ストレリチアが蕾む頃 10 - eterna

ストレリチアが蕾む頃 10

そより、と頬を撫でたのは夏の匂い。
微かに潮の香りが混じるそれは、幼い頃を過ごしたイタリアの港町ラヴェンナを思い起こさせる。
そこは、哀しみと寂しさを置き去りにした町。
喪ってしまった日常や奪われたいくつかの未来を直視することができず、遺されたアルバムを開くこともできなかった。
だが、今は違う。
彼らと共に過ごせた時間は決して多くはなかったけれど。
惜しみない愛情を与えられ、無条件の優しさに包まれ、幸せだった。
幸せだった、と胸を張って言える。
別れは胸が潰れそうになるほど哀しいものであったが、2人が遺してくれた多くのものは寂寥よりもずっと温かく優しくて。
何物にも代えがたい喜びに溢れ、愛情に充ち、淡い光を纏った思い出は今も心に寄り添っている。
写真の中で微笑む父の優しい眼差しを、母の柔らかい温もりを、ただただあたたかい気持ちで懐かしむことができるようになった。

あぁ、それはきっと。
隣に、彼が居るから。
いつだって、傍に居てくれるから。

(ハイン)

まだ眠気が強く重たい瞼を何とか押し上げれば、光が流れ込んでくる。
その眩しさに何度か瞬けば、ぼんやりとしていた景色が徐々に鮮明になっていく。
朧だった輪郭が明確な線となり、人の形を作る。
無意識に手を伸ばせば、ブラックサファイア色の瞳がひどく愛おしげに細められた。

「おはよう、アル」
「…おは、よ」
「あぁ、やはり少し声が枯れているな。フルーツティーを作ったが、飲めるか?」

こくんと頷けば、優しく和らげた瞳のまま髪を撫でられる。
少し待っていろと身体を起こしたハインリヒが離れるのが妙に寂しく感じて視線で追えば、それに気付いた彼が口端に笑みを掃いて元の場所に戻ってくるものだからアルフレードの口端も緩む。
頬を撫でる彼の掌に擦り寄れば、その手に両頬を包み込まれた。
そして、額に、鼻先に、眦に、瞼に、唇に口付けが落とされる。
その擽ったさにクスクスと笑みが零れれば、彼も小さく笑う。

あぁ、何て穏やかで優しい朝だろうか。
悪夢に怯えて膝を抱え過ごした夜の次に来るのはいつだって絶望の朝で。
どうして自分ばかりがこんな思いをしなければいけないのだと唇を噛み締めて過ごした夜の次に来るのはいつだって孤独な朝で。
動き出した世界から見捨てられ、新しい1日を始めた人々に取り残されて。
朝は、いつだってポツンと立ち竦むばかりだった。
けれど、今はこんなにも清々しい。
窓から差し込む朝陽の眩しさに、「今日も良い天気だ」と心が跳ねる。
いつだって孤独で、寂しくて、哀しいばかりの朝はもういつかの海に沈んだまま。
今は、清かな朝が頭上に輝く。
おはよう、と笑顔で交わせる人が居るから。
幸せだと思わず呟けば同じように返してくれる人が居るから。

一度触れた彼の手を離したくない、とアルフレードは自分の頬を撫でている彼のそれをしっかりと両手で掴んだ。

「可愛いことを…だが、困ったな。これでは飲み物を持って来てやれないんだが」
「んー、もうちょっとだけこのまま」
「ははっ、そんな可愛い顔をしていると今日は寝室に閉じ込めてしまうことになるぞ」
「んふふ、こんなに良いお天気なのにそれはもったいないね」
「だろう?まぁ、シュノーケリングは延期に決定だがな」

無理をさせてしまった、と言うハインリヒが眉を下げる。
確かにあれから何度も何度も交わり、熱を奪い合うように求め、吐き出したが。
独特な倦怠感はあるものの、身体に痛みはない。
隅々まで清められ、シーツも清潔なもので、ベッドの下に放られた夜着も新しいものに替えられている。
すっかり溶かされてしまった脳は正常に動かず最後の方はほとんど記憶にないが、ほとんど意識を飛ばしてしまっていた自分の世話をせっせと焼いてくれたことは質すまでもないだろう。
彼は尽くされる側であって、仕えられる側の人。
だが、こうして自ら望んで尽くす側に立つ。
傅かれることが当然の人でありながら、躊躇なく膝を付いて仕えてみせる。
この人の愛情は本当に体当たりだな、と内心で微苦笑を落とし、アルフレードは首を横に振った。

