佐渡人名録 2017年11月
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2017-11-30

★本屋

(山田)昔「青林書房」があった場所で飯田辰巳さんが本屋をやっていた。文房具なども扱っていた気がする。市役所OBの中川さんが大屋です。飯田さんの奥さんは両津小で先生をしていた河崎の本間ちえ先生です。離婚しましたが。加茂小学校の並びに貸本屋があった。両津局で配達をしていた橋本さんの辺りです。私が子供の頃の記憶では、子供には貸せられないと言うので親父を連強調文れて行った記憶があります。講談本が流行っていて、塚原卜伝とかです。
丸屋書店は吉井(立野)から出て来て夷で本屋を開いた。大正14年の地図によると今の店の反対側です。昭和3年の家事後に現地に移転したのでしょう。

(渡辺)先程の飯田さんの晩年の奥さんは知ってますが、真野長石の人と思います。二度ほど飯田さんを訪ねて行きましたが、飯田さんにしてはかなり若い人で、美しい上品な方でした。その方の実家が晩年佐渡に来た時の住まいだったと思います。

★古本屋

(昭和10年生、野尻聡氏談)
夷3丁目十字路角(寺島越中家)にあり「志摩屋」と言った。戦後から昭和30年代前半まであったと思う。経営者は玉崎の後藤利一氏で佐渡の郷土史関係の本が多かった。利一氏は昭和2,3年頃の生まれか。大変な本好きでかなりインテリであった。現在、60代位の息子さんが家を守っている。利一氏は古本屋を辞めた後、無店舗で電気製品販売や修理等を行っていた。
2017-11-29

柴田実・石塚修・河東碧梧桐 up

2017-11-29

石塚修

(隔月刊ドクターズプラザ2017年1月号掲載記事)

新潟県西部の日本海上に浮かぶ佐渡島は、面積854.8㎢、周囲262.7㎞。日本国土の中では、本州などの主要4島と北方領土を除いて、沖縄本島に次ぐ面積を有している。島の中央部に位置する両津港から車で5分の場所にある佐渡市立両津病院は1957年6月1日に設立。地域で数少ない救急指定病院であるとともに、僻地医療拠点病院でもある。同じ島内にある佐渡総合病院と連携することによって、内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、歯科口腔外科、矯正歯科などを手掛け、人口6万人弱の島民の生活をサポートしている。

絶対数が足りない病院と医師。
離島ならではの連携強化を図る

―最初に、佐渡島における医療の現状について教えてください。

石塚 佐渡島はその全域が新潟県佐渡市となっていて、人口は約5万6千人。うち2万人以上が高齢者です。この数字を、例えば1960(昭和35)年と比較してみると、当時は人口12万人弱、高齢者は1万人程度でしたから、明らかに人口減少と高齢化が進行していることが分かると思います。

そんな状況の中で、島内の病院は6カ所。私が院長を務める両津病院と市立相川病院、新潟厚生連の佐渡総合病院の3カ所が一般の救急病院で、他に精神科の病院が1カ所、療養型の病院が2カ所あります。また、診療所も1カ所だけあります。

佐渡はもともと10の市町村に分かれていましたが、2004年の市町村合併によって一つの「佐渡市」が誕生しました。両津病院も、かつては外科、産婦人科、整形外科まで手掛けていましたが、医師不足から2001年にそれらを佐渡総合病院に集約。現在の両津病院は、内科と小児科が中心となっています。また、佐渡総合病院が島内における高度医療を引き受ける病院という位置付けであるのに対し、両津病院は一般的な医療を受け付けています。

―6万人弱の人口に対して、現状の病院数で足りているのでしょうか。

石塚 一般的な考えとしては、「6万人の人口に対しては3カ所、病院があれば十分」という理屈のようですが、佐渡島は1000m級の金北山と妙見山を抱える起伏に富んだ地形をしており、地図上の直線距離は大したことがなくても、実際に移動するには海岸線を通って大回りしなければなりません。患者さんが来院するための移動や救急車の移動距離などを考えても、病院数は全く足りていません。

医師や看護師の数も不足しています。特に看護師は、看護学校を卒業した後に勤務先をある程度自由に選べるので、都会志向が強い若者などはなかなか離島の病院に来ようとせず、来ても長続きしません。例えば両津病院は99床を設けているのですが、看護師不足のため60床しか稼動できていません。

また診療所の数も、旧両津市の区域に以前は6〜7カ所あったものが今は1カ所と、大きく減少しています。世間では今勤務医不足が問題になっているようですが、佐渡島に限ってみればむしろ開業医不足の方が深刻。後継者である若い医師が減っていることが理由です。

診療所が減っていることもあって、現在は両津病院を始めとした病院が診療所機能も兼ねており、午前と午後に外来受け付けを実施しています。また、両津病院では地域の公民館や集会所を利用した巡回診療や訪問診療も行っています。巡回診療は月に11カ所。多いところでは10人強集まりますが、少ないと1人しか集まらないこともあります。

佐渡総合病院は専門的な治療がメインとなりますが、ウチは巡回診療や、訪問診療に力を入れています。病院規模的にも、ウチの方が小回りは利きますからね。

―両津病院と佐渡総合病院の役割分担が非常に明確ですね。

石塚 病院の絶対数が少ないですから、都会で見られるような「患者さんの取り合い」はありません(笑)。

むしろ、病院同士で連携して島内の医療に取り組むことこそが重要なのだと考えます。例えば専門医療を行う佐渡総合病院で手術をした患者を、両津病院に入院させて経過を診るということも頻繁にあります。

