こころとからだな日々-操体法とともに-  2011年06月
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立派な模範演技が、模範になるとは限らない
2011/06/29(Wed)
きれいなマネキン人形の着ている服では参考にならない。「頚腕症状の人のために」と腕をまっすぐ挙げたイラストも同様で、「この症状でこんなに挙がる人なんかいないのに」と驚くが、そういうのが、ほとんどだ。

きれいなお手本ばかり見ているからカンタンに考えてしまうが、家族や身内を相手に操法をしてみてはじめて「模範演技の通りにはいかない」と気がつく。「家族だからいうことをきいてくれない」と文句も言いたくなろうが、模範演技とは、カンタンじゃないことをカンタンなように見せることである。
じっさいの現場には、きちんと動ける人などいない。みんな動けない・動かないところから始めるのである。
どうせなら、模範にならないモデルさんでやってみせる模範が現場の役に立つ。
動きのとれない人にそのまま操法の動きをやらせるのは無理だし、無理な動きでは操体法としては全く意味がない。
できない動きをどう工夫して気持ちよく動けるようにしてあげるか。
そこからが、勝負なのだ。

講習会では、きれいに動ける人を相手にすれば気持ちよく操法がやれる。しかし慣れてきたら次第に、一番動きのよくない人を見つけて実習の相手にするべきだ。
百戦錬磨というが、人の体の条件はぜんぶ違う。一人ひとりちがう体に対する工夫を自分なりに楽しむくらいがちょうどいい。
とくに新しい人や初心者、それに難しそうな相手に出くわしたときほど「よし来た。さあ来い」くらいの覚悟で勝負をかけることをお勧めする。


※九州・福岡市内にて操体法を学べます。自分の体の調整をおぼえながら、種々の活動もできます。
誰でも参加できる定例の講習会、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
お問い合わせはメール freeyourself.sotai★docomo.ne.jp (★を@に)もしくは080-1720-1097まで。
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なかったことにはならないから、ごまかさずに歩んでいく
2011/06/28(Tue)
事故と治療とでダブルに傷めた片腕を、ここまで挙がるようにするために、どれだけの思いとどれだけの取り組みがあったか。投げ出すのはカンタンだったはず。ここまで歩んできたということにこそ価値があると今の私は思う。
ごまかしたくない。忘れもしない。なにが起こっても、あたりまえに生きていく。それが私たちの望むところだ。

あと半月ほどで、またあの日がめぐってくる。丸四年。十年以上が経過したかと思うくらいの、長い長い四年だった。もうスッカリいいと豪快に言い切りたいが、それはウソになる。全然なかったということにはならないものだな~とつくづく思う。開かなくなった口一つをとっても、確かに開くようにはなったが、みっともないことに、口を開け閉めしたり歯をくいしばってみたりと、しょっちゅうやるクセがついた。他にも細かいことを挙げればキリがない。
トータルで見れば自分は大変ラッキーだった。しかし操体法がなかったらという想像は、したくもない。

私と前後して事故にあった友人もまた、ひどいムチウチに苦しんだ。「ほら見て。腕が挙がるようになったよ」と笑顔を見せてくれたが、前方を経由してまっすぐ挙がるようになった腕も、ま横を経由して挙げようとすると途端にヘロヘロになる。
病院で治療されずに放って置かれたほうの腕は、操体法で間もなく元通り動くようになったという。神経ブロック注射を受けた腕のほうだけが、いまだに回復を拒んでいる。医者も副作用のことを非常に気にしていた様子だったが、治る見込みもなさそうだから、それならもうイチかバチかで。やらないよりやったほうがいいんじゃないかということで、次々にやられたということだったらしい。
「注射のたびにあっという間にひどくなって、とうとう病院逃げ出した」。時計の針を戻せるものなら。注射を受けなかったことにできるのならという思いが、この人の心を何度よぎったことだろう。

事故と治療とでダブルに傷めた片腕。それをここまで挙がるようにするために、どれだけの思いとどれだけの取り組みがあったかと、胸をつかれる思いがする。投げ出すのはカンタンだったはずだ。ここまで歩んできたということにこそ、価値があると今の私は思う。傷だらけの戦士だ、生きてるっていうことは、そういうことなんだな。
互いにふっと顔をくもらせ、どちらからともなく再び笑みを浮かべる。強がりと、あきらめと、開き直りと。
「えい、もう、よかたい。それでもまだまだうちらは元気にやっていけると!」「おう、そうたい!」。
「うちらにはもう操体法がある。これからどんな目にあっても、やってゆける!」「そうそう、そうたい!」。
ごまかしたくない。忘れもしない。なにが起こっても、あたりまえに生きていく。それが私たちの望むところだ。

それでは、そろそろ行きましょうか。


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自身の体の世界へ目が開かれてくる。それを一番だいじにしたい
2011/06/27(Mon)
腹八分・腹六分の、八分とか六分とかを、ごまかし・でたらめでなく実行するには少なくとも十分を知る必要がある。
自分のやったことのもたらした結果や影響を把握することはむずかしい。そのむずかしさが分かった上で「操体法は六割主義だからやりすぎないように」というのを実行したいところだが、言うは易しだ。
橋本敬三先生がユニオン大学操体法学科で使われたテキストには、ただ漫然とやっていては操体法が泣く、という記述がある。
「六割でやめておく」ということと、「漫然とやる」ということの違い。ごまかしでも、でたらめでも、あきらめでもなく、「これがほどほどだ、六割だ」という、引きぎわみたいな間合いを、どこでどう判断すればよいものか。
自分はこのことを心のすみっこで考え続けている。

