アポロンの轍 11
古代ヌラーゲ文明の遺跡、透明度が抜群の海と真っ白な砂浜、サルデーニャ島最大の湖、豊かな海産物…小さいながらも魅力の尽きない町、カーブラス。別れを告げるにはあまりにも惜しい美しい景観だが、しかし別れを告げなければいけないときが来て。
早朝の柔らかな光が大地を金色に染め始めた頃、「行こうか」というハインリヒに促されてアルフレードは車に乗り込んだ。
猟師たちはすでに海に出ているようで、遠くに漁船の影が見える。
陸で夫の帰りを妻たちはすでに忙しなく働いており、至る所から明るい話し声が聞こえてきた。
そんな人々の穏やかな営みの空気に触れ、名残惜しさに髪を引かれながらもハインリヒが運転する車は町を抜けた。
自然の多い島で、行く先には一面の平原が現れる。
夏の太陽に照らされた麦畑が風にそよぎ、黄金色の波が絶え間なく揺れ動く。
その先には、青く澄んだ地中海の一部がちらちらと姿を見せた。
「今日も良いお天気!」
「あぁ、サプリメント要らずだな」
「ふふ、ドイツではビタミンDのサプリメントが欠かせないもんね」
ドイツの多くの地域は特に秋から冬にかけて日照時間が非常に短くなる。
曇天とまではいかないが、季節によっては澄んだ青空が恋しくなるような薄暗い日が圧倒的に多いのだ。
しかし、ビタミンDは主に太陽光によって生成される。
つまり、日照不足はビタミンD不足に直結し、ドイツに限らずヨーロッパの一部地域ではサプリメントは欠かせない存在で。
スーパーにはサプリメントだけのコーナーがあり、日常生活の中に当たり前のものとして溶け込んでいる。
夏と言えど、地中海に面した南イタリアと北部に位置するドイツではこうも違うものなのだな、とハインリヒは改めて思った。
古代ローマ時代から中世にかけて特に強い繋がりを持っていた両国の関係は今も良好で、イタリアはドイツ人にとって非常に人気のある旅行先だ。
地理的にも近く、風景や食べ物などの豊かな文化と彼らの大らかなライフスタイルに魅かれ、年間でおよそ1,000万人以上のドイツ人が訪れているという。
歴史的な関係の名残もあるだろうが、この穏やかな気候に対する憧れも大きな理由に違いない。
この溢れんばかりの光を知ってしまったら恋しくなるのは当然だ、と内心で苦笑しながらハインリヒは道なりにハンドルを切った。
どこまでも広がるかに思えた平原。
それはやがて、オリーブの木々が連なる丘陵地帯へと差し掛かる。
緑の中に点在する白い家々が自然の中に溶け込むように建っており、直線が多かった今までの道と違って緩やかなカーブが続く。
木々の間からは、羊の群れがのんびりと草を食む姿が見えた。
その牧歌的な風景が、心地良い。
「ドライブにも良い島だな」
「そう仰るなら、そろそろハンドルを譲っていただきたいのですが」
すかさず後部座席から聞こえてきた不満そうな声にアルフレードはくすくすと笑い、ハインリヒは肩を竦めた。
「フルアさんの言う通りですよ。俺もさすがに気が引けます」
「お前たちも休暇なのだからいいだろうが」
「それはそうなんですけど…後部座席は落ち着かないと言うか、照れくさいと言うか」
「何だそれは」
「お2人はオレを甘やかすのは得意なのに甘やかされるのは慣れていないから戸惑っているんだよ」
「甘やかしているつもりはないが…?」
「ふふ。ですって、グラースさん。フルアさんも諦めて、ハインに甘やかされてください」
この人の愛情は無自覚で無制限だから、と楽しそうに笑うアルフレードと釈然としていないハインリヒに、後部座席の2人はやれやれと顔を見合わせた。
空港から彼らが滞在していたコテージまでの移動に使ったレンタカーはすでに返却済みで、車はハインリヒがこの島での足として借りている1台のみ。
護衛としてCOO専用車の管理を任されているグラースは当然のようにその鍵を求めたが、ハインリヒは頑なで。
先程も出立する直前までそれを誰も譲らず、せめて交代で運転をしようと妥協案を出したが彼は決して首を縦には振らなかった。
結局、鍵を死守した彼が嬉々として運転席に座ってしまったため、渋々後部座先に乗り込んだのだが。
やはり、居た堪れなさが拭えない。
上司に運転をさせている申し訳なさというよりは、この柔らかい空気が擽ったいのだ。
彼らと共にコテージに滞在したのはたったの2日間だが、始終その空気に包まれていた。
無条件に与えられる優しさだとか労わりだとか、そういった柔らかい感情のそれに。
ハインリヒにその気は全くないようだが、アルフレードが言うようにこれは甘やかされている状況そのものなのだ。
自分たちの間にあるのは「上司と部下」という名前の関係性だけではない。
それは自他共に認めているもので、今更と言えば今更だ。
ハインリヒ・エアハルトという男は本当は愛情深い人で、自らのテリトリーに招き入れた人間に対しては存外甘いということも知っている。
“尊敬する上司”で、“敬愛する人間”で、だからこそ自分たちはここに居る。
ここに居たいと願い、自分自身の意志と努力でここに居ることを勝ち取った。
しかし、こうも明け透けなく甘やかされたときにどんな顔をするのが正解か分からない。
そんな心の声が聞こえてくるようだ、とバックミラー越しに後部座席の2人を見やり、アルフレードはクスクスと小さく肩を揺らした。
「たまにはこういうのも良いじゃないですか。お2人だけの特権ですよ」
「…特権、ですか」