そうした医療機関の連携をより促進させたのが、2014年から運用が始まった佐渡地域医療連携ネットワーク「さどひまわりネット」です。これは島内の病院、医科診療所、歯科診療所、調剤薬局、介護関連施設を結び、島民の医療・介護をみんなで支えようとする仕組みです。このネットワークを確立することで、要介護者が医療を受け、元の生活に戻るまでの一貫した支援を提供できますし、診療所と病院の間での迅速な情報交換が可能になり、併用してはいけない薬のチェックや検査の重複といった細部に至るまでチェックすることもできるのです。

―「さどひまわりネット」の運用は順調に進んでいますか。

石塚 今のところは順調で、全国的にも注目を集めています。

この試みが上手くいっている要因の一つに「島内の医師の数が少ないこと」が挙げられると思います。数が少ないから、本当に必要だと感じてやっている。医師同士、病院同士の連携がなければこの試みは機能しません。情報やシステムのIT化などもポイントとなるでしょうが、最終的には医師や病院同士の連携が肝心なのだと思います。

佐渡で生まれ育った幼少時代から
両津病院とは深い縁

―石塚先生が医師の道に進んだのは、何がきっかけだったのですか。

石塚 もともと私は佐渡島に生まれ育ったのですよ。しかも父親が両津病院の事務職員をしていて、病院から700mほどのところに自宅がありました。子どものころから父の職場である両津病院に出入りする機会が多く、自然と医師という職業に馴染んでいたのかもしれません。

父が働いていたある時期、病院の医師が一斉に辞めてしまったことがありました。理由は覚えていませんが、そのため父はしばらく病院の掃除をするだけの毎日を送っていました。その時に父がよく私に言っていた「医者がいなければ、病院は成り立たない」という言葉を今でも覚えています。また、父がわざわざ新潟大学まで行って、医師を派遣してほしいと頭を下げたことも聞かされていました。

ようやく新しい医師がやって来た時、島の人たちからずいぶん大事にされているのを見て「お医者さんというのは偉いのだな」と(笑)。実際、私が子どものころに見てきた両津病院の医師はみんな立派な人ばかりでした。


そうした経緯もあって、「医師になるのも悪くないかな」と思うようになった。決して強い志があったわけではないのですが(笑)。でも、実際に医師になったことで、父親は喜んでくれたかもしれませんね。

―では、両津病院の勤務も以前から希望していたのですか。

石塚 いえ、そういうわけではなかったです。ただ、いずれこうした小さい規模の病院で働くことになるだろうなというイメージは、昔から持っていました。

―内科を志した理由は。

石塚 正確に言うと、もともと私の専門は呼吸器内科であり、両津病院に勤務するようになってから内科全般を担当するようになりました。

私が子どものころ、両津病院には小児科がなく、内科の先生がいつも診てくれていました。また父親が病気で入院して危篤状態になった時も診てくれたのは内科医で、父親はその後無事快復しました。そんなわけで私の中で「医師=内科医」というイメージが出来上がっていたのかもしれません。

また、実際に内科医として働いてみて、私の性格に合っているような気がします。私が考える内科医の特徴は、病気に対してじっくり向き合える辛抱強さがあること。私には気が合う内科医の友人が何人かいますが、みんな共通した特徴がありますね。逆に外科医などの場合は、その都度迅速な判断が求められるわけです。

―どのような経緯で両津病院に勤務することになったのですか。

石塚 もともと2003年に、大学の医局人事で両津病院に派遣されました。当初は2年勤務したら戻る予定だったのですが、気が付いたら10年以上経ってしまいましたね(笑)。

前院長が定年退職したのに伴い、私があとを継いで院長に就任したのが、46歳の時。当時は病院の経営が苦しかったのですが、他に人材もいなかったので断れない状況でした。もっとも、損得勘定ができる人なら引き受けなかったかもしれませんね。同僚だった小児科医の先生が「一緒に泥を被っていく覚悟はできている」と言ってくれたことで、院長に就任する決意をしました。その後、医師や職員の皆さんの頑張りもあって、経営は徐々に持ち直しています。

ただ、私ども公立病院は“儲かること”だけをやっていても意味はありません。巡回診療や訪問診療など、たとえ利益は少なくても地域住民のためになることを積極的に行うことこそ、公立病院の存在意義だと思っています。

―ご家族も一緒に佐渡島に住んでいるのですか。

石塚 親は今でも島内に住んでいますが、妻と子どもは新潟にいます。実は、両津病院への勤務が決まる前に、新潟に家を買ってしまって(笑)。また、子どもも転校させられないということもあって、単身赴任でここに来ています。

自分が生まれ育った場所なので愛着がありますし、病院を訪れる患者さんの中には昔からの顔馴染みも多く、島内に数少ない医師の1人としてもとても大事にしてもらっています。反面、勤務後などにゆっくり1人で飲みに行きたいと思っても、どの飲み屋も知り合いばかりなので、ちょっと面倒くさいと感じることもありますが(笑)。

医師としての領域を広げられる
離島医療のメリット

―医師の立場からみた、離島医療のメリットは。

石塚 規模が小さい分、総合医療と専門医療の両方ができるということ。特に若い医師にとっては、その後のキャリアにとって大きなプラスになると思います。

一般的な地域医療では総合医療に偏りがちで、専門医療もやりたい医師の中には物足りなく感じる人も少なくありません。そんな中新潟県では、地域医療の中で専門医療もできる人材を育てていこうという取組みをしており、両津病院でも新潟大学や新潟市民病院から研修医を積極的に受け入れています。

都市部の大きな病院で働く医師は、日頃から大病や難しい病気・ケガの患者さんを診ることが多いので、非常に専門的で難しい領域の知識をたくさん持っています。それゆえ、「自分はいろいろなことを分かっている」と錯覚してしまう若い医師も少なくありません。ところがそうした医師の中には、例えば喘息など町の診療所が診るような”普通‶の病気に対する知識が、案外欠けていたりするものなのです。

