焔えるルビナイト 11
目の前に並ぶ皿の量に、アルフレードは丸い瞳を更に丸くして。次いで困ったように眉を下げ、ハインリヒを見上げた。
縋るような、助けを求めるその眼差しに苦笑し、ハインリヒも次から次へと出てくる料理に肩を竦める。
「これはさすがに食い切れないだろ」
「アルちゃんがお泊りしていってくれるのが久しぶりで嬉しくなっちゃったのよ」
「まだ時間も早いからな、ゆっくり食べればいい」
父のフリッツに促され、並んで椅子に腰を下ろす。
テーブルにはすでに前菜だけではなく大皿に盛られたメーン料理まで並んでおり、アルフレードが怯むのが視界の端に入った。
それもそのはずで、テーブルを占領しているのはドイツの伝統的な家庭料理。
つまり、大半がじゃがいも料理。
噛んだ瞬間肉汁が溢れ出しそうなヴルストも山のように盛られており、アルフレードが「がんばるぞ」と小さく呟いているのが聞こえ、思わず笑ってしまう。
「アル、無理をしなくていいからな」
「でも…」
「食べられるだけでいい。無理をして食って逆に身体を壊しては元も子もないんだ」
自分も食べろ食べろと言うが、彼の限界値は見極めている。
気を遣う必要はない、と言外に諭し、アルフレードの取り皿に手際よく料理を盛り付けていく。
スパイスで味付けをした豚肉をローストしたシュヴァイネブラテンは4分の1にカットし、付け合わせのふかしたじゃがいもは半分にして、ヴルストは比較的サイズの小さなものを選んで。
サラダは彼が好んでよく食べているホワイトアスパラガスを多めに取る。
パンもあるが、そこまで食べさせたら胃が破裂してしまうかもしれない、とあえて遠ざけて。
「強引に食べさせるなよ」と父親に釘を刺すことも忘れずに。
テキパキと随分と手際良くアルフレードの世話を焼くハインリヒに、マリアンネは可笑しそうに声を上げて笑う。
それにつられてフリッツも腹を抱えて肩を揺らした。
「ははっ!おま、お前…ふ、普段からそうなのか?」
「何がだ?」
「あなたが甲斐甲斐しく誰かの世話をするなんて…ふふ、本当に溺愛ねぇ」
「何を当然のことを今更」
「…ハイン、ちょっとシーッ!」
「アル?」
「ハインのそれはいつものことだけどね、さすがに恥ずかしい…」
ちょうどいい塩梅に盛り付けられた皿を受け取りながら、アルフレードは居た堪れなさそうに顔を伏せた。
その耳朶は真っ赤に染まっており、「可愛い」と言いながら前髪を耳にかければ、羞恥心で潤んだ瞳で睨まれる。
噎せ返るほど艶やかに微笑むことがある一方で、これだ。
このギャップが堪らなく愛おしいのだと口に出せばますます睨まれてしまうだろう、と噤んで。
自分の分も適当に取り分ける。
「とりあえずそれを食って、足りない分は好きなものを取ればいい」
「…Grazie」
「ヴルストは種類があるから、食べたいやつを言えよ。半分にしてやるから」
「うん」
「じゃがいもはそのサイズで大丈夫そうか?無理そうな分は俺の皿に入れろよ」
「うん、ありがとう」
レストランでは個室を使うため人目を気にすることはないから問題ない。
ダイトやフルアとグラースの前では気恥ずかしさはあるものの、いつものことと言えばいつものことで慣れてしまった。
しかし、彼の実の両親の目の前でこうも世話を焼かれるのは恥ずかしさと申し訳なさが綯い交ぜになり、小さく呻く。
ハインリヒもアルフレードが恥ずかしがっている理由は理解しているが、こればかりはな、と内心で言い訳をひとつ落とす。
両親の温かい視線は妙に擽ったく居た堪れなさもあるが、優先すべきは常にアルフレードなのだ。
「食べようか」と促す両親と共に食事の前の祈りを捧げ、さっそくふかしたじゃがいもに手を伸ばしているアルフレードを見届けてからハインリヒもフォークを手に取った。
美味しい、と瞳を輝かせているアルフレードとそれを嬉しそうに見守っている父と母。
穏やかな時間だ。
それは、彼が奪われたいつかの光景。
掴むはずだった未来の一部。
出逢ったばかりの頃は、彼から可能性を奪ったのは自分もなのではないかと悩みもした。
この世界のどこかに彼の心の傷に寄り添い共に歩むべき女性が居て。
その女性こそ彼が本来出逢うべき人だったとして。
アルフレードには妻と子と生きる未来があったかもしれない、と。
もしそうならば、可能性を握り潰したのは間違いなく自分の手だ。
出逢うべき人が居たとしても先に出逢ったのは自分だと嘯いて。
先に彼を手に入れなかった方が悪いのだとその誰かに随分と横暴な言い訳をして。