「それに、今はみんなバカンス休暇中なんです。ここに居るのはお2人の“ボス”じゃないと思えば気が楽になりませんか?」
「…そうですね、朝食に好物を作ってくれと駄々をこねる人だと思えば…」
「駄々をこねるとは何だ。お前たちだってアボカドソースのサンドイッチばかり食っていただろうが」
「あれは絶品でした」
「確かに、アルフレード君とお風呂に入りたいとねだった結果、恥ずかしいからと振られてしゅんとする人は俺たちの知っている“ボス”ではありませんでしたね」
「言っておくが、いつもは振られていないからな。お前たちが居るからアルは恥ずかしがっただけだ」
「ハイン、余計なこと言わなくていいの!」
「?」
「そういうのが恥ずかしいって何で分からないのかなぁ」
「…ハインリヒさんはそういう人ですからね」
「あははっ、ハインリヒさんらしいと言いますか、たまに天然な一面を見せますよね」
“ボス”ではなくあえて名前を呼び、苦笑を浮かべながらうんうんと顔を見合わせて頷き合っているフルアとグラースの緩んだ表情にアルフレードはにこりと笑みで返し、鼻歌を口遊む。
猟師が営む定食屋の常連たちが歌っていたもので、この島に古くから伝わる船乗りの歌だという。
その軽やかなメロディーに合わせて、車窓の景色も変わっていく。
丘をひとつ越えれば羊の群れは姿を消し、またひとつ越えれば草原は石灰岩の断崖に変わった。
その次のカーブを抜ければ、乾いた土壌に根を張る小さな灌木に咲く小さな花が道端を彩る。
何の花だろうね、と瞳をキラキラとさせながら車窓からの景色を眺めているアルフレードの様子にハインリヒも口端を緩めた。
「ご機嫌だな」
「んふふ、楽しいもん」
「そうだな。こんなバカンスも悪くない」
「今度はダイト先生も一緒がいいね」
「あぁ、クリスマス休暇辺りに計画しよう」
「本当?きっと喜んでくれるね。パスクァーレさんがね、みんなを別荘に招待したいって仰っていたから会いにも行きたいね」
「冬のイタリアもいいな」
「ううん、ローマじゃなくてギリシャの」
「ギリシャ?」
「うん、ロードス島」
「…俺の知らない別荘が出てきたな…」
そうだっけ?とのんきに首を傾げているアルフレードに苦笑しながら、ハインリヒはバックミラーにちらりと視線を送る。
パスクァーレの名前が出た時点でグラースの表情は若干強張り、フルアはすでに覚悟を決めたような表情をしていた。
面識がないわけではなく、むしろその逆で、彼からは歓待されている。
しかし、相手は貴族社会の頂点に君臨する1人。
今もなお騎士道を生き、その具現化として存在する人。
世界的に有名な経営者や政府の高官を相手にビジネスをしているとはいえ、その人は全く次元が違う場所に居る人で。
まさに、“本物”と呼称すべき人だ。
本来ならばこちらから声を掛けることさえ許されない立場にあり、アルフレードにとっては「優しいおじいちゃん」だとしても、越えられない一線のそのずっと先に居ることは言うまでもない。
たとえ相手が一国の王だろうと表情ひとつ変えることなく淡々と対応してみせるだろう彼らにとっても、パスクァーレだけはそうはいかないのだろう。
何故なら、彼はアルフレードに新しい未来を与えた人。
本来手に入れるはずだったいくつかの未来を奪われてしまったアルフレードに、新しい道を指し示し、導き、その肩を支えてきた人なのだから。
彼と対峙するときに感じる緊張感は彼の存在に対するものでもあるが、それ以上に、アルフレードに相応しく在らなければ、と。
アルフレードに相応しいと彼に認められなければならない、という緊張感だ。
一挙手一投足、その発言の内容や選んだ言葉1つまで評価されているのだと、と自然と背筋は伸びる。
しかし、それは息苦しいものではなく。
何の迷いもやましさもないからこそ、その緊張感は己を律するための軸となり、清々しささえ感じる。
堂々と胸を張って、覚悟を持ってアルフレードの隣に居るのだという姿を見せているのだ、という自信とも言える。
だからなのか、フルアとグラースの瞳は決して翳ってはいない。
近い未来を思っての緊張は否めないが、パスクァーレを唸らせるのだという覚悟や自信が確かに滲んでいる。
好戦的な奴らだな、と己のことは棚に上げ、ハインリヒは苦笑を刷いてアルフレードに視線を移した。
「ギリシャか、アルは行ったことがあるのか?」
「ううん、ないよ。でも、ロードス島はマルタ騎士団と深い関りがある場所だから一度は行ってみたいんだ」
「あぁ、それで別荘をお持ちなのか」
「パスクァーレさんのご先祖様がその当時の団長さんでね、いろいろ遺っているんだって」
「ロードス島を支配していた頃ということは…オスマン帝国と戦ったということか?」
「そうそう。だから別荘というより城塞みたいなもので一部は観光客に公開しているって言っていたよ」
「相変わらず規模が違うな…」
「ふふ、オレから見ればハインも十分規模が違うけどね」
「ちなみに、他には?」
「んー、フランスにもあったと思う。そっちも騎士団関係のだったかな。あ、ローマには別邸がいくつかあるよ」
「別邸…」
「大統領の官邸になっているクイリナーレ宮殿あるでしょ?あれは元々イタリア王家の住居で、その近くに別邸がいくつかあるんだよ。宮殿と隠し通路で繋がっているんだって」
「…それは初耳だ」
有事の際に王家の人間を宮殿から逃がして匿えるようになっているんだって、と今日の天気の話をするかのような軽いアルフレードの口調に苦笑を深くする。
