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06月20日 [時]
毎年春と秋に一輪だけ花をつけてくれる薔薇、プリンセスミチコです。
今日は人生いろいろと考えています。いろんな出会いや、季節の巡り会いに感謝しながら。
数ヶ月から半年間、当ブログの更新をすることができなくなりました。
また再開できることを楽しみにと、ご挨拶のみです。 2017.06.20.SILENT
アオバトが駅前の空や、街の上空を行き交っています、空からの眺めいいでしょうね。夏の海
06月10日 [いのち]
今週はいろいろなことがありました。一ヶ月以上通っていた歯医者さんの治療が芳しくなく、その歯医者さんに相談して大学病院の紹介状を書いてもらい口腔外科に行き、レントゲン撮影とCTで口周辺を検査してもらいました。結果親知らずに虫歯の感染症が深く進行していた模様で、急遽一泊入院で抜歯しました。町の歯科医で何度もレントゲンを撮って治療していたのに何故わからなかったのでしょう。CTの検査機械は、GM製や、東芝製があって一台2,000万円くらいするようにネットでは書かれています。大学病院の医師は、こちらには武器があるからねと言い、先生の診断で所見の違いがあるのは当たり前と仰います。あとは患者も勉強して医師との信頼関係を作ることですとも仰います。
確かにその通りで、歯や口の痛みはレントゲンでは写りませんね。
ここ数週間嫌な夢を見たのも虫歯が原因のようです。
最近の歯の治療では、抜歯を避け、神経も取らずに治療して高齢でも自分の歯が残るようにするのが流れとしてあるようです。感染症が拡がり他へも感染症の拡大があったら抜歯せざるをえないのでしょう。傷口が硬化すると口も開けられなくなるとの事で、指先で上顎と下顎を広げる動作を繰り返しています。
この動作はいつかした記憶があります。鏡を見ながら昔上の歯を抜いたとき同じ動作をしたことを思い出しました。早く元の状態の口に戻ることを願いながら。街の歯医者さんでは治療のための痛みからくる顎関節症で口は大きく開けないように言われ、毎晩マウスピースをはめて寝ました。今は抜歯後の大きく口を開けなさいという局面。人を信頼するということも難しいのだと思う出来事でした。
困ったら大病院へ行けば解決するという問題でもないですし。
山の緑も濃くなり、数回アオバトの群れが飛ぶのを街の上空に確認しました。
散歩の途中で、カラスが私と犬を狙い低空で脅しをかけ旋回してきました。望遠レンズで狙い目があったカラスなのか、縄張りを侵入したので攻撃を仕掛けたのか。恐怖の一瞬でした。カラスは犬の知能より数段頭がいいと言います。何か脅しをかけた理由があったのでしょうが不明です。
ヒッチコックの有名な『鳥』のシーンを思い出してしまいました。この街にカラスが多くなっています。東京では少なくなったカラス移動してきたのでしょうか。
今日の夕刻の散歩で、犬が突然飛んでいた虫を捕らえました。すぐに吐き出した虫は、玉蟲でした。
最近は玉蟲に出会うことが少なくなりました。羽が一枚落ちていて大事に拾って帰ったこともありました。犬の口から離された虫は元気で、家に持ち帰り撮影してから放してやることにしました。
何か吉兆の虫のような気がして嬉しくなったのですが。早速玉虫くんの背景になるものを探して、マクロレンズで撮影しました。夕闇の空に羽音を響かせててから飛び立ちました。
今日は般若心経を書いていました。その経文と玉虫の対比似会いすぎでした。
羽を広げひっくり返った体を起こそうと懸命です。天使も仰向けからこんな動作で立ち上がるのかと。
