話をするなんて不思議な気分ですね」
「え、えぇ…確かにそうですね…いや、それもですが、エアハルトさんにここまでしていただくことになるとは…」
応接室の手配だけならまだしも、率先して同席しているのだ。
自分の勢いだけの発言がこれほど大事になるとは思っていなかった、と困惑するファビオの心の声が聞こえてしまい、アルフレードは小さく笑ってハインリヒに視線を向けた。
こういうのはプロに任せた方が早い、と。
「父さんの遺稿を書籍化するってことは決定として、他に何を話せばいいの?」
「具体的なプランはまだか?」
「うん。ここに原稿があるわけじゃないし、全部使えるとは限らないから」
「そうだな。方向性を決める前に、原稿のチェックが必要だろう」
「やっぱりそうだよね。ハインたちを待っている間にファビオさんともそう話していたの」
「未発表とはいえ、既刊本と内容が重複している可能性もあるからな」
ふむ、と少し考え込んだハインリヒが徐にファビオに視線を向ける。
と、ビクリと彼の肩が小さく跳ねたのが見え、アルフレードはそっと苦笑を刷いた。
ハインリヒの鋭く冷静な瞳がそうさせるのか、その圧倒的な存在感がそうさせるのか、彼と対峙した者はみな同じ反応をする。
畏怖、とでも言うべきか。
選ばれた人としての風格と威厳は確かなもので、王を前に人は頭を垂れる。
彼自身は決して力で人の頭を押さえつけて下げさせることを良しとしないが、彼に使われることを選んだ力は無意識的に人を従わせる。
それはカリスマ性とも呼ばれるもので、彼の年若さを侮り嗤う者たちの口を噤ませるに十分な威力を放つ。
ファビオも編集長として人を率いる立場にあるが、それを感じ取っているのか緊張感を纏っている。
しかし、委縮しているのではない。
ハインリヒがパスクァーレを前にしたときと同じ表情なのだ。
敬意があるからこその緊張。
彼らは交わした言葉も少なく、そもそも数十分前に初めて会ったばかりだというのに、互いを尊重しているのがそこから伝わる。
ハインリヒがファビオに対して丁寧な口調を崩さないのも、ファンだと公言している自分の父の担当編集者だったからだけではない。
(ファビオさんはオレを大切に想ってくれる人だから、ハインはそれに応えるために相応しく在ろうとしてくれる)
そういう人なのだ、とそっと口端に笑みを乗せる。
でなければ、わざわざ応接室を用意させることはなかっただろう。
見本市の会場内にも商談を行うための専用ブースが設けられているのだから。
彼の行動はファビオに対する敬意。
父にも見せたかった、と思いながらアルフレードは隣に座るハインリヒの横顔を見つめた。
「御社にとって今回のケースは特殊な例にあたるかと思いますが、過去にもご経験が?」
「あ、は、はい、多くはありませんが遺族の方から遺稿をお預かりすることがあります」
「そういった場合、訴求は紙面媒体で?」
「えぇ。書店でコーナーを設けてもらうこともありますが、9割が紙面媒体です」
「御社のターゲット層としては最も効果的でしょうね。ですが、当社としてはデジタルも活用し、より広範囲な訴求を行うことで新規ターゲットの獲得も目指したいところです」
「新規、ですか…」
「まずは読者層や市場動向の分析を行い、戦略の立案をご提案させていただきます」
「は、はい…?」
「分析結果が出ない以上、現段階では詳細なプランニングをお話することはできませんが…メディアミックスのご希望は?」
「あ、え?い、いえ、まだそこまでは…」
「では、諸々のご提案も合わせてさせていただきます。広告の具体的な内容やデザインはライターとクリエイティブディレクターを交えることになりますが、ご担当はバルトリーニさんでよろしいですか?」
「は、はい…た、たぶん…?」
一呼吸事に話が進んでいく。
秒単位で物事が動いている世界で生きているハインリヒにとってはこれが当然のスピードなのだろう。
だが、すっかり気圧されてしまっているファビオの姿に申し訳なくなり、アルフレードはそっとハインリヒの腕を突いた。
「どうした、アル」
「展開が早過ぎてついていけないよ」
「あぁ、すまない」
「それに、もっとフランクでいいよ」
「ん?」
