佐渡人名録 ★ち
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2013-12-20

★ちゑ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国達者村(相川町)又三郎の祖母である。天保六年(一八三五年)ちゑ外三人は九十五才になったので、老養扶持を与えられた。(佐渡年代記下巻)

★ちゑ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川馬町与三兵衛の妻である。姑へ孝心に仕えた趣相聞るに付、弘化四年(一八四七年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★近辻宏帰(ちかつじ・こうき)
ちか近辻宏帰 (2)  ちか近辻宏帰 (3)  ちか近辻宏帰
『島の新聞』94号
1943年-2009年5月5日、66歳。東京都出身。早稲田大学卒業後、絶滅危倶種のトキを守るため、1967年から佐渡島に移住し、佐渡トキ保護センター勤務、のち同センター長。最後の日本産トキ「キン」の飼育を担当し、中国から贈られたペアのトキの人工繁殖を成功させた。2009年、「中西悟堂賞」受賞。
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報

★近野脩吉
ちか近野脩吉 (2) ちか近野脩吉

★近松門左衛門  
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 156 田草川みずき 近松研究から見る佐渡古浄瑠璃 田草川みずき・文弥人形座の舞台と人形

★近松行雄   
佐和田出身で島内を代表する画家。
「佐渡ふるさと百科」
ちか近松行雄 佐渡ふるさと百科
ちか近松行雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
洋画で日展5回入選の大家。二宮の人、新潟市師範時代の大正10年、第3回県下男子中等学校陸上競技大会(新潟師範グランド)において、1600mRで新潟師範が優勝、その時のメンバーで他に両津の中田吉蔵も居た。新潟市師範時代の大正11年、第4回県下男子中等学校陸上競技大会において、5哩(マイル)で2位。(1哩=1.6093km)大正12年、第5回県下男子中等学校体育大会で5哩(マイル)で1位(29分27秒2)、1500m3位。同年、全国中等学校陸上競技選手権大会(2部)で1500m3位、5000m3位。同年、第8回極東オリンピック大会北陸予選会で5000m1位(18分11秒8)、10000m1位(35分32秒8)。同年、第8回極東オリンピック大会第2次予選会(大阪)の長距離走に出場。大正12年、藤村藤一(金沢)は三段跳、近松行雄(二宮)は長距離走で(共に新潟師範)、新潟高校の池野徳次(新穂)は円盤投・砲丸投で、第6回極東選手権大会、第2次予選会(東洋一の大阪運動場)に出場した。「島の新聞」索引(人名別)
「伊藤潔様提供資料」
千葉市在住の伊藤潔(S23年生)74才です。実家は旧佐和田町河原田諏訪町で畳店でした(父/清太郎=母/美津子)。元島の新聞社(長野雅子さん)は「店子」で、新聞の発刊日が近くなると夜更けまで編集作業をしていました。母親/美津子が他界した折、実家の整理中に一枚の記念写真を見つけました。祖父(母方の)幸吉が大正10年(1921年)4/30-5/1に開催された、第5回極東オリンピック大会新潟予選会に出場した時の記念写真です。(ゼッケン68)岩原甚作マラソン1位、(ゼツケン69)伊藤幸吉(25才)マラソン2位、(ゼツケン32) 近松行雄(18才)5哩3位(旧佐和田町窪田/新潟師範生、卒業後真野中学校等で美術教師、後に画伯として活躍)マラソン1位岩原甚作、2位伊藤幸吉となったが、後日身元調査の結果、車夫(人力車ひき)のため失格になつた。初めて知った事実に大変驚きました !!職業柄と言えども、アスリートとしても立派な成績ですね。祖父幸吉は両津夷三ノ丁の岩原政治=クマ(旧姓祝)の三男。長男は岩原惣兵衛(惣平)(後に人力車業を営む)で七男三女の兄弟姉妹の家族でした。その後、両津夷の伊藤仲蔵(屋号/すしや)の養子となる。リツと結婚し長女/美津子が私の母親です。私はその息子/長男の潔です。
集合写真 (004) 出場選手名簿 (004) 大正10年4月大会 (004)

★竹馬伊勢吉(伊藤定吉)
ちく竹馬伊勢吉
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)

