聞けばこの方は伝統工芸大学校で指導されておられるのだそうです。
この方の指導を受けた学生や出身者の何人かとすでにお会いしていることになります。
片面だけの彫ですが、裏に回って彫刻刀を入れます。
裏まできちんと彫らないといい作品にはならないのですね。
仕上げに漆を塗ったり箔を置いたりするような作品のために、ブロックごとにかなり細かく分離できるように彫ります。
そうしないと漆が届かないし、仕上げをきれいにできないからです。
そういう次の仕事への見通しと配慮も重要な技術です。
そして当初の下書きの段階でそういう構造もしっかり見通すのだそうです。
こういう方にお会いして写真撮影の機会を得られることはとても貴重で幸運なことです。
いえ、何も勲章をもらっているとか皇族のレリーフを作ったとかいう事でそういうことを思うのではありません。
仕事・作品に懸ける気持ちが尋常でないからです。
また、伝統の惰性的な継承を越えて革新的であるからです。
そういう人柄を撮ってみたくなるのです。
最近、ある写真展で比較的多くの人物写真を見ることができました。
その会の主宰をされている方のものの考え方がいい契機となってそうした作品につながっていると思いました。
そういうところで人に向かって懸命にレンズを向けている方々の写真を見ると自分のものを相対化して見られてとても刺激を受けます。
そういう機会がもっともっとあってほしいと思いました。
- 2017/04/30(日) 00:00:37|
- 工芸
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以前、古今亭志ん朝 が話の枕で「最近は名人が多くて・・・」なんてぇことを言っていた記憶がああります。
名人、真打の粗製乱造を皮肉っていたわけですな。
しかし、この方は確かに現代の名人の一人なんでしょう。
実績がものを言っております。
元来が福島の方から来なすった方の様で、師匠と言えばそちらでついた方ばかりで終えて、こっちに来てからというものは、まあまず一人で独立独歩てぇわけでして。
大体京あたりの方は師匠についてそれを模して作るばかりでてめえというものがない。そこに行くとわたしなんざあ自分の工夫で世に認めていただけるようになってきたってぇ自負があります。・・・・と江戸落語の口調でお話されるわけではありません・・が。
こういう事でなければとても写真を撮らせていただけるような機会が得られる方ではないのでして・・・・・。
この世界で功成り名を遂げた方であることは間違いないのですが、何が素晴らしいかと言って「まだいろいろやってみるとその向こうにもっとこうしてやろうか、ああもしてみてやろうということが出てきていつまでも尽きんのですよ。」とおっしゃる。
翌日に娘さんにもお会いしたのですが・・・・娘さんは仕事を継いでおられるのですが・・・・父上は「入院した病院にまで仕事を持ち込んで彫っているくらい」お仕事がお好きらしいのです。
今仕事が楽しいというのは、とても高い水準に立ったればこそ見えている世界があって、今まで磨いてきた技でこそ挑戦できることに取り組める幸せだと思うのです。
それは誰彼なしに経験できる境地ではないのですよね。
この人の一挙手一投足が日本の今日の木彫の可能性の拡張なのですから。
だから休む間も惜しいのでしょう。
最初にデザインを描くときに、既に作業のイメージが浮かび、そのためにはこういう道具が必要になるなあと構想して、まず道具を作るんだそうです。
高度な絵描きさんもそうですね。絵の具を探求し、画材を探し、時には筆なども自ら作る。
写真では・・・・。
- 2017/04/29(土) 00:00:44|
- 工芸
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台湾から。
日本語はあまりできないそうです。それでサポート役の日本人女性がついています。
着物地を手に入れて洋服にします。そのデザインがなかなか興味深いです。
柄や色合いの趣味は、やはり中華系の人と日本人ではかなり違うようですが、その応用は大胆で刺激されます。
そこが楽しい。
背景にある写真は同じグループのメンバーの作品だそうです。
モデルがとてもきれいなので、そう言いますと『台湾には色白で細身のスタイルの美人がたくさんいる』と、サポート役女性の情報です。
おお、それじゃあぜひとも写真を撮りに行かないと、食べ物もおいしいそうだから。
実はこの人も別の壁面の写真のモデルをしていて、それは驚くほど妖艶で素晴らしいのです。
照明が見事でこの人からその妖艶さを引き出しています。着ている服も今この人が身に着けているコルセット様のものを中心に・・・。
そしてこの人のウエストの細いこと・・・・。
食べたものが通るのでしょうか?!
けっこうたくさん食べる方のようですが、この細さは・・・・・!!