「ハインはいつもオレに優しいよ」
「アル…」
「お風呂も入れてくれたんだよね。ありがとう」
「沁みなかったか?」
「え?」
「あー、その、噛んでしまったようでな…」
「え!?全然覚えてない!」

痛みどころか肌に違和感もない。
一体どこを、と言えばハインリヒに抱き起こされる。
ベッドヘッドに積んだクッションに背中を預ければ、ハインリヒの手が夜着のボトムにかかった。
それを少し下にずらした彼の視線の先を追えば。
腿の付け根から太腿の内側にいくつもの鬱血痕が刻まれ、そこにはしっかりと歯型も残っていた。
シャツを捲り上げれば、臍の周りや脇腹にもキスマークが存在を主張している。
自分では見えないが、首筋や鎖骨の辺りにもそれはあるのだろう。

「一応軟膏を塗ったが、大丈夫か?」
「え、こんな程度でわざわざ?」
「万が一にも痕になったらどうする」

その痕を刻んだのは彼自身なのだが。
余裕を失くして我武者羅に求めてきた昨夜の彼を思い出し、アルフレードは小さく噴き出した。
痛くないか、と申し訳なさそうな顔をするハインリヒに首肯で返す。

「ふふ、大袈裟だなぁ」
「すまない、全く自制ができなかった。随分と強く噛んでしまった…」
「全然痛くないし、そんな顔をしなくていいよ。だって、これはオレが望んだことでしょう?」
「……」
「うんざりするくらい愛してって言ったのはオレだよ」
「それはそうだが…」
「いっそ痕が残ればいいのになぁ。これはハインの愛情の印なんだから」

いつか消えちゃうのがもったいない、と言えば、ハインリヒが困ったように息を吐く。
天井を仰いだかと思えば、額に手を当てて俯き、緩く首を振る。
そして、長い溜め息を吐き出す彼の様子を見ていると、がしっとその手で頭を掴まれ、髪をぐしゃぐしゃに乱された。
その勢いに負けて、起こしている上半身ごと左右に揺れる。
ひとしきり撫で回され解放された頃には、アルフレードの少し癖のある毛先はあちらへこちらへと跳ねていた。

「…はぁ、俺の天使が可愛い過ぎる…」
「そういえば、ハインはいつから起きていたの?」
「ん?」
「オレが起きたときにはもう起きていたし、フルーツティーも作ってくれたんでしょ?」
「あぁ、2…3時間くらい前か?」
「え、それほとんど寝ていないんじゃ…」

窓から吹き込む風は爽やかなもので、太陽の位置もまだ低い。
そろそろ8時になる頃だろうか、と思いながらアルフレードは丸い瞳を更に丸くした。

何度も交わった後に意識を飛ばしてしまった自分を風呂に入れ、ベッドを整えた頃にはすでに深夜2時を回っていただろう。
いつだったか、「お前の金糸の髪を守るのは俺の使命みたいなものだ」と言っていた彼のことだから、自分の髪は濡れたまま放置しておきながら自分のそれは丁寧に時間をかけてタオルドライをしたに違いない。
夜着を着せる前に噛んでしまった痕を確かめながら軟膏を塗り、彼自身がベッドに入ったのは深夜3時を過ぎていただろう。
そして、3時間前に目が覚めていたということは、2時間ほどしか寝ていないことになる。
元から睡眠時間は短いようだが、寝直す時間は十分にあるのだから身体を休めた方がいいのではないだろうかと問う。
だが、ハインリヒは随分と晴々とした顔で「問題ない」と微笑を口端に乗せた。

「でも、フルーツティーも作ってくれたんでしょ?」
「果物を切って紅茶に入れただけの簡単なやつだ。大したものじゃない」
「果物の薄皮や筋や小さなタネも取って作るやつは、十分大したものだよ」
「アルの喜ぶ顔を見られるなら、それは手間ではないからな」

