2020-12-27
★門口栄(かどぐちさかえ)
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1951年、財団法人日本ボールルームダンス連盟認定のダンス教師。昭和62年度・第8回日本インターナショナル・ダンス選手権大会出場、地域ソシアルダンスサークルを32年間指導
★門口由貴枝
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1956年。財団法人日本ボールルームダンス連盟認定のダンス講師。
昭和62年度第8回インターナショナルダンス選手権大会出場。
地域のソシアルダンスサークルを27年間指導。
★門田岳久(かどたたけひさ)
![かど門田岳久](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/20250205110509f23.jpg)
右から二人目
![かど門田岳久 かどたたけひさ 右から2人目](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190548e05.jpg)
昭和五三 (一九七八)年、愛媛県生まれ。文化人類学・民俗学専攻。現代的な聖地巡礼の研究のほか、佐渡では近年、廃校舎の再利用とコミュニティ維持に関する研究を行っている。主な著書に『巡礼ツーリズムの民族誌-消費される宗教経験』 (森話社)、「運動と開発-1970年代・南佐渡における民俗博物館建設と宮本常一の社会的実践-」(『現代民俗学研究』 5 杉本浄と共著)など多数
「さどの島銀外芸術祭2024」1
「さどの島銀外芸術祭2024」2
「島の新聞」索引(人名別)
★門野籐七
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かど門野籐七](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201606021847067d9.jpg)
★門野正志・門野フジノ
![かど門野ふじの (2)](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202310091815248ad.jpg)
「島の新聞」索引(人名別)
★門間両蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かど門間両蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201605301657406ab.jpg)
★金井二郎
href="http://sado2298.blog.fc2.com/img/202312230946394cb.jpg/" target="_blank">![かな金井二郎](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202312230946394cb.jpg)
★金井甚平
小木琴浦神社
![かな金井甚平 (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083458fa7.jpg)
★金井清司
「躍進日本」
![かな金井清司 「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094120644.jpg)
★金井鳳台(直方)
『小木町史』(下)より
金井弥平治家は代々商家でした。金井鳳台の父のとき五代といっていますから、家は元禄の前頃に立ちはじまったとしてよいでしょう。さて、ここで語ろうとする金井鳳台は、明和四年のころ、父保救の長子として小木町に生まれ、直方と名付けられました。そのころの佐渡には、いろいろをできごとが起きていました。代官の不法に端を発する宝暦の飢饉による餓死者の発生、明和の長谷村遍照坊の僧智専による代官所のうちこわし計画の発覚と智専の死刑をどは、政治にたずさわる人びとの狂暴な側面をあますところをくのぞかせていました。安永七年(一七七八)七月五日には、銀山の水替人夫として江戸から無宿六十人(二人は道中で死亡)が目篭に入れられ小木湊に着きました。弥平治の直方少年は、この光景を見ていたにちがいありません。悪いことをすれば鉱山へやられる。のちに直方が荻生徂徠の学風を慕うのは、この少年時代の小木の風土をぬいて考えることはできないでしょう。やがて、養子に家業をゆずり京都にのぼった直方は、眼科医術を学んで帰国し医者となりました。その一方で読書指南所をつくって町人の子弟を教育したのです。『佐渡人物志』には、「小木の文化是より興る」と金井鳳台を位置づけています。鳳台の学風は、荻生徂徠、太宰春台の説を重んじたといいますから、その学風はもはや朱子学とはちがうものでした。荻生徂徠は、十七世紀から十八世紀にかけて(一六六六~一七二八)の人です。柳沢吉保の殊遇を受けた人で、将軍吉宗のために『政談』をあらわしました。徂徠は、物事には絶対いつも正しいというようをものはなくて、その時代時代によって考え方は変えていかをければならをいと主張しています。儒学者ではありましたが、むかしの末子学者とは大変ちがっていたのです。太宰春台は、信州の人で荻生徂徠の門人です。『経済録』をあらわした人として知られています。鳳台には『発字四声便蒙解読集』という一巻があります。それは、太宰春台の監訂した『発字便蒙解』を補ったものといわれています。また、数学にも詳しく、小木では大変な人望を得ていました。門人としては、高津〇(偏は眉、旁は郡の旁部分)山、畠山豊昌、中川友直、天田青〇(草冠に青)莪、金井良談、後藤亮采、渡辺為忠などが出ています。伝承によると、文化年中、佐渡に塾頭矢島主計(沢根五十里村の人)をたずねて来遊した亀田鵬斎が、鳳台と語り合ってその学識を称したと伝えられています。ここで思うことは、文化のはじめ(一八〇四~)佐渡に来国し、小倉でエゾ地、外国の講議をした新井精斎先生のことです。新井精斎はエゾ地を回りその事情に詳しく、ロシヤ使節レザノフ来朝の際には、そのことにかかわった人物といわれています。新井精斎の塾には矢島主計が学んでいますし、その新井精斎がしばしば小木の阿弥陀院に出講義しているところをみると、金井鳳台は新井精斎とも墾父があったと思われます。鳳台は、文政十二年(一八一九)二月十六日に六十四歳で没しました。元小木の海潮寺の境内にはその石碑が建っています。
金井鳳台碑銘
先生 諱(いみな)は直方、字は文思、姓は金井、鳳台と号す。佐渡小木の人、眼を療(いや)すを以て業と為す。かたわら儒術を以て従弟を導く。早く父を失い、負笈(ふきゅう)にいとまなし。すなわち字書に就きて推究し、遂に経芸に通ず。最も徂徠・春台の説を悦び、また音韻に明かなり。また算法にくわし。人となり質直率易、媚びずへつらわず、而してまた人を譏議(きぎ)せず。酒を嗜み数斗を飲むも乱れず。命に順い貧に安んじ、自ら楽しみて晏如たり。文政十二年二月十六日を以て疾みて家に没す。海潮寺に葬むる。村川氏を娶り、三子女を生む。長女は畠山道亮にとつぎ、長男一喜は家を嗣ぐ。次男は早く夭す。銘に日く、
術 昏廃を救い 訓(おしえ) 郷隣に倣(あつし)。道を崇め学を好む、賢なるか若(かくのごとき)き人。勒(え)りて此の碑に銘す、夜台(はか)千春なり 大学助源朝臣寵 撰幷書
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金井鳳臺](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101752d96.jpg)
![か金井鳳臺 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101758359.jpg)
★金井雄治
「躍進日本」
![かな金井雄治「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202009240941218a0.jpg)
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p55
★金井良談(らだん)
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金井良談 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/201404211031267f0.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版):佐渡小木の人で、名は利恭、通称を与三五郎、別号を面快堂という。天田青我に学び俳諧をよくし、当時、国中第一の宗匠であった。家が代々紺屋であったので、世の人は紺屋宗匠といった。嘉永五年(一八五二年)に七十七才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
「島の文学碑巡り」(佐々木義栄 新潟日報 昭和41年)7
★金岡恵美子
真野豊田の人、「ささえ愛あいの山」代表。令和2年3月没(65歳)。真野の「さくら音頭」振付なども担当。
・佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 女子走幅入賞
![かな金岡恵美子](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094123ec7.jpg)
http://www.sasaeai-coop.com/files/libs/34/201302021145132454.pdf
「島の新聞」索引(人名別)
★金川鐘雲
佐渡高校時代の31.6.9~10、陸上競技全国高校大会県予選会(新発田市)総合64点優勝、棒高跳1位
31.7.1、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(高田市)総合45点優勝、棒高跳1位
32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、棒高跳3位・ハンマー投4位
32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、棒高跳入賞
32.8.30、陸上競技信越高校対抗選手権大会(松本市)走高跳2位
32.9.21~22、陸上競技県総合体育大会(新潟)棒高跳1位
★金具師善右衛門
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金具師善右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418102032ab6.jpg)
★金刺福貴満
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
嘉祥三(八五〇)佐渡に配流。配流年月不詳。「佐渡配流罪入金爽福貴満を放還する」とある。放還とは身分を剥奪して民間人にもどすこと。 (『文徳実録』)
★金刺(かなざし)操
大正4年10月27日死亡)河原田諏訪神社祠官、学務委員。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、相川監獄移転の決議[二十年七月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★金沢和夫(かなざわかずお)
1925年、新潟市生まれ。日本考古学会会員。日本民俗学会員。著書に「下仲野御神楽」、共著書「佐渡-島社会の形成と文化」などがある。真宗大谷派西光寺住職。
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
★金沢喜一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
明治四一年生まれ、山本清左衛門の門下を代表するシテ方である。
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→山本清左衛門「清諷会」参照
★金沢清左衛門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金沢清左衛門 130 金沢清左衛門の羅針盤と静野与右衛門の羅針盤 堀口俊二
★金沢瀬兵衛(かなざわせへえ)
【生没】生・没年不詳 文化八年(一八一一)二月から文化十三年七月までの間の佐渡奉行。勘定吟味役からの転役であった。そのころ相川金銀山の稼行間歩は、青盤間歩と鳥越間歩の二間歩のみ、一○日間の鏈の代銀は銀一貫目ほどであった。金沢は、雲子間歩・青柳間歩の再開発をして、失業者に職を与えた。青柳間歩は道遊の割戸の下で、開発は宝永二年(一七○五)と伝えられる間歩である。金沢はこの費用として、役人が積みたてた出目銭四○○○貫文を上げ金させている。文化十年には中尾間歩を取明け、文化十二年には清次間歩を本途稼ぎとして、鉱山は危機を脱したのである。良吏として知られた。佐渡奉行から長崎奉行に転役した。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化八年(一八一一年)二月九日、勘定吟味役から佐波奉行となり、十三年七月二十四日百俵加増され、長崎奉行へ転役し、大蔵少輔と改めた。名は平千秋、知行は二百俵、役料干五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★金沢督(おさむ?)
「越・佐傑人譜」(昭和13年)
![かな金沢督 越・佐傑人譜 昭和13年](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240118112645484.jpg)
佐渡中学6回生、渡米しシアトルのパルマ専門学校卒。
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p374・381
★金沢フミ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の茶の湯は裏千家流志田静子と会員約五十名、江戸千家流金沢フミ外五十名があり、一時佐藤徹次郎等の同好会四日会もあった。現在はわずかに大野杉山スエが自宅で、その他総合センターの講座等で教えている。
★金沢屋旅館
離島建築 箭内博行 令和6年4月
★金島甫西→金島甫西(かねしまほさい)
★金杉悦子
佐渡高校時代の昭和60.1.19-20、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子団体2位、金杉悦子女子シングルスベスト8 、女子団体は北信越大会(新潟市)に出場。60.6.1~3、バドミントン県高校結合体育大会(新発田市)女子団体2位 金杉悦子・内田美和子女子シングルスベスト8女子ダブルス(本間・内田組 中山・金杉組)ベスト8
★ 金杉人形店
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
佐渡といえば、すぐ「おけさ」を思い出すほど有名になっている。「おけさ人形」の生まれるのは当然で、年間の生産量も七、八千万個といわれる。この人形は、顔と手足を雛人形の産地埼玉県岩槻市から、着物を織物の産地京都や群馬県桐生市から仕入れている。この着物は、人形にあわせた裾模様をもちいている。人形店ではこれらを、胴体に十八番線の針金を中心に、藁や綿をまき、これに顔や手足をつけ、着物を着せるのが仕事である。現在、こうtた人形店は島内に十軒ほどあり、真野町では金杉、佐々木、高橋、新高の四軒がある。そして真野町の生産高は島内の七割を占め、これに従事する人も約百五十人もいる。町のたいせつな産業であり、「人形の町」とよばれるほどである。これは、真野町金杉人形店が、昭和二十七年ころからはじめたもので、最初は顔を土でこしらえ、目鼻を描いた時代もあった。種類も、一人踊りや二人男女の組み踊りから、大きさも五、六十cmの大型から十一、二cmくらいまである。
金杉人形店で作る「おけさ竹皮人形」がある。十cm前後の男女の人形が竹の皮で作ってあるのは珍しい。佐渡では竹の皮を、昔、切り飴を包んだことから「飴の皮」と呼んでいる。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★ 金杉銘石堂
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
店頭にならべてある「おけさ人形」は、一種の雛人形であるが、最近「組おどり」という和紙のおけさ人形がある。これは、真野町金杉銘石堂が作るもので、二十三cmくらいのおけさ笠の下に八cmくらいの和紙の着物を着た六個の人形が、糸でつられている。ゆれるたびに人形が踊るという動的なものである。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★金玉(かなたま)九五
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)200平⑥、総合②佐中48
★金津鷹蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かな金津鷹蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061935049b2.jpg)
★金丸千津江:真乃史優
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「7号」(平成18年10月)浅草公会堂に於て「第16回舞踊の会」が開催(真乃史優:金丸千津江)
★金丸村九右衛門
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸村九右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101806efb.jpg)
★金丸本郷善太郎
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸本郷善太郎](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/2014041810202824c.jpg)
★金丸村本郷両替屋三輪屋善内・名主季兵衛
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸村本郷両替屋三輪屋善内・名主季兵衛](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101809568.jpg)
★金森宏三
佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 入賞
45.6.7~8 、陸上競技県高校結合体育大会(高田市)棒高跳に入賞
45.6.27~28、陸上競技全国高校結合体育大会北信越予選会(高田市)棒高跳4位
★金森大蔵
佐渡高校時代の昭和39,10、全国学生選書展特選
★金森貞蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金森貞蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193616e9f.jpg)
★かね
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国久知河内村(両津市)六右衛門の母である。天保四年(一八三三年)九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★金子秋雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中、200平➄
昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)200平④ 3.10.3
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
200平鉱山長杯②
★金子浅吉
「函館市と新潟県人」
![かね金子浅吉 函館市と新潟県人](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240205114345243.jpg)
★金子浅次郎
『赤泊村誌(上)』より
赤泊上町の人、明治三七年の生まれ。少年時代から金子鉄道で働きたいという望みがあった。そこで赤泊の出身で小樽の電燈会社に勤めていた中川清太郎さんに相談をもちかけた。運の良いことに、その電燈会社に小樽築港駅長の弟が勤めていて、その人のとりなしで鉄道に勤めることができた。大正一五年六月一九日、金子さんはその日〝鉄道駅手″になった。金子浅次郎が日本の歴史の一頁を飾っていることを知っている赤泊の人は何人あるだろう。彼は仲間と共に、六人乗りボート競技フィックスで昭和五年、昭和七年の日本選手権、さらに昭和二三年の国体では監督として合わせて三回、全国征覇を成し遂げたのである。昭和二三年についてだけ『小樽漕艇六〇年の航跡』 (昭和五五年刊)から記録しておくと昭和二十三年 第三回国民体育大会 一般の部 優勝 小樽築港 監督 金子浅次郎 「カラスがボートで優勝した。」当時、鉄道員といえば真っ黒のツメェリが制服で、カラスとあだ名されていたのである。金子さんは鉄道に三二年勤めた。その間、小樽築港駅定貞一四七名の駅長にもなった。鉄道駅手から駅長まで、彼は小樽の駅一筋に生きた。小樽には家も建て、息子もー人前になった。やがて停年が過ぎて金子さんは娘のいる赤泊に帰ってきた。
★金子浅次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永五年生 羽茂村大橋 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★金子朝蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子朝蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018100619360700a.jpg)
★金子東
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子東](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173656b99.jpg)
★金子伊右衛門
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)
![かね金子伊右衛門 佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094127e6c.jpg)
★金子勇(しこ名 平沢 出来清水)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・平澤の人、昭和6年の第15回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
・明治43年生まれ、昭和36年52才で死去した。(1910年~1961年)両津市平沢の金子善太郎家の出身である。生涯平沢に住んで、善栄丸という5トン船の漁師を業とした。この人は、力士として昭和10年頃から終戦まで佐渡随一とうたわれた相撲取りであった。肥満型の体格で、非常に温和な人柄であった。相撲界には珍しく酒は一滴も飲めなかったが、交際は立派で、子息のことば通り、「人様には大騒ぎされました。」(※佐渡ことばで、人に好まれ人気があったの意。)得意技は腹やぐらであった。当時の越佐対抗で越後各地に遠征したもので、越後の力士間にも『佐渡の出来清水さん』と言われたものである。晩年糖尿病に悩み、それが死因となったが、子福老で9人の子を残して、子孫はそれぞれ各地で栄えている。化粧廻しは平沢の大名乗りであったので、南平沢の区長が保管している。
★金子石松
人形芝居関係者。
→「金子善次郎」参照
★金子いずみ
佐渡高校時代の平成4、全国高校文化祭(沖縄県)美術部門、絵画の部、県代表として出品
★金子伊太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子伊太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193506110.jpg)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子伊太郎](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601174356a7d.jpg)
★金子猪之吉
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐和田町沢根の人、沢根人形創始者。出店(でみせ)人形ともいう。明治十三年小木町の大崎屋松之助の人形を買ったもの。太夫は伊藤常盤ノー、役者はこの猪之吉のほか有田小三郎、寺屋吉兵衛であった。猪之吉は、はじめ同地の青野半五郎(青野奉書の生家)の持ち船「万徳丸」に乗り、大阪通いをしていた。そのため大阪の文楽などを見て、人形好きになったのかも知れない。彼は役者として「口上(こうじょう)人形」と「狂言人形」の名人であったという。大正五年十二月十二日七十四歳で死んでいる。
★金子厳
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=2
★金子岩吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子岩吉](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201605281016521fc.jpg)
★金子穎一(えいいち)
「島の新聞」索引(人名別)
★金子栄太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]
★金子恵里
佐渡高校時代の平成7.2.26、陸上競技全国都道府県対抗クロスカントリー駅伝大会(千葉県)新潟県代表選手として出場
平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)3000m7位
平成7.11.1、陸上競技県高校駅伝大会(新発田市)女子(金子恵理・鈴木理佳・北見昌恵・山田瑞穂・石井朱里)4位
★金子恵理
佐渡高校時代の平成8.5.30~6.1、バドミントン県高校総合体育大会(村上市)女子団体ベスト8 大間美絵子女子シングルスベスト8、大間美絵子・近藤杏奈組 金子恵理・村上友美組 女子ダブルスベスト8
★金子佳愛(高次郎)
小布勢神社境内
![かね金子佳愛 小布勢神社境内](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083459799.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊):能役者金子柳太郎の養子。金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。金子高次郎はこのことで失意の人となった。「佐渡能楽会創立趣意書」を見ると、高次郎が売却した装束小道具等は「元来吾等連中苦心ノ余り成レルモノナレバ」とあるから、責任を問われても仕方のない点があったのであろう。しかし、高次郎が行った上京能興業の赤字をうめるためもあったが、養父柳太郎が能に熱心のあまり財産を傾けたところにも問題があったと思われるから、その意味では高次郎には同情すべき面もあったのである。高次郎はいつも「能は芸術ではなく芸道だ」といっていたという。薙刀の型を覚えるとき、師匠の宮門に言われて武道の薙刀の道場へ通った逸話がある。芸の上では練達の士で、舞台の広さを芸に生かしたという。名を佳愛と改め、能楽会ができてからまもなく上京就職したが、戦時中帰国し、迎えられて笛畝会を婚導した。昭和三〇年の夏、西三川中学校前に建てられた寿碑には、「技術既に円熟の境地に達すと雖も常に切磋琢磨を怠らず……其入神の演能妙技と高潔なる人格は世上推頌項措かさる処」と記されている。亡くなったのは昭和三六年五月、享年八二歳だった。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=2
→金子龍太郎
→松本栄太郎