自分から離れられないように、彼が出逢うべき人と出逢ったとしても揺るがないように、逃げられないように、その心の隙に付け込んで。
彼がもう離してと泣き喚いたとしても手離せなくなってしまった頃には、すっかりその奥に住み着いて。
あまりにも一方的な独占欲と依存に呆れるよりも恐怖したが、一度呼吸を思い出してしまった心はもう、彼が居なければ生きていけなくなってしまっていた。
だからこそ、己が彼から奪った未来を、彼が手に入れていたかもしれない可能性をふと目にしたとき、言いようのない不安や焦燥と罪悪感に襲われた。
だが、今は、と。
ハインリヒはさりげなくこちらに椅子を寄せてきたアルフレードに気付き、目元も口許も緩める。
(お前はこれが良いと言ってくれる。この今こそが欲しかったもので、俺と歩む未来が欲しい、と言ってくれる)
この命はあなたのためにこそ使いたい、と言い切ったアルフレードの瞳の強さ。
それは彼の心の隙間に住み着いた自分が植え付けたものではなく、紛れもない彼の意思で。
疑う余地などないほどに、愛されている。
あぁ、それほどにこの青年は愛してくれる。
このヴルストすごく美味しいね、と微笑むアルフレードの頬を手の甲で撫でる。
食事中でなければ抱きしめていたところだ。
いや、正直に言うならば行儀が悪いと咎められようと彼を膝の上に乗せたまま過ごしていたいほどで。
食事が終わったらすぐにそうしようと内心でほくそ笑む。
不自由をさせている自覚はあり、彼が羞恥に耐えていることも分かっている。
だが、アルフレードは許してくれる。
噎せ返るほどの愛情で持って受け入れ、甘やかしてくれる。
その甘い優しさを噛み締めながら、ハインリヒは彼の前髪を耳にかけた。
「良かったな」
「うん」
「この休暇中にもう少し体重が増えるともっといいんだが」
「ふふ、そんなことを言っていると重くなりすぎて膝の上に乗せられなくなっちゃうかもしれないよ」
「お前には羽根があるから問題ない」
「……」
「どうした?」
腕を伸ばせば届く位置に置いたパンを鷲掴んだアルフレードが無言でそれを口許に押し付けてくる。
素直に口を開ければいささか強引にそれをねじ込まれ、一体どうしたんだと視線を向けた先。
アルフレードの顔が再び真っ赤になっていることに気付き、パンを咀嚼しながら朱色に染まっている耳朶に触れた。
彼の母親の形見であるルビーのピアスは白い肌に映える。
元は彼の父が出産という大仕事を終えた妻のために贈ったものだと聞いたのはいつだったか。
愛情と労いと優しさによる見返りを求めない贈り物は、嘘と計略による見返りを求める贈り物に慣れてしまった自分にはあまりにも眩しい。
美しく、無垢で、純粋で、神聖で。
そして、優しい。
こう在りたい、と思う。
優しくしたい。
大切にしたい。
愛したい。
そんな想いばかりが止め処なく溢れる。
何とかパンを飲み込んで口を開こうとするが、それよりも早く今度はグリルしたじゃがいもが押し付けられた。
一口で食べるには随分と大きかったが、苦笑しながらそれを受け入れる。
「ふぅ、危ない危ない。今、何かまた散財しそうなこと言おうとしていたでしょ」
よく分かったなと目で返せば、アルフレードは頬を膨らませて、まるで告げ口をするように向かい側に座る両親に「聞いてくださいよ」と乗り出した。
「事ある毎に何か欲しい物はないかって言うんですよ。オレは何もいらないって言っているのに」
「ははっ、いいじゃないか。それが男の甲斐性ってものだ」
「ハインの場合は散財なんです。お父さんとお母さんからもダメって言ってください」
「あらあら、そういうときはね思いっきりねだってやればいいのよ」
「お母さんまでー…だって、ブランドの時計とか車とか別荘とかが選択肢なんですよ!?」
「まぁ、限度ってものはあると思うがな」
「お父さん!そうなんです!」
「だがなぁ、ハインリヒの気持ちも分かる」
「お父さん!?」
「そうね。アルちゃんにはこう、何と言うのかしらね。使いたくなっちゃうのよね」
「そう、その通りだ」
すかさず口を挟んできたハインリヒの腿をぺしりと叩き、アルフレードは過去の悪事を暴くような口調で今までに彼が自分に与えたものを挙げていく。
散歩に行こうと誘われて、気付けばテーラーに連れ込まれて仕立てられたオートクチュールのスーツは1着や2着ではない。
いくつあっても無駄にはならない、とその度に革靴やカフスも新調されて。
着ていく場所がないと言えば、機会などいくらでも作れると言って国外の高級レストランでディナーを過ごしたことが何度あったか。