「お仕事モードのハインはかっこいいけど、慣れていない人にとってはね…ちょっと緊張しちゃうから」
「しかし、親父さんを担当されていたのだろう?これ以上の失礼があっては…」
「そこは大丈夫だよ。ね、ファビオさん?」
「あ、は、はい!」
「ですって、ハイン」
「アルがそう言うのなら…ベルトリーニさんもよろしいですか?」
「構いません!本来ならうちのような小さな出版社は相手にもされない立場なのですから!」
ぶんぶんと音がしそうなほど勢いよく頭を上下に振るファビオに、「では」とハインリヒは一呼吸を入れた。
すると、まるで音量ボリュームのダイヤルを絞ったかのように彼が纏っていた冬の朝のようなピンと張った気配が和らぐ。
完全に緩んだわけではなく、存在感も威圧感も変わらない。
だが、感情の動きを一切見せなかった瞳にほのかに体温が宿る。
黒だと思っていたそれが限りなく黒に近い別の色だと気付き、ファビオは知らず詰めていた息を吐き出した。
緊張感そのものは今も全身に纏わりついているが、ガチガチに力が入っていた肩から余計なそれが抜ける。
「…いや、本当にお恥ずかしい限りです」
「いいえ、こちらも配慮が足りませんでした」
「もっとにこやかにしていれば違うのにね。顔立ちが綺麗な人の真顔ってすごく迫力があるのなんでだろうね」
本当は感情豊かな人なんですよ、と続けたアルフレードにファビオは何と返すべきか言葉を見失い、それに気付いたハインリヒは低く笑った。
アルフレードの瞳には何が見えているのか、自分はどう映っているのか、世界はどんな色をしているのか。
見てみたい、と思ったことは一度や二度ではない。
自分を「優しい人」と呼称するアルフレードにとってそう在れているのならそれでいいと思うが、他者に同意を求めるのは難しいだろうなと口端に苦笑を乗せた。
すっかりアルフレードの無邪気なペースに巻き込まれているファビオが「アルフレード君は変わらないなぁ」とどこか嬉しそうに呟いたのが聞こえ、つい眦が和らぐ。
背後で影に徹していたフルアの気配も柔らかくなるのが分かり、結局自分たちはどうあってもアルフレードが中心なのだろうと思う。
この応接室が使えるように手配をする間、クライアントや長く付き合いのある関係者のブースに顔を出し、必要最低限の挨拶を足早に交わして。
同時に、ファビオ自身のことも調べた。
いつアルフレードの父親の担当になったか、彼が関わった作家や書籍について、社内での評判も含めて。
アルフレードに関わる人物なら念には念を入れるべきだ、と指示を出す前にすでに動き出していたフルアとグラースの手によって集められた情報の信憑性は言うまでもない。
同僚や作家からの信頼も厚く、作家の方から担当に指名されることも少なくないようで。
実力で今の地位に上り詰めたというのも納得の人柄で。
人の心の機微に敏いアルフレードが幼い頃に慕っていたというだけでも十分信頼に値する人物だった。
だが、「それはそれ」というもの。
冷静に見極めなければ、と思っていた。
しかし、確信する。
あぁ、彼はアルフレードを心から想う人だ、と。
アルフレードに向けているひどく優しい眼差しを見れば分かる。
幼子をあやしている感覚のままなのだろうが、そこから伝わってくるのは彼に対する慈愛だ。
ちらりとフルアを見やれば、視線に気付いた彼が満足そうに頷いてタブレットを差し出してくる。
それを受け取り、自分たちの間にあるローテーブルに置く。
と、ファビオとアルフレードの視線もそちらに集まった。
「これは新刊書籍のプロモーションと歴史学者ベルナルド・エンツォ氏の功績を世の中に伝えることが目的と仮定した場合のプラン案です」
「も、もう案が!?」
「あくまで私の独断によるものです。先ほども申しましたが、市場動向の分析を行っていませんので」
「しかし、うちのような小さな出版社は販路も限られていますし、そこまで大々的な分析は…」
「幸いにもこの会場には翻訳家たちも集まっています。いくつかの既刊書は同時に世界市場に出しましょう」
「え!?」
「イタリア語、英語、日本語は欲しいところです」
「は、はぁ…」
「必要ならば翻訳家の手配やライセンス契約についても請け負います。販路も十分確保できるかと」
「そ、それはとても魅力的なプランではありますが…その、弊社の予算ではとても…」