★金子嘉一郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新町漆器の祖である。赤泊村下川茂馬道市郎兵衛の子である。
能登国輪島の工人が六十六部となって佐渡に渡り、市郎兵衛の家に来て椀の製法を伝えた。
嘉一郎は弟忠次郎とその法をならい、宝暦年中(一七五一-六三年)兄弟ともに新町に移り、椀師を業とした。
忠次郎は一代かぎりで廃業。嘉一郎の子孫は業をつぎ、二代与右衛門(文政三年没、三代与七(文化九年投)までは、あまり業務ほ振るわなかった。(佐渡人名辞書)
★金子和之
![かね金子和之](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103955886.jpg)
「東京中日スポーツ」(2020年12月6日)
津ボートの「中日スポーツ高虎杯争奪戦」は最終日の6日、12Rで優勝戦が行われ、4号艇の金子和之(33)=埼玉=がカドからコンマ09のSからまくりを決め快勝。デビューから8年7カ月、10回目の優勝戦進出でうれしい初優勝を飾った。2着はまくり差した木下陽介、3着にはインで残した興津藍が入った。3連単は8万6990円の高配当決着となった。しっかりとまくり切った。カド4コースからコンマ09の好スタート(S)を決めた金子が決着をつけた。「Sは思い切っていけたし、準優と同様に舟も返ってきた」と会心のレースを振り返った。今節の相棒36号機は、G1周年記念で松井繁が優出(6着)、前節の東本勝利も優勝戦に駒を進めた(6着)上昇機。「伸びは出ていくことはなく、水原選手や木下選手の方が上だった。でも、行き足やターン回りがいいエンジンで、優勝戦も微調整をしただけで、舟足は良かった」と仕上がりには自信を持っていた。レース後には仲間により水神祭が行われ、全身水に濡れながら「今後はもっと上を目指して、優勝回数を増やしていきたい」と意気込む。関東のエース候補の活躍が楽しみになってきた。
★金子勝雄
左より 斉藤一三代・飯山弘・高橋繁実・金子勝雄(赤泊演劇クラブ)
![かね金子勝雄(右端)赤泊演劇クラブ](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202100909878.jpg)
![かね金子勝雄 (3)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200229175143c80.jpg)
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1946年。民話語り部2段。佐渡に伝わる民話がたりの指導。特定郵便局勤務35年。
小中高、保育園、婦人会、老人会、福祉施設、地域、PTA等で民話語り講演。
★金子克巳
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★金子勘五郎
![かね金子勘五郎 真野町史(下)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100356f.jpg)
![かね金子勘五郎 真野町史(下)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100356f.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
旧小布勢村村長、明治(不明・二六・六・三~)。
明治二四年六月の県議会議員補欠選挙では、西三川村の金子勘五郎が大同派(自由党系)から当選した。金子勘五郎は、弘化二(一八四五)年九月十四日に笹川十八枚村に生まれた。父勘三郎は第二八大区の副大区長を勤めており、代々佐渡の政治に活躍した家柄であった。勘五郎は明治二二年から三郡町村組合会の議員に選ばれ、明治二五(1892)年には鵜飼郁次郎の越佐同盟会に加入している。翌二六(一八九三)年に佐渡自由倶楽部が結成されるとその評議人になり、一時中断していたが明治三十五年新しく組織替えされるとその組織委員の選ばれさど自由党と共に歩んできた人物である。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
弘化二年生 西三川村大小、農業 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第九回選挙[二十五年三月]・明3、佐渡に於ける民党懇親会[二十五年三月十五日]・明3、佐渡自由倶楽部の創立[二十六年四月三十日]・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]
★金子勘三郎
笹川地区
![かね金子勘三郎 笹川地区 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104131ada.jpg)
★金子勘四郎
「近現代の羽茂」
![かね金子勘四郎 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090432bcd.jpg)
★金子紀久夫
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★金子吉四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
八幡村 ・明4、県下町村分合[三十四年十月]
★金子吉太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★金子恭輔
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
工学博士。明治十五年三月二十九日、佐渡郡相川町で生まれた。
東京帝国大学工科を卒業し、秋田鉱業専門学校、九州帝国大学各教授となった。
退任後太平生物化工業社長に就任した。(新潟県年鑑)
★金子清
「近現代の羽茂」
![かね金子清 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/2019071109364678b.jpg)
★金子清博
佐渡高校時代の昭和63.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)4×400mR(金子清博・金子峰人・藤井賢一郎・中川清裕)6位
63.6.17-19、陸上競技北信越大会(富山市)4×400mR出場
★金子金治
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子金治 69 連載 閑々亭雑記 (21) 佐渡中学校の試験問題に佐渡の民謡:金子金治 山本修之助
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
★金子金十郎
「近現代の羽茂」
![かね金子金十郎 「近現代の羽茂」 (1)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090433546.jpg)
![かね金子金十郎 「近現代の羽茂」 (2)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/201907120904354d3.jpg)
★金子金太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子啓次
![かね金子啓次](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20231223122734ecf.jpg)
「佐渡ジャーナル」(平成27年10月15日)
![かね金子啓次佐渡ジャーナルh27 10 15 (10)](http://blog-imgs-82.fc2.com/s/a/d/sado2298/20151019101225f26.jpg)
新潟日報」平成28年4月28日)
![かね金子啓次 h28428](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/2016050108504636c.jpg)
「エスライフ」(平成29年10・11月号)
![かね金子啓次](https://blog-imgs-116.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171012201656f3e.jpg)
![かね金子啓次 (2)](https://blog-imgs-116.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171012201658ca0.jpg)
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「43号」(平成27年10月)・グラフ佐度(・たらい舟職人 小木金子啓次さん)「62号」(令和2年7月)・グラフ佐度(・たらい舟のナイトクルージング)※金子啓次 「64号」(令和3年1月)・看板犬が警察犬に ※金子啓次
★金子敬二
佐渡高校時代の昭和44.6.7~9 、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 走高跳1位
45.6.7~8 、陸上競技県高校結合体育大会(高田市)走高跳3位
45.6.27~28、陸上競技全国高校結合体育大会北信越予選会(高田市)走高跳2位
45.10.3~4、陸上競技県高校新人大会(新潟市)、走高跳2位
★金子啓太郎
→若林米蔵「笛畝会」参照
★金子兼吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子兼吉](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101430d39.jpg)
★金子元吉
「島の新聞」索引(人名別)
★金子健治
「島の新聞」索引(人名別)
★金子健二
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子健二 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193507de0.jpg)
★金子健治
諸情報
★金子幸治郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政六年生 新穂村皆川 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★金子康蔵
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
★金子琴栄
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂町小泊通称田屋金子伊左衛門の長男として生れた。生れつきの盲人。妹に家をゆずり小木町へ出て按摩や鍼を仕事としていた。文弥節は池野阿波ノーに習い、巡浄・琴清・金子善次郎とともに四天王とよばれた。遠藤駿河ノーから池野阿波ノ一へ秘伝として授けた大三重(だいさんじゅう)という節をついでいたという。昭和三年一月一日七十二歳で死亡。戒名は「是本寿栄信士」。
★金子五一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子五一 91 佐渡俳句界無冠の太夫-羽茂町上山田 金子五一の生きざま-
★金子五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★金子沙織
両津高校時代の2000年度(H12)、県競書大会 特選
★金子朔太郎
「函館市と新潟県人」
★金子三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★金子三右衛門
羽茂上山田の山田かじや家の人、連歌関係者 →下記資料のp678
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★金子重雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。
その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
昭・8・8・20 第6回県青年団水上競技・明治神宮水上県予選(県水上競技連盟)(県青年団・県体協)新潟中プール
50自2位、100自3位、200リレー2位 2.04.4 金子重雄・県代表選手に選ばれる。
昭・9・8・19 第7回県青年団水上競技大会 柏崎公認50米プール
50自2位、100自2位、200リレー1位 佐渡(寺尾・保刈・金子・田中)2.06.2
★金子重彌
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子重彌](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160530165207a82.jpg)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子重彌](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140416172944e19.jpg)
「山本伝十郎家」
★金子次左衛門(江積)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。江積も堂釜と共に鎌倉時代には存在した村です。この村の祭りには、昔から堂釜の金子六左衛門が参加したといいますから、鎌倉時代の名主たちの祭りの往き来を示すものとして注目されましょう。金子次左衛門は金子六左衛門の一族であったのかもしれません。
★金子治作
→若林米蔵「笛畝会」参照
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
★金子賤子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子賤子
65 「冬日抄」に寄せる 金子賤子 68 島崎藤村「破戒」の町 70 「雨晴ハイツ」の窓より -私の大伴家持- 71 冬、思い出すこと 随想 72 寄居浜にて 山本修之助 81 歌唱の詩に寄せて 山本修之助 84 戀猫の来る夜は 91 金子賤子遺歌集『遠花火』 -序- 山本修巳 92 「自分史」の歌の重み-金子賤子遺歌集『遠花火』-本間眞珠
★金子実平(菊森実平 しこ名 二代目入海)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
沢根の入海は大名乗りで、3代読いた。初代は小木の中村から出た沢根の漁師であったが、入海の名を高からしめたのは2代目菊森実平である。(金子実平)この人は小木井坪から、沢根へ入婿した老であるが押し相撲を得意として強かったと語り草になっている。3代目を継いだのが村田房之助である。
★金子俊二
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「3号」(平成17年10月)現在の今が最高の人生(佐渡に還って14年)
★金子嘯風
![かね金子嘯風](https://blog-imgs-79.fc2.com/s/a/d/sado2298/20220603102635c46.jpg)
★金子四郎
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p54
★金子次郎左衛門(小木大浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。大浦は、鎌倉時代には井坪の中に含まれており、この時代の終わりころ独立した村です。この村の大屋は金子次郎左衛門であり、江戸時代初期には村の中使をしています。そして、村の立ちはじまりは金子一族であると伝えています。
★金子甚七→乱杭老人
★金子末雄
羽茂BG体育館前
![かね金子末雄 羽茂BG体育館前 (2)](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018010909104610d.jpg)
★金子末吉
夷地蔵堂
![かね金子末吉 夷地蔵堂 (2)](https://blog-imgs-119.fc2.com/s/a/d/sado2298/201805071002386fd.jpg)
★金子助九郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子助九郎 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191543f51.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子助十郎
『赤泊村誌(上)』より
赤泊柳沢には二三戸の家がある。これらの人たちの姓をみると、金子が一四戸、渡部が三戸、石塚が一戸、他の姓もそれぞれ一戸ずつ、明治のはじめまで室賀が二戸あったが現在はいなくなり、金子姓が圧倒的に多い。小さい村の中で、一つの姓がこれだけまとまっているということは、この一族が村で古くから中心的な存在であったことがわかる。金子一族の親方は助十郎であった。村では「助十郎殿さま」と呼んだといい伝えている。助十郎家は赤泊の延命院檀家で代々その檀頭であった。延命院の「三千仏」の三幅対は助十郎が寄進したもので、それぞれ長さ158センチ、幅95セソチの絹地に措かれた、江戸時代中期以前のものと思われる立派なものである。
★金子甚四郎
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)
![かね金子甚四郎 佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094129bd9.jpg)
★金子政吉
「躍進日本」
![かね金子政吉「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020092409413011f.jpg)
★金子誠子
佐渡高校時代の昭和28年7月17日、全国学校書道連盟主催全国競書大会(於東京都美術館)にて推薦努力賞
昭和29年7月25日、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会にて特選
★金子精二
新穂出身、佐渡農業高校ー国士舘大学体育学部卒(1回生)。
学部を首席で卒業し学長表彰を受ける。国士館大学評議員。
★金子善次郎
「黒山人形」の元祖エンタロウ(衛門太郎)のこと。文弥人形の太夫や役者を務めながら人形師でもあった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町黒山の人、黒山人形の創始者。明治八年、黒山の通称エンタロウマキ(右衛門太郎牧)金子善次郎(嘉永五年三月十三日生)が創始した。文弥節を赤泊村川茂の池阿波ノーに習い、人形のつかい方を小木町の大崎屋松之助に習った。大エであったので、人形のカシラを刻むことも上手であった。植村甚太郎老人は「黒山人形のカシラは、高崎人形を見て善次郎が刻んだものだ」といっていた。役者は、笹川の九兵衛、又十郎、孫兵衛(佐々木万次郎)、通称小坂(金子綱次郎)、紋四郎であった。善次郎は、二十五歳の時妻クラに死別し、三十五歳で失明し盲人となった。その後、妻を迎えることもなく、大正三年四月十一日六十三歳で死んだ。墓の正面に「恵眼明通信士」右側面に「文弥人形造リニ巧ナリ」と刻まれている。善次郎が盲人となってから四、五年間、笹川人形となっていたが、のち上黒山通称キウジ(木藤)藤井亀次郎の手に戻って来た。第二期の黒山人形である。この座に人形が二組あったので、一組は潟上人形へ譲った。明治二十六年、亀次郎は弟の政治郎(岡本文司)と共に第二期の黒山人形をはじめたのであった。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★金子仙蔵藤原稽章(もくあき)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷下町又五郎、鍛冶秘伝一軸(明治元年八月)嘉永三年生、明治三二年四月二日没。
★金子惣八
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
幕末から明治にかけて、羽茂には三軒の呉服屋があったと古老はいう。それは与八(山本屋与八郎)と惣八・佐五右衛門で、店の規模も年代もはぼ同じだったらしい。幸いにして与八(山本屋与八郎)家について、資料が残っていたので、大体その全容を知ることができ、他の二家を推測するよりどころにもなった。金子惣八家は千光寺の檀家として見え、今の里道医院が本宅。二棟の土蔵を含み建物そのものが当時のまま残っている。里道医院の以前は北島久内医院(大谷半兵衛=北島敬司)で、惣八家から北島医院になった年代がはっきりしないが、おそらく明治も終りに近いころではなかったかという。この地域へ初めて自転車が入ってきたのが同家であったという。
→参照(山本屋与八郎)
★金子惣八
「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★金子清三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村川茂 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
★金子善次郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町の代表的人形座は黒山人形である。しかし、黒山人形には二種類あって、長く人々に親しまれた黒山人形のは岡本文司が太夫をつとめた黒山人形で、その成立はわりあい新しい。第一期の黒山人形は明治八年に、通称′「えんたろうまき」の金子善次郎が始めた。善次郎の生まれたのは嘉永五年の三月で(徳平人形の)遠藤徳平より三歳年下だった。善次郎は大工だったが大の人形好きで、しかも語りを池野阿波一に、遣い方を当時人形遣いの神様のようにいわれていた大崎屋松之助に習ったから一人二役、しかもかしらを刻ましてもすぐれた人形師だった。今でも人形首の名作といえば第一に松之助、それに続くのがえんたろうまきといわれている。善次郎の刻んだ首で人形一座が組み立てられ、かれは座元兼座長として活躍した。女人形が得意で、五尺六寸、二〇貫という大きな体が、人形を遣っている時は目に入らなかったというからよほどの名人だったに違いない。太夫は川茂の盲人阿波一だったようだ。人形芝居の大夫。阿波一は遠藤駿河一の弟子である。駿河一は竹田の忠左衛門家の出身で、同家には天保年間に盲官をとった時の告文が残っている。盲官取得の前は清嘉という名前だった。嘉永三年には「打掛」慶応三年には「一度の中老引」に昇進している。駿河一は文弥の名人だった。毎年正月二日から五日までの間に盲人が奉行所へ出向いて「源氏烏帽子折」の三段目の「げにや三六〇日、こよみこよみと巻き尽くし」というところを語るのが例だったが、ある年駿河一が語って奉行からほめられたという。また木戸銭をとって文弥を語るようになったのも駿河一からだといわれている。亡くなったのは明治六年だった。駿河一には二人のすぐれた弟子がいた。一人は大崎星松之助と提携して文弥人形を始めた沢根の伊藤常盤一で他の一人が川茂の池野阿波一で、この二人がそれぞれおおぜいの弟子をもって佐渡の文弥界を東西に二分する状態だった。善次郎はこの阿波一の弟子で、善次郎の弟子に後年名人といわれた木藤の岡本文司こと藤井政治郎と、糀屋出身の岡本阿波野こと中原俊精がいる。後の話だが北村宗演が潟上の初代池田宗玄に弟子入りして皆伝をうけたとき、宗玄がいうには、「これで知っておることは全部教えたが、大三重の手ほおれも知らん。知っとるのはえんたろうまきの太夫だけだから習うてから教えてやる」。といって黒山まで習いに釆たという有名なエピソードがある。善次郎の黒山人形は文弥高幕だったのであろう。遣い手は金子九平・金子紋四郎・金子又十郎・佐々木孫兵衛等笹川の人が多く、それに黒山の藤井重作、後に藤井亀次郎も加わった。善次郎は三五才ごろ失明した。そのためであろうか、人形一組は笹川へ譲られた。明治一八年頃だという。晩年の善次郎は笹川に人形があると、杖をついてよく釆たものだという。善次郎が亡くなったのは大正三年の春、墓の正面にほ「恵限明通信士」、右側面には「文弥人形造りに巧なり」と刻まれている。第二期黒山人形の太夫が誰であったのかは不明である。第一期の太夫と推定される阿波一はすでに二二年に没している。考えられるのは失明してはいたが四一歳の金子善次郎ではないかということである。遣い手ほ笹川の人が多く、後に黒山の安藤栄次郎や大崎の本間光蔵などが加わった。この座は文弥御殿人形だった。文弥高幕人形が御殿人形に改良されるのは明治一〇年過ぎで、大崎屋松之助の工夫によるものだといわれる。松之助は常盤一と結んで明治の初期に文弥人形を始めた人である。そのせいか明治二〇年代の御殿人形は、沢板・大谷・大崎・黒山等二人のゆかりの地に多く、潟上・小倉・下畑・海府等は三〇年のなかば以後の成立である。第二期黒山人形が始まってから一〇年たつと、二六歳になった政治郎が太夫を勤めるようになった。盲人ではレパートリーが少ないのと、山坂越えての興行には不向きだったからであろう。政治郎は後に大崎や小倉や下畑の人形座の太夫もつとめるようになった。また亀次郎の妻クマが小倉の太夫兼人形遣いだった後藤清蔵の娘だった関係などもあって、それらの座から遣い手の応援もあって、黒山人形は評判がよかった。しかし、四四年に座長の亀次郎が四七歳で亡くなるとまもなく、黒山人形はよそへ譲られてしまう。一周忌に、太夫は金子善次郎・藤井政治郎・仲原俊精・深山静賀・松村村治の五人、遣い手は新田伊作・本間光蔵・伊藤鉄蔵・金子綱次郎等で、盛大な追善人形が催された。それからまもなく、政治郎は分家して河原田へ移り、さらに八幡へ、最後は河原田に住んだ。わりあいと小柄な体なのに、よくとおる声で語ることばが明晰だった。見物人には聞きやすく分りやすいといわれ、人形遣いには遣いやすいといわれた。床に上って三味をかまえた姿には一分のすきもなかった。盛りの頃は長石神社での語りが長石の南の端まできこえ、老年になってからも鳥居のそばにいても語りが聞きわけられたといわれている。政治郎の師匠ほ金子善次郎だが、窪田へ移ってからは深山静賀に習った。静賀の師匠は沢根の常盤一で、その師匠ほ遠藤駿河一である。したがって系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
彼は、人形遣いであるとともに、またこれを彫刻する人形師でもあつた。佐渡では、人形遣いが、人形師をも兼ねていた人が多い。文弥人形の元祖といわれる小木町の大崎屋松之助や黒山人形の創始者であつた真野町黒山の金子善次郎なども人形師として、りつばなカシラを残している。
真野町黒山の人。通称右衛門太郎牧(えんたろうまき)。太夫・役者をもつとめたが、大工だけに人形も刻み、高崎人形を見て作ったという。のち、盲人となる。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★金子タク
「島の新聞」索引(人名別)
★金子辰太郎安興(やすおき)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷ジンタ (今の洋服屋下手新宅跡)、鍛冶秘伝一軸(年代不詳)。北海道に移住詳細不明。
★金子高次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子高次郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193510710.jpg)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子高次郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193512345.jpg)
★金子辰三郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子辰三郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061935190c6.jpg)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子辰三郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193518419.jpg)