それにしても外国でこうした展示を企画実行する気持ちの強さはどうでしょう。
本当に感心します。
日本の若者も自身お作品をもって積極的に海外に出ていていますし、活動拠点を海外に置いているものも少なくはありません。
世界はますますボーダーレスなんですが、私の意識は依然として・・・・他府県にさえ出られない。
英語は堪能なのでサポート役の方とは英語で意思疎通。
そしてこうしてサポート役ができる人がまた素晴らしいですね。
今度5月には昨年、撮った「古楽アンサブル」グループがドイツ、日本でCDをリリースします。そのCDのジャケットに私の写真を使ってくれます。写真だけは国境を越えましたが・・・・。
台湾への旅費は北海道に行くより「安い!!」そうですから、台湾で活躍している許さんを頼って写真展をしようかなあ。
- 2017/04/28(金) 00:00:57|
- 服飾
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三月四月は年度の切り替わり。
いろいろなところで顔ぶれが変わる。 ニューフェースにお目にかかる機会でもある。
最高学年が卒業すると、もう3月中に昨日までの1年生が2年生になる。
そして彼らは卒業年度に入ったことを自覚し始める。
卒業年度の最大課題は、当然のことに卒業制作。
2年生のカリキュラムは早い。慣れるのに精いっぱいの年を終えれば、学びの成果を示す制作に取り組まねばならない。
先輩たちの卒業制作の展示を身近に見ながら自覚を深める。
現職の頃毎年「最後の挨拶」をされる先輩諸氏の姿を見ながらいつか自分もああして皆に別れを告げ自分なりにそれまでを総括するんだろうなあと、その日の自分を想像していた。
そして、それぞれに人に対する人物や仕事に対する評価はともかくとして、人生の一区切りを迎えた先輩に対してはしっかり敬意を示したいと思ったものだ。
自分もあとに残る人たちのそういう眼差しを裏切らないように区切りを越えたいと思っていたのだが・・・・。
そういう区切りは遠い昔になり、自分に対する意識としては、毎年訪れるこの時期に対する感慨も次第に薄れて、時間の進み方、展開の仕方の違う「今」を大切にしようという意識が湧いている。
日曜日が他の曜日に対して特別な意味を持つ生活は終わり、毎日が同じ顔をするようになった生活のメリハリは強いられたものではなく、お仕着せられたものではなく自分で設計していくことができる。
そのことを楽しみたい。
ここにいる職人の卵たちを見ていると、一層自分の立ち位置を意識せざるを得ない。
ここに写真を撮りに来るのは彼らを激励する気持ちとともに、自身の姿を見るためなのかもしれない。
「少年易老學難成 一寸光陰不可輕 未覺池塘春草夢 階前梧葉已秋聲」
の句は、若者に対して「うかうかと時を過ごしたらいけないよ。」という諭として引かれるが、そういうことを言われても、凡庸な私などは、言われた時には到底実感できず、何ほどか実感を込めて理解するのは色づいたあお桐の葉を眺める今更になってなのだ。
だから、いま人生の先輩たちが言う言葉に耳を傾けることができる人生の季節となっているわけだが、そこで「後悔先に立たず」を苦くかみしめることになるわけなのだろう。
先に立たなかった「後悔」の苦さを感じることで、残された時間の愛おしさが増すというものだ。
- 2017/04/27(木) 00:00:25|
- 工芸
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あのラーメン(中華そば?)のしょっぱいスープの味はどう感じているんでしょう。
旨い それとも・・・。
外国旅行に慣れているんでしょうかねぇ。
こんな女性たちもいましたよ。
そのうちの一人・・・・。
まるでカーテン一枚を纏ったような・・・。
バックもいいもののようですね。 ゴージャス女子たち。
そして負けず劣らない・・・・・。
いいなあ、まるでニューヨークみたいだなあ。
そう、こういうインパクトが四条通にはないんですよね。
大阪に行けばあるかな。
フジX100fのコマーシャルのための動画がたくさんプロカメラマンによって流されています。(と言うかフジが流しています。)
カメラの特性上、ストリートが多いです。
あれを見ているとうずうずしてきます。
撮りたい! 手に入れたい!症候群。
市内で写真展を見ても十中八九は「花鳥風月」です。あるいはネイチャーです。
ストリート写真は滅多にありません。ポートレートとおなじくらい? あるいは、それより少ない?!
昨日もあるギャラリーのオーナーでご自身が写真家という方と日本の写真の「花鳥風月」好きについて話が盛り上がりました。
一方で森山大道氏などがもてはやされているのにね。なぜでしょう。
- 2017/04/26(水) 00:00:44|
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観光地はこうして写真を撮っていても、お互いほとんど気にしませんね。
問題は観光地以外です。
ただまあ、河原町や烏丸通りを歩いていても、撮りたい状景や人に出会うことはまれですけど。
普段も、カメラはリュックに入れたまま「撮るとしたらどうだろうか・・。」と考えながら歩いては見るのです。
でもなぜかカメラを取り出したいと思う事はごく少ないのです。
本当に何故なんでしょうねえ。
白人崇拝の気持ちの裏返しでしょうか。
それにしてもすごい時代になっているものですね。
北朝鮮を含めて、もっともっとアジア諸国からも日本に、欧米、アフリカ、ラテンアメリカ・・・に出かけて、人々が交じり合えたらなあと思います。
北朝鮮の人を毎年数万単位で日本に来るのを助成したら、ミサイルやイージス艦にお金を使うより安く東アジアの平和が実現すると私は思うのですがね。
日本の中学生もディズニーランドなどに修学旅行に行かないで、平昌にでも行けばいいのに。
解釈改憲や自衛隊海外派遣に知恵を絞るんじゃなくて、こういうことを実現する方途を官僚の優秀な頭を使ってほしいなあ。
日本の大学に中国の留学生が多いと「いったい誰のために税金を使うのか!!」と青筋をたてる向きもありますが、それに要する資金は戦闘機何機分、戦車何台でしょうかね。
そこから国の安全を考えたほうがずっと確実だと私には思えます。
「やあ! 研修かい?」
「はいっ! そうです。」
いいですねぇ。若い人の輝く瞳は。
- 2017/04/25(火) 00:00:49|
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昨年のドイツ旅行で、何が一番楽しかったと言って、ミュンヘンでの「ストリート・フォト」の「実験」程楽しかったものはない。
勿論、ミュンヘンだけでなくドレスデンでもベルリンでも撮りはしましたが・・。
その楽しさが日本の空港に降り立った途端に一挙に萎んでしまったのは、予想はしていたとはいえ、軽い驚きでさえありました。
彼我でこれほど違うのかと。
それもあってしばらく写真を撮る気持ちがちぐはぐで高揚感もなく一か月弱の間撮れませんでした。
そのこともあって昨年はそれまでの年間平均200名であったものが撮らせていただく人の数が140弱となりました。
最近、フジのX100Fに関心があり、また例の逡巡を繰り返しているのです。
大きな一眼レフで撮る、そのことが私にとって全面的な意味を持たなくなってきたことを感じているからです。
(だからと言って意味がなくなってきたというのではなくて却ってある条件では確固としてものとなってきたという事でもあります。)
OVFで視野率74%程度のファインダー、フルサイズの撮像素子・・・、いくつかある私の条件を満たしていないので迷うわけですが。
キャンディッドでは、しかし、今私がメインにしているα900は大きいし、シャッター音が大げさすぎますから、撮るリズムが軽やかになりにくいのです。
フジX20で撮ると、いろいろ弱点や制約があっても俄然違った楽しさが出てくることは実感しています。
画家が筆を持ち替えるように、職人が道具を取り換えるように、カメラを使い分けるというぜいたくをしてみたくなるわけです。
下の写真は、左手の日本人女性の表情と右手のサングラスの大柄な女性の表情とがおもしろいでしょ?!