「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
彦さんの愛称でよばれていた軍談師(本名渡辺彦五郎)。万延元年八月一日、目黒町の渡辺多兵衛家に父多兵衛、母トメの長男として生れた。幼い時から、読み書きが得意でやがて村役場に勤めるようになった。明治二十年頃、佐渡では軍談が流行したため、相川には何人もの軍談師がおり、彦五郎はこの軍談に夢中となる。多兵衛家の者は東京で聴き覚えて独習で語りはじめたと云っているし、芸名に臥竜亭とつけているのも、我流をもじったのではないかとも家人は語っている。その後、伊勢吉は大坂で芸を磨いたと云われているが詳かではない。伊勢書の記憶力はすぐれていて一晩に三〇番まで種本なしに語れたと云い、また、即興的な新作ものは昼間のうちに書き上げて、その晩にはもう語ったとも云われている。明治二十八年三十五才の時に新穂村井内の本間孫八郎の娘シュンと結婚したが、子がなく身内から養子を迎えた。
シュンとの生活は短く明治四十年十一月シュンは死去した。彼女は弟子たちを良く面当見てやったのだろう、半年後に元祖竹馬夫婦之墓」と刻んだ墓碑が師匠の生前に建てられてあり、その逆修墓には左記のような弟子十七人の名前が刻まれてある。
春泰 二代目伊勢吉(西三川開拓) 伊勢雪(畑野) 伊勢萩(後山) 伊勢次(目黒町) 伊勢鶴(瓜生屋) 伊勢王(久知) 伊勢富(城腰) 伊勢重(白瀬) 伊勢一(羽吉) 伊勢武(北新保) 伊勢盛(千種) 伊勢信(沢根) 伊勢国 伊勢富士(小木) 伊勢清(月布施) 伊勢寿(秋津)
明治三十九年に佐渡を訪れた小説家の長塚節が紀行文「佐渡ケ島」に「土地の名を聞いたら亭主がしわ嗄れた声で西三河という所だといった。ふと■端を見ると板看板に『五色軍談営業』と書いてある。軍談師が内職に絲を縒って居るので軍談師だから声が変なのだなと思った。夫でも五色軍談が了解されぬので再び聞いてみると三味線なしで語るのが只の軍談で三味線のはひるのが五色軍談だといった。余ほそれでは此の女房が三味線を弾くのだなと心の中に思った。」と書いてある。この時、節が会ったのは二代目伊勢吉であった。初代の伊勢吉の墓に「元祖」と刻んだのは、たぶん、五色軍談の元祖という意味であろう。初代伊勢吉が三十代と見られる写真にはすでに、生田春泰が曲師としてついている。このことは伊勢吉がすでに浪曲のような節まわしで軍談を語っていることを示している。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)竹馬伊勢吉 74 彦さんのちょんがり節-五色軍談師竹馬伊勢吉一座盛衰略記-中塚宗一
「美人とハマナス」(「佐渡の百年」)

★智専(ちせん)
左:「佐渡ふるさと百科」 右:憲盛法印 さんの生家に立つ、巨大な供養塔
ちせ知専 佐渡ふるさと百科 ちせ智専 憲盛法印 さんの生家に立つ、巨大な供養塔。
ちせ智専 赤泊 (1) ちせ智専 赤泊 (2)
長谷
ちせ智専 (1) ちせ智専 (2) ちせ智専 (3) ちせ智専 (4) ちせ智専 (5) ちせ智専 (6) ちせ智専 長谷 (1) ちせ智専 長谷 (2)
赤泊地区
ちせ智専 赤泊地区 (1) ちせ智専 赤泊地区 (2)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ちせ智専

ちせ智専 (1) ちせ智専 (2)
【生没】(生年不詳)ー一七七○ 明和一揆の頭取で、長谷村(畑野町)長谷寺の寺家遍照坊の住職。寛延一揆後の宝暦改革で、佐渡奉行所の弊政は改善され、一揆が要求した国産品の他国移出は認められたが、最大目標の寛延元・二年(一七四八・四九)の八八○○石余の増年貢は、容れられなかったばかりかかえって増額され、新たに代官制を採用して、年貢収取を強化した。こうした状況の中で、明和四年「六魂虫」(アワヨトウムシ)の大発生と台風で大凶作となり、年貢減免はもとより軽減されず、大坂回米も前年同様一万四○○○石を羽茂郡大石港より積出し、島内は不穏となった。十月出所不明の回状が出まわり、十一月四日を期して佐渡奉行所に強訴し、代官所・御蔵奉行役宅を打毀す旨が記されていた。同日一揆は、頭取らが姿を見せず失敗したが、その後十一月二十三・二十六日、栗野江村加茂神社で国中寄合が開かれ、七四か村が参集した。そこで、長谷村遍照坊智専・小倉村十左衛門・瓜生屋村仲右衛門・三宮村助左衛門・舟代村五郎左衛門らが惣代に選ばれ、訴状が作成された。これが奉行所に知れ、翌日頭取らは逮捕入牢したが、智専を除き他はつぎつぎ病気等を理由に釈放され、責任は智専一人に帰せられ、明和七年三月二十一日死刑に処せられた。島内では、智専に対する同情と感謝から、各所に供養塔が建立され、虫供養にこと寄せ、智専供養の念仏が盛んに行われた。【関連】佐渡義民殿(さどぎみんでん) 【参考文献】伊藤三右衛門『佐渡国略記』、田中圭一『天領佐渡』、『新潟県史』(通史編四・近世二) 【執筆者】児玉信雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
遍照坊(田中圭一講演集より)

真野小立地区の生家跡
けん憲盛法印 小立生家跡 (1) けん憲盛法印 小立生家跡 (2) けん憲盛法印 小立生家跡 (3) けん憲盛法印 小立生家跡 (4)
新穂川沿い
けん憲盛法印 新穂川沿い (1) けん憲盛法印 小立生家跡 けん憲盛法印 新穂川沿い (3) けん憲盛法印 新穂川沿い (2)
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報

★知多正光
『佐渡ジャーナル』平成28年4月号(45号)
ちた知多正光
「佐渡ジャーナル」関係記事:「45号」(平成28年4月)・人気のフランス料理 国民宿舎「海府荘」※知多正光
「島の新聞」索引(人名別)