十割を把握しなければ六割も分からない。この体の条件で、この場合の十割は、どこにあるのか。分かれば苦労はないのである。後に出てきた結果が予想とぴたり一致するということはまず、ない。
「六割でやめておく」つもりが実は五割だったら。四割だったら。ほんとうに適当に「もうここから先は今の自分にはわからないから六割ということにしとこう」なんてやっていたら、決して外してはならない肝要なことを外したままでも気がつくことはないのではないか。

「どんな頼みが舞い込んでも、自分は三回で解決すると、相手に宣言するんだ」。
ずっと以前にそう伺ったことがある。
三日間連続で体をみさせてもらう。それができない事情があれば、週に一度を三べん続けてもらう。ただしこの場合は、来た日の翌日と翌々日は必ず自分で操法を実行してもらわなければならない。
一同、嘆息した。「そんなこと言ってほんとうに大丈夫なのか」「自分にはできない、そんなこと」。
もし結果が出なければ大ウソつきになる。

後日、何度か実行する機会があった。命がけ、というと軽々しく聞こえるかもしれないが、なかなか言えるものではない。こっちは真剣もいいところだ。しかし「あーこういうことだったのか」と自分なりの納得はあった。三べんは来てもらうというこの「三べんルール」を基本に体を集中して見守ってゆくと、回を重ねるごとに変化が見え、肝要なポイントも見えてくる。およそ三回で体の変化はご本人に実感される。
回を重ねるたびに、体からは余計なものが取り払われてくる。次々と整理され、片付けが進む。そして新たな課題や風景が、遠くまで見通せてくる。そのような進展が互いに実感されないとなれば、「手応えなし」ということ。術者側の責任は大きい。
ご本人に感動や意識の変化、気づきがあらわれるかどうか。それも重要な判断基準ではなかろうかと思う。操体法特有の感動がなければ、それは操体法と呼んではならない。ご本人が的確に「こっちはこんな感じ」「こうするとこんな感じ」と感覚をはっきりと言葉に出せるようになるというのも判断基準の一つと思われる。

「このくらいでいいや」でずっとやっていたら、いずれは互いに飽きてくる。何が起こって、どこがどう変化しているのか。それが具体的に本人の感覚で分かるようになるのが好奇心と励みにつながり、感動や驚きにもつながる。飽きるどころか、自身の体の世界への目が開かれてくる。漫然としていない唯一の証拠といえば、それが一番だいじなのかもしれない。


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「今の自分にできること」を出し合ってチャンスをつかむ
2011/06/24(Fri)
生きている人には生きているなりの強みがある。どんな人もそれぞれにできることがあり、何もできない人などいるものではない。
自分の周囲で「今できること」を出し合えば、チャレンジができる。今の自分にできないことを実現するチャンスがつかめるのだ。自分にできないことを引き受ける受け手さえいてくれれば、自分にできることが広がるだけでなく、相手の活動範囲もぐんと広がる。
周囲との連携プレーによって、これからの自分にできることが、たくさん見えてくる。

講習に集まってくる人たち同士で連携プレーが成立すれば、活動の可能性はぐんぐん増す。
操体法のワザを磨くのに熱心なのはよいけれど、ワザに磨きをかけるのは一生の仕事になる。たとえどんなにワザが磨かれても、一人にできることなど知れている。個人プレーには個人プレーの可能性と限界が、連携プレーには連携プレーの可能性と限界が、ある。個人プレーで培った力は連携プレーに活かせるし、その逆もまた真である。
相互で高めあうフィールドの中で成長をはかるのが理想的なのは言うまでもない。
「今の自分にできること・できないこと」を見極めれば、それぞれに始められる活動も見つかるはず。少なくとも「ここまでできるようにならなければ活動できない」という線引きは必要ないのではないか。適切な連携プレーがあれば飛び立てる。講習にもそのような参加者が見受けられるようになり、喜ばしいことこの上ない。

これまで自分は個人プレーで生きてきた。連携プレーは選択肢から外して個人に徹して生きていくよう自己規制をかけてきたように思う。しかし連携プレーにもそれなりのやり方があり、それなりのおもしろさがあることを感じる出来事が重なって、連携プレーを選択肢に入れるのもアリだと思われてきた。
せっかく操体法を学んでも、ただワザに磨きをかけるだけでは内輪の楽しみだ。外へ飛び出す工夫と冒険が少しはあってもよいだろう。
どんな小さな冒険の中にも、やってみなければわからない喜びと苦しみがある。外へ飛び出すだけのエネルギーが蓄積され、遅くも早くもないタイミングで、冒険を楽しむ。それをチャンスというのではないか。
チャンスはいくらでも転がっている。見送りの三振ばかり続けていても、つまらない。そして試合時間は限られている。自分たちの生きて持っている時間で、どれだけのことができるかが、チャレンジだ。

チャレンジ精神で、バットを振ろう。

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自分の体験してもいないことをどんどん勧める制度
2011/06/22(Wed)
お医者がじっさいガンになって抗がん剤をやって初めてびっくりしたという体験談は少なくない。自分が体験してはじめて「抗がん剤は絶対よくない」と主張し始める。そういうケースもある。お医者がじっさい糖尿病になって、「こうして治りました」などという本もあるようだが、これって全ての話が逆転してはいないだろうか。
お医者は、何一つ体験していないことを、何一つ自分の体でわからないまま、「こうしましょう」「ああしましょう」と勧めるのが仕事である。だからあんなにたくさんの患者さんをさばける。
勧められた通りにしてみたら、どうなるか。これをお医者はほんとうのところは知らない。
お医者がただのふつうの人として、一つ一つの治療を体験したとしたら、どうだろう。同じことを言うのだろうか。勧めるのだろうか。自分が患者の立場になったときには、少し想像してみることにしている。