資産になるから、と腕時計が1つ増え、2つ増え、5つ目のところで何とか購入する前に阻止できたときはほっと安堵したものだ。
しかし、代わりにと言わんばかりにその数か月後に新車がガレージに届けられたときは唖然としてしまった。
もっと遡れば。
共に暮らそうと手を差し伸べられて、今も彼と住んでいるマンションに引っ越した日。
私室を兼ねたアトリエとして用意されていた部屋には特注と思われる作業机や書棚が置かれていた。
両親が遺してくれたラヴェンナのヴィッラも地元の小さな管理会社に定期的な点検や修繕を任せていたのだが、それを知った彼は「両親との思い出がある大切なものなのだから」と言って数日後には専門のメンテナンス会社とコンシェルジュサービスと契約をしていた。
今では専属の庭師まで雇っており、母が植えた白薔薇が咲くと大きなブーケになって贈られてくる。
小さなもので言えば、ヘアオイルやボディクリームも市販されているものではない。
何度も試作を繰り返して作られたオリジナル品で、一体どれほどの時間と金を注いだのか。
スーパーで売られているカップのアイスクリームを手に取ろうものなら、翌日にはイタリアの老舗ホテルのエンブレムが描かれたジェラートが自宅に届けられたこともあった。
たまたま訪れたカフェで口にしたオレンジジュースを美味しいと絶賛すれば、その1週間後にはオレンジ農園から直に送られてきたときは心底驚いたものだ。
「オレが煙草を吸わないから、匂いが気になるかもしれないって社用車も自家用車も買い替えたこと知っているんだからね」
「随分と昔の話だな」
「普通の会社員さんじゃないから金銭感覚が違うんだろうなって最初は思っていたけど、やっぱりおかしいよね」
「そうか?」
「そうだよ。お母さんとお父さんもそう思いますよね?」
例を挙げれば挙げるほど普通ではないと再認識してしまい、アルフレードは同意を求めるように向かい側に座る2人に訴えかける。
だが、フリッツとマリアンネは愉快そうに肩を揺らし、曖昧に返した。
息子の資産額を聞いたことはないが、聞かずともニュースや雑誌で目にすることは多い。
100年以上の歴史を持つ有名な経済雑誌は毎年企業や個人の総資産額をランク付けして発表しており、その中にハインリヒの名前が載っていることも知っている。
それだけの資産を有しているのだから、アルフレードの言う「散財」もハインリヒにとっては微々たる支出に過ぎないのだろう。
いや、そもそも。
アルフレードに関することには時間も金も「使っている」という認識がないのかもしれない。
ハインリヒにとってはアルフレード以上に価値があるものはないのだから。
「何にも執着やこだわりを見せなかったハインリヒが…本当に変われば変わるものなのね」
「全くだ。いや、しかし、アルちゃんもすごいな」
「え?オレですか?」
「あぁ。ハインリヒもその周りの環境も普通ではないことが普通だろう?その中に居て普通で居られるんだ」
「そうね。欲に溺れる人間も少なくないのに、アルちゃんは目の前に大金が積まれても揺らがないのでしょうね」
それがたとえ自分のものでなくとも、手を伸ばせば届く距離に莫大な金や絶大な権力があったとして。
それらを欲しいがまま手に入れ、自由に使うことが出来る環境下に置かれたとして。
健全でいられる人間は多くない。
欲望が満たされる快楽に溺れ、より過剰に満たされることを求めてエスカレートしていき、やがて正気を失う者も少なくはないだろう。
“普通”の基準は個人の価値観だけではなく、置かれている状況によっても変わるものなのだ。
アルフレードのそれが変化しても何らおかしいことではないのだが、彼はそんなことに揺らぎはしないという安定感と安心感がある。
なかなか真似できることではない、とフリッツは声を上げて笑った。
「オレはただ身の丈に合うものだけで十分で…それに、それは全部ハインが頑張ったから手に入れたものであってオレのものではないですから」
「そう思えることがアルちゃんだな」
「私たちのもう1人の息子は本当に良い子ね」
うんうん、と頷き合っている両親の反応に眉を下げて困った顔を見せるアルフレードにハインリヒは小さく噴き出した。
木に登ったが下りられなくなった仔猫のような表情で。
実年齢よりも幾ばくか幼く見えるアルフレードに「フルアたちと同じ反応をされたな」と笑みを含んだ声で言えば、抗議のつもりなのか爪先で軽く蹴られる。
それが拗ねた幼子のようで愛らしく、堪えきれずにフォークを持ったまま声を上げて笑う。