事実、睡眠時間は普段よりも短かったが疲れはない。
頭もすっきりとしており、心は凪いでいる。
それはきっと、腕の中で眠るアルフレードを見つめていた時間の穏やかさに癒されたからに他ならない。
休暇を得るために多少の無理も無茶もしたが、その間に蓄積された疲労もすっかり消えている。

「ボスにはアル君セラピーが一番効く」と部下のフルアとグラースは口を揃えて言うが、全くその通りだとしみじみと思う。
巨大な組織を率いるという特殊な立場柄、定期的にカウンセラーと面会することが義務付けられている。
だが、それはあくまで職務の1つであって、それが拠り所になったことは一度もない。
専門的な知識を持ったカウンセラーとの面会が全く無駄というわけではないが、彼らの言葉で問題が解決したことがあるかと言われると肯定はできないのだ。
彼らは“その他大勢”にとっての平均的な正解は持っているかもしれないが、それは自分にとっての正解ではないのだから。
ひとつの基準、目安、尺度として彼らの言葉が指針の起点になることはあっても、直接的な指標にはならない。
同じものを見ているわけではない彼らにそれを求めることがそもそも間違っているのだが、その事実に直面する度に思い知るのだ。
己の立場の孤独さを。
吐き出した言葉の責任は己が背負うしかなく、何が正しく何を選ぶべきなのかも独りで考えなければならない、と。
目が眩むほど高い場所に置かれた玉座に縛り付けられたその孤独を、何度思い知ってきたか。

だが、アルフレードは違う。
確かに自分と彼は立場も肩書きも何もかも違い、同じ場所から同じものを見ることはできない。
彼が答えを持つはずもなく、委ねることもできない。
しかし、アルフレードはいつだって寄り添ってくれるのだ。
玉座は1人でしか座れないが、彼はその傍に居てくれる。
目が眩むような高さであっても、気が遠くなるような迷路の中であっても、足が竦みそうになるほど真っ暗な道であっても。
時には背中を支え、時には腕を引き、時には何歩か前で手招いてくれる。
その心強さに一体どれほど救われてきたか。

「本当に疲れていない?大丈夫?」
「あぁ。アルの寝顔を見ていたら時間などあっという間に過ぎていた」
「えー、ずっと見ていたの?恥ずかしいなぁ、もう…」
「可愛かったぞ。指を食われたときはどうしようかと思ったが」
「え!?なにそれ!?どういう状況!?」
「あまりにも寝顔が可愛くてな、つい頬を突いていたら食われた。見るか?まだ少しふやけている」
「え…うわ、本当だ…しわしわ…オレ何をやってるの…恥ずかしい…」

頬だけではなく首筋まで赤く染めるアルフレードに笑い、あぁ、この時間こそが何よりも心を癒すのだとハインリヒは瞳を細めた。
愛されるために産まれてきたこの命、全身全霊で愛さなくては。
そんな使命感にも似た感情が込み上げてくる。
多くの人の願いと祈りによって繋がれてきたこの命を、彼自身が胸を張って余すことなく使い切れるように。
ぐしゃぐしゃに乱してしまった彼の金糸の髪を梳いて整えながら、まだ赤く染まっている耳朶に唇を落とす。

「さて、朝食はどうする?まだ動くのが辛いようだったら、何か買ってくるが」
「んー、ちょっと食べられないかも」
「腹の調子が悪いか?」
「ううん、そういうのじゃない。何かね、お腹いっぱいで」

昨日食べ過ぎたせいで消化が悪かったのかな、と首を傾げながらアルフレードが自身の腹を擦る。
正確には、臍の下を。
それに気付いたハインリヒは反射的に歯を食いしばってしまい、喉が低く鳴った。
アルフレードが不思議そうに見上げてくるが、何と返すべきなのか。
そこに胃はないだろう、と言ったところで彼はますます首を傾げるだろう。
「どうしてこんなに満腹感が強いんだろう」、と。
昨夜そこを押し広げられ満たされていたせいだ、と気付きもしないで。