「平均的な広告費はこのあたりだと思うのですが」
「え、えぇ…確かに、いつもはこのくらいでお願いしています」
「では、予算はこれで」
「は!?え、無理ですよね!?」
老舗とはいえ、資本が潤沢なわけではない。
新刊本のプロモーションを行う場合、上限まで予算をつぎ込んだとしてもせいぜいイタリア国内に広告を出すだけで手一杯だ。
そんな出版社が、業界最大手と言われる広告代理店に依頼ができるはずがない。
よしんば繋がりが持てたとしても、予算を提示した時点で呆れられ、無言で首を横に振られるだろう。
今のこの状況があまりにも異常で忘れていたが、広告を出すと言うことはその対価を支払わなければならないのだ。
タブレットに表示されている大まかなプランはそれこそ広告を依頼する側としては理想的で魅力的なものだが、つまりそれだけ費用も求められる。
平均的な広告費として提示された金額は確かに見慣れた数字だったが、あまりにもプランと見合っていない。
「さすがに私でもこの金額では無理だと理解できます!」
「費用に関しては問題ありません」
ポケットマネーで補填します、と明日の天気を語るような気安い口調で続けられた言葉が理解できず、ファビオは目を丸くした。
補填と軽々と言うが、軽々しく扱える金額ではない。
一体この人は何を言っているのだろうと訝しむような表情になってしまい、しまったと思ったときにはすでに遅く、ハインリヒが苦笑する。
「…大変な失礼を…」
「いえ、不審に思われるのはごもっともです」
それはそうだよな、と肩を竦めたハインリヒに今まで静かに黙して成り行きを見守っていたフルアが「当然です」と口を挟む。
ボトルグリーンの瞳はまるで人形のように何も映していないように見えていたが、今は呆れた表情で上司を見下ろしている。
ハインリヒの精悍な顔立ちに気を取られていたが、よくよく見れば彼も随分と端整な容貌で。
しかし、それが却って人形のような冷たさを感じさせ、ハインリヒとは違う威圧感を纏っている。
だが、今は。
感情がはっきりと表れている。
上司に対する態度としては相応しくないが、それに驚くよりもその雰囲気の変化に呆気に取られてしまう。
と、小さな笑い声が聞こえた。
それは空気のようにドアの横に立っていた護衛のもので、口許を拳で隠し、顔を背けて肩を震わせている。
そんな部下たちを咎めるでもなく、ハインリヒは「やはり無理があったか」と何食わぬ顔で。
一体何が起こっているのだ、と縋るようにアルフレードを見れば、美しい青年へと成長した彼は腹を抱えて笑い出した。
「っふ、ふふ…あはは!言うと思ったよ!もう、本当に際限がないんだからなぁ」
「これくらいしか思いつかなかったんだ」
「ふふ、優秀な頭脳はどうしちゃったの?」
「これ以外に何かあるか?最善だと思ったんだが…」
親父さんに報いるためには、と拗ねたような声で言うハインリヒにファビオはぽかんと口を開けた。
確かに彼らは法的に認められた関係を結んでおり、ベルナルドはハインリヒとっては義父にあたる人であることに違いない。
著書も読み込んでいるようで、バイブルとして愛読していると言っていた言葉に嘘はないのだろう。
アルフレードは「彼は父さんのファンなんです」とも言っていたが。
果たして、それだけで。
眦に涙が溜まるほど笑い尽くしたアルフレードが呼吸を落ち着かせるために大きく息を吸う。
指の背でその涙を拭い取りながら、「ね、言った通りでしょう」と愛らしく首を傾げるものだから、ファビオもつられてしまう。
「ファンと括ってしまえるレベルではありませんよ」
「ふふ。でも、ハインは本当に父さんの本が好きなんです。だから、純粋に本の形になったものを読みたいだけなんですよ」
「お気持ちは嬉しいですが、現実的ではありませんよね」
「いいえ、ハインは現実にしますよ。ね?」
「あぁ、もちろんだ。権力も金も使わなければ意味がないからな」
「それ、職権乱用って言うんだよ」
「投資と言ってくれ」
どんな形であれ成功すれば実績となり、出版業界とのパイプも太くなる。
激しい競争の中で生き残るためにはただ待つだけではいけないのだ。
こちらの戦略や技術を広く知らしめるきっかけになり、ライターやデザイナーにとっても経験を積む機会はいくらあってもいい。