彼はその重要性や価値観を理解していないのではなく、正しく理解してなお、これなのだ。
パスクァーレはあくまで己にとって大事な祖父のような人であって、そこに付随する肩書き自体は敬うが、敬意を払うべきはその肩書きではなくそれを背負う人だ、と。
どこに住んでいようが、どんな権力を持っていようが、それがその人の価値になるのではない。
その人が持つからこそ意味を成す、とアルフレードは言う。
貴族である前に個人だ、と。
アルフレードのその価値観は自分たちに対しても変わらず、彼に初めて名刺を渡したときもそうだった。
彼はその肩書きに驚嘆するでも表情を変えるでもなく、自分の名前の正しい発音を問うた。
COOという日常生活では見かけることの少ない略称の意味が分からなかったのだろうかとそのときは思っていたが、彼は正しく理解していた。
まだ少年の域を出たばかりの青年だと侮ったことを恥じ、同時に、理解をしていながら“個”を見る彼の瞳にどうしようもなく惹き付けられた。
最高執行責任者だと知った者たちから向けられる、妬みや嫉妬の視線。
綺麗な言葉に隠した醜い欲や謀略の匂い。
今まで何千、何万と向けられてきた善意を装った悪意の感情。
それが当たり前であって、だからこそ、アルフレードに名前の発音を問われたときは間抜けな顔を晒している自覚があったものの、ぽかんと口を開けてしまったものだ。
今も、そしてこれからも決して変わることのない彼の価値観には敬意すら抱くほどで。
これだから彼の存在は安心するのだろう、と思いながらハインリヒは海岸線の道へと出た。
エメラルドグリーンの美しい海にはヨットが浮かび、すでにビーチには人の姿で溢れている。
バカンスシーズンということもあり、真っ白な砂浜がパラソルで埋め尽くされるのも時間の問題だろう。
「次の目的はアルゲロだったな」
「あ、ナビに入れてなかったね。入れようか」
「いや、道は把握しているから問題ない」
「え、来たの初めてだよね?」
「来る前に主要な名所や道路は頭に入れてある」
「…頭の良い人ってすごいことを何てことのない顔でやるから本当にすごいよね」
「?」
地形までインプットしているグラースと比べれば道を頭に入れる程度誰でもできる、とさらりと言うハインリヒにアルフレードは目を丸くして後部座席に顔を向ける。
照れくさそうにはにかんでいるグラースとその隣で自分が褒められたかのように誇らしそうにしているフルアと目が合い、感嘆の声を上げた。
「癖みたいなものなんですよ。地形図の方が何かと情報も分かりやすくて」
「初めて行く場所は必ず事前に確認するんですか?」
「そうですね、可能な限りは。主要な道路が使えなくなる場合もありますし、その中で安全なルートを選ぶために事前情報は必須です」
万が一に備え、一体どこまで想定しているのか。
備えあれば憂いなしとは言うが、彼らの場合は一手も二手も先を見ている。
たとえば利用している道路が何らかの理由で通行止めになった場合、その理由が天候か事故かで次の選択が変わる。
天候であれば他の道路も同じ状況になることが考えられ、限られた選択肢の中で何が一番最適かを考える。
事故であれば通行止めが解除される時間や他の道路に流れていく車列の状況を加味して、どうすべきか考える。
ある程度の理由や根拠を持って、次の行動を決めるのだ。
それを瞬時に成してみせるのは、彼らが常日頃からあらゆる事態や状況を想定し、その時々の場面における行動をシミュレーションしているからで。
初めて訪れる場所となれば尚のこと。
バカンスの行き先が決まった時点で彼らは各々の立場で“情報”を集め、頭の中に叩き込んだのだろう。
彼らはそれを易々とやってみせるが、そこに至るまでに一体どれほどの努力を重ねたか。
彼らの周りに居る人間は気付いていないだけで。
「フルアさんとグラースさんが前例だと、後の人たちにとってはかなり高いハードルに見えるでしょうね」
「私たち程度で怯むようでは後任を名乗ることは許されませんね」
「いや、フルアさんを越えろってそれはさすがに無茶ですって。ねぇ、アルフレード君もそう思いますよね?」
「グラースさんを越えるのも難しいと思いますよ」
特にグラースは特殊な訓練を積んできた元軍人。
それも精鋭部隊の隊長として前線を走って来た経験を持つ。
時間をかけて訓練を重ねれば彼と同等の知識を持つことができるだろうが、経験はそうはいかない。
乗り越えてきたもの、抱えているもの、背負ったもの…それらが彼なのであって、余程の気概がなければ食らいついていくことも難しいだろう。
だが、彼ら自身がそうであったように、きっとその後を追ってくれる人も居る。
でなければ、数日間とは言え彼らが共にバカンスを過ごすことはできなかったのだから。
「あと何年かしたら、もっと長く一緒にバカンスを過ごせるようになるかなぁ。楽しみですね」
「またご一緒してもよろしいんですか?」
「もちろんですよ!ね、ハイン」
「そうだな。毎年少しずつ不在にする期間を長くしていくのもいいだろう」
「それいいね。世界半周旅行の予行練習!」
お2人はどこか行きたい国はありますか、と問われ、今度はフルアとグラースが目を丸くした。
彼らが遠い未来に描いている目的のひとつが世界一周旅行だということは知っていたが、半周旅行は初めて耳にする。
しかも、自分たちも同行するかのような口ぶりで。
グラースが、「俺たちもご一緒していいんですか?」と問う。
「だって家族旅行ですもん。一緒がいいです」
「アル君…」