「…それなら、無理をして食う必要はないな。腹が空いたら言えよ」
「ハインは大丈夫?」
「今のアルの可愛さで俺も満腹だ」
「?」

何も分かっていない様子のあどけない表情にまた笑い、前髪を指で払う。
露わになった形の良い額に口付けてからベッドを下り、アルフレードを横向きに抱き上げた。
軽々と持ち上げられたことに抗議の声が上がるが聞こえない振りをして、そのまま寝室を出る。
この邸にはパスクァーレが雇っている使用人が数名常在しているが、彼らはかつて騎士たちが詰所として使用していた別館で寝起きをしている。
庭の管理や警備のためにこの本館にやって来ることもあるが、基本的にこちらが呼ばない限り邸内で顔を合わせることはない。
恐らくそうするようにとパスクァーレから指示があったのだろう。
アルフレードが気兼ねなくリラックスできるように、自分たちが自分たちのペースで過ごせるように。
その気遣いに内心で頭を下げ、ならば夜着のままでも構うことはないかとハインリヒはサロンに向けていた足を中庭の方へと変えた。

さすがは騎士が防衛拠点として使用していただけあり、邸の構造は実に複雑だ。
敷地は分厚い城壁に囲まれ、別館と本館の間は堀で隔てられている。
その堀を渡るための跳ね上げ式の橋も乗用車が1台ギリギリ通ることのできるもので、アーチ状の門をくぐった先にもそれを守る騎士たちの駐屯所や出入りを監視するための塔がいくつも建ち並んでいた。
邸に繋がる大階段の左右にも上部が鋸の歯のような形をした壁が聳え立ち、かつてはその場所から警備の目を光らせていたのだろう。
敷地内にある道はすべて細く曲がりくねっており、それは邸内でも同じだった。
ホールから左右に広がる階段はそれぞれ別のフロアに繋がっており、複雑に通路が入り組む造りになっている。
それは侵入者を欺き、惑わせるためなのだろう。
2階の奥に置かれている主寝室からいくつか角を曲がり、迷路のような通路を歩きながらハインリヒは小さく感嘆を零した。

こうして歩いて見ると、敷地内にも城壁が立てこみいくつかの空間に仕切られていることがよく分かる。
今はうっかり迷い込まないように整備されているが、かつては隠し通路への出入り口として利用されていたと思われるドアも多い。
実際、主寝室には複数の出入り口が用意されており、そのうちの1つは地下通路に繋がっていた。
それはつまり、外からの敵に対してではなく内部の裏切りや急襲を前提に備えられたもので。
騎士たちが生きた時代の苛酷さを垣間見ながら、長い回廊をゆっくりと進む。

そうしてようやく中庭に辿り着き、ハインリヒとアルフレードは同時に詠嘆した。
フランスのヴェルサイユ宮殿やドイツのニンフェンブルク城の庭園に見られるような煌びやかさや華やかさはない。
侵入者が隠れられないように大きな木も少なく、背の高い植物や色とりどりな花が咲き誇る花壇もない。
ハニーストーンで造られた、ひどく質素で無骨な庭だ。
だがそこはかつて、騎士たちが鍛練に励んだ神聖な場所。

「彫像も噴水もないんだな」
「そうだね。でも、何だか安心するね」
「あぁ。静かだが、物哀しさがない」
「うん。目を閉じていたら、剣戟の音が聞こえてきそう」

そう言って目を閉じて耳を澄ますアルフレードに小さく笑い、ハインリヒはぽつんと置かれているベンチに向かった。
あらゆるものが当時のまま存在しているこの邸の中では比較的新しいそれは、何代か前の当主が置いたものだろう。
ハインリヒはそこにアルフレードをそっと下ろしてから自身も隣に腰を下ろした。

「アル」
「うん?なぁに?」
「これを」
「え?本?どうしたの、これ」
「ここの管理人に相談したら書庫にあると言うから借りてきた」

いつの間に、と呟きながらアルフレードは手渡された本に改めて視線を落とした。
タイトルは、『クリティアス』。
著者は古代ギリシアの哲学者プラトンである。

「どうしたの、突然」
「アトランティス大陸の話しをしてくれただろう?」
「う、うん」
「今まで興味はなかったが、知りたいと思った」
「ふふ、それでわざわざ?」

巨大な組織を率いる人はみなこうも行動力があるものなのだろうか、とくすくすと笑う。
判断力、決断力、行動力。
そのどれもに驚かされてばかりだが、存外に好奇心が強いらしい彼の期待に充ちた瞳にふにゃりと頬を緩める。
そして、手渡された古い本を開く。