また、大病院に来る患者さんの多くは、その前に地域の病院で診察を受け、そこからの紹介ということで大病院に送られてきます。つまり大病院の医師は、あらかじめ病気の情報が得られた状態で患者さんを迎え入れるわけです。しかし地域医療の現場では、何の予備知識もない状態で患者さんを迎え入れなければなりません。医師が自分で病因を探し、判断を下さなければいけない。そうした能力も養われるのです。

特に、両津病院のように医師の絶対数が不足している離島の病院では、1人の医師がさまざまなことを手掛けなければなりません。私自身、もとは呼吸器内科専門でしたが、この病院に来てから内科全般を手掛けるようになりました。自分の職域を広げ、さまざまな経験をすることができるのが、離島医療のメリットだと思います。

実際、これまでこの病院に来た若い医師は、みんな「案外、いいところですね」と言ってくれます。もともと医師が少ないから、島の住民はとても大切にしてくれます。自然にも恵まれ、海や山のレジャーも豊富。魅力のある場所だと思いますよ。

―島ならではの病気もあるのでしょうか。

石塚 ええ。他では見られないような珍しい病気も、案外あるんですよ。ですからそれを見分ける能力も養われますね。

また、患者さんとの距離が近く、日頃から密にコミュニケーションを取っていると、患者さん側の気持ちや立場が分かるようになってきます。これはとても大切なことで、”医師の側の論理‶だけにとらわれず、親身になって患者さんのことを考えてあげられる医師に育ってもらえると思います。

―では、デメリットは。

石塚 あえて挙げるなら交通の便です。佐渡島は本土との距離が近いこともあって船便が発達しているのですが、冬場は海が時化て欠航になることも少なくありません。欠航が何日も続くと島内の物資が不足しますし、患者を本土に搬送することもままなりません。

航空便については、島内に唯一佐渡空港がありますが、狭い敷地のために離着陸が小型機に制限されています。今後、この空港がもっと整備されれば、交通の便はよりよくなると思います。

とはいえ、時化が多い冬場以外は船便はとても便利ですし、島外への移動にも不自由を感じることはほとんどありません。佐渡島は海流の関係なのか、非常に温暖な気候。新潟県本土と比べても暖かく、平地はほとんど雪が積もりません。

―離島に行くと、「学会などに出席できるのだろうか?」と心配する先生もいるのではないでしょうか。

石塚 佐渡島の医療の現場においては、そのようなことはありません。両津病院でも医師の学会への出席希望は優先していますし、本土との距離が近いので、医師としての見聞を広め、なおかつ気分転換を行うことは大いに推奨しています。休日などもしっかり取らせていますし、都市部の大病院などよりも自由度は高いかもしれませんね。「病気を治したら終わり」ではないのです。

地域における医師の役割

―高齢化が加速する離島にあっては、医療と介護の連携が重要になってきますね。

石塚 冒頭でお話しした「さどひまわりネット」をしっかり軌道に乗せることで、そうしたシステムも確立できると考えています。

高齢化が進む地域医療の現場において、医師の役割は“病気を治したら終わり”ではありません。例えば高齢の入院患者が退院する際には、足腰が弱ったぶんリハビリが必要だったりして、普通なら1週間で退院できるところが2週間かかることもあります。また、軽い認知症だから介護サービスが必要だとなれば、看護師やケアマネジャーなども同席して、退院後の方針を決定するための会議も行い、介護サービススタッフや、時には介護用品のメーカーが関わることもあります。その中で医師は、自らリーダーシップを取っていかなければいけません。それは研修医でもベテラン医師でも関係ないのです。

また、患者さん自身だけでなく、そのご家族のことも念頭に置く必要があります。もし仮に高齢の旦那さんが亡くなったとしたら、残された奥さんがその後どう生きていくべきなのか。そこまで考えなければいけないケースもあります。

佐渡島には80代や90代の独居高齢者、あるいは高齢夫婦が数多く暮らしています。今日、2カ所のお宅に訪問診療に行ってきましたが、1人は88歳、もう1人は100歳の独居高齢者でした。若い人たちは進学や就職でみんな島を離れてしまいます。体調を崩して両津病院に診察を受けに来る高齢者の中には、生活環境が悪いために病気になってしまう人も少なくありません。それでも、中には介護サービスを受けることを嫌がる高齢者もいます。そうしたさまざまな高齢者に対して地域ぐるみでケアする体制づくりが求められています。その中で私ども医師も、できれば入院しなくてすむような生活環境づくりのお手伝いをするとともに、万が一入院した場合に退院後のサポートまで考えてあげることが必要なのです。

少々話が横道に逸れますが、介護をする人は、とかく”完璧‶を求めてしまいがちです。例えばお嫁さんが義理の父親の介護をするケースなどでは、24時間、自分の人生を削ってまで介護しなければいけないと考えがちですよね。でも、それでは介護は長続きしません。

佐渡島でも、漁師の旦那さんが奥さんを介護しているといったケースがありますが、その旦那さんは、漁が終わって帰ってくると、朝からお酒を飲んでいる。飲みながら奥さんの介護をしているんです。いい意味で手を抜いていて、介護にかかりきりにならない。その代わり、周囲の人がきちんとサポートをしている。私たち医師も含め、周囲が協力し、分担しながら行う介護が理想だと思います。

―都市部の大病院の医師と比べても、負担は大きそうですね。

石塚 確かに、医師のみならず病院スタッフの負担も小さくはないですね。ただ、それを”負担‶と捉えるかどうかはその人次第です。私は“医師として非常に貴重な経験をする機会”と考えています。