あなたが自分の体や命を誰かにあずけたいとして(決して誰にもあずけてはならないのだが)、自分の体をないがしろにしている人間に、相談したいと思うだろうか。だからといって、ただただ元気そうな人から「こうすればいい」「ああすればいい」なぜなら「自分によかったから」と言われるのをうのみにすることも気が進まないだろう。
元気そうな人も、何かをかかえていることがある。元気なのはその人の心がけではなく、生来生まれ持ったものにただ支えられているだけかもしれない。体験のない人も、体験のありそうな人も、完全に信用するのは危険な賭けだ。

療術のワザを磨こうとするときには、他人の体の声さえ聞き取れるようになればという気持ちが強くなる。それは当然のことだが、ほんとうに他人の体の声を聞き取ることに集中してゆけば、いずれは自分の体の声のほうも聞き取れるようになるはずである。自分優先と他人優先と、どちらから登っても同じ頂上にたどりつくはずだと私は思っている。

自分の健康だけを追求し、自分の体の声さえ聞き取れるようになればと思った。自分が病気でもないのに、いろんな病気のことを学ぼうという人の気持ちのほうがわからなかった。
しかし、自分のことを追求し続けていくうちに、ある日あるとき急に、周囲の人の体の声が聞こえてくるのである。聞き耳ずきんでスズメや猫の会話が聞こえてくるのと似て、そうなると他人の体のことにも好奇心がわいてくる。自分の体の声を正確に聞き取れるようになると、他人の体の声までがハッキリと恐いくらいに聞き取れてくるようになる。


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体の声の、聞き上手・聞き取り上手になる
2011/06/21(Tue)
聞き上手といると、気づかなかった本当の自分の声が引き出されてくる。体の声も体験者がついていると実にハッキリ聞こえてくることがある。

一人で取り組める簡便さもある操体法だが、二人組みがベストと橋本敬三医師も認めている。ゆっくりていねいに動き、タメをつくった後に全身脱力をする。操体法は動きのコツさえ分かれば誰もがすぐにでもできる運動療法である。
「タメをつくる」とは、自分がそのまま動きを続けようとするのを定位置で保持し、力をためていくという段階。たとえば手を開く・閉じる。どちらがやりやすいかを、ゆっくりやって調べてみる。握る動きのほうがやりやすいと分かった場合は、開いた手からゆっくりと握りこぶしをつくり、握ったあともさらにじわじわ握りしめてゆくという具合。力んではならず、ほどほどの加減で数秒の「タメ」と、そののちの脱力。これを数回ていねいにやってみて、開く・閉じるの両方がやりやすくなっているかを、調べる。どちらもやりやすくなっていれば成功。
これが操体法の入口。単純にして明快である。

全ての世界に達人とそうでない人とがいるように、操体法にも達人レベルとそうでないレベルとがある。操体法のワザの効き目を決定する一つの重要事項が、「タメ」と「抵抗」である。
握りこぶしをつくるだけなら一人でじゅうぶん。しかし足を倒したり腕をねじったりするさい、一人ではタメにくい。「力を抜かずそのまま動こうとする」一方で、「骨格には見た目の動きはなく、静止している」のがタメなので、支えがなければ動くまいとしても動いていく。右腕のねじりを自身の左手で支えるのは可能だが、それは厳密にいうと「右腕の動き」ではなく、「左手の動きも加わった右腕の動き」。机の角っこに押しあてたり、壁ぎわにクッションを置いたり、布団をたたんで足の下に敷いたりなど、工夫もする。どうしても無理な場合は人に支えてもらっているんだと観想する。そんなとき、もう一人誰かいてくれると非常に助かるのだがと思う。

動きを支えてくれる人のことを「術者」または「操者」、体をじっさいに動かす人のことを「本人」という。
「術者」は相手の動きをよく見る。そして相手の感覚をよく聞きとる。そして相手の「タメ」がよりよいものになるよう、支え、保持する。
「本人」は、体を動かし、自分の感覚を術者に伝える。
本人の「タメ」と、術者の「抵抗」がうまくかみ合うとき、気持ちいい感覚は最大となり、筋肉も最大にゆるむ。しかし、うまくいかない場合は本人も術者も「これでいいのかなあ~」という顔をしている。術者の側には「自分の操体法が未熟だから」という気持ちがあり、支えてもらっている本人の側も、多かれ少なかれ術者への不満がある。しかしこれはカンちがいもいいところである。

聞き上手の人と会話するか、聞き取りがよく分からない人と会話するかで、話が発展したり、気まずい沈黙になったりする。聞き上手は質問が上手だから話がはずむ。話がはずむと互いに質問がはずみ、受け答えもできる。
聞き上手ではない術者と組んだとわかったら、本人自身がリードする。本人の感覚が大いに試されるときである。聞き上手ではない本人と組んだ術者は、本人の動きをリードすればよい。ここでは術者のほうの感覚が試されるときである。
どのような動きをするか、どこでどの程度の「タメ」をつくるかを決定するのは、術者と本人とのコラボレーション。どちらが聞き手でどちらが話し手になるかは、術者と本人のどちらのほうが体の感覚に鋭いかで決まる。もちろん操体法の技術の腕というのは確かにある。しかし操体法の体験が長いとか短いとか、ましてや技術が未熟だとかそういうのと何ら関係しない部分も大きいのである。(この項つづく)

※九州・福岡市内にて操体法の講習を開いています。個別と集団講習が好きに選べます。
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捨てても心配がないもの-動きのクセ・からだのクセ-
2011/06/16(Thu)
「ありのままの自分でいいんだよ」というフレーズに涙を流した体験を持つのは私一人ではあるまい。自分に振り回され困っている現実があるからこそ、この言葉は癒しの効果を持つ。
動きのクセをとってあげると「わーラクになった」と無条件に喜ばれる。「なくてななくせ」。自分では自分の全てが当り前だから自分のほとんど全てに気づくことがないという皮肉。