「アルフレード君、あなたは本当に天使ですか」
「天使だ」
「何故、あなたが誇らしげなんですか」
「あ、でもお2人に大切な人ができたら、その人たちの行きたい場所も入れないとね」
「そうなると世界一周の方が手っ取り早いな。やはり将来的に考えると自家用機があってもいいんじゃないか?」
「それとこれは別の話だからね」
仕事は繊細なのにそういうことになると何でこうも大雑把になるの、と苦笑するアルフレードと言質を取り損ねたなと笑うハインリヒのやり取りを後部座席の2人はぽかんと口を開けて見つめる。
彼らの許容量が計り知れないことは知っている。
しかし、彼らは一体どこまで受け入れると言うのか。
自分たちに大切な誰かができたなら、その人も招き入れたいと言うのではなく、すでに彼らは心の内に住まわせている。
全くこの人たちの愛情には際限がないのか、と顔を見合わせて相好を崩す。
「敵いませんね、あのお2人には」
「えぇ、敵うはずがありませんよ。そして、それでこそ私たちの道しるべです」
希望の姿。
触れることのできる光。
今日をかけがえのないものだと慈しみ、“あした”を信じられるようになった。
それだけの変化をもたらしたのはアルフレードで、彼と出逢ったことでハインリヒは変わった。
だが、変わったのは彼だけではなく自分たちもなのだと誇らしく思う。
変われたのだ、と。
所詮はこの程度のものだと唾棄していた世界を美しいと思えるようになったのだ、と。
ハインリヒからCOOを含め専任業務の体制の見直しを相談されたとき、正直に言えば驚いた。
それはつまり、彼が自身の5年先、そして10年以上先のことを真剣に考え始めたということで。
いずれCEOの座に就くことも見据え始めたということで。
元より会長であるケイルの思惑通りではあるのだが、ハインリヒ自身にその未来は見えていないようだった。
あくまで会長の希望であって、先のことは分からない、と。
今は業績も安定し、それどころかこの世界的に不安定な経済状況の中であっても揺らぐことなく良好な結果を生み出し続けている。
だが、それだっていつまで維持できるかは分からない。
直接的な部下だけでも数千、傘下組織を合わせれば数万の社員の人生を預かっている以上、彼らの生活を保障することは絶対であり、経営者の義務であったとしても、努力だけではどうしょうもないことはある。
彼自身の地位だって確約されたものではない。
だからなのか、ハインリヒは経営者の責任として会社の未来は数十年後まで細かく目標を定め、それを果たすべき義務として背負っているが、彼自身の未来を語ることはなかった。
そんな彼が、それを口にしたのだ。
いずれCEOを継ぐにしても何かの責を負って全ての職を辞することになったとしても、次の誰かに椅子を明け渡して終わりというわけにはいかない。
独りで片付けた方が楽だからと横着をしてきたツケを払うときが来たのだろう。
お前たちは俺の“専任”である以上、どちらの道を進むことになったとしても付き合ってもらうからな。
その肩書きをいつでも次に引き渡せるようにしてくれ。
そう告げられたとき、驚くと同時に嬉しく思ったものだ。
あぁ、彼はそこまで未来を信じられるようになったのだな、と。
何よりも、自分たちを当たり前のようにそこに描き込んでいることに。
ちょうどバカンス休暇で留守にするのだから同じタイミングでお前たちも休みを取ればいい、と言い出したときはさすがに急ぎ過ぎではないかとも思いはしたが。
そのために半年以上の時間をかけて準備と想定と入念な打ち合わせを重ねて、負担も疲労も小さなものではなかったが。
今、この瞬間。
全てが報われた、と思えるほどの輝きに2人は込み上げてくるものを何とか飲み込んだ。
「たった数年…その数年が、こんなものかと嘆き続けた世界に生きる理由になった」
「えぇ、過去にあった大抵のことは許せてしまう」
「こんなに空が綺麗だと思ったことはありませんでした」
車窓に視線を移したグラースの横顔に浮かぶのは、心からの微笑。
失ったものばかりを数え、奪ったものばかりを背負い、自分自身を許せずに呪い続けてきた男のものとは思えないほど穏やかで優しいもので。
戦場の生々しい記憶は悪夢となり、長く彼を苦しめ苛み続けてきた。
だが、今はもう滅多に見なくなったと言う。
見たとしても、それは悪夢というよりはまさしく記憶の断片で。
「忘れたくないことを定期的に確認しているような感覚」だと言っていたのは少し前ことだ。
アルフレードも心に深い傷を負い、PTSDと戦っている。
グラースもまた、彼と同じようにそれを抱えて生きている。
だが、2人ともそれぞれの勇気で持ってそれと向き合い、正しく乗り越えようとしている。
その強さは眩しいもので、同時に羨ましく、そして目標でもあり、心強さだ。
親愛と敬意を改めて胸に、フルアはグラースの肩をそっと叩いた。
そんな後部座席の柔らかな空気を見守っていた前部座席のアルフレードとハインリヒは顔を見合わせてそっと笑む。
そして、ハインリヒは沿岸沿いに蛇行して走る州道から細い側道へとハンドルを切った。
今日の目的地であるアルゲロの町の随分と手前で。
地形も車道も把握している後部座席の2人が訝しそうに首を傾げる。
それもそのはずで、このまま進めば遠回りになるのだ。
だが、彼らには知らせていない今日の最初の目的地はこの道の先。
高揚を隠せずにソワソワとしているアルフレードに小さく口端を上げ、ハインリヒはテラコッタで作られた3階建ての住宅が並ぶ細い道を進んでいく。
