2021-01-11
★新倉ごま
日本料理研究家。滝平金子家の人。娘の「こごま」さんは小学生料理人としてTV番組(TVチャンピオン 小学生料理人選手権(2011年、テレビ東京))で紹介され全国に知られた。
※滝平金子家から出て大崎葛原三十郎家を継いだのが葛原正明(令和2年4月没、94歳)で息子に「古食庵」葛原正巳がいる。
→葛原足太
「ウイキペディア」より
★新島襄
津田仙と新島襄
「ウィキペディアより」
新島襄と内村鑑三
★新穂和泉守
「戦国佐渡国人名辞典」より
加茂郡新穂館主。別名本間和泉守。新穂館(新穂、井内、善光寺、尾戸、北浦)を領した。
★新穂吉右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★新穂権之助
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★新穂の阿桐
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★新穂村作右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
★仁右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国上横山村(両津市)の人である。老母に仕えて孝養を尽くしたので、文化八年(一八一一年)役所に呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★荷上一石
昭和3年新穂村長畝に生れる、本名は拡。上京後は東京都経済局に勤務したが病の為車椅子の生活を余儀なくされ、49年に退職する。不自由な身体にも拘わらず52年に能面師・重高禾門に師事して面打ちに精進し、数々の芸術性の高い面を制作した。平成14年8月29日、東京都八王子で永眠。作品は新穂民俗資料館で見ることができる。
★荷上與三兵衛
長畝気比神社
★荷上與六
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
新穂村
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★二木秀勝(ひでかつ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡州吏、通称を彦右衛門といった。目付役で治部流の書をよくし槍術に長じた。享保十六年(一七三一年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★仁木与三右衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
★西けんじ
★西登喜男
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西博司
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
★西リウ
新穂村史 s51年
新穂青木公民館前
『新穂村史』(昭和51年刊)より
私塾という程形は整っていなかったが、明治から大正初にかけ各部落で、個人の家に二、三人と夜勉強に通ったこと等近世の所で記した通りである。女子は特に裁縫を必要とし、部落に「師匠」といわれる人々が居て、男子以上に時日をかけ裁縫(はしん)の修業にいそしんだ。その内、弟子が多く有名であったのは、青木の西リウの塾であった。本人は文字は解さなかったが裁縫、行儀作法等の技術と教授力は抜群で、弟子は島内各地にゐた。延数百人といわれる。「藍綬褒賞」を受けている。異例のことゝいわねばならない。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★西阿方善比丘
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★西井和枝(kazue)
「 エスライフ」2012年2・3月号
ヤマハエレクトーン講師・プレイヤー,ヴォーカリスト、ヴォイストレーナー,ナレーター。
各地ホテル・結婚式場・イベント・コンサートでの奏者や司会者を経て,現在studioEASE代表。松田良,吉田英樹,MariaEva各氏に師事。 2001年ゴスペルを歌い始め,翌年TheFactofYOfSoulの運営に参加。4人組コーラスユニット『TOKYOBOOGIE』結成。「東京倶楽部」「蔓茶羅」「中目黒楽屋」「キンのつぼ」などのライブハウス出演。 2009年佐渡に移住。以降,東京と佐渡での活動を続ける。佐渡:「CoCoJ「Cafe一葉」「ちょぼくり」「ボアール」「えんや」「寓友荘」「相川ひな祭り」「フエー」一船上ライブ(佐渡汽船)」「」A羽茂講演会」「佐渡の日inニュー桂」「特 別養護施(はもちの里・つくし)」東京:「公園通リクラシックス」「中目黒楽屋」「関東羽茂会」
音楽以外の活動:「佐渡市体育協会表彰式(司会)」「薪能(司 会)」「食キング佐渡(リポーター,佐渡TV)」「小学校 でコミュニケーションヴォイストレーニング授業」CD「パートナーズライフ」「悠久のラブ・ソング」「佐渡の風~コロがき☆ロックンロール」発売中
OFB https://www.facebook.com/kazuevoice
Oブログ佐渡の風だよリhttp://kakirin5566.at.wobrY.info/
「島の新聞」索引(人名別)
★西井昌夫
「島の新聞」索引(人名別)
★西五十里村こう
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★西尾石松金敬(かねひろ)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。小木町、 詳細不明。
★西尾義左衛門
小木琴平神社
★西垣啓次郎
『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)より
西垣啓次郎の息子良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西垣家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。こういう形で北海道とつながっています。
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
★西垣良造
北海道余市の網元で海産問屋も経営した豪商。湊出身で小樽で活躍した磯野進の媒酌で、北一輝の恋人であっ松永テルと結ばれる。後函館に移住し、相川出身の林儀作が総選挙に出馬した時に後援し、林は政友会代議士となる。なお、磯野進は小樽での商売の面で西垣良造の父啓次郎に大変お世話になったと言う。
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★西方ちぐさ
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西方ちぐさ 96 詩 三編-畑・鷺・夜のシャワー-
★西潟八雲(にしかたやぐも)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡県(明治二年二月佐渡県を廃して越後府に併す)御用掛。佐渡県参謀兼民政方奥平謙輔の命により、八雲は伊藤退蔵(後岩船郡長となる)と共に、順徳天皇神霊遷幸の儀を行うよう神祀官に建議した。八雲は後に控訴院判事となった。(佐島遺事)
★西川明雅(にしかわあきまさ)
【生没】一七七七ー一八三○ 地役人、通称藤兵衛、字は士章、蘭園と号した。西川恒山の子、父の名を辱めぬ才能と学力があり、諸職をへて広間役までのぼりつめた。『佐渡年代記』は、一説には、初めの数巻は明雅が編纂し、そのあとを子の原田久通が継承したという。広間役在任中天保元年十二月十八日病没、享年五三歳、西川容所は明雅の子、恒山の孫、名は功、字は士業、父に似て才幹があった。【関連】西川恒山(にしかわこうざん) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、西川明雅他『佐渡年代記』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。通称は藤兵衛、字は士章、恒山の子である。目付役、山方役等をへて文政三年(一八二〇年)広間役当分助となり、五年広間役助、.九年広間役に進み治績が多かった。詩をよくし一説に佐渡年代記はじめ明雅が若干巻を著わし、後原田久通が継承したという。天保元年(一八三〇年)十二月十八日に五十三才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
ウィキペディアより
★西川和彦
佐渡高校時代の昭和36、全日本学校書道連盟野田支局主催全国学生展特別賞
★西川休心
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。奉行曽板吉正の臣寺田某について学び治部流の書をよくした。(佐渡人名辞書)
★西川玄宅
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡赤泊の人で江戸の白井桃玄に学び貞享(一六八四-八七年)年中に陣屋附医師となり元文四年(一七三六年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★西川宏器
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。名は功、字は士業、通称を藤蔵または包之助、容所とも号し明雅の子である。詩をよくし天保(一八三〇-四三年)のころ目付役となり奉行久須美行部につかえた。学識があり且吏務に長じた。(佐渡人名辞書)
★西川恒山(にしかわこうざん)
【生没】一七三五ー一八○五 地役人、名は邦實、通称藤兵衛、字は士亮、恒山・蘭門と号した。享保二十年相川に生まれる。宝暦二年(一七五二)一八歳で夷湊番所役となり、一九年在勤した。この間に鈴木北湖について経史を学び、中山漸盧・藤沢子山・鈴木逸甫らと交わって、学問・詩歌の力を伸ばした。これらの人たちと詩社を結び、多くの漢詩をのこしている。明和七年(一七七○)山方役になり相川に帰ったが、その後二度江戸詰めとなり、その時片山兼山の門に入って儒学を修めた。寛政三年(一七九一)広間役にすすみ、国政に参画して大に治績をあげた。他方公務・学業の餘暇に私塾を開いて、地役人の子弟を教育し、田中葵園(從太郎)・原田久通など多くの逸材を輩出した。また、これが恒山の死後葵園にうけ継がれ、のち学問所修教館へと発展した。恒山は、ことに漢詩をよくし多くの作品をのこしたが、同門詩社には、子の西川明雅・高野延清・加藤典義・原田久通・天野長寛・海老名義恭・蒲原維新・坪井陳善・美濃部献・川島方睦らがいる。文化二年九月十六日没、享年七一歳、相川大安寺に葬られる。夷御番所の松は、恒山の植えたものと伝える。【関連】田中葵園(たなかきえん) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※西川恒山が御番所の松と築地のお旅所の松を手植えしたのは宝暦4年(1754年)と夷諏方神社の記録にある。
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
「島の新聞」
ウィキペディアより
★西川光次郎
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★西川宏道(こうどう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人、恒山の子である。藤蔵といい、桐江とも号した。才学があったが短命で天保八年(一八三七年)十一月二十五日になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
ウィキペディアより
★西川静
佐渡高校時代の40.6.26~27、体操全国高校大会県予選会(三条高校)クライミングロープ2位 40.9.25~26、体操県高校結合体育大会(高田高校)個人総合6位(吊輪2位・平行棒3位)
★西川春洞
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西川春洞 131 西川春洞四言二句書の周辺〈山本修巳家所蔵 六曲屏風〉清水六穗
★西川光子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西川光子 74 『冬の虹』愛誦句-山本修之助遺句集-
★西川祐一
「島の新聞」索引(人名別)
★西川義彦
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西郡久吾(にしごおりきゅうご)
金澤小学校の先生から長岡中学の国文学の先生となる。1867(慶応3)年〜1931(昭和6)年。良寛研究の先覚者。権力や名声のためばかりに必死になっている世の中の人のために、解熱剤として良寛の書物を出版しようと決心し、1914(大正3)年教職のかたわら十数年にわたって良寛の資料収集と集成に没頭し、ついに「北越偉人沙門良寛全伝」の出版にこぎつけました。良寛の業績を学問的に研究した書物は、これが初めてでした
★西崎美幸
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西崎美幸 57 おはつさんと共に「相川の散り紅葉」
★螺澤(にしざわ)辨明
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p55
★西沢爽
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西沢爽
8 佐渡を題材とした歌謡曲 ひばりの佐渡情話、佐渡の石小法師(いしこぼし) 53 佐渡の石小法師(いしこぼし) 62 西沢爽氏に文学博士の学位を授与 山本修之助 62 山本修之助著「野のうた 恋のうた」について 26 特集 句集「海見ゆる坂」 俳句と私の作詞 147 西沢爽の「ひばりの佐渡情話」 山本修巳
★西条正(にしじょうただし)
新潟産業大教授。佐渡赤泊出身の母と共に、敗戦後の中国において辛酸をなめ、その体験を下記の本に描いた。「中国人として育った私―解放後のハルビンで」(1978年 中公新書 西条正)「二つの祖国をもつ私―ハルビンから帰って十五年」(1980年 中公新書 西条正)
→「渡辺ハルエ」(母) 「水田はなか」(妹)
「中国人として育った私」に載る当時の略歴
1945(昭和20)年,中国・北安に生まれる。1964年ハルビン市第十四中学校高級中学卒業.同年12月帰国・1972年横浜国立大学経営学部卒業。
現在は津田私大学非常勤講師(中国語,中国政治経済)、NHKラジオジャパンに出演.
