佐渡人名録 ★やまな~やまもと ご
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2021-01-12

★山中観一
やま山中観一 やま山本観一
佐和田町の人、歯科医、佐渡中学昭和9年卒。
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p425
『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山中観一
 1 佐渡本間物語 (1) -源氏十六流と順徳天皇- 2 佐渡本間物語 (2)-東一条院立子と彦成親王の生涯- 3 佐渡本間物語 (3)-坂東平八郎と武蔵七党-山中観一 4 佐渡本間物語 (4) -宇多源氏の佐々木秀義と盛綱-  5 佐渡本間物語 (5) -天暦の治世と安和の変- 6 佐渡本間物語 (6) -始祖本間能忠と宗忠の入国- 7 佐渡本間物語 (7) -順徳上皇の御遷幸と頼綱の入国- 8 佐渡本間物語 (8) -後醍醐天皇と日野資朝並に本間山城入道- 9 佐渡本間物語 (9) -阿新丸の仇討と山伏大膳坊- 10 佐渡本間物語 (10) -新田義貞の挙兵と極楽寺坂切通し 11 佐渡本間物語 (11) -山城入道泰宣の奮戦と自刃並にその出生- 12 佐渡本間物語 (12) -赤坂城における資貞・資忠父子討死 13 佐渡本間物語 (13) -天下無双・孫四郎資氏のこと-
 14 佐渡本間物語 (14) -越後長尾時代の幕開け- 15 佐渡本間物語 (15) -長尾為景と羽茂の本間高信との関係- 16 佐渡本間物語 (16) -「御館の乱」から「第一次佐渡合戦」への展開- 17 佐渡本間物語 (17) -時直の築城・その規模と城名- 18 佐渡本間物語 (18) -天正五年佐渡一揆と本間孫太郎の奮戦- 19 佐渡本間物語 (19)-羽茂高貞兄弟の奇禍と藤田の出陣  20 佐渡の民話考 (13) 雨乞の話(7) 杉池・乙羽池・山居の池 21 佐渡本間物語 (21) -偽名馬事件と上杉景勝の越後統一 22 佐渡本間物語 (22) -景勝の密使・越軍沢根入城の事- 23 佐渡本間物語 (23) -第二次佐渡合戦・上杉勢河原田城を囲む- 24 佐渡本間物語 (24) -鴨摺の合戦と河原田の落城- 25 佐渡本間物語 (25) -高応・徳兵衛の真光寺落ちと雑太の降伏- 26 佐渡本間物語 (26)-西方の合戦と羽茂の落城-山中観一 28 佐渡本間物語 (28)-会津の風土と群馬県赤堀村の本間- 29 佐渡本間物語 (29) -群馬県赤堀村探訪記- 30 佐渡本間物語 (30) -上州念流道道場本間練武館の明暗- 31 佐渡本間物語 (31)-赤堀に見る栄光の軌跡とその末路 32 佐渡本間物語 (32) -高滋の子孫と水戸本間の系譜- 33 佐渡本間物語 (最終回)-医師文人としての本間の一系と終稿に憶うこと- 62 「阿修羅」幻想 -酒井友二氏の歌集に寄せて-

★山中玄達
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より」
元禄期(一六八八~一七一〇)ころからこの町に何人かの医家ができてきた。沢板五十里の町では、菊地寿庵・生田専益、諏訪町に松村三益、河原田大坂町の内藤玄佐、上欠馳村では遠藤元哲・本間進斎、鍛冶町の鞍立常庵、河原田本町の中山玄亨、山中玄連などである。延享二年(一七四五)四月九日の夕刻、河原田町で一つの事件がおきた。町医者山中玄達四十七歳が、川崎村の藤左衛門という二十八歳になる男を斬り殺したのである。この事件については、一部に誤って伝えられた部分もあるが真相は次の通りである。玄達の妻トメは、河原田の名主中山市郎兵衛の娘であった。市郎兵衛は、中山(河崎屋)七軒衆のうちの儀左衛の分家であるが、儀左衛門の跡を継いで、「くすり屋」といわれた家である。その名の通り薬種商であった。玄達は、佐渡奉行所の地役人山中利右衛門時喜の三男で、幼名を喜三郎といい、奉行所のお抱え医師益田玄佑とその子恂岡に医学を学んだ。特に恂岡と玄達は、天領三校一と言いわれた修教館で、共に文武を練磨した仲である。医を修めた仲間には、後年中山玄亨と共に佐渡を離れて医を競い、水戸藩主のお抱え医になった横地玄常がいる。益田玄佑の祖父甚政は、佐渡奉行伊丹播磨守に従って上州から釆た医師で、播磨守が在職十八年という佐渡奉行としては異例の勤続をしたために、奉行離任の後も益田家は佐渡に残った。玄佑の次男で恂岡の弟忠助が丹右衛門と改名して地役人になり、この裔から初代三井物産社長男爵益田孝がでている。玄佑の裔六代目、甚政からは八代目に当る克則が、明治十二年東京に出て開業医になったのも、佐渡における医術の高さを示すものである。奉行所のお抱え医から出た地役人、益田鷹之助(孝の父)の家系と地役人から出た医師山中玄達とほ極めて対蹠的で、しかも緊密な関係にある。さて、玄達の引き起こした殺人事件には、佐渡奉行が地元で試用を許した薬用人参がからんでいた。川崎村の藤左衛門は、前年の暮にうまく玄達に取り入って人参を持ち出し、僅かの銭を送った上追加の注文をしていた。玄達が受け取った銭は、既に渡した人参の代金として、舅の市郎兵衛に払う金にも足りない額であった。藤左衛門はそれっきり姿を見せない。やむなく玄達は、雪の解けるのを待って川崎村に藤左衛門を訪ねたのである。藤左衛門は留守で雪たが、其処で偶然にも湊町の藤右衛門という者から、藤左衛門宛に来ている手紙を見た。それは人参の督促状で、玄達は前の人参が不当な高値で藤右衛門に流れていることを知ったのである。そこで玄達は、帰路のことでもあり、湊町の藤右衛門宅に立ち寄り、実情を説明して、今後は直接に申し込んでくれるよう依頼して帰った。藤左衛門は能弁で性狷介、短気で喧嘩早く、自己中心主義で、多少の才を鼻にかけているタイプの男だった。四月九日の暮れ六つ(午後六時)、馬で河原田に乗り込んできた藤左衛門は、本町弥五右衛門の店先で玄達をとらえ、大声を発して口汚く面罵した。玄達が中に入って静に話をしょうと誘うと、胸倉をとって殴りかかった。玄達はこれを振り払うと同時に、思わず腰の脇指を抜いて切ってしまったのである。一瞬の出来事であつた。士分の時ならば兎も角、一介の町医者のなすべき行為ではなかった。事件は重大な結果を招いてしまった。早馬が相川の奉行所に飛び、舅方中山一門他の医師たちが懸命に藤左衛門の手当をしたが助からなかった。奉行所から目付役遠藤佐兵衛、地方役柴田惣左衛門らが駆けつけて、吟味の上玄達の身柄は相川の牢に移された。入牢して五カ月余の九月十八日、在方役橋本与三左衛門らによる簡単な再吟味が行われたあと、死罪を申し渡されて同日巳の刻(午前十時)刑が執行された。これによって医師として河原田に進出した山中家は断絶し、中山家との縁も切れてしまった。舅の市郎兵衛は名主役を召放されて所預けになり、実父の山中利右衛門と長兄の弥太夫・次兄の静間半左衛門備明は、百日の遠慮(謹慎)を仰せ付けられた。山中氏は、中山氏と同じ甲州の出身で、武田家の一族である。武田二十四将二十一家の内の一家で、代々山中湖畔一郷の領主だったが、山中衛門尉源信友のとき武田家が滅亡した。浪人して浄蓮斎と号した信友に男子四人女子一人がいた。男子の一人仁兵衛友次は、徳川秀忠の九男、会津の保科正之に仕え、三百石の郡奉行になったが、他の三人弥五左衛門友基、藤左衛門友則、長左衛門福吉の三人は、二十俵三人扶持に甘んじて佐渡奉行所の地役人になった。家系を残したのは最も入国の遅い(寛永九年)長左衛門の裔である。女子の俗名テルは、同じ地役人の内田六兵衛重治の妻となり、寛永十七年六十八歳で没した。家は事件後も明治維新まで八代続き、広間役まで勤めた家柄である。玄達の父三代目利右衛門時喜は、このとき御金蔵定番役を勤めていたが、これをしほに隠居して書役をしていた長子弥太夫喜綱に家督を譲り、宝暦六年(一七五六)八十一歳で没している。玄達の妻トメほ、中山玄亨の従妹で、幼少から可愛いがられ、特に玄達の人材を見込んで娶合わせたのだが、思わぬ不幸に遭遇する結果になってしまった。トメは五十三歳で亡くなっているが、事件の何年後かは分からない。玄達との間に三人の男子がいた。事件のとき家にいたのほ、三男の信三郎だけであった。上の二人は、大志を抱いて三都に遊学していた筈だか、所在不明になって何の記録も残っていない。玄達より一つ年長の中山玄亨四十八歳は、玄達が刑場の露と消えたとき、京都にあって九条左大臣尚実に仕えて、事件の翌延享三年は法橋から法眼に累進、医師として三帝に奉侍する空前の栄達を遂げたのである。和宮に従って東下し孫の玄又のあとは、森彦が陸軍々医少将に、平次郎が九州医大の名誉教授になっている。厳しい封建社会の中で、明暗の両極端をきわめた河原田の医師 中山玄亨と山中玄達の二人であった。
→「医師」(佐和田)