光をまとった虫です。玉虫の厨子が作られたわけがわかるような流れ
光を放つ玉虫の厨子には、捨身飼虎図を思い出します。初めて見たこの図に涙したことがありました。
06月04日 [時]
元働いていた会社の同窓会があって東京へ出かけた。
集合時間まで間があるので、会社から徒歩5分で行けた蕎麦の、まつやに出かけた。開店時間の前には行列ができていた。神田淡路町交差点近くの、太平洋戦争の下町の火災にも奇跡的に焼け残った一角の中にまつやはある。神田青果市場が近くにあり市場関係者も昔は多く出入りした店と聴いたことがある。
近くにはアンコウ鍋の伊勢源、鳥のぼたん、甘味どころ竹むら、藪蕎麦本店、喫茶ショパン、西洋料理松栄亭などの老舗がひしめく。
まつやの店内には土曜日の開店時間前に並んだ甲斐があり直ぐに入れた。
天井を見上げると大きな格子状の灯りと、店のまつやの松の姿が窓の装飾にある。土間と奥の調理場からオバさん連中の店員が慌ただしく注文の品を運ぶ。
店主が奥に座り、会計処理をしていたのだがこの日は店員が会計の処理は此処の客にしていた。
昔から店員の方は白か紺のハイソックスを履いている。
注文は大盛りにした。メニューをちらりと見ると、かき揚天丼の名があった。昼に蕎麦では物足りなかった若い頃、かき揚天丼をいつも頼んだ。蕎麦は昔と同じでうまい。
初めてこの店に来たのは、約50年の昔だと気づいて驚いた。当たり前にそんな時間が過ぎていた。
初めてこの店を訪れたのは、池波正太郎さんの本のページからだったか。十代の終わりの歳の頃、地味なものが好きだった。特にこの一角の寂れた大人の街の印象が好きだった。
まつやの夜では、池波志乃とご亭主の粋な二人連れもあった。
藪蕎麦本店は数年前に火災のため再建されたが、昔から黒塗りの車が門前に停車して好きにはなれない店だった。伊勢源はアンコウ鍋だが、夏でも営業していて二階の座敷で独占して夏の夜の晩餐を食べたのは思い出に残っている。甘味の竹むらは、二階で昔は句会も開かれていたという。
近くには万世橋の駅の跡に交通博物館があり何かレトロで時間が止まっていた。付近には羅紗ありますと看板の出た生地屋のビルも何軒かあった。
竹むらの店先を見て、揚げ饅頭を思い出した。この店内も昔ながらの叩きの土間だ。
最近であろうか十年は経つのか寄席の幟があった。奥には藪蕎麦の看板が見える。
自分が十代にタイムスリップしたかのように、画像はこの日に撮り、セピアカラーに変換した。
中央線の列車が旧万世橋の煉瓦のアーチの上を走行していく。
煉瓦塀の向こうへ歩いていく、遠い昔の自分を見た。
煉瓦塀の向こうに歩いていく、今の自分に姿は変わった。
昌平橋から秋葉原方面へと脚を向ける。
川面の姿は、半世紀前も一緒。波紋が描くのは高層ビルなのだが。
煉瓦と高層ビルは何か馴染んでいた。
秋葉原から神田まで山手線に乗る。途中秋葉原駅前に健在のラジオセンターにも脚を運んだ。
会社の同窓会は多くの人たちが集まった老若男女、数十年ぶりに会えた人もいる。女性の顔は分からない方が多い。現役の人もかなりいる。縁あって数年から数十年を共に働いた人々。参加できなかった人達のメッセージが読み上げられる。騒音と喧騒でみんな聞いてはいないけど。名前に懐かしさが蘇る。
十代で入った会社の創業者がN.Y.で修行中に、母からの手紙が聖書よりも大切で大事なものだと話し、社員の誕生月には、ケーキを贈ってくれた。家庭的でアットホームの会社だった。間も無く創業も100年を迎えようとしている。
一人の先輩の男性が、会の締めに話された。「自分は昭和38年上京しこの会社に入り、翌年東京オリンピックを迎えたのです。2020年東京オリンピックの年にもう一度集まりましょう」