「島の新聞」索引(人名別)
その他諸情報
★西田長治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西田長司 1 農論
★西田税(みつぐ)
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★西田裕司
首都圏佐渡吉井会会長。
★西谷章
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西谷章 81 故松井源吾博士を偲ぶ-佐渡・真野町出身-構造家として理想的な姿を示す
★西谷能雄(にしたによしお)
【生没】一九一三ー九五 出版社『未来社』社長。大正二年九月八日北海道に生まれた。二歳のとき母の故郷(相川町二見)佐渡に帰り、旧制佐渡中学を卒業する。東京外語専門学校(現東京外語大)の、ロシア語学科を中退、明治大学文学部を卒業し、京都の出版社弘文堂に入社して、取締役編集長を勤めるが、『夕鶴』(木下順二)の出版で社の同意が得られず、紙型を退職金代わりに退社、一九五一年に未来社を設立して『夕鶴』を処女出版した。以後思想・芸術・社会科学・民俗学の分野で、つぎつぎに良質な書物を出版し、気骨の出版人として高い評価を受けた。わずか六○枚ほどの小品(夕鶴)だったが、敗戦後の混迷の社会では、「一服の清涼剤として、人々の心を捉えた」と書き、「物欲が支配する人間の世界で、人はどう生きるかという、きわめて今日的、根源的な問いかけをこの作品はしていると私には思えた」とつけ加えている。一九八七年十月、相川町北片辺に木下順二揮ごうの「夕鶴の碑」を建てるに当って、その揮ごうと、木下および主演の山本安英の除幕式出席をとり持ったのが西谷で、自身も妻和歌子さんとともに来島した。のちに「読書の感動がしばしば人間の生き方や思想を変えたり、時に運命を変えることすらある。『夕鶴』は出版人としての私の運命をたしかに変えた。その意味で忘れ得ぬ本となった」と回想している。平成七年四月二十九日没。八二歳。【関連】夕鶴の碑(ゆうづるのひ) 【参考文献】記念誌『夕鶴の碑』 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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夕鶴の碑(ゆうづるのひ)
多くの有志からの浄財により、相川町北片辺に建てられた。除幕式は昭和六十二年(一九八七)十月二十日。碑の背後に、樹齢八○年ほどの豊かな枝を張る黒松が数本そびえ、その日陰の中央に、木下順二揮毫の「夕鶴のふるさと」の碑がどっしりと坐り、その両脇前に夕鶴と原話鶴女房の関係を記した、書家磯部玄遠の書と、夕鶴冒頭の“わらべ唄”を記した、書家土屋弸の麗筆の碑が並んでいる。中央の碑は八・五トン、羽茂町小泊の産。両脇のものは、小倉(畑野町)と梅津(両津市)のもので、ともに潮風に強い石英安山岩系の石。石工は真野町の土屋秀夫である。木下順二の名作(民話劇)の原話は、ここ北片辺に住む道下ヒメ(当時七二歳)の話したもので、昭和十一年四月二十一日、柳田国男の指導で、鈴木棠三が採集(『佐渡島昔話集』)したものである。そもそも「夕鶴のふるさと」建碑の根起しは、当時、毎日新聞記者だった本間寅雄が三浦啓作等と核となり、当町二見出身の未来社々長西谷能雄に話しかけ、西谷社長から木下順二に橋渡しされ実現したものである。西谷社長は、「夕鶴」と山本安英の「歩いてきた道」の二冊を基に、未来社を自らはじめた男なのである。【関連】木下順二(きのしたじゅんじ)・西谷能雄(にしたによしお)・鈴木棠三(すずきとうぞう) 【参考文献】記念誌『夕鶴の碑』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】浜口一夫(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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西谷能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 1995年4月29日)
未來社社長。北海道札幌市生まれ、新潟県佐渡島出身。旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務。当時、弘文堂は学術出版社として名高く「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。同社取締役編集部長ののち1951年10月31日に退社、1951年11月11日に未來社を創設。退職金代りに弘文堂から譲り受けた「アテネ文庫」の紙型を利用して、木下順二『夕鶴』と山本安英『歩いてきた道』を同社の最初の書目として刊行。1968年に注文制(買い切り)を実施。ワーズワースの「思いは高く、暮らしは低く」を仕事上の信条とし、主として左翼系の出版物を刊行した。
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「佐渡高等学校百年史」
佐渡高校創立七十周年記念にあたって、昭和四十一年十月二十九日未来社社長西谷能雄(佐中第三十一回卒) は、後輩のため母校に自社出版の書籍三〇九冊(総額一一万一〇〇〇円)を寄贈した。西谷は四月に帰郷した際、図書館の様子を聞き、寄贈を申し出たのであった。書籍の選定は教職員にまかされ、送られてきた出版目録の中から選ばれた。『未来劇場』全一〇一巻、『木下順二作品集』全八巻など演劇関係、『日本の民話』全四六巻、『花田清輝著作集』全七巻など文学関係のものが多く、さっそく演劇部で活用されるなど生徒に広く利用されている。
「ウィキペディア」より
・著書
金日成首相生誕六〇周年を祝して チュチェ思想に輝く朝鮮民主主義人民共和国 未來社 1972
出版とは何か 正続 日本エディタースクール出版部 1972-73
出版のこころ 未來社 1976
出版界の虚像と実像 未來社 1981
預金者の論理と心理 一出版人の銀行関係論 未來社 1981
出版流通機構試論 取次店・書店・大学生協 未來社 1981
出版を考える 未來社 1984
責任販売制とは何か 未來社 1988
出版界の意識変革を索めて 消費税への対応批判(編著)影書房 1990
本の定価とは 日本エディタースクール出版部 1990
思いは高く… 出版五〇年の反省をこめて 未來社 1991
・翻訳
レエルモントフ 奥沢文朗共訳 レエルモントフ刊行会 1939
・勤務先の弘文社から木下順二「夕鶴」が出たが再版されなかったので、退職金代わりにその版権をもらい、独立の際に出版した。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p422
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※西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年2月27日 - 1990年11月24日) 「ウィキペディア」より
日本の哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。京都大学文学部名誉教授、文化功労者。
・来歴・人物
石川県鳳珠郡能登町の出身。若年で、同郷の(現かほく市)の出身である西田幾多郎『思索と体験』に出会う。第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科に入り、西田幾多郎に師事する。1943年京都帝大教授、「近代の超克」に参加し、戦後公職追放、追放解除後1952年京大教授に復帰し63年定年退官、名誉教授、大谷大学教授。ドイツ神秘主義などを研究するが、後半生は仏教に傾倒した。1945年9月、京都大学文学博士 「宗教哲学 」。1965年日本学士院会員。1970年叙勲二等授瑞宝章。1982年文化功労者。1990年叙正四位、授旭日重光章。
哲学以外の分野においても、芭蕉、寒山詩やトルストイ、リルケに関する考察や随筆も多く残している。ゲーテ・メダル受賞。出生地である宇出津には、西谷啓治記念館がある。高坂正顕、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。
未來社創設者の西谷能雄は従弟である。息子の西谷裕作も京大助教授(倫理学)をつとめた。
・著書
根源的主体性の哲学 弘文堂 1940
世界観と国家観 弘文堂書房 1941
神と絶対無 弘文堂 1948
アリストテレス論攷 弘文堂書房 1948
ロシアの虚無主義 弘文堂 1949 (アテネ文庫)
ニヒリズム 弘文堂 1949 (アテネ新書)
宗教と政治と文化 法蔵館 1949
現代社会の諸問題と宗教 法蔵館 1951
宗教論集 第1 創文社 1961
宗教と文化 国際日本研究所 1969
風のこころ 随想集 新潮社 1980
仏教について 法蔵館 1982
西田幾多郎 その人と思想 筑摩書房 1985
禅の立場 宗教論集II 創文社 1986
西谷啓治著作集 全26巻 創文社 1986-95
寒山詩 筑摩書房 1986
正法眼蔵講話 1-4 筑摩書房 1987-89
宗教と非宗教の間 上田閑照編 岩波書店同時代ライブラリー 1996 のち岩波現代文庫
家郷を離れず 西谷啓治先生特別講義 創文社 1998
京都哲学撰書 第16巻 随想集青天白雲 燈影舎 2001
京都哲学撰書 第28巻 神秘思想史 信州講演 燈影舎 2003
「島の新聞」
・未来社が経営難の時、「民話シリーズ」で持ち直したと言われる。このシリーズを応援したのが宮本常一で、これが二人がつながるきっかけとなった。民話ブームは柳田国男の弟子である丸山久子が昭和29年10月に畑野町でテープレコーダーで岩井キサさん(1847年頃の生まれ)の話を録音し、それを語り口調のまま書き起こし『佐渡国中の昔ばなし』として出版したのが始めと言われている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西谷能雄
56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 磯部欣三 56 「夕鶴」に思うこと 飯山弘 56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 磯部欣三 56 「夕鶴」に思うこと 飯山弘 61 「夕鶴」に賭けた佐渡人 -未来社・西谷能雄氏- 山本修巳 79 点鬼簿(1) 中河與一氏、櫻井満氏、北見俊夫氏、西谷能雄氏、山本泰司氏 山本修巳 113 木下順二先生を悼む 山本修巳
北朝鮮金日成と未来社と西谷能雄
★西谷渡
未来社創業者西谷能雄の兄?か。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p407
★西永武志
両津高校時代の1981年度(S56)10月、新潟県競書大会特選
1982年度(S57)10月、第22回新潟県高等学校商業美術展写真部門 奨励賞
★西野善兵衛
姫津の人、相川町長(昭和39年10月~51年10月)。
★西野善作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西野博
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
姫津郵便局長 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『続佐渡酒誌』(平成14年)
★西野雅夫
小木大浦の人。ペンネームで「まご子に贈るへそじま物語」を出版する。小木町教育長など公職も歴任。
「まご子に贈るへそじま物語」(西野端緒 文芸社, 2004年 - 378 ページ)
数千年前にタイムスリップした草創の世界「へそじま」。そこには、水と緑と大地を敬った機知に富んだ人々が...。そして、悲しみを乗り越え、希望に満ち、愛と優しさに包まれた群像があった。ロマンに満ちた大作が今ここに。
新潟日報 h23年2月27日
★西橋健(芸名 西橋八郎兵衛)
「手わざ図鑑」
畑野猿八に移住して「猿八座」主宰し土人形を制作する。 1948年 札幌市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇専攻。1970年 文楽人形遣い吉田簑助に入門、吉田簑司の芸名で舞台を勤める。 1979年 佐渡に移住、文弥人形「大崎座」座員となる(~2001年)。1995年 「猿八座」を旗揚げ、継承と共に、古曲の復活や、他のジャンルの語り、音楽との共演、ワークショップを通し文弥人形の普及に努める。2003年より「真明座」座員としても活動中。2008年 越後角太夫と「越後猿八座」を結成し、西橋八郎兵衛と名乗る。
「越後猿八座」
2008年1月、新潟市民を主に太夫と17人の遣い手が「越後猿八座」を結成しました。元文楽三味線奏者、鶴澤淺造(新潟市在住)が越後角太夫(かくたゆう)を名乗り、佐渡の文弥節を参考にして復曲した古浄瑠璃を弾き語りします。人形を西橋が指導して2009年6月7日「弘知法印御伝記」で旗揚げ(主催「柏崎ゆかりの古浄瑠璃を復活初演する会」・柏崎市産業文化会館)。「弘知法印御伝記」は新潟県寺泊の西生寺に現存する日本最古の即身仏、弘智上人を主人公に17世紀に書かれた説経浄瑠璃です。2009年7月の新潟県民会館(新潟市)ほか県内各地を巡演し、今後新たな古浄瑠璃の復活上演にも挑みます。
詳細は越後角太夫のブログをご覧下さい。 http://echigo-kakutayu.blog.so-net.ne.jp/
「オリジナル上演作品」
「鬼葛」(1983) 脚本:滝沢 解 共演:古屋 和子
「侘助」(1985) 脚本:滝沢 解 共演:八久保 保
「吉野太夫」(1989) 脚本:滝沢 解
「信太妻」(1984) 復活上演 共演:ジョニ・ウェルズ、斉藤 毅
「雨弓」(1990) ジャズピアノ:板倉 克行
「説経・をぐり」(1995) 「猿八座」旗揚げ公演 琵琶弾き語り:古屋 和子
「The She-Fox of Shinoda」(2000, 2002) 作曲:Colin Hodgetts 3人の歌手、フルート、ヴィオラ ギター、パーカッションによるオペラ(英語)人形劇
「松風」(2002) 富本節:西松 布咏
「連/脈」(2003,2005) チェロ即興演奏:Tristan Honjinger 舞踏:堀川 久子
「浄瑠璃姫」(2004) 「蓮曼荼羅」(2007) 横笛:赤尾 三千子
「喋り山姥」(2006)
「御祝儀三番叟」「小栗判官-車曳き-」(2007) 三味線弾き語り:鶴澤 淺造
「弘知法印御伝記」 (2009)
「越後猿八座」旗揚げ公演 三味線弾き語り:越後 角太夫
「土人形」
佐渡では江戸時代末から八幡ほか島内各地で土人形が作られ、北前船で運ばれた伏見(京都)、長浜(島根県浜田)の土人形も残っています。昔ながらの土人形の愛らしさを再現したく、1979年から制作、販売を始めました。原型から自作し、絵付けには胡粉、泥絵の具を使っています。
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」
「新潟日報」h27年3月7日
(西橋健)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)・人形浄瑠璃「猿八座」(西橋健)・伝統芸能の書庫「鳥越文庫」「39号」(平成26年10月)越敷神社が能舞台に(西橋健)
「島の新聞」索引(人名別)
★西橋晴美
染織作家、畑野猿八在住。各地で精力的に作品展を開いている。夫は「猿八座」を率いる西橋健。
「手わざ図鑑」
「島の新聞」索引(人名別)
★西堀啓次郎
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数103
★西堀良造
『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)より
西堀啓次郎の息子良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西堀家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。
※松永テルは、西堀家に嫁いだ後は終生松永輝で通した。子供達もそれが本名だと思っていたそうだ。輝は来た輝次郎の輝であろうか。
★西巻昭
県立佐渡女子高等学校25代目校長(平成8.4.1~10.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★西牧三郎左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★西牧孝行
「島の新聞」索引(人名別)
★西三川武左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★西三川村清次郎
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★西村和子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西村和子 103 佐渡
★西村公朝
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4佐渡の秘仏/秘仏の美
★西村滄州(そうしゅう 明充 善五郎)
【生没】一八二二ー九五 佐渡奉行所地役人、佐渡県・相川県吏。名は明允、通称善五郎。文政五年長井克智の次子に生まれ、西村家を嗣いだ。田中葵園に学び、天保七年(一八三六)一五歳で修教館の助読を勤める俊才であった。同十年より出仕、嘉永・安政の両度、篤学職務勉励をもって幕閣から表彰された。維新後、佐渡治政の責任者として来島した越後府参謀奥平謙輔の方針は峻烈を極めたが、聴訟局長に任ぜられていた滄州の「峻法は亡国の兆にして王政の見ざる所」という諌言に感服し、謙輔は自ら増俸の辞令を書いて与えた。誤って無頼の乞食を殺した百姓の罪を、大岡裁きによって救った話は有名である。相川県時代の上級官吏は、ほとんど東京から来ていた中で、滄州は権大属まで進み、一等警部三級判事を兼ねた。明治九年(一八七六)相川県廃止を機に退官し、以後真野・新穂・吉井に移って、郷村の子弟に漢学を教え、晩年は再び相川に帰り、圓山溟北・丸岡南陔亡き後の泰斗として、多くの学生を集めた。明治二十八年二月三日、七四歳で没した。