講習にやってくる方々にもそれぞれ体や動きにクセがある。それを個性とよんではいけないだろうかと思うことがある。クセというと人を否定することになりはしないか。逆に個性とよべば尊重することになるが、尊重してだいじにし続けていると、胃腸が弱い、ヒザが痛い、腰痛が、頭痛が…という結果をもたらすものもあるようで、「そんな個性なら取り外したい」と本人が望むケースもある。個性にも、行き過ぎた個性もしくはクセとして取り外さざるをえなくなるものが、時と場合に応じて出てくるということだろうか。

「ありのままの自分でいいんだよ」というフレーズが癒しとして作用するのは恐らく「分かっちゃいるけどやめられない」という現実があるからではないか。自分のクセをとるのは大変なのだ。
「ありのままの自分」で突き進んでいけるのなら苦労はないと思うが、「ありのまま」という言葉を「ありのまま」に受け取るのはもしかすると浅はかで、もっともっと深い意味があるのかもしれない。

動きのクセを取りながら、体のクセを取っていく運動療法が、操体法である。
クセをとるのがつらくない。みなさんとっても楽しそう。自分も楽しいばかりである。
リクツはともかく、身も心も軽くなるから当然だ。クセをとっていっても、個性なんか後からにょきにょき出てくる。どんどん捨てても、捨てた先にちゃんとした自分の個性はあるのだから、心配には及ばない。

東洋的心身調整法。私の手元にあるテキストには操体法は東洋的心身調整法だと記述がある。
「おのれを捨てるのが東洋流。オレがオレがで自分を守ることは西洋流の考え方だ」と師匠からうかがったとき、「へええ、自分って、捨てちゃってもいいものなんだ~」と感動し、ずいぶん気がラクになった。
むしろ捨てちゃったほうが身のためかな。
少なくとも違和感を感じるような動きが知らぬ間に身についているとしたら、それは明らかにクセなので、どんどんと安心して捨ててしまおうと思う。


※九州・福岡市内にて操体法を知っていただく活動をしています。毎週定期的に集まって講習を開いています。一般の方・初心者の方も自由に参加できます。個別にも対応していますので、ご相談ください。
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筋肉をほぐす工夫-まずはゆっくりと、ごまかしなく動いてみる-
2011/06/15(Wed)
「健康によい」と言われる動きには「ゆっくり動く」というものが少なくない。太極拳、ヨガ、操体法などである。弾みをつけたり素早い動作とでは、どこが、どうちがうのか。

百人の小人たちが整然と並び、荷物をのせたそりにつながれている。「右へ」の号令でざざっと右へ、「左へ」の号令で左へと、足並みそろえて荷物を運ぶとする。ちょうどよい速さなら遅れることなく、全員が同時に右へ向かい、左へ向かい、するだろうが、速度をあげてゆくと、ついてゆけない小人たちが続出する。ついてゆける者が荷物を引っ張り、ついてゆけない者は、空回りする。
速度が速くなればなるほど、ついてゆけない小人たちが増え、荷物を引っ張る者は少数となる。
骨格を動かす筋肉も、これと似たようなことが起きると考えられる。

筋トレにいそしむ学生たちが、「ほら」と嬉しそうに筋肉を見せてくれる。歯並びの悪い歯のように筋肉の付き方がいびつである。「せっかくなら、きれいに筋肉つけたら」と言いたくもなる。
なぜこんな筋肉の付きかたをするのか。彼らが目の前で見せてくれる筋トレの動きもまた、いびつである。「いちっ、にっ、さんっ」と腕立て伏せをする彼らの動きは体のあちこちに無理がかかっている。その無理をがまんすることが筋肉をつくるというので歯を食いしばり、顔をゆがませ、動きのよくないところを、動きのよいところでカバーする。動きに関わる筋肉が限定され、ついてゆけない筋肉が置き去りにされている。
負担の大きなところが肥大し、動きのよくないところは筋肉がやせてゆき、アンバランスが広がってゆく。「歯並びのわるい状態」であるのは、そういうこと。
「筋肉ついたら、どうなった?」訊ねると、「腰痛がひどい。オレの体もうぼろぼろ」「疲れやすい」「歩いたり立ったりがだるい」などと平気で言う。

速い動きだからダメ、ということではない。同じ動作でも、どのくらいの速さで動くか、こめる力の具合はどうかによって、どの筋肉が、どのくらいの負担をするのかがちがってくるということは、筋肉をゆるめる上で重要な意味を持っているのではないかと思われる。


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筋肉をほぐす体の動きを追って-動かない関節を自由に動かしたい-
2011/06/14(Tue)
骨と骨をつなげているのは筋肉。関節どうしや関節をまたいで重なり合い、交差し合いながら全体つなげて丸ごと一つの体にする。それが筋肉だ。
骨だけあっても人の体は動かない。骨には筋肉がくっついていないとね。
骨格標本でぶらさがっている人体は、動きが伝わらない。
足の骨を動かしたら手の骨に動きが伝わるとか、そういうことはないのである。
骨の腕を手をとり、ぽとんと落としても、ちゃらんかん、とむなしい音を残すだけ。

年をとると、それまで何十年にもわたってあたりまえに動いていた腕が、ヒザが、動かなくなったりする。けがをしても、同様。
外から見ても、腕そのものには、べつに異常はない。「どうしちゃったんだよう」と、腕を見て、ヒザを見て、つぶやく。
仏教でいわれる諸法無我は、「からだの動き」を考えるときにいつも頭に浮かぶし、きっと役に立つ。
あらゆる「もの」は実体を持たず、いろんな関係そのもので成り立っている。
腕は、腕だけで存在するのではない。腕の先には肩があり、肩は首にもつながっているし、肩甲骨とも密接につながっている。
つなげているのは、筋肉である。腕の骨を肩とつなげ、肩の骨を首につなげ、肩甲骨ともつなげ、さらに関節をまたぎ、平行にあるいは交差し、重なりあいながら全体をつなげて丸ごと一つの体にしている。
頭の中で、骨格標本の骨たちに筋肉をかぶせてゆく。筋肉をかぶせて全体つなげて丸ごとにしたら、今度はかぶせた筋肉の重なりをほどいて引きはがしていって、風にゆられてちゃらん、かん、と軽やかに音を出す骨たちの集まりにしてしまう。