『クリティアス』は、『ティマイオス』と『ヘルモクラテス』の三部作で構想されていた対話集の2番に置かれている未完の書だ。
プラトンが自然を論じた唯一の書であり、未完で終わっているが神話的な説話を多く含んだもので後世に大きな影響を与えた。
だが、ギリシア語で書かれたこれをラテン語に翻訳したキケロは「あの奇怪な対話篇はまったく理解できなかった」と述べているほど複雑で難解な内容になっている。
まずピュタゴラス学派などのイタリア半島系の哲学思想を理解した上でなければ、プラトンが語る言葉の半分も理解できないだろう。
それに加えて彼の医学的知見やイデア論まで把握しなければならないとくれば、多くの人が頭を抱えるに違いない。
しかし、今ハインリヒが聞きたいのは、アトランティス伝説の物語。
1作目の『ティマイオス』ではなく未完の『クリティアス』を選んだのもそのためだろう。
何故なら、この書はプラトンの曽祖父であるクリティアスがアトランティスについて語るもので。
副題も「アトランティスの物語」なのだから。

「オカルト的なものだと思っていたが、古代の哲学者が言い出したことだったんだな」
「最初はね。でも、16世紀頃の西洋世界では宗教に利用されたんだよ」
「宗教に?」
「そう。アメリカ大陸が発見されたことで、キリスト教の世界観が揺らいでしまったから」
「…創世記に矛盾が生まれたから、か?」
「うん。大陸が生まれた経緯や先住民の起源をね、キリスト教にとって都合よく説明するために利用されたんだよ」

そうして時が近代へと移り変わる中で産業の発展と共に科学的思想が育ち、キリスト教社会の人々の価値観も揺らぐことになる。
ダーウィンによる進化論がその最たるもので、人間は動物から進化したものだという彼の思想は、人間は神に似せて造られた特別な存在と信じて生きてきた彼らの歴史観や死生観をも根底から覆した。
人間とは一体何者か…。
人々が新たな可能性を模索せざるを得なくなったのだ。
そんなとき、ある神智学者がアトランティス大陸の生き残りは人類の指導者として各地に文明をもたらし、アーリア人へと進化したと説いた。
「文明の祖」である優れた人種のアーリア人という魅力的なこのイメージは当時の研究者や思想家によって支持され、西欧・欧米諸国のルーツに結び付けられていく。
こうしてアトランティス大陸の名前は当時の人々の思想に根付き、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは『ニュー・アトランティス』のタイトルで小説を書いている。
また、1870年にフランスの人気作家ジュール・ヴェルヌが著したSF小説『海底二万理』で海中に没したアトランティス大陸の姿を描いたことで、欧米の大衆文化に“幻の大陸アトランティス”という概念とブームをもたらした。

「当時は真剣に信じられていたのか?」
「もちろん全員ではなかったと思うけどね。でも、信じたいと思っていた人は多かったと思うよ」
「信じたい、か…」
「自分のルーツを見失ってしまったとき、人はどんな夢物語でも縋るのかもしれないね」
「なるほどな」
「それに、現代の科学でも否定できないんだもん。本当にあるのかもしれないよ」

存在を肯定する根拠も証拠もない。
同時に、存在を否定する決定打もない。
そう、人類がいまだ到達することのできない海の深みに。
そこに、豊かな資源によって栄えた帝国が眠っているのかもしれない。

「それにしても、高度な技術を持ちながらいとも簡単に滅びたのは不可解だな」
「んー、アトランティスが滅んだのは神々の罰だったとも言われているからね」
「天変地異ではなく?神に戦争でも吹っ掛けたのか」
「地震や津波が原因っていう説の方が現実的だけどね」

現在のオーストラリア大陸よりも広大だった島がたった一夜で滅びるほどの大地震があったとするなら。
あるいは、大地震や地殻変動によって大津波が襲ったとするなら。
もしくは、その両方の可能性も十分に考えられる。
また、アトランティス大陸が海に沈んだとされているのが1万2000年前のことで、この年代は大型の哺乳類が大量に絶滅していたり、近年の発掘調査で大規模な地殻変動があったことが分かっている。
つまり、小惑星や隕石の衝突によって地球に大きな力が加わったことで大陸の消滅に繋がったとも考えられているのだ。
現実的に見るならば、自然による要因が有力だろう。