★金子太郎平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 畑野村畑野、商業 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日] ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★金子忠治
小木商工会長
a href="http://sado2298.blog.fc2.com/img/202002021009119ee.jpg/" target="_blank">![かね 小木商工会長](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/202002021009119ee.jpg)
★金子忠兵衛(本名森蔵)
『新穂村史』(昭和51年)より
明治のはじめに、新穂の上町に金子忠兵衛(本名森蔵)という者が、提灯屋をやっていた。忠兵衛は人形提灯屋芝居が好きで、自ら首を刻み、高幕人形からはじめて、しまいにほ御殿人形までやったという。(「忠兵衛人形」という)
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★金子長右衛門
両津羽黒神社
![かね金子長右衛門 両津羽黒神社](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104213afd.jpg)
★金子長太郎
旧金丸村(真野)村長、明治二九・四・一一~。
★金子勉
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子勉
17 振矩師雑記 (1) 19 振矩師雑記 (2) 20 振矩師雑記 (3) 21 振矩師雑記 (4) -植野半三- 23 振矩師雑記 (5) -静野与右衛門 (1)- 25 振矩師雑記 (6) -静野与右衛門 (2)・持田半左衛門- 27 振矩師雑記 (7) -古川門左衛門- 29 振矩師雑記 (8) -品川平左衛門- 31 振矩師雑記 (9) -山下数右衛門 (1) 33 振矩師雑記 (10) -山下数右衛門 (2)- 35 振矩師雑記 (11)-山下数右衛門(3)- 38 振矩師雑記 (12) -山下数右衛門 (4)- 40 振矩師雑記 (13) -山下数右衛門(5) 阿部六平- 42 振矩師雑記 (14) -青木忠四郎- 45 振矩師雑記 (15) -山本仁右衛門徳基- 49 振矩師雑記 (16) -待遇- 105 南沢疎水坑の長さ 116 山本半三郎撰『算術指南』 122「ほこり」と「ほゑ」 132 追悼 金子勉先生との出会いと和算の共同研究 堀口俊二
★金子剛
「島の新聞」索引(人名別)
★金子ツル三
「躍進日本」
![かね金子ツル三「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202009240941256d7.jpg)
★金子鶴松
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷須川城ケ平。文久三年十月十五日生、昭和十四年八月二十四日没。
★金子悌二
明治四十五年三月佐渡中学卒(第十二回生)、東京帝大獣医科卒。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子悌二 29 二ツ岩の生き神さん 34 私の「朱鷺曼陀羅」-山本修之助句集-
★金子悌治
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p61
★金子輝雄
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=5
★金子都介
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 河原田町本町、旅人宿業 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★金子藤太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子徳次
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子徳次 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193611cd5.jpg)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町、商業、丸七商会主 ・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭2、山本、政友倶楽部総裁の辞任[五年十月二十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、政友派の会合[十三年三月三十日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★金子敏栄(としえい)
エスライフ:no87(2023年2・3月号)
![かね金子敏栄 (2)](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/202301302345261c5.jpg)
★金子とし子
羽茂村山の人。新潟日報「島の文芸」俳句選者。
![かね金子とし子](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/20221206123703776.jpg)
★金子敏之
「島の新聞」索引(人名別)
★金子知樹
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★金子仲蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子仲蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601174357b53.jpg)
★金子庭蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子庭蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193610814.jpg)
![かね金子庭蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193608d51.jpg)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子庭蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173655091.jpg)
★金子照典
![かね金子照典 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100451f.jpg)
![かね金子照典](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200708091006afc.jpg)
★金子のぼる
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
![かね金子のぼる](http://blog-imgs-95.fc2.com/s/a/d/sado2298/20161028083443246.jpg)
![かね金子のぼる2](http://blog-imgs-94.fc2.com/s/a/d/sado2298/2016101117311381f.jpg)
真野の人、角川俳句賞受賞の俳人。
第二十五回角川俳句賞〔受賞作「佐渡の冬」(50句)(金子のぼる)〕
金子のぼる氏の句碑(真野大願寺)
「初天神一切空の山の音」
大願寺は古来から連歌ゆかりのお寺で、近年もこのように文学に造詣が深く、学問・芸術の中心的なお寺である。
「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)
『佐渡』(俳句集 380句 昭和58年 竹頭社)
本名昇。佐渡郡真野町生まれ。独学で専検にいどむ。少年時代より作句の経験があり、初め瓢宇を俳号とした。昭和54年「佐渡の海」で第二十五回角川賞を受賞。「恋猫の藻屑をつけて戻りけり」「梅一本咲かぬ家なし朱鷺の村」「桐咲くや空むらさきに国府の跡」「鬼太鼓の撥が指したる天高し」大正11~昭和58。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子のぼる
1 「真野町俳句会」のこと -思い出の人々と現役と- 2 佐渡の歳時記 3 合同年間句集評 「島影」第二号雑感 5 合同年間句集評 再び「島影」第二号について 6 耳よりな話 7 続 佐渡の歳時記 (1) 8 続 佐渡の歳時記 (2) 9 続 佐渡の歳時記 (3)
10 続 佐渡の歳時記 (4) 11 ジンナとお菊 15 「ひつじ」の話 21 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (1) 21 秋の海辺の坂道で -金子のぼる氏角川俳句賞受賞- 福嶋野城子 21 金子のぼる氏 角川俳句賞受賞記念祝賀会 山本修巳 21 角川俳句賞の受賞について 島倉盈 22 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (2) 23 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (3) 24 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (4) 25 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一 灯のことども (5)
26 特集 句集「海見ゆる坂」 「鶴歩(かくほ)」の俳人 27 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (6) 32 漱石忌に寄せて 35 小川一灯の俳句 (1) 36 小川一灯の俳句 (2) 38 悼 金子のぼる 山本修之助・山本修巳 38 鑑賞 佐渡のうた (31) -補遺- 小川一灯・金子のぼる 山本修巳
★金子紀清
連歌関係者 →下記資料のp670
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★金子花子
![かね金子花子](https://blog-imgs-127.fc2.com/s/a/d/sado2298/2019042510330596b.jpg)
★金子春治
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子春治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018100619351547f.jpg)
★金子半五郎
『佐渡郡肖像録』(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子半五郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061936134a4.jpg)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
![かね金子半五郎 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083500ba0.jpg)
★金子久栄
前佐渡漁業組合長、赤泊の人。h26年5月14日没72歳。
★金子栄敏
佐渡高校時代の40.7.24~25、水泳県高校選手権・第13回東北高校県予選会(柏崎市)、(バタフライ)100m1位・200m6位
40.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)(バタフライ)100ml位・200m6位
40.9.19-22、水泳国民体育大会(岐阜県)バタフライ県代表として出場
★金子均
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★金子宏
佐渡高校時代の37.6.9~10、陸上競技高校大会県予選会(新潟市)総合3位、110mH入賞
★金子洋
佐渡高校時代の平成元.5.28~30、軟式庭球県高校結合体育大会(上越市)男子団体3位
平成元.6.17~18、軟式庭球北信越大会(上越市)男子個人(野崎睦・金子洋組)出場
★金子博
「島の新聞」索引(人名別)
金子博
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数115
★金子弘文
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子弘文 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193509039.jpg)
★金子不泣(かねこふきゅう・太津平)
畑野小
![かね金子不泣](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202007131042191d1.jpg)
『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)
![かね金子不泣](http://blog-imgs-90.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160401102207520.jpg)
【生没】一八九二ー一九七○ 歌人。本名太津平、明治二十五年生まれ、畑野町の人。少年時代から文芸を愛好し、佐渡中学校在学中から、校友会誌や「中学世界」「文章世界」などに投稿した。早稲田大学予科に入学した明治四十四年(一九一一)、前田夕暮が「詩歌」を創刊すると同時に加盟し、以後生涯をともにした。大正二年(一九一三)病を得て大学を中退して帰郷、家業の呉服商を継ぎながら文筆活動にいそしんだ。大正四年、佐渡中学校の後輩たちが創刊した文芸誌「白壁」や、大正十三年山本修之助が発起した「純芸術」にも加わり、「純芸術」では編集名儀人となった。作歌においてはつねに「詩歌」を離れず、「詩歌」を代表する歌人として、その作品は『現代短歌大系』『短歌史』『新万葉集』などに選録されている。歌集に、『波の上』『童髪』『独居』『荒磯波』『風雪』の五冊があり、昭和四十三年(一九六八)には、知友たちによって母校の畑野小学校校庭に、「愛しきやし垂り髪少女幻に明るかりけり垂り髪少女」を刻む歌碑が建てられた。昭和四十五年三月十日、七八歳で没した。
【参考文献】木俣修『現代短歌の史的展開』(明治書院)、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
近代歌人・金子不泣は明治二十五年十二月二十日、父幾太郎・母トミの長男として生れた。本名大津平。不泣の短歌の才能はすでに旧制中学校時代から現われており、中学世界、中央公論、文章世界等の雑誌に投稿していた。
明治四十三年一月号の文章世界で 青鷺はおかしき声に嘆き行く なくべかりしかわが少女らよ が天位に入選している。
当時、彼の家は数町歩の田畑と山林をもつ中地主であったので、佐渡中学を卒業すると早稲田大学文学部予科に入学した。しかし、本科に進んでまもなく病気になり佐渡に帰って、家業の呉服店を継ぐことになった。 彼は生涯五冊の歌集を出版しているが、最初の歌集「彼の上」は彼が二十四才の時のもので、畑野小学校の校庭にある彼の歌碑
愛(はし)きやし垂(た)り髪少女(おとめ)幻に 明るかりけり垂り髪少女
は万葉仮名による不泣の自筆であり「波の上」の中の歌である。第二歌集「童髪」は昭和四年の刊行で、この頃、前田夕暮の門下であり、夕暮の主宰する白日社の創立当時からの同人で「童髪」の序文を前田が書いている。昭和十二年に刊行された第三集「独居」、また戦後の第四集「荒磯(ありそ)浪」や第五集「風雪」には社会派的な内容の短歌が多くなっている。不泣は詩もつくり、畑野小学校や後山小学校、畑野中学校などの校歌を作詞し、現在でも歌われている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。
この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子太津平(不泣)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/2014041617302613b.jpg)
![かね金子太津平 (不泣)(2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/201404161729487bd.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
歌人。明治二十五年十二月二十日、佐渡郡畑野町の幾太郎の長男として生まれた。本名太津平。佐渡中学校在学中「中学世界」に投稿、与謝野晶子の選で三首入選した。不泣の号は明治四十二年十二月の中央公論に八首を発表した時からで、それまでは白明、哀夜、未人などの雅号を用いた。同四十三年早稲田大学文学部予科に入学した。この年、文章世界一月号に窪田空穂選で短歌が天位で入選、若山牧水の創作社会員となった。四十四年四月月前田夕暮が白日社創設、雑誌「詩歌」を創刊したので同人となった。しかし肺結核におかされ、大正二年大学を退学、帰郷して家業の呉服商をついだ。歌集に「波の上」(大正五年二月十日、二十四才)「童髪」(昭和五年三月五日)「独居」(昭和十二年七月十日)「荒磯浪」(昭和四十二年十一月一日)「風雪」(昭和四十五年二月一日)がある。
佐渡の山 やまなみ低く 海に入る
その海近く 汝が住める家 (波の上)
童髪 母に結びて 箕ひゐる
わが児いとほし こほろぎの声
四十三年十二月十五日、友人らによって畑野小学校に歌碑が建てられた。四十五年三月十日に七十八才でなくなった。(佐渡の百年)
「佐渡高等学校百年史」
孤高の歌人、佐中を明治四十三年に卒業している。文学少年で、中学三年生の頃に隣村の青年たちの同人誌『黙の華』に参加して活躍し、さらに校友会誌『獅子ケ城』にも作品を発表している。創作意欲が旺盛で、中央の『中学世界』や『中央公論』などにも投稿した。「青鷺はをかしき声に嘆きゆく泣くべかりしかわが少女らよ」(『文章世界』明治四十三年一月号) が窪田空穂選による天位に入選している。そして明治四十四年四月、早稲田大学に入学した金子は、前田夕暮が主催する白日社の『詩歌』創刊に加わり、終生、白日社と行動を共にした。大正二年、病気で大学を中退して帰郷、以後佐渡にいて家業の呉服商を営みつつ作歌活動を続けた。木俣修は 『近代短歌の史的展開』の中で、『詩歌』 の作風を示す代表者として、不泣を取り上げている。門流や歌壇の外にいて門弟も持たず、孤高の歌人として昭和四十五年に七八歳で永眠した。
「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)
『童髪』(400首 昭和5年 白日社)
大正5年から昭和4年(三十七歳) までの歌を集めた歌集。作者は自身の歌を顧みて「単調で特異性に乏しいが深い愛着を持って居る」(歌集の後に)と述べ、師の前田夕暮は「新しい形態、新しい思想によるものではないが、純情詩の行くべき道であり、感情の高揚した芸術的価値高い歌は永遠性がある」(序)と高く評価している。歌とともに郷里佐渡の生活に断ち難い愛着を持っている作者には当然佐渡の風土を背景にした叙情歌が多い。
『荒磯浪』(474首 歌集 昭和42年 短歌研究社)
昭和19年から42年までの作から自撰した歌集。「只自分の言葉で自分の歌を作りたいと念願している」(あとがき)作者の歌について、深い理解を示す前田透は「もともと不泣は寂蓼を好んでテーマにする歌人であったが、この集ではその寂蓼を内深く噛みしめて骨の奥でしている。「荒磯浪」 「佐渡金山懐古」等佐渡を詠んだ多数の歌もー見対象を客観的に叙したようでありながら、底に深い寂蓼の影を潜ませている。
『風雪』(457首 昭和45・白日社)
第一部は昭和42年~44年最近作二二五首、第二部は明治43年~昭和18年「創作」 に発表した作品以後戦中までの歌集に未発表の歌二三二首。「自分で編んだ連歌集の積りで」(巻末記)発刊。前田透は「佐渡の風雪に堪えて作歌一路の六十年」とも「生の寂蓼を歌った風土詩人」 (序)とも評している。佐渡の持つイメージと作者の寂蓼感とが一体となって醸し出す味わいは、確かに晩年も枯れることなく瑞々しい。この集には巻末に作者の略歴も付されている。
「中川融とその周辺」
※「佐渡ジャーナル」59号~64号
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子不泣
1 金子不泣の歌 山田宣 23 傷ましき生-お父・金子不泣を語る-堀部知子 24 金子不泣論 (1)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 25 金子不泣論 (2)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 27 金子不泣論 (3)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 30 金子不泣論 (4)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 116 父をたどるの記(五) -秦野図書館と金子不泣さんのこと等 藤川滋 133 金子不泣氏歌集『荒磯浪』出版記念会 山本修巳
「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p386
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 10不泣さん 高野チェ 10 白日社の歌人 金子不泣 前田芳彦
★金子平次郎
「近現代の羽茂」
![かね金子平次郎 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/201907120904352ce.jpg)
![かね金子平次郎「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090438fe6.jpg)
★金子正直
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![金子正直](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201606011739329bd.jpg)
★金子政範
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、俵運搬4位。
★金子正義
![か金子正義](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190742601.jpg)
真野新町の人、両津高校16代校長(平成10年4月~平成12年3月)。
★金子勝(まさる)
![か金子勝](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190706c1b.jpg)
日本を代表する経済学者、慶応大教授。「朝までテレビ」等歯に衣を着せない激しい論調に熱烈なファンも多い。父が小木の出身で、「アエラ」のインタビューで、「電器店を営みながら大学進学を目指していた父はついに果たせなかった。その背中を見て育った」と。よく自らのルーツ佐渡を語り、「元気出せっちゃ佐渡-親父のふるさとへの提言」題して2011年にTPPについての講演会を行った。
「島の新聞」索引(人名別)
「ウイキペディア」より
★金子勝
県立佐渡女子高等学校21代目校長(昭和63.4.1~平成2.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★金子ミツ
「新潟日報」平成27年4月24日
![かね金子ミツ](http://blog-imgs-71.fc2.com/s/a/d/sado2298/20150424154858c89.jpg)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★金子優
佐渡高校時代の昭和43.6.8~10、柔道 県高校総合体育大会(柏崎工業高校) 団体戦優勝(飯田正貴・飯田正志・斎藤貢・金子優・北見敏明)
★金子優
「島の新聞」索引(人名別)
★金子真弓
「島の新聞」索引(人名別)
★金子美智子
「島の新聞」索引(人名別)
★金子峰人
佐渡高校時代の昭和63.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)4×400mR(金子清博・金子峰人・藤井賢一郎・中川清裕)6位
63.6.17-19、陸上競技北信越大会(富山市)4×400mR出場
63.10.1-2、陸上競技県高校選抜大会(長岡市)400mH5位
元.6.2-4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)400m6位・400mH3位
平成元.6.23-25、陸上競技北信越大会(長岡市)400m・400mH出場
★金子宗蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子宗蔵 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191542fed.jpg)
★金子守雄
金子守雄(弦芳会) ![かね金子守雄](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/202408141155171c2.jpg)
真野椿尾の人、昭和22年生。昭和56年に畑野会場の「NHKのど自慢」で優勝。佐渡おけさ全国大会(第1回)優勝。両津甚句全国大会(第3回)優勝など県内外の各種大会で高位入賞し、佐渡民謡の歌い手として活躍。平成8年新潟県民謡連盟公認教師(唄)、平成10年公認指導員(三味線)。現在は津軽三味線「弦芳会」(芳延)や新潟の雲雀竹延先生主宰の雲雀会に所属する。
→「聞き書き」参照(本人写真あり)
★金子森蔵
『新穂村史』(昭和51年刊)より
文弥人形は明治初年羽茂の大崎最松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間に栄えたものであるが、殊に明治初年から五-六〇年間の文弥人形が最もさかんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」などが知られている。
★金子紋蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
★金子紋平
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★金子弥五右衛門(紺屋家)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
沢根五十里の金子弥五右衛門(紺屋家)が幕末に赤泊港を三月二十三日に出立して、信州をまわり、日光、江戸を経て東海道を西に行って、伊勢参りをして、大阪、京都見物をして、北陸道で出雲崎へ出て、赤泊へ帰着した八十四日間の旅も記録に残っている。
★金子泰治
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子泰治](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173623c78.jpg)
★金子康成
両津高校時代の1975年度(S50)11月、新潟大学競書大会 特選
★金子幸代(ゆきよ)
イラストレーター
佐和田町窪田出身、佐渡高校平成4卒
https://www.kanekoyukiyo.com/blank-mpvle
上記サイト内Worksに書籍装画ほか多数カラー画像掲載
★金子豊
小木商工会長
