2021-05-30
山本半右衛門家
★山本半右衛門・五郎右衛門・藤九郎・藤左衛門・藤右衛門
・五郎右衛門家は半右衛門家分家で、半右衛門家の真向い(9世が長く相川保健所所長を務めた成之助)
・藤九郎は五郎右衛門家分家で、藤九郎家跡地は現在双峰通信工業
江戸末期に酒造業で財を成した。山本桂家(山本悌二郎・有田八郎等)はその分家である。新穂潟上の本間能太夫家(本間英孝)とも共江戸後期には婚姻関係があり、三代は鶯渓の雅号で和歌を作り、能謡を教えた。そこに能謡を習い、そこの娘リンと結婚したのが、近くに住む、後に「アサヒビール」の創業時に活躍した生田秀(ひいず)。生田の妻の実家山本藤九郎家がアサヒビール「元売所」となって明治20年代の戸主山本殖蔵と生田秀の交わした「販売契約書」(山本修巳家蔵)が残る。ここに揚げた資料で明治20,30年の昔、佐渡でもアサヒビールが多く飲まれていたことがわかる。その頃、藤左衛門家は日本酒製造を行っていたが、ビール販売所の記載はない。
・山本藤右衛門は藤左衛門の次男で分家し、尾畑酒造の真向いに住んだ。「北溟雑誌」の広告で葡萄酒販売などがわかる。菊園と号して文墨に親しみ、新町町長、新潟県会議員になった。実業家であったが腸チフスで大正3年10月18日死去、享年49歳。
・藤左衛門家も藤九郎家と同じく五郎右衛門家の分家で、跡地は尾畑酒造。
・五郎右衛門家は半右衛門家分家で、半右衛門家の真向い(9世が長く相川保健所所長を務めた成之助)
・藤九郎は五郎右衛門家分家で、藤九郎家跡地は現在双峰通信工業
江戸末期に酒造業で財を成した。山本桂家(山本悌二郎・有田八郎等)はその分家である。新穂潟上の本間能太夫家(本間英孝)とも共江戸後期には婚姻関係があり、三代は鶯渓の雅号で和歌を作り、能謡を教えた。そこに能謡を習い、そこの娘リンと結婚したのが、近くに住む、後に「アサヒビール」の創業時に活躍した生田秀(ひいず)。生田の妻の実家山本藤九郎家がアサヒビール「元売所」となって明治20年代の戸主山本殖蔵と生田秀の交わした「販売契約書」(山本修巳家蔵)が残る。ここに揚げた資料で明治20,30年の昔、佐渡でもアサヒビールが多く飲まれていたことがわかる。その頃、藤左衛門家は日本酒製造を行っていたが、ビール販売所の記載はない。
・山本藤右衛門は藤左衛門の次男で分家し、尾畑酒造の真向いに住んだ。「北溟雑誌」の広告で葡萄酒販売などがわかる。菊園と号して文墨に親しみ、新町町長、新潟県会議員になった。実業家であったが腸チフスで大正3年10月18日死去、享年49歳。
・藤左衛門家も藤九郎家と同じく五郎右衛門家の分家で、跡地は尾畑酒造。
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