実はサングラスの女性の背後にもう一人の女性がいてその人の体かリュックが右手の日本女性にぶつかってしまったようなんです。
それで、「なにすんの」という表情なんですが、後ろの女性が盛んに「ソーリー、ソーリー」と詫びているという訳で、状況が飲み込めれば、
でも、前のサングラスの女性は状況が分からず依然として怖い顔をしていますが…。
モバイルフォーンで写真を撮る人も少なくありませんが、多くの皆さんけっこう気合の入ったカメラをお持ちです。
ただ一眼フルサイズじゃないと「素人だねぇ」「わかっているとは言えないねぇ」「写真を本気で撮っているっていうにはね・・・。」なんて雰囲気は感じません。
持っているカメラはバラエティーに富んでいます。
- 2017/04/24(月) 00:00:34|
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付けているレンズが50ミリですので、自分からかなり寄らないといけません。
昔お祭りの夜店の輪投げなどで、店のおじさんが、棒で地面に線を描いて、「ここから入っちゃだめ!」と言っていましたが・・。
こういう場所にも「線」があるわけで、足はその線の外にあっても体はぐっと乗り出して・・・・、「これならいいよねぇ?!」
職人さんによっては「いいですよ。もっと入ってくれて。」とか、「テーブルを動かしましょうか?」などと言ってくれる方がいます。
私が座り込んだり仰向けに寝転がって撮るのを見かねてのことでしょう。
少しだけ口が広かったようです。端を切りとります。
そして口の当たるところですからなお一層念入りに平滑にしていきます。
ふちの厚みをつぶさないように、かつ滑らかに・・・・。
指先の力のバランスをとる神経の集中が口元に出ます。
内側のアールは「型」があって、その板を当てながら形成していきます。
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- 2017/04/23(日) 00:00:24|
- 陶器
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世の中には、実用器としての焼き物もあればオブジェとしての陶芸作品もあります。
この方は清水焼の職人さんです。
トンボで口の広さを確認しています。
これで「同じもの」になるようにしているわけですが、それまでの手びねりや指先の形成でほぼ予期した大きさ形にはなっています。
「ほぼ」の誤差が素人とは大きく違う職人の領域の基準だということがしばらく仕事を見ていれば感じられます。
一つが・・・・この段階ではということですが・・・・出来上がりました。
ろくろを回して土をひねりあげていきますが、目でその形を追っているというのではなくて、掌や指先の感触で土の形の変化を見ているようです。
今日の土は「少し水分が多いなあ。」とのことです。
その日の土に合わせて作業をしなくてはなりません。ちょっと油断すると「広がっちゃうからね。」
それにこの後の乾燥や焼き締まりも計算しながらの作業だと思います。
「一日に・・・・・・そう、120から130個くらいかなあ。」
- 2017/04/22(土) 00:00:36|
- 陶器
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この撮影の後は明日の卒業式で友人たちにあげるプレゼントの買い物だそうです。いや、先生にだったかな?
私の時にはそんなことを考える余裕も甲斐性もなかったですね。
ただその日を迎えて式を終えて、みなと別れて・・・・・。他の仲間は河上肇の墓参に言ったのですが、それが羨ましくて。
梅の花が見ごろでした。
こうしてみると…今は桜の季節も終わってしまいましたが・・・・春めいていい感じですね。
梅の香りに包まれています。
馥郁たる…なんて表現がありますが、こういうことをいうのでしょう。
梅林に入ると何か気持ちが暖かくなります。
桜より奥ふかいしめやかさもあります。
桜の下でのバカバカしい喧騒は見られませんし。
幹や枝に詩情がありますね。
どうだぁ~という咲き誇りもないのがこれまたいいです。
別に梅の肩を持つ義理はないのですが。
小道の輝きも春ですね。
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- 2017/04/21(金) 00:00:01|
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卒業式を明日に控えて、ちょっと春を歩きます。
4月には就職して新しい生活になりますから「人生の節目の記念写真に・・・。」とお誘いしました。
先日、手作り市で父上とご一緒のところを撮らせていただきました。
それで、お父上がとてもいい笑顔だったので「父も家族も『遺影にいいいね。』なんて冗談を言い合っていたんですよ。」と喜んでいただけたようで。
うれしいことです。
普段のあなたらしい服装でとお願いしましたら・・・・。
どうもスポーツウーマンの様で昨年は10キロ(のレース)を4回走りましたとのことでした。
高校では長距離の強豪校の一つに・・・・「厳しい練習でした。」
京都では女子の長距離はレベルが高いですからね。
斯くいう私は高校の時に・・・・競技レベルには遠く及ばない程度でしたが・・・・長距離は好きでしたから、ついお話が長くなります。
そんな話をしながら次第に笑顔を引き出します。
頬のこの辺の筋肉が少し柔らかくなってきたね…なんて冗談もいいながら。
でも、レンズがむけられると瞬間的に・・・どうしようの反応が出ます。 当然です。それが自然です。
「はい、笑って!」は決して言いません。
どんな時に緊張して真顔になるかという事もその人の人柄ですから。
「はい撮ります。」も「いっち に~ さん」も言いません。 合図なしです。
勝手に流れの中でシャターを切ります。
- 2017/04/20(木) 00:00:52|
- 人物
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日本の青年たちが、あちらでトランペット、こちらでギター、さらに向こうではサキソフォーンなどと洋楽器を奏で、ここではアメリカ人が尺八を吹く。
この後、自転車で走ると若い女性が馬頭琴を弾いていました。
まだ入門という感じで楽器もごく新しそうでしたし、弾かれる弓も角度が定まっていないようでした。でも、いい趣味ですね。
それはともかく世界の音楽が混交していくのですね。
今度の写真展の「名前」を知らせてくださいとギャラリーの係の方から電話が入りました。(一か月前の話です)
「ふ~む、今まで『素敵な人たちと』でやってきたけれど、どうしよう。」
「『素敵な人たちと』はやっぱりもう一つじゃない?!ちょっとアピール力に欠けない?!」とかみさんが言います。
( おお、後ろからバッサリですね。まるで籠池氏の心境です。 )
どうしましょう。
この尺八の人も加えた写真展をアピールしようとしたらどういう言葉がいいでしょうか。
一方で若い女性の魅力を写した写真も出したいし。
あれもこれもというのがそもそも盛りだくさん過ぎて規格のピントボケになてしまい、やりすぎでしょうか。
昨年、個展をしなかった付けが回ってきています。そうはいっても今年二度することはできませんしねぇ。どうしたモノでしょうか。
桂枝雀さんはご自身の落語が一番好きで面白いと言っておられたようです。