【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、岩木拡『相川町誌』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
西村滄州は、通称善五郎といい、佐渡奉行所の地役人であった。維新後は佐渡県・相川県に在職していたが、明治九年新潟県となった時職を辞して、真野町新町・同四日町・新穂村・両津市吉井などを転々として漢学の私塾を開いていた。
真野町新町や四日町にいたのは、明治一〇年ころから四年間でないかと思う。これほ学制施行後の「新町郷校」や「新街小学校」 の教員ではなかったようである。新町では、山本藤九郎(通称なかおうや、のちの戸主植蔵、現在の臼杵医院)宅の二階であったと聞いている。山本静古年譜によると明治一〇年一三才の時「小学新町校」に入学、同一二年漁洲の私塾に学んだと書いてある。そして、同一四年春、新町から新穂村新穂へ転居する時、こんな狂詩を作っている。
庇鉾先生何処行 無才無学又無智 一所三年不止足 干尻懸帆任庇馳
また、この前年米価が三・四円から急に八円とあがった。この時は 米価八円少不下 是而先生立切連 を作った。これを見た父兄たちが給料を上げたという詰もある。門人には山本半蔵をはじめ、一族の一郎・悌二郎・藤佐久・藤右衛門がいたし、後輩に吉岡の尾畑与三作・高野宏策、四日町の白木兼蔵がいたと聞く。また、明治一八年、萩野由之博士が四日町にいた滄州を訪ねたことがあるから、新町から新穂へ行き、さらに四日町へ釆たものであろうか。
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の地役人で名は明允、字は士顕、通称を善五郎、滄洲は号で長井家に生まれ、明遠の弟である。田中葵園に学び修教館で研修、詩をよくした。地方頭取となった。明治維新参謀奥平謙輔が佐渡をおさめた時、その廉直公平を認められて聴訟局長となった。維新後、佐渡県および相川県中属、権大属、一等警部、三級判事補となり明治九年廃県とともに辞職した。その後は育英に尽くした。明治二十八年二月三日に七十四才でなくなつた。(佐渡人名辞書、相川町誌)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
幕末になると、幕府も諸藩も一定の制限のもとに農民を海防や治安維持のために軍役を負担させなければ、武士の力だけでは対応できなくなっていた。佐渡奉行所でも文久三年幕府の命により農兵制度を採用して、農兵隊を編成し軍事訓練をおこなうことになった。同年二月ころ西村善五郎・小田切仁兵衛・山田百太郎を莞掛りに任じ、数か村ないしは一〇数か村を一組にして佐渡全島を組み分けし、各組ごとに百姓から取立てた農兵下掛りを置いて隊編成や奉行所からの命令伝達業務をとりおこなわせた。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西村滄洲
90 幕末明治の良吏-『滄洲遺稿』を読む-倉田藤五郎 112 旧稿「幕末明治の良吏」を補ふ 倉田藤五郎
西村明充
ウィキペディアより
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数42
★西村徳右衛門正生(しょうせい)
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。延宝元年(一六七三年)山方役より留守居役に移った。当時佐渡の地役人は奢侈にふけり下にむかって尊大、上には阿諛が甚しかった。正生は質素で清慎、よくつとめた。棒を加えられ元禄六年(一六九三年)十月職を退いた。曽根吉正、鈴木重祐、萩原重秀の三奉行につかえ在職二十一年であった。元禄九年九月一日に八十六才でなくなった。(佐渡人物志)
★西本和枝
平成28年3月に行われた「西本和枝・吉井初子二人展」@アイポート より
★西本佐和子
新潟日報 9月
★西山京子
両津高校時代のs46年、総体ヨット女子スナイブ級3位(末武悦子、西山京子、本間和枝)
★西山寿平次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟縣進歩党分裂の真相[三十六年十月十五日]・大3、河原田高等女学校の移転惜別会[十三年十月四日]
★西山徳兵衛
「佐渡病院の草創期」
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、山本の入閣祝賀会[二年四月二十五日など]
★西山八太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西山秀雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西山與八郎
相川小校長
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★仁丹博昭
スポーツ佐渡0603月
★日永(にちえい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
★日詠(にちえい)
【生没】生・没年不詳
赤穂浪士の赤埴源蔵の母。佐渡奉行所の地役人高野忠左衛門の娘で、赤穂(兵庫)の赤埴一閑に嫁いで、長男源蔵が生まれる。嫁いだのは「十四歳のとき」(佐渡奇談)とあるが年代も不明で、実名も伝わっていない。「日詠」とは髪をそって出家したあとの法号で、実家の相川高野家が代々日蓮宗瑞仙寺(中寺町)の檀家だった。文政七年(一八二四)の相川町絵図によると、住まいは会津町で、二十俵三人扶持の禄高。源蔵(重賢)の名は講談の「赤垣源蔵徳利の別れ」で有名になったが、禄高二百石の馬廻り役で、討入り当時三四歳。新発田の堀部安兵衛より二つ年上だった。弟の本間安兵衛は、土浦(茨城)城主土屋相模守の家臣。妹は宇都宮城主阿部対馬家の家臣の田村縫右衛門に嫁いでいたことが、討入り後に源蔵が書いた「親類書」から読みとれる。苗字の「赤垣」は講談の誤まりで「赤埴」が正しいこともこの親類書からわかった。日詠と弟の安兵衛が、討入り六年後の宝永五年(一七○八)五月、江戸から相川の実家に宛てた書状各一通が残っている。この年の三月に、たまたま産金輸送のため江戸へ上った甥の高野忠左衛門(玄家)が、「干鯛」「わかめ」「塩鱈」などを土産に持参した。その返礼で「源蔵のおかげで、われら何方へ行っても、下にもおかれず候」と、討入り後は幸わせに暮していることが日詠の手紙にある。当時江戸滞在が一○日間だったため、江戸へ登ったものの日詠らとは対面できず土産物だけ届けて帰った。この甥の玄家は帰国直後、四五歳で相川で没し、一族の墓は中寺町の日蓮宗・瑞仙寺に残っている。
【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より) 『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の地役人高野忠左衛門の娘である。赤穂藩士赤埴氏に嫁し、赤埴源蔵(赤垣ではない)と本間安兵衛、女一人を生んだ。赤穂浪士の吉良家討入りに源蔵が加わり、源蔵の死後、尼となり日詠といった。安兵衛のもとで老後を安楽におくった。老後、生家の甥、高野忠右衛門におくった消息の便りと形見の形が高野家に伝わっている。(佐渡人物志)
★日衍(にちえん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原根本寺十三代で栴林院と号した。京都妙覚寺の徒となり根本寺十二代日是の招きにょり同寺十三代の主となった。(日本仏家人名辞書)
★日応(にちおう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺二十六代で字は空心、浄感院と号した。後小室談林、飯高談林、水戸談林等で修業し水戸談林化主日省の弟子となりその命によって相模粟原村法泉寺の主となった。五十三才
の時、佐渡一ノ谷妙照寺に移り、寺務をみること二十年、中興の祖といわれた。享保十八年(一七三三年)七月十八日に八十五才でなくなった。(日本仏家人名辞書)
★日行(にちぎょう)
後山 本光寺
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡本光寺の開山で妙音阿閤梨といい、松林院と号した。幼時日朗に師事し、その没後京都に出て妙顕寺に入り日像をたすけ、後大妙寺に住んだ。日蓮苦行の地をしたい、晩年佐渡に遊化し、日朗の旧蹟、日朗坂に寺をたて日朗山本光寺という。六十二才でなくなった。(日本仏家人名辞書)
★日成(にちじょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡塚原根本寺第三世。大泉房と号し京都妙覚寺十二代日護の門弟である。日蓮の四難処の三つを巡拝し、ついで佐渡に渡り塚原に詣で旧址の荒れはてゝいるのをなげき、天文二十妄(一五五二年)に寺を建て根本寺といい、日蓮高祖とし日蓮を開祖とし、日朗を二世、自ら三代となった。永録二年(一五五九年)ニ月一日になくなった。(佐渡人名辞書、日本仏家人名辞書、仏家大辞彙)
★日静(にちじょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺の開山で字は覚乗、一位阿闇梨という。佐渡石田郷一の谷の人で邑更近藤小次郎清久の一族である。文永九年(一二七二年)領主本間六郎重遠が日蓮のため道場をおこして法華堂と名づけ清久に奉侍させた。この時日静も剃髪して随従した。日蓮がゆるされた後もその徳を慕い、遂に遺跡に寺を建てたので建治九年(この年号は三年まで、三年ほ一二七七年)中興入道信重が使を身延山にやって山寺号を求めた所、妙法華山妙照寺の篇額を与えられた。また松栄山実相寺を開いて日蓮の遺蹟を保存した。正安三年(一三〇一年)六月二十二日になくなった。(佐渡人名辞書、仏教大辞彙)
★日全(にちぜん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
久遠寺五十世で佐渡の人、字は完妙、明静院と号した。飯高檀林に学び同檀百六十六世化主となり、後江戸二本榎円真寺に住み、寛政十一年(一七九九年)二月身延山久遠寺五十一世となった。在職五年で一円庵に退隠し、文化五年(一八〇八年)四月六日に八十三才でなくなった。(越佐先賢墳墓誌)
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p188
★日念(にちねん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日蓮宗の僧である。日蓮が佐渡に流された時、同門の日向や日持とともにかわるがわる師の日蓮を訪門した日蓮の高弟である日頂の弟子で名僧のほまれが高かった。越後、越前、下総にそれぞれ妙国寺を建てた。建武元年(一三三四年)八月二十七日に高田市の妙国寺でなくなった。(新潟県史)
★日満(にちまん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡阿仏房妙宣寺の日興の弟子で、元弘二年(一三三一年)七月二十四日に妙宜寺の寺宝を日興より授与された。十月十六日北陸道法華宗の別当となった。興国四年(一三四三年)八月十五日になくなった。(新潟県史、佐渡人名辞書)
※渡辺注:上記二資料は間違いではないのか?!
『真野町史(上巻)』(昭和51年刊)
妙宣寺の二祖は日満である。日満は阿仏坊日得上人の嫡子藤九郎盛網の長子九郎太郎盛正の次子として文永九年に生まれ、興円と呼ばれた。佐渡の先師の遺業を継ぐべく日興上人を慕って富士にのぼり、高弟日華の弟子となり如寂房と号した。妙宜寺の縁起に、「草創地は新保にあり。その後嘉暦二庁戊歳執権北条高時の代、領主本間山山城守入道の下知により竹田へ転地す。二世日満上人の代なり。この地蹟いまは田畦にして、字を御堂屋敷、本屋敷という。この辺に旧蹟六か所あり。この昔の地よりいまの地までの街道に坂あり。各郷民は阿仏房坂と申し伝う。寛永元年よりのち、延宝五年前の絵図面に阿仏坂と記しあり。」と記され、元享・正中の頃には、すでに佐渡にあった日満は、嘉暦のはじめ、その元屋敷と呼ばれる旧地を新保(金井町)に残して現在地に近い竹田地内に移転し、阿仏坊本堂建立の事業を起こした。
嘉暦三年(-三二八)には世尊寺二祖国府入道日久が没し、さらに二年後の元徳二年(一三三〇)二月には、日朗上人の高弟妙音阿閣梨日行が、日朗山本光寺において六二歳の生涯を閉じている。さらに一三年後の康永二年(一三四三)八月には後阿仏盛綱が八九歳で没し、名実共に先師の残された法華弘通の後継者指導者となった日満は、元弘二年(一三三二)七月に阿仏坊本堂を完成させたので、日興上人は本門寺の重宝である日蓮上人の書かれた本尊に、「佐渡の国、法華の棟梁、阿仏坊の彦、如寂房日満に之を相伝す」と脇書きし、本堂常住の本尊としてこれを阿仏坊に送っている。
また、同じ年のー○月一六日には、日興上人は、「定め補する師弟ならびに別当職の事」と題する定め置き状を日満に与えている。その内容は、「日満は学問や授法は日興の弟子であるが、代代の由緒があり、特に阿仏坊は日蓮上人の佐渡流罪のとき、いろいろと尋ねてきた功によって直弟子である。しかも『聖人号』をいただいたほどの仏法の相続者、一切衆生を助ける徳のすぐれた人だから、阿仏房のあとを相続する子孫は北陸道の法のともしびとなるべきであるとの日蓮上人の筆跡からうかがわれるので、日満は北陸道七か国ー若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡ーの法華の大別当となって、立派に法を守り伝えていくように。」となっている。そして、この状を書いた翌元弘三年二月七日には、日興上人は八八歳で富士重須の森で没しているから、その四か月前にこのような大事な事柄を後継者としての日満に言い残しているのである。
日満は、日興上人の滅後一〇数年富士に留まっていたが、康永の頃にほ佐渡へ帰国しており、『日満抄』という一文を書いて、佐渡から富士重須の大衆に法門の正義を説いている。日満は延文二年(一三五七)八六歳で阿仏坊を後継三祖日円にゆずり、隠退して号を真成房とあらため、その年の四月、みずから祖師の像を刻み、長慶山妙満寺(畑野町目黒町)を開いて本堂に安置し、移り住むこと四年、延文五年(一三六〇)三月二一日、八九歳の長寿を全うした。
→日得
★日明(にちみょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺第二世で字は学優、本間三郎左衛門直重の子である。山城入道の一族で、入道に従って佐渡に赴き、父直重が日野阿新丸に報𩁗されるとその冥福を祈るため一の谷妙照寺にはいって日静に師事した。(日本仏家人名辞書、佐渡人名辞書)
★日勇(にちゆう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡塚原山根本寺三十一代で字は輪延、泰輪院と号した。佐渡金井町和泉の人である。安永四年(一七七五年)入山し、同八年十二月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日禮・日礼(にちれい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で字は貞運、仏性院と号した。飯高中台谷に属し、同檀林二百三十六代の化主となり、寛政八年(一七九六年)塚原三十四代となった。妙見社及び境内西外側の石垣を造営し、また霊宝を修覆した。和歌をよくし行一と号した。同十年のころ山内八景をえらんで塚原八境といい小冊子をつくった。文政四年(一八二一年)七月になくなった。在山二十六年に及んだ。(佐渡人名辞書)
★日蓮(にちれん)
「ウイキペディア」より
「佐渡ふるさと百科」
小倉
歌川国芳作
【生没】一二二二ー八二 日蓮は、承久の変の翌年、貞応元年に安房国(千葉県)小湊に生まれた。一六歳で出家し蓮長と名のる。建長五年(一二五三)三二歳の時、法華一乗の旗をあげ日蓮と改名。文応元年(一二六○)「立正安国論」を著わし幕府に上書、そのため翌年伊豆に流され三年で赦免、文永八年(一二七一)には極楽寺良観の祈雨を侮辱したかどで佐渡流罪となった。時に五○歳。十月十日、預けられた依智の本間六郎左衛門の屋敷を発ち、同二十一日寺泊着、二十八日ころ佐渡に上陸、十一月一日塚原に着、三昧堂に入ったという。ここで塚原問答などの難関を越え、「開目抄」を著わしている。翌九年四月三日、一の谷に移される。一の谷においては「観心本尊抄」を著わす。文永十一年(一二七四)二月赦免、真浦より出港し鎌倉に帰る。しかし彼の考えは幕府に容れられるところなく、五月十二日鎌倉を出て身延に入る(この年十月元冦)。日蓮身延に隠棲中、在島時檀越となった佐渡の阿仏房入道夫妻・国府入道夫妻・中興入道などに、何通かの消息を送り届けている。今、阿仏坊妙宣寺に残る「こうの尼御前御書」(単衣御書・建治元年)、「千日尼御前御返事」(女人成仏御書・弘安元年)、「千日尼御返事」(袈裟御書・弘安三年)は、国の重要文化財に指定されている。身延にあった日蓮は、弘安五年病を得て武蔵国(東京都)池上に移り、十月、六一歳でここで没した。立正大師。【関連】妙宣寺(みょうせんじ)・三眛堂(さんまいどう)・妙照寺(みょうしょうじ)・実相寺(じっそうじ) 【参考文献】橘正隆『日蓮聖人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)、田中圭一『日蓮と佐渡』、山本仁「日蓮」(『定本 佐渡流人史』郷土出版社) 【執筆者】山本仁 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
日蓮(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
日蓮(田中圭一講演集より)
「ウイキペディア」より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日蓮
4 佐渡の日蓮(一) 日蓮を預かった名主 小田季吉 4 鑑賞 佐渡のうた (4) 高尾亮一・日蓮・山家鳥虫歌・仙石廬元坊・各務支考 山本修巳 6 佐渡の日蓮(二) 最蓮房は流人僧 小田季吉 12 佐渡の日蓮(三) 日蓮に帰依した人々、阿仏房の後継者 小田季吉 13 佐渡の日蓮(四)日興曼荼羅の教えるもの、日興曼荼羅と寺院縁起、遠藤氏の経歴と日連 小田季吉 14 佐渡の日蓮(五)日蓮に帰依した人々、佐渡日蓮宗寺院と本末関係 小田季吉 15 佐渡の日蓮(六) 日興曼荼羅の教えるもの 小田季吉 62 佐渡の日蓮 山口誓子 117 佐渡の日蓮 清野正男 136 日蓮配所「塚原」はどこか 児玉信雄