建物はどんどん古いものになっていき、乗用車1台がやっと通れる狭い裏道に入る。
しかし、夏の太陽は隅々まで行き渡り、カラっとした爽やかな光に包まれている。
住人の気配が少ない古いアパートも決して寂れた印象はなく、大都市の裏道とは全く雰囲気が違う。
「この辺だよね?」
「あぁ、もう見えている」
「え、どこ?あ、本当だ!あれだよね?」
「あぁ」
「見て、外で待っていてくれているよ!」
「…あの、ここは一体?」
「アル君のご友人ですか?」
「いいえ、オレじゃなくてハインのです」
「ハインリヒさんの?」
サルデーニャ島に住んでいる友人の存在など耳にしたことがない、とますます首を傾げている部下2人にハインリヒは学生の頃に知り合った人物だと返す。
「大学時代ですか?」
「あぁ、長期休暇で旅をしていた頃に知り合った」
「まさかその頃から今も繋がりを持っていた人があなたに…」
「そんなわけがないだろう。アルがたまたま名刺を見つけて、思い出したんだ」
仕事柄、受け取る名刺の数は膨大だ。
そのほとんどは秘書であるフルアが管理しているが、一部は自宅にある。
それをたまたま整理するタイミングがあり、分類の手伝いをしていたアルフレードが見つけたのがその人の名刺だった。
最初はすっかり忘れていた人で、しかし、そういえばと微かな記憶を手繰り寄せれば存外に思い出すのは容易で。
しかし、相手がそうとは限らない。
突然の連絡に不審がられることも覚悟の上だったのだが、幸いにも相手の記憶は自分のものよりも鮮明で、訪問も快く受け入れてくれたのだ。
「俺は知らなかったが、随分と有名な海洋生物の学者らしい」
「そんな方とあなたが一体何故?」
「キールの辺りからデンマークを周っていたときに乗っていたバイクが故障して、海岸で野宿しようとしたときに声をかけられたのがきっかけだな」
「そんなことがあったとは知りませんでした」
「俺もつい最近まで忘れていた」
「その方と今になってどうしてまた?」
「オレがお願いして連絡をしてもらったんです。どうしても欲しいものがあって、その人なら知っているかもって」
「アルフレード君がどうしても欲しいもの、ですか?」
「はい。それで、相談したらなんとその人がこの町に住んでいるって分かってびっくりです」
研究のために各地を転々としていたようだが、数年前にこの島に移り住んだのだという。
それも、このバカンス中に訪れる予定だった町の近くに。
あまりにも都合の良い偶然に驚いたが、その人は電話越しに「縁とはそういうものだよ」と言って朗らかに笑った。
「本当は電話で全部済んでいるんですけどね、どうしてもお2人を紹介したかったんです」
「俺としてはアルを紹介するのが目的だ」
「ふふ、そうだね。オレもお会いするのは初めてだもんね」
今から行くのはその方の自宅兼工房兼ショップなんです、といそいそと下車の準備をし始めたアルフレードにつられ、フルアとグラースもそれぞれ服や荷物を整える。
こちらに向かって手を振る老人の前にハインリヒは車を停めた。
ハインリヒもまたこうして顔を合わせるのは久しいが、記憶の中のその人の面影は濃い。
車を降りれば、出会ったときと同じ潮の香りがその記憶に寄り添った。
「ご無沙汰しております」
「あぁ、よく来てくれた。10数年振りになるね」
「えぇ。覚えていてくださったとは驚きました」
「それはこちらの台詞だよ。しかし、あの好青年がこんなに立派になって!」
再会の喜びを分かち合うように握手を交わしてから、ハインリヒはアルフレードの腰を抱き寄せた。
「彼がアルフレードです」
「直接お会いできて嬉しいです。たくさんご無理を言ったのにありがとうございました」
「私も嬉しいよ。あぁ、想像していた通りの子だね。とても綺麗な瞳だ」
こんな素敵な子を見つけるとは君もやるな、と笑う老人に謙遜する気は更々なく、ハインリヒは「そうでしょう」と堂々と返す。
それが可笑しかったのかひとしきり笑った老人の瞳がふと、ハインリヒの肩の向こう側に向けられた。
「彼らが?」
「はい。秘書のフルアと護衛のグラースです」
「そうかそうか。君は素晴らしいパートナーと仲間に出会ったのだね」
「えぇ」
「ははっ、実に気持ちの良い返答だ。君たちのことも歓迎するよ」
さぁ、中へ。
そう促されるまま、まだこの状況を理解できていないフルアとグラースも彼らに続く。
アパートの1階部分が工房とショップになっているようで、歩道に面している出窓にはネックレスやブレスレットなどの装飾品が飾られている。
アルフレードが探していた物がここにあるのだろうか。
しかし、それと自分たちをこの老人に紹介したいという理由が繋がらない。
一体何なのだろうか、と問い質したい気持ちを抑え込んで店内に足を踏み入れると、数歩前に居るアルフレードが零した感嘆の声が聞こえてきた。
と、そこでフルアとグラースの目にもショーケースの中に所狭しと並べられているジュエリーが映る。
真珠やアクアマリンなど海に関係する宝石で彩られたもので。
その中で最も目を引いたのが、真っ赤な珊瑚だった。
「すごい…ここにあるの、カラーグレードが上級のものばかりだ」
「珊瑚にもそういうランクがあるのか」
「うん、あるよ。ここの珊瑚は普通のジュエリーショップではなかなか見られないレベルのものだよ」
「おぉ、さすがデザイナーだね。見て分かるのかね」
では、これはどうだい?