そういう境地になれるように頑張りたいですね。
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- 2017/04/19(水) 00:00:52|
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予約投稿ですから季節感がかなりずれます。
この日はようやく春めいて暖かさを感じる日でした。
そろそろ鴨川に多くの人が出始めて、服装も軽くなり始めました。
「ここで楽器の演奏をする人も増えるだろうなあ。」との予測にたがわず、あちらではトランぺットをこちらではギターをと・・「いるいる」という感じになってきました。
以前、写真を撮らせていただいた若いサックス奏者も橋の下で練習をされていて「今度の個展で(写真を)使わせてもらうかも。」とご案内をかねてあいさつした処でした。
「是非、見に行きます。」と言っていただきましたが、音楽を愛好する方々との交流ができるといいなあと思います。
私の個展で「ピアノを弾きに行ってあげようか?」と言ってくださる方もおられるのですが、そういうプレーヤーの写真を背後にして色々な方に演奏をしてもらえたら、いい会になりますね。
立ち止まってしばらく耳を傾けさせていただきました。
うまいです! 深いです! 尺八演奏の妙が溢れています。 曲そのものは抑えに抑えたものですが、それだけに難しそうなのすが、素晴らしい演奏で聞き入ります。
単なる東洋趣味、日本趣味では到底達なしえないレベルだと思いました。
優れた師匠に師事して本格的に習ったものと推察しましたが、案の定でした。
アメリカから来られて18年だそうです。
〔上下の2枚を比較して見ると写真てやはり面白いし可能性があるなあと思います。]
練習の邪魔をしてしまいましたが、尺八の音楽について少しくレクチャーしていただきました。
尺八をこれほど吹きこなす方ですから日本語は相当堪能だろうと思いながらも「日本語は話せますか?」と尋ねてしまいました。
以前ある外国からきた人に「そういう質問を繰り返されるのがちょっと不愉快だ。」と聞いていたのにです。
この人にも写真展の宣伝をしてしまいました。
「どこでやるんですか? どれどれ?? 寺町三条・・・・、分かります分かります。ぜひ行きますよ。」
- 2017/04/18(火) 00:00:34|
- 音楽
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前回この建物の外で「勘亭流の書」を展示されていた人が、今回は推薦作家としてブースを占めて展示しています。私のこのブログにも登場していただいた方ですが、今回は、外では専有面積や風などの影響で実現しにくかった実演をして、さらにお客さんの興味・関心を集めていました。
いろいろな作家さんたちの変遷も見られます。
それぞれの作家さんたちはご自身を持って自分の道を模索されています。
そういう方たちにこうした発表の場、機会が提供されるのは良いことだとは思いますし、各作家さんたちも与えられた条件をただ利用するだけではなくて積極的にこの場の可能性を自ら耕していく努力が必要ではないかなあと思います。
その一方で写真にもこういう場が欲しいなあと感じました。
他流試合的な発表の場ですね。
自主的にグループ展などを開いて努力はされているのですが、大概「一刀流」は「一刀流」として、小笠原流はその仲間内でというような状況では、何か緊張感がないですね。
その点、私が参加させてもらっている京都ファインダー倶楽部は「なんでもござれ流」ですからおもしろい。
私は行政の文化セ策の単発的で系統性の無さなどについていささか不満を抱いている一人ですが、しかし、反面、私たち自身が「文化の厚みや活動制」を高める努力が必要だなあとも思っています。
今日とアートカウンシルの人たちなどが積極的に高瀬川などを屋外展示場として、普段「縁がない」人たちにも広く作品を公開しているのは評価できるなあと。
私は個展を計画してはいるものの「見てもらい交流する」仕方としてはもはやステロタイプ化して陳腐です。
何か方法を考えねばなりません。
コーディネータープロモーターを発掘して一緒に取り組む努力も必要かな。
最近芸術系大学にはそういう分野の選考もあることだし。
ただそこに資金問題があるのが大きなネックですねぇ。
学生の実習の教材になってあげるという事で大学に売り込もうかな。
- 2017/04/17(月) 00:00:08|
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京都文化博物館を会場にして開かれたKYOTO ART VILLAGE(京都アートビレッジ)でお会いしました。
アートビレッジのHPでは「普段アートに接する機会の少ない一般の方たちにも気軽にアートに触れてもらい、アートを身近に感じてもらうことを目的とするアートイベントです。
最大の魅力は、アーティスト本人と直接触れ合える」ということ。
アーティストとの交流を深め、アートの魅力を肌で感じて下さい。」と書かれていてその趣旨はとても魅力的に感じます。
ところが年々発展するかと言えば、どうもそういう感じはなくて出店者もお客さんも減少傾向のようです。
どうも企画倒れになっているようで残念な感じです。
それでも会場の中心、核となっている旧日本銀行京都支店で現在は文化博物館の別館となっているレンガ造りの建物では各分野からの推薦作家ブースがあって、一定の高いレベルを示しています。
そしてそれに劣らない力作も集結しているのがこの企画の特徴です。
そこにシルバーアクセサリーのモジョイさんを見つけました。
並べられている作品の中に「クラッシュ」つまりいったん成形したのちにある温度で熱して破壊したものを再構成するという手法で作られたものを見つけました。
それは単に復元するというのではなくて壊れた部分の偶然性を生かして新たな段階に止揚しようとするものです。
「偶然と必然」という言葉がこの人の口から幾度も聞かれました。
この言葉は、私が普段写真を考えるときに意識するモノでもありましたから、彼の話に耳を傾けました。
徹底的に精度を上げた磨きの追求などによって新たに生まれた「これでいいんだろうか」という気持ちが、100%の技を越えることを求めたのでしょうか。
はじめっから主体性を放棄して偶然に任せるというのは芸術でもモノ作りでも、早晩行き詰ると私は思っているし、芸術としての価値も希薄だと思うのです。
「偶然と必然」「意識と無意識」・・・・難しい言葉が並びますが、避けては通れないようにも思います。
ただ、思考としてそういう難しいテーマをいくら深めても制作者としては「結局、モノ(作品)として現出させないと、意味がないからなあ。」ということを深く自覚されています。
そこはまったく同感です。
殊に私の寝ぼけ談義は、です。
- 2017/04/16(日) 00:00:31|
- 装身具
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何故なんでしょうねぇ。
私が時々見せていただくあちこちの写真展で人物を対象とした作品はごくごくわずかしか見ることができません。
もし、あったとしても舞妓・芸子の写真とかプロのモデルを写したものです。
なぜこうも人が撮られないんでしょうか? 不思議でなりません。