★山中四郷
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山中四郷 69 佐和田の四季

★山中善五郎
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p96

★山中孝志
両津高校時代の1991年度(H3)2月、新潟県高等学校総合文化祭文芸部門(『高校文芸』第6号) 短歌奨励賞  

★山中晴雄
「躍進日本」
やま山中晴雄「躍進日本」

★山中又四郎
「「佐渡一国義民殿」の創建」(「佐渡の百年」)

★山西貞夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山西貞夫 23 佐渡と能登の歴史と文化

★山西青処
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)

★山西篤之進
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所鉄砲方。江戸詰中に萩野流砲術の伝授を受けた。嘉永三年(一八五〇年)奉行所は、萩野流打方並びに火矢烙等の技を心掛ける者は篤之進へ入門して稽古せよと諸役人へ沙汰した。(佐渡年代記下巻)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
天保年中の地方役で江戸詰中、千葉周作の門に入り一刀流の免許を得て帰りこれを子弟に教え、山西篤之進(広間役、退任は明治)ほ持田の高弟であった。早川源次郎直昌は山西門下より出て更に東上して千葉の免許を得、原田庸吉は早川門下より出て千葉の免許を受けた。早川、原田の二人は幕末の剣界に手耳を執れりと伝えられているが、特に早川直昌は佐渡中学校の初代剣道師範となるなど佐渡の剣道指導者として大きな功績を果した。

★山西藤左衛門
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
やま山西藤左衛門 新潟県官民肖像録 明治41年
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治九年生 澤根町 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]・明4、第九回衆議院議員の選挙[三十七年三月一日]・大1、佐渡国民党の臨時大会[二年二月二十五日]・大1、青木永太郎等同志会を脱党す[四年九月]・大1、第七回佐渡郡会議員選挙[四年九月三十日]・大1、相川町立女学校の郡立決議[六年十二月]・昭1、第二十回縣会議員選挙[二年九月二十五日]・昭1、第十六回衆議院議員選挙[三年二月二十日]・大1、第十三回衆議院議員選挙[六年四月二十日]・昭2、佐渡民政倶楽部の発会式[四年九月二日]・昭3、第十八回総選挙[七年二月二十日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]

★山西敏弥(百太郎 ももたろう)
【生没】一八四三ー一九一六  天保十四年五月十一日、奉行所広間役山西篤之進の長男として生まれる。幼名百太郎。幼少の頃から武術に優れ、嘉永六年(一八五三)一一歳で学問所見習兼鉄砲方見習、文久二年(一八六二)には、砲術世話役兼槍術世話役などを歴任した。慶応元年(一八六五)十月、江戸に上り講武所で砲術を二年間学んで帰郷、御鉄砲方として奉行所の役人に新式操銃法を指導した。慶応四年閏四月に結成された佐幕同盟「迅雷隊」に加盟したが、隊長の中山修輔が中立の態度をとったため、新潟奉行所の通訳長谷川精次郎とともに佐渡を脱出、七月二十日に新潟へ渡った。ところが新潟はすでに薩長軍に占拠されていたため、スネルの船でかろうじて長谷川の郷里唐津へ逃れ、さらに大坂へ出て三田藩の郷学校の教師などを勤めていたが、明治二年七月十九日に許されて帰郷した。翌三年に上京、物理化学などを学んで大蔵省造幣寮に出仕、明治九年には佐渡へ帰り、明治十六年から二十九年まで佐渡鉱山に勤め、溶鉱法を研究して技師となった。その後は三十七年まで三井に勤めて三池炭鉱などで働いた。晩年は新潟に住み、大正五年四月、七四歳で没した。
【関連】迅雷隊(じんらいたい) 【参考文献】山西敏弥『幕末遭難記』(舟崎文庫)、『越佐維新志士事略』、『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※迅雷隊(じんらいたい)
 慶応四年(一八六八)閏四月に結成された佐幕同盟。慶応四年一月に、鳥羽・伏見の戦が起こって徳川勢が敗れると、会津藩から協力の要請、北陸道鎮撫総督からは奉行へ出頭命令が下った。当時佐渡支配を任されていた組頭中山修輔は、この難局を切り抜けるには、局外中立以外に無いと考え、双方に使者を送って佐渡の国情を説明させるいっぽう、島民の結束を図るために、佐幕党を旗印とする迅雷隊を結成した。迅雷隊は、一五歳から四○歳までの地役人をはじめ広く島民からも同志を募って結成された。隊長が中山修輔、小隊長には広間役の高野信吉・松原小藤太と、武術所定役の早川源次郎が任命された。約百名の隊員の中には、一○名を越える町人や医師等が含まれていた。閏四月十一日、山ノ神の東照宮別当教寿院に糾合した隊員は、血判を押して二心無きを誓い合い、圓山溟北作の「祖廟斎盟記」が読み上げられている。隊長中山修輔は、越後の情勢なども考慮して、佐幕同盟を掲げながらも奥羽越列藩同盟には加担しなかった。このため、山西百太郎(敏弥)らのように、佐渡を脱出して薩長軍と戦おうとした者もいた。維新後は、早川源次郎が隊長となって地役人を帰農させるための開墾を行なっている。
【関連】中山修輔(なかやましゅうすけ)・山西敏弥(やまにしとしや)【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、山西敏弥『幕末遭難記』(舟崎文庫)【執筆者】石瀬佳弘(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「佐渡の維新志士」(「佐渡の百年」)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡相川の人で鉱山技師。はじめ百太郎といった。質直、弘毅な性格で家は代々奉行所につかえた。武技をこのみ操銃、剣槍に印可を得た。蘭英語を修め二十三才で江戸に出て講武所の砲術練習生となった。二年後に戊辰の役となり幕府方に尽くした。明治二年帰郷、製鉱所に入り、溶鉱法を研究し技手より技師となった。鉱山が御料となると御料局技師となり後三池炭坑に転任、三十五年清国に招聘され平江金鉱に行き、病気で辞任、東京に行き新潟に住んだ。大正五年四月に七十四才でなくなった。(越佐維新志士事略)
『越佐人物誌』(補)(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
鉱山技師。佐渡の佐幕派迅雷隊員。地役人篤之進の長男である。劔術(けんじゅつ)、槍術は免許の腕前で江戸講武所で砲術練習生として二年間つとめ、帰って新式操銃法を教えた。洋学は相川最初の人といわれ、初めオランダ語を修め後に英語を学んだ。迅雷隊長中山修輔は局外中立をとなえたが百太郎は、佐幕派として江戸に出て彰義隊に加わろうとし、七月二十四日夷港を出発した。新潟についたが、官軍の松ケ崎上陸があり、官軍に捕えられたが間もなく許された。折から新潟に寄港していた英国船フイロン号に、無断で乗りこみ長崎に行った。さらに船で大阪へ出た。明治二年四月十五日、太政官から「諸藩から脱走した者も一たん帰藩すれはその罪は問わない。」の布
告が出たので、七月十九日佐渡に帰った。明治三年敏弥と改名した百太郎は束京に出て司馬凌海の塾にはいり、大学東校に通って物理、化学をおさめた。九年佐渡に帰って製鉱所に入り、熔鉱法を研究し、技師に進み主任となった。三十五年には中国湖南省の平江金鉱へ行ったが、病気になって東京へ帰った。晩年は新潟に落ちつき大正五年四月に七十四才でなくなった。(佐渡の百年)
「佐幕派・迅雷隊」(「佐渡の百年」)
「佐渡の維新志士」(「佐渡の百年」)
「島の新聞」(両津港物語)
「島の新聞」(明治の女子留学生)