研修医や若い医師にとっても、専門医療を行う大病院では経験できないことが、地域医療の現場にはあります。中でも佐渡島のような離島には、他の病院や施設、機関との連携も含め、離島でしか味わえない充実感があります。ただ、こればかりは実際に来て、体験してみなければ分からないかもしれませんね。

■名称/佐渡市立両津病院

■所在地/新潟県佐渡市浜田177-1

■診療科目/内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、歯科口腔外科、矯正歯科

■病床数/一般病棟99床

■開設年月日/1957年6月1日






2017-11-27

★両津の昔を記す-漁師・魚屋up

2017-11-27

(渡辺)私たちの年代でも子供の頃にはよく食べた沖汁について教えてくださいませんか。
おばあさんがリヤカーで売りに来ていた記憶があるんですが。

(小池)沖汁は買った記憶がなく、いつももらってたなあ。近しい漁師からだと思う。名前の通り、沖でスケトをとって、船に持って行った鍋で煮たんだと思う。スケトをぶつ切りにして、持って行った味噌とかネギとかをいれて煮たんだろう。船で作ってあり、それを下すわけですから、沖汁で熱いのを見た覚えはないなあ。

(山田)船で漁師は飯のおかずに多少は食べたでしょうし、大部分は持ち帰ってうちでおかずにするとか売ったりしたんでしょう。平沢のおばさんが売りに来たのを覚えています。その人はリヤカーでなく背負って来ました。容器はアルミの弁当箱だったと思う。ぎゅうぎゅうに詰めれば結構入るし、それをいくつも持ってきたと思う。だから買いに行く人はどんぶりを持って行ったと思う。夷に出れば、お得意さんと言うか、買う家が大体決まっていてそこに行ったんだと思う。今でも、北五十里だったかのお婆さんがイゴネリを持って来ますよ。スーパーで売ってるものより厚くておいしいです。

(小池)私の記憶も平沢で沖に行った人の家が持ってきたと思う。親戚と言うより知り合いの漁師だったと思う。沖漁師と言うより、磯漁師でいわゆるすけと漁師と言うかなあ。一泊で漁に出るって感じではなかったと思う。最初は行商みたいな恰好だったけど、評判が良くなったのか鮮魚店でも売り始めた。

(山田)沖汁は商品化されてはいなかったと思う。自分の知ってる限りでは、店に並べて売るのは最近仲助がやってるくらいで、当時は漁師が一杯取れた時に家庭で余ったものを近しい町の人にくれたり売ったりしたんだと思う。

(渡辺)私のうっすらした記憶では、おばさんがリヤカーに魚関係のいろんなものを持ってきて、その中に沖汁もありました。ところで、どんな食べ方をしたんですかね。

(山田)買うのは、冷たくなってるけれどスケトを煮たものを切り分けてあるもので、それを皿の上でほぐして醤油をかけて食べたものです。特に温めるとかはしなかった。

(小池)俺も沖汁を温めて食べた記憶はないなあ。湊のおばさんたちが売って歩いたのは覚えています。

(渡辺)湊の(渡辺)五郎助さんのお婆ちゃんがかなり高齢になっても魚の行商をしてましたよね。80歳は過ぎてました。消防署が市役所の前の角地にあった時、よくリヤカーが止まってました。消防署の連中は夜も勤務してますから、自分たちで夕飯作って食べるんでしょうから、魚を売りに来てくれるおばあちゃんは重宝したんでしょうね。

(小池)今思い出すと、湊の魚屋さんは夷に来るより新穂辺りが多かったんでしょうね。

(山田)そうそう、その行先ですが、俗にいう縄張りがあったようです。お互いの行先があり、そこには他者が行かないというか。
(渡辺)桜井さんは畑野に店を出しましたから、元々はそちらが行商のテリトリーだったというか。松ちぇむさんは新穂で、吉島さんが潟上で、佐助さんも新穂にありますよね。
佐助さんは新穂のど真ん中で、大きな看板が目立ちます。隣が空き地で元々は本間芳太郎さんが経営の本間医院だったようです。湊でも本通りを行くと、海の方に下る小路がありますが、そこに「佐助通り」と表示されてます。よく知りませんが、元々はそこに佐助さんがあってそこが道路になったんでしょうか。佐助鮮魚はもう湊にはないんでしょうかね。
※渡辺注:本間芳太郎医師の次男が堀家に婿入りした堀治部(じぶ)医師で、東京池袋で大きな医院を経営した。子供がいなかったのでそのビルを当時の金井町に寄付し、町はそれを町出身の三井物産専務池田正雄さんに相談したら、三井不動産が管理してくれて家賃収入が町に入りようになったそうです。なお、堀家の実家は中興の「佐渡能楽堂」です。堀家が無住の時には相川出身の金井小遠藤校長?先生一家が住んでいたそうで、映画「佐渡ヶ島エレジー」(根上淳・三宅艶子等)のロケでその場所が一か月使用の時に別の所に住んだと、遠藤先生のお嬢さんである、渡辺産商さんの奥さん美智子さんが話してくれました。遠藤先生の下には渡辺よし子先生もおられたとか。

(渡辺)行商と言えば、古い写真に今のまるか旅館のおじいちゃんになるんでしょうか、その方が自転車に魚箱を何段か積んで走っているものがありますよね。吉井あたりだったかな。当然吉井辺りは夷の魚屋さんの縄張りだったんでしょうね。湊は新穂行きで、加茂は海岸もあり漁師もいるんで特に魚を持って行かなくてもよかったのかな。

(山田)吉井への行商と言うと、まるかの加賀さん、築地の中田ひろし君(山田さんの同年でNTT勤務)のうちも魚屋だった。その前の鷲崎屋は大きい魚屋だった。苗字は渡辺です、同級生に渡辺伸一郎君が居て野球がうまかった。長岡に行きました。隣は北川魚屋で、親戚みたいに花月さんにずっと出入りしていたものです。

