誰かの何かであるためのオブリージュ 11
11世紀、カトリックを信仰するヨーロッパの貴族たちは巡礼者の宿泊と医療奉仕のために整地エルサレムに修道会を作った。聖ヨハネ騎士団と呼ばれた彼らは信仰や人種を問わずに医療奉仕を続け、十字軍に派遣された際も多くの兵士の治療にあたったという。
その後、地中海のマルタ島に拠点を移したことで“マルタ騎士団”と呼ばれるようになる。
しかし、ナポレオン軍の侵攻によってこのマルタ島に置いた本拠と地中海に有していたいくつかの領土を失ってしまう。
だが、彼らはそこで終わらなかった。
領土を失ったとしても、騎士としての誇りは誰にも奪えなかったのだ。
何よりも、傷付いた人が居れば信仰や人種を問わずに助ける、という彼らの本質は武力によって手折れるものではなかった。
やがて彼らの高潔な意志と実績が評価され、1822年に国家主権を維持していることが承認された。
そうして、1834年にはローマに拠点を置くことが許された。
その拠点であるハニーストーンで造られた建物と騎士団総長の公邸、かつての拠点地であったマルタ島にある聖アンジェロ砦などでは治外法権が認められ、こうして世界で唯一国土を持たない“国”は誕生した。
今も彼らは紛争地帯や難民キャンプ、災害の現場などで「信仰や人種を問わない医療奉仕」を続けている。
創立当時からの誓いを、およそ1000年間守り続けているのだ。
そんな彼らをまとめるのは騎士団長で国家元首にあたる総長で、その下には4名の総監と6名の騎士代表からなる内閣を組織している。
マルタ騎士団は世界中に団員である国民を持っており、内閣を構成する彼らの居住地も本部があるローマに限らず、それぞれの居住地を中心に活動に当たっているのも特徴的だろう。
「お会いしたことはないけど、ミュンヘンにも騎士さんが何人か住んでいるんだよ」
「そうなのか?知らなかったな」
「ミュンヘンにはドイツ騎士団が運営している病院もあるし、イタリアより身近な存在かもしれないね」
「ドイツ騎士団も現役なのか」
「そうだよ。今は医療活動をメインに慈善団体として活動しているよ」
宗教は戦争の道具にされてしまっただけで、彼らは望んで剣を取ったわけではない。
政治の思惑に巻き込まれてしまっただけで、彼らは誰かを傷付けたかったわけではない。
だからこそ、戦争が終わったとき彼らは本来の姿に戻ることができた。
そうして今も、人々の生活に寄り添って生きている。
信仰や人種に惑わされず、時には政治に翻弄されつつも決して挫けずに。
「パスクァーレさんの称号は“ナイト・オブ・ジャスティス”。ぴったりだと思わない?」
「“正義の騎士”、か…確かにな」
「あ、フルアさんにぴったりな称号もあるよ」
「ほぅ?それは?」
「“ナイト・イン・オヴィディエンス”」
意味は、“忠誠の騎士”。
「ね?ぴったりでしょ?」
「こいつは上司だろうが平然とした顔で殴る男だぞ?」
「もし道を間違えそうになったときに止めてくれる人が居るのは心強いね」
「……」
「ただ従うだけなら誰にだってできる。でも、フルアさんもグラースさんもそうじゃない」
自らの意思と覚悟と矜持によってその場所に立っている。
それは盲目的に付き従うことよりも遥かに難しく、命じられて出来ることでもない。
得難い存在だね、と微笑むアルフレードにハインリヒは微苦笑を口端に乗せた
彼の言葉は自分たちには甘く柔らかく優し過ぎる。
だが、その温みが心地良くもある。
“自分”と“他者”というカテゴリしか持たなかったあの頃とはもう違うのだ。
「上司と部下」の一言で括ってしまうにはあまりにも深く強い繋がりを知った今、アルフレードの言う「得難い存在」を素直に肯定できる。
「フルアさんとグラースさんが居るからハインは安心して前だけを見て歩いて行ける。でしょ?」
「…その通りだな」
「パスクァーレさんたちに自慢しないとね」
「そうだな」
「あ、そういえば今日は外交官の方も参加されるって」
「…俺たちはただの会社員だが?」
「ふふ、外交するわけじゃないよ。その方がね、フェンシングの選手だったんだって」
「フェンシングの…あぁ、フルアと関係が?」