肩や首がこわばっている、体の関節の一部が正常に動かない。そういうときには、「からだ」には実体がなく、「いろんな関係なんだ」という見かたに切り替えたほうが、突破口になる。
体の問題は筋肉の問題で、ものの在り方や関係性の問題だったりする。
仏教もからんでいたり、する。
筋肉を中心に据えた操体法は、深い。

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筋肉をほぐす体の動かし方を考える(2)-全身がつられて動く「タメ」と「連動」の関係-
2011/06/13(Mon)
筋肉をほぐす体の動きを考える(1)を先に読みたい方は↓http://blogs.yahoo.co.jp/soutaiabc/34853559.html

握りこぶしをつくってゆるゆると力を加えてみる。体は三次元のカタマリ。外からはじっとしているように見えるこぶしも、内部の筋肉全てがじっとしているということはない。骨格の位置・筋肉の伸び縮みはセンチ単位もしくはミリ単位でいつでも動ける状態である。

操体法の動きの大きな特徴に、「タメ」がある。
ゆっくりとなめらかに動いてゆき、自分に一番具合がよいと感じられる位置で「タメ」をつくって、数秒の後に全身脱力を行う。それが操体法の基本的な動きである。
「タメ」とは、外から見ても動いているようには見えない状態。しかし本人は動きを止めないで先へゆこうとして力がたくわえられてゆく状態。つくった握りこぶしに少しずつ力を加えていくような状態である。

握りこぶしに力を加えてゆくと、肘や、肩や、首や、いろんなところも緊張してゆく。時には手首や肘が曲がっていったり、首をかしげたりすることもあるかもしれない。
手首を曲げようとか、首をかしげようとか思わなくても、握りこぶしに力を入れてゆくと、つられていろんな場所の筋肉が、伸び縮みをしてしまうのである。
このように、動きには別の動きがともなう。これを「連動」という。
ある動きにともなって連鎖的に広がってゆく動き。一つの関節の動きは、体の中であちこちの筋肉が影響しあって実現されている。

どこか体の一部の動きが不自由になったり痛みをともなう場合、体の内部のあちこちで筋肉が影響しあっていることを思い出すとよい。
自由にラクに動かせるところから操作して、不自由な部分に効果的な働きかけをすることができる。連鎖的な筋肉の働きによって、遠隔的に操作することをねらうのである。

操体法は、体全体がつながっているということを最大限に応用する運動療法だといえる。(この項つづきます)

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「大したことない」のほうがむしろ大したことあったりするカラクリ-かすかな違和感について-
2011/06/11(Sat)
「チョット違和感は残るけど大したことないです」と言われる。しかしすぐ消える痛みは大したものではなかったのだ。調整した後も微かに残る違和感。こちらのほうはしつこくて、よっぽど「大したことある」。
「なんだこんなもの、あってないようなものじゃないか」と打ち消したり無視したくなるのが人情。微症状は人情によってお目こぼしされ、「もういいです。治りました」となる。

顔を天井に向けて寝て、立てひざした両足を横に倒してゆく。右に倒すのと左に倒すのと、どちらがよいか、自分の感覚に耳を澄ませる。
左右の動きで気持ちよいほうを選び、気持ちのよいほうだけを何度か実行する。実行の後、左右の動きを比べると、左右のどちらもけっこうな具合になる。操体法の動きと調整の基本である。

しかしそれだけでは限界もある。ただ漫然とやっていては操体法が泣く。
両ひざを右に倒すのが具合よい。最初はそう思われたとしても、角度を変えたり力の加減をすることで、「あれ、この動きはヘンだな」と感じられることがある。
ふつうは見落とす。見逃す。「このくらい、へっちゃらさ。かまわない。無視して動いてやれ」というわけである。
それですぐどうなるというものでもないから注目もされない。かすかな違和感の背後に隠れているものの存在など、気にするだけ面倒に思われる。
しかし、このかすかな違和感こそがクセモノだ。自分の操体法が泣くか笑うかの分かれ道でもある。

操体法の動きに大きな特徴を与えている「タメ」。操体法は動けるところまで動いていくのではなく、「ここから先に進むのはちょっと頑張らないといけないな」と思う手前のところで動きを止める。正確には、動きは止まっているように見えるが、完全に動きを止めてはいけない。そこからさらに進んでいこうという気持ちで力を抜かずにおく。決して力んではならない。手伝ってくれる人がいるならば手で支えてもらい、「タメ」の位置を保持しておいてもらうと、やりやすい。
「タメ」の最中に気持ちよい感覚を味わいながら数秒の後、全身脱力して一息つく。

「タメ」をつくっている最中に、「あれれ、なんかヘンになってきた」と思われることも、ある。右に倒すのが具合よいと思ったけれども、力をタメているうちに、内部にひそんでいた矛盾が強調されて違和感を感じるのだろう。
そんなときは念のため、左の動きにも「タメ」をつくって様子をみる。倒す角度によっては、左のほうがよいと思われたりも、する。ぱっぱと進めて、「こっちがいい」「あっちだ」とやるばかりでは、操体法が泣くのである。タメをつくってじっくりと様子をみる必要がある。