★山西百太郎→敏弥
★山西八左衛門
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行所鉄砲方。火術にも造詣が深かったが、その家が手挟で、作業に困難であったので、佐渡国相川勘四郎町の住居を役所に願い出た。拝領地引替に増地並びに町屋敷買上げの上天保二年(一八三二年)に的場御預けを申しつけられた。(佐渡年代記中巻)

★山西日出雄
「躍進日本」
やま山西日出雄「躍進日本」

★山辺いと
やま山辺いと (2)
やま山辺いと (1)

★山本愛蔵
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本愛蔵

★山本顕男
やま山本顕男 やま山本顕男 (2)
第4代連合佐渡会会長(令和1年より) 010705
やま山本顕男 連合佐渡会会長 010705 東京赤泊会 やま山本佐渡連合会会長
「佐渡ジャーナル」関係記事:「44号」(平成28年1月)・「佐渡を世界遺産にする首都圏の会」第一回総会(山本顕男)「61号」(令和2年4月)・シリーズ『Sado人』探訪12 山本顕男(未知草ニハチロー) 「62号」(令和2年7月)・佐藤しのぶさんを悼み、佐渡の「夕鶴」を想う(山本顕男)

★山本中(あたる)
やま山本中(あたる)

★山本新太(あらた)
スポーツ佐渡0603月
やま山本新太(あらた)スポーツ佐渡0603月

★山本家保
佐渡高校時代の40.6.11~13、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)ハンマー投1位

★山本伊吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本伊吉

★山本郁
やま山本郁 佐渡高校

★山本郁夫
「佐渡ジャーナル」関係記事:「29号」(平成24年4月)佐渡の春 山本郁夫「30号」(平成24年7月)タコさびき(山本郁夫)「31号」(平成24年10月)北前船とてまうた(山本郁夫)「31号」(平成24年10月)水金町遊郭哀歌(山本郁夫)「32号」(平成25年1月)佐渡の夕焼け(山本郁夫)「32号」(平成25年1月)佐渡の凧(山本郁夫)「34号」(平成25年7月)佐渡・平根崎(山本郁夫)「35号」(平成25年10月)朱鷺の切手・行商(山本郁夫)「36号」(平成26年1月)・遭難碑・方言・鉄砲水(山本郁夫)・カタセ(山本郁夫)「37号」(平成26年4月)方言・水色(山本郁夫)「39号」(平成26年10月)朝・手紙(山本郁夫)「42号」(平成27年7月)・キンダーブック(山本郁夫)「43号」(平成27年10月)・ゴンズイに注意!(山本郁夫)・島の夏(山本郁夫)「44号」(平成28年1月)・佐渡が見える(山本郁夫)「45号」(平成28年4月)・新制中学校・フクシマ(山本郁夫)「46号」(平成28年7月)・佐渡の父母(山本郁夫)「46号」(平成28年7月)・杉の樹(山本郁夫)「47号」(平成28年10月)・稲鯨・かたまり・小佐渡(山本郁夫)「48号」(平成29年1月)・棘の思い出・シベリアの風(山本郁夫)「49号」(平成29年4月)・佐渡(山本郁夫)・わらび・遺品(山本郁夫)・藤袴・数式(山本郁夫)「51号」(平成29年10月)・月夜のたぬき・鰯雲・棚田(山本郁夫)「52号」(平成30年1月)・センブリ・スポンジ・表裏・きのこ・石蕗の花・満月(山本郁夫)「53号」(平成30年4月)・山桜・庶民・春夜・禁煙(山本郁夫)「54号」(平成30年7月)・西空・イカ・ぼくの部屋(山本郁夫)「55号」(平成30年10月)・断片(山本郁夫)「57号」(平成31年4月)・イワカガミ・『永遠』という名の猫(山本郁夫)「58号」(令和1年7月)・帰省(山本郁夫)「59号」(令和1年10月)・獺祭(山本郁夫)「60号」(令和2年1月)・バナナの記憶(山本郁夫)「61号」(令和2年4月)・早春の庭・おーいー(山本郁夫)「62号」(令和2年7月)・能登半島・北の海・ナマコ(山本郁夫)「63号」(令和2年10月)・偏見(山本郁夫)「64号」(令和3年1月)・「唐寅(とういん)というひと」(山本郁夫)・いじめ(山本郁夫)「65号」(令和3年4月)・「フーテンの米さん」・「米芾(べいふつ)」というひと(山本郁夫)

★山本勇雄
「岩首校百年誌」(昭和55年)
やま山本勇雄 岩首校百年誌(昭和55年)