「もう!笑い事じゃないんだからね!」
「ははっ、悪い悪い。あまりにも可愛いものだから」
「ハインは自分の金銭感覚が可笑しいことをもっと自覚した方がいいよ。お金は無限じゃないんだからね」
「アル専用の資産運用をしているから安心してくれ」
「そういうことじゃなく、て…え?オレ専用?なにそれ…」
「個人資産の運用とは別口でアル名義の口座に入れている」
「オレ名義の口座…初耳なんですが…」
「言っていなかったか?大した贅沢はできないかもしれないが、生活するには十分な額になっているはずだ」
「えぇー…ハインの感覚で十分ってことはオレにとってはとんでもない額だよそれ…」
「具体的な数字が知りたければフルアに聞くといい」
どうして秘書のフルアが個人名義の口座まで把握しているのか、と問うべきか。
いや、彼らの関係ならば不思議に思うことはないか。
ハインリヒの資産を預かっている専門家たちを管理しているのがフルアなのだから、口座も彼が提案したのだろう。
「オレの身の丈には合わないから、それはそのままハインに預けておくね…」
「アルのその価値観や生活観は好ましいな」
「そう思ってくれるなら、もうちょっと限度を覚えてくれると嬉しいなぁ」
「アルに関することで制限をしたくない」
「そんな駄々っ子みたいなこと言って…」
「アルは多くのものを望まないだろう?だからこそ、つい与えたくなるんだ」
「え、オレのせいだったの!?」
どうしたらいいんだ、と言わんばかりに心底困った顔をするアルフレードにフリッツとマリアンネは「息子の気持ちが分かる」と顔を見合わせて笑った。
アルフレードの生い立ちや過去を知っているからこそ庇護したいのではなく、同情でもない。
ましてや憐憫ではなく、これはあまりにも純粋な欲求に思えた。
要するに、喜ばせたいのだ。
美味しいものを食べさせたい。
美しい景色を見せたい。
上等なもので着飾らせたい。
何ひとつ不自由なく、満たしてやりたい。
そういう感情を持て余している息子はただひたすらにアルフレードに愛情を注いでいるのだ。
それが時間や金という形になることがあるだけで。
可愛くて仕方がないと言わんばかりにアルフレードを見つめているハインリヒの双眸の柔らかさが微笑ましい。
アルフレードもハインリヒのその不器用な愛情表現には気付いているようで、限度はあると言いながらもそれそのものを拒もうとはしていない。
アルフレードはそういう点でもハインリヒを受け入れてくれているのだ。
彼の不器用な愛情も、その使い方も何もかも。
(愛されているな)
良かったな、とじっくり噛み締めながら、フリッツはハインリヒにビールを勧めた。
マリアンネも微笑みを乗せたまま、今朝採れたばかりの野菜を使った蒸し煮の鍋を彼が取りやすい場所に寄せた。
するとそれに気付いたハインリヒがすかさずそれを取り分け、アルフレードに与える。
そして、グラスに半分ほど残っていたビールを奪って一気に飲み干し、新しいグラスにカロットジュースを注いでやっている。
取り皿の隅に寄せられていた付け合わせのじゃがいももアルフレードにはこれ以上は多いだろうと感じたのか自分の皿に移しており、アルフレードもそれを慣れた様子で受け入れている。
これが、彼らの日常。
垣間見るその穏やかで優しい時間は、ハインリヒの胸に巣食っていた虚空を埋めたのだろう。
彼に必要だったのは、世間一般的なイメージにある“家庭”というものではなく。
豪勢な食事でも豪華な家でも、ましてや権力や地位などではなかった。
幼い頃から我武者羅に、闇雲に探し求めていたその何かと肩を並べ、どこか楽しそうにせっせと料理を選んで与えているハインリヒになるほどなとフリッツは妙に納得した。
これは、求愛給餌だ。
鳥類でよく見られる行為で、主につがいの維持や栄養の補給などの役割があると考えられている。
生き物としての本能。
限りなくそれに近いのだろう、とフリッツは思った。
「ハインリヒ、こっちもアルちゃんに食べさせてやれ」
「それならシュペッツレもあるわよ」
「あぁ。アル、少しならまだ食えそうか?」
「うん、すっごく美味しいからまだまだ食べられるよ」
「それなら…まずは、これくらいにしておくか。無理はするな」
「うん。ありがとう」
当たり前のように取り皿に盛り付けて渡してくるハインリヒに笑み、アルフレードは純粋に感心してしまう。
どうしてこの人は自分にとってちょうどいい量を見極められるのだろう、と。
