2021-01-10
★須田?
沢根
★須田勇夫
佐渡高校時代の40.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)上位に入賞 41.7.23~24、水泳全国高校結合体育大会県予選会(柏崎市)自由形400m3位・1500m4位 41.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)400m3位・200m5位
★須田英一
「島の新聞」索引(人名別)
★須田栄次郎
真野大立
★須田嘉助
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★須田樹一
「島の新聞」索引(人名別)
★須田訓雄
「エスライフ」2008年1・2月号
「島の新聞」4号
★須田久美子
両津高校時代の1986年度(S61)11月、第32回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 佳作
★須田玄道
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★須田剋太
はるかな佐渡 須田剋太の旅
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 須田剋太
136 須田剋太をめぐって、船戸安之の水替無宿の詩について 渡辺恭伸 136 須田剋太氏について 山本修巳
★須田五郎左衛門
直前当主
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡人形芝居の祖。佐渡郡新穂村の人である。享保年間(一七一六~三〇年)に京都にのぼって人形芝居を習得して佐渡に伝えた。(概観佐渡)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡の人形芝居は、享保頃(-七二五年頃)新穂村の須田五郎左衛門が京都から習い覚えて釆たのが始まりだというのが通説になっている。そしてそれは説経節にあわせてつかう説経人形で、幕合狂言としてノロマが登場するものだった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐渡への伝来について、野呂松勘兵衛の他にもう一つの説はこうである。享保のころ、新穂村八王子の須田五郎左衛門という者が、友人の潟上の本間某が加賀へ行き宝生流の能太夫となって帰って来たのをうらやみ、自分は京都ヘ上り、落ちぶれた公卿(くげ)から浄瑠璃を習い、人形を買いもとめ、人形の太夫となって帰って来た。これが佐渡の人形芝居のはじまりである。これは、昭和の初年新穂村新穂の高野勘太郎翁から採集した話である。(のち若林東一郎氏ほ「旅と伝説」に発表した)当時、公卿が掾(じょう)名受領のあっせんをしたり、ある時期には太夫号を与えたり、人形屋を紹介した盲はあった(永田衛吉氏)ということである。また、斎藤清二郎氏によると、須田五郎左衛門が持ち帰ったという人形の中で「乳人首(めのとかしら)」が、享保雛に似ていることや、同座所蔵の上演回数の多い台本に上方系統のものが多いことなどをあげて、この伝説もある程度信じてもよいのではないかといっている。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
新穂村青木の人、五郎左衛門人形の創始者。享保年中、この須田五郎左衛門が京都から持ち帰った人形といわれる。この一座は、天明・文化のころは青木の本間市左衛門に、文化・文政ころは青木の本間露仙に、安政ころは下谷塚の計良嘉右衛門らの説経語りに継がれたが、役者の名や一座の組織については判明しない。(仲野篤友氏による)この一座でつかったカシラの一部が現在広栄座で保存されている。
★須田椎美
「島の新聞」索引(人名別)
★須田春治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]・昭4、山本悌二郎 衆議院議員を辞す[十一年十月十四日]
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p150
★須田四郎左衛門(中尾)
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★須田信次
左端:「越・佐傑人譜」(昭和13年)
★須田匠
スポーツ佐渡0603月
★須田帯刀
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★須田敏和
佐渡高校時代の44.6,7~9、柔道県高校総合体育大会(新潟商業高校)団体ベスト8、個人軽量級2位
44.7.20~21、柔道北信越大全(長野工業高校)個人軽量級1位
★須田利克
★須田富守(すだとみもり)
【生没】一六八○ー一七四六 佐渡奉行所地役人。『佐渡名勝志』の編者。先祖は甲州出身で、須田五右衛門といい、武田家の家臣小山田備中守の分家を父とした。武田家の滅亡後、長男六左衛門は甲府綱重に仕官したが、二男の権右衛門、三男の伊兵衛(のち六右衛門)の二人が佐渡へ渡り、六右衛門は元和四年(一六一八)に地役人に召抱えられた。富守はその三代目で、宝永元年(一七○四)に跡を継いで六右衛門を襲名する。正徳三年(一七一三)に目付役となり、享保五年(一七二○)には山方役。その後吟味役・地方役・町方役を経て、延享三年五月十日、六七歳で没した。号は含章軒または行文斉。たまたま来島した伊東玄基(号素月堂風狂子)に、それまで集めていた諸家の記録や家蔵史料を示して、『佐渡名勝志』八巻を編述させたことで、後世にその名が残った。延享元年(一七四四)六五歳のときである。これより前の享保七年(一七二二)四月、本間四郎右衛門とともに、上納金銀を宰領して江戸へ登り、約一年間滞在して翌年に帰った。この御金荷輸送旅行の一部始終を、日記ふうに記した「江戸日記」一巻を残している。道中の宿場や人馬の継立のようすがわかり、輸送日記としては、これまでになく詳細をきわめたもので、史料価値が高い。富守の墓は、下山ノ神町の日蓮宗・法泉寺に残る。【関連】佐渡名勝志(さどめいしょうし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡名勝志(さどめいしょうし)