1964年のオリンピックの年まだ自分は高校生だった。この会社に入り数年後新幹線で大阪万博への市場調査をこの会社の上司は許してくれたことを思い出した。神田駅周辺の光景の今
帰りには東京駅で降りた。中央郵便局へは仕事の荷物の発送や、新しい切手を買うためによく通った。
駅舎の南口のドームとステーションホテルの入り口
ひたすら光が美しい 昔の光も今の光も チリが踊る
中央郵便局はKITTEビルに生まれ変わった
化粧品メーカーのイベントが
丸ビルにあるような古風な帽子
最後に東京駅の東海道線ホームから 松本清張の作品「点と線」を思い出して
集合時間まで間があるので、会社から徒歩5分で行けた蕎麦の、まつやに出かけた。開店時間の前には行列ができていた。神田淡路町交差点近くの、太平洋戦争の下町の火災にも奇跡的に焼け残った一角の中にまつやはある。神田青果市場が近くにあり市場関係者も昔は多く出入りした店と聴いたことがある。
近くにはアンコウ鍋の伊勢源、鳥のぼたん、甘味どころ竹むら、藪蕎麦本店、喫茶ショパン、西洋料理松栄亭などの老舗がひしめく。
まつやの店内には土曜日の開店時間前に並んだ甲斐があり直ぐに入れた。
天井を見上げると大きな格子状の灯りと、店のまつやの松の姿が窓の装飾にある。土間と奥の調理場からオバさん連中の店員が慌ただしく注文の品を運ぶ。
店主が奥に座り、会計処理をしていたのだがこの日は店員が会計の処理は此処の客にしていた。
昔から店員の方は白か紺のハイソックスを履いている。
注文は大盛りにした。メニューをちらりと見ると、かき揚天丼の名があった。昼に蕎麦では物足りなかった若い頃、かき揚天丼をいつも頼んだ。蕎麦は昔と同じでうまい。
初めてこの店に来たのは、約50年の昔だと気づいて驚いた。当たり前にそんな時間が過ぎていた。
初めてこの店を訪れたのは、池波正太郎さんの本のページからだったか。十代の終わりの歳の頃、地味なものが好きだった。特にこの一角の寂れた大人の街の印象が好きだった。
まつやの夜では、池波志乃とご亭主の粋な二人連れもあった。
藪蕎麦本店は数年前に火災のため再建されたが、昔から黒塗りの車が門前に停車して好きにはなれない店だった。伊勢源はアンコウ鍋だが、夏でも営業していて二階の座敷で独占して夏の夜の晩餐を食べたのは思い出に残っている。甘味の竹むらは、二階で昔は句会も開かれていたという。
近くには万世橋の駅の跡に交通博物館があり何かレトロで時間が止まっていた。付近には羅紗ありますと看板の出た生地屋のビルも何軒かあった。
竹むらの店先を見て、揚げ饅頭を思い出した。この店内も昔ながらの叩きの土間だ。
最近であろうか十年は経つのか寄席の幟があった。奥には藪蕎麦の看板が見える。
自分が十代にタイムスリップしたかのように、画像はこの日に撮り、セピアカラーに変換した。
中央線の列車が旧万世橋の煉瓦のアーチの上を走行していく。
煉瓦塀の向こうへ歩いていく、遠い昔の自分を見た。
煉瓦塀の向こうに歩いていく、今の自分に姿は変わった。
昌平橋から秋葉原方面へと脚を向ける。
川面の姿は、半世紀前も一緒。波紋が描くのは高層ビルなのだが。
煉瓦と高層ビルは何か馴染んでいた。
秋葉原から神田まで山手線に乗る。途中秋葉原駅前に健在のラジオセンターにも脚を運んだ。
会社の同窓会は多くの人たちが集まった老若男女、数十年ぶりに会えた人もいる。女性の顔は分からない方が多い。現役の人もかなりいる。縁あって数年から数十年を共に働いた人々。参加できなかった人達のメッセージが読み上げられる。騒音と喧騒でみんな聞いてはいないけど。名前に懐かしさが蘇る。