先程も皿の上に残っていたじゃがいもをスッと自分の皿に移していたが、それを全て食べ切ったら他の料理が胃に入らないかもしれない、と一時的に避けておいたものだったのだ。
普段口にすることのない地ビールは想像していたよりもフルーティーな口当たりだったが少々苦味が強く、そう思った矢先にグラスは彼に奪われて代わりにカロットジュースを注いだグラスを返された。
オレ自身よりもオレの身体を把握しているかもしれない、と何度思ったか。
量だけなら日常的に共に食事をしていたらおおよそは把握できるだろうが、彼はその都度適格に判断するのだ。
たとえば、メーンの食材が野菜か肉かで食べられる量は変わる。
油を多用するかしないか、味付けの濃淡でもそうだ。
だが、何故か彼の中には精密なデータがあるかのようにちょうど良い量を判断し、「もう少し食べられるだろう?好きなものを追加しろ」と選択させる余白を残すことまでやってのける。
それが不思議なのだと思わず問えば、ハインリヒは少し考える素振りを見せた後、考えたことがなかったと返した。
その意外な答えに、アルフレードは丸い瞳を更に丸くする。
「え、大体の量とか今までの経験を目安にしていたとかじゃなくて?」
「あぁ。見ていれば分かるだろう?」
「わ、分からないと思う…普通は…」
「そうか?」
「あ、オレって顔に出やすいとか?だから見ていれば分かるのかな」
「どうだろうか…意識して見ていたことがないから分からないな」
これも好きそうな味だぞ、と取り皿に足されたのは2口程度の量のクノーデル。
促されるまま口に運べば、確かに自分好みの味がした。
後でお母さんにレシピを教えてもらおう、と頭の中にメモを残して、彼の手によってナイフで半分にカットされた様々な種類のヴルストをゆっくりと味わった。
そんな穏やかで、和やかで、優しい夕食の時間を過ごして。
心地の良い眠りから覚めれば朝で。
清々しい空気を味わうようにテラスで朝食の時間を過ごした後はデッサン帳を持って庭園に出掛け、陽が傾くまで語らいながら過ごした。
2度目の夜はドイツらしいディナーで、ライ麦パンと何種類も並ぶハムやチーズを楽しんだ。
そうして、また次の朝が訪れて。
何をするでもなく、ただのんびりと流れていく時間に身を任せて。
日当たりの良いテラスで日光浴を楽しみ、読書をして、他愛のない会話で笑い合って、昼寝も満喫して。
元々軽度だった捻挫はすっかりと完治し、散歩にも出かけた。
ニュースではまだあの事故の件が取り上げられていたが、心が乱されることはなかった。
フリッツとマリアンネに胸の内を打ち明けたことで思考が整理され、ハインリヒも不安や戸惑いを上手く消化できたのだろう。
無理矢理納得させたのでも飲み込んだのでもなく。
お互いに向き合うことができた、という実感がある。
マリアンネは「成長痛」と表現したが、その通りだったのだろう。
大切な人を喪うことは誰だって怖い。
その身を惜しむことなく差し出せると言われ、怯まないはずがない。
だが、それだけではないと言い切れる。
痛みを伴うほどの愛情を知ったのだ。
それは並大抵のものではなく、自信をより強固なものに支える。
矜持の軸となり、想い合うことの心強さが勇気の根源となり、虚勢ではなく晴々とした気持ちで立っていられる。
それで全てが乗り越えられるわけではないが、1歩としては十分だ。
成長の実感は強さに繋がるのだから。
まだ前へ、もっと前へ。
そして上へ、と。
進むために呼吸を整え、足並みを揃え、肩を並べてもう一度ここから歩き出す。
それを共通認識として持てたことはこの休暇の意義としては十分だろう。
ただ会話をしただけでは得られなかったものだ。
2人きりではない、という心強さがなければ。
愛されているという強い実感の中で深呼吸ができたからこそ。
虚勢を張って自分を鼓舞することを恥じたことはない。
それどころか、強さの土台となるものとして今までの己を支える矜持そのものだった。
けれど、それだけが勇気ではない。
それだけではない、と言い切れる。
誰かの想いが、誰かの愛が、肯定する。
(2人で乗り越えなければって思っていたけど…初めからそれが間違っていた。オレたちはようやく、2人きりではない意味を正しく理解できた)
分かっていたつもりになって、都合良く頼っていただけで。
差し出されていた手の温かさもその想いの強さも愛情の深さも侮っていた。
俺たちが恥じるべきは人の愛を見くびっていたことだな、とハインリヒは言った。
あぁ、その通りだな、とアルフレードも微笑を口端に乗せた。
(オレたちはこんなにもたくさんの人に愛されているんだね)