![かね金子豊 小木商工会長](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202101028238.jpg)
★金子與右衛門
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
![か金子與右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103203808.jpg)
![か金子與右衛門 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103207cdb.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野町新町の特産堅地塗の椀屋。家は代々椀屋で四代目にあたる。
はじめ与伝といった。三代与七までは、あまり振るわなかったが、与右衛門は工人を養成し、徒弟の特長により、塗師、轆轤師、売子等分業にして、その発展をはかり、養成した工人は四十余名であったという。明治九年に七十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★金子陽之助
「島の新聞」索引(人名別)
★金子杳良
→羽生恕安の項
★金子よし子
![かね金子よし子](https://blog-imgs-79.fc2.com/s/a/d/sado2298/20221012091430cd6.jpg)
★金子由藏
笹川大山祇神社
![かね金子由藏 笹川大やまずみ神社](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202007131042247ac.jpg)
★金子芳蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子芳蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193614641.jpg)
★金子芳太郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
![かね金子芳太郎 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018111808350362f.jpg)
★金子良則
![かね金子良則 (2)](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240531114536abb.jpg)
「エスライフ」2012年4・5月号
![かね金子良則 エスライフ2012年4・5月号 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103845af8.jpg)
![かね金子良則](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200708091007589.jpg)
![かね金子良則](https://blog-imgs-119.fc2.com/s/a/d/sado2298/20180507100239f4a.jpg)
高世仁の「諸悪莫作」日記(2011-05-15 トキの育ての親 金子良則さん)
今夜は「情熱大陸」(毎日放送)で佐渡トキ保護センターの獣医、金子良則さんを紹介する。
以下、番組案内。
《学名ニッポニア・ニッポン。特別天然記念物のトキを飼育・繁殖しているのが「佐渡トキ保護センター」。金子はそこに20年勤めるトキ専門の獣医だ。トキはかつて日本のどこでも見られる鳥だったが乱獲により日本産トキは絶滅。最後の1羽を看取ったのが金子だった。 12 年前中国からつがいを譲り受けて繁殖に乗り出し、日本初の人工孵化を成功させたのも金子。まさにトキの歴史の「生き証人」だ。金子の悲願はトキの野生復 帰。3年前から金子が育てたトキを野外に放鳥、今では佐渡の空に30数羽のトキが舞う。そして今年こそ、と期待されるのが野生下での初のヒナ誕生だ。4 月、その悲願達成が間近となり金子は孫の誕生を待つかのように静かにその知らせを待っていた。そこに思いもよらぬ事態が――》
トキは日本以外に、中国、朝鮮半島、シベリアなどにも生息していたが、ロシア、朝鮮半島でも絶滅したようだ。中国のトキも日本産とDNAは全く同じで、譲り受けた2羽からはじめて、いまでは150羽以上に増えている。本州まで飛んでいったものもあるが、佐渡には30数羽が野生で生息している。もし、放鳥したトキからヒナが育てば、野生での繁殖ということになる。いったん絶滅した動物が、人間の手で野生に蘇えるというのは、すごいことだと思う。ただ、番組でも分かるように、なかなか難しいようだ。番組で、金子さんがこういう。「トキが(野生で)生きてるってことは、人間のありようっていうか、ちょっと人間も手加減すべきだと思う。ネオンなんてなくたっていいんだし、コンビニだってそんなんに夜やってる必要ないし・・」福島原発事故を経た今、この言葉は、とても説得力を持って聞こえてくる。トキはドジョウなど、田んぼの小動物を餌にしている。佐渡では、トキが蘇るようにと、農薬の使用を抑える運動が広まり、「農薬・化学肥料不使用の不耕起栽培米 トキひかり」という米も売り出されている。トキの野生復帰への願いから、人間の営みを見直そうという機運が、佐渡全体で盛り上がっていることに感銘を受けた。はやく「野生のヒナ誕生」の朗報が聞きたいものだ。
「島の新聞」索引(人名別)
★金子吉文
市報さど0604月
![かね金子吉文 市報さど0604月](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/2024053111453438c.jpg)
★金子佳史
佐渡高校時代の平成7,6、県高等学校総合文化祭、写真部門奨励賞 平成8.10,県高等学校総合文化祭、写真部門優良賞
「島の新聞」9号
![9よし吉井靖 広瀬大海 金子佳史](http://blog-imgs-100.fc2.com/s/a/d/sado2298/201611201753221c0.jpg)
「島の新聞」索引(人名別)
★金子裕一
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
真野には長い間歯科医がいなかった。昭聖○年代に両津の庄司歯科医が新町に出張診療警作り、真野の歯科医週三回ほど来ていた。本格的な歯科医院ができたのは、日本歯科専門学校を卒業した本田直一が、昭和二一年の四月に本田歯科医院を開業したのが最初である。その後、東京歯科専門学校峯業した金子裕一が、昭和二八年十月、金子歯科医院を開いた。本田歯科医院には直一のほか、日本歯科大学を卒業した長男の亘が医療に従事している。
★金子利郷
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子利郷 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191545e60.jpg)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村小泊、農業 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★金子柳太郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
![か金子柳太郎](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103159713.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
天保七年(一八三六年)に佐渡郡西三川に生まれた。
少年のころ倉谷の医師藤沢幸庵に謡曲を習い、十七才の時江戸に出て謡曲を学ぽうとしたが、父母に呼びかえされた。
安政元年(一八五三年)二十才の時、近郷の者と伊勢参りをして、途中から江戸に出て日吉寿六の門にはいり、命尾寿六にも学び、文久二年(一八六二年)に帰った。
江戸では将軍慶喜が日吉門の高弟の謡を所望し、柳太郎と宝生九郎がえらばれた。
後に鈴木重嶺奉行を通じてほうびを下賜された。
帰国後は潟上本間家に属していたが、潟上派はそのすぐれた技をねたんで排斥したので、明治八年、西三川派として独立した。
十年加賀に行き、能、太鼓、小謡、笛などを学び、十四年上京して金沢宝生家太夫嘉門について修業し、十五年四十七才で皆伝を許された。三十六年三月二十三日に六十八才でなくなった。(概観佐渡、佐渡人名辞書)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
天保七(一八三六)年生まれで幼名俊吉、幼い時から謡が好きで、初め倉谷の医師藤沢幸庵に習った。一七歳の時、能を学ぶために家出して江戸へ上ったが、父母に諭されて帰郷した。安政元(一八五四)年二〇歳の時、近郷の者の伊勢参宮に同道し、途中別れて江戸に出て日吉寿六に入門、また命尾寿六に謡を、一噌幸太郎に笛を習い、七年けいこの後、文久二(一八六二)年に帰国した。二七歳である。江戸にいた時、将軍慶喜は日吉に汝の高弟の謡を聞かせよと命じた。日吉は柳太郎と宝生九郎とを推せんした。その時の褒美として、お墨附と弓の絃箭五筋、及び葵の紋付と和歌を書いた扇子を、佐渡奉行鈴木重嶺を経て下賜されれたという。「西三川村誌」に出ている話である。
慶応三(一八六七)年潟上の本間右近に入門して地謡方になり、その後令蔵の地謡方になった。事件の起ったのは明治八年である。夏、羽茂の天神社で能があり、令蔵が道成寺を勤めた。地頭は金子で、折柄来島していた命尾寿六が鐘をひいた。さて終ったあとの宴会の厭で、「今日の道成寺の地謡は何だ。あんな謡では満足に鐘入りも鐘ひきもできるほずはない」と寿六が言い出して金子と口論になった。令蔵は立場上命尾先生に謝れと言ったが金子は聞き入れず、ここに佐渡宝生の分裂がはじまったのである。
金子は明治一一年加賀へ行き、波吉宮門について能を、一噌幸太郎に笛を、斉田千年に大鼓を、三須錦吾に小鼓を、増見仙太郎に金春流の太鼓を習った。帰って門下生を指導した金子は一五年に再び加賀へ行き、加賀宝生の太夫(分家)宝生嘉内に入門し、まもなく皆伝を許された。一六年に帰国し、翌一七年、自邸の敷地に能舞台を建て多数の能装束を買いもとめ、装束庫も作った。落成披露の能は六月三日から三日間続いた。能組は次のとおりである。姥捨 シテ金子柳太郎 ワキ畑福新三郎 相手役宝生嘉内、波吉宮門、波吉万十郎、斉田千年、島田磨佐記、岩佐佐吉、川井清次郎他ほかに金子太夫は三老女、桧垣、関寺小町を演じ、相川町の観世流遠藤清五郎可清ほ羽衣盤渉の駿河舞を舞った。遠藤はこれが舞い納めで、佐渡観世は退転するのである。なお地謡方は金子金太郎、金子武平、臼杵五蔵、印銀作蔵、本間作太郎、中川治作等であった。金子は加賀宝生の流れをくむ太夫として免状を出すことになり、入門する者も増えた。こうして佐渡の宝生は二流の対立となったが、まもなく令蔵は上京して高田商会に勤め、二二年には旭ビール会社に転じ、三三年に帰国した。この間も時々佐渡へ帰って能に出演したが、その間に西三川流の勢力が伸びて行った。殊に金子の功績として特筆に価するのは、笛の島田磨佐記(加賀)太鼓の高安三太郎(江戸)太鼓の川合彦兵衛(加賀)等一流の役者を佐渡に迎えたことである。明治維新に際し生計の道を失ったかれらにとっては渡りに舟であったであろうが、世話をする者にはかなりの経済的負担が必要だったはずである。金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
「佐渡広場」より
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある) ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。 売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる) その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
→金子佳愛(高次郎)
→松本栄太郎
★金子良一
村上神社
![かね金子良一 村上神社](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20230628183052b4b.jpg)
★金子玲子
佐渡高校時代の昭和40,全国学生選書会展推薦特選
★金子六左衛門(堂釜)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。堂釜は、鎌倉時代すでに記録に表われる村です。この村は大部分が金子姓であり、大屋は六左衛門です。先祖は嘉禄(一二二五)のころ能登からやってきたという伝承をもっています。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金田六左衛門 129 〈資料〉佐渡産業功労者 伝記 山本修之助
★金島甫西(かねしまほさい)
![かね金島圃西](http://blog-imgs-90.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160401102208e87.jpg)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
画家の囲西は保明・保生・甫鳴とも言う。本名を忠治と言い明治三十四年四月二十五日、父仙吉、母トワの長男として生れた。幼い時から体が弱かった彼は、好きな絵ばかり描いていたが、やがて、二見の平岡玉匠に師事した。昭和五年には新潟毎日新聞社で個展を開催した。彼の代表作のひとつに加茂神社能舞台の鏡の松がある。昭和二年に中川湖舟(野高屋 新左衛門)・中村泣花(目黒町 平次郎)・本間秋月(何代)・島田芳翠の五人の同人で「朱鳥」といぅ謄写版刷りの雑誌を出版していて、金子不泣・本間五丈原・山本修之助らの寄稿があった。当時、金島家は文化人のたまり場であった。昭和二十一年六月十日、四十五才の若さで没した。
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1951年、財団法人日本ボールルームダンス連盟認定のダンス教師。昭和62年度・第8回日本インターナショナル・ダンス選手権大会出場、地域ソシアルダンスサークルを32年間指導
★門口由貴枝
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1956年。財団法人日本ボールルームダンス連盟認定のダンス講師。
昭和62年度第8回インターナショナルダンス選手権大会出場。
地域のソシアルダンスサークルを27年間指導。
★門田岳久(かどたたけひさ)
![かど門田岳久](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/20250205110509f23.jpg)
右から二人目
![かど門田岳久 かどたたけひさ 右から2人目](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190548e05.jpg)
昭和五三 (一九七八)年、愛媛県生まれ。文化人類学・民俗学専攻。現代的な聖地巡礼の研究のほか、佐渡では近年、廃校舎の再利用とコミュニティ維持に関する研究を行っている。主な著書に『巡礼ツーリズムの民族誌-消費される宗教経験』 (森話社)、「運動と開発-1970年代・南佐渡における民俗博物館建設と宮本常一の社会的実践-」(『現代民俗学研究』 5 杉本浄と共著)など多数
「さどの島銀外芸術祭2024」1
「さどの島銀外芸術祭2024」2
「島の新聞」索引(人名別)
★門野籐七
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かど門野籐七](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201606021847067d9.jpg)
★門野正志・門野フジノ
![かど門野フジノ 「手わざ図鑑」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103836f0c.jpg)
![かど門野正志 エスライフ2007年5・6月号 (1)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202102081038376e2.jpg)
![かど門野正志 エスライフ2007年5・6月号 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2021020810383986d.jpg)
![かど門野ふじの](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202310091815241c4.jpg)
![かど門野ふじの (2)](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202310091815248ad.jpg)
「島の新聞」索引(人名別)
★門間両蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かど門間両蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201605301657406ab.jpg)
★金井二郎
href="http://sado2298.blog.fc2.com/img/202312230946394cb.jpg/" target="_blank">
![かな金井二郎](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202312230946394cb.jpg)
★金井甚平
小木琴浦神社
![かな金井甚平 (1)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083456cf4.jpg)
![かな金井甚平 (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083458fa7.jpg)
★金井清司
「躍進日本」
![かな金井清司 「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094120644.jpg)
★金井鳳台(直方)
『小木町史』(下)より
金井弥平治家は代々商家でした。金井鳳台の父のとき五代といっていますから、家は元禄の前頃に立ちはじまったとしてよいでしょう。さて、ここで語ろうとする金井鳳台は、明和四年のころ、父保救の長子として小木町に生まれ、直方と名付けられました。そのころの佐渡には、いろいろをできごとが起きていました。代官の不法に端を発する宝暦の飢饉による餓死者の発生、明和の長谷村遍照坊の僧智専による代官所のうちこわし計画の発覚と智専の死刑をどは、政治にたずさわる人びとの狂暴な側面をあますところをくのぞかせていました。安永七年(一七七八)七月五日には、銀山の水替人夫として江戸から無宿六十人(二人は道中で死亡)が目篭に入れられ小木湊に着きました。弥平治の直方少年は、この光景を見ていたにちがいありません。悪いことをすれば鉱山へやられる。のちに直方が荻生徂徠の学風を慕うのは、この少年時代の小木の風土をぬいて考えることはできないでしょう。やがて、養子に家業をゆずり京都にのぼった直方は、眼科医術を学んで帰国し医者となりました。その一方で読書指南所をつくって町人の子弟を教育したのです。『佐渡人物志』には、「小木の文化是より興る」と金井鳳台を位置づけています。鳳台の学風は、荻生徂徠、太宰春台の説を重んじたといいますから、その学風はもはや朱子学とはちがうものでした。荻生徂徠は、十七世紀から十八世紀にかけて(一六六六~一七二八)の人です。柳沢吉保の殊遇を受けた人で、将軍吉宗のために『政談』をあらわしました。徂徠は、物事には絶対いつも正しいというようをものはなくて、その時代時代によって考え方は変えていかをければならをいと主張しています。儒学者ではありましたが、むかしの末子学者とは大変ちがっていたのです。太宰春台は、信州の人で荻生徂徠の門人です。『経済録』をあらわした人として知られています。鳳台には『発字四声便蒙解読集』という一巻があります。それは、太宰春台の監訂した『発字便蒙解』を補ったものといわれています。また、数学にも詳しく、小木では大変な人望を得ていました。門人としては、高津〇(偏は眉、旁は郡の旁部分)山、畠山豊昌、中川友直、天田青〇(草冠に青)莪、金井良談、後藤亮采、渡辺為忠などが出ています。伝承によると、文化年中、佐渡に塾頭矢島主計(沢根五十里村の人)をたずねて来遊した亀田鵬斎が、鳳台と語り合ってその学識を称したと伝えられています。ここで思うことは、文化のはじめ(一八〇四~)佐渡に来国し、小倉でエゾ地、外国の講議をした新井精斎先生のことです。新井精斎はエゾ地を回りその事情に詳しく、ロシヤ使節レザノフ来朝の際には、そのことにかかわった人物といわれています。新井精斎の塾には矢島主計が学んでいますし、その新井精斎がしばしば小木の阿弥陀院に出講義しているところをみると、金井鳳台は新井精斎とも墾父があったと思われます。鳳台は、文政十二年(一八一九)二月十六日に六十四歳で没しました。元小木の海潮寺の境内にはその石碑が建っています。
金井鳳台碑銘
先生 諱(いみな)は直方、字は文思、姓は金井、鳳台と号す。佐渡小木の人、眼を療(いや)すを以て業と為す。かたわら儒術を以て従弟を導く。早く父を失い、負笈(ふきゅう)にいとまなし。すなわち字書に就きて推究し、遂に経芸に通ず。最も徂徠・春台の説を悦び、また音韻に明かなり。また算法にくわし。人となり質直率易、媚びずへつらわず、而してまた人を譏議(きぎ)せず。酒を嗜み数斗を飲むも乱れず。命に順い貧に安んじ、自ら楽しみて晏如たり。文政十二年二月十六日を以て疾みて家に没す。海潮寺に葬むる。村川氏を娶り、三子女を生む。長女は畠山道亮にとつぎ、長男一喜は家を嗣ぐ。次男は早く夭す。銘に日く、
術 昏廃を救い 訓(おしえ) 郷隣に倣(あつし)。道を崇め学を好む、賢なるか若(かくのごとき)き人。勒(え)りて此の碑に銘す、夜台(はか)千春なり 大学助源朝臣寵 撰幷書
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金井鳳臺](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101752d96.jpg)
![か金井鳳臺 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101758359.jpg)
★金井雄治
「躍進日本」
![かな金井雄治「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202009240941218a0.jpg)
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p55
★金井良談(らだん)
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金井良談 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/201404211031267f0.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版):佐渡小木の人で、名は利恭、通称を与三五郎、別号を面快堂という。天田青我に学び俳諧をよくし、当時、国中第一の宗匠であった。家が代々紺屋であったので、世の人は紺屋宗匠といった。嘉永五年(一八五二年)に七十七才でなくなった。(佐渡人名辞書、佐渡人物志)
「島の文学碑巡り」(佐々木義栄 新潟日報 昭和41年)7
★金岡恵美子
真野豊田の人、「ささえ愛あいの山」代表。令和2年3月没(65歳)。真野の「さくら音頭」振付なども担当。
・佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 女子走幅入賞
![かな金岡恵美子](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094123ec7.jpg)
http://www.sasaeai-coop.com/files/libs/34/201302021145132454.pdf
「島の新聞」索引(人名別)
★金川鐘雲
佐渡高校時代の31.6.9~10、陸上競技全国高校大会県予選会(新発田市)総合64点優勝、棒高跳1位
31.7.1、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(高田市)総合45点優勝、棒高跳1位
32.6.8~9、陸上競技全国高校大会県予選会(柏崎市)総合29点2位、棒高跳3位・ハンマー投4位
32.6.30、陸上競技全国高校大会信越地区予選会(校本市)総合24点2位、棒高跳入賞
32.8.30、陸上競技信越高校対抗選手権大会(松本市)走高跳2位
32.9.21~22、陸上競技県総合体育大会(新潟)棒高跳1位
★金具師善右衛門
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金具師善右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418102032ab6.jpg)
★金刺福貴満
『佐渡流人史』(郷土出版社)より
嘉祥三(八五〇)佐渡に配流。配流年月不詳。「佐渡配流罪入金爽福貴満を放還する」とある。放還とは身分を剥奪して民間人にもどすこと。 (『文徳実録』)
★金刺(かなざし)操
大正4年10月27日死亡)河原田諏訪神社祠官、学務委員。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
河原田町 ・明2、相川監獄移転の決議[二十年七月]・明2、監獄実地調査[二十一年六月]・明2、官衙移転期成同盟会[二十一年十一月]・明2、越佐同盟會の創立[二十二年三月二十一日]
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★金沢和夫(かなざわかずお)
1925年、新潟市生まれ。日本考古学会会員。日本民俗学会員。著書に「下仲野御神楽」、共著書「佐渡-島社会の形成と文化」などがある。真宗大谷派西光寺住職。
『図説 佐渡島-自然と歴史と文化-』(1993年 佐渡博物館刊)の共同執筆者の一人。
★金沢喜一
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
明治四一年生まれ、山本清左衛門の門下を代表するシテ方である。
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
→山本清左衛門「清諷会」参照
★金沢清左衛門
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金沢清左衛門 130 金沢清左衛門の羅針盤と静野与右衛門の羅針盤 堀口俊二
★金沢瀬兵衛(かなざわせへえ)
【生没】生・没年不詳 文化八年(一八一一)二月から文化十三年七月までの間の佐渡奉行。勘定吟味役からの転役であった。そのころ相川金銀山の稼行間歩は、青盤間歩と鳥越間歩の二間歩のみ、一○日間の鏈の代銀は銀一貫目ほどであった。金沢は、雲子間歩・青柳間歩の再開発をして、失業者に職を与えた。青柳間歩は道遊の割戸の下で、開発は宝永二年(一七○五)と伝えられる間歩である。金沢はこの費用として、役人が積みたてた出目銭四○○○貫文を上げ金させている。文化十年には中尾間歩を取明け、文化十二年には清次間歩を本途稼ぎとして、鉱山は危機を脱したのである。良吏として知られた。佐渡奉行から長崎奉行に転役した。【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』 【執筆者】田中圭一 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡奉行、文化八年(一八一一年)二月九日、勘定吟味役から佐波奉行となり、十三年七月二十四日百俵加増され、長崎奉行へ転役し、大蔵少輔と改めた。名は平千秋、知行は二百俵、役料干五百俵百人扶持である。(佐島遺事)
★金沢督(おさむ?)