佐渡の代表的歴史書。本書は、佐渡奉行所地役人須田富守が、三○年にわたり収集・整理した史料の一切を、上総国土気庄大木戸村(現千葉市)出身の浪人伊玄基隆敬に託し、隆敬はこれを基に、奉行所の文書・記録等を加えて全八巻に編述して、延享元年(一七四四)に完成されたものである。内容は、地誌・沿革・支配・系譜・寺社・合戦・流人・名所旧跡・産物など多岐に及び、奉行所所在地の相川町に関しては、特に一巻を充てて詳述している。史書として「史論が豊富・斬新なこと、出典が明示されていること、日蓮旧跡への優れた記述等を持つ、古今唯一の存在」(橘法老)との評価を得ている。長年の間、写本しか存在しないものとされていたが、平成八年七月に原本が発見され、現在は新潟県立佐渡高等学校同窓会の所蔵となっている。写本は、山本本(山本修巳所蔵)・舟崎本(佐渡高等学校所蔵「舟崎文庫」)・教育財団本(相川町所蔵)の三本があり、教育財団本を底本に『附註佐渡名勝志』(橘法老編・昭和十四年刊行)が印行されている。平成九年七月佐渡高等学校同窓会は、新たに発見された原本を底本に、橘法老の注を適宜再録して『佐渡名勝志』を発刊した。【関連】須田富守(すだとみもり) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★須田中夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)須田中夫 77 朱鷺と人間と -保護活動四十年の軌跡- 須田中夫著
★須田ハル子
★須田秀太郎(すだひでたろう)
【生没】一八四○ー(没年不詳) 天保十一年六月十四日、地役人須田両右衛門(守文)の長男として生まれる。名は守約、通称秀太郎といった。嘉永元年(一八四八)学問所見習として出仕、その後御雑蔵役・銀山御番所役などを勤めて、慶応四年には中山修輔の結成した迅雷隊に加盟した。維新後も鉱山司や工部省に出仕し、金坑掛・金坑取調掛などを勤めていたが、明治十一年九月新潟県から地租改正係を拝命、翌十二年には、地租改正事業勉励によって下賜金を贈られている。同十二年一月相川支庁に雇われて、大工町の師範学校仮伝修所事務掛を拝命、翌十三年三月には、広間町外一六ケ町組合町会議員に当選している。同年六月佐渡三郡役所に雇われて、コレラ予防・徴兵事務などを担当し、同二十年三月には、羽茂郡村山村外四ケ村戸長を拝命したが、同二十四年十月、上京して長男信次と同居した。【関連】迅雷隊(じんらいたい)・師範相川伝修所(しはんあいかわでんしゅうしょ) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「須田家文書」 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★須田秀伸
佐渡高校時代の昭和47.6.13-14 、卓球県高校結合体育大会(新潟市)男子個人3位 47.6.24~25、卓球北信越高校大会(柏崎工業高校)出場 47.8.7-12、卓球 全国高校結合体育大会(山形県)出場 47.12 、卓球47年度県高校ランキング4位
★須田博美
両津高校時代の1986年度(S61)11月、名作読後感想文全国コンクール(旺文社主催)佳作・旺文社社長賞
★須田甫吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★須田守文
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称秀太郎、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★須藤圓位
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
★須藤久美子
★須藤賢阿
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
★須藤健一(すどうけんいち)
「ウイキペディア」より
高名な民族学者。両津椎泊出身で1945年生まれ。両津東中(1回生)-佐渡高校卒。須藤苗字は、南北朝時代に難を逃れて佐渡椎泊に渡った兄弟の苗字である。兄の方は願誓寺の須藤家で、須藤健一先生は分家筋。なお、母校の東中学校が修学旅行で関西に行く時、国立民族学博物館を訪問し、大先輩である館長から直接説明を受ける。
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「ウィキペディア」より
1946年生~。日本の文化人類学者である。新潟県佐渡市出身。国立民族学博物館館長。
(略歴): 1965年 新潟県立佐渡高等学校卒業
1969年 埼玉大学教養学部卒業
1975年 東京都立大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得退学
1975年 国立民族学博物館第4研究部助手
1986年 国立民族学博物館第1研究部助教授、「ミクロネシアの親族組織と土地所有-母系制社会の構造と変化」により都立大学文学博士。
1991年 総合研究大学院大学文化科学研究科助教授(併任)
1993年 神戸大学国際文化学部教授
2009年 国立民族学博物館館長
(単著): 『母系社会の構造 サンゴ礁の島々の民族誌』紀伊国屋書店 1989年
『オセアニアの人類学 海外移住・民主化・伝統の政治』風響社 2008年
(論文): 「家族ネットワークに依存するMIRAB社会」、青木保他編『岩波文化人類学講座4 個からする社会展望』、岩波書店、1997年
「ミクロネシア史」、山本真鳥編『オセアニア史』、山川出版社、2000年
『オセアニアの国家統合と国民文化』(編著)、JCAS連携研究成果報告2号、国立民族博物館地域研究企画交流センターpp.264, 2000年
「コンセンサス形成論」、『アジア・太平洋の環境・開発・文化』、日本学術振興会未来開拓学術推進事業「アジアの環境保全」ニューズレターNo.1,pp.43-52, 2000年
「母系社会の男と女」、『創造の世界』、108号、講談社、pp.60-85, 1999年
「性文化と身体」、野村雅一他編『叢書身体と文化1 ―技術としての身体』、大修館書店、pp.375-396、1999年
「人と政治を動かすヤップの土地制度」、杉島敬志編『土地所有の政治史』、風響社、pp.299-320、1999年
「ヤップの離島支配」、秋道智彌編『海人の世界』、同文館、pp.197-217、1998年