「うん、フルアさんに会ってみたいって」
フルアの気配が動揺で乱れたのを感じ、ハインリヒはそちらに視線を向けた。
対峙する者に恐怖すら与えることのある感情のない静かなボトルグリーン色の双眸に動揺と混乱の色がはっきりと浮かんでいるのを見つけ、思わず苦笑が零れる。
「お前でもそんな顔をするんだな」
「失礼ですね、私でもとは何ですか」
「ご指名だそうだぞ」
「…アル君、確かに私は選手でしたが語れるほどのものではないのですが…」
「そんなことないですよ。だって、フルアさんはオレよりもずっと騎士道を理解されているじゃないですか」
「とんでもない。知った気になっているだけで、理解とは言えません」
話せば話しただけボロが出るだけです、と必死に抵抗をしているフルアは何とか逃げ道を作ろうとしているようだが、アルフレードはそれに気付かずににこりと微笑んで首を横に振った。
そして、壁に掛けられているマルタ騎士団の象徴であるマルタ十字を指差す。
4つのV字形をした花弁が集まった満開の花のようなその意匠は1095年の第1回十字軍の頃に使用されていたシンボルがモチーフになっているという。
「あの4枚の花弁の先がそれぞれ2つに分かれているの見えますか?」
「え、えぇ…」
「あれは騎士道の美徳を象徴しているんです。忠誠心、敬虔、率直、勇敢、名誉、庇護、敬意…」
「……」
「最後の1つもフルアさんはご存知ですよね」
「…“死を恐れないこと”、ですか」
正解ですと微笑むアルフレードと動揺を隠せないまま逃げ道を模索しているフルアの対比が妙に可笑しく、ハインリヒは自身の緊張が僅かに緩んだのを感じた。
フルアに知られれば他人事だと思ってと咎められるだろうからそっと潜めて息を吐き出す。
ようやくソファに背を預けることができ、室内を見渡す程度のほんの一握りの余裕が生まれる。
16世紀にローマでの拠点として購入されたこの建物は現在マルタ宮殿と呼ばれている。
改修と増築を何度か重ね、およそ130年前の大規模な改装時には中庭に大噴水が造られた。
だが、建物の外観や特徴的なレリーフ、一部の部屋は当時のままだと言う。
パスクァーレの友人であり騎士団総監の1人であるダヴィデに通されたこの部屋もまたその1つなのだろう。
重厚なドアに付けられたプレートには迎賓室と記されていたが、その名に相応しい内装だ。
彼らは来客をもてなす応接室としてこの部屋を日常的に使っているようだが、そもそもこの部屋に通される客というのはただの訪問者を意味しない。
まるでどこかの国主の使者になった気分だな、とハインリヒは天井から吊るされている豪奢なシャンデリアを何ともなしに見上げてから同じ空間に居る彼らをそれぞれ見やった。
ドアの近くには上官からの命令を待つ軍人のような佇まいで巧妙に気配を消してグラースが立っている。
向かい側のソファに浅く腰かけたフルアは普段の冷静さを根こそぎ失った顔でアルフレードを見ている。
そして、隣に腰かけているアルフレードは出された紅茶をゆっくりと味わっている。
その横顔は随分とリラックスしたもので妙な感心をしてしまう。
「美味いか?」
「うん、とっても美味しいよ。ハインの口には合わなかった?」
「味が全く分からん」
「え?」
「この空間でそれを味わえているのはアルだけだぞ」
「ふふ。普段もっとすごい場所ですごいお仕事をしているのに?」
「何度も言うがな、格が違うんだ。フルアを見てみろ」
「?」
「こんな顔は初めて見るぞ」
名指しで会いたいと言われたからには逃げ道はないのだ。
一体何を問われるのか、何を訊かれるのか。
彼は今、思考をフル回転させてあらゆる問いに対応できるように何パターンもの回答を考えているのだろう。
ただ安直に答えればいいわけではないのだ。
見定められていると分かっている以上、それ相応の、彼らが評価するに値するだけの答えが必要で。
しかし、上辺だけ取り繕ったところで簡単に見抜かれるだろう。
ましてや嘘が通用する相手ではないのだから、真っ向から立ち向かうしかない。
それはパスクァーレと初めて対峙した時に味わった緊張感と恐怖で、フルアの内心が手に取るように分かる、とハインリヒは同情を滲ませた瞳で彼を見た。