こんなに魅力的な被写体なのに・・・・・どうしてでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
腰をかがめたくらいでは撮れない角度に『絵』がありそうなとき、どうするか。
皆さん色々工夫されるんでしょうね。
カメラにもそういう時に対応できるものがありますね。
私は寝ころびます。
足腰の強う時には相当低く構えられたのですが、今では無理ですね。
ですから腹ばいになったり仰向けになってしまいます。
そのほうが安定してしっかりと対象を見られるように思います。
そして望遠系のレンズで撮るよりも、50ミリで自分自身が寄る方がいいように感じています。
無論、135とか200とかで撮ることにも挑戦しますが。
遠くから撮るという事は脚立とかがない限り「見る」角度に制約が大きくなりますから。
そして、ある意味でいくらか対象に対しても「迫る」感を与えます。
そしてそこに撮る側と撮られる側との間に濃密さを作っていきます。
「つい顔を作っちゃうなあ。」などと・・・・この方も…言われますが、職人さんが一番作りたい「顔」は集中し緊張感のある良い仕事動作です。そこが肝心なところです。
表面的な言葉では「いい男にとってや。」と言われますが、職人としての気概は手指の動きとか道具の走りの「いい男ぶり、女ぶり」です。
単純な「自然な表情がいい」派の人たちと、私の考え方の違う点かもしれません。
いいピッチャーにしか好打者のいいバッティングは引き出せない、という事だろうと思います。
そういう意味でこちらが「いい撮り手」たらんとすることが重要なことだなあと感じています。
撮られる側の人は、撮る側の押したり引いたりによって「引いたり押したり」してくるのですから。
そのことでその人の持つ一定の高揚の中でしか生じてこない良質なものを出してくれるのではないかと思います。
見たままありのままに撮るというのは、私の場合はちょっと違うなあと思います。
普段の路地などに生活する人々の表情を撮るときなどは、また違ってきますよね。
人を撮る=自然な表情を撮るのがベスト という式の外にもよい写真はあると思います。
私は半分観光用の公開実演でも職人さんに対して、例え短時間でも本気になっていただけるような関わり方をしたいなあ、そういう姿勢で撮りたいなあと・・・・思うこのごろです。
- 2017/04/15(土) 00:00:37|
- 陶器
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わが宰相は「美しい日本」を取り戻したいのだそうですが、それは軍拡や日本会議的復古教育によってではなくて、是非、職人たちの生業の保障と後進の育成支援の方向でしてほしいものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「案外、職人たちも快く受け入れてくれると思いますよ。」
わたしが、「なかなか実際の工房を見せていただくわけにはいきませんからねぇ。」とこぼした際のお話でした。
そうなんですね。
これまでも「どうぞおいでなさい。」と言っていただいたことがあるのに、それができない「アカンタレ」なんです。
それでこういう場で、せめてのことにと力が入ってしまうのです。
「あまり神経質に同じ形になるようにとは思っていません。そうするとただの大量生産的なものになってしまって面白みが無くなるからです。」
一つ一つ手作りしているからこその味わいあるものにしていきたいとおっしゃいます。
それでも五客おそろいでというようなものですからきちんと測りながらの作業ではあります。
きちんとそろっているという面と、しかし微妙に味が違うという面と・・・・。
銘を入れています。
以前は書いていたのだそうですが・・・。
職人さんたちの仕事を見せていただいて気づくのは、ピアニストやバイオリニストが指で弾いたり弦を抑えたりしますが、その時に全身がその指の最適な動きを支持して動いているという事です。
ですから全身の一部である顔の筋肉もまた集中にした精神の表現になったりしています。
ですから、私は職人さんが写真を意識して「こうしましょうか?」とか「こういう風に止まりましょうか?」というふうに親切におっしゃってくださることがありますが、それをお断りして、普段の作業を続けていただけるようにお願いします。
全身の神経と筋肉がこの指先に連動しているところに「緊張や集中」が表現されていると思うからです。
- 2017/04/14(金) 00:00:32|
- 陶器
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桜の枝には緑の若々しい葉が混じり、満開の花は高い山か北国に行かないと見られなくなりました。(・・と予約投稿では書きましたが、実際は開花が遅れて今まさに満開です。今日は晴れて青空が広がっていますから、花見には最高ですね。)
新緑の世界もまたすがすがしくほんわかしていいものです。
春の山が「笑う」と表現されるのは、言い得て妙だと思いますねぇ。
この竹かごには何が入れられるのでしょうか。
指に巻かれたテープが気になりますね。
「まだ時々傷を作ってしまうんです。」
職人の手指は仕事とともに出来上がっていくんですね。
昔はその人の手指や体つきを見ればその人の職業が分かると言われました。
確かに今でもそういうことは一面いえますね。
猫背気味で首にS字カーブが無くなっている人は一日中キーボードに向かっている人かもしれません。
いえいえ、それはスマートフォンが手放せない人かな。
そういう体や手指の人が築かないほどの微細な特徴を見て「あなたの職業は○○系ですね。」なんて占う人もいるのでしょう。
名探偵××なんていうのもそういう才がありそうです。
職業は長く続ければそれだけ身体に反映されます。
私などもスナックのママさんたちから職業を当てられなかったことは、ごく若いころだけでした。
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- 2017/04/13(木) 00:00:59|
- 工芸
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職人の世界に若い姿を見る、それも若い女性の姿を見る機会は少ないですが、ジャンルによって事情は少し違うようです。
竹細工の世界では・・・・印象としては・・・・比較的女性が多いでしょうか。
「春の職人実演まつり」に指物や象嵌などに並んで「京竹工芸」の分野からも実演の方出ておられました。
職人さんたちの実演を無料で間近に見られる機会が作られていました。
ご自身や会社の工房でも仕事とは環境、条件が違いますし、何しろ人の視線を集め作業中にも声をかけられますから、身体的にだけでなく精神的にもお疲れになるでしょう。
まして、仕事の経験があまり長くないとなれば・・・・。
その上私のようになんだかんだと長い話をしたり、挙句写真をしつこく撮るような者がいればなおさらです。
けれど、工芸仕事を広く理解してもらおう、できれば後継者になるような人が出てくればなおいいなあなどと思うお気持ちで『実演』を業界(組合)としても個人としても引き受けておられます。
それで?私も少しでもその様子が広がるようにこうして写真を撮ります。
まあ、もっとも、主たる動機は別なんですが。
この人は「写真は苦手なんです。」とおっしゃいますのでたくさんは撮りません。・・・・かな?