"Rank hierarchy and routes of migration : Chieftainship in the Central Caroline Islands of Micronesia" , in J.J. Fox and G.sather (eds), Origins Ancestry and Alliance, Australian National University, pp.55-69,1996
「母系社会の離婚と共同体」、『イマーゴ』、現代思想社、5巻6号、pp.55-69 1994年
「首長がコントロールする国家」、清水昭俊他編『オセアニア3 ―近代に生きる』、東京大学出版会、pp.171-185、1993年
「星と波と風と ―ミクロネシアの伝統的航海術」、『現代のエスプリ ―エコロジカル・マインド』、298号、至文堂、pp.93-109, 1992年
"Present condition of fisheries in the Kingdom of Tonga" , Report on a Technical and Socio-Economic Baseline Study for Fisheries Development in Oceania, JICA, pp.143-193,1992
(編著・共編著)
『オセアニアと公共圏―フィールドワークからみた重層性』柄木田康之共編、昭和堂、2013年
『グローカリゼーションとオセアニアの人類学』(編著)、風饗社、2012年
『世界民族事典』綾部恒雄監修、弘文堂、(編著)、2000年
「オセアニアにおける植民地統治と島嶼民の歴史経験に関する人類学的研究」、平成8年度~平成10年度科学研究費補助金・国際学術研究・成果報告書、1999年
"Contemporary migration in Oceania : Diaspora and network" , (eds),JCAS Symposium Series No.3,National Museum of Ethnology , pp.198, 1997
『フィールドワークを歩く-文科系研究者の知識と経験』(編著)嵯峨野書院、1996年
『オセアニア2 ―伝統に生きる』(編著)、東京大学出版会、1993年
『性の民族誌』杉島敬志共編、人文書院、1993年
・共著: 『性と出会う』松園万亀雄責任編集、栗田博之、山極寿一、菅原和孝、棚橋訓共著、講談社、1996年
『サタワル語辞典』石森秀三、秋道智彌共著、未出版
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1946- 昭和後期-平成時代の文化人類学者,民俗学者。 昭和21年1月生まれ。都立大(現首都大学東京)大学院でまなび,国立民族学博物館助手となる。昭和60年渋沢敬三賞。のち同博物館助教授をへて,平成5年神戸大教授。平成21年国立民族学博物館長に就任。新潟県出身。埼玉大卒。著作に「母系社会の構造 サンゴ礁の島々の民族誌」「オセアニアの人類学 海外移住・民主化・伝統の政治」など。
日報 h27.12.10
(須藤健一)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「17号」(平成21年4月)須藤健一氏が国立民族学博物館館長に-高校三年生還暦過ぎて-
「島の新聞」索引(人名別)
★須藤賢興
明治期の郡長で、魚類の養殖運動等に積極的に関わる。自らも国府川に鰻を放流する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保四年 生 郡長 ・明2、海底電線[二十三年四月]・明2、相川の米騒動[二十三年六月二十九日]
★須藤鍠太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★須藤周恵
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より
★須藤順子
佐渡高校時代の昭和39,10、全国学生選書展特選
★須藤法子
両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、板野富代、池ひろ子)
★須藤茂三郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久元年生 河崎村椎泊、農業 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★須藤由彦
(有)浦島 代表取締役社長 (株)環境保全事業 代表取締役社長 NPO法人環境国際総合機構 理事 日本資源再生事業振興協同組合 理事 (株)SKK 役員(環境設備販売会社) (株)オズテクノロジージャパン 役員(炭化水素冷媒) 社団法人循環社会研究会 理事 「伝統文化と社会福祉の専門学校」(自然環境保全学科講師)
「島の新聞」索引(人名別)
★須藤與作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★須藤律子
両津高校時代の1967年度(S42)11月、全日本書道展(大東文化大学主催)特選 、 1969年度(S44)6月、第22回新潟県高等学校総合体育大会剣道個人2位 、第7回北信越高校大会剣道 個人 須藤律子 出場、 8月、第16回全国高等学校剣道選手権大会(千葉県立館山高校)個人 四回戦を勝ち抜き、準々決勝敗退
★角南国寛(すなみくにひろ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行。宝暦三年(一七五二年)十二月二十三日から五年四月二十九日までの期間の在任で佐渡で五十四才の一生を終わった。
蒔田広蕃の二男で角南国通の養子となった。はじめ重頼といった。十六才で家を継ぎ、小普請となり享保十六年(一七三一年)三月御書院番、十七年十二月御納戸に移った。
寛延二年(一七四九年)八月に西城御目付となり、宝暦元年(一七五一年)八月御目付となった。(大日本人名辞書)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川石拓町の要五郎の妻である。夫の死後、奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川三丁目浜町の人である。親によく仕えたので、享和二年(一八〇二年)役所から老父母生存中手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川坂町の人である。親に仕えて孝心が深いので、享和二年(一八〇二年)役所から老父母存命中手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★隅田和昌