★秩父宮
2・26事件を支援したとも言われる皇族。
二・二六事件と秩父宮の関係、秩父宮を溺愛した母・貞明皇后と昭和天皇の確執

★遅塚麗水
明治の紀行文学を確立した人と言われ、明治34年8月31日~15日まで滞在し、「佐渡日記」を残す。
遅塚麗水(ちづかれいすい) 慶応2(1866)年12月27日~昭和17(1942)年8月23日。
小説家、紀行文家。静岡県に生まれる。本名は金太郎、別号松白など。維新後大蔵省官吏となった父久之の長男。明治7年上京、住所の異動にともない小学校を転々とし、のち幼馴染の幸田露伴のすすめで、菊地松軒の迎曦塾に学ぶ。父死去後は、独学によって小学校教員試験に及第、教員生活を経て逓信省雇員となり明治22年7月退職。翌明治23年、露伴との合作『冷于氷』(明治23年2月26~3月29日)を「読売新聞」に発表、この年、郵便報知新聞社に入社し、同紙をはじめ「新著百種」「国民之友」などに小説の筆を執ったが、明治26年1月「国民之友」に発表した『不二の高根』は、好評をもって迎えられ、山岳文学の先駆として高く評価された。日清戦争従軍の記録『陣中日記』(明治27年12月 春陽堂)も代表作の一つである。明治27年12月、都新聞社に転じ、小説執筆を続けたが、その本領は紀行文にあり『日本名勝記』はじめ、『ふところ硯』(明治39年6月 左久良書房)、『露布衣』(明治41年1月6日 文禄堂)、『山水往来』(明治43年7月 良明堂)などの紀行文集を刊行した。その後、国外にも足を伸ばして才筆をふるい『山東遍路』(大正4年5月 春陽堂)、『新入蜀記』(大正15年12月 大阪屋号書店)『南洋に遊びて』(昭三・三 大阪屋号書店)『満鮮趣味の旅』(昭五・三 大阪屋号書店)などがある。昭和13年、都新聞編集顧問を辞し、大宮の自宅で、漢詩、和歌などをつくって悠々自適の生活を楽しんだ。
『佐渡の文覚』(小説 40枚 明治文学全集26 昭和56・筑摩書房)
「文芸倶楽部」明治35年1月。かの袈裟と盛遠で有名な、出家して文覚上人となった文覚の鎌倉幕府との対抗的活動と、それがゆえについには佐渡に流されるに至る経緯と島での動向が措かれる。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
『佐渡日記』(紀行 84枚 ふところ硯 明治39・左久良書房)
少なくとも明治39年より前のある年の8月、佐渡旅行を企て、まず新潟に降り立ち、そこで見た北越の美人のことをはじめ、中心の佐渡における、夷町(両津市)、畑野、一宮の御墳、真野宮等が方言の集録もふくめて細かく記されていく。(「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)より)
佐渡日記(「ふところ硯」)(著者 遅塚麗水 明39.6)
「美人とハマナス」(「佐渡の百年」)

『佐渡日記』(『ふところ硯』(遅塚麗水 左久良書房 明39.6)に載る)

★戚柔美ちっくゆみ()
ちっくゆみ戚柔美

★千歳宮(ちとせのみや)→千歳宮(せんさいぐう)

★千鳥島
両津出身の大相撲力士、最高位は幕下。当時としては長身の184cmであった。旧姓は木島。

★知野倭文(しづ)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より 
畑野地区婦人会の初代会長で、畑野尋常小学校の訓導であっ。創設は明治三十九年八月十日で、会員七十六名、。成立の脊景には日露戦争があり、当初の事業もその事情を反映して、名士の講演会のようなことに終始した。

★茅原吉五郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ち茅原吉五郎

★茅原泰蔵
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。
当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎


★茅原庭泉

『金沢村誌稿本』(昭和9年7月 金沢村教育会刊)(技芸伝)より
ち茅原庭泉 技芸伝

★茅原鉄蔵(ちはらてつぞう 一湖)
茅原鉄蔵
金井大和田にある茅原家(令和5年4月 現在は無住)
鉄蔵の孫は演(ひろし)で南洋庁勤務後、佐渡に帰り金井役場に勤務しこの家に住んだ。
ちは茅原鉄蔵 (2) ちは茅原鉄蔵 (1)
大和田宝蔵坊
ちは茅原鉄蔵 大和田宝蔵坊
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ちは茅原鉄蔵 (2) ちは茅原鉄蔵 ち茅原鐵蔵
【生没】一八四九ー一九三一 明治前期・中期の佐渡農業技術の転換期に、先頭集団にいた最も活動的な人物のひとりであった。嘉永二年、新保村惣十郎家の長男に生まれた。はじめ小学校代用教員をしていたが、三四歳で農業を志して上京、二年後に八幡村に開いた中興の植田五之八の私設農事試験場の技師となった。明治二十二年(一八八九)東京で開かれた内国勧業博覧会で展示品の犂をみて、これを佐渡にはじめて導入した上、牛馬耕先進地の福岡から長沼幸七を招いて、御法を指導させた。長沼は技術指導者でもあったから、温床による甘藷苗の仕立方、堆肥舎設置、カメムシ防除法、わら加工など、新農法が多面に亘ってとり入れられ、画期的な飛躍があった。長沼はさらに犂の製作のために、同郷の浦山六右衛門を呼びよせ島に定住させ、この浦山もまた犂製造のほか、デロ篭の製造や他地の農法を伝えた。茅原の功績は、さらにそれら新技術の伝達普及のために、郡長の深井康邦を動かして、中興の植田の所有地に、のちに「農会堂」と呼ばれる郡農会を設置し、八幡から移転した植田試験場を、県営とする素地をつくったことである。いっぽう茅原は郷土研究にも熱心で、大正九年(一九二○)に柳田国男が来島したときには会って、柳田に感銘を与えた(註 柳田の「佐渡一巡記」には、そのとき茅原に会った様子が書かれている)。
【執筆者】本間雅彦 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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茅原鉄蔵(一湖) 1849年(嘉永2年)~1931年(昭和6)
※参考文献:「金井を創った百人」編集委員会
茅原鐵蔵は1849年(嘉永2年)6月9日大和田村の茅原惣十郎家の長男として生をうけた。 明治維新の頃に二十歳を迎えることになるから、時代の転換を身をもって体験したわけである。 長じて小学校教員助手となったのだが、1882年(明治15年)彼が34歳のときに発心して上京すると農商務省の農書編纂委員織田完之について農学を修めた。1884年(明治17年)佐渡に帰った鐵蔵は、まず手始めに地方農談会を組織して農業改良の大切さを説いた。 やがて鐵蔵は植田五之八・橘善吉・児玉長内らと相談して新保村に佐渡牧畜会社を設立した。 また鐵蔵は1886年(明治19年)、佐渡で最初の農産物品評会を大和田で開催し、それが成功すると相川で郡の水陸物産共進会を開催して人々の視野の拡大に尽力した。鐵蔵はまた常に牧草の種子を懐中し、歩きながら道端に蒔いていたとも伝えられている。 郷里にあっては明治26年、大和田に千種夜学会(研智会)を起こして青年たちの知徳向上を図った。鐵蔵は先の視察旅行の見聞を「漫遊日記」と題して自ら社主を務める 『北溟雑誌』46号(明治24年8月発行)以下に順次寄稿している。 この見識が佐渡の有志者に与えた影響は大きかったといえるだろう。鐵蔵は文化面でも、土器の発掘や郷土史の研究にひとかどの力量をもっており、明治20年本荘了寛が『北溟雑誌』発刊のために創設した北溟雑社の代表人を引き受けている。 また鐵蔵は、民俗学者柳田国男の主催する『郷土研究』誌はの投稿の常連であり、農業の将来の発展をみながら過去の先人たちのつくりあげた伝統についても深い理解と共感を抱いていた。鐵蔵はまた俳諧も嗜んでいた。 鐵蔵が病に臥した昭和4年の春、「茅原一湖翁当病平癒祈祷」興行の「俳諧之連歌」歌仙一巻の扁額が大和田の薬師堂に奉納されている。 仕事の同志で俳句の友でもある川上喚涛の筆になるもので、そこには喚濤をはじめ三四人の連衆が名を連ねていて、鐵蔵が俳諧仲間からも慕われていたことが伺われる。
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡金井町千種の茅原惣十郎の長男である。小学校教員助手をやり、三十四才の時、上京して農学をおさめ帰郷して農業に従事した。明治十七年帰郷して地方農談会を組織して農業改良を説き、郡営の八幡播種場が閉鎖した時その設備、備品をゆずり受けて私立試験場を中興につくり米麦野菜の栽培研究を行なった。また橘善吉、植田五之八、児王長内等と新保に株式牧畜会社を創立して牧畜改良をはかった。十八年佐渡第三区農事通信委員に推され、駒場農家大学にはいって農事研究をした。備中ぐわの三本を四本または五本に改良し、胴にしんの粉砕器を発明し、婦女子に養蚕をすすめ、郡長に説いて郡農会を創設し、本荘了寛とはかって北溟雑誌を発行し、牛馬耕を郡内にとり入れ、螟虫の軽便誘蛾灯を発明し、郡内をまわって産業開発と報徳精神を説いた。昭和六年九月十日に八十二才でなくなった。(概観佐渡)
「金井を創った百人」より抜粋
農業の近代化を図った老農 
【誕生から青年期の鐵蔵】