耳馴染んだエンジン音が聞こえ、アルフレードは腕時計に視線を落とした。
時計の針は約束の時間を指し示す数分前。
相変わらず機械のように正確だな、と笑みを深くしながら、アルフレードはゲストルームで荷物をまとめているハインリヒを呼ぶ。
「ハイン、フルアさんとグラースさんが来てくれたよー!」
「あぁ、いま行く」
来たときに持ってきたボストンバックを肩にかけて出てきたハインリヒにやんわりと腕を掴まれて引き寄せられる。
甘えてくれるのなら存分に甘やかしたい、と彼の好きにさせていたこの3日間ですっかり癖になってしまったようだ。
これはしばらく残るだろうなと内心で苦笑しながら、腰を抱かれたまま玄関に向かう。
ドアを開ければ、ちょうど門の前に車が停まる。
手を振れば、助手席のフルアと運転席のグラースが窓越しに微笑んだのが分かった。
彼らのその表情を見ることができるのは自分だけだと知っている今は、つい優越感に浸ってしまう。
ガレージの前に車を停めた彼らが足早にやって来るのを笑顔で迎えれば、彼らの瞳が無防備に和らぐ。
それは、ハインリヒの影に潜み、空気となり、一切の感情を見せない優秀な秘書と護衛の顔ではなく。
フルア・ビルクナーとグラース・マイヤーの顔。
彼らが出会ったきっかけは仕事で、あくまでその中で信頼を築いてきた。
公私で言えば、公のみの繋がりに過ぎなかった。
だが、彼らは立場や肩書きがあるから今ここに居るのではない。
個が個に向ける純粋な想いを、惜しみない優しさと愛情を、注がれているのだと改めて実感する。
彼らに向かって腕を広げれば、まるで生まれたての赤ん坊を抱きしめるような優しい力でそっと背中を包み込まれ、アルフレードはふにゃりと相好を崩した。
「フルアさん、お休みをありがとうございました」
「よく休めましたか?」
「はい!ご飯もいっぱい食べましたよ」
「それは良かった。アル君が笑顔で過ごせたようで何よりです」
たった3日。
だと言うのに数年振りの再会かのようにフルアの声には温もりが滲んでおり、ハグの順番を待っているのかこちらを見つめながらそわそわとしているグラースにも腕を伸ばす。
「グラースさんもありがとうございました」
「足はもう痛くありませんか?無理をしていないですね?」
「ふふ、大丈夫です。もうすっかり治って、お散歩にも行きました」
「戻ったら、ドクターにも診てもらいましょうね」
彼らも過保護を隠さなくなったな、と内心で苦笑しながら受け入れ、その筆頭であるハインリヒに視線を向ける。
「早く戻っておいで」と言うように手招かれ、素直に従えば綻ぶように彼の目元が和らぐ。
限りなく黒に近いそれは冷たい印象を抱かせることが多く、賢い獣のような鋭さがある。
しかし、それはあくまで“最高執行責任者”という肩書きを背負った男のものであって、これがハインリヒ・エアハルトなのだとしみじみと思う。
彼自身が気付いていなかっただけで、本当は感情豊かで。
情熱的で、持て余すほどの愛情を持った人。
誰にとっても等しく優しいわけではないが、だからこそその優しさは深く強い。
再び腰を抱かれ、アルフレードは口許が緩むのをどうしようもなかった。
自分の前でしか見せない表情、自分にしか与えられない感情、自分だけが味わうことのできる時間。
優越感と独占欲が充たされ、溢れ、身体の中に広がっていく。
「んふふ」
「ご機嫌だな」
「うん、フルアさんとグラースさんが来てくれて嬉しいね」
「俺と2人きりでは不満か?」
「ふふ、それとこれとは別でしょ?分かっているのに、そういうこと言って甘えるハインも可愛くて好きだよ」
「……」
「あ、ちょっと照れてる?可愛い」
鼻歌を歌い出しそうなアルフレードの軽やかな口調に苦笑し、ハインリヒは「降参」と小さく両手を挙げた。
この3日間、許されるまま甘えてきた結果として彼は随分と自分のあしらい方が上手くなってしまったようだ、と。
しかし、悪いとは思わない。
むしろ、今まで以上の心の繋がりを感じるのだ。
ただ想い合うだけではなく、もっと深く、もっと強く、もっと強かに。
結び目はより固く、もはや元から1本の糸であったかのように馴染んでいる。
この3日間、ここまで歩んできた時間を振り返った。
いろいろあったの“いろいろ”の部分を全て語り尽くすには時間が足りなかったが、それでも。
2人で乗り越えてきたことを、2人でなければ得られなかったことを、2人ではなかったから為し遂げられたことを語らった。
そうして、今までは前進が目的になっていたことに気付いた。