「治りました」は案外と治っていないものだ。最近その意味を痛感する。橋本敬三先生のご著書にこのことは何行か書いてあるけれども、真意を分かっていなかったと思う。橋本敬三先生はほんとに無駄のない方で、書かれたことには無駄がない。一行一行の持つ本当の意味を、牛歩の歩み、いや、カタツムリの歩みで、知る。


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筋肉をほぐす体の動かし方を考える(1)-骨格を動さずに筋肉が動いている状態-
2011/06/10(Fri)
体が動いてないのに筋肉が動く。そんなことあるのだろうか。
筋肉が動くというより筋肉の伸び縮みと言い換えた方がわかりやすい。外から動いてないように見えても体の中の筋肉の伸び縮みは起こりうる。骨格に目立った動きがなくとも筋肉は動くのである。

交通事故のムチウチで、日赤病院を含め数カ所の病院の整形外科医から「筋肉のコワバリによるさまざまな症状」と診断をいただいたが、「うちではお引き受けできない」「お引き受けはするが元の体にはならない」といった宣告であった。
理由はと尋ねると「私ら筋肉のことは分からないから」。医師国家試験の範囲内のことは暗記するが、範囲外のことは勉強していない、試験には筋肉のことは出ないからやってないというようなことを言われた。
「もとどおりの体にしたいが、どうすればよいと思うか」という質問に対しては、「ヨガや体操など、何か体を動かすことで筋肉のコワバリをゆるめるとよい」「自分がいいと思ったことを試してみられるとよい」というアドバイスをいただいた。

操体法は筋肉のことを最重視した運動療法であることから、自分は操体法の原理を、筋肉のことを、もっともっと知らなければと思った。医者のアドバイスは活かされたと思う。

外からは動きが見られないのに、体の中ではあちこちの筋肉が伸び縮みをする状態。それは操体法の動きでは「タメ」の状態である。
操体法の動きの基本は次のようなものである。ゆっくりとなめらかに動いてゆき、自分に一番具合がよいと感じられる位置で「タメ」をつくって数秒の後に全身脱力を行う。
「タメ」とは、動きは止まっているように見えるが、動きを止めずに先へゆこうとする力がたくわえられる状態。操体法の動きは終始、力んではならないが、「タメ」の最中は各部の筋肉に圧力が高まってゆくところや、ゆるんでいくところなどが、感じられる。
補助の役割の人がいる場合は、軽く手を添え、本人が「タメ」をつくりやすいよう、適当な位置で保持しておいてやる。このことを「抵抗」という。

生理学では等尺性収縮というのがある。筋肉の見た目の長さが同じで生じる収縮のことだ。生理学など持ち出す必要もない。外から動きがないと見えても、体は三次元のカタマリ。中身の全てがまったく静止するということは生きている限りありえない。骨格の位置が互いに辻褄あわせのようなことで、センチもしくはミリ単位で動ける状態なのである。

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筋肉をほぐす体の動かし方について考える(2)-全身がつられて動く「タメ」と「連動」の活用-

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筋肉をほぐす動きを求めて(1)-骨格は動かなくとも筋肉は動く-
2011/06/10(Fri)
体が動いてないのに筋肉が動くということはあるだろうか。
筋肉が動くというより筋肉の伸縮と言い換えた方がいいかもしれない。外からは動いていないように見えても体の内部での筋肉の伸び縮みは起こりうる。骨格に目立った動きがなくとも筋肉は動くのである。

交通事故のムチウチで、日赤病院を含め数カ所の病院の整形外科医から「筋肉のコワバリによるさまざまな症状」と診断をいただいたが、「うちではお引き受けできない」「お引き受けはするが元の体にはならない」といった宣告であった。
理由はと尋ねると「私ら筋肉のことは分からないから」。医師国家試験の範囲内のことは暗記するが、範囲外のことは勉強していない、試験には筋肉のことは出ないからやってないというようなことを言われた。
「もとどおりの体にしたいが、どうすればよいと思うか」という質問に対しては、「ヨガや体操など、何か体を動かすことで筋肉のコワバリをゆるめるとよい」「自分がいいと思ったことを試してみられるとよい」というアドバイスをいただいた。

操体法は筋肉のことを最重視した運動療法であることから、自分は操体法の原理を、筋肉のことを、もっともっと知らなければと思った。医者のアドバイスは活かされたと思う。

外からは動きが見られないのに、体の中ではあちこちの筋肉が伸び縮みをする状態。それは操体法の動きでは「タメ」の状態である。
操体法の動きの基本は次のようなものである。ゆっくりとなめらかに動いてゆき、自分に一番具合がよいと感じられる位置で「タメ」をつくって数秒の後に全身脱力を行う。
「タメ」とは、動きは止まっているように見えるが、動きを止めずに先へゆこうとする力がたくわえられる状態。操体法の動きは終始、力んではならないが、「タメ」の最中は各部の筋肉に圧力が高まってゆくところや、ゆるんでいくところなどが、感じられる。
補助の役割の人がいる場合は、軽く手を添え、本人が「タメ」をつくりやすいよう、適当な位置で保持しておいてやる。このことを「抵抗」という。

生理学では等尺性収縮というのがある。筋肉の見た目の長さが同じで生じる収縮のことだ。生理学など持ち出す必要もない。外から動きがないと見えても、体は三次元のカタマリ。中身の全てがまったく静止するということは生きている限りありえない。骨格の位置が互いに辻褄あわせのようなことで、センチもしくはミリ単位で動ける状態なのである。(この項つづく)

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アゲハになって人の動きにどこまでもついてゆく
2011/06/07(Tue)
肩や背中に手を添えてもらうとき、ずっと置いていてほしいと思うほどに気持ちのよい手の感触を感じることがある。逆もある。つかみかかられるような威圧感、のしかかられるようなうっとうしさ、ぞんざいな感じがすると逃げ出したくなる。
手の持ち主は無意識に、何気なく置いている。しかし手を置かれている側は、意識の後ろにあるものを、たちまち感じ取る。立場をかえてみれば、おそろしいことではなかろうか。