十代で入った会社の創業者がN.Y.で修行中に、母からの手紙が聖書よりも大切で大事なものだと話し、社員の誕生月には、ケーキを贈ってくれた。家庭的でアットホームの会社だった。間も無く創業も100年を迎えようとしている。
一人の先輩の男性が、会の締めに話された。「自分は昭和38年上京しこの会社に入り、翌年東京オリンピックを迎えたのです。2020年東京オリンピックの年にもう一度集まりましょう」
1964年のオリンピックの年まだ自分は高校生だった。この会社に入り数年後新幹線で大阪万博への市場調査をこの会社の上司は許してくれたことを思い出した。神田駅周辺の光景の今
帰りには東京駅で降りた。中央郵便局へは仕事の荷物の発送や、新しい切手を買うためによく通った。
駅舎の南口のドームとステーションホテルの入り口
ひたすら光が美しい 昔の光も今の光も チリが踊る
中央郵便局はKITTEビルに生まれ変わった
化粧品メーカーのイベントが
丸ビルにあるような古風な帽子
最後に東京駅の東海道線ホームから 松本清張の作品「点と線」を思い出して
06月02日 [人]
昨夜の夢は嫌だった。
玉子に着色をするので、その色見本を探し出す仕事だ。何のために着色するのかは、色付き玉子を販売するからなのだろう。足元にうまい具合に黄葉して美しい枯葉があった。それも色見本になると葉を集めた。紙の色見本から選ぼうとするが、風が吹き始め飛んでいってしまう。おまけに色見本を貼る白い台紙が見当たらない。小さな役に立たない台紙ばかりだ。引き出しを開けると中味が溢れるほど飛び出し悲惨だが、台紙は見当たらない。
何色卵のための色数を用意するのか、気になる。一色だけでは足りないだろうし、五色なら何故五色なのかと悩む。
卵の殻を染める色見本の夢、現実とも繋がっていた。昼間冷凍庫の引出しにぎっしり詰まった冷凍食品を見て無理矢理押し込んだ。紙を探して彼方此方の引出しを開け満杯であるが、見つからなかった。
夢の中でも引出しの続きを探す作業をしていた。昔は素敵な夢を見て、夢の中でも大事な夢だから続きを楽しみにと眼が覚めたのだが。
色見本の色の選出に、どこまで必然性や、論理性があるのか、夢から覚めても悩んでいる。
嫌なゆめだった。夢は夢の世界でありたい。
横尾忠則さんの全版画集を観た。何か深層心理に呼びかけてくる好きな画集だ。
懐かしい風景のように
ストリートファッションの写真集を観る。今は本からインスタグラムの世界になっているのだが。
コンゴの男性の迫力ある着こなし。英国のエレガントを黒人のアングロマインドで見事に消化。
暑い季節になると原色の着こなしが、元気を出してくれますね。
最近Jアラートが気になり、スマホをチェックした。彼の国のミサイルは沖縄あたりには十数分で到達するのだと知った。日本海上の落下地点の延長線上には、日本の核貯蔵施設や米軍基地が存在している。
アラートが鳴ったら、窓際から離れ室内の奥に移動し、スマホのアプリで風の流れをすぐチェックしろという。ミサイルに何が積まれているかはわからない。
こんなことを現実とする世界のストレスは嫌だ。「たとえ世界が滅びようとも貴方はリンゴの木を植えますか」
玉子に着色をするので、その色見本を探し出す仕事だ。何のために着色するのかは、色付き玉子を販売するからなのだろう。足元にうまい具合に黄葉して美しい枯葉があった。それも色見本になると葉を集めた。紙の色見本から選ぼうとするが、風が吹き始め飛んでいってしまう。おまけに色見本を貼る白い台紙が見当たらない。小さな役に立たない台紙ばかりだ。引き出しを開けると中味が溢れるほど飛び出し悲惨だが、台紙は見当たらない。