「島の新聞」索引(人名別)
「島の文学碑巡り」(佐々木義栄 新潟日報 昭和41年)21
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=11
日蓮 諸情報
★日朗
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
後山本光寺
日蓮の赦免状を首に掛け佐渡へ向かったとされる。佐渡へ渡る途上で台風に遭い船が難破。小木の小島に漂着し一心にお経を読んだ。その縁で、そこが「経島」と呼ばれるようになった。今日、小木の観光名所「矢島・経島」の内の経島である。
畑野本光寺へ向かう坂道は「日朗坂」という名で呼ばれている。日朗はその後、鎌倉妙本寺(神奈川県鎌倉市)、池上本門寺(東京都大田区)、平賀本土寺(千葉県松戸市)を建立し、それらは「朗門の三長三山」と呼ばれている。日蓮六老僧の一人である。
「ウイキペディア」より
日朗(にちろう、1245年5月5日(寛元3年4月8日) - 1320年3月1日(元応2年1月21日))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。
(略歴)
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5日朗上人はこういうお坊さんです
★日解(にっかい)僧正(本國寺)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
京都大光山本国寺二十九世住職で唯妙院という。三島郡出雲崎尾瀬熊本家で生まれ、父作太夫は北津軽(現青森県)小泊村へ移住したがそのあと同町で叔父与左衛門に育てられた。佐渡妙経寺、根本寺、京都𨿸冠井檀林、京都立本寺等の住職となり、ついに本国寺にはいった。剛毅果断の人で大国庵と号し書道にすぐれていた。善勝寺、妙福寺の山号額は日解の書である。晩年本国寺の建物に筋壁をめぐらして罪せられ隠居を申しつけられた。その後隠居僧正と呼ばれ、安永四年(一七七五年)になくなった。
辞世に「苦も楽も夢とし見れは今さらに心にかゝる浮雲もなし」とある。(三島郡誌)佐渡郡金井町泉の人で一説に相川町下戸岩原氏の出であるという。同地の妙経寺に入って剃髪し後出雲崎妙福寺に転じた。中村壇林に入って苦学修業し、同檀林百四十五世の能化となった。ついで摂州上牧の本澄寺に移り、同地方に十六か所の学寮を建て来学者を教授しその学徳をたたえられた。寛延元年(一七四八年)京都北野の立木寺に住職となった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書、越佐先賢墳墓誌)
★日歡(にっかん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡畑野町猿八の人で俗姓は大森氏である。日解の法弟で天明六年(一七八六年)河原田の妙経寺二十五世となり享和三年(一八〇三年)畑野町後山本光寺三十五世を兼ねた。寛政四年(一七九二年)京都本国寺講師に聘せられ、文化十一年(一八一四年)駿州沼津妙海寺四十四世に転じた。文政二年(一八一九年)九月に七十才でなくなった。在住の間堂宇を修築し殿堂を再建したことが少なくなかった。俳詣をよくし桂月堂鳴啼と号した。(佐渡人名辞書)
★日洽(にっこう)
市野沢妙照寺辺
★日厚(にっこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
塚原根本寺三十六代。字は前叔、体事院と号した。両津市湊の人である。天保二年(一八三一年)入山し三味堂を建立した。同十四年八月江戸宗延寺においてなくなった。在山五年であった。(佐渡人名辞書)
★日興(にっこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国真野の阿仏房妙宣寺の僧である。元弘二年(一三一年)七月二十四日、遺言状を作って寺宝を弟子日満に授与した。(新潟県史)
★日興上人
世尊寺の開山である。日蓮流罪に伴って佐渡にきて布教に努め、多くの信者を得た。
★日光(にっこう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡八幡の人で俗姓は本間氏、相川瑞仙寺二十六世となった。漢籍を円山溟北に、詩を丸岡南陔に学び、五十五才の時、東京に出て芝大教院に入学して宗学を攻究し、日薩の推薦によってその講師となった。余暇に画、和歌および生花を楽んだ。塚原山および相州星降妙純寺から請われたが辞して受けなかった。明治三十六年九月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日講
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★日坂(にっさか)仁
★日守
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山根本寺三十五世、字は弁文、惠真院と号した。両津市湊の人である。文政五年(-八二二年)入山し、講堂を営繕し在山十年、天保十二年(-八四一年)五月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日正(にっしょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の邑吏近藤清久の子で俗名を中興入道信重という。夫婦とも厚く日蓮に帰依し、文永九年(一二七二年)九月法華堂を建てて祖師を請じた。後に中原に移して改築したのが妙経寺である。正応三年(一二九〇年)三月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日攝(にっしょう)上人
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
京都深草瑞光寺十一世、佐渡相川大工町中西源十郎の子で字は宜修、托雲子と号した。幼時より仏道に帰依し草山十世事行院日種上人について得度し二十四才で草山十一世の法嗣となった。住山四十余年で人びとの信望が厚かった。弘化四年(一八四七年)十月四日に六十六才でなくなった。(佐渡人物志)
★日祥(につしよう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山三十二代、字は鳳瑞、宝聚院と号した。佐渡相川の人である。安永九年(一七八〇年)入山、はじめて千部会を興修した。天明五年(一七八五年)四月江戸宗延寺でなくなった。(佐渡人名辞書)
★日新
『佐渡の五重塔』(児玉信雄著 2016年刊)より
「島の新聞」索引(人名別)
★日親
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日親 132 佐渡に来ていた鍋かむり日親 児玉信雄
★日進
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡正住院住職。武蔵国池上本門寺の住職日現は、永禄二年(一五五九年)六月八日、佐渡国雑太郡市の沢妙経寺の日進に書を送った。佐渡に日蓮宗が盛んになったのは、日現の努力が大きかった。(越佐史料巻四)
★新田伊作
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
『耳限書集』は新田伊作が書いた生と云われているが、その中で上段附人形(注・御殿つき人形のこと)始りの順について述べたものの中には小倉人形について「明治二十四年始、吉岡甚蔵の頭を求め色々刻み直し四・五年も使用す。その時は四人組合なり。外に伊藤鉄蔵、後藤春吉。加藤酉蔵。明治三十年後藤清蔵へ譲る。明治三十八年清蔵より入川樋口五郎太へ譲る。又人川より欠柄へ譲る。」と書いてある。人形遣いの名人、新田伊作は小倉鳥越の住人で、慶応三年二月十三日元吉の長男として生まれる。人形遣いをどこで覚えたのかわからないが『佐渡ケ島人形ばなし』(前掲書)では十六才ごろから人形をつかいだし、彼は女形が一番得意であったと書いている。しかも研究熱心で嫗山姥の早がわりなど工夫して、お客をあっと言わせたと云う。彼は一説には芝居の役者であったとも云われ、その他に太夫を勤め、能や生花、人形の頭、能面や獅子頭なども刻んだ。昭和十年九月十日に六十八才で亡くなった。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)
この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、 遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
小倉人形(朝日座〉は明治二十四年、真野町吉岡の甚蔵人形を譲りけてからはじまった。太夫は後藤清蔵、役者は伊藤鉄蔵、後藤春吉、加藤酉蔵であった。この人形は、明治三十八年に相川町入川の樋口五郎太へ渡り、さらに相川町矢柄の繁栄座へ移った。これほ高幕人形であった。明治三十五年、小木町大崎屋松之助の刻んだ人形をもとめた。これは御殿人形であった。こんどの座元は新田伊作であった。この新田は、「人形つかいの神様」といわれるほどの名人であった。また太夫もつとめ、人形も刻むという器用な人であった。佐渡の文弥節や人形芝居について、「耳眼書集」というものを残している。昭和十年九月十日、六十八歳で死んだ。そして、人形は昭和十二、三年ころ柏崎の吉田直方へ譲った。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
畑野町小倉の人。太夫・役者をつとめたが、カシラも刻んだ器用な人であった。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★新田健作
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★新田聡子(さとこ)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)それぞれの鬼太鼓奮闘記-地域おこし協力隊(岩首)新田聡子・〃(新穂)小川佳奈子-
★新田徹次郎
明治後の地役人救済の為に奥平謙輔は開墾を行った。鷲崎村弾野地区では北辰隊の伍長であった新田徹次郎が13人の兵衛隊を引き連れて開墾した。白井千別(普請方)、吉沢桶助(学問所)、本間宗治(係役)等である。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★新田牧太郎(にったまきたろう)
【生没】一八七六ー一九六七 明治九年に石川県の山中温泉で生まれた。同二十七年、一九歳のときに佐渡相川から来ていた湯治客の蜂屋鉄蔵という木地師に誘われて相川に移住し、弟子を何人もつくって佐渡の刳り物屋(方言クリクリヤ)を定着させた。牧太郎は、蜂屋の娘ミキと結婚して賢一をもうけたが、賢一は父の業を継ぎ、のち蹴りろくろが電動式に変った昭和の初めに、真野村新町に移って、現在子孫は同町に在住している。牧太郎の作品中では、彼が創作したタバコ入れの「どうらん」につける炭坪(発火用スミを入れるどんぐり型ー五センチ)が好評で、民芸家・柳宗悦からも賛辞をうけたほか、船舶用滑車・綿打器などの仕事で繁盛した。牧太郎の弟子のひとりで、河崎村真木(現両津市)の牧野仁策は、炭坪を継承し昭和四十年代まで仕事をつづけた。【関連】蜂屋鉄蔵(はちやてつぞう) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※息子の新田賢一は「立浪会」創立の大正13年に入会し、踊りを担当し同会黄金時代の会員として長く活躍する。
両津郷土博物館 展示解説シリーズ2p11
★日田正幸
★日体上人
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日体上人 42 連載 閑々亭雑記 (1) 阿仏房五重塔と住職日体上人 山本修之助
★日朝
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
僧侶。嘉吉二年(一四四二年)八月に日朝は佐渡に渡り、日蓮配流の遺跡、塚原根本寺、二宮の妙照寺等を訪れた。(越佐史料巻二)
★日庭聖人(にっていしょうにん)
【生没】一六二三ー九二 貞享四年(一六八七)八月に流罪になった日蓮宗不受不施派の僧侶。この人は元和九年に江戸の星田久右衛門の子として生れ、七歳で出家。一六歳のとき下総(千葉県)の玉造談林に学び、字を了憶・長遠院(法号)と号した。やがて江戸青山の自証寺二世、日遵の弟子となり、同寺三世を継いで律師に任ぜられる。この寺は将軍家光の側室、お振の方の菩提所で、その後寛文八年(一六六八)の不受不施派の弾圧で同寺を退出し、江戸原宿の草庵でなかば公然と正法護持の布教活動を行なっていた。佐渡の配処は相川町下寺町で、最初は円徳寺(現法輪寺)に、のち本敬寺(現蓮長寺)に謫居した。配所佐渡から信者宛てに発信した数通の手紙が、岡山県の妙覚寺など各地に残っている。「門外不出」「一日片時も心の安まる事も無く候」などと、なかば軟禁状態に置かれていたこと、また江戸から藤田孫六・円周・恵三・江田源七の四人が、日庭を見舞うため佐渡へ渡ったが番所でとがめられ、日庭と対面できないで送り返されたことなど、こまごまと記してある。このうちの三人は薩摩へ流される。蓮長寺には、配流中日庭が所持していた明応六年(一四九七)七月、行学院日朝(身延山久遠寺十一世)のしたためた本尊(裏書に日庭の署名と書判がある)が、また本敬寺跡地には、新しく昭和五十五年に建てられた日庭の供養墓が残っている。【参考文献】田中圭一・磯部欣三『佐渡流人史』(雄山閣) 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★日典(にってん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山十一世。字は教典、号は実成院といい京都妙覚寺十八世であったが、天正十八年(一五九〇年)塚原十一世となった。上杉景勝の家老直江景綱と道交があったので、霊蹟護持を謀り景綱から田園その他の寄進をぅけ境内を除地として一山の基礎を確立した。在山三年の後、また京都に帰り文禄七年(一五九八年)になくなったというが、文禄は四年までで七年は慶長三年にあたる。(佐渡人名辞書)
★日得(にっとく 阿仏坊)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日蓮宗の僧で佐渡妙宜寺の開山、阿仏房という。俗名は遠藤左衛門尉為盛で遠藤武者盛遠文覚の曽孫である。順徳天皇につかえて従四位上となり和漢の学。歌道にすぐれていた。承久三年(一二二一年)順徳上皇が佐渡へ流された時、三十二才でこれに従った。仁治三年上皇が佐渡でなくなられ、為盛は念仏をおこたらず阿仏房と号した。妻とともに僧となり、陵の近くに妙宜寺を開いて三十年住んだ。文永八年(一二七一年)冬、日蓮が佐渡に流され塚原(今の根本寺)に住んだ時、阿仏房はひそかに訪れ説教をきゝその弟子となった。十一年日蓮は鎌倉に帰り甲斐国にかくれた。阿仏房はたびたび身延山に日蓮をたずねてその説をきいた。弘安元年(一二七八年)秋、九十才で身延山に登り、日蓮は感激して日得の名を与えた。二年三月二十一日になくなった。日満はその子である。(本化別頭仏祖統記、佐渡人名辞書)
『佐渡の五重塔』(児玉信雄著 2016年刊)より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日得 138 はじめて世に出る妙宣寺阿仏房日得筆曼荼羅本尊 児玉信雄
★二渡要蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★蜷川松億(になかわしょうおく)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で寛保三年(一七四一年)に江戸に出て、医をもって松原肥州忠根につかえた。享保十六年(一七三一年)になくなったというが、年代が前後しておかしい。(佐渡人名辞書)
★仁部卯吉
旭桜会
★二瓶五郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・杣月(そまづき)会を観る(二瓶五郎)※土屋周子
★仁平次
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国吉岡村(真野町)の人で、一家直系三夫帰そろっていた。天保十一年(一八四〇年)国府川橋掛替があり渡り初めに仁平次一家三夫婦が選ばれ、役所から鳥目を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★二方潟村久左衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★二方潟村源五郎
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★入道盛憲
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
式部大輔 保元元(1156)佐渡に配流。 保元の乱に座す。応保二年(一一六二)赦免。(『兵範記』 『保元物語』『帝王編年記』)
★如是一十 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★丹羽弘
両津湊の人。
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
★庭谷良弼(にわやりようすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
堀口松庵の弟で名は精一と言い庭谷家を継ぎ良弼といって詩をよくした。(佐渡人名辞書)
日本料理研究家。滝平金子家の人。娘の「こごま」さんは小学生料理人としてTV番組(TVチャンピオン 小学生料理人選手権(2011年、テレビ東京))で紹介され全国に知られた。
※滝平金子家から出て大崎葛原三十郎家を継いだのが葛原正明(令和2年4月没、94歳)で息子に「古食庵」葛原正巳がいる。
→葛原足太
「ウイキペディア」より
★新島襄
津田仙と新島襄
「ウィキペディアより」
新島襄と内村鑑三
★新穂和泉守
「戦国佐渡国人名辞典」より
加茂郡新穂館主。別名本間和泉守。新穂館(新穂、井内、善光寺、尾戸、北浦)を領した。