しかし、「神の怒りによって海に沈められた」とする説が全くのでたらめだと言える根拠がないのも事実。
何故なら、アトランティスはポセイドンの末裔を王に戴いた帝国だったとされているからだ。

「これには2つの説があって、1つ目は原住民の人間と交配を繰り返したことで神の血が薄れて没落してしまったからゼウスの怒りに触れてしまった説」
「…2つ目は?」
「物資も軍事力にも恵まれたアトランティスの人々が他国をも支配しようとしたからゼウスの怒りを買ってポセイドンが地震と津波を起こした説」
「……」
「ふふ、納得できていない顔している」
「そもそも地上の出来事だろう?それを何故、神にとやかく言われなければならない」
「神話の時代は神も人も地上も天も曖昧だったからね」

アトランティスの人々はテレパシーのような超能力が使えた、ともプラトンは書いている。
それこそオカルトめいているが、神の血を受けた人々だったとするならありえなくはないのかもしれない。
とは言え、あまりにも非現実的でハインリヒは肩を竦めた。

「もういっそ幻のままであって欲しいな」
「そう?」
「あぁ、その方が“ワクワク”するだろう?」

大西洋のどこかにその大陸は眠っているかもしれない。
海に浮かぶ小さな島がもしかしたらその大陸の名残かもしれない。
マルタ島は繁栄を欲しいがままにした帝国の上に築かれたかもしれない。
自然災害だろうが天変地異だろうが神の怒りだろうが、今立っているこの場所があの“幻のアトランティス大陸”かもしれない。
非現実的な逸話の数々を一蹴するのではなく、いっそ楽しめたなら。
その方が世界の広さを味わえる、と微苦笑を口端に乗せたハインリヒにアルフレードは一瞬瞠目した後、蕩けるように微笑んだ。

あぁ、その方がきっと楽しい。
ワクワクする、と幼子のように弾む心を感じながら。

「そうだね。その方がいいね。それに、この本の内容をもっと楽しめると思うよ」
「ほぅ、それはますます聞きたくなるな」
「オレ、古いラテン語はちょっと苦手だから読むのに時間かかっちゃうかも」
「時間なら十分にあるさ」
「そうだった。ふふ、じゃぁ、一緒に読もう」

肩も腿もぴたりと触れ合わせ、手を繋いで。
アルフレードが左手で表紙を開き、ハインリヒが右手でページを捲る。
古い物語を科学は笑うかもしれないけれど。
人が人のために残し繋いできた物語は優しい。
真実だとか真相だとかそこには意味がなく、残そうという意思と願いによって受け継がれてきたことに価値がある。
それをゆっくりと咀嚼しながら、2人は微睡みが肩を叩くまでその物語に心を寄せた。

そんな2人の姿を目の当たりにしたパスクァーレは目頭を押さえた。
何と穏やかで何と優しく愛情に包まれた光景だろうか、と込み上げてきた嗚咽を飲み込む。

「…年寄りは涙腺が緩んでいかんな」
「えぇ、そうですね」

涙ぐむ主の隣で、執事のエリゼオもまた瞳を細めた。
かつて要塞だったこの場所にはまありにも似つかわしくない、慈愛に満ちた光景。
騎士たちが命を擦り減らすばかりだったこの場所に、何と生命力に溢れた光景が広がっているのか。

「これは起こせんな」
「起こせませんね。近付くことさえ憚られます」
「あぁ、全くだ」

互いに顔を見合わせ、小さく笑う。
天気は突き抜けるような快晴。
時間が進む毎に気温は上がっているが、ハニーストーンで囲まれた中庭には涼やかな風が抜けていく。
ちょうどベンチの上にはバルコニーがせり出ており、淡い影を作っている。
このまましばらく寝かせていても心配はないだろう、とパスクァーレは一度その光景を目に焼き付けてから踵を返した。

「お腹を空かせて起きるだろうから、ブランチの仕込みでもするとしよう」

今朝採れたばかりの新鮮な魚介類を使ったメニューをいくつか思い浮かべながら、パスクァーレは老いた眦を濡らした涙を拭い、目を覚ましたアルフレードとハインリヒが驚く顔を想像してそっとほくそ笑んだ。


Prossimo.

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