だが、そうではなかった。
そうではいけなかったのだ。
目的とは最終的に到達したい場所のことであり、つまりはゴールのこと。
ならばそのゴールは何だと問われるとまだ明確な答えは持たないが、ここではない場所であることは確かで。
それはもっと上にあって、もっと先にあって。
ここではない、とだけは言い切れる。
そう、ここはまだゴールではないのだ。
前進は結果ではなく、過程。
目的のための指標であって、目標。
そうして、目標とはひとつではない。
そこに至る道程にいくつも設けられるものであって、自分たちはまだその1つを達成したに過ぎない、と気付いたとき。
今まで感じたことのない「成長」を実感した。
ただ無闇に前に進むのではなく、今は確かな理由と意味がある。
その分、1歩は格段と重たくなったが、その重みを誇らしく思えることこそが成長と言えるだろう。
「たった3日でしたが、お2人とも雰囲気が変わりましたね」
「そうですか?」
「えぇ、とても良い変化です。ボスも随分とリフレッシュされたようですし、安心いたしました」
言葉通り、ほっと安堵した表情を見せるフルアとグラースにハインリヒは肩を竦めて返す。
無条件に与えられる愛情は擽ったいが、個に向けられたそれは心地良くもある。
そして同時に、心強い。
重たくなった1歩を支えるに十分なほどに。
「お前たちには無理をさせたな」
「いいえ、そのための我らです」
迷いのない明瞭な返事は彼らしいもので、しかし、過去の彼からは考えられないほど柔らかな温みがある。
バカンスやクリスマスで長期の休暇を取る際は何ヶ月も前から準備をし、留守を預かることになる彼らと入念なミーティングを行っている。
しかし、今回は緊急のことであり、彼らは各々の通常業務に加えてCOOの代行も請け負うことになった。
彼らに与えられている権限は大きくはないが、膨大な量のメールや報告書を選別するだけでも相当な負担だっただろう。
しかし、彼らは「自分たちはそのために居る」と言う。
そう言ってくれるのだな、とハインリヒは彼の肩をそっと叩いた。
と、リビングからフリッツが顔を出す。
「そんなところで何をしているんだ?」
「あ、お父さん」
「ティータイムの準備ができているよ。早くおいで」
「はぁーい」
幼子のように素直な返事をするアルフレードに小さく笑い、ハインリヒはフルアとグラースを促した。
彼らは部下以上の存在で、もはや家族とよりも長い時間を共有しているが、こうして実家に招くのは初めてだ。
彼らも初めてのことに戸惑いはあるようだが、アルフレードに手招かれるまま後をついて来る。
その気配を背中に感じながらリビングに入れば、甘い香りが鼻孔を擽った。
マリアンネとアルフレードは朝からキッチンにこもり、トルテやクッキー作りに勤しんでいた。
同じ空間にいた自分にもその甘い香りが染み付いているのだろう。
呼吸を忘れないように苦い紫煙と泥水のような濃いコーヒーを飲むばかりだったあの頃からは想像もできないが、この方がいいと強く思う。
「さぁ、座ってくれ。よく来てくれたね」
「あなたたちのことはアルちゃんからたくさんお話を聞いたのよ。お茶にしましょう」
「わ、私たちもお手伝いを…」
「あらあら、お客様なのだからゆっくりしていてちょうだい」
「君たちはここに座りなさい」
決して強い口調ではないと言うのに気圧されるのは、やはりどことなくハインリヒに似ているからだろう。
おずおずとソファに腰を下ろしたフルアとグラースの普段は見ることのできない表情に苦笑しながら、ハインリヒはキッチンに足を向けた。
大皿に山盛りにされているトルテとクッキーをアルフレードから受け取り、テーブルに運ぶ。
「ハインリヒ、紅茶も配ってくれ」
「こっちも運んでちょうだいね」
あれこれと指示を出され、素直に従っているハインリヒにフルアとグラースは目を瞬かせた。
親子なのだから何らおかしいやり取りではない。
ダイトの前でも彼は“子”で、まさに親子の光景を何度も目の当たりにしている。
だが、それは特別なことのように思っていた。
しかし、彼は確かに“子”なのだ。
親子という明確な関係性がそこにあり、最高執行責任者としてのハインリヒでもアルフレードや自分たちの前でのみ見せる“個”としてのハインリヒでもなく。
誰かの“子”であるハインリヒの姿に、フルアは目を瞠った。
むしろ何故、今までダイトだけが彼を子ども扱いできる特別な存在だと思い込んでいたのか。
ダイトの前でだけは“子”の顔を見せていたのではなく、彼も人の子だと言うのに。