佐渡高校時代の昭和57.6、陸上競技県高校選抜大会110mH1位 58.5.29-31、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)110mHl位・5種競技1位 58.6.17~19、陸上競技北信越大会(富山市)隅田和昌110mH・五種競技出場 59.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)110mHl位・5種競技2位 59.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)110mH7位
★隅田三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★隅田敏明
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
柔道7段。二宮村上矢馳、佐渡中学昭・6卒。日本体操学校卒、佐渡高校在職、昭・29一昭・57年。選手強化のため講道館より永岡10段・醍醐9段等名士を招き、また大学選手を学校生徒と稽古させ、中央の高度な柔道指導に力を入れた。戦後佐渡高校はぐんぐん成績を上げ県優勝2回、準優勝その他入賞の数々の成果を収めた。柔道三兄弟で、弟に光春(本間)6段、文夫4段。
★角田七名雄
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★隅田實
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★角倉素庵
松前神社・三十六歌仙 060402
★炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)
【生没】生・没年不詳
『佐渡奇談』に「炭焼藤五郎が事」という項がある。慶長以前の下相川村に、炭焼きを渡世とする藤五郎という者がいて、親孝行で正直者で、貧しい者を憐れみ人望があった。慶長以後に相川に人が多く集まった時にも、人は藤五郎の家の近くに住む者が多く、「愛敬する事恰も父母の如く」であったという。藤五郎の死後、人々は神に祀ってこれを「藤五郎権現」と呼んだ。春秋二度の祭りを行ない、旱ばつに雨を祈り、霖雨に晴を祈り、流行りの病あれば必ず祈願を乞うたが、「其感応響の声に随うが如し」であったという。ところが延宝三年(一六七五)に神道家の橘三喜が、宗源神道五十七伝と唱えて来島したとき、島内の多くの者が門人となって教えを乞うた。三喜は「気に乗じて無稽の説を語り」などして、藤五郎権現の名が賎しいので変えたいと申し出たとき、三喜がいう通り「戸川大権現」と神名を改めた上社殿の改築を行なった。其の後は何を祈っても聞きとどけられなくなり、いきおい人々の尊敬心も薄らいで、ただ春秋の遊山のときに酒を酌む所となってしまったというものである。『佐渡人名辞書』には「永享三年の頃、駿河国の住人戸川の大臣元耀当国に渡り卒去す、藤五郎は其家臣にて云々」とある。【関連】戸河神社(とがわじんじゃ)【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※戸河神社(とがわじんじゃ)
炭焼長者の伝説は中世に始まって、全国各地に同じような話として分布している。佐渡では、長者の名は戸川藤五郎と呼ばれて、下相川富崎の戸河神社に、祭神として祀られている。全国的な炭焼伝説の多くは、黄金の発見と結びついていて、この相川の戸川藤五郎にも、その痕跡がみられる。『佐渡神社誌』が伝える藤五郎の人物像によると、永禄の頃(一五五八~六九)に駿河から来て、下相川の日蓮宗寺院本光寺境内に住んだとある。さらに没年は、元亀中(一五七○~七二)という。これは相川の市街地形成や、金銀山開発の年代からみて、かなり早い時機なので、直接に黄金発見の文字はなくても、薪炭の役割りからいって、鉱山を対象として伝えられていることは疑いない。本光寺(寺社帳では本興寺)の山号は戸川山であり、駿河国富士郡の本門寺末とあるので、詳細に調べていけば伝承と史実の境目が、しだいに明らかにされていくであろう。戸河神社の合祀社に、須勢理姫命を祀る百足山神社がある。ムカデは鉱脈の象徴でもあり、山之神の大山祗社ともかかわっている。『民俗学辞典』(東京堂刊)では、炭焼長者伝説は、もと鋳物師の仲間が運搬したものらしいと推定している。例祭日は六月十五日。【関連】炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)【参考文献】柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』所収)、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★住吉善吉
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★駿河章雄
実弟は俳人の赤塚五行(本名 旧姓 駿河守)。
「新潟日報」平成27年3月
★駿河一
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★すわ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国湊町(両津市)の寡婦である。主家に仕えて忠心を尽くしたので、文政六年(一八二三年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★諏方の一(小池庄右衛門)
『加茂村誌』(昭和38年)
★諏訪野力蔵都迢(くにとう)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷寺田茂助、鍛冶秘一軸(明治二年二月) 弘化元年十二月二十五日生、大正十二年十二月十五日没。
沢根
★須田勇夫
佐渡高校時代の40.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)上位に入賞 41.7.23~24、水泳全国高校結合体育大会県予選会(柏崎市)自由形400m3位・1500m4位 41.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)400m3位・200m5位