何色卵のための色数を用意するのか、気になる。一色だけでは足りないだろうし、五色なら何故五色なのかと悩む。
卵の殻を染める色見本の夢、現実とも繋がっていた。昼間冷凍庫の引出しにぎっしり詰まった冷凍食品を見て無理矢理押し込んだ。紙を探して彼方此方の引出しを開け満杯であるが、見つからなかった。
夢の中でも引出しの続きを探す作業をしていた。昔は素敵な夢を見て、夢の中でも大事な夢だから続きを楽しみにと眼が覚めたのだが。
色見本の色の選出に、どこまで必然性や、論理性があるのか、夢から覚めても悩んでいる。
嫌なゆめだった。夢は夢の世界でありたい。
横尾忠則さんの全版画集を観た。何か深層心理に呼びかけてくる好きな画集だ。
懐かしい風景のように
ストリートファッションの写真集を観る。今は本からインスタグラムの世界になっているのだが。
コンゴの男性の迫力ある着こなし。英国のエレガントを黒人のアングロマインドで見事に消化。
暑い季節になると原色の着こなしが、元気を出してくれますね。
最近Jアラートが気になり、スマホをチェックした。彼の国のミサイルは沖縄あたりには十数分で到達するのだと知った。日本海上の落下地点の延長線上には、日本の核貯蔵施設や米軍基地が存在している。
アラートが鳴ったら、窓際から離れ室内の奥に移動し、スマホのアプリで風の流れをすぐチェックしろという。ミサイルに何が積まれているかはわからない。
こんなことを現実とする世界のストレスは嫌だ。「たとえ世界が滅びようとも貴方はリンゴの木を植えますか」
05月28日 [花]
先日小田原のフラワーガーデンへ出かけた。フラワーセンターやフラワーガーデンと紛らわしいなの植物園が県内でも多いのだが。こちらは小田原フラワーガーデンだ。
薔薇の花が満開で、入園料も無料とあって楽しい。
ペンタックスの小型カメラに昔の110カメラのレンズをつけて出かけた。絞りは2.8の解放のみでしか撮影できない。どこかレトロな甘い画像が撮れるレンズだ。
薔薇の季節今年はあちらこちらで撮影を重ねた。
花の香りが獲れないのが悔しくはあるのだが。
今日は久しぶりに海に出た。ビーチバレーをする人々やバーベキューの人。
帰って、この間求めた昔の織り機の筬を手に取る。細かい鉄の金筬を透かして向こう側の光景を撮る。
格子戸の向こう側の世界のようで好きな世界だ。
昔浅草で求めた狐の面を飾る。
半夏生 琴の音聴いて面かぶり 無音
05月22日 [花]
近所の山へ散歩に出かけると、緑の分量が多い中にひっそりと咲く花に出会う。
数年前に名前を知った、源平菊、赤い花は後から咲き始め、最初は白花で源氏の方が先とはおかしいのだが。
ひっそりと夕暮れが似合う花、ホタルブクロ。
植物学的には花の表と裏が釣鐘状の内側と外でひっくり返っているのだとか。よく見れば表はマットで、内側が光沢があり、虫の関係とその光沢が関係しているように思えるのだが。
谷筋に向かい、闇がある。微かな風で葉が揺れる。一ヶ所の葉だけ揺れるのは不思議で、風の道があるのだろうか。
仰ぎ見れば、新緑の花芽と初夏の空。
よく見る花なのだが、名も知らない花が好きだ。
ウツギの花と、光の水玉
ガード下の光の壁
ミラーの手前の壁
此の花もウツギか
白壁のゼラニューム
足元に多い花
銀花 スイカズラ 好きな花 初夏の香り
金花
銀の花
何となく
やはり凄い 光の滲み
海にでるなじみのこみち小判草
明治の頃英国からの上陸とか
青葉は桜、葉の向こうにサクランボの実が3つ