(渡辺)私の一年先輩に渡辺正勝さんがいて南中野球部の4番バッターで、確かキャプテンだったような。その鷲崎屋さんに中川マンちゃんと言う元気のいい人がいましたね。斉藤甲子郎さんの頼母子仲間で、当時はすでに経営者になってた気がします。確か羽茂出身で中川苗字です。鷲崎屋で丁稚奉公して後継ぎがいないんでその店をマンちゃんが継いだというか。斉藤さんの選挙などの集まりでも勇ましい人でした。息子さんが新大出て教員になったとかで自慢したわけでもないんですが、周りの人からトンビが鷹をうんぬんと冷やかされてましたが、まあうれしかったんだと思います。

(小池)伸一郎さんは私の一年先輩で野球がうまかった。弟が野球をやってと言うのは覚えてないなあ。まあ、10年も違うから。後を継いだマンちゃんとは同年位だと思います。彼は確か身寄りがなかったんじゃないかなあ。何か複雑な事情があるように聞いてました。

(渡辺)私に1年上の南中野球部の正勝さんはとてもいい体つきでおとなしい感じでとてもいい感じの先輩でした。中肉中背かなあ、野球の選手ですからそれなりにがっちりしてましたが、陸上競技とかで活躍した覚えはないですね。この年代には野球ではピッチャーに八木、生田さん、一年下に投手の後藤吉彦、サードショート辺りに星野哲次郎、小池義晴などがいました。後藤君は審判に「今のはストライクだろう!」などと文句ばかり言ってました。また、一年上の確かセンター守っていた木次健次さんは陸上の800,1500mで県のトップだったと思います。高校でも全国4位くらいの選手で、法政に入って箱根駅伝に出たはずです。数年前に亡くなったそうです。
渡辺家で思い出しましたが、7,8年前にロバート君と言う完全な外人顔ですが日本語しかしゃべれない人、当時40歳位かなあ、その人が「国籍のない日本人」と言うことで裁判所関係でいろいろマスコミも騒いで一時問題になりました。佐和田に住んで海岸沿いでスナックをやり、バンブー何とかいう竹製楽器を使ったグループを作っていました。福浦の間口君もメンバーだったなあ。ロバート君とちょっと話した時に、母は鷲崎屋の人と言ってました。母がアメリカ人との仲で出来たのが自分だと。すると正勝さんの姉になるんじゃないでしょうか。ロバート君は今は50歳位かな。

(小池)そのお母さんは私らより二つ三つ年上だなあ。渡辺伸一郎さんの姉ですね。覚えています。佐渡を離れてからその人は見たことないです。ところで、伸一郎さんは中学の野球部で私の一年先輩で中心バッターでした。高校では一緒の記憶がないですね。

(渡辺)鷲崎屋さんの隣が北沢魚屋で、私の一年先輩に俊ちゃんが居ました。小学生の頃は小さいけど柔道が強かった、渡部繁先生や本間喜一郎先生が両津小に居て鍛えられていました。まあ、眼がぎょろっとして喧嘩早い先輩でした。大人になって板前さんになって椎崎のホテルやグランドホテルにも居たかなあ。腕をふるってましたが、いろいろあったり事件も起こしたようで。

(山田)夷新の星の湯の前辺りに小池魚屋があった。店で販売と言うよりも売って歩く魚屋でした。同級生のまさひろ(兄はあきお)の親で、角が勝田商店、隣が斎藤看板屋でその隣かな。ここの娘さんが磯野畳屋のおばあちゃんです。こうしてみると鷲崎屋、北沢、中田(同年の友はNTT勤務)、小池と夷新も魚屋の町だったんですね。昔は魚屋さんもしっかり仕分けされていて、店で販売と行商専門と。それ以前に、株と言うか権利を持ってる業者が居て、魚市場で大量に仕入れてそれを店売りの魚屋に卸したり、行商の人に売ったりしたんです。それぞれが住み分けていたんですね。

(渡辺)夷二ノ町には今は木下魚屋さんとヘエム鮮魚店があります。木下さんは元は春日町で、その家を新聞記者の市橋輝雄さん(市橋輝蔵長男)に売って夷二の現地に来たそうです。以前はその場所に中田魚屋さんがありました、昭和17年生まれ位の先輩がいました。いつの間にかいなくなりましたが。

(山田)ヘエムさんは同級生で、東京で修行して、戻ってからは太郎平さんに勤めました。そこで店の株をもらって暖簾分けして夷2で開店したんです。ヘエムさんから直接聞いたんですが、元々の家は道挟んで反対側にあって、商売の関係で縦に長い敷地が要るとかで今の場所に移ったとか。染物とかかなあ。

(渡辺)ヘエムさんと言えばこんな話が。去年「ハローブックス」と言う若者のイベントに来た芸人がヘエムさんの親戚とかで挨拶に来たと。聞いてみたら、ヘエムさんは今のお父さんの弟と奥さんの妹が結婚してその子供さんだそうで。奥さんは岩首か蚫出身でしたか。武井苗字は夷1,2に何軒もありますね。桧田さんの近くで日通に努めていた家、夷二裏の木下さんの隣辺り、ヤマトヤ車庫の大屋さん、そしてヘエムさんですから少なくとも4軒ですね。ここに武井一族がいたんですね。

(山田)そうそうヘエム膏薬があった。油紙に漢方薬か何かが塗ってあり、それを湿布みたいに患部に貼るんです。有名でしたよ。以前聞いたら、薬は内地から材料を仕入れて、それをすりつぶしたり混ぜたりして薬にし、油紙に塗って売り出したんだそうです。今のサロンパスみたいなもんですね。本業と言うより内職だと思います。さっきの長い場所が必要な家業と言うのとは違う話です。