★須田英一
「島の新聞」索引(人名別)
★須田栄次郎
真野大立
★須田嘉助
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030082.html?p=16
★須田樹一
「島の新聞」索引(人名別)
★須田訓雄
「エスライフ」2008年1・2月号
「島の新聞」4号
★須田久美子
両津高校時代の1986年度(S61)11月、第32回青少年読書感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞社主催) 佳作
★須田玄道
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★須田剋太
はるかな佐渡 須田剋太の旅
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号) 須田剋太
136 須田剋太をめぐって、船戸安之の水替無宿の詩について 渡辺恭伸 136 須田剋太氏について 山本修巳
★須田五郎左衛門
直前当主
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡人形芝居の祖。佐渡郡新穂村の人である。享保年間(一七一六~三〇年)に京都にのぼって人形芝居を習得して佐渡に伝えた。(概観佐渡)
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
佐渡の人形芝居は、享保頃(-七二五年頃)新穂村の須田五郎左衛門が京都から習い覚えて釆たのが始まりだというのが通説になっている。そしてそれは説経節にあわせてつかう説経人形で、幕合狂言としてノロマが登場するものだった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐渡への伝来について、野呂松勘兵衛の他にもう一つの説はこうである。享保のころ、新穂村八王子の須田五郎左衛門という者が、友人の潟上の本間某が加賀へ行き宝生流の能太夫となって帰って来たのをうらやみ、自分は京都ヘ上り、落ちぶれた公卿(くげ)から浄瑠璃を習い、人形を買いもとめ、人形の太夫となって帰って来た。これが佐渡の人形芝居のはじまりである。これは、昭和の初年新穂村新穂の高野勘太郎翁から採集した話である。(のち若林東一郎氏ほ「旅と伝説」に発表した)当時、公卿が掾(じょう)名受領のあっせんをしたり、ある時期には太夫号を与えたり、人形屋を紹介した盲はあった(永田衛吉氏)ということである。また、斎藤清二郎氏によると、須田五郎左衛門が持ち帰ったという人形の中で「乳人首(めのとかしら)」が、享保雛に似ていることや、同座所蔵の上演回数の多い台本に上方系統のものが多いことなどをあげて、この伝説もある程度信じてもよいのではないかといっている。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
新穂村青木の人、五郎左衛門人形の創始者。享保年中、この須田五郎左衛門が京都から持ち帰った人形といわれる。この一座は、天明・文化のころは青木の本間市左衛門に、文化・文政ころは青木の本間露仙に、安政ころは下谷塚の計良嘉右衛門らの説経語りに継がれたが、役者の名や一座の組織については判明しない。(仲野篤友氏による)この一座でつかったカシラの一部が現在広栄座で保存されている。
★須田椎美
「島の新聞」索引(人名別)
★須田春治
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭3、第二十二回新潟縣会議員選挙[十年九月二十五日]・昭4、山本悌二郎 衆議院議員を辞す[十一年十月十四日]
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p150
★須田四郎左衛門(中尾)
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★須田信次
左端:「越・佐傑人譜」(昭和13年)
★須田匠
スポーツ佐渡0603月
★須田帯刀
『新穂村史』(昭和51年)より
長畝の池田元右衛門家ほ四つ目菱の紋をもって昔から東光院の重檀家をやっていたという。四ツ目の紋というのは本間家のわかれをいうのが一般であるから、村殿は本間氏を名乗ったのかもしれない。昔から長畝殿の三家老として林平右衛門、須田四郎左衛門(中尾)、須田帯刀の三人が挙げられている。
★須田敏和
佐渡高校時代の44.6,7~9、柔道県高校総合体育大会(新潟商業高校)団体ベスト8、個人軽量級2位
44.7.20~21、柔道北信越大全(長野工業高校)個人軽量級1位
★須田利克
★須田富守(すだとみもり)
【生没】一六八○ー一七四六 佐渡奉行所地役人。『佐渡名勝志』の編者。先祖は甲州出身で、須田五右衛門といい、武田家の家臣小山田備中守の分家を父とした。武田家の滅亡後、長男六左衛門は甲府綱重に仕官したが、二男の権右衛門、三男の伊兵衛(のち六右衛門)の二人が佐渡へ渡り、六右衛門は元和四年(一六一八)に地役人に召抱えられた。富守はその三代目で、宝永元年(一七○四)に跡を継いで六右衛門を襲名する。正徳三年(一七一三)に目付役となり、享保五年(一七二○)には山方役。その後吟味役・地方役・町方役を経て、延享三年五月十日、六七歳で没した。号は含章軒または行文斉。たまたま来島した伊東玄基(号素月堂風狂子)に、それまで集めていた諸家の記録や家蔵史料を示して、『佐渡名勝志』八巻を編述させたことで、後世にその名が残った。延享元年(一七四四)六五歳のときである。これより前の享保七年(一七二二)四月、本間四郎右衛門とともに、上納金銀を宰領して江戸へ登り、約一年間滞在して翌年に帰った。この御金荷輸送旅行の一部始終を、日記ふうに記した「江戸日記」一巻を残している。道中の宿場や人馬の継立のようすがわかり、輸送日記としては、これまでになく詳細をきわめたもので、史料価値が高い。富守の墓は、下山ノ神町の日蓮宗・法泉寺に残る。【関連】佐渡名勝志(さどめいしょうし) 【執筆者】本間寅雄 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※佐渡名勝志(さどめいしょうし)