数年前に名前を知った、源平菊、赤い花は後から咲き始め、最初は白花で源氏の方が先とはおかしいのだが。
ひっそりと夕暮れが似合う花、ホタルブクロ。
植物学的には花の表と裏が釣鐘状の内側と外でひっくり返っているのだとか。よく見れば表はマットで、内側が光沢があり、虫の関係とその光沢が関係しているように思えるのだが。
谷筋に向かい、闇がある。微かな風で葉が揺れる。一ヶ所の葉だけ揺れるのは不思議で、風の道があるのだろうか。
仰ぎ見れば、新緑の花芽と初夏の空。
よく見る花なのだが、名も知らない花が好きだ。
ウツギの花と、光の水玉
ガード下の光の壁
ミラーの手前の壁
此の花もウツギか
白壁のゼラニューム
足元に多い花
銀花 スイカズラ 好きな花 初夏の香り
金花
銀の花
何となく
やはり凄い 光の滲み
海にでるなじみのこみち小判草
明治の頃英国からの上陸とか
青葉は桜、葉の向こうにサクランボの実が3つ
05月19日 [花]
近所に太平洋自転車道路という海岸線を走る自転車専用道路がある。古くは湘南から和歌山までの海岸線を結ぶ予定の自転車道路だったそうだが、つい2キロ先の旧吉田茂邸までしか道路はない。
僅かの距離だが西湘バイパスに沿って爽やかな道だ。
お気に入りのシネ用レンズをつけた超小型ペンタックスを首から下げて自転車で出かけた。
僅か600円ほどのジャンクレンズはぐるぐるボケと、レンズの傷でものすごい描写になる。
この世界が好きだ。パラダイスのようなクレージーな歪んだ世界。
今の世界は、本当はこんな世界のかもしれないと思えてくる。
旧吉田茂邸は見事なバラ園があり、今そのバラ園を再現したバラ園は素敵な光景だった。
プリンセスミチコという名の我が最も好きな薔薇。
ここの吉田茂邸から全国へ広がった薔薇だという。我が家にも一鉢が蕾をつけている。
楽園の香と色と
旧吉田茂邸は火災で焼失、復元された金の間、銀の間の二階を望む。
英国時代の英国の薔薇の香りより、香りが軽いねと此の家の主人は言っていたという。
町内の女性彫塑家の作品。
竹薮にも野外アートが
時には鮮明に写る600円レンズ
薔薇の香も波に砕けし今世紀 無音
05月18日 [写真]
先日箱根の登山鉄道線「風祭」かざまつり駅まで出かけてきた。風魔一族が昔住んだ里とも言われ、小田原大雄山鉄道線の「螢田」ほたるだ駅の名と同様に好きな駅名だ。
風祭駅を降りて1分、小田原蒲鉾の老舗「鈴廣」の店舗がある。その店舗は大型バスや、箱根駅伝の中継所としても賑わっている。その鈴廣の蒲鉾博物館の展示で世界の寄木細工と銘打った展示があった。
数年前都内の、塩とタバコの博物館でも同様の企画展示があったようだが、箱根は寄木細工の本場だ。
蒲鉾の多様な商品群の展示を見て、寄木の会場に向かう。
巨大なライティングビューローは机の裏側まで寄木でびっしりだ。英国に日本から輸出された明治の頃から、「ミヤノシタ」という名で親しまれていたらしい。
箱根宮ノ下はホテルや家具の土産物店もあっただろう。
シンメトリーの家具に精緻な日本お職人の技術がちりばめられている。
モチーフは、左右対称の構図を外していることが面白い。
驚いたことに、シリア製と書かれた椅子があった。寄木細工は箱根のものと全く同じ柄と木製。
3000年ほど前から寄木細工は発達し中近東のイスラム文化を中心にシルクロードを通り日本にもやってきたという。目の眩むようなイスラムのタイルのモチーフを木材に置き換えれば寄木細工が完成することを頭の中で考えると納得できた。