★山本一郎
「ショートプロフィール」1867年(慶応3)、真野新町生。父は漢方医師山本桂。渡米、アメリカで貿易商。永井荷風の「断腸亭日記」に「劇場廊下に図らず山本一郎翁に邂逅す。予二十五歳の秋、初て米国に遊学せし時、翁がタコマの家に寄寓し、指を屈すれば二十四年前の事なり」。佐渡中学生の渡米を支援。
山本一郎 (2) 山本一郎 (1) 山本家
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
やま山本一郎
新町大神宮にある記念碑
やま山本一郎 新町大神宮 (2) やま山本一郎 新町大神宮 (3)
前列左より:島倉孝、山本一郎、山本半蔵(静古)、山本悌二郎
後列左より:山本成之助、山本修之助、山本宙蔵 ※写真撮影は昭和10年
やま山本一郎 451kb1867(慶応3)年-1945年(昭和20年)。真野新町生まれ。明治20年代に渡米、アメリカでは古屋商会タコマ支店の支配人をしていた。農相山本悌二郎、外相有田八郎の実兄であり、山本修之助家の隣家で、山本半蔵(静古)とは同年代で親戚であった。永井荷風の「断腸亭日記」に山本一郎が次のようで出る。「夜風月堂にて晩餐をなし、家に帰らむとするに、験雨来たりしかば歌舞伎座に入りて・・・。劇場廊下に図らず山本一郎翁に邂逅す。予二十五歳の秋、初て米国に遊学せし時、翁がタコマの家に寄寓し、翌年の秋セントルイスに赴きしなり。指を屈すれば二十四年前の事なり。翁は今年六十余歳になられしといへど、肥満の体躯猶矍鑠たり。大正九年帰朝し、目下目黒に隠棲せらるる由なり。・・」
この件については山本修巳氏が次のように書いている。
(「新潟日報」日曜随想 蔵からのささやき 平成26年4月13日)
「永井荷風は、1903(明治36年)10月から1年間、一郎宅に寄宿して近くのハイスクールに通うことになっていたが、学校にはあまり行かず、読書と思索にふけった。一郎には荷風の父、久一郎から、いつも息子を励まして欲しいという手紙が来ていたそうだ。一郎は若さにまかせて明治学院を中退し渡米しただけに、後見人を依頼されていても型にはまった教育を荷風に強いることはできなかった。そのことが荷風に微妙な陰影を落としていたかもしれなかった。
一郎は1920(大正9)年帰国した。滞米三十余年であった。一郎が寄進した新町大神宮の社号標には「大正九年八月帰朝 在米山本一郎」とある。その後十数年間、時に真野新町の弟悌二郎の別荘に滞留し、半蔵、修之助の家を訪れることもあった。そのころに荷風の書簡が修之助宛てに届いたのである。修之助は、一郎に若き日の荷風のことを聞けなかったことをよく残念がっていた。」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本一郎 
 95 永井荷風と佐渡出身山本一郎の一年 山本修巳
 108 一枚の記念写真-永井荷風の米国の宿主山本一郎氏と  中川哲昌
「荷風の米国の宿」(「佐渡の百年」)

★山本一哲
やま山本一哲050308

★山本伊予守(いよのかみ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡奉行、寛政十年(一七九八年)七月二十日、浦賀薯行より佐渡奉行となり、十二年三月十五日江戸に帰還を命じられ四月四日田安家家老となった。名ほ茂孫、知行千石、御役料は千五百百俵人扶持であった。(佐島遺事)

★山本岩吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
や山本岩吉

★山本卯之助
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34
やま山本卯之助 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34

★山本梅蔵
真野新町で旅館「清右衛門」を経営し、尾崎紅葉等が宿泊した。後に両津町夷に移住した。
「紅葉・お糸のロマンス」(「佐渡の百年」)