「アル、俺の部下が泣きそうになったら助けてやってくれ」
「ふふ。フルアさんは大丈夫だよ。騎士道がしっかりと根付いている人だもん」
「おいおい、あまりプレッシャーをかけてやるなよ」
「うん?あれ、気付いていない?」
「何をだ?」
「フルアさん、ハインと同じ顔をしているよ。緊張しているけど、ちょっとワクワクしている顔」
「……」
「…わ、私はそんな顔を…?」
にこりと笑んで大きく頷くアルフレードは「フルアさんは騎士だから」と続けた。
ただ盲目的に忠誠を誓うだけではなく、自ら掴み取った己の地位に誇りと敬意を持っている。
だからこそ主君が間違いを犯しそうな時は身を呈して質し、必要であれば厳しく咎める。
ならぬことはならぬ、と揺るがない。
率直で、勇敢で。
騎士の美徳にある「死を恐れない」とは、無意味に命を使うことを意味しているのではない。
無駄な死であっても潔く受け入れることでもない。
人の生死を軽視しているのでもない。
命じられたから剣を取るのではなく、守りたいもののために戦うという純粋な気持ちとその道を選んだ己の矜持のために自ら望んで前線へ駆けて行く。
その大いなる勇気を、短い言葉で表現しているに過ぎないのだ。
「絶対に譲れないもの、守りたいもの…そういうもののために戦える。フルアさんはそういう人です」
「…その評価は私にはあまりにも過ぎているかと…」
「そんなことないですよ。だって、そうしてその対価に求めるのはお金や肩書きじゃない」
「……」
「大切なもののために努力ができる人は本当に強い人です」
秘書としての矜持。
友人としての決意。
簡単な言葉では言い表すことのできない関係にある人々のための、勇気。
それは語らずともあなたの在り方を見るだけで伝わる、と明朗に言い切ったアルフレードに返すべき言葉が見つけられずにフルアは青年の隣に座るハインリヒに視線を送る。
しかし、ハインリヒも困ったように、しかしどこか嬉しそうに微苦笑を口端に乗せるだけで。
意識して気配を消しているグラースを見れば、彼もまたハインリヒによく似た微苦笑を浮かべていた。
あぁ、この想いをどう言葉にすればいいのか。
自分自身でさえ形を与えられずに曖昧なまま宙に浮いていたものにこうも簡単に質量を与えてしまうアルフレードの言葉に及ばずとも、せめてこの感情だけでも言い表すことができたなら、と思う。
面映ゆいような、誇らしいような。
背筋が伸びる、と言うべきか。
無性に剣に触れたいと思うのは、今なら少しは騎士たちが残したその想いを理解できるような気がしたから。
剣を振る意味を、戦う理由を。
今なら胸を張って答えられそうだ、と思う。
(剣を捨てられないままでいて、良かった)
純粋に、そう思う。
最後だ、と決めたはずだった試合の後、剣も防具もどうしても捨てられずにクローゼットの奥にしまい込んだ。
忘れた振りをして、見ない振りをして。
アルフレードに背中を押されなければ、きっと今もそうしていただろう。
だが、彼は臆病になっていた自分の肩を叱咤するように叩き、「いいんですよ」と笑った。
今楽しいと思えるのならそれだけでいい、と。
(その一言がなければ、私はあの場所に立ち止まったままだった)
当たり前、という他者からの期待に疲れ、嫌になり、諦めて。
どれほど努力をしても認められないどころか、そもそも努力などなかったことにされて。
その無力感と虚無感に押し潰され、ただ逃げていた。
逃げているという事実そのものから。
だが、たった一言報われただけで、あんなにも怯えていた心は息を吹き返したのように晴々とした。
そうして踏み出した1歩は小さなものだったが、しかし、確かな1歩として今寄り添っている。
「本当にアル君は…」
「はい?」
「こんなに良い子を放っておくはずがないですね」
「?」
彼は自分を取り巻く人々から与えられる好意を疑うことも衒うこともなく、そのままの形で受け入れる。
偉大な家名を背負う人からのものであっても、近所の子どもからのものであっても変わりはなく、そこに優劣がない。
アルフレードにはいつだって、誰であっても、個を見つめ寄り添う。