佐渡の代表的歴史書。本書は、佐渡奉行所地役人須田富守が、三○年にわたり収集・整理した史料の一切を、上総国土気庄大木戸村(現千葉市)出身の浪人伊玄基隆敬に託し、隆敬はこれを基に、奉行所の文書・記録等を加えて全八巻に編述して、延享元年(一七四四)に完成されたものである。内容は、地誌・沿革・支配・系譜・寺社・合戦・流人・名所旧跡・産物など多岐に及び、奉行所所在地の相川町に関しては、特に一巻を充てて詳述している。史書として「史論が豊富・斬新なこと、出典が明示されていること、日蓮旧跡への優れた記述等を持つ、古今唯一の存在」(橘法老)との評価を得ている。長年の間、写本しか存在しないものとされていたが、平成八年七月に原本が発見され、現在は新潟県立佐渡高等学校同窓会の所蔵となっている。写本は、山本本(山本修巳所蔵)・舟崎本(佐渡高等学校所蔵「舟崎文庫」)・教育財団本(相川町所蔵)の三本があり、教育財団本を底本に『附註佐渡名勝志』(橘法老編・昭和十四年刊行)が印行されている。平成九年七月佐渡高等学校同窓会は、新たに発見された原本を底本に、橘法老の注を適宜再録して『佐渡名勝志』を発刊した。【関連】須田富守(すだとみもり) 【執筆者】本間恂一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★須田中夫
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)須田中夫 77 朱鷺と人間と -保護活動四十年の軌跡- 須田中夫著
★須田ハル子
★須田秀太郎(すだひでたろう)
【生没】一八四○ー(没年不詳) 天保十一年六月十四日、地役人須田両右衛門(守文)の長男として生まれる。名は守約、通称秀太郎といった。嘉永元年(一八四八)学問所見習として出仕、その後御雑蔵役・銀山御番所役などを勤めて、慶応四年には中山修輔の結成した迅雷隊に加盟した。維新後も鉱山司や工部省に出仕し、金坑掛・金坑取調掛などを勤めていたが、明治十一年九月新潟県から地租改正係を拝命、翌十二年には、地租改正事業勉励によって下賜金を贈られている。同十二年一月相川支庁に雇われて、大工町の師範学校仮伝修所事務掛を拝命、翌十三年三月には、広間町外一六ケ町組合町会議員に当選している。同年六月佐渡三郡役所に雇われて、コレラ予防・徴兵事務などを担当し、同二十年三月には、羽茂郡村山村外四ケ村戸長を拝命したが、同二十四年十月、上京して長男信次と同居した。【関連】迅雷隊(じんらいたい)・師範相川伝修所(しはんあいかわでんしゅうしょ) 【参考文献】『佐渡相川の歴史』(通史編 近・現代)、「須田家文書」 【執筆者】石瀬佳弘 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★須田秀伸
佐渡高校時代の昭和47.6.13-14 、卓球県高校結合体育大会(新潟市)男子個人3位 47.6.24~25、卓球北信越高校大会(柏崎工業高校)出場 47.8.7-12、卓球 全国高校結合体育大会(山形県)出場 47.12 、卓球47年度県高校ランキング4位
★須田博美
両津高校時代の1986年度(S61)11月、名作読後感想文全国コンクール(旺文社主催)佳作・旺文社社長賞
★須田甫吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
★須田守文
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡相川の人で通称秀太郎、和歌をよくした。(佐渡人名辞書)
★須藤圓位
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
★須藤久美子
★須藤賢阿
『両津市文化財調査報告書』第2集(1970-1992)
★須藤健一(すどうけんいち)
「ウイキペディア」より
高名な民族学者。両津椎泊出身で1945年生まれ。両津東中(1回生)-佐渡高校卒。須藤苗字は、南北朝時代に難を逃れて佐渡椎泊に渡った兄弟の苗字である。兄の方は願誓寺の須藤家で、須藤健一先生は分家筋。なお、母校の東中学校が修学旅行で関西に行く時、国立民族学博物館を訪問し、大先輩である館長から直接説明を受ける。
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「ウィキペディア」より
1946年生~。日本の文化人類学者である。新潟県佐渡市出身。国立民族学博物館館長。
(略歴): 1965年 新潟県立佐渡高等学校卒業
1969年 埼玉大学教養学部卒業
1975年 東京都立大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得退学
1975年 国立民族学博物館第4研究部助手
1986年 国立民族学博物館第1研究部助教授、「ミクロネシアの親族組織と土地所有-母系制社会の構造と変化」により都立大学文学博士。
1991年 総合研究大学院大学文化科学研究科助教授(併任)
1993年 神戸大学国際文化学部教授
2009年 国立民族学博物館館長
(単著): 『母系社会の構造 サンゴ礁の島々の民族誌』紀伊国屋書店 1989年
『オセアニアの人類学 海外移住・民主化・伝統の政治』風響社 2008年
(論文): 「家族ネットワークに依存するMIRAB社会」、青木保他編『岩波文化人類学講座4 個からする社会展望』、岩波書店、1997年
「ミクロネシア史」、山本真鳥編『オセアニア史』、山川出版社、2000年
『オセアニアの国家統合と国民文化』(編著)、JCAS連携研究成果報告2号、国立民族博物館地域研究企画交流センターpp.264, 2000年
「コンセンサス形成論」、『アジア・太平洋の環境・開発・文化』、日本学術振興会未来開拓学術推進事業「アジアの環境保全」ニューズレターNo.1,pp.43-52, 2000年
「母系社会の男と女」、『創造の世界』、108号、講談社、pp.60-85, 1999年
「性文化と身体」、野村雅一他編『叢書身体と文化1 ―技術としての身体』、大修館書店、pp.375-396、1999年
「人と政治を動かすヤップの土地制度」、杉島敬志編『土地所有の政治史』、風響社、pp.299-320、1999年
「ヤップの離島支配」、秋道智彌編『海人の世界』、同文館、pp.197-217、1998年