シリアやレバノン、スペインのグラナダ地方には多くの樹木がかってあったのだろうか。レバノン杉という言葉を思い出した。寄木細工は徳川家光の時代、静岡に全国の職人が集められたという。その技術は箱根や、日光の東照宮でも発揮されたのだろうか。木材の天然お色だけの集積が、色や彫刻を施すと東照宮の華麗な建築にも結びついた。
風祭の駅で、線路内に立ち入らないための突起物が何か面白く、スナップした。
走り去る列車の陰に三角コーン。
古い風祭駅のスナップをピンボケに撮る
駅には寄木プリントの印刷されたクッションがベンチの上に。
今日は鎌倉に出かけた。北条政子の墓がある寿福寺境内。
新緑が初夏の緑へ
岩のようなビャクシンの木肌
鎌倉も卯の花の季節
足元
扇ガ谷の海蔵寺へ。海蔵寺は井戸を含め水に恵まれ、別名「水の寺」ともいうそうだ。
浄光明寺にも立ち寄り本日はよく歩いた。
雨の雫が萩の葉にも溜り 転げおちる。
硝子戸に映る瓦屋根が、蛇の化身の姿に見えて
風祭駅を降りて1分、小田原蒲鉾の老舗「鈴廣」の店舗がある。その店舗は大型バスや、箱根駅伝の中継所としても賑わっている。その鈴廣の蒲鉾博物館の展示で世界の寄木細工と銘打った展示があった。
数年前都内の、塩とタバコの博物館でも同様の企画展示があったようだが、箱根は寄木細工の本場だ。
蒲鉾の多様な商品群の展示を見て、寄木の会場に向かう。
巨大なライティングビューローは机の裏側まで寄木でびっしりだ。英国に日本から輸出された明治の頃から、「ミヤノシタ」という名で親しまれていたらしい。
箱根宮ノ下はホテルや家具の土産物店もあっただろう。
シンメトリーの家具に精緻な日本お職人の技術がちりばめられている。
モチーフは、左右対称の構図を外していることが面白い。
驚いたことに、シリア製と書かれた椅子があった。寄木細工は箱根のものと全く同じ柄と木製。
3000年ほど前から寄木細工は発達し中近東のイスラム文化を中心にシルクロードを通り日本にもやってきたという。目の眩むようなイスラムのタイルのモチーフを木材に置き換えれば寄木細工が完成することを頭の中で考えると納得できた。
シリアやレバノン、スペインのグラナダ地方には多くの樹木がかってあったのだろうか。レバノン杉という言葉を思い出した。寄木細工は徳川家光の時代、静岡に全国の職人が集められたという。その技術は箱根や、日光の東照宮でも発揮されたのだろうか。木材の天然お色だけの集積が、色や彫刻を施すと東照宮の華麗な建築にも結びついた。
風祭の駅で、線路内に立ち入らないための突起物が何か面白く、スナップした。
走り去る列車の陰に三角コーン。
古い風祭駅のスナップをピンボケに撮る
駅には寄木プリントの印刷されたクッションがベンチの上に。
今日は鎌倉に出かけた。北条政子の墓がある寿福寺境内。
新緑が初夏の緑へ
岩のようなビャクシンの木肌
鎌倉も卯の花の季節
足元
扇ガ谷の海蔵寺へ。海蔵寺は井戸を含め水に恵まれ、別名「水の寺」ともいうそうだ。
浄光明寺にも立ち寄り本日はよく歩いた。
雨の雫が萩の葉にも溜り 転げおちる。
硝子戸に映る瓦屋根が、蛇の化身の姿に見えて
05月12日 [世界]
先日、横浜は港の見える丘公園に隣接した神奈川県立文学館を訪ねました。正岡子規生誕150年の企画展示を見てきました。近代俳句の開拓者正岡子規とその時代がよくわかりました。図録によれば子規は、慶応3年に生まれ、1歳になった時は明治が始まる年だったことがわかります。江戸から明治になって日本は熱烈な国家主義の国に生まれ変わった。食うか食われるかの帝国主義の時代、危うく植民地化を免れ、一転して列強の仲間入りを目指した日本。子規は日本中に満ちる国家主義の空気を吸って育った。大人は子どもを新国家建設に役立つ「有為の人」になるよう育て、子ども自身もそうなりたいと願った。この風潮は昭和戦争の敗戦(1945年)まで80年近く続く。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。