「越・佐傑人譜」(昭和13年)
![かな金沢督 越・佐傑人譜 昭和13年](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240118112645484.jpg)
佐渡中学6回生、渡米しシアトルのパルマ専門学校卒。
→鈴木卓苗 「佐渡高等学校百年史」
「佐中生の海外渡航熱」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p374・381
★金沢フミ
『新穂村史』(昭和51年刊)より
新穂の茶の湯は裏千家流志田静子と会員約五十名、江戸千家流金沢フミ外五十名があり、一時佐藤徹次郎等の同好会四日会もあった。現在はわずかに大野杉山スエが自宅で、その他総合センターの講座等で教えている。
★金沢屋旅館
離島建築 箭内博行 令和6年4月
★金島甫西→金島甫西(かねしまほさい)
★金杉悦子
佐渡高校時代の昭和60.1.19-20、バドミントン県高校選抜大会(新潟市)女子団体2位、金杉悦子女子シングルスベスト8 、女子団体は北信越大会(新潟市)に出場。60.6.1~3、バドミントン県高校結合体育大会(新発田市)女子団体2位 金杉悦子・内田美和子女子シングルスベスト8女子ダブルス(本間・内田組 中山・金杉組)ベスト8
★ 金杉人形店
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
佐渡といえば、すぐ「おけさ」を思い出すほど有名になっている。「おけさ人形」の生まれるのは当然で、年間の生産量も七、八千万個といわれる。この人形は、顔と手足を雛人形の産地埼玉県岩槻市から、着物を織物の産地京都や群馬県桐生市から仕入れている。この着物は、人形にあわせた裾模様をもちいている。人形店ではこれらを、胴体に十八番線の針金を中心に、藁や綿をまき、これに顔や手足をつけ、着物を着せるのが仕事である。現在、こうtた人形店は島内に十軒ほどあり、真野町では金杉、佐々木、高橋、新高の四軒がある。そして真野町の生産高は島内の七割を占め、これに従事する人も約百五十人もいる。町のたいせつな産業であり、「人形の町」とよばれるほどである。これは、真野町金杉人形店が、昭和二十七年ころからはじめたもので、最初は顔を土でこしらえ、目鼻を描いた時代もあった。種類も、一人踊りや二人男女の組み踊りから、大きさも五、六十cmの大型から十一、二cmくらいまである。
金杉人形店で作る「おけさ竹皮人形」がある。十cm前後の男女の人形が竹の皮で作ってあるのは珍しい。佐渡では竹の皮を、昔、切り飴を包んだことから「飴の皮」と呼んでいる。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★ 金杉銘石堂
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)より
店頭にならべてある「おけさ人形」は、一種の雛人形であるが、最近「組おどり」という和紙のおけさ人形がある。これは、真野町金杉銘石堂が作るもので、二十三cmくらいのおけさ笠の下に八cmくらいの和紙の着物を着た六個の人形が、糸でつられている。ゆれるたびに人形が踊るという動的なものである。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★金玉(かなたま)九五
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・12・8・7-8 第7回県中等学校水上競技選手権大会(県水上競技連盟・県中等学校体育連盟)佐中プール
(佐渡中)200平⑥、総合②佐中48
★金津鷹蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かな金津鷹蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061935049b2.jpg)
★金丸千津江:真乃史優
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「7号」(平成18年10月)浅草公会堂に於て「第16回舞踊の会」が開催(真乃史優:金丸千津江)
★金丸村九右衛門
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸村九右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101806efb.jpg)
★金丸本郷善太郎
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸本郷善太郎](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/2014041810202824c.jpg)
★金丸村本郷両替屋三輪屋善内・名主季兵衛
『佐渡人物志』 (萩野由之 昭和2年10月刊)
![か金丸村本郷両替屋三輪屋善内・名主季兵衛](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101809568.jpg)
★金森宏三
佐渡高校時代の昭和44.10.4~5、陸上競技県高校新人大会(新潟市) 入賞
45.6.7~8 、陸上競技県高校結合体育大会(高田市)棒高跳に入賞
45.6.27~28、陸上競技全国高校結合体育大会北信越予選会(高田市)棒高跳4位
★金森大蔵
佐渡高校時代の昭和39,10、全国学生選書展特選
★金森貞蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金森貞蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193616e9f.jpg)
★かね
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
長寿者。佐渡国久知河内村(両津市)六右衛門の母である。天保四年(一八三三年)九十五才になったので役所から老養扶持を与えられた。(佐渡年代記中巻)
★金子秋雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
昭・15・6・23 第3回近県中等学校水上(新潟市水上競技連盟)
(佐渡中・30点4位)300mメドレー②佐中4・02・9、200リレー③佐中、800リレー④佐中、200平➄
昭・15・7・26 第10回県中等学校水上選手権(県中体連・県水上競技連盟)佐中競泳地
(佐渡中 総合3位34点)200平④ 3.10.3
昭・15・7・27 第12回県水泳選手権・日本水上選手権予選会(県水上競技連盟・県体協)・第8回佐渡水上競技選手権(佐渡水泳協会)
200平鉱山長杯②
★金子浅吉
「函館市と新潟県人」
![かね金子浅吉 函館市と新潟県人](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240205114345243.jpg)
★金子浅次郎
『赤泊村誌(上)』より
赤泊上町の人、明治三七年の生まれ。少年時代から金子鉄道で働きたいという望みがあった。そこで赤泊の出身で小樽の電燈会社に勤めていた中川清太郎さんに相談をもちかけた。運の良いことに、その電燈会社に小樽築港駅長の弟が勤めていて、その人のとりなしで鉄道に勤めることができた。大正一五年六月一九日、金子さんはその日〝鉄道駅手″になった。金子浅次郎が日本の歴史の一頁を飾っていることを知っている赤泊の人は何人あるだろう。彼は仲間と共に、六人乗りボート競技フィックスで昭和五年、昭和七年の日本選手権、さらに昭和二三年の国体では監督として合わせて三回、全国征覇を成し遂げたのである。昭和二三年についてだけ『小樽漕艇六〇年の航跡』 (昭和五五年刊)から記録しておくと昭和二十三年 第三回国民体育大会 一般の部 優勝 小樽築港 監督 金子浅次郎 「カラスがボートで優勝した。」当時、鉄道員といえば真っ黒のツメェリが制服で、カラスとあだ名されていたのである。金子さんは鉄道に三二年勤めた。その間、小樽築港駅定貞一四七名の駅長にもなった。鉄道駅手から駅長まで、彼は小樽の駅一筋に生きた。小樽には家も建て、息子もー人前になった。やがて停年が過ぎて金子さんは娘のいる赤泊に帰ってきた。
★金子浅次郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
嘉永五年生 羽茂村大橋 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★金子朝蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子朝蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018100619360700a.jpg)
★金子東
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子東](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173656b99.jpg)
★金子伊右衛門
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)
![かね金子伊右衛門 佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094127e6c.jpg)
★金子勇(しこ名 平沢 出来清水)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
・平澤の人、昭和6年の第15回青年団スポーツ競技会(相撲の部)で優勝する。
・明治43年生まれ、昭和36年52才で死去した。(1910年~1961年)両津市平沢の金子善太郎家の出身である。生涯平沢に住んで、善栄丸という5トン船の漁師を業とした。この人は、力士として昭和10年頃から終戦まで佐渡随一とうたわれた相撲取りであった。肥満型の体格で、非常に温和な人柄であった。相撲界には珍しく酒は一滴も飲めなかったが、交際は立派で、子息のことば通り、「人様には大騒ぎされました。」(※佐渡ことばで、人に好まれ人気があったの意。)得意技は腹やぐらであった。当時の越佐対抗で越後各地に遠征したもので、越後の力士間にも『佐渡の出来清水さん』と言われたものである。晩年糖尿病に悩み、それが死因となったが、子福老で9人の子を残して、子孫はそれぞれ各地で栄えている。化粧廻しは平沢の大名乗りであったので、南平沢の区長が保管している。
★金子石松
人形芝居関係者。
→「金子善次郎」参照
★金子いずみ
佐渡高校時代の平成4、全国高校文化祭(沖縄県)美術部門、絵画の部、県代表として出品
★金子伊太郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子伊太郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193506110.jpg)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子伊太郎](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601174356a7d.jpg)
★金子猪之吉
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
佐和田町沢根の人、沢根人形創始者。出店(でみせ)人形ともいう。明治十三年小木町の大崎屋松之助の人形を買ったもの。太夫は伊藤常盤ノー、役者はこの猪之吉のほか有田小三郎、寺屋吉兵衛であった。猪之吉は、はじめ同地の青野半五郎(青野奉書の生家)の持ち船「万徳丸」に乗り、大阪通いをしていた。そのため大阪の文楽などを見て、人形好きになったのかも知れない。彼は役者として「口上(こうじょう)人形」と「狂言人形」の名人であったという。大正五年十二月十二日七十四歳で死んでいる。
★金子厳
(『佐渡広場』より)
(大崎の能の系譜)
葛原五兵衛(1804~1845)→川口宇平(1818~1876)→藤井泰延(1820~1889)→本間藤平(1830~1904)→大場喜太郎(1861~1933)→「今日名をなす者の多くは此の門下である」と1956年刊の『羽茂村誌』にある。また、(羽茂)本郷の三羽烏といわれた飯岡の金子厳、上山田の佐久間甚吉・若林郷太郎の3氏は、大場さんの下で謡曲の勉強をしていたとある(『佐渡広場』「佐渡の能楽45:外山久次翁の能楽人生」)。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=2
★金子岩吉
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子岩吉](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201605281016521fc.jpg)
★金子穎一(えいいち)
「島の新聞」索引(人名別)
★金子栄太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]
★金子恵里
佐渡高校時代の平成7.2.26、陸上競技全国都道府県対抗クロスカントリー駅伝大会(千葉県)新潟県代表選手として出場
平成7.6.2~4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)3000m7位
平成7.11.1、陸上競技県高校駅伝大会(新発田市)女子(金子恵理・鈴木理佳・北見昌恵・山田瑞穂・石井朱里)4位
★金子恵理
佐渡高校時代の平成8.5.30~6.1、バドミントン県高校総合体育大会(村上市)女子団体ベスト8 大間美絵子女子シングルスベスト8、大間美絵子・近藤杏奈組 金子恵理・村上友美組 女子ダブルスベスト8
★金子佳愛(高次郎)
小布勢神社境内
![かね金子佳愛 小布勢神社境内](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083459799.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊):能役者金子柳太郎の養子。金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。金子高次郎はこのことで失意の人となった。「佐渡能楽会創立趣意書」を見ると、高次郎が売却した装束小道具等は「元来吾等連中苦心ノ余り成レルモノナレバ」とあるから、責任を問われても仕方のない点があったのであろう。しかし、高次郎が行った上京能興業の赤字をうめるためもあったが、養父柳太郎が能に熱心のあまり財産を傾けたところにも問題があったと思われるから、その意味では高次郎には同情すべき面もあったのである。高次郎はいつも「能は芸術ではなく芸道だ」といっていたという。薙刀の型を覚えるとき、師匠の宮門に言われて武道の薙刀の道場へ通った逸話がある。芸の上では練達の士で、舞台の広さを芸に生かしたという。名を佳愛と改め、能楽会ができてからまもなく上京就職したが、戦時中帰国し、迎えられて笛畝会を婚導した。昭和三〇年の夏、西三川中学校前に建てられた寿碑には、「技術既に円熟の境地に達すと雖も常に切磋琢磨を怠らず……其入神の演能妙技と高潔なる人格は世上推頌項措かさる処」と記されている。亡くなったのは昭和三六年五月、享年八二歳だった。
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50030367.html?p=2
→金子龍太郎
→松本栄太郎
★金子嘉一郎
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡新町漆器の祖である。赤泊村下川茂馬道市郎兵衛の子である。
能登国輪島の工人が六十六部となって佐渡に渡り、市郎兵衛の家に来て椀の製法を伝えた。
嘉一郎は弟忠次郎とその法をならい、宝暦年中(一七五一-六三年)兄弟ともに新町に移り、椀師を業とした。
忠次郎は一代かぎりで廃業。嘉一郎の子孫は業をつぎ、二代与右衛門(文政三年没、三代与七(文化九年投)までは、あまり業務ほ振るわなかった。(佐渡人名辞書)
★金子和之
![かね金子和之 (1)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202102081038469ff.jpg)
![かね金子和之 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202102081038488f5.jpg)
![かね金子和之 (3)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202102081038496cb.jpg)
![かね金子和之 (4)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103851aca.jpg)
![かね金子和之 (5)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103852d14.jpg)
![かね金子和之 (6)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103854c16.jpg)
![かね金子和之 (7)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103855fa2.jpg)
![かね金子和之 (8)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103857629.jpg)
![かね金子和之 (9)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103858d2a.jpg)
![かね金子和之 (10)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103900504.jpg)
![かね金子和之 (11)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2021020810390119b.jpg)
![かね金子和之](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103955886.jpg)
「東京中日スポーツ」(2020年12月6日)
津ボートの「中日スポーツ高虎杯争奪戦」は最終日の6日、12Rで優勝戦が行われ、4号艇の金子和之(33)=埼玉=がカドからコンマ09のSからまくりを決め快勝。デビューから8年7カ月、10回目の優勝戦進出でうれしい初優勝を飾った。2着はまくり差した木下陽介、3着にはインで残した興津藍が入った。3連単は8万6990円の高配当決着となった。しっかりとまくり切った。カド4コースからコンマ09の好スタート(S)を決めた金子が決着をつけた。「Sは思い切っていけたし、準優と同様に舟も返ってきた」と会心のレースを振り返った。今節の相棒36号機は、G1周年記念で松井繁が優出(6着)、前節の東本勝利も優勝戦に駒を進めた(6着)上昇機。「伸びは出ていくことはなく、水原選手や木下選手の方が上だった。でも、行き足やターン回りがいいエンジンで、優勝戦も微調整をしただけで、舟足は良かった」と仕上がりには自信を持っていた。レース後には仲間により水神祭が行われ、全身水に濡れながら「今後はもっと上を目指して、優勝回数を増やしていきたい」と意気込む。関東のエース候補の活躍が楽しみになってきた。
★金子勝雄
左より 斉藤一三代・飯山弘・高橋繁実・金子勝雄(赤泊演劇クラブ)
![かね金子勝雄 左より 斉藤一三代・飯山弘・高橋繁実・金子勝雄 赤泊演劇クラブ](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202100905ee4.jpg)
![かね金子勝雄 赤泊演劇クラブ (2)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202100906b29.jpg)
![かね金子勝雄 赤泊演劇クラブ](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202100908451.jpg)
![かね金子勝雄(右端)赤泊演劇クラブ](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202100909878.jpg)
![かね金子勝雄 (1)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200229175140553.jpg)
![かね金子勝雄 (2)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200229175141319.jpg)
![かね金子勝雄 (3)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200229175143c80.jpg)
(ラ・ラ・ネット指導者名簿より)
生年:1946年。民話語り部2段。佐渡に伝わる民話がたりの指導。特定郵便局勤務35年。
小中高、保育園、婦人会、老人会、福祉施設、地域、PTA等で民話語り講演。
★金子克巳
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
新町でタカミ獅子を舞わせたのが、近世のいつ頃からだったのかほ不明である。古い獅子頭のほかに長さ五間余りのほろが残っていた。古老のいい伝えでは明治の半ば頃までは使われたというが、それを実際に見た者はいない。残っているのは一頭だった。復活したのは昭和五二年一〇月一六日の祭りからであった。佐々木芳博・中川敏彦・本間安子等一二、三人の人たちがけいこを始めた。古い頭は幅六五センチメートルほどの大きさ、ホロは何十人も入るもので、町を練り歩くだけだりたと見当がつく。しかし新しい獅子には多少の芸をさせたいというので、三〇センチメートル程の小型な頭を二つ作り、ホロは商工会にあった小さい物を借り、適当な太鼓のリズムにあわせて門ごとに舞わせて歩いた。新町相撲がなくなって、それにかわる程の人気のある余興をもとめることのできなかった新町ではかなり好評だった。しかし一〇人余りの小人数で五〇〇戸を廻るのは重労働だった。二年続いて来年はあぶないといわれたころ、芸はできなくても旧に復して大獅子にしたらどうかということになった。金子克巳や高野宏一等数名が呼びかけて始まりたのである。フジミは渡部裕次郎が作り、赤・黒二頭の色は島倉伊三武が塗り、島倉勘十郎や島倉七兵衛が組み立てた。昭和五四年、氏子の家から古蚊張を寄附してもらい、男女数一〇人の青年がいく晩もお宮へ集まって獅子のホロに仕立てた。寄附金で揃いのハッピを作った。
★金子勘五郎
![かね金子勘五郎 真野町史(下)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100356f.jpg)
![かね金子勘五郎 真野町史(下)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100356f.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
旧小布勢村村長、明治(不明・二六・六・三~)。
明治二四年六月の県議会議員補欠選挙では、西三川村の金子勘五郎が大同派(自由党系)から当選した。金子勘五郎は、弘化二(一八四五)年九月十四日に笹川十八枚村に生まれた。父勘三郎は第二八大区の副大区長を勤めており、代々佐渡の政治に活躍した家柄であった。勘五郎は明治二二年から三郡町村組合会の議員に選ばれ、明治二五(1892)年には鵜飼郁次郎の越佐同盟会に加入している。翌二六(一八九三)年に佐渡自由倶楽部が結成されるとその評議人になり、一時中断していたが明治三十五年新しく組織替えされるとその組織委員の選ばれさど自由党と共に歩んできた人物である。
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
弘化二年生 西三川村大小、農業 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]・明2、第八回選挙[二十三年七月七日]・明3、第九回選挙[二十五年三月]・明3、佐渡に於ける民党懇親会[二十五年三月十五日]・明3、佐渡自由倶楽部の創立[二十六年四月三十日]・明3、佐渡の自由派倶楽部設置の協議[三十三年四月十一日]
★金子勘三郎
笹川地区
![かね金子勘三郎 笹川地区 (1)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104129b8e.jpg)
![かね金子勘三郎 笹川地区 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104131ada.jpg)
★金子勘四郎
「近現代の羽茂」
![かね金子勘四郎 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090432bcd.jpg)
★金子紀久夫
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★金子吉四郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
八幡村 ・明4、県下町村分合[三十四年十月]
★金子吉太郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・昭2、佐渡政友倶楽部の秋季大会[四年十月十八日]・昭2、政友倶楽部の役員追加[五年十二月二十四日]
★金子恭輔