野口晴哉は弟子を自分の家に住まわせていたが、体関係に向いているか試すときは犬や猫の世話を担当させたという。動物たちがどうしてもなつかないときには、ほかの仕事をとアドバイスしていたそうである。

大の字になって両方の膝を立ててもらい、ゆっくり倒していただく。右にも左にも倒していただき、左右の感覚の違いや気持ちよさなどを感じていただく。このときに、ただやってくださいと放置するのではなく、こちらのほうは手を膝頭に軽く添え、動きにつきあうのである。散歩する人のそばに付き添う気持ちで、じゃまにならないよう、歩調をあわせてついてゆく。

舗装していない小道をいっしょに歩いていると、相手のあらゆる情報を見たり感じたりすることができる。ちょっとつまずきそうになるだとか、通りづらそうなところがあるようだとか、足取りが妙に重かったり軽いと感じられたり。
手のひらからは相手の全てが伝わってくる。自分が的確に読み取れるかどうかは別としても、ちゃんと伝わってきているのはまぎれもない事実だ。

相手のことが、手を伝わってどんどん流れ込んでくると感じるとき、「手が、とても気持ちがいいです」「ふれてもらっているところがあたたかい」と言われることもある。私自身、とても気持ちがよいのだ。もちろん、そういうことばかりではないが、あたりがくるのを待つような気持ちでおつきあいさせてもらううち、「あ。流れ込んできた」というときがくる。その瞬間は、とてもうれしい心持ちがする。この人とはじめて「通じあえた」という感じがするのである。

「膝頭に手を軽く添える」。膝頭をつかむのではないし、膝頭に手をもたせかけるのでもない。
手を軽く添えるためには、自分の手を浮かせ気味にしなければならないだろう。
面倒だから、いっそ手を置かないほうがいいという態度は考えものだ。
なぜ手を添えるのか理由がわかれば、手を添えないのはもとより、膝頭をつかんだり膝頭に手をもたせてしまうことは、できない相談だ。

チョウチョは軽やかに花の上に乗る。羽をそよそよ羽ばたかせながら、花に身をまかせるでもなく花びらにのっかっている。花のほうではチョウチョの足先に踏みつけられて、かえって心地よい気持ちでいるのではないか。
チョウは風にそよぐ花にさからわない。バランスをとりながら、非常にデリケートな様子である。花びらの色や香り、湿り具合や柔らかさ、そして風の揺れなど、たくさんのことを足の先で感じ取っているのだなと思う。
いつの頃からかわからないが、風にそよぐ花の上にちょこんと乗るアゲハチョウの、軽やかな重みを思い浮かべるようになって以来、全てがうまくいくようになった。


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やってみればわかる。一年をかけて自分で確かめたことは…。
2011/06/06(Mon)
人の意識はカンタンには切りかわることはない。全ての人が納得するには早朝ジョギングの犠牲者がまだまだ必要。息を切らして汗をかき、体に苦しい負担をかけて健康になるという健康観は主流だから。

操体法は、運動療法。
「運動療法」といえばスポーツのイメージ。息を切らして汗をかき、体に苦しい負担をかけて健康になるという思想が現代の日本では主流。
しかし健康的なイメージの早朝ジョギングが急激な死をもたらすということは、アメリカの研究ですでに証明済み。ジョギングや水泳や器械体操で心拍数を増やして持久力がつく。体温が上がり、血液の流れがよくなり、脂肪が燃焼し、筋肉がつくられるといったイメージが現代日本の健康観の主流ですが、毎日続けてみて初めてわかることもあります。負担をかけることで健康になるというのなら、苦しくともやる。苦しいことすなわち負担すなわち健康。苦しいことを、苦しいとすら思わなくなるまで毎日がんばる。

さて、どういう結果になるでしょうか。運動に慣れてきた、強くなってきたと思われるかもわかりません。持久力がついたかに思われるかもしれませんし、脂肪が燃焼して筋肉もつくかもしれません。
しかし心身ともに負担なのです。疲労もたまるし、あちこちに痛みや違和感が出てくる。これは操体法をやっているなら、なおのことわかるのです。操体法を知っている方は、自分の操体法で、どこに痛みがあるか探して、痛みをとりましょう。せっかくの操体法ですから、使ってください。

じっさいにやってみると、健康気分だけでは二年も三年もは続けられません。そんな続けられないことをやって、誰もが本当に健康になれるのか。じっさいに苦しい目、痛い目にあいながら考える必要もあるのです。「早朝にジョギングをするのはきっと健康的だろうな」といった、あこがれや夢の中に入浸っているままでは事実を知ることは一生ないでしょう。
早朝ジョギングが健康的なのではなく、事実はその逆で、元気な人なら早朝に起きてジョギングを続けられるのかもしれません。「ダメ人間がジョギングで元気になった」という人もあるのでしょうが、本人の証言だけでは事実はわからない。

操体法を知っているからこそ、いろんなことをやってみて、筋肉の状態がどうなるか、調べてみてください。それは自分の操体法が試されることでもあります。「健康というものは、汗をかき、息をきらしてつくられるものだよ。操体法のそんなへなちょこの動きなんか、ダメっぽいよ」と言われて、「やっぱりそうだよなあ」なんて思い、「操体法ではほんとうの健康は得られない」などという考えを心の奥でずっと持っているようでは本当の操体法はいつまでも自分の中で育ちっこない。