夏目漱石や正岡子規が生きた時代、国家主義の時代に生きた人々は、家族や新生国家や、世界をどう見ていたのだろうか。
港の見える丘公園は、雨上がりでバラの花たちがたっぷりの水滴を纏っていた。
霧野霞むベイブリッジもなぜか遠い昔を思い起こさせる光景だった。
近代文学館の閲覧室と蔦の陰りが美しい
マロニエの赤い花が咲いていた
展示の中に正岡子規が四度、大磯の地を訪れていることを知った。当時は歩いて旅をすることも普通だった。記者になり日清戦争の戦地まで取材に出かけた子規。
子規とは俳号で、本名正岡常規(つねのり)幼名を処之助(ところのすけ)、後に改名して升(のぼる)と称したという。35歳で夭折している。
子規とは、ホトトギスのことだったとも思い出した。当時の不治の病、結核から脊椎カリエスになったという。21歳の時鎌倉に小旅行の途中、始めて喀血したという。
卯の花をめがけてきたか時鳥
卯の花の散るまで鳴くか子規
卯年生まれの子規が、鳴いて血を吐くといわれるホトトギスに我が身をなぞらえ、この鳥の名を題に四、五十句を詠んだものの一部が上の二句だそうである。
この時から俳号として、子規の名を使い始めたという。
野球という世界に興味を持った子規、小説というものに関心を深めた子規、少年時代漢詩を詠むことで育った子規、新体詩にも興味を持った子規、俳句分類という連歌の時代からの俳句12万句を分類収録までの執念で行った子規、写生とは何かを突き詰めた子規。病気から晩年、口語体の文章を始めて作り出した子規。
彼は「悟りといふ悟りといふ事は如何なる場合にも、平気で死ぬることかと思っていたことは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と記している。
子規の真骨頂が、生きること、今を生き抜くこと。その言葉は重い。
昨日は箱根の宮ノ下までドライブをしてきた。新緑が美しい箱根の山道は大型連休すぎの道路がすきすきの快適な旅だった。
登山鉄道「宮ノ下駅」から徒歩1分のナラヤカフェで初めてお茶をした。足湯をしながら開放的にくつろげるカフェスペースは気持ちがいい。元禄時代に箱根宮ノ下に創業した奈良屋旅館は、富士屋ホテルよりも古い歴史を持つ老舗だっという。2001年廃業し、その建物も名庭も一万五千坪あまりが買い取られ成金趣味的なホテルにない変わっているようだ。今でも予約の取りにくいその新しいホテルが立つ前に、奈良屋カフェとして跡地に営業していたような気がするのは記憶違いだろうか。
現在のナラヤカフェは、奈良屋旅館の従業員用に古い旅館を買い取り建物として使っていたもののようで2007年改築してオープン、今年2017年で10周年を迎えるようだ。300年の歴史を刻んだ古い写真や看板が店の一角に丁寧に展示されていた。
メニューにカフェの創設の思いが丁寧に語られている。その歴史の中に携わった人々が、このカフェを愛で、見守っているであろうことが感じられる。
NARAYACAFE ナラヤカフェのホームページから元禄以降の宿泊者に江戸の諸大名が宿泊した記録があるという。総勢200名を超える大名の滞在もあったという。正岡子規も箱根まで旅をしたという。
新緑の箱根の光景、なぜか眩しく、懐かしく思えた旅でした。
05月03日 [世界]
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