★新穂吉右衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★新穂権之助
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★新穂の阿桐
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★新穂村作右衛門
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
★仁右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国上横山村(両津市)の人である。老母に仕えて孝養を尽くしたので、文化八年(一八一一年)役所に呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★荷上一石
昭和3年新穂村長畝に生れる、本名は拡。上京後は東京都経済局に勤務したが病の為車椅子の生活を余儀なくされ、49年に退職する。不自由な身体にも拘わらず52年に能面師・重高禾門に師事して面打ちに精進し、数々の芸術性の高い面を制作した。平成14年8月29日、東京都八王子で永眠。作品は新穂民俗資料館で見ることができる。
★荷上與三兵衛
長畝気比神社
★荷上與六
「新穂村歴代村長」
・初-2池野最平・3 河野勝蔵・4-5鳥井嘉蔵・6本間一松・7河原作一・8河野治一・9臼杵伊之吉・10河原作一再選・11荷上與六・12河原作一再々選・13藍原小一郎・14和田松五郎・15佐藤徹次郎・16藍原小一郎再選・17堀口四良次・18斉藤豊・19後藤億衛・20-22本間市郎左衛門・23-24竹中錬英・25河原治一 ・26-27山本三郎・28-30菊池一春・31-32本間權市
新穂村
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]
・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★二木秀勝(ひでかつ)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡州吏、通称を彦右衛門といった。目付役で治部流の書をよくし槍術に長じた。享保十六年(一七三一年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★仁木与三右衛門
『安照寺史』(平成19年刊 梶井照雄著)より
★西けんじ
★西登喜男
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西博司
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50029394.html?p=5
★西リウ
新穂村史 s51年
新穂青木公民館前
『新穂村史』(昭和51年刊)より
私塾という程形は整っていなかったが、明治から大正初にかけ各部落で、個人の家に二、三人と夜勉強に通ったこと等近世の所で記した通りである。女子は特に裁縫を必要とし、部落に「師匠」といわれる人々が居て、男子以上に時日をかけ裁縫(はしん)の修業にいそしんだ。その内、弟子が多く有名であったのは、青木の西リウの塾であった。本人は文字は解さなかったが裁縫、行儀作法等の技術と教授力は抜群で、弟子は島内各地にゐた。延数百人といわれる。「藍綬褒賞」を受けている。異例のことゝいわねばならない。
『新穂村文化の先達』(川上三吉編著 昭和62年刊)
★西阿方善比丘
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★西井和枝(kazue)
「 エスライフ」2012年2・3月号
ヤマハエレクトーン講師・プレイヤー,ヴォーカリスト、ヴォイストレーナー,ナレーター。
各地ホテル・結婚式場・イベント・コンサートでの奏者や司会者を経て,現在studioEASE代表。松田良,吉田英樹,MariaEva各氏に師事。 2001年ゴスペルを歌い始め,翌年TheFactofYOfSoulの運営に参加。4人組コーラスユニット『TOKYOBOOGIE』結成。「東京倶楽部」「蔓茶羅」「中目黒楽屋」「キンのつぼ」などのライブハウス出演。 2009年佐渡に移住。以降,東京と佐渡での活動を続ける。佐渡:「CoCoJ「Cafe一葉」「ちょぼくり」「ボアール」「えんや」「寓友荘」「相川ひな祭り」「フエー」一船上ライブ(佐渡汽船)」「」A羽茂講演会」「佐渡の日inニュー桂」「特 別養護施(はもちの里・つくし)」東京:「公園通リクラシックス」「中目黒楽屋」「関東羽茂会」
音楽以外の活動:「佐渡市体育協会表彰式(司会)」「薪能(司 会)」「食キング佐渡(リポーター,佐渡TV)」「小学校 でコミュニケーションヴォイストレーニング授業」CD「パートナーズライフ」「悠久のラブ・ソング」「佐渡の風~コロがき☆ロックンロール」発売中
OFB https://www.facebook.com/kazuevoice
Oブログ佐渡の風だよリhttp://kakirin5566.at.wobrY.info/
「島の新聞」索引(人名別)
★西井昌夫
「島の新聞」索引(人名別)
★西五十里村こう
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★西尾石松金敬(かねひろ)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。小木町、 詳細不明。
★西尾義左衛門
小木琴平神社
★西垣啓次郎
『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)より
西垣啓次郎の息子良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西垣家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。こういう形で北海道とつながっています。
・『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)
★西垣良造
北海道余市の網元で海産問屋も経営した豪商。湊出身で小樽で活躍した磯野進の媒酌で、北一輝の恋人であっ松永テルと結ばれる。後函館に移住し、相川出身の林儀作が総選挙に出馬した時に後援し、林は政友会代議士となる。なお、磯野進は小樽での商売の面で西垣良造の父啓次郎に大変お世話になったと言う。
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★西方ちぐさ
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西方ちぐさ 96 詩 三編-畑・鷺・夜のシャワー-
★西潟八雲(にしかたやぐも)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡県(明治二年二月佐渡県を廃して越後府に併す)御用掛。佐渡県参謀兼民政方奥平謙輔の命により、八雲は伊藤退蔵(後岩船郡長となる)と共に、順徳天皇神霊遷幸の儀を行うよう神祀官に建議した。八雲は後に控訴院判事となった。(佐島遺事)
★西川明雅(にしかわあきまさ)
【生没】一七七七ー一八三○ 地役人、通称藤兵衛、字は士章、蘭園と号した。西川恒山の子、父の名を辱めぬ才能と学力があり、諸職をへて広間役までのぼりつめた。『佐渡年代記』は、一説には、初めの数巻は明雅が編纂し、そのあとを子の原田久通が継承したという。広間役在任中天保元年十二月十八日病没、享年五三歳、西川容所は明雅の子、恒山の孫、名は功、字は士業、父に似て才幹があった。【関連】西川恒山(にしかわこうざん) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、西川明雅他『佐渡年代記』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。通称は藤兵衛、字は士章、恒山の子である。目付役、山方役等をへて文政三年(一八二〇年)広間役当分助となり、五年広間役助、.九年広間役に進み治績が多かった。詩をよくし一説に佐渡年代記はじめ明雅が若干巻を著わし、後原田久通が継承したという。天保元年(一八三〇年)十二月十八日に五十三才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
ウィキペディアより
★西川和彦
佐渡高校時代の昭和36、全日本学校書道連盟野田支局主催全国学生展特別賞
★西川休心
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。奉行曽板吉正の臣寺田某について学び治部流の書をよくした。(佐渡人名辞書)
★西川玄宅
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡赤泊の人で江戸の白井桃玄に学び貞享(一六八四-八七年)年中に陣屋附医師となり元文四年(一七三六年)になくなった。(佐渡人名辞書)
★西川宏器
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。名は功、字は士業、通称を藤蔵または包之助、容所とも号し明雅の子である。詩をよくし天保(一八三〇-四三年)のころ目付役となり奉行久須美行部につかえた。学識があり且吏務に長じた。(佐渡人名辞書)
★西川恒山(にしかわこうざん)
【生没】一七三五ー一八○五 地役人、名は邦實、通称藤兵衛、字は士亮、恒山・蘭門と号した。享保二十年相川に生まれる。宝暦二年(一七五二)一八歳で夷湊番所役となり、一九年在勤した。この間に鈴木北湖について経史を学び、中山漸盧・藤沢子山・鈴木逸甫らと交わって、学問・詩歌の力を伸ばした。これらの人たちと詩社を結び、多くの漢詩をのこしている。明和七年(一七七○)山方役になり相川に帰ったが、その後二度江戸詰めとなり、その時片山兼山の門に入って儒学を修めた。寛政三年(一七九一)広間役にすすみ、国政に参画して大に治績をあげた。他方公務・学業の餘暇に私塾を開いて、地役人の子弟を教育し、田中葵園(從太郎)・原田久通など多くの逸材を輩出した。また、これが恒山の死後葵園にうけ継がれ、のち学問所修教館へと発展した。恒山は、ことに漢詩をよくし多くの作品をのこしたが、同門詩社には、子の西川明雅・高野延清・加藤典義・原田久通・天野長寛・海老名義恭・蒲原維新・坪井陳善・美濃部献・川島方睦らがいる。文化二年九月十六日没、享年七一歳、相川大安寺に葬られる。夷御番所の松は、恒山の植えたものと伝える。【関連】田中葵園(たなかきえん) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
※西川恒山が御番所の松と築地のお旅所の松を手植えしたのは宝暦4年(1754年)と夷諏方神社の記録にある。
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
「島の新聞」
ウィキペディアより
★西川光次郎
「幸徳秋水と佐渡人」(「佐渡の百年」)
★西川宏道(こうどう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人、恒山の子である。藤蔵といい、桐江とも号した。才学があったが短命で天保八年(一八三七年)十一月二十五日になくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
ウィキペディアより
★西川静
佐渡高校時代の40.6.26~27、体操全国高校大会県予選会(三条高校)クライミングロープ2位 40.9.25~26、体操県高校結合体育大会(高田高校)個人総合6位(吊輪2位・平行棒3位)
★西川春洞
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西川春洞 131 西川春洞四言二句書の周辺〈山本修巳家所蔵 六曲屏風〉清水六穗
★西川光子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西川光子 74 『冬の虹』愛誦句-山本修之助遺句集-
★西川祐一
「島の新聞」索引(人名別)
★西川義彦
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西郡久吾(にしごおりきゅうご)
金澤小学校の先生から長岡中学の国文学の先生となる。1867(慶応3)年〜1931(昭和6)年。良寛研究の先覚者。権力や名声のためばかりに必死になっている世の中の人のために、解熱剤として良寛の書物を出版しようと決心し、1914(大正3)年教職のかたわら十数年にわたって良寛の資料収集と集成に没頭し、ついに「北越偉人沙門良寛全伝」の出版にこぎつけました。良寛の業績を学問的に研究した書物は、これが初めてでした
★西崎美幸
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西崎美幸 57 おはつさんと共に「相川の散り紅葉」
★螺澤(にしざわ)辨明
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p55
★西沢爽
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西沢爽
8 佐渡を題材とした歌謡曲 ひばりの佐渡情話、佐渡の石小法師(いしこぼし) 53 佐渡の石小法師(いしこぼし) 62 西沢爽氏に文学博士の学位を授与 山本修之助 62 山本修之助著「野のうた 恋のうた」について 26 特集 句集「海見ゆる坂」 俳句と私の作詞 147 西沢爽の「ひばりの佐渡情話」 山本修巳
★西条正(にしじょうただし)
新潟産業大教授。佐渡赤泊出身の母と共に、敗戦後の中国において辛酸をなめ、その体験を下記の本に描いた。「中国人として育った私―解放後のハルビンで」(1978年 中公新書 西条正)「二つの祖国をもつ私―ハルビンから帰って十五年」(1980年 中公新書 西条正)
→「渡辺ハルエ」(母) 「水田はなか」(妹)
「中国人として育った私」に載る当時の略歴
1945(昭和20)年,中国・北安に生まれる。1964年ハルビン市第十四中学校高級中学卒業.同年12月帰国・1972年横浜国立大学経営学部卒業。
現在は津田私大学非常勤講師(中国語,中国政治経済)、NHKラジオジャパンに出演.
「島の新聞」索引(人名別)
その他諸情報
★西田長治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭5、第二十三回新潟縣会議員選挙[十四年九月二十五日]
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西田長司 1 農論
★西田税(みつぐ)
「隻眼の革命児」(「佐渡の百年」)
★西田裕司
首都圏佐渡吉井会会長。
★西谷章
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西谷章 81 故松井源吾博士を偲ぶ-佐渡・真野町出身-構造家として理想的な姿を示す
★西谷能雄(にしたによしお)
【生没】一九一三ー九五 出版社『未来社』社長。大正二年九月八日北海道に生まれた。二歳のとき母の故郷(相川町二見)佐渡に帰り、旧制佐渡中学を卒業する。東京外語専門学校(現東京外語大)の、ロシア語学科を中退、明治大学文学部を卒業し、京都の出版社弘文堂に入社して、取締役編集長を勤めるが、『夕鶴』(木下順二)の出版で社の同意が得られず、紙型を退職金代わりに退社、一九五一年に未来社を設立して『夕鶴』を処女出版した。以後思想・芸術・社会科学・民俗学の分野で、つぎつぎに良質な書物を出版し、気骨の出版人として高い評価を受けた。わずか六○枚ほどの小品(夕鶴)だったが、敗戦後の混迷の社会では、「一服の清涼剤として、人々の心を捉えた」と書き、「物欲が支配する人間の世界で、人はどう生きるかという、きわめて今日的、根源的な問いかけをこの作品はしていると私には思えた」とつけ加えている。一九八七年十月、相川町北片辺に木下順二揮ごうの「夕鶴の碑」を建てるに当って、その揮ごうと、木下および主演の山本安英の除幕式出席をとり持ったのが西谷で、自身も妻和歌子さんとともに来島した。のちに「読書の感動がしばしば人間の生き方や思想を変えたり、時に運命を変えることすらある。『夕鶴』は出版人としての私の運命をたしかに変えた。その意味で忘れ得ぬ本となった」と回想している。平成七年四月二十九日没。八二歳。【関連】夕鶴の碑(ゆうづるのひ) 【参考文献】記念誌『夕鶴の碑』 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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夕鶴の碑(ゆうづるのひ)
多くの有志からの浄財により、相川町北片辺に建てられた。除幕式は昭和六十二年(一九八七)十月二十日。碑の背後に、樹齢八○年ほどの豊かな枝を張る黒松が数本そびえ、その日陰の中央に、木下順二揮毫の「夕鶴のふるさと」の碑がどっしりと坐り、その両脇前に夕鶴と原話鶴女房の関係を記した、書家磯部玄遠の書と、夕鶴冒頭の“わらべ唄”を記した、書家土屋弸の麗筆の碑が並んでいる。中央の碑は八・五トン、羽茂町小泊の産。両脇のものは、小倉(畑野町)と梅津(両津市)のもので、ともに潮風に強い石英安山岩系の石。石工は真野町の土屋秀夫である。木下順二の名作(民話劇)の原話は、ここ北片辺に住む道下ヒメ(当時七二歳)の話したもので、昭和十一年四月二十一日、柳田国男の指導で、鈴木棠三が採集(『佐渡島昔話集』)したものである。そもそも「夕鶴のふるさと」建碑の根起しは、当時、毎日新聞記者だった本間寅雄が三浦啓作等と核となり、当町二見出身の未来社々長西谷能雄に話しかけ、西谷社長から木下順二に橋渡しされ実現したものである。西谷社長は、「夕鶴」と山本安英の「歩いてきた道」の二冊を基に、未来社を自らはじめた男なのである。【関連】木下順二(きのしたじゅんじ)・西谷能雄(にしたによしお)・鈴木棠三(すずきとうぞう) 【参考文献】記念誌『夕鶴の碑』、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】浜口一夫(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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西谷能雄(にしたに よしお、1913年9月8日 - 1995年4月29日)