(渡辺)他には海岸通りに小池権吉さんがあったし、他にも旭町に小池苗字の魚屋さんがありました。また、夷二の裏でヤマキホテルの実家の隣にも魚屋さんが。体の大きな昭和16年位生まれの先輩がいました。岩原じんねむ(甚右衛門)さんは親父と同年大正12年生まれで、倅さんの淳一さんは昭和21年生まれでした。明治の商学部出て公認会計士になったとか。この家は仲買ですかね。

(小池)じんねむさんは市場で買った魚を島外に売ってたんじゃないかなあ。個人的に魚売買と言う感じではなかった。

(渡辺)漁業関係では、夷二裏の一休館のはす向かいに岩崎さんと言う漁具関係の店がありましたし、本間旅館を下った角に安藤漁網店がありました。岩崎さんには私の一年先輩の女性を筆頭に子供が何人かいた気がします。安藤さんは私の同年の男の子がいたし、先輩がいて家業を継いでました。

(小池)安藤さんは両津とは関係ない人だと思う。漁具の商売で両津にやって来て店を出し住み着いたんでしょうね。元気のいいあんちゃんでした、うちを継いだのは。

(渡辺)安藤君と言えば、彼と親しかったのが飯島君で都藤三郎さんの息子です。二人ともおとなしそうでなかなか真のある男でした。特に飯島君の親父は見た目は優しそうでしたが、いざ七夕辺りでテキヤ連中と話す時などを別人のように風格がありました。当時は夷の七夕には諏方神社の所にサーカスが来たり見世物が来たり、いろんな夜店が並んだりして賑やかでしたものね。それを都さんが取り仕切ってたんでしょうね。何かの時にこの人がおそげえ顔したやくざみたいなあんちゃんを怒鳴りつけてました。すごい迫力でしたねえ。腹は座ってたんでしょうね。

(山田)祭りのヤシ(香具師)と言えば、ヤシがテーブルを出して詰将棋やりました。
お客と一勝負終わって帰ろうとすると負けたから一手いくらで金を出せみたいな話になって。勿論違法な博打の一種なんでしょうね。夷三にあった川島徳四郎さんのおじいさんが何か関わっていたようで、ある時、もめ事があった時に、川島さんは都屋の飯島さんを呼びましたね。ちゃんと話がつきました。香具師としっかり話し合いができる立場の人だったんでしょうね。

(小池)川島さんのお爺さんと言えば、家にその人が褌一丁で写ってる写真があります。うちとは日蓮宗信者仲間でしたが。川島さんのお母さんは確か仲助の出と聞いてます。もしかして養女で川島家に入り、婿さんをもらったのかも知れません。

(山田)川島さんの前の山本ます屋さんの奥さんも仲助の出でした。婦人会長を長くやりましたねえ。ます屋さんは神明町に遊郭(「桝屋」)を持ってました。その兄が町会議員やった中沢保助さんですが、弟が優秀で東京で活躍したと聞きました。
※渡辺注:(田中角栄の刎頸の友)小佐野賢治が興した国際興業の重役になった。
保助さんの親は北玲吉と同級生で、選挙運動には先頭に立ってました。もしかして保助さんの弟が国際興業で活躍したのも北玲吉さんの関係があったかも知れません。また、中沢つながりで中栄商店の倅が優秀で丸井デパートの重役になりましたね。丸井創業者の娘婿になって、結局は池袋丸井をもらったそうです。
※渡辺注:中沢仲助出の中栄商店の人は佐渡大商社長をやり、その弟は北越銀行に入り、銀行の東京支店開設時に抜擢されて東京勤務となる。ハンサムな人だったようで、丸井の娘婿となり、次期社長と言うことで、当時佐渡関係者が多数丸井に入社した。しかし病気か何かで結局は社長にはならなかった。
中沢さんで戦死した人の大きな碑が安照寺さんにあります。年代的には保助さんの弟でしょうか。本間雅晴中将が揮毫してます。

(渡辺)川島徳四郎さんのお爺さんは細身で何時も着物を来ていて、如何にも気骨ある明治人の面影がありましたねえ。徳四郎さんの長男は私の1年下のとしお君で両津高校から新大歯学部に行きました。あの年は新大医学部に川崎昭一君(佐渡病院脳外科)、歯学部に川島君で結構騒がれました。川島家の長女は1年上(昭和21年生)で美しく優秀な方だった記憶があります。確か二人のお父さんはちょっと身体がわるいと言うか精神的な障害があったんじゃないでしょうか。いつも本をもってぶらぶら歩いていまして、一度、この「久地軍記」を読んでみい面白いぞ、と言われた覚えがあります。その時は何だかピンときませんでしたが、今思えばその本を借りたりして話をしてみたかったですね。後年得た情報ですと、その方はお婿さんで城腰の実家は新大の有名な三国眼科の三国政吉先生の家だと。もしかして三国先生の弟とだったかもしれません。
話は変わりますが、夷には魚屋さん関係に小池苗字が多いんですが、小池清吉さんはやはり魚屋さんですか。