★山本悦子
やま山本悦子060215

★山本絵里子
やま山本絵里子 やま山本絵里子

★山本快龍(やまもとかいりゅう)
【生没】一八九三~一九四八 インド哲学の権威。明治二十六年三月三十一日、相川町南片辺の農家、山本市左衛門家に生まれた。父は市平、母はマツでその五男とされる。北片辺と南片辺はこのころ「北海村」で、市平はその村長をしていたことが、明治二十九年の佐渡郡役所の記録からわかる。戸籍によると快龍の俗名は「辰蔵」である。尋常小学校卒業後、乞われて隣りの水上坊(真言宗・大興寺)の僧職見習になった。住職の坂田快音から得度をうけて快龍を称したという。第一高校を経て東京帝大文学部印度哲学科に入学したのが大正七年。同大学大学院に進学して研究室助手などをしたあと、慶応大・立教大・立正大・日大の順で講師を永く勤めた。このあと智山専門学校教授(昭和四年)から、大正大学合併にともなって同大学の予科教授(昭和十九年)となり、東亜学研究室主任、印度仏教学(梵語・梵字学)研究室主任(昭和二十一年)を勤め、この間印度哲学に関するたくさんの論文を発表した。昭和十五年ごろから終戦まで東大講師も勤めていた。真言宗智山派の僧侶として、昭和二十三年七月十四日の没後、中僧正が贈られている。行年五五歳。「一見、印度の高僧を思わせる風貌で、酒が入ると大声でわめき、追分を唄うのが楽しみで、稚気愛すべき親父だった」と長男の山本保は回想している。【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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『佐渡相川の歴史(通史編)』(1995年)より
インド哲学 仏教学老として知られた山本快龍が生まれたのは、明治二十六年三月三十一日であった。南片辺の農家、山本市左衛門(屋号が市左衛門)家の出であった。父親は市平、母はツマ。その五男である。北片辺・南片辺は、当時北海村にふくまれていて、父市平は北海村村長もしていたことが、明治二十九年の佐渡郡役所の記録からわかる。快龍の幼名ほ「辰蔵」と戸籍には記載されている(市左衛門家の当主山本渉(こざと編に歩)氏所蔵)。尋常高等小学校は卒業したが、そのころすぐ隣の水上坊(真言宗大興寺)の小僧になっていた。住職の坂田快音から得度を受けたという。のちの快龍は、このおりの快音の一字をいただいたのかも知れない。御長男の山本保さん(東京在住)が、このひとをこう回想している。父、快龍が亡くなったのは、昭和二十三年の七月ですから、すでに四十有余年の昔、智専での縁りの方々も年々少なくなって、おそらく大半の方が、そんな宗派学者がいたのか、と思われても、致し方の無い年月が経ってしまった。眼窩が深く、鼻が高く、一見印度の高僧を思わせる風貌は、印度哲学者にふさわしいと言えば、言えるかもしれないが、人間的には稚気愛すべき、親爺であったと思っている。好きな酒が入ると、大声でわめき、おだてられると追分を歌うのを何よりの楽しみとしていた。そして週末の半日、智専のグランドのコートで、誰彼かまわず相手にテニスに興ずるのを生き甲斐にしていたのである。貧乏学者なるが故に、東大はじめ五つの大学の講義をかけ持っていたが、智専だけは週二日と決め、その一日は必ず土曜日の午前中を確保していたのも、午後のテニスのためであったと思っている。父を語るとき、もう一つ忘れられないのは碁が好きであったことである。それも、お世辞にも強かったといえない碁であって、定石を無視した喧嘩碁である。したがって勝負が早く、一晩夜を徹して三〇局うったなんていうこともしばしばであった。私の小学生の頃、「俺は数学が得意であったので、本当は理工系に進みたかったのだが、お寺の義理があって印度哲学の道を選んだのだ。」と述懐していたことがあったが、あの碁をみる限り、理づめに強かったとは思えない。それにしても、日本海の孤島の佐渡ケ島の寒村の農家に生まれ、数多い子供の末っ子として、それこそ飯減らしのようなわけで寺の小僧としてあずけられ、その仏縁によって、大学まで出してもらったことに対しては、生涯感謝の気持をむき出しにしていた。そしてゆくゆくは智山派の師弟の中から、多くの秀れた学者を育てて行くのが使命であり、念願だったと思っている。だからこそ智専をあんなに愛し、学生諸君との人間的なつながりを大切にしていたのだと思う。研究半ばにして、病に弊れてしまったが、最後の輸血が必要になった時、智専のOB、学生(大正大学)の五〇人余の方々が連日血を提供して下さったことが、どんなにうれしかったことか、父にかわって当時の方々にあらためて御礼を申し上げる次第である。武蔵野の情緒たっぷりだった、上石神井の畑道を、近くの農家で分けてもらった地玉子を、大きなカバン一杯につめ込んで、せかせかと家路に向かっていた親爺の面影は、私にとっていつまでも消えないのである。東大の建築学教室に勤務している相川出身の中川宇妻さんの調査によると、快龍は水上坊で得度したあと、川崎市の平間寺という寺で潅頂をうけたという。この人が、やがて「印度哲学の権威」といわれるまでに地道な学問を積み重ねていく経緯はよくわからないが「飯減らしのようなわけで寺の小僧としてあずけられ、その仏縁によって、大学まで出してもらったことに対しては、生涯感謝」していたというから、師の快音は少年時の辰蔵に大きい影響を与えた人物だったのかも知れない。水上坊のいまの監物由之住職によると、快音は二代前の人で北片辺の六三郎という家の出で頑固一徹のような人だったと聞いているという。終戦直前と直後に、大正大学で快龍の印度哲学の授業を直接うけたことがある監物さんは「快龍先生は外人みたいな顔で優しい感じだった。生徒のうけがよかった」と話した。この人の教えをうけた人たち(住職)が、佐渡にはかなりいるという。
(山本快龍 略歴)
 第一高校を経て、東京帝大文学部印度哲学科に入学(大正7)。同大学大学院進学(大正10)。研究室助手のあと慶応大・立教大・立正大・日大の順で文学部の講師をながく勤める。智山専門学校教授(昭和4)。大正大学合併にともなって同大予科教授(昭和19)。東亜学研究室主任(昭和20)のあと印度仏教学(梵語・梵字学)研究室主任(昭和21)。印度哲学に関する多くの論文を発表し、昭和十五年ごろから終戦まで東大講師を勤めていた。真言宗智山派僧侶として没後、中僧正が贈られた。
昭和23・7・14死去 55歳
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
山本快竜 やまもと-かいりゅう
1893-1948 昭和時代の仏教学者。
明治26年3月31日生まれ。智山専門学校教授,大正大予科教授となり,東亜学研究室,印度仏教学研究室の主任をつとめた。真言宗の僧。
妻は参議院議員の山本杉。昭和23年7月14日死去。56歳。新潟県出身。東京帝大卒。
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※山本杉
「アンサイクロペディア」より
山本杉(やまもとすぎ、1902年生-?年、女性)は日本の医学者。ぶっちゃけ、日本版女アフレッド・キンゼイ博士。 日本ではタブーとされていた性医学の研究者で、女性の立場から性医学の研究を行っていた。父親は「自慰」という日本語を作った性科学者の山本宣治。親子二代にわたって性医学の研究を行い、恋愛至上主義とかオナニー有害論を真っ向から否定していた。夫は仏教学者で真言宗智山派の僧侶である山本快竜(昭和23年7月14日に腹上死、享年56歳)。
・経歴: 昭和13年6月23日 抗生物質が無かった当時は結核は不治の病とされていたが、画期的な治療法を編み出して数百人の命を救った。 その方法とは胸に穴を開けて肺を圧迫して結核菌の活動を抑えて免疫を活性化させることで治癒させるという、非常に苦痛の大きな方法だったが、患者をハメ倒して元気付けて病気に立ち向かわせた。 その業績により28歳の若さで「人工気胸のレントゲン学的研究」で慶應義塾大学より医学博士号を授与される。当時としては20代の医学博士は異例であり、まして女性など異例中の異例だった。 昭和32年 東京女子医科大学医学部の助教授に就任。 大学の講義で使うための教科書として『性医学概論』を執筆。膣の中に精液がたまっている様子などを解説するために、自分のマンコの写真や生ハメ中出し写真を撮影して使用した。当時はそんな写真を撮影させてくれる人がいなかったので自分を被写体にしてやってしまった。 昭和33年 アフレッド・キンゼイ博士に感化されて大学の講堂で学生の前でセックスを実演、大問題になり辞表を書かされる。 昭和34年6月2日 第5回参議院議員通常選挙で自由民主党より立候補 ハメ倒されて命を助けてもらった患者とセックスの講義を受けた女性連盟の男女双方からの応援で当選する。 当時としては三人しかいない女性国会議員だった。 自分のマンコ生出し無修正写真を載せた本を、自分で作って売った女性国会議員は史上最初で最後と思われる。 議員に当選すると、キンゼイ博士やデッキンソン博士などが書いた性医学書に片っ端から医学博士&参議院議員の肩書きで推薦文を書いている。 昭和40年7月4日 第7回参議院議員通常選挙で自由民主党より立候補、二度目の当選を果たす。 昭和43年の国会審議で看護婦制度の改革を行った。 当時最大の論点は日本全国で五千人に達していた「男の看護婦」の扱いであった。 当時の法制度では「看護士」ではなく「看護婦」と表記され、男性が看護婦免許を得た場合は制度上は「男子である看護人」と呼ばれ法律は看護婦の法律が準用されるという非常に変な状態だった。これを改正して、正式に「看護士」になった。 平成2年6月~平成8年9月まで社団法人全日本仏教婦人連盟会長を勤める。
・編集:『女性のための仏心』 国書刊行会 1995年 『女性のための仏道入門』 木耳社 1989年 『道心 : 現代人にとって仏道とは何か』 木耳社 1979年  『母のねがい』 芝園書房 1959年 『現代人の性案内』 ポドルスキー著:山本杉訳 季節風書店 1958年 
『私に良人を―告白する女性たち』 東西文明社 1955年  『婦人解放と産児制限』 社会教育連合会編 印刷庁 1950年  『性の志向するもの』 三元社 1949年  『性医学概論』 印刷庁 1957年
・編集: 山本博士は読売新聞で性問題に関する新聞のコラムを連載していた。 昭和26年2月6日の読売新聞より
十六歳の女の子の母親からの投書 問「娘が男の友だちに会いたがって困っています。」 山本杉医学博士の返答 「親達にとって恐ろしいのは子供が性を知ることではなく、性に特別な興味を持たれることです。もし興味を持ちはじめたら関心をスポーツや科学などに向けかえてやります。例えば男の子にはおいしい食物を沢山与え、女の子には欲しがる小問物などを買ってやるとか、これは案外効果的です。毛糸を買ってやったら夢中で編み続け、家事にも興味をもつようになったという例がありました。」
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p93

★山本嘉右衛門
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p96

★山本嘉吉
多門寺
やま山本嘉吉 多門寺 (1) やま山本嘉吉 多門寺 (2)

★山本覚信
(山本一哲記)
嘉永6年我が祖山本覚信法師は出雲大社を一番に全国500余寺社を参拝巡礼し納経帳を此処に置き記念塔を建立した 天竺巡礼の意思虚しく子孫に託す 平成30年秋 れいわ元年秋我その悲願受継ぎインド仏陀聖地巡礼達成し此処に報告する
やま山本覚信

★山本覚傳
『新潟県官民肖像録』(明治41年) 
やま山本覚傳 新潟県官民肖像録 明治41年

★山本佳奈子
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★山本九郎
左端:「越・佐傑人譜」(昭和13年)
やま山本九郎 越・佐傑人譜 昭和13年

★山本圭子
やま山本圭子

★山本慊
山本家9代は山本慊で沢根から婿入りしている。
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)