茅原鐵蔵は1849年(嘉永2年)6月9日大和田村の茅原惣十郎家の長男として生をうけた。 明治維新の頃に二十歳を迎えることになるから、時代の転換を身をもって体験したわけである。 長じて小学校教員助手となったのだが、1882年(明治15年)彼が34歳のときに発心して上京すると農商務省の農書編纂委員織田完之について農学を修めた。 これは異例の晩学ともいえることだが、彼が東京で何を考え、どのようなことを学んだかは、その後島内に牧畜会社を興したことによくあらわれている。 鐵蔵は農業の革新を図ろうとしていたのだ。 1884年(明治17年)佐渡に帰った鐵蔵は、まず手始めに地方農談会を組織して農業改良の大切さを説いた。 やがて鐵蔵は植田五之八・橘善吉・児玉長内らと相談して新保村に佐渡牧畜会社を設立した。 しかし、当時の人々の食生活はこの会社の先進性についてこれず、1899年(明治32年)には「人智の未開と社会の変動等に関し収支補わざるために終に解散する」という広告を出すに至ったのである。 鐵蔵は佐渡を日本のデンマークにしようと考えていたのだが、動機はきわめて単純なものでヨーロッパの農業をそのまま日本に移植しようとしていたのだった。 この試みは斬新的ではあったのですが、危なっかしい面ももっていた。今の日本の農業が何故このようになっているのかを考えることが先決だったのに、最初から「日本は遅れている」ということで先進地の技術を導入しようとしたのである。これは鐵蔵に限ったことではなく、当時日本の各地で行われた新式農法の多くは失敗に終わっていた。 1885年(明治18年)鐵蔵は佐渡第三区農事通信委員となり、東京駒場の農科大学に入り農事の実習に励んだ。このとき従来は三岐(みつまた)であった備中鍬を解良して四岐(よつまた)の鍬をつくったり、肥料用の胴鰊の干物を粉砕する器具を発明したりした。1887年(明治20年)に鐵蔵は、当時佐渡の稲作が不作続きだった原因が種子にあると考えて 『北溟雑誌』第1号に「諸国より良性の種子を数多く取り寄せたので、希望者には無代価で分けるから連絡してほしい」と広告を出したところ、多くの人が2升3升ともらいに来た。 しかし実際の作付けをみると少しも新しい品種が増えないので、聞いてみたらなんのことはない、殆どの人がその種籾を米にすって食べてしまっていたという呆れた話が残っている。また1888年(明治21年)1月発行の同誌第3号には「くぬぎ種売弘広告」を載せている。 くぬぎはどんな土地にもよく成育し用途も多いのではないかと考えて広く培養を謀ろうとしたのだ。 1890年(明治23年)佐渡三郡連合会は産業振興のために先進地から講師を招くことになり、鐵蔵と農商務省の横井時敬農学博士が講師を選考し、牛馬耕の権威である長沼幸七を島に招いた。長沼氏は福岡県朝倉郡夜須村の人で、明治16年から19年まで石川県珠州郡に招かれて指導していたが、「持立犂(もったてすき)」を使う牛馬耕を初めて島に伝えた。さらに長沼氏は接木・挿し木・害虫防除・堆肥増産なども教えた。 いも床による甘藷栽培はこの時から開始された。 長沼の後任として来島した浦山六右衛門は佐渡に永住し、牛馬耕の指導のかたわら犂や泥掃き篭など農具の改良につとめ、佐渡で亡くなった。また鐵蔵は1886年(明治19年)、佐渡で最初の農産物品評会を大和田で開催し、それが成功すると相川で郡の水陸物産共進会を開催して人々の視野の拡大に尽力した。 品評会といえば、これより先の1884年(明治17年)、鐵蔵自身新潟県など三県連合の品評会に米と大豆を出品して農商務大臣から表彰されている。 明治23年の内国勧業博覧会には郡の代表として玄米を出品し、宮内省お買い上げの栄誉に浴した。 その年横井時敬博士のすすめによって、実地経験家の指導を受けるために1年余り全国を回るという機会を与えられたのである。佐渡を出発した鐵蔵は箱根湯本を訪れて二宮尊徳の仕法を学んだ。 静岡県では岡田良一郎の報徳結社を見学、金原明善にしたがって天竜川上流両岸の植林を学び、さらに土倉庄三郎を訪問して吉野杉・高野桧の造林や紀州海岸の誘魚森林を視察、伊勢で害虫防除を、九州では甘藷の温床育苗・堆肥の製造・二毛作・接ぎ木・挿し木の技術を視察した。島に帰った鐵蔵は蓑笠に草履ばきで島内各地をまわって産業の振興と、個人の欲をこえて社会に奉仕するという二宮尊徳の報徳精神や倹約貯蓄の普及に努めた。貯蓄奨励には自らの著作『貯金の勧め』に貯金箱を添えて配布した。 『貯金の勧め』に使用した挿絵版画の原版が今も残っている。
鐵蔵はまた常に牧草の種子を懐中し、歩きながら道端に蒔いていたとも伝えられている。 郷里にあっては明治26年、大和田に千種夜学会(研智会)を起こして青年たちの知徳向上を図った。鐵蔵は先の視察旅行の見聞を「漫遊日記」と題して自ら社主を務める 『北溟雑誌』46号(明治24年8月発行)以下に順次寄稿している。 この見識が佐渡の有志者に与えた影響は大きかったといえるだろう。 鐵蔵は郡農会の農業委員を務めながら、種籾を塩水に浸して軽い籾を除く「塩水選」、草を手で取るより能率がよい中耕車、佐渡でも良い果樹がとれる筈という果樹栽培、二化メイ虫防除などの技術指導に尽力した。 鐵蔵のこの数々の実践的な活動に対して、1909年(明治42年)5月、県地主協会は『農事改良功績者』として表彰された。 このとき佐渡の人で一緒に表彰を受けたのは中興の植田五之八と小木の後藤亮秀だった。
鐵蔵は文化面でも、土器の発掘や郷土史の研究にひとかどの力量をもっており、明治20年本荘了寛が『北溟雑誌』発刊のために創設した北溟雑社の代表人を引き受けている。 また鐵蔵は、民俗学者柳田国男の主催する『郷土研究』誌はの投稿の常連であり、農業の将来の発展をみながら過去の先人たちのつくりあげた伝統についても深い理解と共感を抱いていた。大正9年に佐渡を訪れた柳田国男は、鐵蔵に会ったときのことを昭和7年発刊の「佐渡一巡記」で次のように紹介している。 「この地に茅原鐵蔵という『郷土研究』の寄書家があって、大悦びで訪ねて来てくれた。 むつかしい原稿を書く人で、いつも編集者を難渋させ、それを掬んで書き直すと、折々違っていたという小言が来る。よっぽどわからぬ人だろうと思っていると、逢ってみれば大違いで七十幾つだというのに壮年のごとく、はきはきとものを言う人であった。 相手の抱いているずいぶん込み入った不審を簡単な問いの言葉の裏に覚って、そつのない明敏さを持っている。 こういう前世紀教育の完成した人から、文書の採集ばかり続けていたのは損失であった。 もう少しこちらから出て行って、口で教えて貰わねばならなかったのである」鐵蔵はまた俳諧も嗜んでいた。 鐵蔵が病に臥した昭和4年の春、「茅原一湖翁当病平癒祈祷」興行の「俳諧之連歌」歌仙一巻の扁額が大和田の薬師堂に奉納されている。 仕事の同志で俳句の友でもある川上喚涛の筆になるもので、そこには喚濤をはじめ三四人の連衆が名を連ねていて、鐵蔵が俳諧仲間からも慕われていたことが伺われる。昭和4年の6月には、また郡内の有志者によって大和田寶蔵坊境内に鐵蔵の顕彰碑が建てられた。 碑面に刻まれた「茅原老農紀功碑」は農林大臣山本弟二郎の揮毫によるもの。 ちなみに「老農」とはすぐれた農業者という意味である。