ダイトがこの休暇を実家で過ごさせた理由が分かった気がする、と眼鏡のブリッジに一度触れてから、フルアは「ところで」と切り出した。
「それは、アル君の了承を得た上ですか?」
「当然だ」
「アル君、まさかこの休暇中ずっとその状態で…」
「…9割くらいは?」
「アル君にはボスのお世話係の特別手当をお出ししないといけませんね」
やれやれ、と言わんばかりのフルアの隣でグラースは肩を震わせた。
見慣れていると言うとアルフレードは顔を真っ赤にして照れるだろうが、ハインリヒがアルフレードを傍に置くことは常で。
しかし、膝の上に座らせることは滅多にない。
いや、厳密に言うならそれはアルフレードが恥ずかしがって頑なに拒むため、人前でその光景を見せることはない。
だが、いまアルフレードは手招かれるまま自らハインリヒの膝に腰を下ろした。
「すみません、こんな体勢で…」
「アル君が謝ることはありませんよ。ボスが我が儘を言ったのでしょう」
「ふふ、否定はできないですかね」
照れくささは否めないのか、ほんのりと耳を赤く染めているアルフレードがクッキーをハインリヒの口に運ぶ。
彼らが人前でここまで触れ合うことは珍しく、それもハインリヒにとっては実の両親の前で、よくアルフレードがそれを許したなと思うがすぐに気付く。
無防備に甘えるハインリヒをアルフレードは許したのだ。
絶対的な愛情で持って。
この青年の愛情深さは理解しているつもりだったが、その認識を改めなければいけないな、とフルアとグラースは顔を見合わせた。
「ボスは本当に良い方と出逢われましたね」
「そうだな。改めて実感した」
「なるほど、そう言った意味でも良い機会となりましたか」
「あぁ。ドクターには上等な酒を贈らなければならないな」
何がいいだろうか、とアルフレードと楽しそうに見つめ合っているハインリヒに、フルアは眩しいものを見るようにボトルグリーンの瞳を細めた。
グラースもまた、アンバーの双眸を和らげる。
何と言うべきだろうか。
その光景はあまりにも優しく、柔らかく、けれどそれだけではない。
触れれば壊れてしまうような切ないものではなく、淡いものでもない。
光に形はなく、正義に色はない。
それはつまり、闇に触れられないのと同じで、悪が目には見えないのと同じで。
漠然と、大多数によって何となく区別されるだけで、その存在証明はいつだって曖昧だ。
たとえば、誰かの正義の向かい側にあるのは悪ではなく誰かの別の正義であるように。
人の価値観、文化、宗教、思想、嗜好によってそれらはいとも簡単に在り方が変わる。
だが、彼らのそれは。
何人にも阻害することも変化させることもできない確固たるものとして、そこに在った。
あまりにも優しく、けれど同時に強かで、逞しく、苛烈で、過激なものとして。
「息子たちは随分と人に恵まれたようだ」
「そうね。心から信頼し合っているのが伝わってくるわ」
「アルちゃんから聞いていた通りだ。ハインリヒ、お前は良い部下を得たな」
「大事になさい。それはどんな名誉や地位よりも尊く得難いものよ」
素直に頷く息子と嬉しそうに微笑むもう1人の息子と、それを微笑ましくも誇らしげに見つめている2人。
アルフレードは彼らのことを「ハインの部下であって、それ以上の人たちでもある」と言っていた。
自分にとってもかけがえのない人たちだ、と。
全く同じ能力を持っている人が現れたとしても、たとえばクローンのように隅から隅まで同じ人が現れたとしても、代わりにはならない。
何度でも出逢いたいと思う人たちなのだ、と。
それは共依存であり、危うさも孕んでいる。
しかし、彼らは自覚した上で、理解した上で、覚悟をして互いをよすがとしている。
ポジティブな意味で使われることが少ない言葉だが、彼らの共依存は前向きなのだ。
誰かが壁を前に立ち竦めば、共に乗り越える術を考える。
誰かが躓いて倒れれば、共に足を止めて再び歩き出すまで寄り添う。
誰かの哀しみは共に心を痛めて涙し、誰かの喜びは共に笑い祝福する。
ただ一方的に相手に期待するのではなく、その矢印は互いに向けられて複雑に絡み合い、もはや1つのものになっている。
過剰で、過激な感情すらも、彼らは何てことのない顔をして飲み干してしまう。
望んで得られる関係ではない、としみじみと思いながら、フリッツとマリアンネはアルフレードにあれやこれやと世話を焼いている息子とその部下2人の輪に混じった。
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