(山田)あそこは魚屋でなく魚の加工業です。俗にいう四十物(あいもの、えーもん)屋
ですね。「合い間物」、即ち魚が捕れない合い間の時期に食べる加工された魚との意味もあるようです。間物(あいもの)です。他には両津活版さんの近くの金子八次郎さんも魚屋でした。倅が新潟交通の専務になりましたね。他には小木の「魚晴」の秀方さんは神明町にいたんです。元々は玉崎の人で漁連の役員だった人の息子さんで、うちの隣にいて芸者さんと一緒になって、仕出しのようなことをしてました。そして夫婦で小木に行ったわけです。そこの親父は私より年下だから70代ですね。
神明町でも紅屋さんの横に平方魚屋がありますが元々は漁師の家です。親父と子供二人が海で遭難しました。時化の中、築港に入って来る時にみんなが見える所で沈没しました。私と同級生がいましたが、両津高校の1年ですから昭和26年頃です。その兄二人と父が亡くなったんです。ほかの船も事故にあったかどうかは覚えていません。その後、仲間の漁師達の尽力で魚を扱う株を手に入れ、同級生だった三男が高校を辞めて魚屋になったんです。どこかに弟子入りしたのかどうかは覚えていません。だから魚屋はおじいさん、お母さんと子供二人がやったんです。その後三男の方は加茂湖で変死しました。今は同級生の奥さんと弟の奥さんとせがれさんで魚屋をやっています。この苗字は平松辺りですかね。

桜井鮮魚さんもありましたが、最初は築地の、今の藤木副市長の隣辺りで魚屋をやってました。店売りと言うより、海のない他所への行商だったと思います。その後、旭町が出来たので20年代の後半から30年頃にそこに引っ越したんですね。
※渡辺注:桜井哲夫氏は、子供の頃近くに中川雀子さんがいたと語る。また、その後畑野の角地に桜井鮮魚店を開いた。身体の大きな方で、顔つやのいい方でした。最近、哲夫さんがお父さんにとてもよく似てきました。最近、安照寺さんに入ってすぐの所に桜井家の新しい墓がありますね。哲夫さんは、ご存知の通り佐渡関係ネットで有名な『佐渡広場』管理者です。


(渡辺)うちの近所の小池新平さんは、今後を継いでる敬二さんが昭和23年生ですが、でっぷりしたお父さんは両津漁協の役員だったり、保険の仕事もしてました。その父は両津町の収入役だったと思いますが、この家も元々は漁業関係だったんでしょうかね。
もう一つ、今は渡辺オートですが、元々は渡辺自転車屋さんこと渡辺四郎左衛門も大正15年生まれの今のおじいちゃんの母は魚屋だったそうです。漁業関係者が集まってる古い写真を見て、お爺ちゃんがこれが私の母だと言ってました。野浦か片野尾辺りの人だとか。だから、お爺ちゃんは能生水産出なんです。結局は、自転車の時代が来ることを見越して、魚屋にならなかったわけです。そう言えば、うちの隣の瀬戸物のあめ屋さんも能生水産を出ています。これも、磯野家は漁業関係だったとうかがえますね。

(山田)それは知らんかった、そうですか。あめ屋さんも元々は船でも持ってたのかなあ。船持ちと言えば、春日町の吉島十衛門さんも船持ち漁師でした。前は八郎平町です。その前は上町十字路の海側だったそうです。吉島は旧家で、築地にあるお旅所は吉島家が寄贈したものです。

(渡辺)他には、我が家のはす向かいの本間庄七さんが魚屋でしたね。私の子供の頃は本間組の両津出張所(所長は後に高名な作詞家になる保科義夫氏)で、その後本間庄七魚屋です。後で聞くと、本間組の前は病院だったそうです、そこで母が亡くなったと栄町の渡辺さんのお婆ちゃんが言ってましたね。庄七のお父さんは、月布施か赤玉辺りからの婿さんと聞いてます。細身で眼光の鋭い、独特の風貌で頑固そうな人でした。この方の兄が浜田何とか言う両津市会議員だったのを覚えています。うちの町内ではこの庄七さんと七星屋のお父さんが論客で、町民運動会の反省会では、紅白玉入れは中に入っているものの大きさや重さで有利不利があるから役員にそれは言うべきだなんて弁じていました。二の町は綱引きやリレーが強いのに、球入れが弱いので優勝できないと言う話の中で出たことです。ともかく、庄七さんはあの時代の人物の一人を象徴するような親父でしたねえ。

(山田)斎藤梅助さんがいます。後に斎梅履物屋になりますが、この場所は元々源助屋履物屋でした。斉藤さんから借りていたんだと思います。源助屋さんが藤新本屋の隣に移転したので、斎藤さんが続いて履物屋をやったんです。斎藤梅助さんは元は船持ち漁師で、八郎平町に居ました。八郎平町と夷6に家があり、後者は源助屋さんに貸してたわけですね。

(渡辺)そう言えば、八郎平町のおけさ食品の奥さんは梅助さんの人と言ってましたねえ。ここはおけさ食品は本間苗字ですが、旦那さんはものすごく大きい人で怖そうな人でした。確か、黒姫とかあっちの出と聞きました。確か、お姉さんが両津高校時代に砲丸投げか何かで県大会で優勝したとか。石楠会でその方にあっていろいろ話を聞きましたが、この方も大きい女性でした。二見の大屋旅館?のおかみさんでした。私の十年も上だったでしょうか。今に思えば、このおけさ食品(おけさ弁当)が斎藤梅助さんの家だったんでしょうか。

(山田)ちょっと話が変わりますが、昭和20年代に埋め立てられて旭町が出来ますが、当時は道路はありません。新潟製氷のすぐ前が海で、私達は泳いだ後に新潟製氷のプールみたいなところで体を洗いました。製氷の段階で大量の水が出るんでそれを一時的にためるような大きな水槽だったんですね。ものすごく冷たい水だったのを覚えています。
それから、今の「小舟」さんの場所には船持ちの小さな漁師がいました。そこの娘さんが、城ノ内の小林鉄工所の人に嫁いで、今汽船前で喫茶店「あしあと」をやってるわけです。梅助さんや吉島さんは大きな発動機付きの船持ちでした。他には八郎平町の昔ホテル「蓬莱」があった辺りに平助さんと言う大きな船持ちの漁師も居ました。
(渡辺)小舟さんは、元は夷新の勝田さんの(本町に上る方向の)隣にありましたね。石月と言う珍しい苗字ですが、家の女房の実家近くの越路町の宝徳稲荷に入った時、「佐渡両津 小舟 石月なにがし」みたいな名前で大きな酒樽が奉納されていました。小舟のお婆ちゃん(昭和25生位の女性の母)はこの辺出身だったなのかなと思ったものです。確か芸者さんで向こうから来たと聞いてましたので。