★山本健二
やま山本健二

★山本勝一
やま山本勝一
両津春日の人、両津高校事務職から教諭となり、傍ら両津の演劇を指導し、新潟日報出版文化賞を受賞する。

★山本桂(訥斎:やまもとかつら)
「ショートプロフィール」天保13年(1842)-明治28年(1895)。江戸末から明治中期にかけての漢方医・自由民権運動家。真野新町生れ。父の医業を継ぎ16歳で入洛、医学を典薬中山摂津守から学ぶ。帰島し開業。貧富を問わぬ往診を行う。自由民権運動家として、真野竹田の羽生(鵜飼)郁二郎と気脈を通じる。本荘了寛『北溟雑誌』を援助、漢詩を作ること、書画の収集を趣味とする。子息山本悌二郎と隣家山本半蔵に影響を与えた。
山本桂
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
やま山本桂
【生没】一八四二ー九五 江戸時代末期から明治中期にかけての漢方医・自由民権運動家。天保十三年二月二日、真野町新町に生まれた。号を訥斎。父の医業をつぐべく一六歳の時京都に上り、医学を典薬中山摂津守から、儒学を伊藤重光から学ぶ。文久年間(一八六一~六三)ころ帰島し、新町に開業。医術のすぐれていることはもとより、遠近貧富を問わぬ往診を徳として、佐渡の浅田宗伯と称せられた。また、自由民権運動家として、真野町竹田羽生(のち鵜飼)郁二郎と気脈を通じ、活躍した。ほかに明治十九年、本荘了寛が『北溟雑誌』を創刊すると、経済的な援助をおしまなかった。趣味として漢詩を作ることと、書画の収集があり、子息山本悌二郎と、隣家の山本半蔵に影響を与えた。なお、一一人の子供がいたが、山本悌二郎は農林大臣に、有田八郎は外務大臣になった。幼児の八郎を、相川町有田眞平の養子にしたのは、自由民権運動の友である若い眞平の獄中死に同情の気持ちからと言われている。明治二十八年十一月二十四日、五三歳をもって没した。【関連】有田八郎(ありたはちろう)・山本悌二郎(やまもとていじろう)・有田眞平(ありたしんぺい) 【参考文献】萩野由之『佐渡人物志』、山本一郎『訥斎遺藁』 【執筆者】山本修巳 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
明治四年の山本桂の戸籍を見ると職業を書いてない。天保一二(一八四一)年、漢方医を父として生まれた。安政五(一八五八)年一七歳で京都へ上り、中山摂津守に医学を学び、帰郷して新町で開業した。貧しい着からは薬代をとらなかったというから「医は仁術」を実践したことになる。桂はまた、明治一〇年代から二〇年代にかけての、自由民権運動の先達としても有名である。
新潟新聞によると明治一二年五月、山本桂が中心になり新町に夜学校を設立したとある。おそらく山本桂が新潟県長岡の数学者某を自宅に逗留させ、近所の子どもたちに数学を教えさせたといわれることを指すのではないかと思う。そのころ、漢学一辺倒であったなかに、自らも数学を習い、子どもの悌二郎に教えたといわれる。こうした桂の頑固な人柄と進取に富んだ行動が悌二郎の後年の大成の一因となったのではないだろうか。
『田中圭一講演集(第六集)「長谷川元了と竹中成憲』より
十八世紀から幕末にかけて佐渡からどういう医者が、、どういう所に勉強に行っているのか、少し紹介しておきます・・・・・。華岡流外科に佐渡で最初に行ったのは猪坂尚逸(相川町)、その後中山顕民(川原田町)大平昌清(しょうせい)(相川町)、山本桂(新町、有田八郎の実父)、菊池東純(小倉村)、小倉村には何人もおります。京都伏見の蘭学者小石元俊-杉田玄白や大槻玄沢などと交流があつた-の所へは、鞍立章平(川原田町)、藤沢明卿(湊町)、田中参二郎(相川町)が行っております。また、シーボルト事件(文政十一年、一八二八)で投獄された土生玄碩という眼医者-土生眼科は元は漢方系、シーボルトを通じて西洋医学を取入れた-のところへは時岡亮朔(相川町)、葛西周禎(羽茂本郷村)、北君養(湊町)などがおります。幕末の頃、佐藤尚中(下総佐倉、順天堂の祖)という蘭学者のところへは、近藤玄洋(川原田町)、時岡春台(相川町)です。そして小石川施療所、ご存知「赤ひげ先生」こと桂川甫周のところへ佐藤元沢(潟上村)、鈴木良順(夷町)など。こうざっと見ても、佐渡では十指に余る医者が蘭学で育っております。このように、十八世紀から幕末の頃まで、佐渡から数多くの青年が江戸や京都や長崎を主として他国に医学修行にでかけております。その多くは蘭学者の門をたたいていることが注目されます。
『佐渡人物志』(萩野由之 昭和2年10月刊)
や山本桂(訥斎)
や山本桂(2)
や山本桂 (3)
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
や山本訥斎(桂)
や山本訥斎(桂) (2)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡新町の医家。名は忠篤、字は敬卿、通称を桂、笠叟、忙叟等の号がある。父の時から医を業とした。十七才の時、京都に出て医術を典薬中山摂津守の門に学び、伊藤重光に経義を修めた。文久(一八六一~六三年)中に帰郷して開業した。医術にすぐれた上に仁侠で病家の遠近を問わず往診した。洋医が盛んになったが、結髪に饅頭笠、脚絆草鞋の古装で漢方医術を守り佐渡の浅田宗伯といわれた。古人の書画を集めて楽しんだ。詩もよくした。著に訥斎遺稿二巻がある。明治二十八年に五十四才でなくなった。(佐渡人物志、佐渡人名辞書)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
寺小屋の年中行事として新年の書初め、新町では毎月二五日天満宮へ奉納の清書をした。また、正月二五日には天神講と称し、少しずつお金を出しあって菅公祭を催した。そのころ、寺小屋師匠として、新町には山本半右衛門・生田三折・山本桂・島倉伊右衛門など、吉岡には若林玄真、竹田には森玄達・小田与三兵衛、金丸に計良尚賢・若林文平、豊田に豊原快慶などがいた。寺小屋師匠の師弟の関係が深かったことは明治四年死亡した山本半右衛門の葬儀に、弟子として一三名の参列者があったという記録が残されていることからもわかる。明治維新を経て、二年三月人民教育のため小学校の設置を奨励するという太政官布告にょり相川・新穂・羽茂に郷学校が設立され、三年には大中小学校規則にょり新町・五十里に郷学校が設けられた。
『訥斎遺稿』
・編著者 山本訥斎
・成立 不折(朱印「不折」)扉題字。謙(朱刻印「末松謙澂」「字受卿」)題字。大正3年盂蘭盆会日、(書於敬身堂南軒之下)萩野由之(朱刻印「萩野由之」「礼卿」)序。巻首「佐渡 訥斎学人山本忠篤敬卿」。大正3年8月、欽堂黒木安雄(朱刻印「安雄」「飛卿氏」)跋。大正3年8月不肖、悌二郎跋。大正3年8月印刷・発行、編輯兼発行者 山本一郎(新潟県佐渡国真野村字新町)、印刷者 本間十三郎(東京市牛込区榎町七番地)、印刷所 日清印刷株式会社(東京市牛込区榎町七番地)刊。非売品。
・成立西暦 1914
・内容
佐渡の医者、山本訥斎の遺稿詩集。554首を収める。配列は制作順か。巻頭は安政5年3月、17歳で上京修学する際の作。巻頭題字の前に訥斎と妻島倉氏の肖像(写真に基づく石版か)各1図、訥斎遺墨3点のコロタイプ写真あり。目録の前に「訥斎山本先生小伝」(大正3年7月、敬斎嵐城嘉平撰)あり、著者は山本氏。諱忠篤。字敬卿。幼名利策。通称桂。号訥斎。別号笠叟・忙叟。佐渡新町の人。医者、山本直清(幼名金吾、通称桂、号蜀水)の子。天保13年生。17歳で京に遊学、医術を典薬中山摂津守に、経義を伊藤重光に学ぶ。文久年中帰国、医を業とす。西洋医術に反発して古法を専修、里人は「佐渡の宗伯」と称す。任侠心に富み、困窮人や苦学者に財を施す。先儒賢侯忠臣義士の遺墨書画を大量に蒐集する。明治28年11月24日没54歳。配は嶋倉氏諱美無(明治32年没50歳)。子女11人あり。嫡子は一郎(在カナダ、貿易移民に従事)、以下、悌二郎(在東京、衆議院議員)、鉄三郎(原氏、王子製紙会社気多工場長)、四郎(早世)、五郎(多治見氏、電気信託会社)、六郎(早世)、八郎(有田氏、法学士、ハワイ領事)、九郎(医学士、京都大学助手)、茂(早世)。女子は菊子(佐野喜平治妻)、雪子(大尉井上元成妻、早世)。
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)
「不敬罪で獄死」(「佐渡の百年」)
「不屈の少年・山本悌二郎」(「佐渡の百年」)
「明治の左翼文壇」(「佐渡の百年」)
「一徹の外交官」(「佐渡の百年」)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保十三年生 真野村新町 ・明2、鵜飼郁次郎同志者を招待す[二十三年十月十日]・明3、鵜飼郁次郎の議会報告[二十四年六月十五日]・明4、第七回衆議院選挙[三十五年八月十日]・昭4、山本悌二郎 薨去[十二年十二月十四日] 「佐渡関係事典に載る」
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本桂
 89 <資料>自由民権運動家書簡 -山本桂(真野町)より有田眞平(相川町)宛-
 107 山本桂の水盃(みずさかずき) 山本修巳
107 <資料>子女の訓育に一生を捧げた私の父母 山本悌二郎
 125 山本桂と有田眞平 山本修巳
 136 農相山本悌二郎 外相有田八郎 生家山本桂家墓所遷座祭・山本藤左衛門家墓所遷座祭
「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数22~・48・59