未來社社長。北海道札幌市生まれ、新潟県佐渡島出身。旧制佐渡中学卒業後、ストライキで東京外国語学校ロシヤ語科を退学になり、1937年明治大学文藝科卒業。京都大学で哲学を教えていた従兄西谷啓治の世話により京都の弘文堂に勤務。当時、弘文堂は学術出版社として名高く「東の岩波、西の弘文堂」と言われたほどで、ほぼ国立大学の教授の著書しか出版せず、権威主義の傾向が強かった。しかし西谷は当時まだ無名だった木下順二の『夕鶴』を弘文堂の啓蒙的叢書「アテネ文庫」に入れることを企画会議で頑強に提案。この企画が当たって『夕鶴』が版を重ねたことから、無名の著者の原稿でも優れていれば刊行すべきであるとの信念を持つに至る。同社取締役編集部長ののち1951年10月31日に退社、1951年11月11日に未來社を創設。退職金代りに弘文堂から譲り受けた「アテネ文庫」の紙型を利用して、木下順二『夕鶴』と山本安英『歩いてきた道』を同社の最初の書目として刊行。1968年に注文制(買い切り)を実施。ワーズワースの「思いは高く、暮らしは低く」を仕事上の信条とし、主として左翼系の出版物を刊行した。
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「佐渡高等学校百年史」
佐渡高校創立七十周年記念にあたって、昭和四十一年十月二十九日未来社社長西谷能雄(佐中第三十一回卒) は、後輩のため母校に自社出版の書籍三〇九冊(総額一一万一〇〇〇円)を寄贈した。西谷は四月に帰郷した際、図書館の様子を聞き、寄贈を申し出たのであった。書籍の選定は教職員にまかされ、送られてきた出版目録の中から選ばれた。『未来劇場』全一〇一巻、『木下順二作品集』全八巻など演劇関係、『日本の民話』全四六巻、『花田清輝著作集』全七巻など文学関係のものが多く、さっそく演劇部で活用されるなど生徒に広く利用されている。
「ウィキペディア」より
・著書
金日成首相生誕六〇周年を祝して チュチェ思想に輝く朝鮮民主主義人民共和国 未來社 1972
出版とは何か 正続 日本エディタースクール出版部 1972-73
出版のこころ 未來社 1976
出版界の虚像と実像 未來社 1981
預金者の論理と心理 一出版人の銀行関係論 未來社 1981
出版流通機構試論 取次店・書店・大学生協 未來社 1981
出版を考える 未來社 1984
責任販売制とは何か 未來社 1988
出版界の意識変革を索めて 消費税への対応批判(編著)影書房 1990
本の定価とは 日本エディタースクール出版部 1990
思いは高く… 出版五〇年の反省をこめて 未來社 1991
・翻訳
レエルモントフ 奥沢文朗共訳 レエルモントフ刊行会 1939
・勤務先の弘文社から木下順二「夕鶴」が出たが再版されなかったので、退職金代わりにその版権をもらい、独立の際に出版した。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p422
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※西谷 啓治(にしたに けいじ、1900年2月27日 - 1990年11月24日) 「ウィキペディア」より
日本の哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。京都大学文学部名誉教授、文化功労者。
・来歴・人物
石川県鳳珠郡能登町の出身。若年で、同郷の(現かほく市)の出身である西田幾多郎『思索と体験』に出会う。第一高等学校を経て、京都帝国大学文学部哲学科に入り、西田幾多郎に師事する。1943年京都帝大教授、「近代の超克」に参加し、戦後公職追放、追放解除後1952年京大教授に復帰し63年定年退官、名誉教授、大谷大学教授。ドイツ神秘主義などを研究するが、後半生は仏教に傾倒した。1945年9月、京都大学文学博士 「宗教哲学 」。1965年日本学士院会員。1970年叙勲二等授瑞宝章。1982年文化功労者。1990年叙正四位、授旭日重光章。
哲学以外の分野においても、芭蕉、寒山詩やトルストイ、リルケに関する考察や随筆も多く残している。ゲーテ・メダル受賞。出生地である宇出津には、西谷啓治記念館がある。高坂正顕、高山岩男、鈴木成高と共に「京都学派四天王」と呼ばれている。
未來社創設者の西谷能雄は従弟である。息子の西谷裕作も京大助教授(倫理学)をつとめた。
・著書
根源的主体性の哲学 弘文堂 1940
世界観と国家観 弘文堂書房 1941
神と絶対無 弘文堂 1948
アリストテレス論攷 弘文堂書房 1948
ロシアの虚無主義 弘文堂 1949 (アテネ文庫)
ニヒリズム 弘文堂 1949 (アテネ新書)
宗教と政治と文化 法蔵館 1949
現代社会の諸問題と宗教 法蔵館 1951
宗教論集 第1 創文社 1961
宗教と文化 国際日本研究所 1969
風のこころ 随想集 新潮社 1980
仏教について 法蔵館 1982
西田幾多郎 その人と思想 筑摩書房 1985
禅の立場 宗教論集II 創文社 1986
西谷啓治著作集 全26巻 創文社 1986-95
寒山詩 筑摩書房 1986
正法眼蔵講話 1-4 筑摩書房 1987-89
宗教と非宗教の間 上田閑照編 岩波書店同時代ライブラリー 1996 のち岩波現代文庫
家郷を離れず 西谷啓治先生特別講義 創文社 1998
京都哲学撰書 第16巻 随想集青天白雲 燈影舎 2001
京都哲学撰書 第28巻 神秘思想史 信州講演 燈影舎 2003
「島の新聞」
・未来社が経営難の時、「民話シリーズ」で持ち直したと言われる。このシリーズを応援したのが宮本常一で、これが二人がつながるきっかけとなった。民話ブームは柳田国男の弟子である丸山久子が昭和29年10月に畑野町でテープレコーダーで岩井キサさん(1847年頃の生まれ)の話を録音し、それを語り口調のまま書き起こし『佐渡国中の昔ばなし』として出版したのが始めと言われている。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西谷能雄
56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 磯部欣三 56 「夕鶴」に思うこと 飯山弘 56 北片辺に建った「夕鶴の碑」 磯部欣三 56 「夕鶴」に思うこと 飯山弘 61 「夕鶴」に賭けた佐渡人 -未来社・西谷能雄氏- 山本修巳 79 点鬼簿(1) 中河與一氏、櫻井満氏、北見俊夫氏、西谷能雄氏、山本泰司氏 山本修巳 113 木下順二先生を悼む 山本修巳
北朝鮮金日成と未来社と西谷能雄
★西谷渡
未来社創業者西谷能雄の兄?か。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p407
★西永武志
両津高校時代の1981年度(S56)10月、新潟県競書大会特選
1982年度(S57)10月、第22回新潟県高等学校商業美術展写真部門 奨励賞
★西野善兵衛
姫津の人、相川町長(昭和39年10月~51年10月)。
★西野善作
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西野博
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
姫津郵便局長 『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
『続佐渡酒誌』(平成14年)
★西野雅夫
小木大浦の人。ペンネームで「まご子に贈るへそじま物語」を出版する。小木町教育長など公職も歴任。
「まご子に贈るへそじま物語」(西野端緒 文芸社, 2004年 - 378 ページ)
数千年前にタイムスリップした草創の世界「へそじま」。そこには、水と緑と大地を敬った機知に富んだ人々が...。そして、悲しみを乗り越え、希望に満ち、愛と優しさに包まれた群像があった。ロマンに満ちた大作が今ここに。
新潟日報 h23年2月27日
★西橋健(芸名 西橋八郎兵衛)
「手わざ図鑑」
畑野猿八に移住して「猿八座」主宰し土人形を制作する。 1948年 札幌市生まれ。早稲田大学第一文学部演劇専攻。1970年 文楽人形遣い吉田簑助に入門、吉田簑司の芸名で舞台を勤める。 1979年 佐渡に移住、文弥人形「大崎座」座員となる(~2001年)。1995年 「猿八座」を旗揚げ、継承と共に、古曲の復活や、他のジャンルの語り、音楽との共演、ワークショップを通し文弥人形の普及に努める。2003年より「真明座」座員としても活動中。2008年 越後角太夫と「越後猿八座」を結成し、西橋八郎兵衛と名乗る。
「越後猿八座」
2008年1月、新潟市民を主に太夫と17人の遣い手が「越後猿八座」を結成しました。元文楽三味線奏者、鶴澤淺造(新潟市在住)が越後角太夫(かくたゆう)を名乗り、佐渡の文弥節を参考にして復曲した古浄瑠璃を弾き語りします。人形を西橋が指導して2009年6月7日「弘知法印御伝記」で旗揚げ(主催「柏崎ゆかりの古浄瑠璃を復活初演する会」・柏崎市産業文化会館)。「弘知法印御伝記」は新潟県寺泊の西生寺に現存する日本最古の即身仏、弘智上人を主人公に17世紀に書かれた説経浄瑠璃です。2009年7月の新潟県民会館(新潟市)ほか県内各地を巡演し、今後新たな古浄瑠璃の復活上演にも挑みます。
詳細は越後角太夫のブログをご覧下さい。 http://echigo-kakutayu.blog.so-net.ne.jp/
「オリジナル上演作品」
「鬼葛」(1983) 脚本:滝沢 解 共演:古屋 和子
「侘助」(1985) 脚本:滝沢 解 共演:八久保 保
「吉野太夫」(1989) 脚本:滝沢 解
「信太妻」(1984) 復活上演 共演:ジョニ・ウェルズ、斉藤 毅
「雨弓」(1990) ジャズピアノ:板倉 克行
「説経・をぐり」(1995) 「猿八座」旗揚げ公演 琵琶弾き語り:古屋 和子
「The She-Fox of Shinoda」(2000, 2002) 作曲:Colin Hodgetts 3人の歌手、フルート、ヴィオラ ギター、パーカッションによるオペラ(英語)人形劇
「松風」(2002) 富本節:西松 布咏
「連/脈」(2003,2005) チェロ即興演奏:Tristan Honjinger 舞踏:堀川 久子
「浄瑠璃姫」(2004) 「蓮曼荼羅」(2007) 横笛:赤尾 三千子
「喋り山姥」(2006)
「御祝儀三番叟」「小栗判官-車曳き-」(2007) 三味線弾き語り:鶴澤 淺造
「弘知法印御伝記」 (2009)
「越後猿八座」旗揚げ公演 三味線弾き語り:越後 角太夫
「土人形」
佐渡では江戸時代末から八幡ほか島内各地で土人形が作られ、北前船で運ばれた伏見(京都)、長浜(島根県浜田)の土人形も残っています。昔ながらの土人形の愛らしさを再現したく、1979年から制作、販売を始めました。原型から自作し、絵付けには胡粉、泥絵の具を使っています。
(『佐渡広場』より)
「大正以降大崎座を支えた人々は、葛原五兵衛のほか村田豊次、今倉正太郎、遣い手ではなかったが頭(かしら)を作り陰の支援を続けた功労者に宮本寺住職の本間敞政がいる。戦後の復興期には藤井真一が、昭和52年からは草木実、中川清治が始めたが惜しくも中断し、現在 川上公紀・川上良江・渡辺トモ子・西橋健の4人に支えられている。太夫は長尾閑月・白井清次で、ちなみに白井太夫は葛原五兵衛の甥、川上夫妻は大崎屋松之助の生家兵衛家の当主」
「新潟日報」h27年3月7日
(西橋健)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「36号」(平成26年1月)・人形浄瑠璃「猿八座」(西橋健)・伝統芸能の書庫「鳥越文庫」「39号」(平成26年10月)越敷神社が能舞台に(西橋健)
「島の新聞」索引(人名別)
★西橋晴美
染織作家、畑野猿八在住。各地で精力的に作品展を開いている。夫は「猿八座」を率いる西橋健。
「手わざ図鑑」
「島の新聞」索引(人名別)
★西堀啓次郎
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数103
★西堀良造
『北一輝を育てた文化的遺伝子』(講演録 松本健一 平成20年)より
西堀啓次郎の息子良造の妻が、若き日の北一輝の恋人松永テルです。良造の父西堀啓次郎に資金を出してもらって北海道で商売を始めた磯野進という人がいます。彼は両津の廻船問屋の次男ですが、その資金をもとに小樽銀行をつくり、成功して小樽に大きな土地を持ち小作人を搾取して、自分は東京に住むという不在地主になり、小林多喜二の『不在地主』のモデルにされた人です。この磯野進が西堀家にお世話になったので、息子の結婚の世話をした。その相手が原黒(はらぐろ)の松永テルさん。
※松永テルは、西堀家に嫁いだ後は終生松永輝で通した。子供達もそれが本名だと思っていたそうだ。輝は来た輝次郎の輝であろうか。
★西巻昭
県立佐渡女子高等学校25代目校長(平成8.4.1~10.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★西牧三郎左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★西牧孝行
「島の新聞」索引(人名別)
★西三川武左衛門
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)
★西三川村清次郎
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★西村和子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西村和子 103 佐渡
★西村公朝
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 4佐渡の秘仏/秘仏の美
★西村滄州(そうしゅう 明充 善五郎)
【生没】一八二二ー九五 佐渡奉行所地役人、佐渡県・相川県吏。名は明允、通称善五郎。文政五年長井克智の次子に生まれ、西村家を嗣いだ。田中葵園に学び、天保七年(一八三六)一五歳で修教館の助読を勤める俊才であった。同十年より出仕、嘉永・安政の両度、篤学職務勉励をもって幕閣から表彰された。維新後、佐渡治政の責任者として来島した越後府参謀奥平謙輔の方針は峻烈を極めたが、聴訟局長に任ぜられていた滄州の「峻法は亡国の兆にして王政の見ざる所」という諌言に感服し、謙輔は自ら増俸の辞令を書いて与えた。誤って無頼の乞食を殺した百姓の罪を、大岡裁きによって救った話は有名である。相川県時代の上級官吏は、ほとんど東京から来ていた中で、滄州は権大属まで進み、一等警部三級判事を兼ねた。明治九年(一八七六)相川県廃止を機に退官し、以後真野・新穂・吉井に移って、郷村の子弟に漢学を教え、晩年は再び相川に帰り、圓山溟北・丸岡南陔亡き後の泰斗として、多くの学生を集めた。明治二十八年二月三日、七四歳で没した。
【関連】奥平謙輔(おくだいらけんすけ) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、岩木拡『相川町誌』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
西村滄州は、通称善五郎といい、佐渡奉行所の地役人であった。維新後は佐渡県・相川県に在職していたが、明治九年新潟県となった時職を辞して、真野町新町・同四日町・新穂村・両津市吉井などを転々として漢学の私塾を開いていた。
真野町新町や四日町にいたのは、明治一〇年ころから四年間でないかと思う。これほ学制施行後の「新町郷校」や「新街小学校」 の教員ではなかったようである。新町では、山本藤九郎(通称なかおうや、のちの戸主植蔵、現在の臼杵医院)宅の二階であったと聞いている。山本静古年譜によると明治一〇年一三才の時「小学新町校」に入学、同一二年漁洲の私塾に学んだと書いてある。そして、同一四年春、新町から新穂村新穂へ転居する時、こんな狂詩を作っている。
庇鉾先生何処行 無才無学又無智 一所三年不止足 干尻懸帆任庇馳
また、この前年米価が三・四円から急に八円とあがった。この時は 米価八円少不下 是而先生立切連 を作った。これを見た父兄たちが給料を上げたという詰もある。門人には山本半蔵をはじめ、一族の一郎・悌二郎・藤佐久・藤右衛門がいたし、後輩に吉岡の尾畑与三作・高野宏策、四日町の白木兼蔵がいたと聞く。また、明治一八年、萩野由之博士が四日町にいた滄州を訪ねたことがあるから、新町から新穂へ行き、さらに四日町へ釆たものであろうか。
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の地役人で名は明允、字は士顕、通称を善五郎、滄洲は号で長井家に生まれ、明遠の弟である。田中葵園に学び修教館で研修、詩をよくした。地方頭取となった。明治維新参謀奥平謙輔が佐渡をおさめた時、その廉直公平を認められて聴訟局長となった。維新後、佐渡県および相川県中属、権大属、一等警部、三級判事補となり明治九年廃県とともに辞職した。その後は育英に尽くした。明治二十八年二月三日に七十四才でなくなつた。(佐渡人名辞書、相川町誌)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
幕末になると、幕府も諸藩も一定の制限のもとに農民を海防や治安維持のために軍役を負担させなければ、武士の力だけでは対応できなくなっていた。佐渡奉行所でも文久三年幕府の命により農兵制度を採用して、農兵隊を編成し軍事訓練をおこなうことになった。同年二月ころ西村善五郎・小田切仁兵衛・山田百太郎を莞掛りに任じ、数か村ないしは一〇数か村を一組にして佐渡全島を組み分けし、各組ごとに百姓から取立てた農兵下掛りを置いて隊編成や奉行所からの命令伝達業務をとりおこなわせた。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)西村滄洲
90 幕末明治の良吏-『滄洲遺稿』を読む-倉田藤五郎 112 旧稿「幕末明治の良吏」を補ふ 倉田藤五郎
西村明充
ウィキペディアより
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数42
★西村徳右衛門正生(しょうせい)