さそはねど 今年も逢うは 月の友
 
翌年の1931年(昭和6年)9月10日に、82歳で他界された一湖こと鐵蔵の辞世の句である。 病気平癒祈祷句会の2年余り後のことだった。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永二年生 千種村 ・明2、星亨の新潟に於ける舌禍[十七年九月三十一日]・明2、北溟雑誌の発行[二十年十一月二十三日] 「佐渡関係事典に載る」、『金井を創った百人』、『大和誌』
※写真家近藤福雄の母の兄(弟?)が茅原鉄蔵。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)茅原鉄蔵 150 志賀重昂と案内人茅原鉄蔵の金北登山 北見継仁
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数26
「金井を創った百人」より
ち茅原鉄蔵 1
ち茅原鉄蔵 1 (2)
ち茅原鉄蔵 1 (3)
「生きたお経をよんだ了寛」(「佐渡の百年」)
「郷土史壇の人々」(「佐渡の百年」)

★茅原蘭渓
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ち茅原蘭渓

ち茅原蘭渓 (2)

★ちへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国相川下戸浜町の人である。夫定次がなくなり、七十才以上の両親によく仕え孝養を尽したので文政四年(一八二一年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★ちへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国赤泊村菊屋六左衛門の祖母である。文政十三年(一八三○年)九十五才になったので、役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)

★知本幾蔵
→若林米蔵「笛畝会」参照

★知本兼市
→若林米蔵「笛畝会」参照

★知本兼吉
→若林米蔵「笛畝会」参照

★知本康悟
ちも知本康悟06年 (2) ちも知本康悟06年 (1) ちも知本康悟 ちも地本康悟 (2)
ちも地本康悟
ちも知本康悟 (2)
ちも地本康悟 (3)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)知本康悟 
 145 戦後佐渡に於ける地域文化運動(一)  146 全国地方教育史学会佐渡大会開かれる 146 戦後佐渡に於ける地域文化運動 147 戦後佐渡に於ける地域文化運動(三) 148 戦後佐渡に於ける地域文化運動(四) 149 戦後佐渡に於ける地域文化運動(五)  150 戦後佐渡に於ける地域文化運動(六) 150 佐渡の地域文化運動を支えた山本修之助
「佐渡ジャーナル」関係記事:「60号」(令和2年1月)・読書案内:「村に立つ教育」(知本康悟著)
第4回新穂ふるさと講座「黙斎と杏村」知本康悟