★山本香代美
佐渡高校時代の昭和54.1.21 バドミン トン、県高校選抜大会(新潟市) 女子シングルス5位
54.6.9~11 、バドミン トン県高校結合体育大会(新潟市) 女子団体3位、斎藤・山本組女子ダブルス5位、 山本香代美女子シングルス5位

★山本寒苦
「佐渡ジャーナル」関係記事:「32号」(平成25年1月)北前船(山本寒苦)「32号」(平成25年1月)去来(山本寒苦)「33号」(平成25年4月)潮の干満(山本寒苦)「33号」(平成25年4月)うぐいすの切手(山本寒苦)「40号」(平成27年1月)挽歌(山本寒苦)「43号」(平成27年10月)・ふるさとの佐渡を詠む(山本寒苦)

★山本勘次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本勘次
やま山本勘次 (2)

★山本喜一郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本喜一郎

★山本喜右衛門
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、高等女学校[四十年三月二十日]

★山本菊治
馬首小
やま山本菊次 馬首小 (1) やま山本菊次 馬首小 (2)
『加茂村誌』(昭和38年)
やま山本菊次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本菊治
加茂村村長。子供は5,6人居り、長男は肇、妹がテル(昭和1年生まれ)で佐藤長平(「大阪屋」)の佐藤石松奥さん。本間牛乳の本間太郎八元馬首村長とも親戚筋。肇の長女が「あけぼの会」代表のワット隆子である。
→ワット隆子
→新通英博
→本間正章
昭和18年、加茂村村長に当選。昭和20年、加茂村村長に当選。

★山本嘉作

両津郷土博物館 展示解説シリーズ2
p14

★山本喜太郎
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
赤泊村徳和の人、五郎兵衛人形の創始者。山本喜太郎は、通称五郎兵衛、安政六年生れで昭和二十五年九十五歳で死んでいる。太夫は、安宅ノ一(本名は平本吉蔵=明治三十一年死亡)であったが、のちに高田嘉門となった。役者はこの五郎兵衛と長男初太郎、古屋梅吉、高野卯吉であった。五郎兵衛は六歳の時、徳和の地芝居通称鼠屋敷(矢田秀哲)の一座で、「巡礼お鶴」に扮して人気を博したといわれる。二十歳の時、この地芝居の役者をやめ人形座を組織した。こうした地芝居から人形座に転向した者に、河内人形の白川福蔵や竹田人形の遠藤徳兵衛などがいる。この五郎兵衛人形は、はじめ小木町大崎屋松之助のものを死後譲りうけ、高幕人形であったが、明治三十年の火事で焼失した。のち、池ノ平(柳原八藤平)の作った人形を買ったが、これは御殿人形であった。太夫が安宅ノーから嘉門へうつると、嘉門は盲人なので、文弥節の語りの数をあまり知らなかった。そのため見物人も少なくなり、大正初年佐和田町五十里の松木政吉へ譲った。

★山本喜太郎
両津郷土博物館 展示解説シリーズ1p5

★山本君子
両津高校時代の1964年度(S39)6月、第17回全国高校陸上競技対抗選手権大会県予選 砲丸技2位・槍投2 位
9月、第17回新潟県高等学校総合体育大会陸上競技(男子総合2位)砲丸投2位・槍投3位
馬首出身、ワット隆子は実姉である。

★山本清
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)50自⑤、200自⑥、200リレー①佐中。800リレー⑤佐中、総合②佐中48
昭13・6・19 第1回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)新潟商業プール
(佐渡中学が第1回大会に優勝。①佐中49②新商39③新潟32④相中22)
100自③、100背⑥、300mメドレーリレー②佐中 4.08.2 、200リレー②佐中 2.04.8、800リレー(佐中 11.05.0)
昭・13・8・5~6 第8回県中等学校水上競技選手権(県中体連・県水上競技連盟)長岡・高鳥プール
(佐渡中・総合1位。3年ぶり2度目の優勝)200リレー①佐中(山本・笠井・土屋・本間)2・00・9新、800リレー②佐中

★山本清
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港の有力な漁業者であった。平成30年12月没、90歳。絵を描くことが趣味であった。

★山本喜和子/span>
「エスライフ」2015年8・9月号
やま山本喜和子 エスライフ2015年8・9月号 1 (1) やま山本喜和子 エスライフ2015年8・9月号 1 (2)

★山本金次
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本金次
やま山本金次 (2)

★山本金蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
やま山本金蔵

★山本國藏
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
や山本國藏

★山本国太郎
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p94

★山本九郎
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
真野新町出身、医学博士。父は漢方医の山本桂、兄弟に山本悌二郎(農林大臣)、有田八郎(外務大臣)、原鉄三郎(王子製紙、朝鮮製紙重役)等が居る。

★山本軍次
令和3年3月没、90歳。相川羽田村。新潟県職員、短歌等文芸を愛し、地元相川の文化人として活躍した

★山本健
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 68祝「佐渡の書」(山本修之助著)出版 81 佐渡と徒然草 85 北一輝の短歌と恋愛 88 異学事始と商人地主 90 郷里※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)相川町石花のこと  94 初期の佐渡文芸 97 北一輝の短歌をめぐって 102 北一輝と養子大輝

★山本研
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)山本研 119 山本成之助と「木石」論争

★山本慊
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)
 119 近代を見た旅日記-明治三年『道中記』九世山本半右衛門(山本慊)- 佐藤利夫
 119 山本半右衛門家 九世山本慊について 『佐渡びとの道中記-山本慊の近代の見聞録-』著者 山本修巳
 120 『佐渡びとの道中記』本間眞珠・本修巳編著 本間 恂一
 122 「ほこり」と「ほゑ」-山本家九世半蔵・慊 手沢本『差分 全』によせて-金子勉 
 122 本間眞珠・山本修巳編著『佐渡びとの道中記-山本慊の近代の見聞録-の刊行にふれて 田中聡
 122 山本半右衛門家九世半蔵・慊の実父 山本修巳

★山本健吉
昭和23年6月、第一回北信越五県選手権大会で棒高跳、三段跳、高跳の三種目で県代表となった。

★山本謙吉
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
やま山本謙吉 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
旧小布勢村(真野)村長、明治三四・三・二六~。