慈善事業ではないのだから対価は必要になるが、長期的なリターンが期待できるのなら初期投資としては安いだろう。
思惑あってのことだ、と言うが。
きっとそれは建前の一部なのだろう。
驚きもあるが、ファビオは何故か納得もした。
それは、アルフレードがあまりにも嬉しそうに笑むから。
その笑顔は過去にも見たことがあるのだ。
父の腕に抱かれていたときに、母に呼ばれて頭を撫でられていたときに。
見ているだけで幸せになるようなその笑顔を見せてくれた。
本当に心から愛されているからこそ、愛し合っているからこその笑み。
(大切にされているんだな。アルフレード君も、そして彼の家族も…)
愛情深い人、とアルフレードは言った。
あぁ、その通りなのだろう、とファビオは改めてハインリヒを見た。
肩書きに相応しいだけの風格にはやはり気圧されてしまうが、アルフレードや2人の部下に対しては年相応な表情を見せていることに気付く。
肩を震わせて笑っていたグラースも呆れたように肩を竦めていたフルアも、彼らを穏やかな眼差しで見つめている。
(この既視感はどこから……あぁ、そうか、あのヴィッラの空気に似ているのか)
アルフレードの父であるベルナルドと出会ったのは、編集者としてまだ半人前だった頃。
当時、ベルナルドは研究者としてはまだ若かったがすでに高い評価を得ており、その論文を書籍化するにあたって担当となったのがきっかけだった。
元々はベテランの編集者が選ばれていたが急病で療養することになり、その人が復帰するまでの言わば「つなぎ」として、だ。
しかし、担当であることに変わりはないと気合を入れて挨拶のために大学の研究室に赴いたとき、言葉の端々から感じる教養の高さに驚いた。
同時に自分の無知と実力不足を痛感し、落ち込んだ記憶はまだ鮮明だ。
だが、ベルナルドはそんな自分を嗤うことも責めることもしないで、いつだって分かりやすい言葉で話してくれた。
本当に賢い人ほど短い言葉を使うと言うが、それを初めて実感したのも彼との会話の中だった。
代役で、それも新米で、今にして思えば不手際ばかりだっただろうに。
彼はいつだって温かく受け入れ、許し、「一緒に考えよう」と向き合ってくれた。
本来担当に就くはずだった編集者が復帰した後も、彼は「このままで」と当時の編集長に掛け合ってくれたようで。
そこから彼が亡くなるまでの20余年を共に過ごした。
彼が研究のために訪れたラヴェンナでのちの妻となるラファエラと出逢ったときは、珍しく興奮した口調で電話がかかってきたことも昨日のことのように覚えている。
天使と出逢った、と彼は彼女と過ごした時間を語って聞かせてくれた。
そうして恋仲になり、様々な困難を乗り越え、生活の拠点がラヴェンナに移った後は自分も足繫く通った。
生まれつき身体が弱かったラファエラを献身的に支え、そんなベルナルドに全幅の信頼と愛情を向けていたラファエラの仲睦まじい日々を誰よりも近くで見てきたと自負している。
だからこそ、分かる。
あの美しい港町の美しい邸宅の中で紡がれていた美しい物語の終わりまで見届けたからこそ。
(なんて優しい空気なのだろう)
子供ができた、と。
新しい命が産まれてくる、と。
原稿を受け取りに訪れた自分を玄関で迎えた彼が涙を浮かべて抱きついてきたときは、正直に言うと自分はまだ若く実感がなかったが。
しかし、比較的簡素だったヴィッラに赤子のためのおもちゃや洋服が増えていくのを見ている内に、まるで自分のことのように感じるようになっていた。
壁紙は淡いクリーム色に変えられ、日当たりの良い海の見える部屋は子供部屋に改装され、広い中庭にはバラ園が造られた。
ラファエラの胎内で少しずつ育まれていく命の存在は日に日に強くなっていき、産まれてくるのが男の子だと分かったときは彼と2人で祝杯を上げた。
どちらに似るだろう、外遊びが好きな子に育つだろうか、それとも書物に埋もれる方を好むだろうか。
どんな人生を歩むのだろう、どんな人と出逢い、どんな人と恋をするのだろう。
締め切りが迫っていた原稿のことなど忘れて語り合った日を忘れることはできない。
ラファエラが天に還った日のことも。