"Rank hierarchy and routes of migration : Chieftainship in the Central Caroline Islands of Micronesia" , in J.J. Fox and G.sather (eds), Origins Ancestry and Alliance, Australian National University, pp.55-69,1996
「母系社会の離婚と共同体」、『イマーゴ』、現代思想社、5巻6号、pp.55-69 1994年
「首長がコントロールする国家」、清水昭俊他編『オセアニア3 ―近代に生きる』、東京大学出版会、pp.171-185、1993年
「星と波と風と ―ミクロネシアの伝統的航海術」、『現代のエスプリ ―エコロジカル・マインド』、298号、至文堂、pp.93-109, 1992年
"Present condition of fisheries in the Kingdom of Tonga" , Report on a Technical and Socio-Economic Baseline Study for Fisheries Development in Oceania, JICA, pp.143-193,1992
(編著・共編著)
『オセアニアと公共圏―フィールドワークからみた重層性』柄木田康之共編、昭和堂、2013年
『グローカリゼーションとオセアニアの人類学』(編著)、風饗社、2012年
『世界民族事典』綾部恒雄監修、弘文堂、(編著)、2000年
「オセアニアにおける植民地統治と島嶼民の歴史経験に関する人類学的研究」、平成8年度~平成10年度科学研究費補助金・国際学術研究・成果報告書、1999年
"Contemporary migration in Oceania : Diaspora and network" , (eds),JCAS Symposium Series No.3,National Museum of Ethnology , pp.198, 1997
『フィールドワークを歩く-文科系研究者の知識と経験』(編著)嵯峨野書院、1996年
『オセアニア2 ―伝統に生きる』(編著)、東京大学出版会、1993年
『性の民族誌』杉島敬志共編、人文書院、1993年
・共著: 『性と出会う』松園万亀雄責任編集、栗田博之、山極寿一、菅原和孝、棚橋訓共著、講談社、1996年
『サタワル語辞典』石森秀三、秋道智彌共著、未出版
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「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説.
1946- 昭和後期-平成時代の文化人類学者,民俗学者。 昭和21年1月生まれ。都立大(現首都大学東京)大学院でまなび,国立民族学博物館助手となる。昭和60年渋沢敬三賞。のち同博物館助教授をへて,平成5年神戸大教授。平成21年国立民族学博物館長に就任。新潟県出身。埼玉大卒。著作に「母系社会の構造 サンゴ礁の島々の民族誌」「オセアニアの人類学 海外移住・民主化・伝統の政治」など。
日報 h27.12.10
(須藤健一)
※「佐渡ジャーナル」関係記事:「17号」(平成21年4月)須藤健一氏が国立民族学博物館館長に-高校三年生還暦過ぎて-
「島の新聞」索引(人名別)
★須藤賢興
明治期の郡長で、魚類の養殖運動等に積極的に関わる。自らも国府川に鰻を放流する。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
天保四年 生 郡長 ・明2、海底電線[二十三年四月]・明2、相川の米騒動[二十三年六月二十九日]
★須藤鍠太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
★須藤周恵
『金井を創った百人』(「明治・大正の開業医たち」)(金井町 平成12年)より
★須藤順子
佐渡高校時代の昭和39,10、全国学生選書展特選
★須藤法子
両津高校時代のS4l、全国選手権ボート部女子ナックル6位(山口茂子、滝本幸子、須藤法子、板野富代、池ひろ子)
★須藤茂三郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
文久元年生 河崎村椎泊、農業 ・明4、第四回佐渡郡会議員選挙[三十六年九月三十日]・大3、政友会新潟縣支部大会[十二年十月十七日]・大3、第十五回総選挙[十三年五月十日]・大4、政友倶楽部の秋季総會[十五年十月十一日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★須藤由彦
(有)浦島 代表取締役社長 (株)環境保全事業 代表取締役社長 NPO法人環境国際総合機構 理事 日本資源再生事業振興協同組合 理事 (株)SKK 役員(環境設備販売会社) (株)オズテクノロジージャパン 役員(炭化水素冷媒) 社団法人循環社会研究会 理事 「伝統文化と社会福祉の専門学校」(自然環境保全学科講師)
「島の新聞」索引(人名別)
★須藤與作
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★須藤律子
両津高校時代の1967年度(S42)11月、全日本書道展(大東文化大学主催)特選 、 1969年度(S44)6月、第22回新潟県高等学校総合体育大会剣道個人2位 、第7回北信越高校大会剣道 個人 須藤律子 出場、 8月、第16回全国高等学校剣道選手権大会(千葉県立館山高校)個人 四回戦を勝ち抜き、準々決勝敗退
★角南国寛(すなみくにひろ)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行。宝暦三年(一七五二年)十二月二十三日から五年四月二十九日までの期間の在任で佐渡で五十四才の一生を終わった。
蒔田広蕃の二男で角南国通の養子となった。はじめ重頼といった。十六才で家を継ぎ、小普請となり享保十六年(一七三一年)三月御書院番、十七年十二月御納戸に移った。
寛延二年(一七四九年)八月に西城御目付となり、宝暦元年(一七五一年)八月御目付となった。(大日本人名辞書)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国相川石拓町の要五郎の妻である。夫の死後、奇特の趣相聞につき、文政十三年(一八三〇年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて褒賞された。(佐渡年代記中巻)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川三丁目浜町の人である。親によく仕えたので、享和二年(一八〇二年)役所から老父母生存中手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★すへ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