それは肩書きばかりが先立ち、総意のために個を殺し続けてきた者たちにとってあまりにも眩しく、尊いものだろう。
ハインリヒ然り、パスクァーレ然り。
何故アルフレードの周りには目を瞠るような地位や権力を持った者たちが集まるのか。
その理由は様々あれど、根底にあるものは同じだろうと思う。
「アル君がいつも通りなおかげで、少しは緊張が解れてきました」
「そんなに緊張していたんですか?」
「もちろんですよ。まさかマルタ騎士団の総監にお会いする日が来るとは…」
「ここの騎士さんたちは普段は普通のお仕事をされている方がほとんどですよ。ダヴィデさんも学校の先生だった方です」
確かに彼らはかつては貴族として国を創り、支え、歴史の見届けてきた。
だが、ハインリヒたちの肩書もそれに遜色することはないのだ。
日常的にトップクラスの人々と関わっているのにと可笑しそうに笑えば、ハインリヒが肩を竦めながら溜め息を吐く。
「いいか、アル。もう一度言うが、俺たちが相手にしているのはあくまで一企業の所謂“仕事”としてその地位にいる人間だ」
「う、うん?」
「ここで重んじられているのはそんな肩書きではない」
「うん?うん…そう、なのかな?」
「そうだ。確固たる思想や哲学を持ち、行動し、更に結果まで出してきた真の実力者たちなんだ」
「うん、そうだね」
「金銭を得るための労働ではなく、自らの矜持のための献身を尽くしてきた者たちなんだぞ。あまりにも格が違う」
なるほどねー、と間延びしたアルフレードの返事に思わず力が抜ける。
本当に分かっているのか。
いや、聡明な彼のことだから正しく理解はしているのだろう。
だが、やはり彼にとって己を取り巻く人々は「敬愛する優しい人たち」なのだ。
記述される立派な功績にではなく、個として為したことに彼は最大限の敬意と愛情を持って向き合っている。
「…はぁ、全くこれだからアルには敵わないな」
「うん?」
「アルをアルのまま育てた司教とドクターには頭が下がる」
「えぇ、本当に」
「全くですよ」
うんうん、と頷き合っている3人にアルフレードは首を傾げる。
だが、協調したこの空気が好きだな、と笑みを掃いた。
他人はどうしたって他人で、血の繋がりがあったとしても個という生き物で、人と人が本当に丸ごと理解し合うことなど夢物語だ。
相手の心が読めたとしても感性は違うのだから、相手が「綺麗だ」と思ったものを同じように「綺麗だ」とは感じられない。
プログラムされた機械ならば単一の価値観で相手と全く同じになることができるかもしれないが、それはもう人間ではない。
決定的に違う生き物だから人間で。
違うからこそ交わることができて。
相手が「綺麗だ」と言った景色を見たいと願い、「綺麗だ」と共有できたときに喜ぶ。
彼らに感じるのはそういう安堵感だ。
血の繋がりがない全くの他人同士だが、それぞれが分かり合おうと歩み寄っている。
彼らには彼らにしか理解のできない共有項があって、目には見えないほど深い場所で繋がっている。
「それにしても、アルはともかくお前の胆力はどうなっているんだ。この環境に順応してきているだろう」
「そうですよ!どうなっているんですか!?俺なんて全く緊張が解れないんですけど!?むしろどんどん緊張していますよ!」
「いえ、アル君のおかげで思い出しまして」
「何をだ」
「騎士道において敵前逃亡は最も恥ずべきことだ、と」
「…いや、相手は敵ではないんだが」
「かつて騎士たちは戦死こそが天国の保障であると宣誓したそうですよ。逃げて笑われるなら、死して笑われます」
「おい、それは本当に騎士道なのか?」
「騎士ってそんな根性論で戦っていたんですか?」
「崇高な精神論だけではどうにもできないことがあります」
「それはただの開き直りと言うだけだろ…」
「そうとも言えます」
「なるほど、確かに死して笑われる覚悟があれば惨めな討ち死に恐れることはなくなりますね」
「グラース、お前もそこに納得するなよ…」
彼らは今から何と戦うつもりなのか。
自分たちは夕食に誘われただけなんだけどなぁ、とアルフレードはくすくすと笑った。
その軽やかな笑い声を中心に、空気が和らいでいく。