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
工学博士。明治十五年三月二十九日、佐渡郡相川町で生まれた。
東京帝国大学工科を卒業し、秋田鉱業専門学校、九州帝国大学各教授となった。
退任後太平生物化工業社長に就任した。(新潟県年鑑)
★金子清
「近現代の羽茂」
![かね金子清 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/2019071109364678b.jpg)
★金子清博
佐渡高校時代の昭和63.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)4×400mR(金子清博・金子峰人・藤井賢一郎・中川清裕)6位
63.6.17-19、陸上競技北信越大会(富山市)4×400mR出場
★金子金治
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子金治 69 連載 閑々亭雑記 (21) 佐渡中学校の試験問題に佐渡の民謡:金子金治 山本修之助
「佐渡おけさの流行」(「佐渡の百年」)
★金子金十郎
「近現代の羽茂」
![かね金子金十郎 「近現代の羽茂」 (1)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090433546.jpg)
![かね金子金十郎 「近現代の羽茂」 (2)](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/201907120904354d3.jpg)
★金子金太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。
印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子啓次
![かね金子啓次](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20231223122734ecf.jpg)
「佐渡ジャーナル」(平成27年10月15日)
![かね金子啓次佐渡ジャーナルh27 10 15 (10)](http://blog-imgs-82.fc2.com/s/a/d/sado2298/20151019101225f26.jpg)
新潟日報」平成28年4月28日)
![かね金子啓次 h28428](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/2016050108504636c.jpg)
「エスライフ」(平成29年10・11月号)
![かね金子啓次](https://blog-imgs-116.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171012201656f3e.jpg)
![かね金子啓次 (2)](https://blog-imgs-116.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171012201658ca0.jpg)
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「43号」(平成27年10月)・グラフ佐度(・たらい舟職人 小木金子啓次さん)「62号」(令和2年7月)・グラフ佐度(・たらい舟のナイトクルージング)※金子啓次 「64号」(令和3年1月)・看板犬が警察犬に ※金子啓次
★金子敬二
佐渡高校時代の昭和44.6.7~9 、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市) 走高跳1位
45.6.7~8 、陸上競技県高校結合体育大会(高田市)走高跳3位
45.6.27~28、陸上競技全国高校結合体育大会北信越予選会(高田市)走高跳2位
45.10.3~4、陸上競技県高校新人大会(新潟市)、走高跳2位
★金子啓太郎
→若林米蔵「笛畝会」参照
★金子兼吉
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子兼吉](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140418101430d39.jpg)
★金子元吉
「島の新聞」索引(人名別)
★金子健治
「島の新聞」索引(人名別)
★金子健二
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子健二 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193507de0.jpg)
★金子健治
諸情報
★金子幸治郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
安政六年生 新穂村皆川 ・明4、第六回佐渡郡会議員選挙[四十四年九月三十日]
★金子康蔵
「葛西周禎と長谷川海太郎」(「徳和の口碑伝説その他(昭和45年 高木彦治 ))
★金子琴栄
(『羽茂村誌』1956年刊より)
大正7年(1918)に大崎屋松之助の50年忌(死亡年月日不詳なるも一応この年年忌行事を執り行った由)に碑を生家の近くの地に建てた。(なお、『近現代の羽茂』には、「この碑は大正7年(松之助の33回忌)に、当時の佐渡人形芝居の第一人者たちによって建立された・・・」とある)この時奉納に文弥人形を奉納した。 太夫は大谷の中川今吉、上山田の渡辺賢丈、小木の金子琴栄、同仙田八十郎、黒山の中原阿波野、河原田の岡本文司(生まれ・育ちは黒山(静平))、潟上の池田宗玄、遣い手は、大崎の中川甚七、同中川鹿蔵、大谷の中川鉄五郎、小倉の新田伊作、下端の中川伝平、小木の仙田八十郎という豪華版だった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
羽茂町小泊通称田屋金子伊左衛門の長男として生れた。生れつきの盲人。妹に家をゆずり小木町へ出て按摩や鍼を仕事としていた。文弥節は池野阿波ノーに習い、巡浄・琴清・金子善次郎とともに四天王とよばれた。遠藤駿河ノーから池野阿波ノ一へ秘伝として授けた大三重(だいさんじゅう)という節をついでいたという。昭和三年一月一日七十二歳で死亡。戒名は「是本寿栄信士」。
★金子五一
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子五一 91 佐渡俳句界無冠の太夫-羽茂町上山田 金子五一の生きざま-
★金子五郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・大4、郡吏惜別会[十五年六月十九日]
★金子沙織
両津高校時代の2000年度(H12)、県競書大会 特選
★金子朔太郎
「函館市と新潟県人」
![かね金子朔太郎 函館市と新潟県人 (1)](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240205114342b8c.jpg)
![かね金子朔太郎 函館市と新潟県人 (2)](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240205114342091.jpg)
![かね金子朔太郎 函館市と新潟県人 (3)](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/2024020511434373c.jpg)
★金子三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
新穂村 ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★金子三右衛門
羽茂上山田の山田かじや家の人、連歌関係者 →下記資料のp678
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★金子重雄
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
(佐渡の水泳)
佐渡の水泳は、明治に佐渡中学、大正に相川中学が水泳部活動をはじめたが、競泳としては、昭和初期に岩佐嘉夫(金泉)・大沢松造(七浦)・中川安太郎(高千)・玄森勇(吉井)・佐々木健次(七浦)による小学生水泳が先駆をなし、特に金泉小学校の県大会3連覇をはじめ、両津小・後藤晴雄、七浦小・本間利右衛門、相川小・橋本勝男等の全国小学校10傑の上位に入る選手を輩出した。
その後、青年団の水泳が括澄になり金泉・本間寅次郎、相川・岩佐道三郎、真野・金子重雄等は県青年団代表選手として、明治神官大会に出場、活躍した。その後、佐渡中学が県中等学校水上大会に2連覇を含め、4度の優勝を成し、市野重治・本間俊雄のオリンピック候補選手や本間竹志・土屋歌吉といった全国的選手を送り出し、相川で県水上選手権、両津で県青年団水上、佐渡中で県中等学校水上(2回)の大会を開催し、佐渡中学黄金時代とともに、佐渡の水泳の隆盛期を迎えたのである。
昭・8・8・20 第6回県青年団水上競技・明治神宮水上県予選(県水上競技連盟)(県青年団・県体協)新潟中プール
50自2位、100自3位、200リレー2位 2.04.4 金子重雄・県代表選手に選ばれる。
昭・9・8・19 第7回県青年団水上競技大会 柏崎公認50米プール
50自2位、100自2位、200リレー1位 佐渡(寺尾・保刈・金子・田中)2.06.2
★金子重彌
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子重彌 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018100619351362e.jpg)
![かね金子重彌](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160530165207a82.jpg)
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子重彌](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140416172944e19.jpg)
「山本伝十郎家」
★金子次左衛門(江積)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。江積も堂釜と共に鎌倉時代には存在した村です。この村の祭りには、昔から堂釜の金子六左衛門が参加したといいますから、鎌倉時代の名主たちの祭りの往き来を示すものとして注目されましょう。金子次左衛門は金子六左衛門の一族であったのかもしれません。
★金子治作
→若林米蔵「笛畝会」参照
→山本清左衛門「真野町能楽会」参照
★金子賤子
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子賤子
65 「冬日抄」に寄せる 金子賤子 68 島崎藤村「破戒」の町 70 「雨晴ハイツ」の窓より -私の大伴家持- 71 冬、思い出すこと 随想 72 寄居浜にて 山本修之助 81 歌唱の詩に寄せて 山本修之助 84 戀猫の来る夜は 91 金子賤子遺歌集『遠花火』 -序- 山本修巳 92 「自分史」の歌の重み-金子賤子遺歌集『遠花火』-本間眞珠
★金子実平(菊森実平 しこ名 二代目入海)
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)
沢根の入海は大名乗りで、3代読いた。初代は小木の中村から出た沢根の漁師であったが、入海の名を高からしめたのは2代目菊森実平である。(金子実平)この人は小木井坪から、沢根へ入婿した老であるが押し相撲を得意として強かったと語り草になっている。3代目を継いだのが村田房之助である。
★金子俊二
※「佐渡ジャーナル」関係記事: 「3号」(平成17年10月)現在の今が最高の人生(佐渡に還って14年)
★金子嘯風
![かね金子嘯風](https://blog-imgs-79.fc2.com/s/a/d/sado2298/20220603102635c46.jpg)
★金子四郎
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p54
★金子次郎左衛門(小木大浦)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には、江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。大浦は、鎌倉時代には井坪の中に含まれており、この時代の終わりころ独立した村です。この村の大屋は金子次郎左衛門であり、江戸時代初期には村の中使をしています。そして、村の立ちはじまりは金子一族であると伝えています。
★金子甚七→乱杭老人
★金子末雄
羽茂BG体育館前
![かね金子末雄 羽茂BG体育館前 (1)](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018010909104420f.jpg)
![かね金子末雄 羽茂BG体育館前 (2)](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018010909104610d.jpg)
★金子末吉
夷地蔵堂
![かね金子末吉 夷地蔵堂 (1)](https://blog-imgs-119.fc2.com/s/a/d/sado2298/20180507100236d83.jpg)
![かね金子末吉 夷地蔵堂 (2)](https://blog-imgs-119.fc2.com/s/a/d/sado2298/201805071002386fd.jpg)
★金子助九郎
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子助九郎 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191543f51.jpg)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子助十郎
『赤泊村誌(上)』より
赤泊柳沢には二三戸の家がある。これらの人たちの姓をみると、金子が一四戸、渡部が三戸、石塚が一戸、他の姓もそれぞれ一戸ずつ、明治のはじめまで室賀が二戸あったが現在はいなくなり、金子姓が圧倒的に多い。小さい村の中で、一つの姓がこれだけまとまっているということは、この一族が村で古くから中心的な存在であったことがわかる。金子一族の親方は助十郎であった。村では「助十郎殿さま」と呼んだといい伝えている。助十郎家は赤泊の延命院檀家で代々その檀頭であった。延命院の「三千仏」の三幅対は助十郎が寄進したもので、それぞれ長さ158センチ、幅95セソチの絹地に措かれた、江戸時代中期以前のものと思われる立派なものである。
★金子甚四郎
佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)
![かね金子甚四郎 佐和田町史(資料編上巻 昭和57年)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200924094129bd9.jpg)
★金子政吉
「躍進日本」
![かね金子政吉「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020092409413011f.jpg)
★金子誠子
佐渡高校時代の昭和28年7月17日、全国学校書道連盟主催全国競書大会(於東京都美術館)にて推薦努力賞
昭和29年7月25日、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会にて特選
★金子精二
新穂出身、佐渡農業高校ー国士舘大学体育学部卒(1回生)。
学部を首席で卒業し学長表彰を受ける。国士館大学評議員。
★金子善次郎
「黒山人形」の元祖エンタロウ(衛門太郎)のこと。文弥人形の太夫や役者を務めながら人形師でもあった。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
真野町黒山の人、黒山人形の創始者。明治八年、黒山の通称エンタロウマキ(右衛門太郎牧)金子善次郎(嘉永五年三月十三日生)が創始した。文弥節を赤泊村川茂の池阿波ノーに習い、人形のつかい方を小木町の大崎屋松之助に習った。大エであったので、人形のカシラを刻むことも上手であった。植村甚太郎老人は「黒山人形のカシラは、高崎人形を見て善次郎が刻んだものだ」といっていた。役者は、笹川の九兵衛、又十郎、孫兵衛(佐々木万次郎)、通称小坂(金子綱次郎)、紋四郎であった。善次郎は、二十五歳の時妻クラに死別し、三十五歳で失明し盲人となった。その後、妻を迎えることもなく、大正三年四月十一日六十三歳で死んだ。墓の正面に「恵眼明通信士」右側面に「文弥人形造リニ巧ナリ」と刻まれている。善次郎が盲人となってから四、五年間、笹川人形となっていたが、のち上黒山通称キウジ(木藤)藤井亀次郎の手に戻って来た。第二期の黒山人形である。この座に人形が二組あったので、一組は潟上人形へ譲った。明治二十六年、亀次郎は弟の政治郎(岡本文司)と共に第二期の黒山人形をはじめたのであった。
「人形座の人々」(「佐渡の百年」)
★金子仙蔵藤原稽章(もくあき)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷下町又五郎、鍛冶秘伝一軸(明治元年八月)嘉永三年生、明治三二年四月二日没。
★金子惣八
『近世の羽茂 (羽茂町誌第三巻)』より
幕末から明治にかけて、羽茂には三軒の呉服屋があったと古老はいう。それは与八(山本屋与八郎)と惣八・佐五右衛門で、店の規模も年代もはぼ同じだったらしい。幸いにして与八(山本屋与八郎)家について、資料が残っていたので、大体その全容を知ることができ、他の二家を推測するよりどころにもなった。金子惣八家は千光寺の檀家として見え、今の里道医院が本宅。二棟の土蔵を含み建物そのものが当時のまま残っている。里道医院の以前は北島久内医院(大谷半兵衛=北島敬司)で、惣八家から北島医院になった年代がはっきりしないが、おそらく明治も終りに近いころではなかったかという。この地域へ初めて自転車が入ってきたのが同家であったという。
→参照(山本屋与八郎)
★金子惣八
「人力車から自動車へ」(「佐渡の百年」)
★金子清三郎
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
赤泊村川茂 ・明2、第一回佐渡三郡町村組合會議員選挙[二十二年十月]
★金子善次郎
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊)より
真野町の代表的人形座は黒山人形である。しかし、黒山人形には二種類あって、長く人々に親しまれた黒山人形のは岡本文司が太夫をつとめた黒山人形で、その成立はわりあい新しい。第一期の黒山人形は明治八年に、通称′「えんたろうまき」の金子善次郎が始めた。善次郎の生まれたのは嘉永五年の三月で(徳平人形の)遠藤徳平より三歳年下だった。善次郎は大工だったが大の人形好きで、しかも語りを池野阿波一に、遣い方を当時人形遣いの神様のようにいわれていた大崎屋松之助に習ったから一人二役、しかもかしらを刻ましてもすぐれた人形師だった。今でも人形首の名作といえば第一に松之助、それに続くのがえんたろうまきといわれている。善次郎の刻んだ首で人形一座が組み立てられ、かれは座元兼座長として活躍した。女人形が得意で、五尺六寸、二〇貫という大きな体が、人形を遣っている時は目に入らなかったというからよほどの名人だったに違いない。太夫は川茂の盲人阿波一だったようだ。人形芝居の大夫。阿波一は遠藤駿河一の弟子である。駿河一は竹田の忠左衛門家の出身で、同家には天保年間に盲官をとった時の告文が残っている。盲官取得の前は清嘉という名前だった。嘉永三年には「打掛」慶応三年には「一度の中老引」に昇進している。駿河一は文弥の名人だった。毎年正月二日から五日までの間に盲人が奉行所へ出向いて「源氏烏帽子折」の三段目の「げにや三六〇日、こよみこよみと巻き尽くし」というところを語るのが例だったが、ある年駿河一が語って奉行からほめられたという。また木戸銭をとって文弥を語るようになったのも駿河一からだといわれている。亡くなったのは明治六年だった。駿河一には二人のすぐれた弟子がいた。一人は大崎星松之助と提携して文弥人形を始めた沢根の伊藤常盤一で他の一人が川茂の池野阿波一で、この二人がそれぞれおおぜいの弟子をもって佐渡の文弥界を東西に二分する状態だった。善次郎はこの阿波一の弟子で、善次郎の弟子に後年名人といわれた木藤の岡本文司こと藤井政治郎と、糀屋出身の岡本阿波野こと中原俊精がいる。後の話だが北村宗演が潟上の初代池田宗玄に弟子入りして皆伝をうけたとき、宗玄がいうには、「これで知っておることは全部教えたが、大三重の手ほおれも知らん。知っとるのはえんたろうまきの太夫だけだから習うてから教えてやる」。といって黒山まで習いに釆たという有名なエピソードがある。善次郎の黒山人形は文弥高幕だったのであろう。遣い手は金子九平・金子紋四郎・金子又十郎・佐々木孫兵衛等笹川の人が多く、それに黒山の藤井重作、後に藤井亀次郎も加わった。善次郎は三五才ごろ失明した。そのためであろうか、人形一組は笹川へ譲られた。明治一八年頃だという。晩年の善次郎は笹川に人形があると、杖をついてよく釆たものだという。善次郎が亡くなったのは大正三年の春、墓の正面にほ「恵限明通信士」、右側面には「文弥人形造りに巧なり」と刻まれている。第二期黒山人形の太夫が誰であったのかは不明である。第一期の太夫と推定される阿波一はすでに二二年に没している。考えられるのは失明してはいたが四一歳の金子善次郎ではないかということである。遣い手ほ笹川の人が多く、後に黒山の安藤栄次郎や大崎の本間光蔵などが加わった。この座は文弥御殿人形だった。文弥高幕人形が御殿人形に改良されるのは明治一〇年過ぎで、大崎屋松之助の工夫によるものだといわれる。松之助は常盤一と結んで明治の初期に文弥人形を始めた人である。そのせいか明治二〇年代の御殿人形は、沢板・大谷・大崎・黒山等二人のゆかりの地に多く、潟上・小倉・下畑・海府等は三〇年のなかば以後の成立である。第二期黒山人形が始まってから一〇年たつと、二六歳になった政治郎が太夫を勤めるようになった。盲人ではレパートリーが少ないのと、山坂越えての興行には不向きだったからであろう。政治郎は後に大崎や小倉や下畑の人形座の太夫もつとめるようになった。また亀次郎の妻クマが小倉の太夫兼人形遣いだった後藤清蔵の娘だった関係などもあって、それらの座から遣い手の応援もあって、黒山人形は評判がよかった。しかし、四四年に座長の亀次郎が四七歳で亡くなるとまもなく、黒山人形はよそへ譲られてしまう。一周忌に、太夫は金子善次郎・藤井政治郎・仲原俊精・深山静賀・松村村治の五人、遣い手は新田伊作・本間光蔵・伊藤鉄蔵・金子綱次郎等で、盛大な追善人形が催された。それからまもなく、政治郎は分家して河原田へ移り、さらに八幡へ、最後は河原田に住んだ。わりあいと小柄な体なのに、よくとおる声で語ることばが明晰だった。見物人には聞きやすく分りやすいといわれ、人形遣いには遣いやすいといわれた。床に上って三味をかまえた姿には一分のすきもなかった。盛りの頃は長石神社での語りが長石の南の端まできこえ、老年になってからも鳥居のそばにいても語りが聞きわけられたといわれている。政治郎の師匠ほ金子善次郎だが、窪田へ移ってからは深山静賀に習った。静賀の師匠は沢根の常盤一で、その師匠ほ遠藤駿河一である。したがって系統をたどると、最初は駿河一-阿波一-金子善次郎、後の師匠は駿河一-常盤一-静賀と、元はどちらも駿河一に結ばれることになる。師匠運がよかったといえよう。
『佐渡の人形芝居』(山本修之助 昭和51年刊)より
彼は、人形遣いであるとともに、またこれを彫刻する人形師でもあつた。佐渡では、人形遣いが、人形師をも兼ねていた人が多い。文弥人形の元祖といわれる小木町の大崎屋松之助や黒山人形の創始者であつた真野町黒山の金子善次郎なども人形師として、りつばなカシラを残している。
真野町黒山の人。通称右衛門太郎牧(えんたろうまき)。太夫・役者をもつとめたが、大工だけに人形も刻み、高崎人形を見て作ったという。のち、盲人となる。
『佐渡の郷土玩具』(山本修之助 昭和48年刊)
★金子タク
「島の新聞」索引(人名別)
★金子辰太郎安興(やすおき)
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷ジンタ (今の洋服屋下手新宅跡)、鍛冶秘伝一軸(年代不詳)。北海道に移住詳細不明。
★金子高次郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子高次郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193510710.jpg)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子高次郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193512345.jpg)
★金子辰三郎
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子辰三郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061935190c6.jpg)
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子辰三郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193518419.jpg)
★金子太郎平
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