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡州吏。延宝元年(一六七三年)山方役より留守居役に移った。当時佐渡の地役人は奢侈にふけり下にむかって尊大、上には阿諛が甚しかった。正生は質素で清慎、よくつとめた。棒を加えられ元禄六年(一六九三年)十月職を退いた。曽根吉正、鈴木重祐、萩原重秀の三奉行につかえ在職二十一年であった。元禄九年九月一日に八十六才でなくなった。(佐渡人物志)
★西本和枝
平成28年3月に行われた「西本和枝・吉井初子二人展」@アイポート より
★西本佐和子
新潟日報 9月
★西山京子
両津高校時代のs46年、総体ヨット女子スナイブ級3位(末武悦子、西山京子、本間和枝)
★西山寿平次
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、新潟縣進歩党分裂の真相[三十六年十月十五日]・大3、河原田高等女学校の移転惜別会[十三年十月四日]
★西山徳兵衛
「佐渡病院の草創期」
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭1、山本の入閣祝賀会[二年四月二十五日など]
★西山八太郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西山秀雄
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★西山與八郎
相川小校長
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★仁丹博昭
スポーツ佐渡0603月
★日永(にちえい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
★日詠(にちえい)
【生没】生・没年不詳
赤穂浪士の赤埴源蔵の母。佐渡奉行所の地役人高野忠左衛門の娘で、赤穂(兵庫)の赤埴一閑に嫁いで、長男源蔵が生まれる。嫁いだのは「十四歳のとき」(佐渡奇談)とあるが年代も不明で、実名も伝わっていない。「日詠」とは髪をそって出家したあとの法号で、実家の相川高野家が代々日蓮宗瑞仙寺(中寺町)の檀家だった。文政七年(一八二四)の相川町絵図によると、住まいは会津町で、二十俵三人扶持の禄高。源蔵(重賢)の名は講談の「赤垣源蔵徳利の別れ」で有名になったが、禄高二百石の馬廻り役で、討入り当時三四歳。新発田の堀部安兵衛より二つ年上だった。弟の本間安兵衛は、土浦(茨城)城主土屋相模守の家臣。妹は宇都宮城主阿部対馬家の家臣の田村縫右衛門に嫁いでいたことが、討入り後に源蔵が書いた「親類書」から読みとれる。苗字の「赤垣」は講談の誤まりで「赤埴」が正しいこともこの親類書からわかった。日詠と弟の安兵衛が、討入り六年後の宝永五年(一七○八)五月、江戸から相川の実家に宛てた書状各一通が残っている。この年の三月に、たまたま産金輸送のため江戸へ上った甥の高野忠左衛門(玄家)が、「干鯛」「わかめ」「塩鱈」などを土産に持参した。その返礼で「源蔵のおかげで、われら何方へ行っても、下にもおかれず候」と、討入り後は幸わせに暮していることが日詠の手紙にある。当時江戸滞在が一○日間だったため、江戸へ登ったものの日詠らとは対面できず土産物だけ届けて帰った。この甥の玄家は帰国直後、四五歳で相川で没し、一族の墓は中寺町の日蓮宗・瑞仙寺に残っている。
【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より) 『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡相川の地役人高野忠左衛門の娘である。赤穂藩士赤埴氏に嫁し、赤埴源蔵(赤垣ではない)と本間安兵衛、女一人を生んだ。赤穂浪士の吉良家討入りに源蔵が加わり、源蔵の死後、尼となり日詠といった。安兵衛のもとで老後を安楽におくった。老後、生家の甥、高野忠右衛門におくった消息の便りと形見の形が高野家に伝わっている。(佐渡人物志)
★日衍(にちえん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原根本寺十三代で栴林院と号した。京都妙覚寺の徒となり根本寺十二代日是の招きにょり同寺十三代の主となった。(日本仏家人名辞書)
★日応(にちおう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺二十六代で字は空心、浄感院と号した。後小室談林、飯高談林、水戸談林等で修業し水戸談林化主日省の弟子となりその命によって相模粟原村法泉寺の主となった。五十三才
の時、佐渡一ノ谷妙照寺に移り、寺務をみること二十年、中興の祖といわれた。享保十八年(一七三三年)七月十八日に八十五才でなくなった。(日本仏家人名辞書)
★日行(にちぎょう)
後山 本光寺
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡本光寺の開山で妙音阿閤梨といい、松林院と号した。幼時日朗に師事し、その没後京都に出て妙顕寺に入り日像をたすけ、後大妙寺に住んだ。日蓮苦行の地をしたい、晩年佐渡に遊化し、日朗の旧蹟、日朗坂に寺をたて日朗山本光寺という。六十二才でなくなった。(日本仏家人名辞書)
★日成(にちじょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡塚原根本寺第三世。大泉房と号し京都妙覚寺十二代日護の門弟である。日蓮の四難処の三つを巡拝し、ついで佐渡に渡り塚原に詣で旧址の荒れはてゝいるのをなげき、天文二十妄(一五五二年)に寺を建て根本寺といい、日蓮高祖とし日蓮を開祖とし、日朗を二世、自ら三代となった。永録二年(一五五九年)ニ月一日になくなった。(佐渡人名辞書、日本仏家人名辞書、仏家大辞彙)
★日静(にちじょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺の開山で字は覚乗、一位阿闇梨という。佐渡石田郷一の谷の人で邑更近藤小次郎清久の一族である。文永九年(一二七二年)領主本間六郎重遠が日蓮のため道場をおこして法華堂と名づけ清久に奉侍させた。この時日静も剃髪して随従した。日蓮がゆるされた後もその徳を慕い、遂に遺跡に寺を建てたので建治九年(この年号は三年まで、三年ほ一二七七年)中興入道信重が使を身延山にやって山寺号を求めた所、妙法華山妙照寺の篇額を与えられた。また松栄山実相寺を開いて日蓮の遺蹟を保存した。正安三年(一三〇一年)六月二十二日になくなった。(佐渡人名辞書、仏教大辞彙)
★日全(にちぜん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
久遠寺五十世で佐渡の人、字は完妙、明静院と号した。飯高檀林に学び同檀百六十六世化主となり、後江戸二本榎円真寺に住み、寛政十一年(一七九九年)二月身延山久遠寺五十一世となった。在職五年で一円庵に退隠し、文化五年(一八〇八年)四月六日に八十三才でなくなった。(越佐先賢墳墓誌)
・橘法老 『楽苦我記抄』(s56年)②p188
★日念(にちねん)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日蓮宗の僧である。日蓮が佐渡に流された時、同門の日向や日持とともにかわるがわる師の日蓮を訪門した日蓮の高弟である日頂の弟子で名僧のほまれが高かった。越後、越前、下総にそれぞれ妙国寺を建てた。建武元年(一三三四年)八月二十七日に高田市の妙国寺でなくなった。(新潟県史)
★日満(にちまん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡阿仏房妙宣寺の日興の弟子で、元弘二年(一三三一年)七月二十四日に妙宜寺の寺宝を日興より授与された。十月十六日北陸道法華宗の別当となった。興国四年(一三四三年)八月十五日になくなった。(新潟県史、佐渡人名辞書)
※渡辺注:上記二資料は間違いではないのか?!
『真野町史(上巻)』(昭和51年刊)
妙宣寺の二祖は日満である。日満は阿仏坊日得上人の嫡子藤九郎盛網の長子九郎太郎盛正の次子として文永九年に生まれ、興円と呼ばれた。佐渡の先師の遺業を継ぐべく日興上人を慕って富士にのぼり、高弟日華の弟子となり如寂房と号した。妙宜寺の縁起に、「草創地は新保にあり。その後嘉暦二庁戊歳執権北条高時の代、領主本間山山城守入道の下知により竹田へ転地す。二世日満上人の代なり。この地蹟いまは田畦にして、字を御堂屋敷、本屋敷という。この辺に旧蹟六か所あり。この昔の地よりいまの地までの街道に坂あり。各郷民は阿仏房坂と申し伝う。寛永元年よりのち、延宝五年前の絵図面に阿仏坂と記しあり。」と記され、元享・正中の頃には、すでに佐渡にあった日満は、嘉暦のはじめ、その元屋敷と呼ばれる旧地を新保(金井町)に残して現在地に近い竹田地内に移転し、阿仏坊本堂建立の事業を起こした。
嘉暦三年(-三二八)には世尊寺二祖国府入道日久が没し、さらに二年後の元徳二年(一三三〇)二月には、日朗上人の高弟妙音阿閣梨日行が、日朗山本光寺において六二歳の生涯を閉じている。さらに一三年後の康永二年(一三四三)八月には後阿仏盛綱が八九歳で没し、名実共に先師の残された法華弘通の後継者指導者となった日満は、元弘二年(一三三二)七月に阿仏坊本堂を完成させたので、日興上人は本門寺の重宝である日蓮上人の書かれた本尊に、「佐渡の国、法華の棟梁、阿仏坊の彦、如寂房日満に之を相伝す」と脇書きし、本堂常住の本尊としてこれを阿仏坊に送っている。
また、同じ年のー○月一六日には、日興上人は、「定め補する師弟ならびに別当職の事」と題する定め置き状を日満に与えている。その内容は、「日満は学問や授法は日興の弟子であるが、代代の由緒があり、特に阿仏坊は日蓮上人の佐渡流罪のとき、いろいろと尋ねてきた功によって直弟子である。しかも『聖人号』をいただいたほどの仏法の相続者、一切衆生を助ける徳のすぐれた人だから、阿仏房のあとを相続する子孫は北陸道の法のともしびとなるべきであるとの日蓮上人の筆跡からうかがわれるので、日満は北陸道七か国ー若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡ーの法華の大別当となって、立派に法を守り伝えていくように。」となっている。そして、この状を書いた翌元弘三年二月七日には、日興上人は八八歳で富士重須の森で没しているから、その四か月前にこのような大事な事柄を後継者としての日満に言い残しているのである。
日満は、日興上人の滅後一〇数年富士に留まっていたが、康永の頃にほ佐渡へ帰国しており、『日満抄』という一文を書いて、佐渡から富士重須の大衆に法門の正義を説いている。日満は延文二年(一三五七)八六歳で阿仏坊を後継三祖日円にゆずり、隠退して号を真成房とあらため、その年の四月、みずから祖師の像を刻み、長慶山妙満寺(畑野町目黒町)を開いて本堂に安置し、移り住むこと四年、延文五年(一三六〇)三月二一日、八九歳の長寿を全うした。
→日得
★日明(にちみょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡妙照寺第二世で字は学優、本間三郎左衛門直重の子である。山城入道の一族で、入道に従って佐渡に赴き、父直重が日野阿新丸に報𩁗されるとその冥福を祈るため一の谷妙照寺にはいって日静に師事した。(日本仏家人名辞書、佐渡人名辞書)
★日勇(にちゆう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡塚原山根本寺三十一代で字は輪延、泰輪院と号した。佐渡金井町和泉の人である。安永四年(一七七五年)入山し、同八年十二月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日禮・日礼(にちれい)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で字は貞運、仏性院と号した。飯高中台谷に属し、同檀林二百三十六代の化主となり、寛政八年(一七九六年)塚原三十四代となった。妙見社及び境内西外側の石垣を造営し、また霊宝を修覆した。和歌をよくし行一と号した。同十年のころ山内八景をえらんで塚原八境といい小冊子をつくった。文政四年(一八二一年)七月になくなった。在山二十六年に及んだ。(佐渡人名辞書)
★日蓮(にちれん)
「ウイキペディア」より
「佐渡ふるさと百科」
小倉
歌川国芳作
【生没】一二二二ー八二 日蓮は、承久の変の翌年、貞応元年に安房国(千葉県)小湊に生まれた。一六歳で出家し蓮長と名のる。建長五年(一二五三)三二歳の時、法華一乗の旗をあげ日蓮と改名。文応元年(一二六○)「立正安国論」を著わし幕府に上書、そのため翌年伊豆に流され三年で赦免、文永八年(一二七一)には極楽寺良観の祈雨を侮辱したかどで佐渡流罪となった。時に五○歳。十月十日、預けられた依智の本間六郎左衛門の屋敷を発ち、同二十一日寺泊着、二十八日ころ佐渡に上陸、十一月一日塚原に着、三昧堂に入ったという。ここで塚原問答などの難関を越え、「開目抄」を著わしている。翌九年四月三日、一の谷に移される。一の谷においては「観心本尊抄」を著わす。文永十一年(一二七四)二月赦免、真浦より出港し鎌倉に帰る。しかし彼の考えは幕府に容れられるところなく、五月十二日鎌倉を出て身延に入る(この年十月元冦)。日蓮身延に隠棲中、在島時檀越となった佐渡の阿仏房入道夫妻・国府入道夫妻・中興入道などに、何通かの消息を送り届けている。今、阿仏坊妙宣寺に残る「こうの尼御前御書」(単衣御書・建治元年)、「千日尼御前御返事」(女人成仏御書・弘安元年)、「千日尼御返事」(袈裟御書・弘安三年)は、国の重要文化財に指定されている。身延にあった日蓮は、弘安五年病を得て武蔵国(東京都)池上に移り、十月、六一歳でここで没した。立正大師。【関連】妙宣寺(みょうせんじ)・三眛堂(さんまいどう)・妙照寺(みょうしょうじ)・実相寺(じっそうじ) 【参考文献】橘正隆『日蓮聖人佐渡霊跡研究』(佐渡農業高等学校)、田中圭一『日蓮と佐渡』、山本仁「日蓮」(『定本 佐渡流人史』郷土出版社) 【執筆者】山本仁 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
日蓮(「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年))
日蓮(田中圭一講演集より)
「ウイキペディア」より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日蓮
4 佐渡の日蓮(一) 日蓮を預かった名主 小田季吉 4 鑑賞 佐渡のうた (4) 高尾亮一・日蓮・山家鳥虫歌・仙石廬元坊・各務支考 山本修巳 6 佐渡の日蓮(二) 最蓮房は流人僧 小田季吉 12 佐渡の日蓮(三) 日蓮に帰依した人々、阿仏房の後継者 小田季吉 13 佐渡の日蓮(四)日興曼荼羅の教えるもの、日興曼荼羅と寺院縁起、遠藤氏の経歴と日連 小田季吉 14 佐渡の日蓮(五)日蓮に帰依した人々、佐渡日蓮宗寺院と本末関係 小田季吉 15 佐渡の日蓮(六) 日興曼荼羅の教えるもの 小田季吉 62 佐渡の日蓮 山口誓子 117 佐渡の日蓮 清野正男 136 日蓮配所「塚原」はどこか 児玉信雄
「島の新聞」索引(人名別)
「島の文学碑巡り」(佐々木義栄 新潟日報 昭和41年)21
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50035297.html?p=11
日蓮 諸情報
★日朗
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
後山本光寺
日蓮の赦免状を首に掛け佐渡へ向かったとされる。佐渡へ渡る途上で台風に遭い船が難破。小木の小島に漂着し一心にお経を読んだ。その縁で、そこが「経島」と呼ばれるようになった。今日、小木の観光名所「矢島・経島」の内の経島である。
畑野本光寺へ向かう坂道は「日朗坂」という名で呼ばれている。日朗はその後、鎌倉妙本寺(神奈川県鎌倉市)、池上本門寺(東京都大田区)、平賀本土寺(千葉県松戸市)を建立し、それらは「朗門の三長三山」と呼ばれている。日蓮六老僧の一人である。
「ウイキペディア」より
日朗(にちろう、1245年5月5日(寛元3年4月8日) - 1320年3月1日(元応2年1月21日))は、鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。
(略歴)
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 5日朗上人はこういうお坊さんです
★日解(にっかい)僧正(本國寺)
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
京都大光山本国寺二十九世住職で唯妙院という。三島郡出雲崎尾瀬熊本家で生まれ、父作太夫は北津軽(現青森県)小泊村へ移住したがそのあと同町で叔父与左衛門に育てられた。佐渡妙経寺、根本寺、京都𨿸冠井檀林、京都立本寺等の住職となり、ついに本国寺にはいった。剛毅果断の人で大国庵と号し書道にすぐれていた。善勝寺、妙福寺の山号額は日解の書である。晩年本国寺の建物に筋壁をめぐらして罪せられ隠居を申しつけられた。その後隠居僧正と呼ばれ、安永四年(一七七五年)になくなった。
辞世に「苦も楽も夢とし見れは今さらに心にかゝる浮雲もなし」とある。(三島郡誌)佐渡郡金井町泉の人で一説に相川町下戸岩原氏の出であるという。同地の妙経寺に入って剃髪し後出雲崎妙福寺に転じた。中村壇林に入って苦学修業し、同檀林百四十五世の能化となった。ついで摂州上牧の本澄寺に移り、同地方に十六か所の学寮を建て来学者を教授しその学徳をたたえられた。寛延元年(一七四八年)京都北野の立木寺に住職となった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書、越佐先賢墳墓誌)
★日歡(にっかん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡郡畑野町猿八の人で俗姓は大森氏である。日解の法弟で天明六年(一七八六年)河原田の妙経寺二十五世となり享和三年(一八〇三年)畑野町後山本光寺三十五世を兼ねた。寛政四年(一七九二年)京都本国寺講師に聘せられ、文化十一年(一八一四年)駿州沼津妙海寺四十四世に転じた。文政二年(一八一九年)九月に七十才でなくなった。在住の間堂宇を修築し殿堂を再建したことが少なくなかった。俳詣をよくし桂月堂鳴啼と号した。(佐渡人名辞書)