佐渡国相川坂町の人である。親に仕えて孝心が深いので、享和二年(一八〇二年)役所から老父母存命中手当を与えられることとなった。(佐渡年代記中巻)
★隅田和昌
佐渡高校時代の昭和57.6、陸上競技県高校選抜大会110mH1位 58.5.29-31、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)110mHl位・5種競技1位 58.6.17~19、陸上競技北信越大会(富山市)隅田和昌110mH・五種競技出場 59.6.2~4、陸上競技県高校総合体育大会(柏崎市)110mHl位・5種競技2位 59.6.18~20、陸上競技北信越大会(金沢市)110mH7位
★隅田三郎
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★隅田敏明
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
柔道7段。二宮村上矢馳、佐渡中学昭・6卒。日本体操学校卒、佐渡高校在職、昭・29一昭・57年。選手強化のため講道館より永岡10段・醍醐9段等名士を招き、また大学選手を学校生徒と稽古させ、中央の高度な柔道指導に力を入れた。戦後佐渡高校はぐんぐん成績を上げ県優勝2回、準優勝その他入賞の数々の成果を収めた。柔道三兄弟で、弟に光春(本間)6段、文夫4段。
★角田七名雄
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★隅田實
『佐渡国泉の人物誌』(h29年11月)
★角倉素庵
松前神社・三十六歌仙 060402
★炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)
【生没】生・没年不詳
『佐渡奇談』に「炭焼藤五郎が事」という項がある。慶長以前の下相川村に、炭焼きを渡世とする藤五郎という者がいて、親孝行で正直者で、貧しい者を憐れみ人望があった。慶長以後に相川に人が多く集まった時にも、人は藤五郎の家の近くに住む者が多く、「愛敬する事恰も父母の如く」であったという。藤五郎の死後、人々は神に祀ってこれを「藤五郎権現」と呼んだ。春秋二度の祭りを行ない、旱ばつに雨を祈り、霖雨に晴を祈り、流行りの病あれば必ず祈願を乞うたが、「其感応響の声に随うが如し」であったという。ところが延宝三年(一六七五)に神道家の橘三喜が、宗源神道五十七伝と唱えて来島したとき、島内の多くの者が門人となって教えを乞うた。三喜は「気に乗じて無稽の説を語り」などして、藤五郎権現の名が賎しいので変えたいと申し出たとき、三喜がいう通り「戸川大権現」と神名を改めた上社殿の改築を行なった。其の後は何を祈っても聞きとどけられなくなり、いきおい人々の尊敬心も薄らいで、ただ春秋の遊山のときに酒を酌む所となってしまったというものである。『佐渡人名辞書』には「永享三年の頃、駿河国の住人戸川の大臣元耀当国に渡り卒去す、藤五郎は其家臣にて云々」とある。【関連】戸河神社(とがわじんじゃ)【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
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※戸河神社(とがわじんじゃ)
炭焼長者の伝説は中世に始まって、全国各地に同じような話として分布している。佐渡では、長者の名は戸川藤五郎と呼ばれて、下相川富崎の戸河神社に、祭神として祀られている。全国的な炭焼伝説の多くは、黄金の発見と結びついていて、この相川の戸川藤五郎にも、その痕跡がみられる。『佐渡神社誌』が伝える藤五郎の人物像によると、永禄の頃(一五五八~六九)に駿河から来て、下相川の日蓮宗寺院本光寺境内に住んだとある。さらに没年は、元亀中(一五七○~七二)という。これは相川の市街地形成や、金銀山開発の年代からみて、かなり早い時機なので、直接に黄金発見の文字はなくても、薪炭の役割りからいって、鉱山を対象として伝えられていることは疑いない。本光寺(寺社帳では本興寺)の山号は戸川山であり、駿河国富士郡の本門寺末とあるので、詳細に調べていけば伝承と史実の境目が、しだいに明らかにされていくであろう。戸河神社の合祀社に、須勢理姫命を祀る百足山神社がある。ムカデは鉱脈の象徴でもあり、山之神の大山祗社ともかかわっている。『民俗学辞典』(東京堂刊)では、炭焼長者伝説は、もと鋳物師の仲間が運搬したものらしいと推定している。例祭日は六月十五日。【関連】炭焼藤五郎(すみやきとうごろう)【参考文献】柳田国男「炭焼小五郎が事」(『海南小記』所収)、『佐渡神社誌』(県神職会佐渡支部)【執筆者】本間雅彦(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
★住吉善吉
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。不詳。
★駿河章雄
実弟は俳人の赤塚五行(本名 旧姓 駿河守)。
「新潟日報」平成27年3月
★駿河一
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50036063.html?p=4
★すわ
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
善行者。佐渡国湊町(両津市)の寡婦である。主家に仕えて忠心を尽くしたので、文政六年(一八二三年)に役所へ呼出され、鳥目を与えられて賞された。(佐渡年代記中巻)
★諏方の一(小池庄右衛門)
『加茂村誌』(昭和38年)
★諏訪野力蔵都迢(くにとう)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷寺田茂助、鍛冶秘一軸(明治二年二月) 弘化元年十二月二十五日生、大正十二年十二月十五日没。
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