慶応三年生 畑野村畑野、商業 ・大2、第八回郡会議員選挙[八年九月三十日] ・大3、立憲青年党の結党式[十三年九月十二日]
★金子忠治
小木商工会長
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![かね 小木商工会長](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/202002021009119ee.jpg)
★金子忠兵衛(本名森蔵)
『新穂村史』(昭和51年)より
明治のはじめに、新穂の上町に金子忠兵衛(本名森蔵)という者が、提灯屋をやっていた。忠兵衛は人形提灯屋芝居が好きで、自ら首を刻み、高幕人形からはじめて、しまいにほ御殿人形までやったという。(「忠兵衛人形」という)
「佐渡歌舞伎考」(佐渡博物館報第1号:1958年)
★金子長右衛門
両津羽黒神社
![かね金子長右衛門 両津羽黒神社](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104213afd.jpg)
★金子長太郎
旧金丸村(真野)村長、明治二九・四・一一~。
★金子勉
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子勉
17 振矩師雑記 (1) 19 振矩師雑記 (2) 20 振矩師雑記 (3) 21 振矩師雑記 (4) -植野半三- 23 振矩師雑記 (5) -静野与右衛門 (1)- 25 振矩師雑記 (6) -静野与右衛門 (2)・持田半左衛門- 27 振矩師雑記 (7) -古川門左衛門- 29 振矩師雑記 (8) -品川平左衛門- 31 振矩師雑記 (9) -山下数右衛門 (1) 33 振矩師雑記 (10) -山下数右衛門 (2)- 35 振矩師雑記 (11)-山下数右衛門(3)- 38 振矩師雑記 (12) -山下数右衛門 (4)- 40 振矩師雑記 (13) -山下数右衛門(5) 阿部六平- 42 振矩師雑記 (14) -青木忠四郎- 45 振矩師雑記 (15) -山本仁右衛門徳基- 49 振矩師雑記 (16) -待遇- 105 南沢疎水坑の長さ 116 山本半三郎撰『算術指南』 122「ほこり」と「ほゑ」 132 追悼 金子勉先生との出会いと和算の共同研究 堀口俊二
★金子剛
「島の新聞」索引(人名別)
★金子ツル三
「躍進日本」
![かね金子ツル三「躍進日本」](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202009240941256d7.jpg)
★金子鶴松
『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』より
羽茂の高名な鍛冶氏江市郎兵衛門下である。羽茂本郷須川城ケ平。文久三年十月十五日生、昭和十四年八月二十四日没。
★金子悌二
明治四十五年三月佐渡中学卒(第十二回生)、東京帝大獣医科卒。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子悌二 29 二ツ岩の生き神さん 34 私の「朱鷺曼陀羅」-山本修之助句集-
★金子悌治
「在京佐渡人名録」(昭和4年)p61
★金子輝雄
「島の新聞」索引(人名別)
(「佐渡広場」より)
http://blog.livedoor.jp/challengersglory1/archives/cat_50047237.html?p=5
★金子都介
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
明治二年生 河原田町本町、旅人宿業 ・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]
★金子藤太郎
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
佐渡宝生流の高名な能役者金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。しかし大正七年、門人や後援者に無断で舞台や装束を売却したことから、門人一同評決して太夫の敬称を廃し、佐渡能楽会を設立、松本栄太郎を会長に推した。大正八年一一月のことである。当時能楽人として活躍した人々を知るために、「佐渡能楽会発起者」名を記してみよう。印銀作蔵 畑福新左衛門 本間幸太郎 茅原泰蔵 長佐治平 渡辺長次郎 若林米蔵 風間忠一 金子金太郎 金子藤太郎 金子助九郎 金子助太郎 笠井宇作 田中常次郎 鶴間兵蔵 土屋房吉 中嶋晴好 中嶋晴好 白木兼蔵 松本栄太郎 松本与八郎 近藤安太郎 安藤惣六 浅島万平 藍原清一郎 佐藤貞一 佐々木文蔵 菊地富士太郎 清水伍作 鈴木善十郎
★金子徳次
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子徳次 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193611cd5.jpg)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
真野村新町、商業、丸七商会主 ・昭2、縣会議員の補欠選挙[五年七月五日]・昭2、佐渡政友倶楽部の秋期大会[五年十月二十三日]・昭2、山本、政友倶楽部総裁の辞任[五年十月二十八日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[六年八月二十九日]・昭3、第二十一回新潟縣会議員選挙[六年九月二十五日]・昭3、佐渡政友倶楽部秋季大会[七年九月六日]・昭3、佐渡政友倶楽部の秋季大会[九年九月九日]・昭4、佐渡政友倶楽部の大会[十二年十一月十八日]・昭4、政友派の会合[十三年三月三十日]・昭4、政友倶楽部の委員会[十四年五月十四日]
★金子敏栄(としえい)
エスライフ:no87(2023年2・3月号)
![かね金子敏栄 (1)](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/202301302345288f7.jpg)
![かね金子敏栄 (2)](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/202301302345261c5.jpg)
★金子とし子
羽茂村山の人。新潟日報「島の文芸」俳句選者。
![かね金子とし子](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/202302090838157b0.jpg)
![かね金子とし子](https://blog-imgs-157.fc2.com/s/a/d/sado2298/20221206123703776.jpg)
★金子敏之
「島の新聞」索引(人名別)
★金子知樹
「島の新聞」索引(人名別)
諸情報
★金子仲蔵
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子仲蔵 (2)](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201606011736538e5.jpg)
![かね金子仲蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601174357b53.jpg)
★金子庭蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子庭蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193610814.jpg)
![かね金子庭蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社) (2)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193608d51.jpg)
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子庭蔵](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173655091.jpg)
★金子照典
![かね金子照典 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020070809100451f.jpg)
![かね金子照典](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200708091006afc.jpg)
★金子のぼる
『真野町誌(近代編)』(平成16年発行 真野町誌編纂委員会)より
![かね金子のぼる](http://blog-imgs-95.fc2.com/s/a/d/sado2298/20161028083443246.jpg)
![かね金子のぼる](http://blog-imgs-94.fc2.com/s/a/d/sado2298/2016101117275193e.jpg)
![かね金子のぼる2](http://blog-imgs-94.fc2.com/s/a/d/sado2298/2016101117311381f.jpg)
真野の人、角川俳句賞受賞の俳人。
第二十五回角川俳句賞〔受賞作「佐渡の冬」(50句)(金子のぼる)〕
金子のぼる氏の句碑(真野大願寺)
「初天神一切空の山の音」
大願寺は古来から連歌ゆかりのお寺で、近年もこのように文学に造詣が深く、学問・芸術の中心的なお寺である。
「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)
『佐渡』(俳句集 380句 昭和58年 竹頭社)
本名昇。佐渡郡真野町生まれ。独学で専検にいどむ。少年時代より作句の経験があり、初め瓢宇を俳号とした。昭和54年「佐渡の海」で第二十五回角川賞を受賞。「恋猫の藻屑をつけて戻りけり」「梅一本咲かぬ家なし朱鷺の村」「桐咲くや空むらさきに国府の跡」「鬼太鼓の撥が指したる天高し」大正11~昭和58。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子のぼる
1 「真野町俳句会」のこと -思い出の人々と現役と- 2 佐渡の歳時記 3 合同年間句集評 「島影」第二号雑感 5 合同年間句集評 再び「島影」第二号について 6 耳よりな話 7 続 佐渡の歳時記 (1) 8 続 佐渡の歳時記 (2) 9 続 佐渡の歳時記 (3)
10 続 佐渡の歳時記 (4) 11 ジンナとお菊 15 「ひつじ」の話 21 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (1) 21 秋の海辺の坂道で -金子のぼる氏角川俳句賞受賞- 福嶋野城子 21 金子のぼる氏 角川俳句賞受賞記念祝賀会 山本修巳 21 角川俳句賞の受賞について 島倉盈 22 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (2) 23 佐渡が生んだ日本的排人 小川一灯のことども (3) 24 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (4) 25 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一 灯のことども (5)
26 特集 句集「海見ゆる坂」 「鶴歩(かくほ)」の俳人 27 佐渡が生んだ日本的俳人 小川一灯のことども (6) 32 漱石忌に寄せて 35 小川一灯の俳句 (1) 36 小川一灯の俳句 (2) 38 悼 金子のぼる 山本修之助・山本修巳 38 鑑賞 佐渡のうた (31) -補遺- 小川一灯・金子のぼる 山本修巳
★金子紀清
連歌関係者 →下記資料のp670
羽茂の連歌 『羽茂町誌第三巻(近世の羽茂)』
★金子花子
![かね金子花子](https://blog-imgs-127.fc2.com/s/a/d/sado2298/2019042510330596b.jpg)
★金子春治
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子春治 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018100619351547f.jpg)
★金子半五郎
『佐渡郡肖像録』(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子半五郎 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201810061936134a4.jpg)
「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」
![かね金子半五郎 「佐渡案内 順徳天皇御遺跡案内」(大正12年 佐渡日報社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181118083500ba0.jpg)
★金子久栄
前佐渡漁業組合長、赤泊の人。h26年5月14日没72歳。
★金子栄敏
佐渡高校時代の40.7.24~25、水泳県高校選手権・第13回東北高校県予選会(柏崎市)、(バタフライ)100m1位・200m6位
40.8.28~29、水泳県高校結合体育大会(長岡市)(バタフライ)100ml位・200m6位
40.9.19-22、水泳国民体育大会(岐阜県)バタフライ県代表として出場
★金子均
佐渡高校時代の昭和31.7.11、全国学校書道連盟主催全国学生競書大会特賞
★金子宏
佐渡高校時代の37.6.9~10、陸上競技高校大会県予選会(新潟市)総合3位、110mH入賞
★金子洋
佐渡高校時代の平成元.5.28~30、軟式庭球県高校結合体育大会(上越市)男子団体3位
平成元.6.17~18、軟式庭球北信越大会(上越市)男子個人(野崎睦・金子洋組)出場
★金子博
「島の新聞」索引(人名別)
金子博
・「孤島コンミューン論」(松本健一)※「孤島コンミューン論」掲載の page数115
★金子弘文
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子弘文 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193509039.jpg)
★金子不泣(かねこふきゅう・太津平)
畑野小
![かね金子不泣 畑野小 (1)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104215bfd.jpg)
![かね金子不泣 畑野小 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020071310421662f.jpg)
![かね金子不泣 畑野小 (3)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104218111.jpg)
![かね金子不泣](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202007131042191d1.jpg)
『佐渡名勝史』(昭和11年 山本幸作 山本商会出版部)
![かね金子不泣 佐渡名勝史 昭和11年 山本幸作 山本商会出版部 - コピー](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/201811180835020c0.jpg)
![かね金子不泣](http://blog-imgs-90.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160401102207520.jpg)
【生没】一八九二ー一九七○ 歌人。本名太津平、明治二十五年生まれ、畑野町の人。少年時代から文芸を愛好し、佐渡中学校在学中から、校友会誌や「中学世界」「文章世界」などに投稿した。早稲田大学予科に入学した明治四十四年(一九一一)、前田夕暮が「詩歌」を創刊すると同時に加盟し、以後生涯をともにした。大正二年(一九一三)病を得て大学を中退して帰郷、家業の呉服商を継ぎながら文筆活動にいそしんだ。大正四年、佐渡中学校の後輩たちが創刊した文芸誌「白壁」や、大正十三年山本修之助が発起した「純芸術」にも加わり、「純芸術」では編集名儀人となった。作歌においてはつねに「詩歌」を離れず、「詩歌」を代表する歌人として、その作品は『現代短歌大系』『短歌史』『新万葉集』などに選録されている。歌集に、『波の上』『童髪』『独居』『荒磯波』『風雪』の五冊があり、昭和四十三年(一九六八)には、知友たちによって母校の畑野小学校校庭に、「愛しきやし垂り髪少女幻に明るかりけり垂り髪少女」を刻む歌碑が建てられた。昭和四十五年三月十日、七八歳で没した。
【参考文献】木俣修『現代短歌の史的展開』(明治書院)、山本修之助『佐渡の百年』 【執筆者】酒井友二 (相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
近代歌人・金子不泣は明治二十五年十二月二十日、父幾太郎・母トミの長男として生れた。本名大津平。不泣の短歌の才能はすでに旧制中学校時代から現われており、中学世界、中央公論、文章世界等の雑誌に投稿していた。
明治四十三年一月号の文章世界で 青鷺はおかしき声に嘆き行く なくべかりしかわが少女らよ が天位に入選している。
当時、彼の家は数町歩の田畑と山林をもつ中地主であったので、佐渡中学を卒業すると早稲田大学文学部予科に入学した。しかし、本科に進んでまもなく病気になり佐渡に帰って、家業の呉服店を継ぐことになった。 彼は生涯五冊の歌集を出版しているが、最初の歌集「彼の上」は彼が二十四才の時のもので、畑野小学校の校庭にある彼の歌碑
愛(はし)きやし垂(た)り髪少女(おとめ)幻に 明るかりけり垂り髪少女
は万葉仮名による不泣の自筆であり「波の上」の中の歌である。第二歌集「童髪」は昭和四年の刊行で、この頃、前田夕暮の門下であり、夕暮の主宰する白日社の創立当時からの同人で「童髪」の序文を前田が書いている。昭和十二年に刊行された第三集「独居」、また戦後の第四集「荒磯(ありそ)浪」や第五集「風雪」には社会派的な内容の短歌が多くなっている。不泣は詩もつくり、畑野小学校や後山小学校、畑野中学校などの校歌を作詞し、現在でも歌われている。
『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊 「さかんな文芸熱」)より
大正時代になって、新町には文芸熱がさかんになった。文芸雑誌「白壁」「響」「潮光」「純芸術」など、つぎつぎと発行された。「白壁」の創刊されたのは、大正五年一一月十五日となっている。発行人ほ松井夕葉(源三)であるが、発行所の白壁社は夕町京吉(山本登か)の宅になっている。同人は朝比奈萩葉(義太郎)、本郷涙果(保雄)、山本陵村(堅太郎)のほかは匿名ばかりである。「海蒼ニ」とか「丘暮ニ」などの変った名前である。この仲間に、当時佐渡中学校の在学生も加わっていて、風紀問題をおこしたといわれる。そのころ自然主義文学がさかんで「赤裸々な人生」を表現する、悪い半面を体験する若い人たちであったのであろう。三号で廃刊になった。「響」は、大正九年十二月二〇日創刊。同人は真野郵便局貞の立花京二、本間芳水(鉄治)、佐々木酒水(高瀬)、野口萍花であるが、金子不泣、本間五丈原・後藤奥衛・山本修之助なども寄稿している。この雑誌は、活版刷でなく、石版刷である。そのころ仙台から小川一という人が新町へ来て石版業をやっていた。文字は立花が原紙に書いていた。これも第三号で廃刊。この第三号の表紙は、山本半之助の筆になるものであった。「潮光」は、大正十年年九月一五日創刊で、山本修之助が独力で発行した。これは、山本修之助を中心とした全国各地の文芸仲間から寄稿された。もちろん、旧制新潟高校にいた藤川忠治・長井一男、佐渡では近藤俊作・渡部秋雄・熊木啓作などがいた。つぎに出る「純芸術」の前身のようなもので、二号で廃刊となった。 大正十三年五月一日「純芸術」が山本修之助を中心に集ったグループにより創刊された。同人には金子不泣(畑野町)・本間林三(両津市)・藤川忠治(羽茂町)・庵原健(同)・石川弥一(旧吉井村)・駒形多郎(相川町)・近藤俊作(佐和田町)等であった。これは、文学だけでなく音楽会や絵の展覧会も催すという芸術運動であった。第五号(大正一四年八月一日)までつづき、のち「向日葵」と改題して第七号までつづいた。大正一五年七月二〇日であった。
この「純芸術」の運動は、佐渡の文芸復興ともいわれ、かつてないはなやかな時代であった。昭和時代に入ると、プロレタリア文学がさかんになり、暗い時代となって、戦争突入の前触れを感じさせた。
(『佐渡名艦』 高屋次郎 昭和13年刊)
![かね金子太津平(不泣)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/2014041617302613b.jpg)
![かね金子太津平 (不泣)(2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/201404161729487bd.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)より
歌人。明治二十五年十二月二十日、佐渡郡畑野町の幾太郎の長男として生まれた。本名太津平。佐渡中学校在学中「中学世界」に投稿、与謝野晶子の選で三首入選した。不泣の号は明治四十二年十二月の中央公論に八首を発表した時からで、それまでは白明、哀夜、未人などの雅号を用いた。同四十三年早稲田大学文学部予科に入学した。この年、文章世界一月号に窪田空穂選で短歌が天位で入選、若山牧水の創作社会員となった。四十四年四月月前田夕暮が白日社創設、雑誌「詩歌」を創刊したので同人となった。しかし肺結核におかされ、大正二年大学を退学、帰郷して家業の呉服商をついだ。歌集に「波の上」(大正五年二月十日、二十四才)「童髪」(昭和五年三月五日)「独居」(昭和十二年七月十日)「荒磯浪」(昭和四十二年十一月一日)「風雪」(昭和四十五年二月一日)がある。
佐渡の山 やまなみ低く 海に入る
その海近く 汝が住める家 (波の上)
童髪 母に結びて 箕ひゐる
わが児いとほし こほろぎの声
四十三年十二月十五日、友人らによって畑野小学校に歌碑が建てられた。四十五年三月十日に七十八才でなくなった。(佐渡の百年)
「佐渡高等学校百年史」
孤高の歌人、佐中を明治四十三年に卒業している。文学少年で、中学三年生の頃に隣村の青年たちの同人誌『黙の華』に参加して活躍し、さらに校友会誌『獅子ケ城』にも作品を発表している。創作意欲が旺盛で、中央の『中学世界』や『中央公論』などにも投稿した。「青鷺はをかしき声に嘆きゆく泣くべかりしかわが少女らよ」(『文章世界』明治四十三年一月号) が窪田空穂選による天位に入選している。そして明治四十四年四月、早稲田大学に入学した金子は、前田夕暮が主催する白日社の『詩歌』創刊に加わり、終生、白日社と行動を共にした。大正二年、病気で大学を中退して帰郷、以後佐渡にいて家業の呉服商を営みつつ作歌活動を続けた。木俣修は 『近代短歌の史的展開』の中で、『詩歌』 の作風を示す代表者として、不泣を取り上げている。門流や歌壇の外にいて門弟も持たず、孤高の歌人として昭和四十五年に七八歳で永眠した。
「新潟県文学全集(資料編)」(1997年)
『童髪』(400首 昭和5年 白日社)
大正5年から昭和4年(三十七歳) までの歌を集めた歌集。作者は自身の歌を顧みて「単調で特異性に乏しいが深い愛着を持って居る」(歌集の後に)と述べ、師の前田夕暮は「新しい形態、新しい思想によるものではないが、純情詩の行くべき道であり、感情の高揚した芸術的価値高い歌は永遠性がある」(序)と高く評価している。歌とともに郷里佐渡の生活に断ち難い愛着を持っている作者には当然佐渡の風土を背景にした叙情歌が多い。
『荒磯浪』(474首 歌集 昭和42年 短歌研究社)
昭和19年から42年までの作から自撰した歌集。「只自分の言葉で自分の歌を作りたいと念願している」(あとがき)作者の歌について、深い理解を示す前田透は「もともと不泣は寂蓼を好んでテーマにする歌人であったが、この集ではその寂蓼を内深く噛みしめて骨の奥でしている。「荒磯浪」 「佐渡金山懐古」等佐渡を詠んだ多数の歌もー見対象を客観的に叙したようでありながら、底に深い寂蓼の影を潜ませている。
『風雪』(457首 昭和45・白日社)
第一部は昭和42年~44年最近作二二五首、第二部は明治43年~昭和18年「創作」 に発表した作品以後戦中までの歌集に未発表の歌二三二首。「自分で編んだ連歌集の積りで」(巻末記)発刊。前田透は「佐渡の風雪に堪えて作歌一路の六十年」とも「生の寂蓼を歌った風土詩人」 (序)とも評している。佐渡の持つイメージと作者の寂蓼感とが一体となって醸し出す味わいは、確かに晩年も枯れることなく瑞々しい。この集には巻末に作者の略歴も付されている。
「中川融とその周辺」
※「佐渡ジャーナル」59号~64号
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金子不泣
1 金子不泣の歌 山田宣 23 傷ましき生-お父・金子不泣を語る-堀部知子 24 金子不泣論 (1)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 25 金子不泣論 (2)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 27 金子不泣論 (3)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 30 金子不泣論 (4)-師風と個性との関連について- 前田芳彦 116 父をたどるの記(五) -秦野図書館と金子不泣さんのこと等 藤川滋 133 金子不泣氏歌集『荒磯浪』出版記念会 山本修巳