そう言って、老人が棚から取り出したものにアルフレードは丸い瞳を更に丸くした。
ぱかっと口を開けて老人とその真っ赤な珊瑚の原木を交互に見ているアルフレードに、自分たちにはそれの良し悪しの基準が分からないが価値のあるものなのだろう、とフルアとグラースは彼らの後ろからそれを覗きん込んだ。
「え、え、これ!これ、お聞きしていたものと違いますよね!?」
「一目でこれの価値が分かるとは良い目をしているね」
「こんなに綺麗な血赤珊瑚の原木なら誰だって分かりますよ!加工していいものではないですよね?」
「ははっ!まぁ、そうだろうね。でも、これはこの老いぼれから若い君たちへ贈れる精一杯のものだから、どうか受け取って欲しい」
「でも…」
「アル、これは他の珊瑚と何が違うんだ?」
「そもそも血赤珊瑚って希少価値が高いんだよ。その中でもこんなに光沢があって色も均一で…ほんの少し光を通しているの分かる?」
「あぁ」
「完全に不透明なものより、こうやって少し透明感があるものは更に希少なんだよ」
「ほぅ、詳しいな」
「もう何でそんな呑気なの?ものすごく貴重な珊瑚なんだよ、これ!」
オークションに出せば大騒ぎになるくらい、と言うアルフレードを窘めつつ、ハインリヒは老人に視線を向けた。
「よろしいのですか?」
「あぁ、もちろんだよ。君たちから連絡を受けたときにもう決めていたからね」
「しかし、アルの反応を見るに随分と貴重なもののようですが」
「研究調査の過程で偶然手に入れたものだ。だが、その偶然には理由があったと思いたいじゃないか」
「……」
「あのとき君と出会ったことも、君が私のことを思い出してくれたことも、こうしてここに居ることも」
「…そうですね」
「海洋学者はロマンチストなんだ。どうか受け取っておくれ」
泊って行きなさい、と。
バイクが壊れて野宿ができそうな場所を探し歩いていたとき、そう言って研究用の小屋に誘ってくれた彼が見せたものと同じ笑顔。
人類が海洋について解明できたのは5%ほどで、いまだ95%が未解明というのはロマンしかないと思わないかね、と。
そう言って海について語った彼の声は今も変わらないのだな、と口端に笑みを乗せ、ハインリヒはサマージャケットの胸ポケットから封筒を取り出した。
そして、それを彼に差し出す。
「何だい?」
「正当な対価を」
「電話でも伝えたが、代金は要らないよ」
「えぇ、珊瑚の代金は不要だとお聞きしていますのでありがたく頂戴します。ですが、加工料は別かと」
「いや、それも込みだったのだがね…」
「それでは我々の気が済みません」
うんうんと大きく頷いているアルフレードにも「完成品を送っていただくための送料もそこに入っています」と言われてしまう。
絶対に受け取らせる、という強い意思をそれぞれから感じてしまい、老人は苦笑しながらそれに手を伸ばした。
市場に出回ることのない高品質な珊瑚は安価とは言い難い。
だが、まだ若い彼らの先行きを想えば、希少性の高いものでも惜しくはなかった。
それ故に珊瑚を探していると相談の連絡を受けたときに無償で提供したいと伝えていたのだが、と受け取らせることに成功して満足そうなハインリヒとアルフレードにますます苦笑する。
「加工料と送料か、それは思いつかなかったな」
悪戯を成功させた子どものように口端を上げるハインリヒから受け取った封筒を開ければ、中から小切手が出てくる。
そこに記入された額に、老人はあんぐりと口も目も開いた。
物の相場というものを完全に度外視した金額で、「さすがに受け取れない」と返そうとするが、ハインリヒは緩々と首を横に振った。
「いや、しかしこれは…」
「あのときの宿泊代と謝礼も込みですから」
「それにしても多過ぎる」
一体ゼロをいくつ書き込んだのか。
明らかに狼狽している老人の様子に、フルアとグラースはアルフレードを見た。
限度を覚えて、とハインリヒを窘める側に居るはずの彼はしかし、老人に向かって「正当な額ですよ」と促している。
何に対しての正当な額なのか分からないが、その小切手には希少な血赤珊瑚を手に入れるのに十分過ぎる金額が記されているのだろう。
老人の反応を見れば一目瞭然で、フルアは純粋に疑問を顔に浮かべた。
アルフレードの「欲しいもの」がその珊瑚だとして。
地に足をつけた生活観と金銭感覚を持つアルフレードが無意味に高価なものを求めることはまずない。
ハインリヒが買い与えようとすれば無駄遣いだと窘めて許さない。
それにハインリヒの口振りでは、小切手に記された金額には彼の私情も含まれている。
電話でもやり取りをしていたようで、そこまでして彼らがこの珊瑚を求める理由が分からない。
余程思い入れのあるものなのか、それとも何か彼らにとって重要な理由があるのか。
そろそろ問うてもいいだろうか、とフルアは口を開きかけた。
しかし、言葉を発するよりも先に老人ににこりと微笑まれ、アルフレードとハインリヒの視線まで受ける。
「あの…?」
「え、何ですか?どうしたんですか?」
グラースが戸惑うのも無理はないと思いながら、フルアも擽ったさを感じるほど穏やかで柔らかな眼差しを受け止めてたじろいでしまう。
「…お土産、というわけでなさそうですが…」
「まぁ、広い意味ではそうなるのか?」
「んー、どっちかと言うとプレゼントかな」
「プレゼント?」
グラースと揃って首を傾げれば、老人が朗らかに笑う。