私は一日も欠かさずに山に一年通いました。生活の楽しみもある程度は犠牲にしたし、つらくて泣いていた時期もありました。「健康」に執着する自分の愚かさも知りました。途中でやめなかったのは、自分の苦労が何の結論ももたらさないのはもったいと思ったからです。ここでおりたら、これまでの苦労は水の泡。何とか続けられないものだろうかと、操体法を駆使しました。山に通うといっても歩いたのは正味二時間前後。「だいじょうぶですか」と声がかかることがあるくらい、ゆっくりなペース。
体力がないわけではなかった。しかし自分の体の抱える課題を思い知らされました。全身がダメになるのではないのです。相当な偏りがありました。「ここと、ここさえ、疲労しなければ、楽勝なのに」と、どれだけ悔しい思いをしたことでしょう。つまり、体の骨組みがゆがんだままでは、何をやったって、自分の持てる力をじゅうぶんに発揮することなど望めないということを、一年間かけて学びました。

操体法の橋本敬三の口癖「やってみれ」。何を質問しても、「やってみりゃ、わかる」。操体法の基本がわかってきた方には、「何でもやってみて、自分で確かめてください」と言いたいですね。いろんなことが分かっておもしろいですよ。
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山にいるときに電話がつながらないことがあり、ご迷惑おかけしますが、着信履歴からご連絡差し上げています。ご了承ください。

いつでも始められる初心者のための操体法入門講座
(H23年6月2日現在、ご参加いただけます。1回2時間ていど。参加費二千円)

操体法で活動をしたい方のための指導者養成講座
(H23年6月2日現在、ご参加いただけます。回数などご希望に添います。参加費二千円)

お一人で個別に受講を希望される方、もしくは施術
(都合のよい日時をご指定ください。初回三千円、二回目以降二千五百円)

入会金などは不要です。参加した分のみお支払いください。
そのほかのご要望はお申し出ください。詳細は080-1720-1097(山下)まで。
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やり方さえわかれば、こんなにも前向きに取り組んでゆける
2011/06/02(Thu)
自分で自分の課題に取り組むと、人は勇猛果敢という感じになってゆく。「教える・教わる」の枠を飛び越え、互いに人生の伴走者といった心強い気持ちを共有できる、講習会の参加者はだんだんと元気さを増し、勇ましい感じになってきた。頼もしい限り。

生きるということは、心身の課題を抱えてゆくということにつきる。私はまだ、心身の問題や課題に全く無縁の人を見たことがないのだ。
心身の問題や課題を持っているということは、ごくしぜんなことで、問題ではない。問題は、自分の心身の問題や課題を、自分のコントロール下に置けるかどうかということだ。

「自分で、自分を、どうしてよいか、わからない」というのが、自分には一番イヤなことだし、一番恐ろしいことのように思われる。「自分で、自分を、どうしたいのか」もわからなくなれば、目隠しをしたまま歩くのと同じような感覚を味わう。それを自分はイヤというほど体験してきた。

操体法に集まってくる方々は、「自分のことは自分で」といった感覚や気持ちを共有してくださっていると思う。この運動療法が、運動の質・動きの改善という手法を通じて、何をどこまでもたらしてくれるのか、興味はつきない。


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自分のハッピーが他人のハッピーにつながってゆく瞬間
2011/06/01(Wed)
※操体法は、動きを通じて感覚神経をはたらかせ、自分にとって気持ちのよいところを見つけ、ちょうどよい加減で動かしながら、心身の回復をすみやかにする運動療法です。
九州・福岡市内にて講習を行っております。自分の体の調整をおぼえながら、自分なりの活動を始めている方もいます。誰でも参加できる定例の講習会(参加費二千円)、少人数で申し込めるプライベート講習や個別もあります。
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他を蹴落として自分が生き残るとか、その逆に、自分を犠牲にして他に幸せになってもらうとか、そういうのとは違う。自分優先でも他人優先でも、さいごはどちらにも互いの感動がある。
まずは感動。それなくしては始まらない。

操体法の講習では、他人を優先で感動をスタートさせる方々も少なくない。操体法で周囲に働きかけ、仕事や社会的な活動にと考える方々もいる。

周囲への働きかけよりも、まずは自分自身の「気持ちよさ」の追及を先にという方々もいる。個人の広がりと延長で、波がしぜんに広がってゆくように周囲への働きかけが発生する。私の場合はこちらのほうに属すると思う。

福岡操体法スタジオの活動は、この二つの立場に対応している。

講習会では操体法全体の把握を目的とした理論と実習を行う。いろんな体にふれ、いろんな状況に対応する力を身につけることを優先させる。
個人のお悩みを追いかけていくのは講習ではむずかしいので、講習で教わったことを各自で活用し、自分の体験を積み重ねることが肝要だろう。

操体法スタジオでは個人指導も充実させている。「自分の体と健康のことにフォーカスしてほしい」という方のフォローと、「自分のことと、プラスアルファで操体法も身につけたい」という方面とに分けられる。

とにかくラクになりたい。元気になりたい。病気やけが、健康上の不安など、とにかく自分の健康と体のことが切実なのである。だんだんと余裕が出てきて好奇心がわいてくると、「これって自分でもできるんですか?」となる。
個人面接指導では、その時々のご自身の体にあった操法からおぼえていけるようにしている。一人あたりの時間をゆっくりかけられるから、ご本人の体の状態の変化を追っていくこともできる。

入口はどっちだってかまわない。自分の体のことを操体法で克服した体験と感動、これは必須である。他人の体・他人の感覚は、突き詰めればわからないとしかいえない世界。自分の体も最後の最後までわかるとはいえないが、自分の体の理解は自分の身体感覚の土台である。そして自分の身体感覚の延長に、他人の身体感覚の理解がある。指導者には確かな自身の身体感覚が欠かせない。

まず自分の体で試す。それを他人にも試してもらう。その結果を見ながらもう一度、自分の体で試してみる。そのフィードバックで進んでゆく。


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