2017-11-25

◆「参考資料(文献・書籍)」 -中川平蔵関係3冊up

2017-11-20

◆渡辺和弘個人サイト-講演録(「新穂にゆかりの人びと」)

2017-11-18

★雑学(新潟丸) ★・すたれた方言・言葉 (べりこく・べっさらづく)

2017-11-11

菊池勘左衛門・市橋輝蔵up

2017-11-11

市橋輝蔵

照蔵の実家、後山伊東家当主伊東与志雄(s22年生)から聞く(h27年10月1日)
私の祖父の弟が照蔵だと思う。市橋家は両津高校からドンデン行きの坂道を上がりきった所(渡辺注:白井卓次家(無住)の手前)。道路を挟んで向かい側に、鷺野の方に斜めに下る道路がある。以前、この辺に雑貨店があった。(渡辺注:その昔は加茂小学校の分校があったと古老から聞いたことがある)。妻は原黒鵜飼家より来た。後述する次女が、自分は、昔、伊東姓だったと言っていたので、もしかして伊東姓の段階で結婚して子供がおり、ある程度の年齢になってから夫婦で市橋家に入ったのかも知れない。子供は四人居て男二人女二人。女性二人が年上で、男性は年下だったと思う。女性二人は存命と思う。長女は東京の鹿取(漢字?)家に嫁ぐ。次女は東京蜂屋家(漢字?)に。長男は読売新聞?記者で両津春日町(現在、夷2の木下魚屋さんが以前住んでいた家)に住んでおり、妻は両津小教諭の市橋千庭(ちえ)さん。千庭さんは退職後、同地で塾をやっていた。怖い先生だったと聞いている。(渡辺注:両小時代、市橋ばあばあと呼ばれていた。退職間際で年長だったからだろう。厳しいが指導力のある先生で、文化祭の演劇指導などは大変熱心だった。)千庭は佐和田(or)沢根の後藤家の人だったと思う。彼女の姉妹は真野吉岡の若野家に嫁いだ。若野家は植木屋で、国分寺から道路を挟んで山側に入った右側2軒目。長男は春日町の家の入口辺りで倒れていたらしく、それを見つけた近所の人が伊東氏に電話をくれたので自分が駆け付けたがまもなく亡くなった。その時、奥様はすでに居なかったと思う。もう一人の息子は東京で翻訳の仕事をしており、病弱だったが詳しくはわからない。
長男夫婦は梅津の父照蔵氏と生活をせず、照蔵氏は長男夫婦の子供市橋千種さん(両津高校勤務、実習助手)と暮らしていた。近所に親戚の市橋さんが居ていろいろと世話をしてくれていた。ご主人はタクシーの運転手さんだった。千種さんはその後精神障害を発症し、佐渡病院精神科に入院した。照蔵さんは100歳近くまで生きたと思う。佐渡高校の100周年(90周年?)にも出席した居た。晩年、一人暮らしが出来なくなってからは東京の鹿取さんの元で暮らした。鹿取さんやその娘(照蔵の孫)さんも、照蔵さんが佐渡に居た頃から時々来島してお爺ちゃんを喜ばせていた。照蔵さんが亡くなった時は財産分与等で大変だった。特に蜂屋の旦那さんがいろいろ発言していたようだ。昔、敷地内にあったと言う銅像はどうなったかわからない。同地は現在は藪になっている。
※「佐渡人」(青野季吉 昭和17年)には「現主人の夫人は、私の従姉にあたつてゐるが」とある。即ち、季吉の母の兄鵜飼郁次郎の娘が市橋家を継いだ照蔵の妻と言うことである。

・照蔵さんの孫、千種(ちぐさ)さんの両津高校時代の友人Fさんより
長男は輝雄さんだったと思う。次男は狩久(かりきゅう)とか言う名前の翻訳家で、子供の頃、千種さんとテレビを見てる時、洋画の翻訳者に名前が出て、彼女が叔父さんだと言っていた。照雄さんの妻千庭(ちえ)さんは後妻で、先妻は死別か離婚かは分からないが、千種さんは先妻の子だった。千庭さんは最初春日町に住んでいたが、千庭さんが来てから、相性が悪かったのか、父照蔵さんと住んだ。照雄さんがバイクで春日町と行き来して食事を届けたりしていた。春日町の家はマルキタ(屋号)さんの向かい辺りの家で、現在夷2ノ町の木下魚屋さんが元住んでいた家で、市橋さんが木下さんから買ったと聞いている。
千種さんが高校を出て一時東京に住んでいたのか、或る時に電話か手紙が来て、父に何かを送って欲しいとあなたから言って欲しい、義母には内緒にして、と言うようなとなことがあった。
千種さんは精神的に不安定になり、佐渡病院に入院していたが、現在(平成29年)は新潟在と思う。昨年に電話をもらいビックリした。多少、普通の状態でないようにも思えた。年賀状のやり取りもしている。照雄さんは読売新聞記者だった。現在の大野の場所には既に家屋はない、撤去したのか自然に荒廃してしまったのか。

※昭和24年(66才)には開校間もない両津高校で講師として物理・英語を教えている。

「獅子が城址に「S中」誕生」(「佐渡の百年」)

・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p365・367・370

『回想の佐渡中学開校当初』(市橋輝蔵 昭和45年)

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