そして、深い皺が刻まれた眦のそれを更に深くして瞳を細め見つめられる。
「この町は古くから珊瑚が有名でね。それを知った彼らから上質な珊瑚が欲しいと相談があったんだ」
「…それが、そちらの珊瑚ということでしょうか?」
「あぁ、そうだよ。君たちのものだ」
「え?」
「彼らから聞いたよ、君たちは大切な部下であり友であり家族だと」
この休暇はその人たちの助けがなければ得られなかったもので。
その人たちが居たからこそ為し遂げられたことがあまりにも多くて。
その人たちと一緒だから自分たちは前に進むことができた。
今までは虚勢を張って足を引き摺って進んでいただけで、それは本当の意味での前進ではなかった。
けれど、その人たちは臆病な自分たちを励ましてくれて、共に戦うことを選んでくれて。
いつだって背中を支えてくれるその人たちが居るから、自分たちは一歩を踏み出せた。
それは大地を両足で踏みしめる一歩で、自分たちは本当の前進を始めることができたのだ。
礼としては到底足りないかもしれないが、形あるものでそれを伝えたかった、と。
誠意と愛情と敬意を知るには十分な熱量を持った声音で語るハインリヒに、正直に言うと困惑した。
記憶の中にある青年は酷く冷めていたのだ。
何もかも諦めているような、何も信じていないような、酷い飢餓と虚無感に疲れ切っているような、そんな目をした青年で。
壊れたバイクを引きながら途方に暮れるでもなく、抗うでも憤るでもなく、現実を無感情に飲み込んでいるように見えた。
そんな青年から聞いた血の通った声音はまるで別人のそれのようで。
しかし、彼はこうも言った。
「彼らが居たから変われた」、と。
あぁ、その言葉の通りだったか、と老人は口許の皺も深くした。
あの冷めた目をした青年はもうここには居ないのだな、と。
「加工には少し時間がかかるが、楽しみにしているといい」
アルフレードからはすでにデザイン案を受け取っている。
彼らが帰国し、日常生活に戻ってふとしたときに夏の思い出として今日のことを恋しく思う頃にそれは彼らの手元に届くだろう。
「私たちに、これを…」
「お2人から…」
「ふふ、びっくりしましたか?ハインと考えたんですよ」
「珊瑚を選んだのはアルだろ」
「この島に、そしてこの場所に連れて来てくれたのはあなたでしょう」
「…し、しかし、何故…」
「そ、そうですよ、みなさんの反応を見るに相当貴重なものですよね。俺たちにはあまりにも過ぎたものです」
「いいえ、お2人に相応しいものです」
きっぱりと言い切ったアルフレードは一度ハインリヒを見やり、そして、フルアとグラースに向けてにこりと笑みを向けた。
「珊瑚は古くからお守りとして大切にされてきたんですよ」
「お守り、ですか」
「新しい選択をして、新しい目標に向かって歩いていくことを決めたお2人に加護がありますように」
バカンスの行き先がサルデーニャ島に決まったとき。
ハインリヒと滞在先や巡る町を考える中で実は一番最初に決定事項となったのが、2人に珊瑚を贈ることだった。
まさかハインリヒが過去に繋いだ縁が今ここで再び意味を持つことになるとは思っていなかったが。
しかし、だからこそ。
奇跡と呼ぶには大袈裟かもしれないが、意味があると言い切れる。
「オレたちは2人きりではないと胸を張って言えるのはフルアさんとグラースさんが居るからです」
「アル君…」
「そんな人たちの未来に…これから先、進む先に少しでも多くの幸いがありますように」
祈らせてください。
願わせてください。
そして、あなたたちがその道を勝ち取れるように一緒に戦わせてください。
それぞれの手を握って微笑むアルフレードに、フルアとグラースは揃って天井を仰ぎ見た。
「アル君、ボス…あなたたちは本当に…」
「勘弁してくださいよ…前に言ったじゃないですか、歳を取ると涙もろくなるんですって」
反則だ、と唸る2人の様子を可笑しそうに見やってから、ハインリヒはアルフレードと共に老人に向き直って揃って頭を下げた。
「貴重な珊瑚をありがとうございます」
「急なご連絡にも関わず、快諾いただき感謝します」
「うんうん、君たちのような人の手に渡るのならこれ以上喜ばしいことはないよ」
これも何かの縁だからね、と笑う老人に、ハインリヒはその言葉を噛み締めた。
言葉を変えれば、「よすが」。
それはアルフレードであり、彼が紡ぎ、繋ぎ、結ぶもの。
改めてそれを感じ、彼の細い腰を抱き寄せる。
無防備に見上げてくる鳶色の双眸に宿る力強くも優しい光はいつだって前を見据え、希望を信じ、あすを望む。
アルフレードという存在は己をこの世界に繋ぎとめる理由、その意味そのもの。
そう言えば彼は面映ゆそうに眉を下げて笑い、第三者は大仰なと指をさして哂う。
だが、これだけは譲れない、と言い切れる数少ないものの中にそれはある。
己の中に、そして、彼らの中に。
「覚悟しておけよ、お前たちには最後まで付き合ってもらうからな」
「望むところです」
「えぇ、受けて立ってやりますよ」
「その意気でこそだ。次は世界半周旅行の計画を立てないとな」
「新しい部署の立ち上げを構想しているので、ボスもバカンスが終わったら覚悟しておいてください」
「やらなければならないこともやりたいことも山積みです。しばらくは息を吐く暇もありませんよ」
さて何からやりましょうか、と好戦的な含み笑いであれからにしようかこれからにしようかと話し出したフルアとグラースに、アルフレードは肩を揺らした。