★日洽(にっこう)
市野沢妙照寺辺
★日厚(にっこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
塚原根本寺三十六代。字は前叔、体事院と号した。両津市湊の人である。天保二年(一八三一年)入山し三味堂を建立した。同十四年八月江戸宗延寺においてなくなった。在山五年であった。(佐渡人名辞書)
★日興(にっこう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国真野の阿仏房妙宣寺の僧である。元弘二年(一三一年)七月二十四日、遺言状を作って寺宝を弟子日満に授与した。(新潟県史)
★日興上人
世尊寺の開山である。日蓮流罪に伴って佐渡にきて布教に努め、多くの信者を得た。
★日光(にっこう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡八幡の人で俗姓は本間氏、相川瑞仙寺二十六世となった。漢籍を円山溟北に、詩を丸岡南陔に学び、五十五才の時、東京に出て芝大教院に入学して宗学を攻究し、日薩の推薦によってその講師となった。余暇に画、和歌および生花を楽んだ。塚原山および相州星降妙純寺から請われたが辞して受けなかった。明治三十六年九月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日講
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
★日坂(にっさか)仁
★日守
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山根本寺三十五世、字は弁文、惠真院と号した。両津市湊の人である。文政五年(-八二二年)入山し、講堂を営繕し在山十年、天保十二年(-八四一年)五月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日正(にっしょう)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡の邑吏近藤清久の子で俗名を中興入道信重という。夫婦とも厚く日蓮に帰依し、文永九年(一二七二年)九月法華堂を建てて祖師を請じた。後に中原に移して改築したのが妙経寺である。正応三年(一二九〇年)三月になくなった。(佐渡人名辞書)
★日攝(にっしょう)上人
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
京都深草瑞光寺十一世、佐渡相川大工町中西源十郎の子で字は宜修、托雲子と号した。幼時より仏道に帰依し草山十世事行院日種上人について得度し二十四才で草山十一世の法嗣となった。住山四十余年で人びとの信望が厚かった。弘化四年(一八四七年)十月四日に六十六才でなくなった。(佐渡人物志)
★日祥(につしよう)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山三十二代、字は鳳瑞、宝聚院と号した。佐渡相川の人である。安永九年(一七八〇年)入山、はじめて千部会を興修した。天明五年(一七八五年)四月江戸宗延寺でなくなった。(佐渡人名辞書)
★日新
『佐渡の五重塔』(児玉信雄著 2016年刊)より
「島の新聞」索引(人名別)
★日親
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日親 132 佐渡に来ていた鍋かむり日親 児玉信雄
★日進
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡正住院住職。武蔵国池上本門寺の住職日現は、永禄二年(一五五九年)六月八日、佐渡国雑太郡市の沢妙経寺の日進に書を送った。佐渡に日蓮宗が盛んになったのは、日現の努力が大きかった。(越佐史料巻四)
★新田伊作
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
『耳限書集』は新田伊作が書いた生と云われているが、その中で上段附人形(注・御殿つき人形のこと)始りの順について述べたものの中には小倉人形について「明治二十四年始、吉岡甚蔵の頭を求め色々刻み直し四・五年も使用す。その時は四人組合なり。外に伊藤鉄蔵、後藤春吉。加藤酉蔵。明治三十年後藤清蔵へ譲る。明治三十八年清蔵より入川樋口五郎太へ譲る。又人川より欠柄へ譲る。」と書いてある。人形遣いの名人、新田伊作は小倉鳥越の住人で、慶応三年二月十三日元吉の長男として生まれる。人形遣いをどこで覚えたのかわからないが『佐渡ケ島人形ばなし』(前掲書)では十六才ごろから人形をつかいだし、彼は女形が一番得意であったと書いている。しかも研究熱心で嫗山姥の早がわりなど工夫して、お客をあっと言わせたと云う。彼は一説には芝居の役者であったとも云われ、その他に太夫を勤め、能や生花、人形の頭、能面や獅子頭なども刻んだ。昭和十年九月十日に六十八才で亡くなった。
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)
この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、 遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
小倉人形(朝日座〉は明治二十四年、真野町吉岡の甚蔵人形を譲りけてからはじまった。太夫は後藤清蔵、役者は伊藤鉄蔵、後藤春吉、加藤酉蔵であった。この人形は、明治三十八年に相川町入川の樋口五郎太へ渡り、さらに相川町矢柄の繁栄座へ移った。これほ高幕人形であった。明治三十五年、小木町大崎屋松之助の刻んだ人形をもとめた。これは御殿人形であった。こんどの座元は新田伊作であった。この新田は、「人形つかいの神様」といわれるほどの名人であった。また太夫もつとめ、人形も刻むという器用な人であった。佐渡の文弥節や人形芝居について、「耳眼書集」というものを残している。昭和十年九月十日、六十八歳で死んだ。そして、人形は昭和十二、三年ころ柏崎の吉田直方へ譲った。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
大崎人形の創始者は、天保の末、大崎の通称木戸場、甚太郎、兵衛、三郎、小沢の五人が、伊勢参宮の節、上方から習って来たものだと「大崎村誌」に見える。そして、そのころは手製の人形に渋紙の衣裳をつけ、萱菰(かやごも)を幕の代りにしていたという。太夫は、兵衛(川上)の多聞であったというが、この人が後年の大崎屋松之助であろう。松之助は芸名で、若い時ほ多聞といった。同じ部落の平内牧(へいないまき)へ婿養子に行き、男の子を一人もうけたが離縁になった。この男の子が成長して長塚節の「佐渡が島」に出る平内歌治という博労である。松之助は人形のカシラも刻んだ。大崎座では松之助のものと川口字兵衛の刻んだものをつかっていたが、松之助が小木町へ移住する時、半分を持って行ったという。その後、この一座は八尋淵甚太郎、村田豊四郎、渡辺甚次郎が中心となって後進を指導した。この中から、のちに名人といわれた中川甚七や中川鹿蔵などが出たのである。そのころの太夫は羽茂町上山田の渡辺忠蔵で、赤泊村川茂の池阿波ノ一の弟子であった。大正七年、大崎屋松之助の生家近くに「文弥節遣人形元祖之碑」が建てられ、五十年忌(実際は明治十七年死亡だから三十五年にあたる)の法要をいとなみ、追善興行を行った。この時の太夫は、中川今吉(羽茂・大和座)、池田宗玄(潟上・末広座)、岡本文司(窪田・永楽座)のほか三人、役者は中川甚七・中川鹿蔵(大崎座)、中川鉄五郎(大和座)、新田伊作(小倉・朝日座)、中川伝兵衛(下畑・盛立座)それに小木町の仙田八十郎という佐渡では珍らしい豪華な顔揃いであった。この日の呼びもの「嫗山姥(こもちやまんば)」 の八重桐が鬼女に早変りする場面は、新田伊作がつかうことになっていた。ところが、突然小木町の金子琴栄が太夫の床(ゆか)にあがって語り出すと共に、中川甚七がとび出しで、この早変りの場面を演じた。(これには前もって、ひそかに打ち合せていたものらしい)新田は怒ったが、やめさせるわけにもいかず、そのまま見ているうちに、甚七の演技のすばらしさに「わしゃおよばん、ほんとうに神技というもんだなァ」と激賞したという話が残っている。この時は、甚七は七十歳であった。彼はいつも弟子たちに「人形をつかう時は、からだにかならずくっつけてつかえ」といっていたという。昭和四年二月八十一歳で死んだ。甚七は女形(おやま)をつかうのが得意であったが、荒向きをつかうのは中川鹿蔵が名人であった。その鹿蔵も昭和十二年一月八十六歳で死んだ。この大崎座では明治三十年の洪水に、l行李(こうり)の人形や小道具を流失したが、もう一行季は真野町竹田の人形師のところへ塗りかえに預けてあったので助かった。この中に松之助が刻んだ傑作「おもん人形」をはじめ優秀な人形が残ったのほ何より幸いであった。しかし、この水難は大崎座にとって致命傷であった。この年から同町大谷の「大和座」と合併することになった。「大和座」の役者中川鉄五郎は、合併してから「大崎座」の中川甚七の直接の指導をうけるようになった。鉄五郎ほ、芸熱心で、幕のかげに寝て、甚七のつかう手振りや足つきを研究したといわれる。その後、役者の村田豊四郎は明治三十五年に死に、同じく役者の八尋淵甚太郎も同四十二年に死んだ。大正初年、大崎部落の人たちは「大崎座」の再興をほかり、頼母子講をはじめカシラや小道具の新調や補修をし座員の募集をした。この時、集ったのは渡辺伝蔵、中川伊八、石淵由太郎などで、甚七や鹿蔵の指導をうけた。(甚七は大正九年失明したので、主として鹿蔵が指導した)大正五、六年ころ、大谷座から分離して「里見座」と座名を改め、(のち、再び大崎座とした)葛原五兵衛が加入した。そして、太夫は、渡辺鹿蔵のあと、大谷座の中川令吉、村山の笠井長吉などで、岡本文司もまたつとめたことがある。現在は、座長葛原五兵衛、座員に村田豊治(豊四郎の曽孫)、今倉正太郎、太夫は岡本文盛である。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
畑野町小倉の人。太夫・役者をつとめたが、カシラも刻んだ器用な人であった。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★新田健作
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★新田聡子(さとこ)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「38号」(平成26年7月)それぞれの鬼太鼓奮闘記-地域おこし協力隊(岩首)新田聡子・〃(新穂)小川佳奈子-
★新田徹次郎
明治後の地役人救済の為に奥平謙輔は開墾を行った。鷲崎村弾野地区では北辰隊の伍長であった新田徹次郎が13人の兵衛隊を引き連れて開墾した。白井千別(普請方)、吉沢桶助(学問所)、本間宗治(係役)等である。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)
★新田牧太郎(にったまきたろう)
【生没】一八七六ー一九六七 明治九年に石川県の山中温泉で生まれた。同二十七年、一九歳のときに佐渡相川から来ていた湯治客の蜂屋鉄蔵という木地師に誘われて相川に移住し、弟子を何人もつくって佐渡の刳り物屋(方言クリクリヤ)を定着させた。牧太郎は、蜂屋の娘ミキと結婚して賢一をもうけたが、賢一は父の業を継ぎ、のち蹴りろくろが電動式に変った昭和の初めに、真野村新町に移って、現在子孫は同町に在住している。牧太郎の作品中では、彼が創作したタバコ入れの「どうらん」につける炭坪(発火用スミを入れるどんぐり型ー五センチ)が好評で、民芸家・柳宗悦からも賛辞をうけたほか、船舶用滑車・綿打器などの仕事で繁盛した。牧太郎の弟子のひとりで、河崎村真木(現両津市)の牧野仁策は、炭坪を継承し昭和四十年代まで仕事をつづけた。【関連】蜂屋鉄蔵(はちやてつぞう) 【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※息子の新田賢一は「立浪会」創立の大正13年に入会し、踊りを担当し同会黄金時代の会員として長く活躍する。
両津郷土博物館 展示解説シリーズ2p11
★日田正幸
★日体上人
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日体上人 42 連載 閑々亭雑記 (1) 阿仏房五重塔と住職日体上人 山本修之助
★日朝
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
僧侶。嘉吉二年(一四四二年)八月に日朝は佐渡に渡り、日蓮配流の遺跡、塚原根本寺、二宮の妙照寺等を訪れた。(越佐史料巻二)
★日庭聖人(にっていしょうにん)
【生没】一六二三ー九二 貞享四年(一六八七)八月に流罪になった日蓮宗不受不施派の僧侶。この人は元和九年に江戸の星田久右衛門の子として生れ、七歳で出家。一六歳のとき下総(千葉県)の玉造談林に学び、字を了憶・長遠院(法号)と号した。やがて江戸青山の自証寺二世、日遵の弟子となり、同寺三世を継いで律師に任ぜられる。この寺は将軍家光の側室、お振の方の菩提所で、その後寛文八年(一六六八)の不受不施派の弾圧で同寺を退出し、江戸原宿の草庵でなかば公然と正法護持の布教活動を行なっていた。佐渡の配処は相川町下寺町で、最初は円徳寺(現法輪寺)に、のち本敬寺(現蓮長寺)に謫居した。配所佐渡から信者宛てに発信した数通の手紙が、岡山県の妙覚寺など各地に残っている。「門外不出」「一日片時も心の安まる事も無く候」などと、なかば軟禁状態に置かれていたこと、また江戸から藤田孫六・円周・恵三・江田源七の四人が、日庭を見舞うため佐渡へ渡ったが番所でとがめられ、日庭と対面できないで送り返されたことなど、こまごまと記してある。このうちの三人は薩摩へ流される。蓮長寺には、配流中日庭が所持していた明応六年(一四九七)七月、行学院日朝(身延山久遠寺十一世)のしたためた本尊(裏書に日庭の署名と書判がある)が、また本敬寺跡地には、新しく昭和五十五年に建てられた日庭の供養墓が残っている。【参考文献】田中圭一・磯部欣三『佐渡流人史』(雄山閣) 【執筆者】本間寅雄(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★日典(にってん)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡塚原山十一世。字は教典、号は実成院といい京都妙覚寺十八世であったが、天正十八年(一五九〇年)塚原十一世となった。上杉景勝の家老直江景綱と道交があったので、霊蹟護持を謀り景綱から田園その他の寄進をぅけ境内を除地として一山の基礎を確立した。在山三年の後、また京都に帰り文禄七年(一五九八年)になくなったというが、文禄は四年までで七年は慶長三年にあたる。(佐渡人名辞書)
★日得(にっとく 阿仏坊)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
日蓮宗の僧で佐渡妙宜寺の開山、阿仏房という。俗名は遠藤左衛門尉為盛で遠藤武者盛遠文覚の曽孫である。順徳天皇につかえて従四位上となり和漢の学。歌道にすぐれていた。承久三年(一二二一年)順徳上皇が佐渡へ流された時、三十二才でこれに従った。仁治三年上皇が佐渡でなくなられ、為盛は念仏をおこたらず阿仏房と号した。妻とともに僧となり、陵の近くに妙宜寺を開いて三十年住んだ。文永八年(一二七一年)冬、日蓮が佐渡に流され塚原(今の根本寺)に住んだ時、阿仏房はひそかに訪れ説教をきゝその弟子となった。十一年日蓮は鎌倉に帰り甲斐国にかくれた。阿仏房はたびたび身延山に日蓮をたずねてその説をきいた。弘安元年(一二七八年)秋、九十才で身延山に登り、日蓮は感激して日得の名を与えた。二年三月二十一日になくなった。日満はその子である。(本化別頭仏祖統記、佐渡人名辞書)
『佐渡の五重塔』(児玉信雄著 2016年刊)より
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)日得 138 はじめて世に出る妙宣寺阿仏房日得筆曼荼羅本尊 児玉信雄
★二渡要蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★蜷川松億(になかわしょうおく)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で寛保三年(一七四一年)に江戸に出て、医をもって松原肥州忠根につかえた。享保十六年(一七三一年)になくなったというが、年代が前後しておかしい。(佐渡人名辞書)
★仁部卯吉
旭桜会
★二瓶五郎
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「43号」(平成27年10月)・杣月(そまづき)会を観る(二瓶五郎)※土屋周子
★仁平次
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国吉岡村(真野町)の人で、一家直系三夫帰そろっていた。天保十一年(一八四〇年)国府川橋掛替があり渡り初めに仁平次一家三夫婦が選ばれ、役所から鳥目を与えられた。(佐渡年代記下巻)
★二方潟村久左衛門
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★二方潟村源五郎
(『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊))
★入道盛憲
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
式部大輔 保元元(1156)佐渡に配流。 保元の乱に座す。応保二年(一一六二)赦免。(『兵範記』 『保元物語』『帝王編年記』)
★如是一十 洞泉寺
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★丹羽弘
両津湊の人。
「東京両津の会創立二十周年記念誌」(1982年)より
★庭谷良弼(にわやりようすけ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
堀口松庵の弟で名は精一と言い庭谷家を継ぎ良弼といって詩をよくした。(佐渡人名辞書)
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