- 2017/04/12(水) 00:00:11|
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機会があって出会った人に私の撮った写真を見ていただくと「職人さんたちのうちこむ表情がいいですねぇ。」とおっしゃっていただくことがあります。
たまたまそのファイルにそうした写真が多いのもその理由の一つでしょうが、高度な技を持った方たちに対するある種のイメージも働くようです。
そうした高度な技を…外見上・・・・淡々とやすやすと見せてくれます。
いちいち最大限に緊張して、やり遂げられるかどうか・・・・と固唾をのむように仕事をしているようでは、職人ではないのかもしれません。
ある意味で「ルーティンとしてこなしていけるほどに身体化した技能」ということになるでしょうか。
野球のイチロー氏のバットコントロールのように。
考え、意識していたのでは間に合わない世界だろうと思います。
前にも書いたように「意識の無意識化、無意識の意識化」ということがやはりカギですね。
写真も同じだろうと思います。
そこで大事なのは、まず「無意識の意識化」です。
ここがまず難しい。その意識化のためには科学的知見が必要になります。
そこが私には弱い。
さて、いろいろお話しているうちに、ある工程を一周やり終えてから、次へと進むステップを「道具と作業の様子」の紹介として、一か所で次々と進めていただきました。
道具の数ほど工程がある、いえ、加工の違いによって道具が生まれるという事でしょうか。
加工が複雑になればなるほど道具が増え、道具によってさらに難しい加工が可能になる。
まさに弁証的発展過程だなあ。
彫る彫刻刀ではなくて、山の背に凸のアールをつける彫刻刀です。
そして今度はその山のラインが反るように形成しています。
そしてまたアールを調整して・・・・・・。
- 2017/04/11(火) 00:00:07|
- 工芸
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少々撮影条件が悪いです。
もっと高感度で撮れるカメラなら問題はないのかもしれませんが。
仏壇の一部を作っておられます。
鉛筆で見当がつけられていますが見えない側から彫刻刀を入れて雲形の線を描いて掘り込みをきちんと鉛筆の線に削り口がそろえています。
線が見えていても難しいだろうなあと思いますが、すべて経験に裏付けられた感と手指の感触でピッタリです。
「それほど意識して彫っているわけではないけど、まあそこはね・・・・。
それにまだこれで完成ではなくて・・・・。」
谷になる部分も山になるところもまだまだ形成していくのですから、そこで修正も利くとはいえ・・・・・。
全身が彫刻刀の先に集中しています。
- 2017/04/10(月) 00:00:41|
- 工芸
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漆器づくりを公開で見せるのはなかなか難しいようです。
というのもお客さんが漆に「かぶれる」危険性があるからです。
敏感な方は会場に入っただけで反応するでしょう。
職人さんでも家業が漆器制作などであった場合には小さいころにもうすでに「慣れ」てしまっていますからいいのですが、ある程度の年齢になってから「入門」された人にはご苦労があるようです。
今は最後の仕上げ塗りの前の磨きをされています。
桐を焼いて作った墨で丹念に丹念に磨いておられます。
わずかな凹凸でも残っているとその影響が出てしまいます。
漆の机などの天板が火をかざしても全く鏡面の様な仕上がりの名品がありますが、それはこうした作業によるものです。
ほんのわずかな埃も嫌いますから、元来このような場所でできる仕事ではないのです。
指先に感じるわずかな表面の変化をとらえて磨きます。
こうした場所で作っているものは商品にはならないので、やり直しだとのことです。
椀などの曲面に合わせるためには桐の柔らかさがちょうどよいという事で、磨くうちに墨そのものが曲面を持ちます。
光っている部分がお分かりだと思いますが、水でふくと見事な鏡面が現れます。これが仕上がりのイメージです。
ただもう一度漆を塗るんだそうですが。
磨いている間はこんな感じです。
そして、・・・・・。
ただ漆器の什器や家具の未来はあまり明るくありません。
- 2017/04/09(日) 00:00:40|
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絵に描かれた世界の一部を立体化しています。
元来モノ作りが好きだという事で、プラモデルの組み立て設計図や手順書に見立てたものや完成図をイメージした作品です。が、そこに多くのユーモアやメルヘンが仕組まれています。巧みです。
私たち世代は身近な木切れから小刀で部品を削りだして、一からおもちゃを作り出さざるを得なかったので、それはまたそれで、そのことが多くの経験や知識となり手指の巧緻性の育成ともなったわけです。
出来上がったものは、多くの場合余り精巧でもなく見てくれも良いものとは言えなかったのですが、作る過程は楽しく、また自分で制作したモノへの愛着や誇りがありました。
友達の中にはとても器用で知識も豊かなものがいてそれはそれは憧れるようなものを作り出す者がいて、周囲の尊敬を得ていたものです。
のちに工場によって準備された組み立て式のプラモデルが登場しましたが、それは購買力のある家庭の子供の楽しみとなりました。
それでもそれを枠から切り離してきれいに成形し、着実に組み上げるのもまた楽しい作業でしたし、器用さが求められました。
この人はさらにその後の世代ですが、個人史としては私たち世代のしたことから体験してきたようで、本当にモノ作りが好きなようでした。
その気持ちが絵の中にたっぷりと反映されています。
そしてそこには私たちの世代であれば電気コードのコンセントを持ち出すところにUSBを描くなど現代性にも溢れています。
まもなく卒業制作を準備することになるわけですが大きな作品を考えているそうです。
大学は遠いですから見せていただくことができないのが残念ですが、健闘を期待したいですね。
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- 2017/04/08(土) 00:00:01|