やはり彼らは似た者同士なのだ。
互いの存在が力となり、挫けず、めげず、高め合える。
そういう関係は金で得られるものでもなければ、望んだからと手に入るものでもない。
羨ましい、そして、慕わしい。
彼らが居るからこそ、自分は立っていられる。
彼らは自分を道標だと呼ぶが、彼らもそうなのだ。
誰だって、誰かの意味で、理由で、目的なのだ。
「いや、本当に驚いた。あの青年と同一人物とは思えないね」
「彼を知る多くの人がそう言います」
「そうかそうか。彼はとても良い出会いをしたのだな」
「オレたちは交わったことでようやく人になれたんです。独りじゃダメだった…怖くて無理だったことも出来るようになりました」
「……」
「やっと息ができるようになったんです。心が、生き始めた」
「…そうか、君たちはこの世界を謳歌しているのだね。加護を、私にも祈らせてくれ」
「Grazie mille」
この後はどこに行くんだい、と問われ、アルフレードはいくつかの観光地の名前を挙げた。
それに満足そうに頷く老人が、地元の島民に人気の食堂や広場の名前を重ねる。
観光マップにも載っていない穴場の名所だと聞き、アルフレードは瞳を輝かせた。
「アルゲロにはしばらく滞在するのかい?」
「いいえ、今回は2泊だけ。島を1周する予定で、残りの休暇を使ってカリアリに戻ります」
「そうかそうか。わざわざ立ち寄ってくれてありがとう」
「いいえ、こちらこそ。直接お会いできて嬉しかったです」
「この珊瑚は責任を持って加工させてもらうよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
旅のお守りだと血赤珊瑚の欠片を使ったチャームを手渡され、アルフレードはそれをそっと掌で包み込む。
「アル、そろそろ行こうか」
「うん」
「では、また」
「あぁ、いつでも遊びにおいで。良い休暇を」
来たときと同じように玄関先まで出て見送ってくれる老人にアルフレードは手を振り、ハインリヒは深く頭を下げた。
その後ろでフルアとグラースも倣い、再び車に乗り込む。
空は変わらずに快晴。
細い路地を抜ければ、エメラルドグリーンの海が広がった。
次はどこに行こうか、とハインリヒが海岸線の道へとハンドルを切れば、まるで返事をするようにアルフレードの腹の虫がくぅと鳴く。
目的地は、老人から教えてもらった地元で人気の食堂に決まる。
エビの一種であるアリスタ・ディ・カリェガはこの町の名物で、地中海の恵みそのもの。
「ロブスターの冷製サラダも人気なんだって」
「旨そうだな」
「2人だと食べ切れないかもって注文できないお料理も4人だと挑戦できるのも良いね」
「ははっ、確かにそうだな」
「グラースが何とかしますから、アル君の食べたいものは全て注文しましょう」
「任せてください。アルフレード君、遠慮なく注文してくださいね」
代金はボスが担当するので、とちゃっかりしている一言も忘れない後部座席の2人に笑い、アルフレードは改めて車窓の向こう側に広がる景色に視線を向けた。
この先にあるのは、人口たった4300人の小さな海岸都市アルゲロ。
紀元前にジェノヴァの家系であるドリア家によって設立し、アラゴン王国の支配下に入ったためスペインの影響を強く受けた町のひとつだ。
18世紀にはサヴォイア家の支配下に置かれてイタリア王国の一部となったが、現在でもカタルーニャ語の方言であるアルゲーレーズ語が話されている。
中世の雰囲気を色濃く残す旧市街地をぐるりと囲んでいる城壁もスペインの支配下で建設されたため、スペイン風の建築様式を見ることが出来る。
海からの侵略や海賊から都市を守るために造られた塔も数多く残っており、防衛という重要な役割を果たしたのちは住民の穏やかな生活を見守っている。
城壁沿いには散策路が設けられており、点在するカフェやレストランではカタルーニャ風の地中海料理が楽しめることでも有名だ。
海と歴史が調和し、イタリアとスペインの文化が融合した都市は世界のどこを探しても同じ場所は見つからないだろう。
じっくりと時間をかけてランチを楽しんだ後は、旧市街地の石畳の路地や歴史的な建物を見て、美しい回廊とフレスコ画が見所の教会に足を運ぶのもいいだろう。
海岸線からボートでアクセスすることができるネプチューンの洞窟も見所が満載で。
塔の上から夕日を眺めるのも捨てがたい。
陽が暮れてからは夜景を見るために散策に出て、この町での滞在先であるホテルに戻ったらティータイムを過ごして、明日は何をしようかどこに行こうかとガイドブックを広げて。
そうして、遊び疲れて眠りにつく。
なんて幸せな時間だろうか。
「あなたたちと出逢えなかったら、オレは今でもこの空の青さを知らないままだったよ」
空の青さどころか自分たちはそこに太陽があることさえ正しく認識できていなかったのだから、世界が眩しいはずだ、とハインリヒが苦笑交じりに呟く。
それにフルアとグラースが同調し、それぞれが車窓から見える景色に瞳を細める。
光に溢れている。
今日も良い1日になる。
その確信を胸に抱けば、かつてぽっかりと空いていた穴の痕を癒すようにじんわりと温もりが広がった。
→Prossimo.
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