「湖畔と不泣」(「佐渡の百年」)
「大正の文芸運動」(「佐渡の百年」)
・『青春の森』(「佐渡高校」 毎日新聞新潟支局 昭和50年) p386
➡「あまほっこり」➡ ◆「参考資料(文献・書籍)」※数字は号数 10不泣さん 高野チェ 10 白日社の歌人 金子不泣 前田芳彦
★金子平次郎
「近現代の羽茂」
![かね金子平次郎 「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/201907120904352ce.jpg)
![かね金子平次郎「近現代の羽茂」](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20190712090438fe6.jpg)
★金子正直
左:『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社) 右:『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子正直 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193516fc5.jpg)
![金子正直](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/201606011739329bd.jpg)
★金子政範
『佐渡のスポーツ賛歌』(平成9年刊)より
佐渡中時代の昭和14年、第9回県下男子中等学校総合体育大会において、俵運搬4位。
★金子正義
![か金子正義](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190742601.jpg)
真野新町の人、両津高校16代校長(平成10年4月~平成12年3月)。
★金子勝(まさる)
![か金子勝](http://blog-imgs-86.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160121190706c1b.jpg)
日本を代表する経済学者、慶応大教授。「朝までテレビ」等歯に衣を着せない激しい論調に熱烈なファンも多い。父が小木の出身で、「アエラ」のインタビューで、「電器店を営みながら大学進学を目指していた父はついに果たせなかった。その背中を見て育った」と。よく自らのルーツ佐渡を語り、「元気出せっちゃ佐渡-親父のふるさとへの提言」題して2011年にTPPについての講演会を行った。
「島の新聞」索引(人名別)
「ウイキペディア」より
★金子勝
県立佐渡女子高等学校21代目校長(昭和63.4.1~平成2.3.31)。
(※校名は以下のように変遷している。旧県立金澤高等学校・旧佐渡中央高等学校・旧佐渡高等女学校・旧佐渡実科女学校)
★金子ミツ
「新潟日報」平成27年4月24日
![かね金子ミツ](http://blog-imgs-71.fc2.com/s/a/d/sado2298/20150424154858c89.jpg)
「佐渡の文弥節」(『真野町史(下巻)』(昭和53年3月刊))
★金子優
佐渡高校時代の昭和43.6.8~10、柔道 県高校総合体育大会(柏崎工業高校) 団体戦優勝(飯田正貴・飯田正志・斎藤貢・金子優・北見敏明)
★金子優
「島の新聞」索引(人名別)
★金子真弓
「島の新聞」索引(人名別)
★金子美智子
「島の新聞」索引(人名別)
★金子峰人
佐渡高校時代の昭和63.5.29~31、陸上競技県高校総合体育大会(新潟市)4×400mR(金子清博・金子峰人・藤井賢一郎・中川清裕)6位
63.6.17-19、陸上競技北信越大会(富山市)4×400mR出場
63.10.1-2、陸上競技県高校選抜大会(長岡市)400mH5位
元.6.2-4、陸上競技県高校結合体育大会(新潟市)400m6位・400mH3位
平成元.6.23-25、陸上競技北信越大会(長岡市)400m・400mH出場
★金子宗蔵
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子宗蔵 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191542fed.jpg)
★金子守雄
![かね金子守男](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/202412021132413e4.jpg)
![かね金子守男2](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20241202113244c7f.jpg)
![かね金子守男3](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20241202113244a4d.jpg)
![かね金子守男4](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20241202113245d04.jpg)
![かね金子守男5](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/2024120211324890a.jpg)
![金子守雄](https://blog-imgs-148.fc2.com/2/2/9/22982298/202110281948369d5.jpg)
![かね金子守雄](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/202408141155171c2.jpg)
真野椿尾の人、昭和22年生。昭和56年に畑野会場の「NHKのど自慢」で優勝。佐渡おけさ全国大会(第1回)優勝。両津甚句全国大会(第3回)優勝など県内外の各種大会で高位入賞し、佐渡民謡の歌い手として活躍。平成8年新潟県民謡連盟公認教師(唄)、平成10年公認指導員(三味線)。現在は津軽三味線「弦芳会」(芳延)や新潟の雲雀竹延先生主宰の雲雀会に所属する。
→「聞き書き」参照(本人写真あり)
★金子森蔵
『新穂村史』(昭和51年刊)より
文弥人形は明治初年羽茂の大崎最松之助が大阪の岡本文弥のいわゆる文弥節とその人形を伝えた。人形芝居は享保元文から明治、大正と約百八十年間に栄えたものであるが、殊に明治初年から五-六〇年間の文弥人形が最もさかんで、新穂においてはいわゆる「潟上人形」といわれる初代池田宗玄、一度照造(明治二〇年代)の末広座、及び新穂上町金子森蔵の「忠兵衛人形」などが知られている。
★金子紋蔵
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
・明4、第十六回選挙[四十四年九月二十五日]
★金子紋平
「相川暴動」(「佐渡の百年」)
★金子弥五右衛門(紺屋家)
『佐和田町史(通史編Ⅱ)』(平成3年)より
沢根五十里の金子弥五右衛門(紺屋家)が幕末に赤泊港を三月二十三日に出立して、信州をまわり、日光、江戸を経て東海道を西に行って、伊勢参りをして、大阪、京都見物をして、北陸道で出雲崎へ出て、赤泊へ帰着した八十四日間の旅も記録に残っている。
★金子泰治
『佐渡案内写真大集』(大正14年刊)より
![かね金子泰治](http://blog-imgs-92.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160601173623c78.jpg)
★金子康成
両津高校時代の1975年度(S50)11月、新潟大学競書大会 特選
★金子幸代(ゆきよ)
イラストレーター
佐和田町窪田出身、佐渡高校平成4卒
https://www.kanekoyukiyo.com/blank-mpvle
上記サイト内Worksに書籍装画ほか多数カラー画像掲載
★金子豊
小木商工会長
![かね金子豊 小木商工会長](https://blog-imgs-129.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200202101028238.jpg)
★金子與右衛門
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
![か金子與右衛門](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103203808.jpg)
![か金子與右衛門 (2)](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103207cdb.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
佐渡郡真野町新町の特産堅地塗の椀屋。家は代々椀屋で四代目にあたる。
はじめ与伝といった。三代与七までは、あまり振るわなかったが、与右衛門は工人を養成し、徒弟の特長により、塗師、轆轤師、売子等分業にして、その発展をはかり、養成した工人は四十余名であったという。明治九年に七十三才でなくなった。(佐渡人名辞書)
★金子陽之助
「島の新聞」索引(人名別)
★金子杳良
→羽生恕安の項
★金子よし子
![かね金子よし子061119](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20241202113239f01.jpg)
![かね金子よし子](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240814115515d18.jpg)
![かね金子よし子 (2)](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/202405311145325b7.jpg)
![かね金子よし子](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240531114532198.jpg)
![かね金子よし子](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20231223122733970.jpg)
![かね金子よし子051031](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20231126144803e21.jpg)
![かね金子よし子](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202310171724544ea.jpg)
![かね金子よし子050711](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20230717113203d3d.jpg)
![かね金子よし子050523](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/202306281830515c9.jpg)
![かね金子よし子050404](https://blog-imgs-162.fc2.com/s/a/d/sado2298/20230406090803fed.jpg)
![かね金子よし子](https://blog-imgs-79.fc2.com/s/a/d/sado2298/20221012091430cd6.jpg)
★金子由藏
笹川大山祇神社
![かね金子由蔵 笹川おおやまずみ神社](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/2020071310422100a.jpg)
![かね金子由藏 笹川大やまずみ神社 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200713104222640.jpg)
![かね金子由藏 笹川大やまずみ神社](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/202007131042247ac.jpg)
★金子芳蔵
『佐渡郡肖像録『(大正15年 原泉 博友社)
![かね金子芳蔵 佐渡郡肖像録(大正15年 原泉 博友社)](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/20181006193614641.jpg)
★金子芳太郎
『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 明34年出版)
![かね金子芳太郎 ・『佐渡名勝』(著者:岩木拡 出版者:佐渡新聞社 出版年月日:明34](https://blog-imgs-106.fc2.com/s/a/d/sado2298/2018111808350362f.jpg)
★金子良則
![かね金子良則](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/2024053111453834f.jpg)
![かね金子良則 (2)](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/20240531114536abb.jpg)
「エスライフ」2012年4・5月号
![かね金子良則 エスライフ2012年4・5月号 (1)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103843644.jpg)
![かね金子良則 エスライフ2012年4・5月号 (2)](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20210208103845af8.jpg)
![かね金子良則](https://blog-imgs-141.fc2.com/s/a/d/sado2298/20200708091007589.jpg)
![かね金子良則](https://blog-imgs-119.fc2.com/s/a/d/sado2298/20180507100239f4a.jpg)
高世仁の「諸悪莫作」日記(2011-05-15 トキの育ての親 金子良則さん)
今夜は「情熱大陸」(毎日放送)で佐渡トキ保護センターの獣医、金子良則さんを紹介する。
以下、番組案内。
《学名ニッポニア・ニッポン。特別天然記念物のトキを飼育・繁殖しているのが「佐渡トキ保護センター」。金子はそこに20年勤めるトキ専門の獣医だ。トキはかつて日本のどこでも見られる鳥だったが乱獲により日本産トキは絶滅。最後の1羽を看取ったのが金子だった。 12 年前中国からつがいを譲り受けて繁殖に乗り出し、日本初の人工孵化を成功させたのも金子。まさにトキの歴史の「生き証人」だ。金子の悲願はトキの野生復 帰。3年前から金子が育てたトキを野外に放鳥、今では佐渡の空に30数羽のトキが舞う。そして今年こそ、と期待されるのが野生下での初のヒナ誕生だ。4 月、その悲願達成が間近となり金子は孫の誕生を待つかのように静かにその知らせを待っていた。そこに思いもよらぬ事態が――》
トキは日本以外に、中国、朝鮮半島、シベリアなどにも生息していたが、ロシア、朝鮮半島でも絶滅したようだ。中国のトキも日本産とDNAは全く同じで、譲り受けた2羽からはじめて、いまでは150羽以上に増えている。本州まで飛んでいったものもあるが、佐渡には30数羽が野生で生息している。もし、放鳥したトキからヒナが育てば、野生での繁殖ということになる。いったん絶滅した動物が、人間の手で野生に蘇えるというのは、すごいことだと思う。ただ、番組でも分かるように、なかなか難しいようだ。番組で、金子さんがこういう。「トキが(野生で)生きてるってことは、人間のありようっていうか、ちょっと人間も手加減すべきだと思う。ネオンなんてなくたっていいんだし、コンビニだってそんなんに夜やってる必要ないし・・」福島原発事故を経た今、この言葉は、とても説得力を持って聞こえてくる。トキはドジョウなど、田んぼの小動物を餌にしている。佐渡では、トキが蘇るようにと、農薬の使用を抑える運動が広まり、「農薬・化学肥料不使用の不耕起栽培米 トキひかり」という米も売り出されている。トキの野生復帰への願いから、人間の営みを見直そうという機運が、佐渡全体で盛り上がっていることに感銘を受けた。はやく「野生のヒナ誕生」の朗報が聞きたいものだ。
「島の新聞」索引(人名別)
★金子吉文
市報さど0604月
![かね金子吉文 市報さど0604月](https://blog-imgs-172.fc2.com/s/a/d/sado2298/2024053111453438c.jpg)
★金子佳史
佐渡高校時代の平成7,6、県高等学校総合文化祭、写真部門奨励賞 平成8.10,県高等学校総合文化祭、写真部門優良賞
「島の新聞」9号
![9よし吉井靖 広瀬大海 金子佳史](http://blog-imgs-100.fc2.com/s/a/d/sado2298/201611201753221c0.jpg)
「島の新聞」索引(人名別)
★金子裕一
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)より
真野には長い間歯科医がいなかった。昭聖○年代に両津の庄司歯科医が新町に出張診療警作り、真野の歯科医週三回ほど来ていた。本格的な歯科医院ができたのは、日本歯科専門学校を卒業した本田直一が、昭和二一年の四月に本田歯科医院を開業したのが最初である。その後、東京歯科専門学校峯業した金子裕一が、昭和二八年十月、金子歯科医院を開いた。本田歯科医院には直一のほか、日本歯科大学を卒業した長男の亘が医療に従事している。
★金子利郷
『新潟県官民肖像録』(明治41年)
![かね金子利郷 新潟県官民肖像録 明治41年](https://blog-imgs-118.fc2.com/s/a/d/sado2298/20171228191545e60.jpg)
『佐渡政党史稿』(斎藤長三著・風間進刊行)より
西三川村小泊、農業 ・明4、第三回佐渡郡会議員選挙[三十五年三月三十日]
★金子柳太郎
『佐渡人名辞書』(本間周敬 大正4年3月刊)
![か金子柳太郎](http://blog-imgs-64.fc2.com/s/a/d/sado2298/20140421103159713.jpg)
『越佐人物誌』(昭和47年発刊 牧田利平編 野島出版)
天保七年(一八三六年)に佐渡郡西三川に生まれた。
少年のころ倉谷の医師藤沢幸庵に謡曲を習い、十七才の時江戸に出て謡曲を学ぽうとしたが、父母に呼びかえされた。
安政元年(一八五三年)二十才の時、近郷の者と伊勢参りをして、途中から江戸に出て日吉寿六の門にはいり、命尾寿六にも学び、文久二年(一八六二年)に帰った。
江戸では将軍慶喜が日吉門の高弟の謡を所望し、柳太郎と宝生九郎がえらばれた。
後に鈴木重嶺奉行を通じてほうびを下賜された。
帰国後は潟上本間家に属していたが、潟上派はそのすぐれた技をねたんで排斥したので、明治八年、西三川派として独立した。
十年加賀に行き、能、太鼓、小謡、笛などを学び、十四年上京して金沢宝生家太夫嘉門について修業し、十五年四十七才で皆伝を許された。三十六年三月二十三日に六十八才でなくなった。(概観佐渡、佐渡人名辞書)
『真野町史(下巻)』(昭和58年3月刊)
天保七(一八三六)年生まれで幼名俊吉、幼い時から謡が好きで、初め倉谷の医師藤沢幸庵に習った。一七歳の時、能を学ぶために家出して江戸へ上ったが、父母に諭されて帰郷した。安政元(一八五四)年二〇歳の時、近郷の者の伊勢参宮に同道し、途中別れて江戸に出て日吉寿六に入門、また命尾寿六に謡を、一噌幸太郎に笛を習い、七年けいこの後、文久二(一八六二)年に帰国した。二七歳である。江戸にいた時、将軍慶喜は日吉に汝の高弟の謡を聞かせよと命じた。日吉は柳太郎と宝生九郎とを推せんした。その時の褒美として、お墨附と弓の絃箭五筋、及び葵の紋付と和歌を書いた扇子を、佐渡奉行鈴木重嶺を経て下賜されれたという。「西三川村誌」に出ている話である。
慶応三(一八六七)年潟上の本間右近に入門して地謡方になり、その後令蔵の地謡方になった。事件の起ったのは明治八年である。夏、羽茂の天神社で能があり、令蔵が道成寺を勤めた。地頭は金子で、折柄来島していた命尾寿六が鐘をひいた。さて終ったあとの宴会の厭で、「今日の道成寺の地謡は何だ。あんな謡では満足に鐘入りも鐘ひきもできるほずはない」と寿六が言い出して金子と口論になった。令蔵は立場上命尾先生に謝れと言ったが金子は聞き入れず、ここに佐渡宝生の分裂がはじまったのである。
金子は明治一一年加賀へ行き、波吉宮門について能を、一噌幸太郎に笛を、斉田千年に大鼓を、三須錦吾に小鼓を、増見仙太郎に金春流の太鼓を習った。帰って門下生を指導した金子は一五年に再び加賀へ行き、加賀宝生の太夫(分家)宝生嘉内に入門し、まもなく皆伝を許された。一六年に帰国し、翌一七年、自邸の敷地に能舞台を建て多数の能装束を買いもとめ、装束庫も作った。落成披露の能は六月三日から三日間続いた。能組は次のとおりである。姥捨 シテ金子柳太郎 ワキ畑福新三郎 相手役宝生嘉内、波吉宮門、波吉万十郎、斉田千年、島田磨佐記、岩佐佐吉、川井清次郎他ほかに金子太夫は三老女、桧垣、関寺小町を演じ、相川町の観世流遠藤清五郎可清ほ羽衣盤渉の駿河舞を舞った。遠藤はこれが舞い納めで、佐渡観世は退転するのである。なお地謡方は金子金太郎、金子武平、臼杵五蔵、印銀作蔵、本間作太郎、中川治作等であった。金子は加賀宝生の流れをくむ太夫として免状を出すことになり、入門する者も増えた。こうして佐渡の宝生は二流の対立となったが、まもなく令蔵は上京して高田商会に勤め、二二年には旭ビール会社に転じ、三三年に帰国した。この間も時々佐渡へ帰って能に出演したが、その間に西三川流の勢力が伸びて行った。殊に金子の功績として特筆に価するのは、笛の島田磨佐記(加賀)太鼓の高安三太郎(江戸)太鼓の川合彦兵衛(加賀)等一流の役者を佐渡に迎えたことである。明治維新に際し生計の道を失ったかれらにとっては渡りに舟であったであろうが、世話をする者にはかなりの経済的負担が必要だったはずである。金子柳太郎が亡くなったのは明治三六年三月、享年六八歳だった。長子虎之進も上手といわれたが、二五歳の時朝鮮へ渡ったまま消息を絶った。そこで二見村大浦の中川新平家から高次郎を養子に迎え、高次郎が二代目を継いで西三川派を守った。
「佐渡広場」より
(参考)西三川派の創始者 金子柳太郎その後
柳太郎は、明治36年(1903)3月23日68歳で没する直前の2月10日金子高次郎(1880~1961)に皆伝免許を授け婿養子とし二代目を継がせた(『佐渡の能舞台』。『佐渡能楽史序説』では、「柳太郎の逝去後、相川町・・・の三男高次郎が柳太郎次女の婿養子となり、初め実父に謡を習い、のち畑福新三郎に師事、さらに明治35年には上京して10世波吉宮門の教えも受けて、芸事は養父柳太郎にも劣らぬものがあったといわれており、西三川派は、新興派閥の熱気と結束があり、高次郎を二世大夫に仰いで安泰であった」とある) ところが、高次郎は大正7年(1918)になって能装束等を売却した。能装束は、群馬県高崎市で能楽の公演があった時に知り合った同市の多額納税勅選議員・桜井忠三郎に2万円で売却したという。能舞台は、同じく公演で知り合った京都の狂言師に売り払った。 売却が何の相談もなく密かに行なわれたので、門人たちは反発し「太夫」という敬称を止め佐渡能楽会を結成。出資金を集め、能装束を購入し充足を図った。(以降、潟上派と西三川派の実質的対立は、本間能太夫・佐渡能楽倶楽部会員と佐渡能楽会会員の対立となる) その金子高次郎(以後「佳愛」)は、佐渡能楽会から排除され東京へ出て能の師匠などして生活していたが、食えなくなったのかやがて佐渡能楽会への入会を求めて来た。昭和3年(1928)佐渡能楽会は、過去の事を許し金子の入会を認めた。その年の12月16日佐渡能楽会創立10周年記念祝賀能を真野尋常小学校体育館で行い、佳愛が「安宅」を舞いそれが復帰の披露となった。なお、佳愛は芸と指導に優れているとの定評があり、佳愛を尊敬する多くの門弟がいた。楽謡会・佳鳳会は、金子佳愛の門弟グループ。
→金子佳愛(高次郎)
→松本栄太郎
★金子良一
村上神社
![かね金子良一 村上神社](https://blog-imgs-168.fc2.com/s/a/d/sado2298/20230628183052b4b.jpg)
★金子玲子
佐渡高校時代の昭和40,全国学生選書会展推薦特選
★金子六左衛門(堂釜)
『小木町史』より
村の草分けといわれる旧家の人たちは、江戸時代に入っても名主をどの村役人を勤めた者が多くいました。こうした人びとは、戦国時代にはその地を支配した殿さまに仕えた地侍でした。これらの人たちの中には江戸時代にも姓を名乗ったり、その名残を留めている者がいます。堂釜は、鎌倉時代すでに記録に表われる村です。この村は大部分が金子姓であり、大屋は六左衛門です。先祖は嘉禄(一二二五)のころ能登からやってきたという伝承をもっています。
※『佐渡郷土文化』所収(数字は号)金田六左衛門 129 〈資料〉佐渡産業功労者 伝記 山本修之助
★金島甫西(かねしまほさい)
![かね金島圃西](http://blog-imgs-90.fc2.com/s/a/d/sado2298/20160401102208e87.jpg)
「波多-畑野町史総篇-」(昭和63年)より
画家の囲西は保明・保生・甫鳴とも言う。本名を忠治と言い明治三十四年四月二十五日、父仙吉、母トワの長男として生れた。幼い時から体が弱かった彼は、好きな絵ばかり描いていたが、やがて、二見の平岡玉匠に師事した。昭和五年には新潟毎日新聞社で個展を開催した。彼の代表作のひとつに加茂神社能舞台の鏡の松がある。昭和二年に中川湖舟(野高屋 新左衛門)・中村泣花(目黒町 平次郎)・本間秋月(何代)・島田芳翠の五人の同人で「朱鳥」といぅ謄写版刷りの雑誌を出版していて、金子不泣・本間五丈原・山本修之助らの寄稿があった。当時、金島家は文化人のたまり場であった。昭和二十一年六月十日、四十五才の若さで没した。
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