★知本さおり
佐渡高校時代の昭和63.10.2、軟式庭球県新人選抜大会(弥彦)ダブルス知本さおり・柴原章江組2位

★知本順明
「島の新聞」16号
16ちも知本順明

★知本清次
→若林米蔵「笛畝会」参照

★知本守雄
両津高校時代の1995年度(H7)10月、新潟県高等学校実務競技大会第1回秋季簿記大会団体2位(河原厚二 喜嶋俊樹 小杉正樹  知本守雄)、個人2位

★茶園三蔵
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂の大谷人形(大和座)は明治十八年、大谷の中川今吉のはじめたもの。今吉は文弥節を仲平琴清(池阿波ノーの弟子)に習い、琴清の死後は渡辺忠蔵の弟子となった。彼はまた人形のカシラも刻み、傑作は「持統天皇」のカシラだという。一座は今吉が太夫で、役者は弟の高野待太郎、藤井金蔵と息子の鉄五郎という一族で組織していた。時おり隣家の茶園三蔵も加わった。明治三十年大崎座の人形や小道具の一部が洗出した時合併した。(大正五、六年までつづいた)今吉は、昭和五年七十四歳で死んだので、息子の鉄五郎が継いで座元になった。太夫は村山の笠井長吉(今吉と同じく渡辺忠蔵の弟子)であった。役者は、その後昭和二年に待太郎が死に、昭和七年に金蔵が死んだので、新たに北島初太郎、半田幸太郎が加わった。戦後、「新大和座」が生れ、太夫に長尾俊、藤井軾蔵(しょくぞう)、役者に早川治作、関口一郎、中川栄一が加わった。

★茶屋庄次郎
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
・沢根の人、中山道の神明社(沢根大神宮)付近に慶安(1648-51)の頃、茶屋を開いた。(大乗寺過去帳)
・多くの港町に見られるように、沢根でも茶屋が何軒かあり、近世・近代につづいた。場所は大乗寺門前で、茶屋町と通称されるようになった。大乗寺過去帳の茶屋所見は慶安二年(一六四九)で茶屋庄次郎とある。

★チャンキー松本
ちゃチャンキー松本IMG_5250 (1)
ちゃチャンキー松本

★忠子
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
ちゅう忠子

★中者正機
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)中者正機 143 山本修巳句集『花麝香』

★中将坊
「佐渡人」(青野季吉 昭和17年)より
寛永二年に、江戸神田法音寺内中将坊と云ふのが流されて来てゐるが、これは、江戸山王町妙清と云ふ姥が、切支丹でありながら、法華宗を偽装して、弟子入りしてゐたのを、知ってか知らないでか、法華宗だと申し立てた科で流されたとある。さう云ふのもある。この中将坊は、そのまま佐渡で病死してゐる。

★忠尋(ちゅうじん)
忠尋(ちゅうじん、治暦元年(1065年) - 保延4年10月14日(1138年11月18日))は、平安時代後期の天台宗の僧。源頼平の子の土佐守忠季を父とする。大谷座主とも称される。佐渡国出身。
比叡山の長豪・覚尋・良祐に天台教学を学ぶ。初め洛北の曼殊院に住したが、その後比叡山北谷東陽院に移った。1115年(永久3年)里坊として東山大谷に十楽院を開創し、1118年(元永元年)に権律師、1130年(大治5年)に天台座主、1137年(保延3年)に大僧正に任じられた。恵心流の天台教学の振興に努め、忠尋の門流は東陽院流と称された。
ウィキペディアより
治暦元年(1065年) - 保延4年10月14日(1138年11月18日))は、平安時代後期の天台宗の僧。父は源頼平の子の土佐守檜坂忠季、兄弟は貞頼とする。大谷座主とも称される。佐渡国出身。
・略歴:比叡山の長豪・覚尋・良祐に天台教学を学ぶ。初め洛北の曼殊院に住したが、その後比叡山北谷東陽院に移った[1]。1115年(永久3年)里坊として東山大谷に十楽院を開創し、1118年(元永元年)に権律師、1130年(大治5年)に天台座主、1137年(保延3年)に大僧正に任じられた。恵心流の天台教学の振興に努め、忠尋の門流は東陽院流と称された。
・脚注:^ ただし、南北朝時代の曼殊院の記録では東陽坊(東陽院)の忠尋が曼殊院の初代であると記しており、曼殊院が東陽院の別院として忠尋が創建された可能性もある(大塚紀弘「中世の曼殊院門跡」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3)。
表話編歴

★忠誉上人
ちゅ忠誉上人 (1) ちゅ忠誉上人 (2) ちゅ忠誉上人

★ちよ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
貞婦。佐渡国の町医師内田玄仙の妻である。夫の死後、舅姑に仕えよく貞節を守ったので、文政七年(一八二四年)に役所へ呼出されて褒賞を受けた。(佐渡年代記中巻)

★長右衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川下戸村の人である。小前のものをいたわり病難死別等にて難儀のものを見継(みつ)いだので、文化十二年(一八一五年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)

★長円
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡長安寺住職。建治元年(一二七五年)八月八日に院主職を法弟の浄聖に譲った。(越佐史料巻二)

★長嘉十郎
真野 瀧谷神社
ちょ長嘉十郎 真野 瀧谷神社

★長左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国羽茂郡山田村(佐和田町)の人である。孝心其上奇特之取計有之趣相聞るに付、天保六年(一八三五年)役所から、白銀を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川一丁日の人である。老母へ孝養を尽くした趣相聞るに付、弘化二年(一八四五年)に役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)