★山本健治
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本健治

★山本健二
やま山本健二 0602月

★山本憲慈
赤玉「文殊院」住職、豊山派佐渡宗務支所支所長等を歴任。昭和22年生、両津高校卒。両津市役所に長く勤務。

★山本堅太郎(陵村)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。

★山本元太郎
『加茂村誌』(昭和38年)
やま山本元太郎

★山本孝策
やま山本孝策
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本孝策

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治四年生 畑野村 ・明3、在京学徒鵜飼を訪問す[二十五年一月二十三日]・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]・大1、第十二回衆議院議員選挙[四年三月二十五日]・大2、第十八回新潟縣会議員選挙[八年九月二十五日]・大2、佐渡経営会[九年二月二十五日]・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]

「山本伝十郎家」


★山本幸作(楚峯)
小木港公園
やま山本楚峯 (1) やま山本楚峯 (2) やま山本楚峯 (3) やま山本楚峯 (4)
小木海潮寺境内
やま山本楚峯 (2) やま山本楚峯 (1)
・小木おけさ会の中心となって活躍し、小木の港公園や海潮寺に「おけさ十六足発祥地」記念碑を自費で建立する。明治33年頃の生まれ。佐和田石田辺の出身で、小木幸町で山本商店(屋号「一山」: いちやま)を経営。業務は小木観光絵葉書や主に観光関係冊子・書籍の出版。また、山本太一作の竹細工(篭や手提げ籠)販売、団体を組んで島外に旅行する観光業等幅広い業務を展開した。令和3年(2021年)現在、山本家は山本照子(昭和12年生)が継ぐ。照子はパーマ屋さん、夫はタクシー運転手だったが死去。幸作長男は東京在、奥様は高津桂家(父は郵便局長)から来る。山本家墓所は海潮寺。
・山本楚峯氏は自腹で観光案内窓口を開設するなど観光に熱心だった。大正時代頃、数ある佐渡おけさ踊りの足の運びが地域等によってまちまちであることに着目。ぶつかりあったりして踊りにくいので、芸能に詳しい知人の協力を得、大正15年(1926)にひと廻りで16足としてまとめた。それを青年団に指導し、やがてそれが島内に広がり、現在まで受け継がれてきた。そして、佐渡おけさの発祥を伝えることが自らの役目だとばかりに、埋め立てたばかりの小木港と海潮寺に石碑を設置した。海潮寺(佐渡市小木30)にあるという碑は確認していないのでどのような文句が刻まれているのかわからないので、なぜ2つの碑にしたのかもわからない。
「佐渡おけさ」は“郡上おどり”“西馬音内(にしもない:秋田県)の盆踊”と並んで“日本三大盆踊り”の一つに数えられ,また日本で 最も知名度の高い民謡の一つである。
・(どこかの本に下記のようにあった)山本楚峯は絵葉書発行や本の出版などを行った山本商店の主人である。
・(氏武談:昭和4年生)山本楚峯さんは、自分よりずっと年上で明治生まれだと思う。羽茂の人で大橋地区に住んでいたと聞いている。
・(田中匠談)公園にあるおけさ16足の碑は元は山本町(現交番辺)にあったものを移転した。山本町は特におけさとは関係がないので、小木ふ頭前の方がよいと言うことになった。
『小木町史』(下)より
戟争が終わると小木の山本太一氏が手提篭を研究し、竹の手提篭時代をつくりました。昭和二十三年に、東京から竹芸家林〇斉(『小木町史』(下)p45)氏を招いて技術講習を受け、置物篭の試作がおこなわれ、新しいデザインで全国に積み出されていきました。全国に佐渡の竹細工が認められる一つのきっかけでした。それには佐渡篭という名がつけられました。大場浩氏の篭の改良と染色、山本幸作氏の改良と全国販売の功積は偉大です。しかし、なにしろ竹細工は時代の寵児です。少し社会が変われば、たちまちいままでのものがすたれます。昭和二十七、八年ころにをると、買物篭の売行きが不振とをりました。新しいビニトルという化学製品の出現が、それまで金属や竹にたよっていた部分を一挙に侵しはじめるのです。木を割り、竹のタガをはめてつくられる桶や樽が、ビニール製の桶にとってかわり、桶屋は廃業に追い込まれ、またたく間に島から消え去ることにをりました。
しかし、小木の竹細工はやめることができません。生活がかかっているからです。対抗する製品が生まれれば、さらに竹でなればできない味わいをもつものが追究されます。そのころから、山本太一氏、大場浩氏、数馬浅治氏などが新製品の試作に全力を挙げました。そして、山本太一氏の試作になる「サービス盆」は、竹製品の将来をうらなうものとして、竹工業界の注目を浴びました。昭和三十年のことです。昭和三十二年、数馬浅治氏が、東京の問屋・日本竹芸株式会社と提携し、千葉の女竹の盆ザルを佐渡竹で編み出しました。さらに数馬氏は、昭和三十四年にあじろ編木の葉型盛器をつくって販売し、新分野を開拓しました。竹製品は、つねに研鎖につぐ研鎖をつまなければならなかったのです。

『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
小木町 ・昭2、佐渡日曜新聞[五年六月三十日]

★山本宏二
佐渡高校時代の平成5.5.29~31、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)男子総合2位、やり投2位
平成5.6.18~20、陸上競技北信越大会(富山市)男子総合6位、やり投出場
平成6.5.28~31、陸上競技県高校総合体育大会(長岡市)、やり投1位(大会新)
平成6.6.17~19、陸上競技北信越大会(長野市)やり投1位
平成6.7.31-8.4、陸上競技全国高校結合体育大会(富山市)やり投に出場
 総合開会式で新潟県選手団旗手をつとめる。
平成6.10.30-11.4、陸上競技国民体育大会(名古屋市)やり投出場

★山本幸蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
やま山本幸蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本幸蔵

★山本弘平
「立浪会35年のあゆみ」(昭和34年)
やま山本弘平 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (1)
やま山本弘平 立浪会35年のあゆみ 昭和34年 (2)

★山本獄記
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p121

★山本吾助
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
やま山本吾助 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)

★山本五之八
「佐渡高等学校百年史」より
佐渡中学の初代門監。中原の人で、相撲取のような体格であったが顔は老年になっても童顔であった。門監は始業五分前になると高らかにラッパを吹き鳴らしたが、この人のラッパの音は金丸の落合橋まで聞こえたという。のち門監をやめて客馬車を営んだが、町の人は「ラッパ屋の爺さん」と親しんだ。(「佐渡高等学校百年史」より)

★山本五平
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
明治三年に山本半蔵・山本五平・山本藤八郎・島倉伊平・中川清三郎の五人が費用を出しあって「学問所」を開設し、のち、明治五年、この「学問所」が政府の許可を得て「新町郷校」と名称を改めた。先生として佐々木俊蔵(辰之助)を雇い、場所は司馬盈之(司馬凌海)旧宅であった。これが、現在の真野小学校のはじめである。この五人の有志たちが「学問所」の先生を迎えるについて、エピソードがある。心当たりを捜していると、たまたま北海道から釆て西三川村大倉谷の佐々木才三郎方に身を寄せていた佐々木俊蔵という人物が学才にたけているということを聞き、評判だけでは真価がわからないというので、新町の漢方医山本桂に大倉谷まで行かせ、人物試験をさせた。先生を迎えるのに人物試験をして迎えるところに、有志たちの意気が感じられる。
「逃亡藩士の郵便局長」(「佐渡の百年」)

★山本五郎右衛門
山本半右衛門家系図(「佐渡郷土文化」136号 山本修巳)
山本半右衛門・五郎右衛門・藤九郎・藤左衛門・藤右衛門家

★山本権吉
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
沢根町 ・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]

★山本権左
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
やま山本権左





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