開け放たれたままになっていたドアの向こう側から廊下へ零れ落ちてきたそれに触れ、パスクァーレは相好を崩した。
窓の向こうの空は燃えるようなオレンジ色に染まり、群青色と紫色がじんわりと滲んでいる。
夜の気配はすぐにそこに在るというのに、どうして彼らの周りはこうも朗らかな日向を思わせる柔らかな光に充ちているのか。
眩しい光景をしばし見つめ堪能してから、パスクァーレは声を掛けた。
「やぁ、待たせてしまってすまないね。よく来てくれた」
「パスクァーレさん!お仕事お疲れ様です」
「うん、ありがとう」
すかさずソファから腰を上げて駆け寄ってきたアルフレードに笑いかけ、同じようにすっと立って腰を折ったハインリヒと彼の2人の部下を見やって「歓迎するよ」と同じ笑みを向ける。
緊張した面持ちを隠し切れていないが、気圧されないようにと踏ん張る若い男たちの姿に好感を持つ。
彼らならば、上辺を取り繕って動揺も緊張も隠せるだろう。
見定められていることには気付いているだろうから、上手く装うこともできるはずだ。
たとえ虚勢だと見抜かれると分かっていても。
だが、彼らははじめからそうはしない。
真摯に、謙虚に、真面目に、いっそ愚直なまでに、真っ直ぐに立ち向かってくる。
なるほど、と改めて思う。
アルフレードは「2人ではなかったからここまで来られた」と言った。
ハインリヒと2人きりでは何も為せなかった、と。
(“心強さをくれた人たち”、か。なるほど、いい顔をしている)
ハインリヒの直属の部下であるフルアとグラースとは過去に何度か顔を合わせている。
だが、彼らはいつだって影に徹していた。
決して越えられない一線がそこにあり、明確な隔たりがあった。
守る者と守られる者、仕える者と仕えられる者、従う者と従わせる者。
しかし、今はそういったものがない。
どこまでもフラットで、手を伸ばせば触れられる近さと親しさを感じる。
あぁ、これが彼らの本当の距離感なのか、と目尻の皺を深くする。
「フルア君とグラース君、君たちもよく来てくれたね。無理を言ってすまなかった」
「いいえ、わたくし共までご招待頂き感謝いたします」
「君たちともゆっくり話をしてみたかったんだ。さぁさぁ、食事の席に行こうか」
マルタ島の自慢の伝統料理を用意したよ、と言えばアルフレードが嬉しそうに声を上げる。
お腹が空きましたと無邪気に言う姿に目頭が熱くなってしまのは歳のせいだと内心で言い訳をして、彼の薄い背中を撫でた。
華奢だが、決して弱々しいものではない。
「パスクァーレさんの制服姿久しぶりに見ました。やっぱりかっこいいですね」
「君にとても似合うだろうね。どうだい?そろそろこれを着る気になってくれたかな?」
「オレはまだダメですよ」
「ははっ、また断られてしまったな」
残念だ、と言うがパスクァーレの表情はまさしく孫の自立や成長を見守る穏やかなもので。
きっかけを突き詰めれば、愛する人を救えなかった罪悪感や後悔かもしれない。
最初は罪滅ぼしとしてアルフレードに手を差し伸べたのかもしれない。
だが、今こうしてアルフレードを見守る瞳にそれ以上の理由はないとハインリヒは思う。
彼個人を想い、寄り添い、必要になれば持てるものを惜しみなく与えている。
救われたかったのは自分自身だった、とパスクァーレは言ったが。
(きっとそれは成就されたのだろうな)
酷い火傷のような痛みを胸に抱え、たった独りで堪えてきたその勇気にこそ敬意が込み上げてくる。
そして、パスクァーレの願いに応えてみせたアルフレード自身にも。
細い背中が頼もしく見えるのは気のせいではない。
「しかし、君の奉仕活動を正当に評価するべきだという声も上がっているんだよ」
「オレのはただの恩返しですよ。だから無償の奉仕や献身ではないんです」
「アルフレード君が団員になってくれるならこんなに嬉しいことはないんだがなぁ」
「ふふ、ありがとうございます。でも、今はまだ」
「そうだね、急ぐことではないからね。私たちはいつでも君を待っているよ」
嬉しそうにアルフレードに返すパスクァーレのやり取りを見守っていたハインリヒは己の後ろで首を傾げているフルアとグラースをちらりと見やる。