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私を基準にしてものを測るということ自体が、既に事柄の評価を間違える元なのでしょうが。
大学の3年生が終わる時期です。これから最終学年を迎えるに当って自分の位置を確認したい、そういう思いであえて大学のある地域ではなくて遠い京都で個展をしています。
ほとんどの期間、大学のキャンパスというかボックスにうずもれていた私には到底思いもよらない発想です。
当時の学生でも音楽や芸能活動など、またバイトを通じて広く世の中と渡りあっているものがいたのです。
学生運動についても広く全国的視野で活動しているものもいたのですから。
それにしても自身の才や腕前を広く世に問うなどという事は、もし当時の私なら怖じ怯えて大学のたこつぼから頭一つも出すことはできなかったでしょう。
それだけに最近の若者の様子を見て随分と叱咤されるのです。
無論、学生・若者の言動や様々な作品を見て本当にこれでいいのか、大丈夫かと思う事は毎日山のごとくあるのです。
否定的なことを挙げれば一晩でも二晩でも話すことができるくらいの暗澹たる気持ちを持っているのも事実です。
しかし、一方で新しき人々が生まれ出てきていることもまた事実だと認めないわけにはいかないし、そのことに正当な光を当てないと、それこそ、この列島上の人々の心・知性がおかしくなってしまうんじゃないかと危惧もするんです。
ですからこういう青年に出会うと本当にうれしいし、期待も膨らむのです。
彼の作品は彼のHP上で見ることができますのでぜひのぞいてあげてほしいと思います。
以前の作品と見比べるとその成長の勢いがすごいことが分かります。
学生ですから「発展途上人」であることは勿論です。
たらないモノもいろいろ感じます。
ですが感性の底に人の存在や活動への共感や尊敬が確かに潜んでいると感じられる彼の絵は、女性たちが素直に興味を感じ「絵本にしては・・。」「子供に見せたい」という感想を漏らすものなのです。
子供に見せたいと母親が感じるという事は大切なメルクマールです。
- 2017/04/07(金) 00:00:24|
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ホーホケキョー ケキョケキョ ホーホケキョ
小さな小枝をくりぬいて鳥笛にしています。
そしてそれが可愛らしいペンダントに。
この愛らしい鳥の「鳴き声」に誘われてお客さんが集まります。
私くらいの年恰好のものは懐かしさもありますね。 子供のころ竹を削って作りましたし、縁日でも売っていました。
お父さんが製作をされているようですが娘さんもとても上手に吹かれます。
お父さんが作ったものを娘さんが楽しむ・・・・・幼児や学童期ならそういうことも珍しくないでしょうが、大人になってもこうして一緒に出展を楽しめる親子関係。
お二人の仲の良さをとても感じさせます。 羨ましい親子関係ですね。
プレゼントするとか一緒に旅行に行くとかもありますが、むしろこういうことが親孝行ですよね。
ピチクピチクピー
材料の木の枝は拾ってきて磨き、穴を穿つのだそうですが、木の種類はいろいろです。
そしてその木の魅力を語るお父さんの表情は「埋もれていたり汚れていたりするものの中から見つける」ワクワク感に輝いておられます。
- 2017/04/06(木) 00:00:19|
- 手作り市
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昔、同僚の一人が「三月四月は嫌いだ。」とつぶやいていたのを思い出します。
他にも理由はあったのですが、「別れの季節だから」ということがその一つの訳でした。
確かにそうですね。
「今こそ分か~れめ いざ~さら~ば』ですからね。
しかし、それは分かれていく者たちの「旅立ちの時」でもあるわけでして、
新たな生活への飛躍をする瞬間でもあるわけです。
この人も中国地方のある芸術系の大学を卒業して東京の芸術系大学の院に進学をするんだそうです。
若い女性の姿を描いていたことと、この人自身が写真に関心を持たれていたことで話が弾みました。
若い作家たちへの期待が大きいことと、分野のいかんを問わず芸術や工芸の世界で「生活」を維持し「創造」を続けていくことは並大抵ではない現実がありますので、つい話に熱が入ってしまいます。
この人もそういうことについては良く自覚されているようでした。
しかし、新たな可能性を感じて冒険するのが若者の特権であり、特性でもありますから、羨望の気持ちを持ちつつ写真を撮らせてもらいました。
今いる大学と東京、そして絵画展をしているこの京都。移動だけでも大変ですし、やがては引っ越しをするんですから何かと面倒ですが、・・・・振り返れば私自身の経験でもあるわけですが・・・・若いという事はそういうことをどんどんクリアしてしまうものなんですね。
- 2017/04/05(水) 00:00:25|
- 絵画
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このページを書いている日は「明日は京都ライカ店で安珠氏の写真展のレセプションがある」という日です。
あるギャラリーのオーナーさんが毎回「「一緒に行こうよ」と誘ってくれるのでもぐりこめるのです。
幸い私には「ライカほしい」熱がありませんので会場であるライカ店に行っても心穏やかに写真を見ることができるのです。
「いい写真を見て『もっと撮りたい』衝動を掻き立てたい。」というのが誘われる理由のうちの一つです。
現代の技術のお蔭で自分の机の上のモニターで、内外の写真家の作品を・・・・当然「生」ではありませんが・・・・・見せてもらえます。
そしてそれを見て「う~ん。」「なるほどねぇ」「すごいなあ」とうなることが度々あるのです。
写真の世界の魅力を大いに感じさせてもらえます。
ありがたいことですね。・・・・ただそれで「生」を見ないで、見た気にだけなってしまう落とし穴があると思うので、先述のような写真展に出かける意味があるように思っているのです。
ただ、残念なのは、件のオーナー氏とともに「期待外れだったね。」と言って飲みなおすことの方が多いのですが。