彼自身の残された時間も少ないと告げられた日のことも。
独りになってしまうアルフレードを案じる彼と自分たちには何が出来るだろうかと歯を食い締めた日のことも。
忘れられるはずがない。
まだ幼かったアルフレードは覚えていないようだが、ベルナルドが書斎で倒れたとき自分はそこに居た。
もうとうに限界だった彼の身体は僅かばかりの時間すら残されておらず、病院のベッドの上で辛うじて意識を取り戻した彼の最期の言葉を聞き届けたのも自分なのだ。
ヴィッラだけはアルフレードに遺して欲しい、と。
愛する人と過ごしたあの幸せな日々を、どうか。
幼い我が子が父母に愛されていたことを誇れるように、どうか。
いつか愛する人とあの場所で新しい物語を紡ぐ日まで、どうか。
その願いを、祈りを、叶える力は自分にはなかったけれど。
(そうか、彼が…彼らが…あぁ、あの物語は終わってなどいなかった)
次の章に引き継がれたのだ、と心が震える。
「お2人は似ていますね」
「え?誰にですか?」
「先生とラファエラさんにです。見ているこちらの方が擽ったくなるほど慈しみ合い、愛し合っておられました」
「……」
「そういえばエアハルトさんはどこか先生に似ていますね。一途で情熱的なところなどそっくりです」
「畏れ多いことです。私にとってベルナルド氏は義父である前に師ですので」
「いいえ、その向上心は負けておられません。彼も謙虚な人でしたが、人一倍努力家で、現状に満足して足を止めることはありませんでした」
不意に見せた面映ゆそうな表情は年相応なもので。
こんな顔もできるのかと内心で驚きつつも、微笑ましく思う。
肩書きは飛びぬけて立派で、白を黒に変えることも容易い力を持っているが、それに溺れない芯の強さがある。
驕ることなく、真摯で。
あぁ、そんなところも彼に似ていると思いながら、ファビオは相好を崩した。
「社全体に関わることなので、もう少し話を詰めさせてください」
「えぇ、そうですね。ブリーフィングの機会を設けますので、ご足労いただくことは可能ですか?」
「はい、もちろんです」
「こちらのプラン案については後ほどメールで送ります」
「ありがとうございます」
「…ベルトリーニさん、もう少しお時間をいただいても?」
「え?えぇ、大丈夫ですが…」
他に何かあるのだろうか、と思わず身構えてしまう。
だが、ハインリヒが口にしたのは予想の斜め上の言葉で。
彼の2人の部下も乗り出してくるものだから、ファビオはその純粋な反応に笑ってしまう。
「ハイン…」
「幼い頃のアルや親父さんの話を聞ける貴重な機会なんだ。逃せると思うか?」
「そ、そんな真剣な顔で言われても…」
「それで、ベルトリーニさん、アルがぬいぐるみを洗われて絶望していた話はご存知ですか?」
「あぁ!懐かしいですね!洗っている間も乾かしている間も泣いてしまって大変でした」
「そのときの写真がありまして、状況はおおよそ把握できたのですが…」
「先生が撮ったものですね。ふふ、よく覚えていますよ。真っ白な獅子のぬいぐるみですよね」
「えぇ、それです」
「滅多に泣かない子だったので、ポロポロと静かに涙を零しながらぬいぐるみを案じる姿がいじらしくていじらしくて」
「その泣き方は幼い頃からなのか…」
「溺れちゃう、と切なそうに言うんですよ。溺れると苦しいから可哀想だと言うものだからこちらまで胸が痛みました」
「洗っているぬいぐるみが“溺れる”という発想になるのか…」
「泳げるから大丈夫だと言い聞かせたのが懐かしいです。応援していたのも可愛かったですね」
「応援…」
「えぇ、がんばれと懸命に声を掛けていて、乾くまでそばを離れようとしないで」
「…お前は生粋の天使だったんだな」
「そ、そんなしみじみと言わないで…恥ずかしい…」
ファビオさんももう止めてください、と真っ赤になっているアルフレードが微笑ましく、彼を中心に空気が和らぐ。
それは、あのヴィッラで両親に愛され、育まれ、真ん中で笑っていた幼子が放っていた光で。
あぁ、彼はいまも愛情の中で生きているのだな、とファビオは目頭に込み上げてきた熱を誤魔化すように笑った。
→Prossimo.
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