その顔に浮かんでいるのは疑問と驚き。
次から次へと流れ込んでくる情報を必死に処理しているのであろうその表情に小さく笑う。
「アルはボランティア活動を続けているだろう。卿はそれを評価したいと仰ってくださっているんだ」
「アル君は作品の売り上げの何%かを病院や学校に寄付しているのですよね」
「あぁ。デザイナーとして活動を始めたときから続けていると言っていたな」
長い入院生活を送ったイタリアの大学病院、友人たちと過ごした神学校、育ての親であった司教が預かっていた教会。
アルフレードにとって楽しいことよりも辛い記憶の方が多くなってしまったその場所に、彼は寄付を続けている。
全力を尽くして命を救ってくれた病院に、復学はできなかったが卒業できるように最善のサポートを尽くしてくれた学校に、自分を育ててくれた街の愛すべき家に。
これは今のオレができる精一杯の恩返し、と語ってくれたのは随分と前のことだが鮮明に覚えている。
「私には充分、無償の奉仕と献身に思えますが…」
「アルにとっては違うようだ」
あくまで恩返しだからボランティアではない、とはっきりと言っていたことも覚えている。
ボランティアについて明確な定義はないが、一般的には自発的な意志に基づき他人や社会に貢献する行為を指す。
自主性、社会性、無償性などが根底に置かれるが、アルフレードは自分の行動にはそれがないと言う。
与えられたことに対して返したいという気持ちは無償の愛に似ているが、「自分の為なんだよ」と彼は笑っていた。
起こってしまった出来事を変えることも忘れることもできず、だからと全てを受け入れることは難しくて。
でも、それを含めて過去をほんの少しでも許せるようになったから。
許したいと思えるようになったから、そんな自分が過去の自分を救うためにやっているだけ、と。
「ですが、推薦の話しが出るということは騎士になる条件を十二分に満たしているということですよね」
「え、アルフレード君って俺たちが思っている以上にすごいことをしているんじゃ…」
「ボスはご存知だったのですか?」
「いや、今初めて知った」
「…その割には随分と落ち着いていらっしゃいますね」
「慣れてきた」
慣れるとは一体何に、と首を傾げるフルアとグラースに曖昧に返し、ハインリヒは微苦笑を口端に乗せた。
何と言ってもアルフレードには驚かされ続けてきたのだ。
次から次へと流れ込んでくる情報はすでに飽和状態なのだから今更1つ2つ増えたところで、と開き直る。
晩餐会でも開くのか、と思われる豪華な大広間に案内されたとしても。
そこに制服姿の騎士団の総監や騎士代表という錚々たる面々が並んでいたとしても。
地中海文化を色濃く残すマルタ料理の数々にはしゃぐアルフレードの笑顔を見れば、それだけでいいと思える。
「さぁ、席について。遠慮することはないからね、どんどん食べなさい」
促されるまま椅子に腰を下ろす。
アルフレードにとっては食べたことのある料理が多いようで、嬉しそうに「これはソースが絶品」だの「こっちは海鮮の風味が最高」と解説をしてくれるが。
果たして、どこまで味が分かるか。
いくら驚かされ続けて開き直ったところで緊張はするものなのだな、とどこか達観した気持ちで差し出されたグラスを受け取る。
フルアを見やれば、逃げて笑われるなら死して笑われる、と言った言葉通りむしろ堂々と緊張を曝け出している。
グラースは「プライベートとはいえ護衛なので」といつも通り酒を断っているが、内心では酒の力を借りたい気持ちだろう。
初めて見る部下の表情が可笑しいような、同情に近いような、妙な微笑ましさを感じてハインリヒは口端を緩めた。
しかし、そんな僅かな余裕も乾杯の音頭に気を取られている間に机の下に転がり落ちることになる。
孫を構うように楽しそうにあれもこれもとせっせと皿に料理を盛っては世話を焼きたがる老大人たちに見事に振り回され、呆然とする2人の部下と共にアルフレードに助けを求めるのもすぐの出来事であった。
→Prossimo.
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