(お店の客寄せ企画という条件下では十分なことができないのかもしれませんね。)
さて、この人の笑顔を見れば「どんなロケーションでどんなアングルならもっと笑顔の魅力を捕まえることができるだろうか。」と思うのです。
人の気持ちまで明るくする笑顔を持つ人は素敵ですねぇ。
私にはない力です。
こういう手作り市のようなところでも、店の前を通りかかって一瞥した刹那に、「立ち止まって話をしたい。」「商品の事を聞いてみたい。」と直感させ、話しかける前に「どうぞ」という空気を感じさせてくれる人と、そうでない人がいます。
私など、元来が「人見知りする」タイプの人間にとって、「何か用!?」という空気を出している人はどうしても苦手で、敬遠してしまいます。
それに反して・・・・。
- 2017/04/04(火) 00:00:41|
- 手作り市
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今日が手作り市デビューなのだそうです。
京都市内にはいくつもの市がありますから、どこを選ぶか迷う事でしょう。
「手作り市」だから「何なら出品していいのか」が問題です。
・・・・そういう風にお考えになるところが至ってまじめな方だなあと思いますし、逆に最近のあれこれの市の一部に見える実態は「手作り」市というイメージからかなり外れてきているように思います。
あまり野放図にまあ何でも受け入れよう、もうこういうことになってしまっているのだからと惰性になると、長期的には自らの首を絞めることになると思うのですがね。
まあ、そうなれば、また新しい市が立って、新機軸が生まれるかもしれません。
そのためには「ものづくり」を楽しめる人が増えなくちゃいけませんね。
写真についていえば、ポストカードを中心に販売される方は何人かいますが、撮ることを販売される方はお一人かな。
見ることを販売する人はいません。この角度からの参入はできないものか色々空想してみます。
別のストリートでは音楽をする人は演奏して「投げ銭」を得ています。
初めて参入される方は事前にはお客さんが立ち止まってくれるかどうか心配でしょう。
でも、どうです・・・。
お父さんは「娘よりお風呂が長い」のだそうです。
というのも、「枝をきれいに洗っているとつい時間の経つのを忘れて・・・。」
「そうなんです。気づくとこんなにたくさん持ち込んで・・・・・。」
「いや~ どうも、アハハハ」
- 2017/04/04(火) 00:00:20|
- 手作り市
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6年前に手作り市なるものに足を運ぶようになり、その頃は見るもの聞く物珍しくて、出店者の方々から多くを学ばせてもらいました。
そのおかげで瀋陽に仕事をしに行く気持ちにもなれたわけで、その経験はその後の私に大きな影響を与えました。
その手作り市では、一部の方からはお馴染みさんになりました。
それで逆に「おや、珍しい方が。」「最近出展された方ですね。」ということが生まれます。
以前、かわいいお子さん連れで出店されていましたが今日はお一人で。
そのお子さんがとても賢くされていましたし、「はじめてお目にかかりますか?」ということで少しお話をさせていただいたことがありました。
この日は少し暖かさのある日でしたので「お客さんもちょっと増えたかな。」
前回は寒い日だったのでした。
カメラを向けると・・・・・。
お仕事や子育ての合間を見つけて作られたアクセサリーを販売されています。
大切な気分転換にもなっているようです。
この日は「リュックを軽くしよう。」とX20しかもっていないのがちょっと残念でした。
どうもこの頃、体のあちこちがガタピシしてきて・・・持久力も落ちてるし・・・・困ったものです・。
それにしても、私の感じで言うと、このごろ手作り市への新規参入者が少ないのじゃないかと・・・・。
まあ、その時の流行もありますからね、いいんですけど、少し寂しいですね。
何か物作りを楽しんでいて、ちょっと人と楽しさを共有したいなあ、共感できる人を見つけたいなあという人が・・・・別の仕方が広がっているのかもしれませんが・・・・・少なくなっているのかな。
こうして一日、立ってお店番をするのは、楽しい面と同時に苦労、苦痛もあるのです。
どこかのお店に置かせてもらう方が楽ですから、そういう方向に流れているのかもしれません。
いろいろな人とお話しできるのが一番楽しい・・・と、そんな人がもっともっと出てきてほしいなあ。
- 2017/04/03(月) 00:00:35|
- 手作り市
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あちこちで入学式の話題が。
私はあまり小中高の時期について、いえ大学生の頃もですが、多くの記憶を持っていません。
自分の写った写真がほとんどないのも記憶が消失してしまう原因の一つでしょうか。
高校2年生の時だけが他と違い鮮烈な記憶の中にあります。
近いうちに大学のミニ同窓会がありますが・・・・、同窓生との思い出もまた今や霞の中です。
リタイア後の、私自身の尺度の中では括目する経験の記憶ももどんどんと過去の帳の向こうに行ってしまいます。
最期のその時に人は一体何を思うのかとふと思います。夢は枯野を駆け巡るのでしょうか。
そういう思いはこのような青春の姿に刺激されておこる感慨なのでしょうか。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」
そうなんだろうなあと思います。
しかし、だから結局そうであるのならば・・・という事から「では、今をどうするか」という判断と行動が人によっておおいに違ってくるのでしょうね。
ソプラノサックスです。
吹いているのは「A列車で行こう」でしょうか。
楽器も高価なのに二本も持っているんですねぇ。
自分が「あのカメラ買いたい」病を長引かせているので、どうもこういうのが羨ましくて・・・。
この人はビッグバンドで活躍しているそうですが、仲間との演奏は楽しいだろうなあと・・。
- 2017/04/02(日) 00:00:28|
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