★長勝治
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
(真野)浜中の鬼太鼓は竹田から習ったという。教えたのは竹田での創始者たちで、習ったのは永井啓作(明治九-昭和二九)が女鬼、佐々木勝次(明治二五-昭和四〇)が男鬼、太鼓が佐々木源次(明治一九-昭和四四)、長勝治(明治ニー-昭三一、佐々木甚平(明治二四~)等だったというから、竹田より二・三年遅いくらいなのであろうか。 明治四二年生まれの永井与次右衛門は太鼓も舞も上手だったが、右の人たちが若い衆に教えているのは見たが、舞うのはみたことがないという。竹田の土屋徳蔵が浜中祭りに釆ていた。新屋がそのつれあいの生家だったからであろう。永井はそのとき鬼の役だったが、先輩に「先生が釆ておるから気をつけて舞え」と注意され、格別に心をこめて舞ったという。竹田と浜中の関係は深いといわねばならない。

★長佐治平
真野御陵前
ちょ長佐次平 真野御陵前 (1) ちょ長佐次平 真野御陵前 (2)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
→鶴間笛畝参照
→若林米蔵「笛畝会」参照

★長三洲
吉井本郷 松本秀雄乇
ちょ長三洲(松本秀雄乇)

★長甚四郎
真野浜中の整骨医で奥平謙輔との間でエピソードを残す。
「鬼参謀・奥平謙輔」(「佐渡の百年」)

★長藤蔵
『加茂村誌』(昭和38年)
ちょ長藤蔵
昭和9年、「承久の乱に於ける順徳天皇と佐渡」を刊行。

★長仁三郎
 →小黒ヨシ参照

★長某
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
名を欠く。弘和元年(一三八一年)一月に北朝から佐渡守に任じられた。(新潟県史)

★長又右衛門
「加茂村誌」(昭和38年4月)
ちょ長又右衛門 加茂村誌(昭和38年)

★長又次
『続佐渡酒誌』(平成14年)
ちょ長又次 『佐渡酒誌』(平成14年)

★長林蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ちょう長林蔵

★潮音
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ご剛安寺潮音
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
ちょ潮音
ちょ潮音 (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡相川町の人で加藤氏の出である。椿村の常慶寺にはいり、享保中(一七一六-三五年)その住職となり、後に吉井の剛安寺の十五世住職となった。
著書に、撮要年代記、佐渡古実物語がある。明和四年(一七六七年)十一月になくなった。近世越佐人物伝は佐渡奇談により潮音の大力、奇行を記している。(佐渡人名辞番、佐渡人物志)

★潮音(弾誓寺)
『加茂村誌』(昭和38年)
ちょ潮音禅海
・撮要年代記二巻、佐渡故実物語一巻の著者。1767年(明和4)没。

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
だ弾誓寺潮音

だ弾誓寺潮音 (2)


★長海金鯨 正法寺

『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
ちょう長海金鯨 正法寺 佐渡国泉の人物誌 h29年11月


★長次

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川一丁目江戸沢の人である。両親に仕えてよく孝養を尽したので、文化六年(一八〇九年)役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)


★長十郎

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国梅津村(両津市)の百姓である。常々小前の者を労り村方出火類焼の者へ手厚く手当いたし奇特という理由で、寛政十一年(一七九九年)役所へ呼出され、白銀二枚を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)


★長助

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より

孝子。佐渡国中尾間歩番所小遣、相川新五郎町の人である。孝心奇特の趣相聞につき、天保五年(一八三四年)役所から鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記下巻)


★長善寺太愛

『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
ち長善寺太愛


★長田(ちょうた)善一郎

平成30年5月没。78歳。羽吉の人。両津高校OBで長く剣道の指導者として両津少年剣士会の指導にあたった。両津高校同窓会である石楠会役員として長く尽力された。


★長田忠作

「加茂村誌」(昭和38年4月)
ちょ長田忠作 「加茂村誌」(昭和38年4月)


★長田初枝

 両津高校時代の1967年度(S42)1月、第17回全日本年賀状阪画コンクール文部大臣奨励賞 


★長田尚

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ちょう長田尚

ちょう長田尚 (2)


★長田靭太

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ちょう長田靭太


★長田茂市

(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
ちょう長田茂市


★提灯屋忠兵衛

『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の生け花は近世にも盛んであったが、近代にはいっても行谷の住人の「とくはつ」という人が生花が上手で、その弟子羽田豊治、新穂の提灯屋忠兵衛等があり、羽田の弟子に藍原千里、現存の村田喜作はその弟子である。彼の門弟に青木の本間羊作、本間勝生、土屋政一や、彼の息子喜一郎がある。池の坊派に属し同派は昭和十七年(一九四二)佐渡支部を認可され、現在教授職免状約三十人、心得のあるものは約言五十人を数えている。

『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
新穂村新穂の人。忠兵衛人形を明治三十四、五年ころ創始した。忠兵衛は器用な男で、目や口の動く人形を刻み、また舞台も「回り舞台」であったと伝えられている。太夫は影山美与ノーで、義太夫で語ったという。役者は大工の宮蔵と美与ノーの息子であったというが、忠兵衛が四、五年で死んだので廃絶した。人形は真野町竹田の遠藤邦蔵が買い、のち両津市夷の久左衛門人形座に加えられた。

新穂村新穂の人。目や口の動く人形を刻んだと伝えられるが、作品は残っていない。


★長兵衛

『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
孝子。佐渡国相川二丁目浜町の人である。養母によく孝養を尽くし、妻もまた貞実であつたので文政元年(一八一八年)役所へ呼出され、鳥目をそれぞれに与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)














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・佐渡市両津夷在住
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